SantoStory 三都幻妖夜話
女性向。同性愛、性描写、残酷描写など、18歳以下の方の閲覧に不適切な内容を含みます。
この物語はフィクションです。実在の人物・団体、企業などと一切関係ありません。
この番外編は不破鸞都さん作「ラ・ソナドラ」「宵闇奇譚」とのコラボ小説です。京都編と大阪編の合間にお読みください。(読まなくても本編のストーリーは繋がっています。)鸞都さん作品を未読の方には意味の分からない描写が一部ありますが、それでも一応なんとなく読めるはず……と思います。

祇園編

「ニセ舞妓ですわ」
 眼鏡をふきふき、嘆かわしそうに、秋尾さんは言った。座敷の差し向かいの席の座布団に、くつろいだ胡座あぐらで座るスーツ姿の秋尾さんは、ほんのり桜色のシャツと茶のネクタイだけになり、上着は脱いで、店の者に預けてた。
 俺だけ和装やった。何着ていけばええんですかって訊いたら、悩むんやったら着物着てきはったら、って秋尾さんが言うんで、それを真に受けたのに。あんたは普段着やんか。まあええか。
 なんや変な感じ。俺だけ時代がかった若旦那みたいな感じ。そう思って落ち着かず、俺はどことなく緊張して座ってた。気合い入りすぎやないか、俺。かっこわる。
 それでも、春めいて、ぼんやり暖かいような宵の口やった。
 のんびり酒舐めてると、不思議と段々くつろいでくる。秋尾さんの、こっちまで肩の力が抜けるような、脱力した雰囲気のせいもあるかもしれへん。
 座敷の明かり障子は開け放たれ、赤い欄干のある濡れ縁越しに、中庭に植えられた見事な枝垂れ桜の満開の花が見えていた。それがぼんやり光るようで、不思議なうす紅色の明るさなんや。
 祇園の一角にある、老舗やという、この茶屋に呼ばれ、俺はやって来た。
 本間暁彦、二十一歳。いくら旧家のボンボンや言うても、俺は母ひとり子ひとりで育った現代っ子や。お座敷遊びなんかやったことない。お酒を飲んでいいですよって、世間の人に許されたのかて、ほんの一年二年前なんやからな。
 それがなんで今夜に限って、ひろびろとした座敷で秋尾さんとふたり、差し向かいで舞妓だ芸子だを待ってるんか言うたらな、絵を描く仕事があるからやねん。
 秋尾さんが秘書として仕えてる、大崎先生とかいう、うちのおかんが懇意の金持ち爺さんが、俺が絵を描く息子やと聞いて、それなら一枚描いて寄越せと依頼してきた。その一枚目を描いたものの、諸般の事情により、それは大崎先生の手には渡らず、他のところへ行ってしもたんや。
 それで仕切り直せということで、二枚目の発注が来た。それが舞妓の絵やねん。
 普段、人の絵は描かへん言うてる俺に、正面切っての人物画のご依頼や。これは俺への挑戦としか受け取りようがない。
 お前、人の絵は描かへん言うてたやないか。それを何やねん、あの一枚目。もろに人物画やったやないか。それも、わざわざ気遣うてやって、風景画を依頼してやったのに、それに上書きするみたいにして、後から人物描き足した。しかも自分が惚れてめろめろの、恋人の絵なんか描きおってからに。
 さらにどの口で、その絵をわしには売れんというんや。くそ生意気な坊主が、昨日今日毛生えたような餓鬼のくせして、わしを誰やと思うてるんや。
 舞妓の絵描いてこい。ぞくっと来るよな色気のあるやつ。上手に描けてたら、うちの会社のエントランスに飾ってやってもええ。下手やったらびた一文払うてやらんからな。わかったな。あんまり待ってはやらへんでって、大崎先生言うてはりましたわあ、って、秋尾さんが俺に伝言してきた。それが依頼状代わりやった。
 あんた留守番電話か。言われたこと、そのまんま言うてるやろ。
 俺はその依頼にぐったり萎えた。
 舞妓さんなんかな、見たこと無いねん。街で通りすがりに出会って、綺麗やなあってぼけっと見たり、テレビや映画で見たことはあるで。けど、それだけ。まじまじ絵に描けるほど見たことない。
 それに、その絵の依頼は断れへん。大崎先生には、うちは世話になってるらしい。
 おかんが世話してやってんのか、世話されてんのか謎やねんけど、おかんは大崎先生の会社のために、ときどき依頼されて、縁起のいい舞いをひとさし舞ってやり、それで商売繁盛。
 新製品の色は何色がええやろかって、おかんに聞きに来て、うちは赤紫が好きどすけどなあて、おかんが答え、それにしよかてあっさり決まり、そんな色した新製品がよその国の工場で大量に作られはじめる。そしてそれが日本や世界各地で馬鹿売れする。
 ご祝儀や言うて、大崎先生はおかんに謝礼をはずむ。着物も貢ぐ。帯留めも買うてやる。そんな関係らしい。
 それって……どういう関係やねん。
「安っぽい着物着て、えらいがさつな舞妓はんおるわて思ったら、それがニセ舞妓なんですわ、暁彦君。もう、大崎先生が嘆いて嘆いて。祇園の風情もなんもあったもんやないわってね、そりゃあもう、えらいご立腹なんですわ。嵐山辺りにも見かけますやろ、そういうの」
 くよくよ言いながら、秋尾さんはぐいぐい手酌で酒を飲んでいた。伏見から入るという地元の酒で、甘い割にすっきりした味がする。飲み口がいいからガンガン飲めるが、清酒なんやで、秋尾さん。この人、酒には強いんか。狐は酒に強いのか。俺はそれがちょっと気になって、秋尾さんの、まだ普段と変わらない顔色を見てた。
 亨はこの人が狐の化身やと言うけど、俺もそんなような気がする。どれくらい酔うたら、尻尾生えてくるんやろ。そんなことが、どうも気になる。
 はっと気がついたら、差し向かいに、酔っぱらった狐が飲んでたりして。そんなことになったら、俺はどうすりゃええんやろ。気づかんふりするのが礼儀なんやろか。それとも、かまへんのやろか、そういうの見てもうても。
 わからへん。そのへんの流儀が。
 亨は、お前の正体はなんやって訊いたら、いつも泣きそうな顔をする。だから訊いたらあかんのやないかという気がするんやけど、そのくせ自分は、あいつは狐やとか、舞ちゃんは寒椿やとか、ずばずば指摘しまくりなんやで。あいつちょっと、デリカシー無いんとちゃうか。
 まあ、ええけど、別に。成り行きで。秋尾さんがドロンと狐に化けても、俺はもう驚かへん。驚いたらあかん、それも修行やって、思いはするんやけど。できれば人間のままでいてほしい。
 やっぱりどうも、慣れへんねん。人ならぬ方々の世界というのに。普通でまともの人間界に、俺もまだまだ未練があるんやな。
「それでぼんには、舞妓の絵描けってご依頼やねん。祇園の花の風情をね、描き留めてもらいたいとのことなんですよ。絵から抜け出してきそうな舞妓はんをね、描いてもらいたいと」
 そこまで熱弁して、秋尾さんは、ヒックとしゃっくりをした。
「酔ってないですよね、秋尾さん」
「酔ってないです」
 だってまだ銚子一本きりなんやで。俺は困って確かめたが、秋尾さんは若干赤い顔やった。酔ってるんやないのか。俺なんかまだ素面そのものやで。酒には強いほうやねん。俺ひとり、素面のままで置き去りにして、自分だけさっさと酔いつぶれんといてくれよ。まだ何も始まってないんやから。ひとりにせんといてくれ、秋尾さん。
ぼんは、あれやね。不実やね。亨君は置いてきたんですか」
 手酌で懲りずに盃を満たしながら、秋尾さんは上機嫌に訊ねてきた。俺はそれに、思わず顔をしかめた。
 置いてきたっていうかな。おらんようになったんや。亨が。
 俺は今夜、前から言うてたようにやな、おかんと懇意の大崎先生のご依頼で、舞妓さんの絵描くために、現物眺めに祇園に行ってくるけど、お前はどうする。予定どおり秋尾さんも一緒なんやけどなって、俺は無実やというのが激しく匂う言い方で、亨を誘った。お前も来るかっていう意味で。
 そしたら亨は意味ありげににやにやして、俺も今夜は忙しいねん。用事があるんや。昼から出かけてるしな。電話も繋がらんかもしれへんわ。でも変な詮索せんといて。嵐山のおかんのとこ行くんやからなって、偉そうに言うてた。
 あいつは、時々、俺のおかんと連《つる》んでる。気色悪い。いったい何をやってるのか。
「亨は用事があって来られんらしいです」
「ははあん。怪しいな」
 むすっと答えた俺に、どう見ても酔っぱらってるやろみたいな口調で、秋尾さんは独り言みたいにコメントしてた。
「あんまり、ええことやないですよ。しきがどこ行ったかわからんて言うのんは。もっと締めてかからなあかんですよ。僕なんてね、ほんまにもう、どんだけ拘束されてるか。ちょっと暇できて油売ってようもんならね、携帯じゃんじゃん鳴りましてね、どこ行った秋尾、どこやどこや、はよ戻ってこんかって、めちゃめちゃ叱られるんですから」
 愚痴大会か、秋尾さん。
 俺は若干トホホ顔で秋尾さんの話を聞いていた。
 肝心の舞妓さんは、いつ来るんやろ。さっさと済ませて帰りたいわ。お座敷遊びなんて、何するんか知らんけど、どうせ性に合わへん。なんか嫌いやねん。酒飲んで騒ぐというのが。酒は好きやけど、俺は大人しく飲みたいほうやねん。
「そんな話どうでもええんですよ、秋尾さん。仕事したいんですけど」
 俺は苛々して頼んだ。それに秋尾さんは、うっふっふと面白そうに笑った。
「つれないなあ、ぼんは。さすがは登与姫とよひめさまの子やわ」
 にっこりしている秋尾さんの口調は意味深で、俺はさらにむっとした。
 秋尾さんは、おかんのことを、登与姫とよひめといつも呼ぶ。それはどうも、秋尾さんが仕えている大崎先生なる人物が、おかんのことをそう呼んでいるかららしい。俺の知ってる限り、おかんのことをそう呼ぶのは、秋尾さんだけで、つまりは大崎先生なるその爺さんだけということや。
「大崎先生は、登与姫さまに惚れてはるんです。子供のころから。せやけど、めあわせるには力が足らんて秋津に蹴られはって、恨んでるんです。先生なあ、商才はあるんやけど、あっちのほうの力はなあ、まあ、そこそこなんです。ぼんや、ぼんの父上に比べると、まあ、可愛いもんやねん」
 そんなこと言うてええんかっていう話を、秋尾さんはしてた。酔っぱらってんのかな。
「まあでも、そこがええねん、大崎先生は。秋津のぼんに負けた言うて、わんわん泣いてな、なんとかせえ秋尾って癇癪起こすんやけど、僕も困るんです。秋津のしきはえげつない。気が強いしな、亨君かてそうでしょ。何するか分かりませんよ、本気で喧嘩する羽目になったら」
「秋尾さんて、いつから大崎先生に仕えてるんですか」
 聞いた話が、どうも普通人の時間感覚とずれてるような気がして、俺は思わず訊ねてた。
 秋津のぼんて、俺のことやないやろ。俺のおとんなんとちゃうか。まさかいい年した爺さんが、俺に負けた言うて、号泣すると思われへんし、秋尾さんの話しぶりは、なんや小さい子の話をしてるみたいやった。
「僕は子守りですやん。子守りの狐ですわ。ぼんとも子供のころには遊んだけどな。忘れましたか」
 もともと笑って細めたような目で笑い、秋尾さんは言った。懐かしそうな目やった。
 俺はそれで、内心慌てて記憶を探った。狐、狐と。せやけど思い当たる記憶は無かった。
 俺は子供のころに舞ちゃんとも遊んでたらしいけど、実は全然思い出せない。忘れてもうたらしいわ。
 俺は不実な薄情男で、自分に都合の悪いもんは忘れるし、見たないもんは見えんようにできてるらしい。そういう自覚はないんやけど、一種の自己暗示なんやって。おかんはそう言うてた。自分の力が強すぎて、自分にかけた使役が解けない。本来、捕らえたしきを縛る力で、自分のことも縛ってるらしい。
 どうせ縛るなら、亨を縛れって俺は思った。だってあいつ、俺に隠れて、こそこそ何かやってるんやで、今夜。おかんのとこに行くなんて、ほんまかどうか分からへん。問いつめるのも格好悪いと思って、何も追求せえへんかったけど、怪しい。怪しいと思ってる、本音では。俺はあいつを、信用してないねん。
 だって、どうやって信用すんの。好み系のイケてるオヤジを見つけると、目がキラキラしてまうような奴やのに。
