SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(6)

 キッチンで亨が歌っている声が聞こえてた。鼻歌なんやろけど、異様に上手い。俺はそれを聞くともなく聞きながら、リビングで絵を描いていた。亨の声が、I want to hold your hand.(君と手をつなぎたい)と、ビートルズの古い曲を歌うのに、なんとなく、にやりとしながら。
 亨の英語は、めちゃめちゃ発音がよかった。上手いなと褒めたら、昔ちょっと住んでたことあるからと、亨は困ったように笑い、それだけ言葉少なに答えた。
 たぶんそれには、長い話がくっついてるんやろうけど、俺には話したくないていう事なんやろ。きっとそれは、俺も聞きたくない話なんや。こいつはどうせ、そんなんばっかりや。慣れるしかない。
 そんな、ぼんやりとした嫉妬にとろ火で焼かれつつ描いている絵は、化けモンの絵やった。祇園祭合わせのイベントで、会場のどでかいスクリーンに出すというCGで使う映像の素材で、大学で勝呂や由香ちゃんと作ってたもんや。今も作ってる。
 祭りの山鉾やまほこ囃子はやしに追われて、妖怪どもが祓われる映像を作るということで、やられ役の妖怪を俺が描かなあかん。祭りの時期が迫り、作品は大体できあがってきたんやけど、地味やし妖怪もうちょっと足そかということで、描き足すことになったわけなんや。
 ほんまやったら大学で描くところなんやけど、ちょっと事情が変わった。
 由香ちゃんの死が、京都の事件の皮切りやということで、美大にマスコミがうようよ押し寄せてきよってん。
 犬が人を襲う事件は、その後頻繁に続いた。すでに他で三人死んでるそうや。連続猟奇殺人か、夏の化けモンか言うて、マスコミはそれに祭りのように騒いでる。
 大学側はもちろん取材拒否の構えやったけど、妖怪並みにしつこい連中が、こっそり入り混んだり、時にはヘリを飛ばして空撮までした。
 被害者の女の子と前夜まで一緒やったし、日頃から付き合いがあったということで、俺にも取材を受けろと、うるさいのが付きまとってきた。嫌やて答えたら、今度はそれが盗撮に空撮、マンションの前にもべったり張り付いてて、お前ら変態かみたいな連中や。
 そんなストーカー被害に辟易する俺に、大学は自宅学習なるものを特別に許した。勝呂にも同様や。
 あいつはよっぽど逃げ足が速いんか、いっぺんも写真撮られたことない。どうやって逃げ隠れしてんのか、俺にも教えてほしい。
 某写真雑誌に俺の写真が載ってたいうて、おかんからお叱りの電話がかかってきた。
 アキちゃん、ひとりで大丈夫か、ウチが助けに行ってもよろしおすえと、心配げに話すおかんの口調は、あたかも幼稚園についてこようとする親みたいな甘さで、俺をがっくりさせた。
 大丈夫や、おかん。俺ももう大学生やから、ひとりで学校行けるわて答えたら、おかんにはマジな声で、ほんまに大丈夫やろかって言われた。
 それで多分、おかんが大学に電話の一本もかけたんやろ。それで特別に自宅学習ってわけや。きっとそうなんや。
 大丈夫やないんか、俺は。学校ぐらいひとりで行ける。
 小学生のころ、心配して学校までついてこようとするおかんを振り切って、俺は走って逃げたこともある。恥ずかしいねん。みんな普通にひとりで歩いて学校行ってんねんから、平気やねん。俺だけ学校の行き帰りに変なモンに会ったりせえへんよ。
 しかし今にして思えば、おかんが心配してたのは、俺が人ならぬ変態に遭遇する可能性のことやってん。世の中、変態ばっかりやからな。人も、人でなしも、変なのばっかりやで。
 幸い、今まで俺は無事やった。実はそれは、おかんの加護やったんかもしれへん。亨はこのマンションに、おかんが結界を張っていると言うてたし、俺が京都から出られへんかったんも、おかんの仕業やと決めつけてた。俺が遠くへ行かんように、閉じこめてたんやて言うんや。
