SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

京都編(1)

 ピピピッ、と目覚まし時計が鳴り始めた。いつも早めにアラームを設定してある。
 暖かいベッドの中から腕を伸ばして、とおるがそれを止めるのが、半分寝ぼけた視界に見えた。
 ううんと眠そうに甘くうめいて、俺に擦り寄ってきた亨の体は裸のままで、さっきまで眠っていたせいで、すごく温かかった。
「アキちゃん、もう行かなあかんの」
 ぼんやりとした、甘える猫みたいな声で訊ねてきて、亨は俺の体に腕を回してきた。こっちも裸のままだったから、抱きつかれると素肌が触れて、気持ちよかった。
 それに、ついうっとり目を閉じかけてから、俺は天井を見上げた。カーテンから漏れた薄い冬の朝日が、寝室の天井を細い線になって伸びている。六時だった。
「まだ早すぎやって。なんでいっつもこんな朝早うに目覚ましかけんの」
 遅刻しそうになって、ばたばた走って大学に行くのは、格好悪いから、俺は嫌なんや。早めに起きて、風呂にも入って、朝飯もちゃんと作って食って、普通に歩いて駅まで行きたいねん。
 お前が来る前は、七時に起きれば余裕で間に合っててん。学校が十時からやし、九時に部屋出たら余裕やった。駅前で買ったコーヒーを、ゆっくり飲んでから、課題の絵に取りかかるのが日課やってん。
 ぶつぶつと文句を言う口調で説明する俺に抱きついて、亨は頬にキスしながら、にやにや聞いていた。聞いてるのかどうか怪しかった。長い指をした亨の手が、ふたりぶんの体温のこもる布団の中で蠢いて、体を撫でてきた。
「まだ時間あるやん。もう一回抱いて」
 興奮してきてるのに触れて、亨は耳元で誘う、囁くような声になった。その声が耳に心地よくて、何となく頭がぼうっとする。
 俺は亨が誰なのか、実は良く知らない。
 こういうのを、いわゆる行きずりの相手って言うのだろうか。それを認めたくはないけど、とにかく亨が、どこの誰とも分からない、名前しか知らない相手で、いつの間にか俺の下宿に居着いてることは本当だ。
 クリスマス・イブの夜、俺は半年付き合ってた、美大で一年の時同じクラスだった女に振られた。可愛いだったのに、俺はまんまと騙されてた。ほのかな京都弁の彼女が、子供の頃から憧れだった東山の某ホテルでイブの夜を過ごしたいというので、そうなんやと思って、俺は一部屋予約した。そしてクリスマス・プレゼントにと思って、彼女のために描いた絵をあげたら、あのは怒った顔をして、これだけ、と訊いた。
 これだけ?
 他に何が要るんや、と。
 まあ、そんな訳で大喧嘩になり、結局は金目当てだったらしい悪い女への恋が、真冬の冷や水で一気に冷めて、彼女はぷんぷん怒って帰り、俺はホテルの眺めのいいバーでやけ酒を飲んだ。
 やる気満々だったのに、それがキャンセルになって、お預け食った気分だったのが、まずかったのか。
 亨はそこのバーテンだったのだ。にこにこ笑っている顔が愛想が良くて、聞き上手だった。酔っぱらって何を喋ったか、考えると怖い。
 店の閉まる時刻の、大きな窓から見える東山の空が、白々としてくる頃まで飲んで、俺は酔いつぶれていたらしい。らしい、というのは、その時点での記憶が、すでにもう無かったからだ。
 その朦朧と理性のない頭で、俺は亨に頼んだらしい。寂しいから、一人にしないでくれと。
 それを素直に聞き入れたとのことで、亨は店の支払いを立て替えて、バーテンの制服を脱ぎ、シーツに一本の皺もつけてないホテルの部屋のチェックアウトまでして、タクシーで俺を下宿まで連れて帰ってくれた。
 倒れはしないものの、泥酔したままだった俺は、部屋に着くなり亨を寝室に連れ込んだのだという。だけどその話は嘘ではないかと思う。
 だって、今だかつて女としか付き合ったことのない俺が、男相手に寝ようと誘うもんやろか。そんなん変やろ。
 たぶん亨は、酔っぱらっていた俺を寝かせようとして、ベッドに連れて行ったんやろう。それで何かなし崩しに、そういうことになったんや。