 まあ、それについては、どっちもどっちや。俺も面食い男で、ちょっと顔の綺麗な奴を見たら、すぐクラッときてるって、亨はいつも怒ってる。そういう自覚もないんやけどなあ。
「まあええわ。先生に言わせれば、秋津の登与姫さまは、つれないところがええらしいですわ。まあ、巫覡ふげきなんざ、そんなもんですわ。つれないねん。すぐ目移りするし、すぐに死んでまうしなあ。使うだけ使うて、それではサヨウナラって、薄情極まりないですわ」
 にこにこそう愚痴って、秋尾さんは、よっこらしょと大儀そうに立ち上がった。酔ってるような息やった。なんかこう、ふはあと薄赤いのが目に見えるような。
 どこ行くんやろって、俺は不思議にそれを眺めてた。
「そろそろ化けようかな、ぼん。ほどほど酔うてきたし」
 にこにこして、秋尾さんは俺の意向を訊いてきた。そして、それをぽかんと見上げている俺を、面白そうに眺めた。
「大崎先生がなあ、どのでいきましょかって訊ねたら、お前やれって言わはるんや。それもどうなんやろ。僕は正直、嫌なんやけどな。しかし、あるじのご命令とあらば……」
 どことも知れん遠くを見つめて、秋尾さんは笑っていた。
 そして俺の答えなんか、ちっとも待ちはせずに、ドロンと化けた。
 まさに、ドロンとやで。甘く焼けたような白い薄煙が立ち、くるりと裏表が引っ繰り返ったような早業やった。昔、どっかで見たことある、歌舞伎の引き抜きみたいに、さっと糸を引かれて衣装が脱げると、別の格好になってるみたいに、秋尾さんは化けの皮を脱いだ。
 どっちが化けの皮なんやろ。どっちも本当の姿なんか。
 ドロンが終わった秋尾さんは、真っ黒い絹に桜の刺繍の散った振り袖の、朱のだらり帯を締めた舞妓の姿になっていた。白塗りに、目尻に紅さした化粧の顔が、ちらりと流し目にこっちを見るのが、めちゃめちゃ色っぽい。そして、その顔は、どことなく、うちのおかんに似てた。
「しもた。尻尾出てるわ」
 ぺろりと小さく舌出して、秋尾さんは参ったというように笑い、確かに出てた尻尾を、すうっと消した。
 狐や、ほんまに狐。
 俺は内心激しく動揺しながら、あんぐりとして、秋尾さんの艶姿を見てた。
「どうやろ、暁彦君。こんなもんで、絵になるやろか」
 な……なるやろ。目が釘付けやから。
 秋尾さんはそんな俺を見て、おかんに似た顔で、ちょっと皮肉に笑った。
「似てるやろ、登与姫さまに。この格好はな、うちの先生が作らはったんやで。悪趣味やと思わへんか。金に飽かせてお茶屋遊びはええねんけど、秋尾、お前も舞妓やれって、そんなん言われても僕も困るんや」
 ほんまに困るという、いつもの秋尾さんの愚痴っぽい口調が、今は一層あだっぽく聞こえて、中身はおんなじやのに、見かけに惑わされまくりの自分に、俺はちょっと情けなくなってきてた。
 衣擦れの音を立てて、秋尾さんは臆面もなく俺の脇までやってきて、すとんと畳に座った。
「先生、おひとつどうぞ」
 にっこりと、可愛いようなシナを作って、秋尾さんは俺の膳から銚子をとった。それで何か、飲まなあかんような気がして、俺は持ったままやった盃から慌てて飲み干し、空になったのを、白い指が持っている銚子の先に差し出した。
 ほどほどに注がれた伏見の酒を、さあ飲めという目で見られ、俺は仕方なく飲んだ。でも何か、じっと見られてる笑ったような目から、目を逸らされへん。
 秋尾さんて、こんなんやったっけ。わからへんやんか、こんなに見た目が変わるんやったら。子供のころに遊んでやったでって言われても、どれのことかわからへん。
「ええ飲みっぷりやなあ。お口に合いますやろ、伏見の酒は。伏見には、ええ水が湧きますからなあ、こんこんと。美味い酒ができるんや」
 もう一杯飲めと銚子を差し上げる仕草をする秋尾さんの顔が、なんか近いような気がして、俺は仰け反ってた。
「酔ってもうたら絵なんか描けないですよ」
「そうやろか。そんなら、もっと飲んでもらわな」
 にっこり目を細めて、秋尾さんはまた酒杯を満たした。白粉おしろいと、帯に挿した香箱こうばこからの、粉っぽいような独特の匂いがした。桜の匂いか。甘いような、冷たいような。
「あのなあ、暁彦君。僕はほんまのこと言うたら、絵に描かれるのは嫌なんや。この格好でやろ。先生が欲しいのは、舞妓はんの絵やないんとちがうかなあ」
 小さく紅を引いた薄い唇の奥に、秋尾さんは小さな牙を持っていた。うっとりとあだっぽくどこかを流し見るような、鋭い伏し目がちな目は、鳶色とびいろをした獣の目やった。こんな間近で、この人の顔を見たのは初めてや。
「僕は狐やし、なんにでも化けるけどやな、これはどうやろ。あんまりやないか。げきなるもんが、どんだけ偉いか存じませんけど、赤ん坊のころから守り仕えてきたモンにやで、これは殺生やないやろか。僕は先生の式やけど、玩具とちがう。ちゃんと心もあるんやで」
 あからさまには、秋尾さんは言わへんかったけど、言外にあるものに、ごくりと喉が鳴っていた。
 舞ちゃんは、俺のことが好きらしい。子供のころに遊んでやったこともある、そんな相手やのに、会うと、とろんとした目で、切なそうに俺を見る。
 それは、どんな感覚なんやろ。人にはないものや。
 場合によっては、いつまでも変わらず生きてる、この人たちにとって、巫覡ふげきとは言え、ただの人間なんてもんは、咲いては散り、咲いては散りする桜みたいなもんなんやないか。我が世の春と咲き急ぎ、やがて散るようなもんや。
 秋尾さんにとって、その大崎先生という爺さんは、どういう相手なんやろって、突然それが気になった。子守りの狐やって、さっきは言うてたけど。それに満足してるかどうかは、何も言うてなかった。
「妬けるねん。描かんといてくれへんか。酔いつぶれたことにして」
 にこにこ顔で、ずいと俺に迫って、秋尾さんはそう頼んできた。
 そうやって、とろとろ杯を満たす手つきが、なんかもう手慣れたもんで、いつも酌とってるような感じやった。
 俺は内心わなわなして想像してた。秋尾さんがこの格好で、どんな顔か見たこともない爺さんに酌してやってる。酔っぱらって、その後どうなるんやろ。この人、脱いだら中も白塗りなんやろか。それに、女の体なんかな。それも、うちのおかんの登与姫さまに、どことなく似たような、愛想のいいにこにこ顔して。ほんまは嫌やて言いつつ、捕らわれた狐の弱みで、大崎先生の相手してんのか。
 それは相当やばい、際どいような話、というか、際どい想像やった。
 あかん、考えたらあかんわ、って、俺は秋尾さんの目から視線をそらせた。そしたら白粉の襟足に、そこだけ塗り残す様式の、軽く酔ったような素肌の色が目に入って、やばさ倍増。
 恐ろしい世界やで、祇園の赤塀の中は。大人のパラダイス。
「どしたんや、ぼん。気が遠いみたいな目ぇして」
「いや、あのな、秋尾さん。描かんといてくれは、分かりましたけど、そんなら俺は今夜、なにを描いて帰ればええんや。絵は描かなあかんのでしょう。そういう依頼なんやから」
 俺が目を逸らしつつ事務話題に逃げを打つと、秋尾さんは目を瞬いてるようやった。座って考えてる、そんな気配がしてた。
「そうやなあ、確かにそうやわ。ぼんに我が儘言うてしもた。描いて帰らへんかったら、また大崎先生おかんむりやわ。僕かて、またどんだけ叱られるやろ。それは困るし、やっぱり描いてもらわなあかんのやなあ」
 嫌そうに言って、秋尾さんは俺が持ってきてた素描をやるためのクロッキー帳が畳に置かれているのを、ちらりと恨めしそうに見た。
「ほんなら、好きに描いてくれてええよ」
 ため息ついて、秋尾さんは、飲まな、やってられませんという顔をした。そして、俺が持ったままやった浅い小さな酒杯に口をつけて、ちゅる、と吸うように酒を啜った。どうも、けだもの臭い仕草やった。
 この人、酒好きなんやと、その時には思ったけど、他のことで俺の頭はいっぱいになってた。今、酒飲むときに、盃持ってた俺の指に、秋尾さんの唇が触れた。酔って、熱いような。
「せやけどなあ、暁彦君。ぞくっと来るような色気って、なに?」
 本気でボケてんのかみたいな事を、秋尾さんは、ちょっとしかめた真顔で訊いてた。酒杯に屈んだまま、ちょっと見上げる目つきで。
「そんなん、僕にやれんのかな」
 やれるやろ。というか、あんた今めちゃめちゃ色っぽいです。
 とにかくもう、正視できるレベルを越えかけてるような予感がした。けど仕事やしな。依頼されたんやし、この人の絵描けって。お仕事ですから。描かなあかん。
 俺は飲み干された盃を膳に放り出して、くよくよ目を閉じたまま、床に置いてた絵の道具を取った。
「とにかく……描くだけ描きますから」
 新品を持ってきた一枚目の薄紙をめくり、うっすら透ける薄さの素描用の紙に、俺は鉛筆を置いた。ちょっと濃いめの、柔らかい芯のやつを、鋭く尖らせて描くのが好きで、すぐに先が鈍るから、削った奴を何本も持ってきてる。それをポイポイ取り替えながら描いてるのを見て、うちの教授が、本間君が描いてんの見てると、鉛筆が可哀想になってくるて言うてたわ。なんにでも感情移入するセンチメンタルなおっさんやねん。
 画材にいちいち感情移入してたら、絵描かれへんやんか。絵に集中せなあかん。鉛筆なんか、いくらでもあるんやからって、ぼんやり思って、描こうとした相手を見て、何かちょっと後ろめたくなった。
 あかんな。俺もちょっと、感情移入してる。鉛筆にやのうて、狐のほうに。
「どんな格好したらええんやろ」
 銚子を持ったまま、秋尾さんは首をかしげてた。
「その格好でええんやないですか」
「その格好って?」
「今のその格好。酌してる」
 俺が描き始めながら言うと、秋尾さんは気が抜けたみたいに、はあ、と相づちを打った。
「これのどこが色っぽい舞妓なんや」
「詳しく解説させんといてください。それより、ぼけっとせんといてください。せめて笑うとか」
 俺が頼むと、秋尾さんはにっこりと満面の笑みやった。それがちょっと陽気すぎて、ちょっと違う。さっきまでのあんたの色気はどこへ消えたんやって感じ。
「なんかなあ……なんか違いませんか。さっきのほうが良かった」
「難しいなあ、絵のモデルやなんて。苦手ですねん、こういうのんは。僕は事務方で雑用専門なんやから、こんなん無理なんやて」
 ぼやいて秋尾さんは苦笑した。その苦みのある顔が、実はちょっと良かった。
 たぶんちょっと、うちのおかんに似た表情で。
 すんません、そんなマザコン男で。秋尾さん、聞いたら怒るんやないやろかと思って、俺は恥じ入り、黙って描いた。
 舞妓さんの着物着て、きちんと座ってる姿には、品があった。よう化けてるわって、そう褒めるところなんかもしれへんのやけど、もしかして普段の丸眼鏡に地味なスーツ着た、ぱっとせんような中年男の格好のほうが、この人の仮の姿で、化けの皮のほうなんやないかって、そんな気がした。
 かといって、舞妓のほうが本体というわけでもない。これは爺さんが作った見た目やって、さっき本人が言うてたやんか。
 それなら、どんなのがこの人の正体なんやろって、俺はもやもや詮索してた。狐や。狐。狐の正体。
 そう考えて描きながら、俺はふと思い出した。子供の頃に見た、嵐山の桜並木を。家に来客があり、それが大崎先生なる人物やったんやないか。何でか言うたら、俺はその時、桜並木のところで、ぴょんぴょん跳ねてる狐を見たからなんや。
 狐はどうも、酔うてるみたいやった。花見酒にでも酔うたんか。大人達は、うちの庭にある古い枝垂れ桜で花見をしてたんやから。それとも、桜の匂いに酔うてんのかな。春の匂いに。
 退屈やし、ちょっと遊んでくれって、狐に頼むと、俺と遊んでくれた。
 もしかしてそれが、秋尾さんやったんやないか。
 淡い茶色の毛並みの狐を、綺麗やなあって川原で抱くと、狐の目は鋭い野性味があって、その鼓動は早かった。
 狐飼うてほしいて、おかんに頼んだら、あかんて言うてたわ。あれはしげるちゃんの狐やさかい、人様のもんに手出したらあかんえって、おかんは、めっと俺をとがめた。