 そうかもしれへん。俺が何か悪さした言うて、おかんはよく俺を家の蔵に閉じこめてた。何のことを叱られてんのか、よう分からへんで、俺は蔵ん中でめそめそしとったもんやった。蔵ん中には、なんや変なもんがうようよおって、俺は怖かったんや。
 けどそれも、今にして思えば、別に悪いモンやなかった。あの蔵は、訳の分からん古道具類といっしょに、おかんが自分のしきを棲ませてる場所やったらしい。うちの家に代々憑いてる連中や。
 そいつらは、まあ、一種の化けモンやけども、忠実らしい。せやからあの蔵は、おかんにとって、子供を閉じこめとくにしても、下僕どもが見張ってくれる安全圏やということやった。
 まあ、そんなふうに俺は、妖怪変化に子守されて育った餓鬼やったということや。認めてしまえば、それがいちばん腑に落ちる。俺が餓鬼のころに一緒に遊んでた遊び仲間が、学校の友達には見えてへんかった。それで俺は嘘つきやて、そやなかったら頭がおかしいて言うて、みんな気持ち悪がったもんや。
 見えてても、見えてないふりせなあかんもんが、世の中にはあるて、俺はそういうふうに自分を戒めた。それができへんかったら、世の中に受け入れてもらえへん。学校で友達もできへんし、まさか初デートした彼女に、肩に見えへんカナリア止まってるでって、言うわけにもいかへん。
 せやけど、もしかしたらカナリアは、言うてやったらよかったか。あれはあの子の守護霊なんやで。たぶん昔飼ってたて話してたペットの鳥なんや。そいつが死んでも肩に止まってて、彼女を守ってた。大した助けにはならんやろけど、それでも守ってたんやろ。
 そういうのが見える自分を、いっぺん許してしまうと、これまで見えないお約束やったはずのもんが、不意に見えたりして焦る。今後まともに生きていかれへんのちゃうかと思えてきて。
 疫神てどんなんやろと空想して、それを絵に描いてると、こいつどっかで見たことあんでと、思い出したらあかん記憶が蘇ってきて、なんか気が滅入る。ひとりやったら悶々としてきたやろ。それでも、亨の暢気な鼻歌を聴きながらやと、まあ、こんなんも世間にはおるやろ、それがどないしてんて思えるから不思議や。
 血を吸う化けモンと住んでんねんで。道ばたに疫神が座ってても、そら、そういうこともあるやろ。大した問題やないって、そんなふうに思えた。
「アキちゃん、飯食うか」
 にこにこ顔で、亨がリビングに顔を出した。どうも今回の料理は、うまくいったらしい。
 亨はこのところ、和食を作るのに必死になっていた。
 それを猫から、習ってるんやて言うてる。
 出町柳の駅におった、ブサイク顔の黒猫を拾ってきて、飼うてもええかて頼むんで、別にええけどと俺は許した。亨はその猫をトミ子と名付けて、ときどき訳のわからんことを話しかけたりしてる。
 猫にトミ子て。タマとかクロとか、猫らしい名前がほかにあるやろ。なんでトミ子やねん。
 俺はそう思うけど、でも猫はその名前を気に入ったんか、トミ子て呼ばな無視しよる。顔も見れば見るほどブサイクやし、太ってるし、傷だらけやしで、見た目のいいとこ何にもないんやけど、なんでか俺にもなついてて、膝に乗ってきたりする。ごろごろ甘えられると可愛い気がして、思わず和むんやけど、そうやって膝で撫でてやってたりすると、亨が焼き餅焼いてうるさい。しゃあないから隠れて可愛がるんやけど。なんか、猫と浮気してるみたいで変や。
 そんな猫と、時々ガチのデスマッチをするので忙しい亨は、それでも前ほど焼き餅焼かんようになった。飢えたみたいにガツガツせんようになった。急に恥ずかしなったらしくて、前みたいに、毎晩抱いてくれって迫ってきたりせんようになった。