 亨は男の目から見ても、何だかぞくっと来るような、綺麗な顔をしていた。何がどうという説明はできないが、目の前でにこにこしてるだけで、そそるというか、なぜかエロくさい。ちょっと触りたいっていう気分になってくる。
 素面なら、それを我慢しただろうけど、なにしろベロンベロンに酔ってたんや。理性がおねんねしてて、アキちゃんの手は正直やった。やりたい言うから、やっただけやでと、亨は悪びれもせずに教えてくれた。
 それを翌朝、というか、翌日の昼下がりに、やっと惰眠から目覚めて聞いた俺の、頭の痛さといったら、今までの人生で一番酷い二日酔いのようだったが、それでいて体のほうは途方もなくすっきりしていた。
 たぶん。よっぽど、すっきりするような事を、眠りこける前にやったんだろう。
 亨はそれからずっと居着いている。体の相性がいいと言って。昼となく夜となく俺を誘って抱かせ、もちろん朝でも誘う。ちょうど今みたいに。
「アキちゃんの大学って、もう冬休みなんちゃうの。なんで毎日学校行くの。美大ってそういうところなん?」
 指先で誘う愛撫をしながら、亨はぼんやり不満そうに訊いてきた。そう訊ねる唇が、もう俺の唇に触れそうだった。
「学校行って、なにやってんの。遊びに行こうよ、俺と」
 絵を描いてるんやと、答えようとしたけど、亨がキスしてきたので、答えられなかった。柔らかい唇は甘く、今までしたことがある、誰相手のキスより気持ちがよかった。そんなことするのは変じゃないかという気はしたが、やめようという気がしない。少なくとも部屋に籠もって、誰も見てない限りは。
 そのうちこれが、人が見てても平気になったらどうしようかと、ちらりとそんなことが頭をかすめた。
 それに気づいたみたいなタイミングで、亨は唇を離した。そして何となく色の薄い明るい色の目で、じっと間近に俺を見た。気まずくなって、俺は言い訳みたいな口調で言った。
「絵を仕上げなあかんねん。課題やし。それに、出来上がったら引き取り手が決まってる」
「アキちゃんて絵描きさんなん? 学生なんちゃうの」
 足を絡めてきながら、亨は分からないというように、眉間に皺を寄せていた。正体が分からないことに関しては、お互い似たようなものだった。亨が知っているのは、俺が本間暁彦ほんまあきひこという名で、山ん中の美大に通う日本画専攻の画学生で、出町柳の親名義のマンションの、最上階の部屋に下宿してるという事だけだ。エントランスの自動ドアは顔認証。部屋の扉も、ポケットに鍵を入れてるだけで勝手に錠が開き、エアコンが入る。そういう部屋だ。
 俺の絵がお気に召さなかった、あの女を追い出してから、俺は部屋の鍵を変えた。何十万もかかった。あの女が鍵を返していかなかったからだし、返せと頼むくらいなら、金を払ったほうがましだった。エントランスの登録者リストからも、もちろん、あの可愛い顔を削除済みだ。
 その後に空いている居住者の登録枠は、まだまだ余裕があった。なんせ4LDKだ。普通は五、六人の家族で住むものだろう。その空いた枠に、亨の綺麗な顔を登録しといてやるのは簡単だった。電話一本かけて来いと言えば、業者はいつでも飛んでくる。俺がというより、俺の親が、それだけの力を持ってるからだ。
 新しい鍵は、五個も渡されていた。亨はそれを見ていたので知っているはずだが、鍵をくれとは言わなかった。部屋の鍵だけもらっても、いっぺん外に出たら戻れないシステムなことを、亨は理解しているからだろう。エントランスの扉が、登録されていない顔を拒むからだ。俺が部屋にいて、インターフォンから解錠すれば、大きな曇りガラスの自動ドアは客を迎え入れるだろうが、昼間ひとりで部屋にいる時に亨が外に出かければ、ひとりでは戻れない。
 こいつはいつまで、ここにいるつもりなんやろ。鍵くれって言えば、一個持たせてやったかもしれないのに。
「学生やけど、おかんに頼まれて、絵描いてやってんねん」
 気恥ずかしさを隠して、俺は白状した。
 マザコンだってバレる。うちは母ひとり子ひとりで、それでも苦労してるようには見えない母親に、俺は逆らえない。美大に入って、実家を出たふりはしてるけど、でもまだおかんの持ってる部屋に住んでる。週に一度は、用事がなくても電話してる。亨が来てからは、まだ一回もしてへんけど。