 なんや、野生の狐やなかったんやって、俺はがっかり諦めたけど、考えてみれば嵐山は人里で、そこまでふらふら狐が現れるなんてことは、そう滅多にあるもんやない。
 野生どころか、どっぷり飼い慣らされた狐やったんやで。
「秋尾さん。大崎先生って、フルネームは大崎茂さんですか」
「そうですよ。知らんかったんか、ぼんは」
「知りませんでした。興味なかったんや、おかんの客なんて」
 俺が、すねたような餓鬼の口調で思わず言うと、秋尾さんは面白そうに、ふふふと笑った。
「そうですか。まあ、そんなもんやろ、子供のうちは。親の客より、客の飼うてる狐のほうが、面白そうに見えたやろ。それでも忘れてまうんやもんなあ、大人になると。薄情やわ」
「いや、実はちょっと思い出したんですけど……」
 顔も描いとかなあかんと思って、俺は紙の上の、伏し目がちに笑う秋尾さんの顔の、案外鋭いまなじりを、新しい鉛筆でなぞった。
「俺と遊んでくれたのって、花見の時でしたか」
「そうや。俺の狐になれ、俺の狐になれって、ぼんは言うてはりましたで。可愛がってやるから、ずっと俺の家に居れって」
 秋尾さんが、どことなく責めるように言うので、俺は参って、思わず小さく声あげて笑った。
 気まずい。そんな話されると。
 それは確かに、おかんが折に触れて言うように、俺は悪い子やった。手癖が悪い。
 俺は桂川の川原で、あの狐をむちゃくちゃぎゅうっと抱いてた。気持ちよかったんや。暖かくて、ふわふわしてて。それに何や、いい匂いがした。春みたいな。それで、気持ちええなあって気に入って、家に連れて帰って、毎晩抱いて寝たろって思ったんや。
 餓鬼やったしな。他意はない。無いんやけど、深く考えてへんだけに、怖いもんがあったな。きっと。
「それで……実はどうやったんですか。秋津の狐になろうかって、思いましたか」
 訊くのも無粋やって思うたけど、どうにもそれが気になって、結局俺は訊いてた。絵描いてたし、ちょっと気が大きくなってたんかもしれへん。ちょっと酔ってたんかな、それとも。
 急に、惜しいような気がしてん。今さら思い出して。いつかの花見の日の、川原で抱いたふわふわ狐が。
「いや。全然思わへんかったよ。僕は大崎先生の狐やねん。先生が子供のころからずっとそうなんや。子供みたいなのが好きやねん、僕は。子供はええよ、一緒に遊べば、気前よくおやつ分けてくれたりするしな」
 にこにこ言って、秋尾さんは腹減ってるような顔やった。
 そういや俺も、あの時川原で、おやつにもらってた花見団子を狐に半分くれてやったわ。
 あんた、団子に釣られて俺に抱かれてたんか。迂闊やなあ。
「大崎先生も、昔はそうやったんやけどなあ。あんな爺さんになってもうて。しき遣いは荒いし、怒るし、ゴネるし、文句は言うしやな、その上、色好みでお座敷遊びやろ。僕ももう参りますわ。我が儘やしなあ、面倒みきれへん。せやけど、秋津のぼんより、あっちがええわ。ヘタレの茂ちゃんのほうが」
 本人聞いたら怒ってくるでって思うような惚気のろけを、秋尾さんはにこにこしながら、けろっと言うてた。
 なんか今、俺は、ものすごく爽やかに振られてる。鮮やかなまでに。そんな感じがする。
 でもまあええねん、それが平和や。俺には亨がおるし、秋尾さんはあれやん、普段は丸眼鏡にスーツ着た、中年男なんやで。それと何やかんやあっても、普通やないやろ。
 なんもないほうがいい。人様の狐と俺の間には。ただ絵描くだけのほうがええのや。
「描けたかなあ、暁彦君。そろそろ酔いが醒めてきてもうて、なんや恥ずかしなってきた。まだ描くんやったら、お銚子もう一本持ってこさせようかなあ。酔わな化けられへんのですわ、僕は。気合いが要るねん」
 ああ、それは何となく分かりますって、俺は相づち打った。分かるやろって、秋尾さんは満足そうやった。
 素描はもう、ほとんど描けてた。あと何枚か描きたいとこやったけど、とりあえずは一枚でも足りる。今この席で見たもんを、脳裏に焼き付けておけば。
「絵はもうこれで何とかいけます。帰りましょうか」
 俺は遠慮して訊いた。
「うん。別にな、今日は飲んで帰ってええらしいですわ。そういうお許しもろてきてるんや」
 にやにや冷たく笑って、秋尾さんは絵を仕舞う俺の座るあたりの、畳の目を見下ろしていた。
わしももう年やし、秋津の坊主もそろそろ一人前やから、うちには跡取りおらんことやし、団子食いたきゃ食うてこい。もう帰ってこんでもええって、大崎先生、言わはるねん。ひどい話やろ」
 力ない愚痴で言い、秋尾さんはトホホみたいな顔してた。
 ひどい話やって、俺も思った。人の都合で、右から左へっていうのは、ちょっとどうやろ。言いにくいやろ、秋尾さんかて。あの時の団子はうまかった。もっと食わせろって、今さらは。ましてそんなもん、別に食いたないわっていうのが本音なんやったら。
「暁彦君はええな。まだ若うて、先も長いし、力もあるようやし。申し分ないとは思うんやけど、それでも今日のところは、帰りましょかっていうので、ええやろか。こっちから話向けといて、えらい不躾なんやけど」
 しょんぼり訊いてくる狐に、俺は頷いた。
「いいですよ、それで」
「そうですか。おおきに。それはそれで、何や複雑やけどな」
 にやにや笑う秋尾さんは自嘲の笑みやった。そんなら実はあの春の、川原で抱いた狐が、じっと逃げもせんかったのは、あれはあれで向こうも心地よかったんかと、俺はちょっと変な自信をつけた。
「秋尾さんは、大崎先生の後は、どうしはるんですか」
 爺死んだらアキちゃん狙いやでって、亨が言うてた。秋尾さんはそうやって、あいつは警戒してて、油断したらあかんで、狐にバリバリ食われるでって、時々本気らしい顔で言う。
 だから実はずっと、秋尾さんの顔見るにつけ、意識してたんかもしれへん。この人は大崎先生の秘書やのうて式神なんやろ。人やのうて人でなし、普通の人に見えるけど、ほんまは狐なんやろって。
「どうって、そんなん考えたことあらへんわ。そうなってから考える」
 苦笑して、秋尾さんは銚子に残ってた伏見の酒を、俺の膳の盃にとろとろ注いで、自分でそれを飲んだ。訊いたらあかんこと訊いたかな。俺も時々、亨を批判できんレベルの、ノー・デリカシー男やから。
「こんこん泣いて、伏見の山にでも帰ろかな」
 くすくす笑って、銚子が空っぽやという仕草を、秋尾さんはした。白い指が、酒器を小さく振っている。
「その時、秋津のぼんがまた拾ってくれるんやったら、その時に考える。忠実やいうてもな、結局、僕も寂しいねん。狐狸こりの類や、寂しなって人里におりてくる。そこをとっつかまって食われるようなモンやねん。せやから、その時また、秋津の暁彦君が、毎晩抱いて寝たろて言うんやったら、考えんでもない。けど次は、団子よりええもんにして」
 にこにこあだっぽい狐を見て、俺は思わず、うんうんと頷きそうになってた。
 ぼんはちなみに、どんな姿が好きなんや、今のうちから、こっそり練習しとこかなあて、秋尾さんが幾千年を経た悪い狐みたいなことを訊くもんで、うっかり真面目に悩みもした。
 でも、あかんねん。俺にはもう、亨がおるやんて、そう考えるのが間に合って、ほんまに良かったな。
 ガラリと激しい音を立てて、座敷のふすまが一気に両開きされた。
 そこに仁王立ちの亨が立っていた。鬼みたいな怖い顔して。舞妓さんの格好で。
 俺は正直、背筋の上から下まで電撃が走るようにビビってた。
 良かった、ほんまに。真面目に絵描いてて。絵描いただけで、最後の秋尾さんの質問に、まだ何も答えてなくて。
 引っ込み思案と優柔不断が、この時ばかりは俺を救った。もしも、ほいほい軽口きけるような軟派野郎で、うっかり何か答えてもうてたら、この後の座敷は血の海やった。なんかそういう気配やった。じろりと俺を見る、亨の顔を見てたら。
「アキちゃん……この女、誰や」
 一応訊くわ、っていうノリで、ジト目の亨は戸口に仁王立ちのまま、俺を見下ろして訊いた。
 綺麗な紅色の着物に、淡いピンクの桜を散らし、鈴と色とりどりの綾紐を飾った文様の、いかにも初心うぶな感じの着物着て、新緑の柳みたいな明るい黄緑の帯締めた亨は、舞妓さんらしい半玉はんぎょくの髪までよく似合ってて、いかにも若い娘みたいやった。
 お前も、どえらく化けたな。化けられるんや。化けたっていうか、お前のそれは、ただのコスプレやんか。着るもん着て、化粧しただけやんか。脱いだらどうせ、男なんやろ。なんかそんな感じの倒錯感がむんむんしてるで。
「これは秋尾さんやで、亨。化けたんや、ドロンて」
「ドロンしましてん」
 あわあわ言い訳してるような俺をフォローしてるつもりか、秋尾さんはにっこりと付け加えた。
 でも、差し向かいに座布団も膳もあるのに、なんで膝詰めて座ってんのって、亨はそういう、北極のブリザードみたいな目をしてた。
「アキちゃんが、舞妓さんの絵描きたい言うから、舞妓さんの格好して来てん。おかんが着て行け言うたんや。そしたらあんたもちょっとは可愛く見えるやろって……女の格好してみたら、思い出すかもしれへん。どうやって女に変転するか、思い出しなはれって」
 わなわな言うて、亨はじろっと秋尾さんを見た。
「どうやって化けてんねん、この狐!」
「それが人にものを訊ねる態度やろか、亨君」
 戸口を振り返って鼻白み、秋尾さんは行儀良く、座った膝に白塗りの手をそろえてた。仁王立ちで怒鳴ってる亨とは、えらい違いなんやで、残念ながら。
 お前、無理せえへんほうがええんとちゃうか。似合ってるけど、似合ってない。どう見ても、ニセ舞妓やで、亨。可愛いけど、喋って動いたらもう終わり。黙ってじっと立ってるだけやったら、めちゃめちゃ綺麗やのに。そんな怖い顔して、ぎろぎろ見たら、等身大の舞妓さん人形が夜中に動き出したみたいな怪奇現象にしか見えへん。
「と、亨……とにかく、部屋入れ。廊下でそんな舞妓さんうろついてたら、この店の商売に差し障りあるかもしれへん」
 焦って差し招いて、俺は亨に頼んだ。
 亨は、うぐっていう傷ついた顔したけど、俺には逆らわへんかった。すとんと勢いよく後ろ手に襖を閉めて、ずかずか座敷に上がり込んでくると、ちょっとごめんなさいよみたいな強引さで、俺と秋尾さんの間に無理矢理座った。ほとんど俺の膝に座る勢いで。
「見ろ、アキちゃん、この俺の美しすぎる舞妓さんコスプレを。絵はもう描いたんか。俺の絵も描け。ほかの奴の絵なんか描いたらあかん。いくら綺麗に化けてもな、こいつは狐やで。尻尾があるんやで」
 どしどしと俺の膝を叩いて、亨は切々と訴えてきた。
 そんなん、もう知ってしもたわ。尻尾あっても、今のお前より色っぽかった。忘れるけどな、それは。可能な限り迅速かつ根こそぎ忘れてしまおうかと思うけどやな、でも残念ながら事実やで。
「描かへんの、俺のこと」
 じとっと暗い目で、亨は俺を見上げた。そのすくい上げるような非難の目が痛くて、俺は思わずのけぞってた。でも目逸らしたら負けなんやで。俺は別に、何もやましいことしてへん。してない。と思う。たぶん。……してたかな。
「お前、描いたらあかんて言うてたやんか、この前は」
 大崎先生ご依頼の風景画に被せて、亨の絵を描いたら、こいつは、自分の絵を描いてもええけど世に出したらあかん、人手に渡すもんには描くなって言うてたんやで。
 今回の絵は、人手に渡す前提のもんやんか。その絵になんで、お前を描かなあかんねん。支離滅裂やんか。
「そうやけど、それとこれとは別やんか。俺は嫌やねん。アキちゃんが人の絵描くの」
 どれとどれとが別なんやろ。亨の中では辻褄が合ってるらしい省略形に当てはまるものは何か、俺は一応考えた。分かるようで、分からへんかった。
「人やない、狐やし、亨君」
 にこにこして、秋尾さんがフォローしてた。
「狐も含めて」
 亨はそれを含めて訂正してきた。俺をじっと見たまま。