 せやから時にはこっちから誘わなあかん。それが俺には途方もない試練や。
 なんで俺が亨を口説かなあかんのや。そんなんできへん。それは無理。
 俺が絵描いてるソファの横に、亨が座ってきた。もちろん近い。誘わへんけど、亨はべたべたしたがるようになってきて、意味なくくっつこうとする。
 にこにこ愛想よく、肩をくっつけてくる亨の顔は、嬉しそうやった。
 血吸いたい言うて、すごい目してた夜には、こいつはこの先ずっとこの目のままなんかと思ったけど、亨はその朝にはもう、いつもの顔に戻ってた。そのほうが、生活に支障ないからええんやけど、俺はちょっと残念やった。あの金色の眼、もういっぺん見てみたい。
 けど、亨が言うには、血吸うのはちょっとで腹一杯になるし、腹持ちがええらしい。せやから、時たまでええねんと、亨はもじもじして言っていた。
 何が恥ずかしいんか俺にはよくわからんのやけど、亨とっては血を吸うのは恥ずかしいことらしい。なんでやねんお前、人前でいちゃついたり、どう考えても恥ずかしい変態プレイが平気なお前が、なんで血吸うぐらいのことが恥ずかしいんや。意味わからへん。
 それでも、恥じらってもじもじしてる亨はなんや新鮮で、正直ちょっと可愛かった。
 可愛い。
 なんでそんなふうに思うんやろ。俺のアホ。お前は変態や。亨は男なんやで。男やのに。俺はいったいどうなってもうたんや。あの夜から、もともと好きやった亨が、可愛くてしゃあないような気がして、俺は内心メロメロやった。言うとくけど、あくまでも内心だけやで。
 可愛いなって思えて、抱きしめたかった。今も。隣でにこにこしてる亨を、抱きしめてキスしたい。いっぱいしたい。
 けどな、それやると、ああなって、こうなるやろ。でもまだ昼なんやで。晩飯ちゃうで。亨は昼飯作ってたんや。まだ、ものすごく本格的に昼やねん。むしろ午前中や。人によっては朝なんやで。そんな微妙なブランチ時間帯から、お前を抱きたいなんて言われへん。口が裂けても無理。
 そんな昼間っからムラムラしてる自分が情けななってきて、俺は苦い、悲哀に満ちた表情やったらしい。亨が目をぱちくりさせていた。
「どないしたん、アキちゃん。暗い顔して。悩み事でもあんのか」
「悩み事なんかない。お前こそ、なんでそんなにこにこしてるんや」
 悲哀に満ちたまま、俺は傾いて訊ねた。もちろん亨から離れるためや。それと、絵を描くため。くっつかれると描きにくい。
「なんでって。嬉しいねん。アキちゃんずっと家におるし」
「俺は頭おかしなりそうや。何日も家に閉じこめられて」
 ひたすら妖怪の絵描いて。お前が、アキちゃん抱いてほしいて言うてくるのを、ただ待ってるような感じなのは。
 学校行って、作業進めたい。展示会にはもう間に合わへんのちゃうかという気がしたし、間に合っても、いわくつきの連中が作ったモンなんか使えへんて向こうが断ってくるかもしれへん。けど、それでも作りかけたもんは完成させへんと気のすまん性分なんや、俺は。完成させてやらんと、絵が可哀想な気がして。
 死んだ由香ちゃんも無念やったんちゃうかという気がするし。それに、勝呂にも悪いやろ。あいつはほんまに、頑張っていた。朝早く来て、夜遅くまでいて、週末も休まんと、ずっと作業してたで。せやから俺も先輩として、それを放っといて自分だけ帰ろうっていう気がしなくて、何となく付き合ってたんやけど。
 あいつが作る動く絵が、面白かったのもあったかもしれへん。
 今までパソコンで絵描くっていうても、3Dはやったことなかった。電子的な紙ペラ一枚に描くだけしかやったことない。勝呂は立体物を構築して、それを動かす分野のやつで、モデリングしたのに、俺の絵を貼り付けて、画面の中でそれを動き回らせた。それが単純に、俺には面白かったんや。