 だって、電話でおかんに、アキちゃん、なんも変わりはあらへんか、と、いつものように、はんなりと訊かれたら、なんて答えていいかわからへん。元気にしてるよ、名前しか知らん男を部屋に引っ張り込んだけど、綺麗な顔してて、行儀もええやつよ、だから心配いらへんよ、なんてさ。
 俺はもう死にたい。
「アキちゃんのお母さんて、なにしてはる人なん。ここの持ち主も、お母さんなんやろ。ものすごいお金持ちなんや」
 亨は悪気もないふうに訊いてきたけど、俺は答えたくなかった。なんでお前とベッドでいちゃつきながら母親の話をせなあかんねん。そこまで悪趣味ちゃうわと内心毒づいたけど、でも俺は単に、お前んちは金持ちやなという話をされるのが嫌なだけだった。
 亨もあの女みたいに、この部屋とか、俺の車が気に入っただけで、財布に入ってる万札の数で俺を選んだんかと思えて、気が滅入ってくる。
 しかしどうも、そうではない。例のクリスマスの昼過ぎに、二日酔いの頭でくらくらしながら、俺が事の次第を亨から聞き、まず最初に思ったことは、こいつに払ってもらった飲み代を返さなきゃということだった。どんだけ飲んだか憶えてないけど、自分が大酒飲みだってことは良く知ってたし、それに開けるボトルの値段なんか気にしないほうだった。にこにこと愛想のいいバーテン服の亨に、がんがん注がせて、がぶかぶ飲んでた。だから伝票にはいっぱい桁が並んでたはずなんや。
 幾らやったと訊くと、亨は忘れたと言った。忘れたというか、知らない。もともと見てないと。それでどうやって払ったんやと訊くと、自分の服を探して、ごそごそとポケットから無造作に、いかにも高級そうな黒革のカードケースを出してきて、そこからさらに、真っ黒いクレジットカードを出した。
 これで払ってん。なんでも買える魔法のカードやでと、亨は子供みたいに、にこにこして言った。カードには英字で、トオル・ミズチと刻印してあった。それが亨のフルネームだった。水地亨というらしい。
 亨は見た目、俺とほとんど同い年くらいに見えた。ちょっと年下かもしれないけど、時には年上のような気がするときもあった。だけどとにかく一、二歳の差しかないように思え、それがホテルのバーテンで、なんで限度額のない黒いカードを持てるのか。
 想像するのは嫌だった。それはどうでもいい事と思いたい。分かると何か、嫌な目にあいそうな気がした。これは長年の勘だ。度を超えて金をたくさん持ってるやつには、二種類しかいない。善人のような顔をした悪党か、悪党らしい顔をした悪党かだ。
 それで俺は亨に素性を尋ねず、立て替えてもらった飲み代も、まだ返していない。それを取り立てるつもりではないだろうけど、亨は去る気配もなかった。ただ一日家にいて、退屈やねんと文句を言うだけだった。俺の素性を知りたいらしかったが、うるさく訊ねてはこない。とにかく俺が、抱いてやってる限りは。
「ほんまにあんまり時間ないねん、亨。叡電は電車の本数ないんやから。やるなら、早くやろ」
「車で行けばええやん、ついでに連れてってくれたら」
 渋々のような口調でいながら、亨は嬉しそうに跨ってきた。まるで自分が突っ込まれるような気がして、俺は複雑な気分だった。だけど亨はそういうことはしない。入れられるほうが気持ちいいらしい。女みたいなやつ。いっそ本当に女だったら、なにも悩まずに済んだのに。
 俺が毎度悩んで気が萎えるので、亨はそれをやるのに必要な支度は全部自分でやった。まるでそういう商売のやつみたいだと毎度思うけど、案外ほんまにそうかもしれんという気がして、怖くて訊いてみたことはない。
 なんか付けないと痛いからと言って、亨はよりによって、ベッド脇のサイドテーブルに前の女が残していった、マンゴーの匂いのするボディクリームを使った。匂いが気に入ったらしい。
 彼女が半年かけて使っても、ちょっとしか減ってなかったその淡いオレンジ色のやつは、亨がきてからたった一週間でほとんど空になっていた。新しいのを買いにいかなあかんと言う亨の話を聞いて、やりすぎではないかと俺は反省した。
 女とだって、そこまでやらなかった。たぶん、そこまで気持ちよくなかったからだ。亨と抱き合う時ほどには。