「でもな……俺は絵描きなんやで、亨。それに、仕事やし。依頼人が、描けって言うてるもんを、嫌やっていう訳にはいかへんやろ?」
 そう来るかという半眼で、亨はしばらく押し黙っていた。
 仕方ないかと思うてるらしかった。でもそれに、同意したくないらしい。
「ほな、もう、描いてもうたんか。この狐の舞妓コスプレ姿を」
「描いた」
「見せて」
「それは無理」
「なんで無理やねん」
 思わず即答で拒否してた俺に、亨は盛大に顔をしかめた。白塗りしてんのかもしれへんけど、亨の顔はいつもと大差なかった。もともと色抜けたみたいに白っぽいやつやねん。
「まだ完成してへんやろ。描いてる途中は見られたないんや、俺は」
「ふうん。お邪魔か、俺は。それは失礼いたしましたやで」
 ぷんぷん怒って、亨は言うてた。
「あほみたい。損したわ。こんな格好までして、こんな得体の知れん店まで出張ってきてやで、お前はお邪魔って言われて、帰らなあかんのか。ほんまにむかつく」
 ほんまにむかついてるらしい声で、亨は言って、ちらりと膳の上を視線で嘗めた。
「まだ飯食うてないの、アキちゃん。なんか食おう、狐なんか帰らせて」
「いきなり来て、いきなりの我が儘言うな」
 失礼やろって、俺は焦った。秋尾さんはにこにこ見てるけど、普通そんなん言うたらあかんで。お前はこの席には呼ばれてへんねんから。来てもよかったみたいやけど、それでも、お前は俺のおまけやねんで。
「お邪魔虫みたいやし、僕は帰りましょか。なんや酔いも醒めてもうたし」
 苦笑して、秋尾さんは言った。
 帰らんといてくださいと、俺は慌てて言った。
 だってこの人、帰るとこあるんかな。まさか無いってことないよな。さっきの話やと、まるで大崎先生に捨てられたみたいな話やったやんか。帰っても実は、居るとこないんとちがうかって、俺は余計な心配してた。もしそうやったら、気の毒やな、って。
 俺は秋尾さんが可哀想やってん。ほんまに余計なお世話なんやけどな。
 それでも秋尾さんは、ちょっと満たされたような淡い笑みやった。
「ほんなら、飯ぐらいご馳走になってから帰ろうかなあ。うまい会席食わせますよ、この店は。若い人には淡泊すぎて、口に合わんかもしれへんけど、まあ、たまにはね」
 むすっとしてる亨に、面白そうな苦笑を向けて、秋尾さんは裾を引いて立ち上がった。そして襖を開けに行き、廊下に通りかかった仲居さんふうの和装のおばちゃんに、料理の注文をしてるみたいやった。
 その廊下が、何や騒々しい。秋尾さんも、何やろっていう不思議顔で、隣の座敷から聞こえてくるらしい、賑やかな声のするほうを眺めてた。
 それはどうも、日本語ではない、外国の言葉やった。たぶん英語やろうって、そんな感じ。でも曇って聞こえて、何て言うてるか、聞き取れるほどではない。
「ちょっと古い英語やで、アキちゃん」
 何か会話のきっかけが欲しいみたいに、亨がじっとりと様子うかがう声で言ってきた。
 それに呼ばれて、ふと目を戻すと、亨はいじけたみたいに、肩を落として座っていた。
「隣の客な、よそモンやで。さっき間違えて入ってもうてん。そしたら何や変でな、思わずぼけっと見てもうたわ。そんなタイムロスで狐に出し抜かれたんかな?」
 ゆったりと重く、しなだれかかってきながら、亨は間近で俺の顔を見た。切なそうやった。それがちょっと、可愛いような気がして、俺は内心照れた。
「なに妬いてんのや、しょうもないことで。そんな必要ないやろ。元気出せ。お前は元気なのがええとこなんやから、何か楽しいこと考えろ」
 励ますと、亨は、そんなん言われてもなあ、っていう、困ったような顔をした。
「楽しいことって……そうやなあ。楽しいっていえば、お隣さんな、変なんやでえ。客もよそモンやけどな、舞妓さんも外人やねんで。目が青いねん。そんなイロモンも、近頃の祇園にはアリなんか?」
「ニセモンやろ、それは……」
 手握ってくれみたいに両手を差し出してきた亨の、真っ白い手を握ると、それがものすごく冷えてたんで、俺は可哀想になって、それを自分の手で包んだ。なんとなくやけど、寂しいとき、こいつの手は冷たい。体の中から熱が引いてるみたいに。
「アキちゃん、ゴブリンて知ってるか。外国の、ちょい悪な妖怪みたいなもんやねんけど、隣の客、正体はそれやで。何かお宝隠し持ってるらしいねん。せやけど、タダでは教えん言うて、勝負を挑んでるらしいわ。そういう奴らやねん」
「勝負って誰に」
「いや、そやから、そのイロモンの舞妓さん達にやんか」
 舞妓さん達にって、複数形か。ひとりやないんか、外人舞妓は。
 亨はそうやと言うてた。三人組で、ひとりは呆然、ひとりは気絶寸前、ひとりは絶好調でゲラ笑いやで、しかも野球拳でボロ勝ちしてて、オヤジ五人抜きやて、かいつまんで話した。全く想像つかへん話やった。
「なんやろ……えらい、うるさいなあ。大崎先生、おらんでよかったわ。近頃、外国客がお行儀悪うてなあ、それにもご立腹やねん」
 秋尾さんは黒い絹の裾引いて、嘆かわしそうに首をふりふり戻り、元いた自分ひとりの席に腰を下ろした。
「まあ、楽しく飲んで遊ぶのは、ええんですけど。この店、もともと異界やし。よそのお客さんの接待用やしな、しゃあない面もあるんです」
 何やそれ、秋尾さん。ここ、祇園やないんか。
「祇園やで。でも、僕の遠縁の親戚がやってる店やねん。よかったらまた使うてやってください」
 にっこり答えた秋尾さんの声にかぶさって、すんまへんお邪魔様どすと、料理を運んできた仲居さんが襖を開けた。
 山海の珍味みたいなのが、膳には上品に盛られ、八寸でございますと仲居さんは教えた。見事に飾られた料理の一品は、油揚げで、秋尾さんはほんまに嬉しそうにそれを見ていた。やっぱり好きなんかな、ほんまに。狐に油揚げ。
 団子よりええもんて、もしかしてこれのことかと、俺は一瞬思った。まさかな。まさか、そうやったんか。もっと意味深なこと想像してる自分がおったような気がするけど、そんなこと思う俺の頭が変なんか。
 恥ずかしいわ、今さらになって、恥ずかしすぎる。俺は秋尾さんから目を逸らした。
「ふたりぶんしかないやん」
 亨が引き払う給仕の仲居さんを見送って、びっくりしたような声やった。
「そらそうや。この座敷の客はふたりなんやから。遅れて来るのが悪いんやで。欲しいんやったらぼんの膳からおこぼれを貰い」
 にこにこ笑って、秋尾さんはちょっと驚くような意地悪さやった。何でこの人が、亨を虐めんのやろって、俺は黙って狼狽えた。
 まさか妬いてんのか。何に。だってさっき、秋津の式にはなりたくないって、この人自分で言うてたやん。
 わからへん、俺には。複雑すぎて。
 亨にはそれが、わかってんのかどうか、とにかく腹立たしいわっていう押し込められたような無念の顔で、俺の隣に座ってた。
「ほな、そうするわ。意地悪ギツネやな。アキちゃん、あーんするから何か食わせて」
 あーんするな。なんでそんなことせなあかんねん。
 それでも亨は大マジで、あーんと口を開けて待ち、膳の上の皿にある油揚げをついつい指さしてくるので、その信じて待ってるふうな可愛げに負けて、俺は顔をそむけながら、箸で食い物を口に入れてやった。
 ううん、美味いわあて、亨は喜んでいた。食いながら喋るな、行儀悪いニセ舞妓やな。
「ようやるわ、ぼんも」
 軽く悶絶するように笑って、秋尾さんはそれを見ていた。
 そして自分も、上品な白い指の箸使いで、皿の中の大好物に箸をつけようとした。わくわくしたような、その瞬間、どんがらがしゃんと明かり障子のほうから大音響がして、驚いたらしい秋尾さんは、油揚げを取り落とした。
「あっ、なんちゅうこっちゃ」
 秋尾さんが愕然としたのは、もちろん油揚げのことやったろうけど、俺が愕然としたのは、開け放たれた明かり障子の向こうにある濡れ縁の、中庭に続く、ぼうっとした春の宵の枝垂れ桜を背景にして、ごろんごろん転がってきてた猪みたいに小太りの、牙まで生えたような、素っ裸に限りなく近いオッサンの群れのほうにやった。
 見事に身ぐるみはがれたビールっ腹で、男もこうなるとお終いやと恐ろしくて目を背けたいような成れの果てやった。しかもそれが全員お揃いかみたいな縞パン一丁で泥酔状態。こけつまろびつしながら、参りましたと土下座の構えやった。
 醜い。めちゃめちゃ醜いモンを見た。
 俺はとっさに目を逸らして、横にいる亨を見た。綺麗や。こっちのほうがいい。そう思って現実から目を背けてる俺の視界で、亨はポカーンと濡れ縁を見てた。顎が落ちてますという表情やった。お前、そんな顔すんな、アホみたいやから。顔の綺麗さを活かした表情をしろ。
「アキちゃん、見て。さっき言うてた青い目のやつやで。貧血起こして気絶寸前やったのに蘇ってきた」
 亨が不躾に指さす先で、何事かわめいている舞妓さん姿が濡れ縁に立ってた。それがどうも英語で、早口すぎて、なに言うてんのか。分かるようで分からへん。
「イギリス人やな。このお宝やないって怒ってはるわ。なんか、捜し物してるみたい」
 驚きの醒めたらしい亨が、高見の見物みたいに、盗み聞きした話を俺に訳した。どことなく、にやにやしてるこいつは、人が一生懸命なのが可笑しいらしい。亨はたぶん、あんまりいい性格してへんで。俺は時々、そう思うんやけど、この時も思った。気の毒やと思わへんのか、人が必死になってんのに、それを端で眺めて、薄ら笑うなんてのは。
 でも俺が、そうやって同情的なのは、亨に言わせりゃ面食い男の浮気心らしい。アキちゃんは、誰にでも優しいんやなあ、特に、顔の綺麗な奴には、って、いつも嫌みたっぷり言われてる。
 確かに、そのよそモンの舞妓さんは、綺麗なような顔立ちやった。何よりその目が、遠目に見るだけでも、夜桜の咲く薄闇にぼんやり光るような印象的な水色で、得体の知れん神秘を呑んだ、底知れず澄み渡る湖を、じっと覗き込んだみたいな気になる。
 綺麗やなあって、俺はその時たぶん、ぼけっと見とれてたんやろ。俺の手をまた握ってきた亨の指が、がっちりと痛いほど強かった。
 あの人なんて言うてんのやろって、それでも気にせず眺めてると、そいつらの喋ってる言葉が分かるような気がしてきた。
 先生はどこにいるのかと、その水の目をした外人さんは怒っていた。今にも倒れそうな、真っ青な顔して。背格好はたぶん亨とおんなじくらいや。もっと小柄かもしれへん。何とはなしに髪振り乱したような有様で、ふらふら立ってるのが悲壮な感じのする人で。
 それにあいつ、もしかして、男なんちゃうんかと、俺は一瞬、ぞっとした。男やで、きっと。なんかそんな気配がする。見たらあかんもんに、俺はまた見とれてた。
 見たらあかん、普通ですから俺は。極めてまともやねん。亨がたまたま男やっただけ。それも不可抗力やねん。俺はこいつに逆らえへん。この綺麗な顔で、アキちゃん好きやて言われると。
 それとおんなじ。自分の目にうつる、綺麗やなあと思えるものに、俺は逆らえない。それを絵に描きたいなあと思うのには。
 それで思わずじっと食い入る視線やった。頭の中ではたぶん、もう絵を描いてた。こんな感じ、って素描の線を脳裏に焼き付ける筆致で。白人さんの、彫像みたいに通った鼻梁。ちょっと神経質そうな、どこか弱々しいような雰囲気のする顔と、体格と。水面に散る桜の衣装の、水色と金の振り袖姿。
 これは何やろ。絶対この世のもんではないで。ものすごく遠い、どこかから来た、はるばる何かを追って。宝探しかと、ふと思いついたけど、でも、濡れ縁に転がるご免なさいポーズのオッサンたちを問いつめるその人の目は、そんな物欲とは無縁そうやった。
 金が欲しいわけでは。誰か探してる。そう感じた俺の読みは、あながち外れてなかったようで、水面の振り袖を着た姿は、中庭を巡らした回廊式の濡れ縁の、枝垂れ桜に遮られた対岸にある別の座敷の明かり障子が、すらりと小さく開かれて、なにごとやと騒ぎを覗くのを、目ざとく見つけてびくりとしていた。
 それが見えたのは一瞬だけやった。障子を開けた男は、またすぐそれを閉めたから。