 ハマったっていうのかなあ。まあ、とにかく、新鮮やってん。
 にこにこしてる亨の顔が、幸せそうなんを見て、俺は複雑な気分になった。
 新鮮て、何が。何が新鮮やったんやろ。
 亨は勝呂すぐろがあんな奴やったんを見て、ものすごく怒っていた。焼き餅焼いてたらしい。なんで妬く必要があるんやって、俺は思ったけど、でもちょっと、怖くもあった。
 アキちゃん面食いやのに、あいつの顔見て何も思わへんかったんかと、亨はすごい剣幕やった。
 何も、って。何を思うんや。綺麗やなと思ったけど。でも、それだけやで。それだけ。
 綺麗やなと思って、つい顔をじっと見ると、勝呂はいつも真顔で、じっと俺を見た。そして、先輩、俺の顔、綺麗でしょ。けっこう好きでしょ。触っても、ええんですよ、と言った。
 何言うとんねんお前はと、俺は呆れてたけど、たぶんほんまは焦ってたんやないか。なんでこいつは俺に、そんなこと言うんやろ。変やないかと思って。
 そんなん変やろ。普通、そんなことせえへんで。
 由香ちゃんいてくれて、良かったわって、時々そう思った。三人やったら、勝呂は変なことは言わへんかった。言う隙がなかったんや。由香ちゃんがひたすら俺に話しかけてたんで。
 由香ちゃんはお喋りで調子のいい子で、作品仕上がったら三人で飲みにいこうとか、遊びに行きたいとか、もうパソコンの画面なんか一生見たないわとか、そんな話ばかりしていて賑やかやった。彼女の話を、俺は笑って聞いててやれば良かった。それで間がもってたんや。
 勝呂と部屋でふたりきりになると、何話していいかわからへん。それで仕方なく、作ってる作品の話をする。あいつも俺も。
 先輩の描く疫神の絵って、めっちゃリアルやけど、実はほんまに見えるんですかって、勝呂が聞いていた。見えるわけないやんと、俺は答えた。そうですよね、見えるわけないですよね、そんなん見えたら普通やないわって、勝呂は笑って答えた。
 せやけど、もしほんまに見えるんやったら、それはそれで、ええんとちゃいますか。別に俺は、変やと思いませんけど。それは一種の、才能なんちゃうんかな。絵が描けるやつと、描けへんやつが、いるみたいなもんで。
 先輩は絵上手いんやし。ほかにも才能あっても、変やないですよ。少なくとも俺は、変やとは思いませんよ。
 そういう勝呂に、なんて返事すりゃええねん。言葉に詰まるわ。それで、しゃあないから俺は、そうか、作業しよか、って言うねん。そしたら勝呂は、そうですねて言うて、話題を変える。技術的なほうへ。そのほうが俺も返事しやすい。
 どうやって作ってて、どうやって絵を動かしてんのか、勝呂は自分の専門分野をいろいろ教えてくれた。それは俺には凄いと思えたんで、お前は凄いなあて褒めたら、勝呂は、俺やのうてソフトが凄いんですよと謙遜していた。でも嬉しそうやった。可愛い顔に似合わず、日頃けっこう愛想なしやのに、そういうときは照れてんのが、可愛いやつやと思った。
 そのときは、変やとは思わへんかった。だって後輩やし、弟みたいなもんやで。俺はずっと兄弟欲しかったし、餓鬼のころには、おかんに兄弟欲しいてねだって困らせたこともある。
 勝呂はちょうど、そんな感じやってん。弟みたい。亨とは違う。亨を弟みたいやと思ったことはない。
 だって、もしそんなん思ってたら変やろ。弟抱きたいて思う奴いるか。おらへんやろ。そんなん普通やないわ。
 なんかな、途方もなく暗い気分やで、俺は。
 もしかしたら俺は、ほんまに変なんとちゃうかな。そういう血筋なんか。ほんまかどうか、嘘やと思いたいけど、おかんも血のつながった実の兄貴に惚れてたて話してた。それが俺のおとんなんやって。お前は近親相姦の子やて、けろっと言うて、おかんは補足も言い訳も、なんもなしやった。好きやったんやからしゃあないわ、みたいな、地に足の着いた居直りっぷりで話してた。