 震いつくような息をついて、亨がいかにも気持ちよさそうに、ゆっくりと俺を呑んだ。それは確かに、やばいような気持ちよさだった。呑まれながら、学校行かなあかんと、俺は自分に言い聞かせていた。
 学校行って留守にしないと、こいつと一日中、部屋でやりまくってる。そうに決まってる。
 それはやばい。絵も仕上がらないし、何もかも滅茶苦茶になる。おかんにも言い訳できないし、俺が振られたショックで大学に顔出さへんようになったって言われたら、腹が立つ。
「アキちゃん、めちゃめちゃ気持ちいい」
 泣きそうな声で亨が教えてきた。それに俺は頷いて、自分の上で身悶えて励む亨の顔を見た。
 なんて綺麗な顔だと、何度目かで思った。こうして喘いでる時が、いちばん綺麗や。いつもの微笑んでる顔もいいけど。今のこの顔が、いちばん、すごくいい。
 それに触れたい気がして、片手を伸ばして頬に触れると、亨は切なそうな顔のまま、頬を擦り寄せてきた。
「アキちゃん、俺、もう、イキそう。朝やからかな。めっちゃ弱い、みたい……」
 亨のよがり方は身も蓋もなかった。見てると何の慎みもなく悦び喘ぐようで、こっちが恥ずかしい。その恥ずかしいのが、またええんやと亨は言うのだが、その通りかもしれない。そんなに気持ちええのかと思えてきて、なにか胸に来るものがある。
 それをどう言ったらいいのか、俺にはいつも分からへん。
 自分が何を感じてるのか、自分でもよう分からへん。ただもう胸がざわつく。これ以上なく近くにいるのに、まだ遠いような気がして。
「亨、場所変わってくれ」
 一瞬、戸惑ったような顔をした亨を布団の上に押し倒して、繋がったまま体位を変えた。亨は薄茶色の目で俺を見上げて、ちらちらと不安げな視線をした。
「どしたん、アキちゃん。気持ちよくなかったん?」
「そうやない。ただ、お前を突きたくなっただけ」
 俺がそう言うと、亨はちょっと、恥ずかしそうな笑い方をした。
「そうかあ。ほな頑張って」
 照れ隠しみたいに、そう答え、亨はぎゅっと俺の手を握ってきた。変な癖だと思うけど、亨は時々手を繋ぎたがった。別にこうして体が繋がってない時でも、亨は時々思い出したみたいに、手を握ってきた。それには何故か、心を満たされる。酔いつぶれて寂しいと言った俺を、亨は哀れんでいるのかもしれなかった。
「ごめんな、アキちゃん。俺、女の子やったらよかったのになあ。そのほうがええんやろ、アキちゃんは」
 なんでそんなこと急に言うんやろ、亨は。おかしな事言うなあと思えたけど、済まなそうに言われ、また胸につまされた。
「そんなん、今さらどうでもええねん。黙っといてくれ」
 じゃあ、キスしてと、亨は言わなかったが、淡く喘ぐように開かれた薄赤い唇が、そう言っているような気がした。その唇を貪りたくなって、俺は誘われるまま亨にキスをした。
 たぶん、自分からしたのは初めてだった。憶えている限りはそうだと思う。
 亨はキスしただけで、もうイキそうみたいに、熱く呻いた。俺の肩を掴んできた指が、かすかに震えていた。
「アキちゃん、突いて……」
 蚊の鳴くような声で、亨が頼んできた。俺は言われた通りにした。
 それはやっぱり、ヤバいような気持ちよさだった。亨の中で溺れているのが。突くと亨が喘ぐのが。
 こういうのにも、勘どころがあるらしい。ここがツボっていうのが。ただ突っ込んで突けば気持ちいいってもんやないと亨は言ってた。相性みたいなもんがある。アキちゃんのは、ただ入れて普通にやるだけで、ものすごくいいと、亨は前に、それが終わった後で、ぼけっとしてそんな事を話した。
 それ、ほめてんのか。それとも下手だけど相性でカバーされてるって言ってんのか。後のほうだと許せないけど、とにかく相性がいいらしいというのは、認める。他に男とやったことないけど、これより良かったら気が狂う。後戻りできない。
 今でももう、後戻りができない。亨がいなくなったらと思うと、焼かれるような焦燥がして、気が狂いそうだった。
「亨、俺、もうイキそう……」
 我慢してるのが辛くなってきて、俺は亨に泣きついた。一気に放ちたい欲が、渦巻いてる。