 それも不思議な目やった。一度見たら忘れないような。輝くような琥珀色。夜の闇の中ではそれは、黄金のようにも見えた。赤い髪をしたその男は、ちらりと外を一瞥すると、すぐにその目を盲目の者が目を隠すような濃い色合いのサングラスで隠し、そして、自分の姿をまた障子の向こうに隠した。
 得体の知れん奴やと、俺はなんとなくぞっとした。
 しかし、もう居らん。あの障子の向こうには、もう誰も居ない。そんな気がした。部屋の中にいたもんは、外の騒ぎを目にして、ふっと掻き消えるように気配をなくした。
 そんなことが、あるはずないしと、俺は自分の感覚を否定したけど、障子の閉じた対岸の部屋に、着物の裾を絡ませて走っていく水色の人も、鋭いような声で、否定の言葉を口にしていた。
 勢いよく開け放たれた、閉じたばかりの障子の向こうには、がらんと誰もいない座敷だけが、薄暗く残されていた。たったの今まで、そこには誰かいた。そんな謎めいた、密談の空気だけを残して。
 障子を開けたまま、水色の人は石になったみたいに立ちつくしてた。そして一言、先生、と呟いた。音に聞こえる声ではなかったんかもしれへん。聞こえるわけあらへん。普通なら。遠目に見える座敷の前で、ぽつりと呟くような声が、対岸にあるこっちにまで、届くはずがない。
「逃げられたみたいやな」
 俺の手を握ったままやった亨が、囁くような声で、俺に耳打ちしてきた。その声もどことなく、面白がっているような性悪さやった。
 俺は呆れて、傍にある亨の顔を見た。化粧してても、亨は綺麗やった。それでもお前は根性悪や。アキちゃんアキちゃんて、可愛いような声で甘えてくるのは俺にだけ。それは俺には心地ええねんけど、でも、いくらお前に惚れてる目で見ても、とても清純派とは言えへんな。
 お前の目には、目を逸らせないような誘惑する力はあるけど、なんか清濁併せ呑んだような底知れ無さがある。その奥の奥を見たいと、俺はいつもお前の目を覗き込む。
 だけどあの目は澄み切ったような目やった。あまりにも清廉で、なにも寄せ付けないみたいな水色で。だけどちょっと、悲痛なような感じがして、それがちょっと、可哀想、みたいなな。
 それはたぶん、俺の悪い癖か。
「アキちゃん、よそモンやで。関わり合いに、ならんとき。おかんに叱られても知らへんで」
 亨はそれを、何とはなしに年上の口調で俺に諭した。
「そうやなあ、どっから入って来たんやろ。早う帰ったほうがええんやないやろか、戻れんようにならんうちに」
 こういうことは、よくあると、訳知ったような困り顔で、秋尾さんは億劫そうに立った。
 そして、ぶうぶう悔やんでる裸のオッサンたちを避けてしずしずと濡れ縁を行き、まだ立ち尽くしてた水色の後ろ姿に、にこやかに声をかけていた。
 深情けやで、あんた。先生なんて呼ばれる連中は、どうせろくでもないねん。真面目に付き合うてたら身が保たへんでって。せっかく来たんや、楽しく花見でもしてから、無難なうちに引き上げるのがええよ。戻れんようになったら、困るやろ、って。
 俺にもそれは聞こえた。
 それはここが異界やったからか。秋尾さんが、人の声ではない何かで話してたからか。うなずく水色の人の返事はぜんぜん聞こえへんかった。
 何て言うてんのやろって、それが気になって、俺は亨を座敷に残し、濡れ縁に立った。
 不気味な裸のオッサンどもを背にして、朱塗りの欄干に手をつき聞き耳を立てると、聞こえるのは他の座敷のざわめきだけやった。
 見事に苔むした中庭の緑に、うす紅色の枝垂れ桜がぼやっと明るいように満開やった。甘い匂いがする。京都の春や。狐も浮かれて踊るような、暖かい優しい夜やのに、なんであの人だけ泣いてるみたいな背中なんやろ。
 気の毒やなあって、同情して眺めると、すぐ隣の座敷から出た濡れ縁に、もうふたり、おんなじような哀れみの目で、それを眺めてる姿があった。
 なんか変やで、またニセ舞妓。きっと亨が話してた、三人組の残りの二人や。一人は真っ黒、もう一人は派手な真っ赤の錦着て、遠い対岸の仲間が、がっくり来てるのを眺めてた。どう慰めてええやら、みたいな感じ。
 行って励ましてやりゃあええのにって、俺はちょっと思った。他人事やから、なんとでも言える。訳も分からん、行きずりやから。
「なあ、アキちゃん、俺がもし、おらんようになったら、探してくれるか。あの人みたいに」
 いつの間にかすぐ後ろに来てた亨が、物欲しそうに俺に尋ねた。
 びっくりして、俺は振り向いた。
「どこに行くねん。縁起でもないこと言うな」
「そうやけど。もしもの話やん。探しに来てくれるか」
 甘えたような声で言う亨に、俺はむっとした。なんでこいつは、俺を試すんやろ。
「探さへん。どこにも行くな」
「つれないなあ、アキちゃんは」
 呆れたみたいなため息ついて、亨は俺と腕を組もうとした。やめろって、俺はそれを振り払った。人が見てるやん。それに俺は、ちょっと怒ってる。お前は何かといえばすぐに、どこかに消えそうや。そうやって俺をビビらせる。どうせそういう、ずるい作戦なんや。
 ほんまにどっか、行くわけない。亨は俺が好きなんやし、俺も亨が好きや。ずっと傍にいるはず。そうだといい。秋尾さんが大崎先生とかいう爺さんの傍に、ずっと死ぬまで居るつもりなように、お前もそうやったらいいのに。そこまで情の深い奴ではないか。そんなような気もして、俺は時々、ちょっと切ない。
 お前こそ、探してくれるんか。俺がお前の前から、居らんようになったら。探さへんのとちがうか。アキちゃん居らんようになったわ、悲しい。次のに行くかって、そんな感じなんとちゃうんか。
 居なくなったりせえへんわ、俺は。一分でも一秒でも長く、お前がそれを許す限り、俺はがめつくお前の傍にいる。きっとそうなんや。居なくなるのはお前のほうで、その時俺はお前を追ってはいかれへん。大崎先生が秋尾さんを追い出すみたいに、格好つけて平気なふりをする。行きたいんやったら、よそへ行けって、きっとそんな可愛げのない事を言うに決まってる。
 つらいねん。たぶん。永遠に生きるらしい、お前を残して老いぼれて、さっさと先に死ぬほうも。今はまだ若いって、秋尾さんも言うけど、きっと亨や秋尾さんから見たら、俺の一生なんか、桜が咲いて散る間のことやで。
「どしたん、アキちゃん。また、ぷんぷんして」
「うるさい。気が滅入ったから絵でも描こう」
 座敷に残してた画帳をとって、俺は確かにぷんぷん怒りながら絵を描いてた。
 一枚目にあった、色っぽい秋尾さんの素描を見て、亨はガーンてなってた。なればええよ。可哀想やけど、ざまあみろやで、何となく。
「俺を描いてくれる気になったんか」
 亨は鉛筆走らせてる俺の横に座って、そうやと言えという、焦ったような押し迫る口調やった。
「いいや。さっき見たやつの絵や。綺麗な目やったなと思って。爺さんにはこっちの絵を描いてやろうかな。秋尾さんは嫌なんやって、舞妓姿を絵に描かれんのは」
「あ、あんなんでええんかな、だって外人なんやで。ぜんぜん祇園っぽくないで。俺のほうが可愛いよ、そうやろ、アキちゃん」
「ほっといてくれ、何を描こうが俺の自由やろ」
 うるさいなあって、いかにもうるさそうに俺が言うと、亨はむっと悲しそうな顔をした。
「なにスネてんの、アキちゃん……俺、なんもしてへんやん。また、思い出し怒りか。やめてえな、そんなのは」
 しょんぼりと、体をくっつけて座ってきて、亨は俺の肩に頭を乗せてた。描きにくい。せやけど放り出したら可哀想やしと反省して、俺は黙って我慢しながら絵を描いた。
 思い出しながら描くと、まるで冷たい水の底やった。一瞬見ただけなんやから、細かいとこなんか憶えてへん。その一瞬のイメージだけで描くと、さっきのあの人は、冷たい水の底から、こっちを見てるような悲しい顔やった。誰かを待ってる。誰かを捜してる。そういう本性の人みたい。
「上手に描けてるわ」
 くよくよと、俺の手を見て、亨は言った。
「アキちゃんはほんまに、絵が上手やな。それに絵に描くときは、なんでも正直や。気に入ったんか、さっきの奴。でもあいつ、人間やで。それに男やし」
「絵に描くだけやんか。そんなん関係ないやろ」
 俺は擦り寄ってくる亨から、じりじり逃げながら答えた。
 まあ、絵にはそういう、無節操なとこあるな。写真撮るなら、見た目にも、撮ってるってことが、撮られるほうにも丸わかりやし、勝手に撮ったら怒られる。せやけど絵やと、知らんうちに描かれてても、本人には気づきようもないやろ。どんな凄い絵やろうと、こっそり描かれて、こっそり持ってるだけやったら、誰にも分からへん。あらゆる妄想が野放しや。
 せやから人の絵描くときには、描いてええかって、許可をとるのが、ほんまのところ、礼儀なのかもしれへんな。でももう描いてもうたし。外人さんやし。バレへんやろみたいな、そんな無茶な身勝手が、このとき俺にはあったんかもしれへん。
 だって描きたいんやもん。しゃあないわ、それは。我が儘やろか。そうかもしれへん。でもそれも、しゃあないねん。ボンボンやからな。
 そんな居直りで、俺は結局、亨にガン見されつつ、その素描を仕上げた。鉛筆画やから、色はないけど、俺の頭の中では、しっかり色がついてた。冷たいような、淡い水色。
「また浮気されたわ」
 くよくよと、亨は言うてた。
「しかも一晩に二度もやで。許し難い。今夜はお仕置きざますやで」
 何されるんや、俺は今夜。死ぬほど怖い。帰りたくないような、はよ帰りたいようなやで。
「帰りましょか、暁彦君」
 濡れ縁のほうから、秋尾さんがふらっと戻ってきた。
「なんや粗相があったようやし、今晩は早々に店閉めて、綻びたところを修繕するて、店のモンが言うてましたわ。さっきの三人舞妓はん、どうも勝手に忍び込んでしまいはったようで。来ていいお客さんやないねん。まったく大した情熱ですわ、先生、先生……」
 感心してんのか、呆れてんのか分からん口調で、秋尾さんは言った。そして、部屋の隅に置かれてあった、いつも持ってるでっかい書類鞄のほうへ行って、中から携帯電話を取りだした。
「着信六件」
 びっくりしてんのか、それとも、やっぱりなと思ってんのか、これまた不明瞭な口調で、秋尾さんは呟いた。どことなく、大漁大漁と、仕掛けておいた罠を川から引き上げて、入った魚に喜んでるみたいな薄笑いで。
「どないしたんやろなあ、大崎先生。今夜は戻るな言うてはったのに、ほんまにしゃあない人や」
 にやにやしながら、秋尾さんは、ちょっと電話しますさかい、失礼と言って、その場で携帯から電話をかけた。舞妓さんの格好のまま、壁に向かって正座して。
 電話はすぐ繋がったようやった。
「ああ、先生ですか、こんばんは。もうお休みのところ、申し訳ありません。秋尾ですけど、何度もお電話頂戴してましたようで。いったい何のご用事ですやろ」
 秋尾さんは壁に向かって、慇懃に喋っていた。それは丁寧やけど、なんとなく意地悪い口調やった。
 それに答えて、電話はガミガミ話した。何言うてんのかまでは聞こえへんけど、とにかくガミガミ言うてる爺さんの声が、受話器から漏れてきて、秋尾さんは向こうが喋ってる間、耳痛いわっていうふうに、受話器を耳から離してた。それでもちゃんと、聞いてはいるみたいやった。
 亨が俺の肩にもたれたまま、あんぐり聞いてた。こいつにも、部屋の反対側で電話してる受話器の向こうの声が、聞こえてるらしい。耳良すぎ。それにお前、盗み聞きなんて、お行儀悪いで。
「なんもしてません。絵描いてもろただけです。ほんまですよ。僕が先生に嘘つくわけないやないですか。いややなあ、もう。何年やってますのん」
 いつも見る、中年男のときと何ら変わらん愚痴っぽさで、秋尾さんはにやにや電話と話してた。
 そ、そうやったんか、と、俺は静かに驚いてた。
 秋尾さんの愚痴、いつもいつも、なんて愚痴っぽい人なんやと思いつつ聞いてたけど、あれの正体は、惚気のろけやったんや、この人の。