 それって普通やないで。
 その、実の妹でも平気で抱くような男の血が、俺にも流れてるんやと思うと、時々ぞくっとする。中出ししたんか、おとん。正常な神経やないで、それは。妹孕ませたらどないしよって思わへんかったんか。
 まあ、そんなおとんの異常な神経のおかげで、俺はこの世に生まれてこられたわけやけどな。
 せやけど人知れず呪われた血やで。自覚したくないけど、どうもそのようやで。
 こいつ弟みたいやなと思ってた勝呂が、触ってもええんですよ、って言ったら、正直ぞくっとした。その一瞬でいろいろ想像がついて。
 そんなこと、亨と会う前には想像もつかんかったようなことやろ。
 こいつ、抱いたらどんな顔するんやろって、一瞬思った。勝呂のことを。それが怖かった。
 亨が怒るのも、当然やし。俺が悪い。俺は亨が好きやのに、なんでそんなこと思うんやろ。正直つらい。亨は俺を、支配できるんやって。けど、操られんといてくれって、亨は俺に頼んでた。
 でも俺は、支配してほしい。俺がお前を裏切って、傷つけたりせんように。
 そんなことしたないって思うのに、その一方で、別のことも思う。もう一人二人、おってもええな。多けりゃ多いほうがええな。もっとたくさんしきがいたほうが、ええんやないかって。
 それもたぶん、俺の血やろう。そう思うんやけど、それは言い訳か。自分がそんな不実な男やなんて、思ってもみいへんかった。そんな自分がめちゃくちゃ嫌や。
「アキちゃん、その絵、なんなんや。えげつないつらの奴やなあ。欲深そうで」
 俺が描いてた絵をのぞき込んできて、亨が俺の肩にもたれた。甘えるような仕草やった。亨はあの夜から特に、俺が好きでたまらんらしい。目がとろんとしてた。
「俺の欲まみれの醜い心が絵に出てるんや」
 うんざりして、俺は亨に教えてやった。亨はそれに、くすくす笑った。
「そうかなあ、アキちゃんて、淡泊なほうやん」
「そんなことないで。我慢してるだけや」
 しかめっつらで、俺は亨からじりじり逃げながら白状した。亨に描いてる絵を見られんのが、なんや無性に恥ずかしかった。見んなよ。見ていいって言うてへんやろ。
「我慢してんの? なんで我慢なんかしてんの? したいんか、今も?」
 びっくりした顔して、亨が俺と鼻をつきあわせてきた。俺にはそれに、むっとした。したかったら悪いか。
「したいよ」
 嘘ついてもしあないと思って、俺は正直に答えた。ものすごい不機嫌そうな声やった。
「そんなん、言うてくれたら、いつでもするやん」
「嫌や。お前がしたないのに、やりたくない」
「訳わからんな、アキちゃんて」
 ぽかんと呆れたみたな顔で、亨は感心してた。
 訳わからんか。そうか。そうやろな。お前みたいに、なんの恥も感じんと、やりたい抱いてて言えるやつには。
 俺はな、恥ずかしいんや。お前とやりたい言うのが、死ぬほど恥ずかしい。せやからお前が誘え。今までずっとそうやったやろ。なんで急に、ちょっと血吸ったくらいで、悟りをひらいたんや。お前の無限の煩悩はどこへ消えたんや。俺だけエロエロ地獄においてけぼりか。まさに鬼や。鬼の所行や。
「やらへんの?」
 全然欲情してない顔で、亨はけろりと訊いた。
「やらへん」
「なんで怒ってんの。やるの面倒くさいんやったら、舐めたろか。絵描きたいんやろ?」
 描きながらお前に食われろいうんか。どこまで変態やねん俺は。その想像だけで俺は泣きそうやった。
「やめてくれ。そんなんせんでええねん。おかしいんや、俺は最近ちょっと。前はそうでもなかったのに、なんか今さらアレやねん……」
 ちょうどいい言葉が見あたらんで、俺は眉間に皺寄せて口ごもった。しばらく続きを待ってた亨が、俺が黙ってるのを見つめて、ちょっとしてから話を継いだ。