「かまへん、アキちゃん、俺ももうイキそう。激しくやって……もっと、いっぱいやって」
 喘ぐような睦言で、亨が誘ってきた。それに逆らうような気力は、もう、なかった。
 言われるまま、俺は激しくやった。そしてどんどん上り詰めた。だんだん極まってくる亨の声が、耳から入って脳をとろかすような甘い音だった。
 堪えきれず、もうあかんと教えると、それを聞いた亨が、感極まった最後の声を上げた。それは俺には嬉しかった。また亨を気持ちよくしてやれた。身を強ばらせて快楽に溺れてる亨を抱いて、俺もその中で極まって果てた。
 一緒にいくと、本当にひとつになれたみたいな気がする。それは俺の一方的な思いこみかもしれないけど、そういう気がして、幸せな気持ちになる。
 こんな気分になったのは、もしかすると亨が初めてかもしれなかった。この子は俺のこと好きなんやろかと、なんで好きなんやろかと考えなくていい。なんだか夢中で、お前が欲しいと思ってる、その自分の気持ちで、頭がいっぱいになってる。それはものすごく苦しくて、そして心地よかった。
 俺は多分、亨に恋をしてる。それを認めるのが、恥ずかしいだけで。
 今も恥ずかしかった。渋々抱いたみたいなのに、結局ものすごく興奮してた。終わった後の嵐のような息を、なんとか鎮めようと、俺はそれに必死でいた。
「アキちゃん……」
 波が去ったらしい、ぼけっとした声で、覆い被さっている俺の汗ばんだ背を撫で、亨が呼びかけてきた。まだ息が乱れていたので、俺は答えなかった。
「あのな、俺、アキちゃんのことが、めちゃめちゃ好きみたい。もうしばらく、ここに居てもええやろか」
 迷惑やったら、今日にでも、出てくけど。
 なんだか試すような声で、亨がひっそり訊ねてきた。なんで今、それを訊くねん。わざとかと、恨めしくなって、俺は亨から身を引き剥がし、まだ上気している綺麗な顔を睨んだ。
「別にええよ。居たければ居ろ」
「ほんま。良かった。出ていけ言われたら、俺、泣きそうやったわ」
 にこにこ笑って、亨は意地悪く言った。
 こいつは俺が、自分に惚れてることを、本当はよく知ってるんじゃないかと思えた。出ていったら泣きそうなのは、お前じゃなくて、俺のほうなんやろ。それを言いたいんやろ。ほんまにむかつく。
「なあ。支度せんでええの。もう七時半やで」
 ぎょっとして、俺は時計を振り返った。確かにそのデジタル表示は、七時三十六分になっていた。慌てて抜こうとする俺を、亨は抱きついて締め上げてきた。辛くて思わず呻きが漏れた。
「一時間半もやってたんやなあ。アキちゃんもこの一週間で、かなり強者になったわ。最初んときは、ものすごいあっと言う間やったで」
「もう行かなあかん、亨」
 粘っこいキスを耳にされながら、俺は泣き言を言った。風呂入って飯作って、それを食ってから、いかにも冷静ですみたいな顔作って学校行かへんと。恥ずかしいやん。恥ずかしすぎる。
「そんなん言わんと、風呂でもう一回しよ。アキちゃんがまた頑張れるように、俺がいろいろやってみたるから」
「俺は絵を描かなあかんねん、亨。頼むから風呂はひとりで入らせてくれ」
 俺は本気で頼んでた。一緒に入ると、またたっぷり絞られる。正直疲れる。こいつに殺されるんじゃないかと、時々ちらっと思う。精気をどんどん吸われてるみたいな、そんな気がする。実際吸われてるのは別のもんだが。
 亨は結局、風呂についてきた。それでやたらと時間がかかり、朝飯はまともに食えなかった。
 ろくに乾いてもいないような髪で、十二月の京都の寒風の中に飛び出し、山ん中に向かうローカル線の駅に行くときには、もう走らないといけなかった。
 なんで車でいかへんのと、亨が不思議そうに聞きながら、後を走ってついてきた。なんでついてくるねんと俺は内心泣きそうだったが、退屈だし大学を見たいという亨に俺は逆らえなかった。アキちゃんと離れてるとつらいねん、ちょっとでも近くにいたいねんと口説く亨に。
 それが本当か嘘か、俺はまだ悩んでいた。心のどこかで。亨がいつか居なくなる時のために、用心して、心に鍵をかけていた。


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