「はよ帰って来いて……帰ってくんなて言うてはったんは先生やないですか。そら帰りますけども。帰ってええんやったらね」
 秋尾さんが言い終わらないうちに、ギャオーンみたいな怒声が電話から漏れてた。それをもろに鼓膜に食らったという顔で、秋尾さんは傾いてた。痛いやろ、それは。耳聞こえへんようになるで。
「あのね……先生、それはちょっと勝手やないですか。僕がどんなつらい想いでね……って、なんやこれ、もう切れてるわ」
 それが信じられへんというように、通話が終わってるらしい携帯の液晶画面を、秋尾さんはじっと確かめるように見てた。信じられへんと、何度か小さく呟きながら。
「どないなっとんねん、あの先生の神経は。ほんまにもう敵わんわ」
 やれやれ、みたいにぼやいて、秋尾さんは電話をまた鞄に仕舞い、それからよっこらしょと立ち上がった。
「僕、お先に失礼しますわ、暁彦君。大崎先生がね、絵が無い絵が無い、どこやったんや秋尾って、えらい怒ってはるんで、戻って探すの手伝わなあかん。どうせすぐ見つかるんですけどね、探すの下手なんです、自分で片付けへんし、僕が行けば一発で見つかるんやけどね。でも、置き場所を口で言うても見つけられへんのですわ。変やろう」
 変やけど。その話、なんで俺らが聞かなあかんのやろ。
 俺は亨と座って身を寄せ合いながら、にこにこ話してる秋尾さんの話を聞いてた。
「ほんまにもう、しゃあない人なんですわ、爺になってもボンボンで。僕がおらんと何もでけへん。しゃあないから帰ろ」
 嬉しいんやったら、嬉しいて言えば。そんな目で、俺はちょっと恨んで見てたんかもしれへん。ごめんなあ、って、秋尾さんはそんな顔してた。俺はあんたと爺に、弄ばれたんやで、今夜。ごめんで済む範囲で、よかったわ、ほんまに。
「帰れ、どろぼう狐」
 電話から何が聞こえてたんか、亨は俺に抱きついて所有権を主張しつつ、必死で抗議してた。
「嫌やなあ、どろぼうやなんて。ありきたりの就職活動ですやん。基本やで、働くしきの。亨君みたいなフーテンにはわからへんだけやねん」
「誰がフーテンやねん。もうフーテンやないから。永久就職したから、アキちゃんのとこに」
 亨はちょっとでかすぎる声でそう答えてた。もうちょっと小さい声で言うてくれへんか。耳痛い。それに人が聞いてたらと思うと、他にもいろいろ痛いような気がする。
「ああ、そうですか。でも永久やないで。その春は永遠には続かへん。遅かれ早かれ終わるねん。他の花もええなあって、あっち行ったりこっち行ったり、そうこうしてるうちに春も終わりってことになるもんなんや。短いでえ、京都の春は。綺麗やけど、あっという間や」
 苦み走った先輩面で、秋尾さんは亨に教えた。
 それに亨は、全く殊勝さの欠片もなく、俺に抱きついたまま、ケッと毒づいた。
「短くない。俺とアキちゃんの春は永遠に続くんや。永遠に続く」
「そんなもんやろか。ほんまに因業やなあ、君は。風情もなんもあったもんやないわ。ニセ舞妓やな」
 断言して、秋尾さんはにやにやしてた。
 その目はちょっと意地悪やったけど、羨ましそうに亨を見てた。
 こいつはいつも自分に正直というか、思い立ったらその場で実行。アキちゃん好きやで人目も気にせず抱きついてくるし、もっととんでもないことでも平気でやろうとする。胸に秘めたりせえへんねん。秘密はいろいろあるらしいけど、とにかく情熱は漏れまくり。隠そうという気もないと思う。タダ漏れやねんで。
 それがたぶん、秋尾さんには癪に障るんやろ。それで意地悪されてんのやろ、こいつ。
 そんなんせんといてやってくれ。漏れたらええやん、情熱。あんたもそんなんしたいんやったら、したらええやん。愚痴ってないで。大崎先生とやらに、べたべた甘えたらええやん。
 大崎先生ご依頼の舞妓さんの絵は、いったい誰の絵なんか。うちのおかんの登与姫か。それとも狐はくれてやるから、それと引き替えに絵を寄越せって、そういう話やったんか。わからへん、俺には。ちょっと大人の世界すぎて。まだまだ青い未熟者なんやから。
 でもまあ、とにかく描こう。仕事なんやから。まさか二度もすっぽかしたら、爺さんキレる。キレた拍子に死んでもうたら、秋尾さんにも恨まれるやろし、怖いでえ、お狐様の呪いは。関わり合いになりたくない。
「ほな僕、ドロンしてドロンしますよって」
 そう宣言して、秋尾さんはドロンした。元の丸眼鏡の中年男の姿に。そして重そうな書類鞄持って、淡い桜色のカッターシャツのまま、上着返してもらわなと、ぶつぶつ言いつつ部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待て狐。お車で送ってくれへんのか。タクシー呼べんのか、ここ」
 亨もぶつぶつ文句言う口調やった。
 秋尾さんは戸口で振り返って、愛想のいい糸目の顔で、にこにこ笑った。
「そんなん歩いて帰ったらええやん。ええ月夜やで、夜桜も綺麗やし。ずっと歩いて川端通りまで出れば、流しのタクシー捕まえられるやろ。それが無ければ、出町まで歩けばええねん、若いねんから歩けるよ」
 歩けるかっていう距離やねんけど、秋尾さんは冷たかった。この人、優しいような顔してるけど、実はけっこう冷たいねん。容赦無しやで。秋津のぼんなんか、もうどうでもええわって顔してた。はよ帰ろ、はよ帰ろって、どうせそんなとこなんやろ。
 それでは絵のほう、よろしゅうお頼み申しますって、秋尾さんはあっさり言い渡して、予告どおりドロンした。廊下を歩く間も惜しいんか、また例の甘く焦げたような薄煙をあげて、ドロンと掻き消えた。あれでほんまに、車乗って帰るんかな。飲酒運転やんか、秋尾さん。それとも狐に道路交通法は関係ないのか。それともやっぱり関係あって、車は置いて、飛んで帰るんかな。こんこん鳴いて、愛しい古巣へ。
 あぜんと見る俺と亨に、追い打ちかけるみたいに、狐のお茶屋の人が来て、あいすみませんけども、もう店閉めますんで、お引き取り願えませんやろかって、慇懃やけど、はよ帰れっていう口調で頼んできた。
 なんちゅう店や。狐なんて。俺はあんまり好きやない。もう好きやなくなった。つれないし。家で飼えない。そのくせ俺を弄ぼうというねんから、危ない神さんや。俺には亨が居るねんから、触らぬ神に祟りなしやで。
「帰ろうか、亨。歩けるか、お前、そんな格好で」
 見るからに着慣れてない亨の舞妓姿を、俺は嫌な予感がして横目に盗み見た。
 まさかスニーカーで着てきたわけやないやろ。舞妓さんといえば、あれやろ。ぽっくり。舞妓さんが履く高下駄や。履き慣れてないやつが、あれで長距離歩けるわけない。アキちゃん、歩かれへんて、どうせすぐ甘えたような声で言うんや。
「歩けるよ、腕組んでくれたら」
 案の定なことを言って、亨はにこにこしてた。
 まあ。ええか。今日は。何か後ろめたいし。その罪滅ぼしの、特別大サービス。それに舞妓さんの格好やし、こいつの正体なんて、黙ってれば誰にも分からへん。どっかのボンボンが、ニセ舞妓連れてんのやろって、皆思うやろ。それなら許容範囲って、俺はセコい計算してた。
 気がな、小さいねん。どう考えても普通やないで。いくら顔綺麗でも、男と腕組んで歩きたないねん。手繋いで歩くのも、実は若干脳死状態やねんで。でも、しゃあないねん。亨が繋げっていうし。そう何度も、嫌やって拒まれへん。悲しい顔されるし、そんなの見たないねん。
 慣れると、なんか平気になってくるから怖いわ。そのうち腕組んで歩くのも平気になってたりして。そんなん嫌や。まともな人の世界に踏みとどまりたい。でももう無理か、すでに崖からダイブした後なんか。踏みとどまってるつもりなのは俺だけか。
 やっぱ、やめとこか。腕組むのは無し。祇園の人も怒ってきはるかもしれへんしな。舞妓さんが男と腕組んで歩いてたら、はしたないやろ。
「なにを猛烈な勢いで計算してんのや、アキちゃん」
 トホホ顔で、亨は俺に訊いてきた。俺は、たった今はじき出した計算結果を亨に教えた。
「腕組むのは、無しや。歩かれへんのやったら、ぽっくり脱いで裸足で歩け」
「な、なんやと。どこの世界に裸足で歩いてる舞妓さんがおるねん」
「そうやな、お前の言うとおりや。頑張って、ぽっくり履いて歩け。そんな格好で来たんやから、頑張らなしゃあない」
「手ぐらい引いてくれたかてええやん」
 亨はまた、ぷんぷんしてきて、俺にそう文句を垂れた。
 それも微妙なんとちゃうかな。そんなんしてええんか、舞妓さんは。よう知らん。祇園ルールは。秋尾さんに、訊いといたらよかった。手繋いで歩いてええのかどうか。
 でもきっと、あかんのやないやろか。亨が俺と手繋いでるのを見ると、秋尾さんはいつも、お若い人らはお熱くてええなあて、嫌みを言うてる。それは、自分はそんなんしてもろたことないわという意味やないのか。
 手ぐらい繋いでもらえ。俺でもそこまではギリギリ許容範囲やったんやから。それとも、それも無理なんか。どこまでヘタレやねん、ヘタレの茂ちゃんは。そんな男のどこが俺よりええんや。どうでもええけど知りたいわ。後学のために。
「お客様、お発ちでございます」
 もうええかげんに帰れという意味やろ、帰るて言うてないのに、狐目の仲居さんが来て、廊下にそう呼ばわった。帰るから、そんなに急かすな。
 俺は参って、画帳を持って立ち上がった。亨も慌てて付いてきた。
 客はぞろぞろ帰り始めてた。
 隣の座敷で騒いでたはずの連中は、もう姿が見えなくなってた。店の人が帰したんやろ。いったいどこから来たのか。ちらっとでも姿を見かけたら、絵に描いていいか、声かけて訊こうかと思ってたけど、もうドロンした後やったみたいやで。
 それで仕方なく、俺は亨を連れて、とろとろ歩いて店を出た。
 祇園の夜には、大きすぎるような大きな満月がかかっていた。桜並木はぼうっと薄桃色に光り、行き交う人の姿は、人やったり人でなしやったりやった。
 鳥獣戯画の兎や蛙が羽織り着て、桜綺麗やなあって、ぞろぞろ歩き、あれはどこぞの文豪かみたいな、粋な仕立ての着物着た、三十がらみの男が杖ついて、ぶらりと夜を楽しんでる。あれは人かと思うけど、並木の桜のそれぞれに、うっすら見える半透明の女の子に、にこにこ愛想のいいとこ見ると、並みの人には見えへんもんが、見える目したご同類なんや。
 えらいところに連れてこられてた。秋尾さん、しかもそこに俺を放置して帰るやなんて、あんたも大概ひどい人や。
 歩いて行けば川端通りかと思える方向へ、俺は歩いた。現実にはありえないくらいの桜並木やった。どこもかしこも桜で埋まって、花見花見で浮かれ騒ぐような、甘い酒の匂う空気の夜や。
 川端通りて言うくらいやから、川のほとりやねん。鴨川の流れが見える。柳と桜の入り交じった、ぼやっとけむるような京都の春の風情が。
 そこまで歩くと、亨はもう限界みたいやった。足痛いわ、アキちゃんて、嘘ではない口調で情けなそうに言うて、俺の腕をとった。
 あーあって、仕方なく諦めて、俺は足を見てやるために、亨を川端の石に座らせ、履き物と足袋をとってやった。鼻緒で靴ずれできたらしいわ。白い足に、少々血が滲んでた。
 可哀想やなあって思って、俺は思わずそれを舐めてた。なんでそんなことしたんやろ。全然酔ってなかったで。変な癖ついてる。いっつもこいつの足舐めさせられてるから、それが何でもないことのような気になってた。
 超やばい。亨はそんな声で呻いてた。
「なんという、予想だにせんかったような突然の攻撃や……」
 くうっ、とつらそうに呻いて、亨は傾きながらぶつぶつ言うてた。
「まさかと思うけど、やっぱりこのまま出町柳まで我慢大会か……」
 他にどんな方法があるんやて言うしかないことを、亨は訊いてきた。
 他にどんな方法があるんやって、俺は答えた。
 亨はそれにまた、くっと呻いてた。
「他にか……そうやな、他に。桜見ながら、川原でとか」
 ナノセカンドの世界で却下やな。
 俺は返事もしなかった。答えなくても分かるやろ、パターンで。
 亨は何も言われなくても分かってしもたという痛恨の表情で、伏し目にうつむいてた。
「なんでこんなことするんや、アキちゃん。いつも奥手なくせに。狐に口説かれて、むらむら来てたんか」
 えええ、って思うような事を言われ、俺はそのまんまの顔をした。亨はそれを、じとっと恨んだような顔で見下ろしてきた。はよ行かな、ちょっと変やでって、俺はぼんやり思った。
 だって、よく考えてみれば、なんで画帳持った和装男が、川端の石畳に膝ついて、舞妓さんの足舐めてんのやろ。普通でない。この光景は。早くここから脱出せなあかん。
 どう見ても、辺りの景色は現実的やった。もはや異界ではない。どこをどう歩いて狐の世界を抜けたやら、わからへんかったけど、眼下の四条河原の対岸に見えるカップル縦列駐車は、どう見ても現実世界の有様や。
 一転して、徒歩の人通りは少ない川端通り側の岸辺やけど、それでも人目にはつくやろ。こんな格好してんねんから。
 俺は突然恥ずかしなって、亨の足をぽいと放り出し、立ち上がった。
「むらむらなんか、来てへん。はよ帰ろう」
「嫌や。まだ絵に描いてもろてない」
 どう見てもやせ我慢してる顔で、亨はぷいとそっぽ向いてた。
 お前は甘い。我慢比べで、俺に勝てると思うなよ。
「描かんでええやん。家でも描けるやろ」
 その割に、俺の口調は、はよ帰りましょうっていう頼み込む感じやった。
 亨はそれに答えず、ますます、ふんっていう顔やった。
 そうなんか。そうなんやろか。むらむら来てんのか俺は。それで早く帰りたいんか。そんなはずない。それを認めると、いろいろ不都合や。
 全然平気やし。明日の朝まででもここに居れるしな。急いで帰ってもすることないし。亨が絵描け言うなら描くし。どうせいっつも描いてるんや、家では。なんとなく描きたくなって、ちょっと描くからじっとしといてくれって頼んで、亨の絵を描いてる。
 それを外でもやるっていうのは、なんや恥ずかしいような気もするけど、絵描くだけなんやから。別に何でもない。変なことしてる訳やない。誰に見られても平気なはずや。
 川原で一発やったら犯罪やけど、絵描くのは罪やない。実際絵描いてはる人もいた。春の四条河原の景色を、イーゼル立ててスケッチしてるおじさんもいてる。俺かて絵描きなんやから、ここで絵描いてもええやろ。ニセ舞妓の。
「わかったよ、描くから。描いたらええんやろ」
 俺は画帳を拡げながら亨に折れた。それでも亨は、さらに、ふんっていう鼻息の荒さやった。
「嫌々描いてくれるんか。そらまた、おおきにありがとうやで。狐や外人はうきうき描くけど、俺のツレには興味なしやな。許せへん。今夜はお預けにしたるから」
 それはお前もつらいんやないかという雰囲気やったけど、俺は亨に口答えしなかった。そういうふうにスネられると、確かに悪かったかなという気がしてきたんや。
 だけど絵に描くくらい許してくれよ。俺は絵描きなんやし。そっちの浮気はしゃあないやんか。お前の絵ばっかり描いてても、それは外には出せへんし、画家は絵を売らな食っていかれへんのやで。俺もいつまでも、おかんのスネかじりのボンボンやと困るやろ。お前は案外、金食わへんやつやけど、それでも美味いモン食いたいんやろ。俺はお前に苦労させたくないねん。
「アキちゃん、おかん言うてたで。嫌々描くなら絵の仕事なんかやめときって。大崎先生には、うちがとりなすから、好きな絵描いたらよろしおすって、伝えてくれて言われたわ」
 そっぽ向いたまま、亨はぶつぶつ教えてきた。つんと澄ましてる横顔が、月明かりに白くて、綺麗やった。お前は綺麗やなあって、何度目かももう分からんようなことを、俺は内心に呟いた。そしてそれを言葉にする代わりに、絵に描いてた。亨の絵を描くのも、これで何枚目やろ。全部売らずにとってあるけど、そのうち置く場所もなくなるんとちゃうか。
「絵描けって言うたの、そもそも、おかんなんやで。おかんが持ってきた仕事や」
「可哀想になってきたんやろ。アキちゃんが渋々絵描くのが。好きでもないのに我慢して、舞妓さんの絵なんか描かされて、可哀想やわあって、急に焦ってきたんや、おかんは。もしかして、うちのアキちゃん、悪い舞妓にほだされて、お茶屋遊びにハマってもうたらどないしよ、祇園通いのボンボンやなんて、そんな悪い子になってもうたら困るわって、おかん根性丸出しなんや」
 ぷんぷん言うてる亨の話が、ほんまにおかんの話か、それとも、それにかこつけた、亨の取り越し苦労かは、ちょっと聞くぶんにはわからへんかった。それに苦笑しながら、俺は、つんとスネてる舞妓姿の亨を、紙の上に写し取ってた。
「ハマったりせえへんよ。今日かて平気やったやろ」
「そうやろか。また狐が飲みに誘ったら、ほいほい付いていくんやないか。ありもせん尻尾振って、こんこん狐とお戯れ」
「勝手に変な想像すんな」
 亨が何を想像して、何にスネてんのか、なんとなく見えてもうて、俺は焦ってた。
 こいつが漏れ聞いた電話の声の、大崎先生は、いったい何をほざいてたんやろ。秋尾さんはえらい色っぽいようなシナ作って、にこにこ嬉しげに電話と話してたけども。
「勝手な想像やろか。電話の爺、狐に訊いてたで。秋津のぼんかったか、って。何の話やねん。絵の話と思われへんわ」
 顔をしかめた横顔が、ほんまにつらそうやった。
 こいつは妬いてるんやないんとちがうかと、ふと思った。怒ってるけど、諦めてる。なんかそういう感じがする。俺のことは、独占できない。なんかそういう、諦めというか、怖れというか、何かに怯えたような、そんな怒り方なんやで。
 なんでそんなこと思うんやろって、俺は描きながら亨を見つめた。
 俺はお前のモンなんとちがうんか。独占すればええやん。そういうもんやろ、ツレなんやから。俺はお前を独占したい。そうしてええんやったら、そうしたいけどな。
 だけど、そんなことしたら、バチ当たるかな。こんな綺麗なもんを、自分のとこに閉じこめて、誰にも見せへん、触らせへんて、餓鬼臭く独占したら、それはそれで罪やろか。
 亨が売ってやってくれって頼むんで、乗り気でないまま売った、大崎先生ご依頼の一枚目の絵も、ほんま言うたら今でも惜しい。なんであれを売ってしもたんやろ。よりにもよって、こいつを前に自分のものにしてた、別の男に。
 売らへんかったらよかった。今でもそいつが、あの絵を眺めてるかもしれへんと思うと、俺はつらい。見んといてくれ。俺が描いた、俺の亨を。愛しい者を見る切なげな笑みで、絵の中で永遠に生きてる、静止したあの目が見てるのは、ほんまは俺やねん。他の誰でもない。あの目と向き合っていいのは、もう俺だけのはずや。
 そう思って見つめた紙の上の亨は、つんと怒って、そっぽ向いてた。
 どうせなら、この絵のほうを売ってやりゃあよかった。どんなつらしてるか知らん、死にかけ男に。今生の形見や、武士の情けはかけてやるけど、俺はまだまだ餓鬼なんで、大見得切っても、平気でくれてやれるのは、ほんまやったらこの程度やったんやないかな。
 取り替えてもらえませんかって、電話しよか。この絵を仕上げて。こっちで我慢しといてもらえませんか、前の奴は惜しいんで、返してもらえませんやろか。金返せっていうなら、お返ししますんでって。
 そう思うと可笑しすぎた。めちゃめちゃ格好悪い。それはそれで無理やな、俺には。ええ格好してまうからな。
「なにが可笑しいねん、アキちゃん。にやにやして、気色悪いわ。狐の何かでも思い出してんのか」
 堪えきれんようになったんか、亨は静止を崩して、俺のほうを向いた。眉間に淡く皺寄せた、切ないような顔やった。
「思い出してへん。お前のこと考えてただけや」
「嘘やわ、そんなん。ほんまやろか。アキちゃんでも俺のこと考えて、にやにやしてまうようなこと、いっぺんでもあるんか」
 そんなことする訳あらへんと、亨は思ってるらしかった。
 まあ、確かに無いな。何考えてようと、俺は鉄の無表情をキープできる精神力があるし、それに、そんなヤバいことは、可能な限り考えないようにしてる。考えたら一日ずっとにやにやしてるかもしれないし、そんな不気味な自分は嫌や。俺の美学が許さへん。
 亨はときどき、ひとりでにやにやしてたり、デレデレしてたりで、むちゃくちゃ気色悪いときがあるけど、あれは何を考えてんのやろ。俺のことかなあって思いたいけど、違ったら嫌やから、訊いてみたことない。
「にやにやはせえへんけど、お前のことはいつも考えてるで」
「ああ、そうか。にやつかへん程度にな」
 それが嫌やという口ぶりで、亨は嫌みな礼を述べた。ほどほど好きで、どうもありがとうやでって。卑屈やなあ。なんでこいつ、こんな卑屈なんやろ。変な奴。まだ何か足りへんのか。一緒に住んでて、毎日キスして、毎晩抱き合うてんのに。
「絵描けたか。そろそろ行かな、人集まってきてもうた」
 確かに亨が言うように、舞妓さんいてはるわって、対岸からわざわざ目ざとく見つめた連中が、ちょっと遠巻きにしつつも、亨を眺めにやってきていた。写真撮ろうかと、カメラや携帯をごそごそ出してる様子の奴もおる。
 それはまずかった。亨は最近、その気になれば写真に写れるようになったけど、撮られたら撮られたで嫌がるやろし、写らへんかったら、それはそれで祇園の怪談になってまう。
 元々亨は、人目につくのを嫌がるほうやった。そのくせ人前でいちゃつきたがるという、矛盾した性癖の持ち主やけど、本来、人目に立つのを嫌うモンらしい。見られたいけど、見られたくない。そういう、裏腹な気分らしい。
 注目されたら、正体を突き詰められる。そしたら殺されるかもしれへんて、亨は怖いらしい。せやから閉じこめて匿ってほしいって、亨は俺に頼んでた。それは俺にも、望むところやった。一日ずっと出町の家にいて、必要がなければ出かけもしないインドア派。どこへ行くにも俺を頼ってついてくる。それはそれで、俺には心地いい。
 そんな魚心と水心で、うまくいってる。
 人目に触れたら、守りきれるかわからへん。みんなお前を見たいやろ。こんなに綺麗なんやから。
「帰ろうか、続きは家で描けばええから」
 そうしよ、帰ろうか、ふたりの愛の巣へって、亨はちょっと機嫌直して、そう言うてた。
 ストロボを、亨がぜんぜん気にしてへんところを見ると、祇園に春の怪談を作ることに決めてるようやった。舞妓さん撮ったのに、なんも写ってませんでしたって、そんな話がちらほら出るやろ。でも、そのほうがええわ。俺には都合がいい。
 それにどうせ、ニセ舞妓やしな。ほんまもんの舞妓さんやないねん。こいつ男やしな、人間ですらないねん。どうせ撮るなら赤塀の中におる、ほんまもんの舞妓さんのほうにしてくれ。そっちはそっちで、綺麗なんやから。
 俺はさっさと退散するため、川端通りを丁度良く流してきてくれたタクシーを止めた。車で行けば出町まで、あっという間や。そしたら誰の目も気兼ねなく、亨と抱き合える。
 そう思って気が緩んだんか、腕をとってくる亨に、俺はうっかりそれを許した。
 それはまずかったんや。俺に触ってる時には、亨は選択の余地なく写真に写るらしいねん。
 そこを狙ったわけではないやろけど、ルール無用の外国人観光客が、ご大層な一眼レフ構えて、タクシーのドアをくぐろうとしてた亨の真ん前に現れて、バシバシと連射した。
 そしてその、髭もじゃで青い目の、バックパック背負った羊のような目の男は、ファンタスティックと亨を褒めた。
 命取りやったな。日本に、あるいは京都に、もしくは舞妓さんにドリーム持って来てたんやったら。
 亨はにこりともせず、髭男のカメラをがしっと掴んだ。白塗りの指でやで。
 そして怒鳴った。
「なに勝手なことしくさっとるんや、ワレ。誰が撮ってええ言うた。鴨川はまって死んでまえ、このド助平のデバガメ野郎が! 国に帰れ! アルパカ顔!」
 そう言うてたらしい。英語やったから、その瞬間には俺にはわからへんかった。そこまでの醜いスラングを理解するほどの英語力が俺になくて良かったな。もしあったら、その夜はドン引きやったかもしれへん。
 そんなん言うたらあかんで。京都は観光で保ってる街なんやから。お客様は神様なんやで、亨。みんなが京都にドリーム持っててくれてるから、この街は成り立ってるんやないか。そんな皆様の夢と妄想が、この街に一種独特の魔力を持たせてる。そういうもんなんやで。
 アルパカ顔て……。確かに似てたけどもや。
 亨はそのまま、ぶんどったカメラを地面に叩きつけて、ぶしゅ、ポカーン、みたいな火花を散らせてた。お前そんな力どこから出したんや。どうやったらできるんやろ、俺にもできるんかな。
 めちゃめちゃ気の毒なアルパカ顔の男を川端にうち捨てて、タクシーは走り出した。そこまでせんでええやろって思うけど、亨はわざわざ窓開けて、そいつに中指立てて見せてた。
 お前はほんまに一瞬にして、祇園が守ってきた美しいものを、完膚無きまでに粉砕した。ニセ舞妓の放つ悪の代表例や。秋尾さんがおらんでよかった。居たら気絶してるかもしれへん。大崎先生とやらも、憤死するかもしれへん。俺はもうこの現実から、目を背けるしかあらへん。
 戻るタクシーの中で、顔を覆って俺は泣いてた。ほんまに泣いてたわけやない。泣きたいくらいの気分やった。運転手さんも、恐ろしく無口やった。たぶん、何も言えることがなかったんやろ。家を知られるのが怖くて、俺は下鴨神社行くから、その近くまでお願いしますって運転手さんに頼んでた。うちはその近所やねん。歩いたほうがましや、地元民やて知られるくらいなら。
「お客さん、京都初めてですか。大阪の方やろか。お連れさん、ようお似合いですね、舞妓はんの格好。英語もぺらぺらやし、美人やし、ええなあ」
 運転手さんは、やっとそれだけ言うてくれた。京都弁やったから、お世辞やろうけど。とりあえず褒めるんが京都の社交辞令や。
 俺はそれに、はいとも、いいえとも微妙なリアクションしか取れなかった。
 京都初めてやないです。地元生まれです。すんません、それなのに、ツレに舞妓コスプレなんかさせて。俺、変態なんです。それに常識もない。まともやないんです。
 もうそういうことで納得するしかないです。だってこんな奴に惚れてるんやもん。
 にこにこしてる亨に手を握られながら、俺はまだ片手で頭抱えてた。それとも顔を隠してたのか。
「どしたん、アキちゃん。頭痛いんか。後で俺といっぱいキスしたら治るで」
 にこにこ言うてる亨が悪魔みたいやった。俺って言うな、男やってバレるやろ。黙ってればわからへんのや、お前は見ようによっては今、女の子に見える。舞妓さんなんやから。そんな都合のいい世間の先入観を、あえて否定するのはやめてくれ。
「まだ絵描くんやったら、描いてもええよ。なんやったら脱ごか。いっぱいハアハアした後やったら、やらせたってもええわ。狐より俺のほうがよっぽど欲しいということを、思い知らせてから、腰抜けるくらい気持ちよくしたる」
「頼むから黙っといてくれへんか、俺に死んでほしくないんやったら」
 タクシーのドア開けて、川端通りで車に轢かれて死のうかと思った。それくらい恥ずかしかった。もう生きてられへん。俺が耐えられる羞恥心の限界を超えてる。
 助けてくれえって、俺が内心叫んだとき、川端通りが今出川通りと交差する、鴨川を渡る橋が視界に入ってきた。ここまで来れば、もう家は目と鼻の先や。
「ここでいいです、降ろしてください」
 料金メーターをはるかに超える札を渡して、俺は運転手さんに頼んだ。黙っといてください、今夜見たのは、夢やねん。祇園から乗ってきた客は、あれは春の魔物みたいなもんで、実在せえへん、夢やってん。おつり要らないから堪忍してください。お願いや、全部忘れてくれって、俺は目で訴えた。訴えただけやなかったかもしれへん。何かしたのかも。
 札を受け取った運転手さんは、ぼやっとドア開けて、俺と亨を降ろしたけど、そのまましばらく停車したままでいた。怒ったようなクラクションが、夜の川端通りに鳴り響いてた。
 それに責められているような気がして、俺は足痛いと甘え声で言う亨を抱きかかえ、必死で走った。軽い時には軽い奴や。亨は抱きしめて走ると、一足ごとに、ふわふわ軽くなって、俺の首に抱きついてた。
「ああ、アキちゃんがこんなんしてくれるなんて、生きててよかった。長生きするもんやなあ。どんなええことあるか、わからへん」
 お婆ちゃんかお前はみたいなことを、亨はうっとり俺に耳打ちしながら抱かれてた。
 その抱きつく振り袖を必死でよけて、エントランスの顔認証をクリアし、俺は自宅に駆け込んだ。逃げ込んだんやで。
 こいつと外を出歩くのは、俺は恥ずかしい。いろいろ難がありすぎる。家に居るのがいちばんや。
 その後、どうなったかというと、それはもう、亨の予言どおりやった。あいつは、やると言ったらやる男。俺はそれに逆らえない、気の弱い男。
 部屋で舞妓さんの半裸絵を描かされて、なんやかんやの我慢プレイや。ほんまに、いろいろと、あっちやこっちの人でなしどもに、好き放題弄ばれる夜やった。それでも、俺は堪えたで。我慢強いから。亨が負けて、我慢できんようになるまで。俺にそれで勝とうというほうが、あいつの誤算やったんや。とにかくそれでも、腰抜けるくらい気持ちよくはなった。
 まあ、あんまり深く追求せんといてくれ。
 今夜は勉強になった。
 舞妓さんの服がどうなってんのかも、よく分かったし、秋尾さんの愚痴が惚気やということも理解できた。祇園の世界も垣間見た。人間界のやなかったけど。
 その経験を踏まえて、俺はちゃんと仕事の絵を描いた。三連作やで。どの絵にするか、結局決められへんかったから、三人まとめてやっとけと、そういう事やねん。
 一枚は大崎先生ご依頼の、秋尾さんの舞妓姿の絵。お酌してる狐。にこにこしてるけど、あだっぽくもある、震いつくような色気のある祇園の花や。
 二枚目は行きずりに見た、水色の目の謎の外人。描いた絵から冷たい水があふれ出てくるような、透明感のある絵になった。我ながらよう描けてたわ。
 三枚目は亨の絵やった。描かへんかったら怒るから。そういうのが俺の言い訳で、本音のところは、また描いてもうたって感じや。何枚描いても飽きへんねん、こいつの絵は。
 それはまあ、絵描きの惚気のろけや。描く度に綺麗で、また描きたい。
 新しい絵の中の亨は、川端で、つんと澄まして座ってた、スネた舞妓の顔やった。柳と桜がぼんやり明るい、夜の京都が背景やった。そこで怒って、そっぽを向いた横顔で、亨は月明かりに浮かび上がっていた。
 可愛い奴やなあって、その絵を塗りながら、俺は思ってた。ほんまになんもしてへんのに、俺がほかの奴の絵描いたくらいで怒って。でもまあええかって、何遍もキスしてやったら機嫌直してた。にこにこしてる時も綺麗やけど、スネてる時もええなって、実はちょっと萌えた。
 オッサンか俺は。
 まあ、そんな絵やから、ほんまもんのオッサンには馬鹿受けやった。
 大学の作業室で、俺が三枚いっぺんに描いてる油絵を、秋尾さんが写真に撮りにきて、なんですかこれはと笑ってた。三人斬りかと。
 ほとんど仕上がってるとはいえ、まだ途中やのに、秋尾さんはまあまあええからと、やんわり俺をたしなめて、絵を写真に撮って帰り、大崎先生にご報告しはったらしい。
 三枚まとめて買い取ると、爺さんは言うてきたけど、俺が売ったのは二枚だけやった。
 秋尾さんの絵は、もともとご依頼の品やから、売るのは当然やったけど、もう一枚の、外人舞妓の絵は、持っててもしょうがない気がして、爺さんにくれてやったわ。無論、タダではないで。こっちも商売なんやから。
 せやけど亨の絵は、もう売らへんかった。売る気はないからって、俺が返事したら、爺さんはめちゃめちゃ怒って地団駄踏んでたらしいで。秋尾さんがそう愚痴ってた。
 まさかと思うが、爺さん、亨を狙ってるんとちゃうか。そういえばあの人もげきやねんから、老いたりといえど、式神欲しさでは、まだまだお盛んなのかもしれへん。危ない話や、警戒しとこ。
 とにかく絵は二枚だけ、大崎先生に引き取られ、お約束どおり、上手に描けてるわということで、会社のエントランスに飾ってもらえることになったらしい。
 でもな。外人だけやった。
 なんで祇園の花を描き留めろという企画もんの絵が、外人のニセ舞妓というオチなのか、それについては深く追求してはならない。爺さん曰く、あの探し求めるような、そして静かに待つような目が、いかにも祇園の舞妓ぶりらしい。
 でも、外人さんやで。それはええのかな。まあええか、爺さんがハマったらしいから。毎日、会長室行くときに、うむっ、て言うてるらしいから。
 それで肝心の、酌する狐の絵のほうは、そのエントランスから、専用キーのいる階までエレベーター上がった先の、会長室に飾られているらしい。いつも眺められる壁に。
 それが果たして誰の絵なんか、俺には今もってわからへん。俺のおかんの登与姫に、良く似た舞妓の絵なんか。それとも酌とる狐の艶姿なのか。どっちのつもりで俺が描いたか、それは実は、油揚げ食うてる人のほうなんやけど、でもそれは、亨やおかんには内緒の話。
 せやから案外爺さんも、狐可愛いて、毎日眺めて、こっそり萌え萌えしてるんとちゃうかな。
 それで何か進展があったか、俺は知らん。
 秋尾さんは相変わらず会う度いつも、丸メガネの中年男で、会う度毎度、愚痴っぽい。重そうな書類鞄抱えて、西へ東へ東奔西走。大崎先生ほんま敵わんわあって、にこにこ愚痴ってる。
 俺はそれには、実はちょっと胸が疼く。なんでか知らんけど。たぶん、なんでか知らんまま生きていく。人様の狐に手を出すなって、それが俺のおかんである、登与姫さまの教えやからな。たまにはイイ子で、おかんの言いつけ守っとこ。
 京都の春やった。短い春や。薫風が甘く香る四月。昔に比べて、恐ろしく早く咲くようになったという満開桜を、俺は亨とあちこち行って花見した。ぼけっと見るだけ。そして、手繋いで歩くだけ。
 京都もええけど、来年は、吉野も行きたいなあって、亨が一年後の話をしてた。それが俺には、ぼんやり幸せやった。お前は来年も俺と居るんやって、そういうふうに思えて。
 つんつんしてる亨の絵は、俺んちの玄関に飾ってある。ドアからは見えへん、ちょっと奥まったとこに。それを眺めて、いつも出かける。亨に怒られへんようにせなあかんなあって、何となく自分を戒めながら。
 そんな自戒が必要という時点で不吉や。悪い子すぎる。
 それでもまだその時には、平和やったんや。
 新学期の始まりやった。俺は四回生になってた。これが最終学年や。課題もあれば、卒業制作もある。新入生の面倒も見なあかん。俺は教授のお気に入りで、何かいうたら駆り出され、本間君、あれやって、これ手伝うてって、甘えられてまう。それでも頼まれたら断れない性分やねん。可哀想やわ、面倒見たろが、俺の悪い癖やからな。
 せやけどまあ、そのお陰で、他の学生より色んな経験積めるんやから、得したと思うとこかって、そういうスタンスではいたんやけどな。
 それがまさか、どえらい事件の幕をあけることになるとは。ついぞ想像だにせず。
 と、まあ、そんな感じで、大阪編に続く。
 そして春の祇園編は、これにてお終い。秘密も隠し事も、なんにもなしやで。包み隠さず全部ゲロった。狐とぼんには、なんもなし。亨が訊いたら、そう言うといて。アキちゃんは、清廉潔白、愛してるのは、お前だけやって。せえへん、せえへん。浮気なんて。亨一筋、ほんまやで。
 それではまた、夏にお会いしましょう。暑い暑い、骨まで蕩けるような夏。芯まで震えてくるような、怖い悲しい犬の遠吠えとともに。それまでどうかお元気で。悪い風邪など、ひかぬように。秋津のぼんが、皆のために、祈っておくわ。

《終わり、そして、大阪編に続く》


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