「色狂い?」
 真顔で言われて、俺はぱくぱくした。
「そ……そこまでやないで」
「そうなんか。ほな好色ぐらいか」
 亨は別に悪気はないみたいやった。俺はますます、青い顔でぱくぱくした。
 それは何となく否定でけへんレベルの適語に思えた。俺って実は、好色なんちゃうの。
「普通やで、それは。アキちゃん。俺が欲しいんやろ。みんなそうなるんや。俺の飲んだやろ。混ざってきてんねんて。それに俺のとりこになりかけ中」
 亨は気まずそうに、俺の目を見てそう言った。俺はますます愕然としてきた。
「な……なんやて。そんなん聞いてへんぞ」
 俺は慌てて訊いた。
「お前並にエロエロになるなんて聞いてへん。それにお前……の、飲ませてたんか。誰にでも」
 俺がワナワナ来ながら訊くと、亨はまずいなあというように、自分の顔を両手で覆って、目を揉んだ。
「いや。誰にでもっていうか……誰にでもやないよ。役に立つやつだけやで」
「俺はお前の役に立つやつか」
 そう言われて、俺は猛烈にムカっときた。やっぱりそうやったんかお前も、っていう気がした。
 俺はな、お前にそれだけは言われたくなかったわ。今までの半年、繰り返し恐れてきた話やったわ。それをこんな話のついでで、けろっと言いやがって。
 中学んときに告られて初めて付き合った女もな、友達から本間くん変な子やで、あんな男のどこがええのんって言われて、えっ、うち別に本気やないんよ、だって本間くん役に立つやんて言うてた。俺は運良くか悪くか、それをもろに聞いてもうたんや。
 俺はな、頭ええから宿題写させてくれるし、それに金持ちのぼんやから、キープしといたらええことありそうな男なんやて。そんな女な、一瞬で振ったわ。友達にからかわれて恥ずかしかったんやって後で泣きつかれたけどな、もう知るか。めちゃめちゃ醒めたわ。
 せやから亨にも醒めるかと思ったけど、全然やった。全然醒めへん。ただ痛いだけ。お前は俺のこと好きやったんちゃうんかって、ただもうひたすら激痛。
「なんで怒ってんの、アキちゃん。怒らんといて」
 哀れっぽい声出して、亨が泣きついてきた。怒るな言うほうが無理やで。それでも、こいつが怒らんといてくれて言うんやからと思って、俺は必死に我慢してた。
「アキちゃんは、好きやからやで。でも俺は、そういうモンらしいねん。血とかアレとか飲むと、ものすごい力付くらしいわ。ただ抱くだけでも運が向いてくるらしいわ。せやから、その……まあ、ええか」
 俺の顔色を見て、亨は青くなって押し黙った。俺はよっぽど怖い顔してるらしかった。
「とにかくな、あんまり飲んだらあかんねん。力付くだけならええねんけど、強すぎて、化けモンみたいになってくんで。しかも俺の下僕やで。そんなん嫌やろ、アキちゃん」
 俺の手を握ってきて、亨は切々と訴えた。
「嫌やけど……。そんならなんで、もっと本気で止めへんかったんや。お前、ほんまは、そうなりゃええのにと思ってんのやろ。そのほうが、都合ええんやろ。俺に焼き餅焼かれてうるさいもんな。他の下僕とも付き合うてやらなあかんのやもんな」
 話の勢いで、俺は日頃思ってたことを口走ってもうたらしい。なんでそんなこと言うたんやろと、後には思うけど、その時は悔しかったんや。現実を直視したくなかった。亨は結局、俺ひとりのもんにはならへん。きっとそうなんや。俺の見てへんところで、他のとも何やかんやある。俺が亨に隠れて、猫撫でてるみたいに。
 どっちもどっちや。自分が後ろ暗いから、そういうふうに思えたんやろ。亨は俺だけが好きなわけやない。そう思ってたほうが無難や。いざという時に、死ぬほど痛い目に遭わされへんように、用心しとかなあかん、て。
「他のって……アキちゃん。まだそんなこと思ってたんか」
 亨はそれがショックやったみたいやで。そういう顔してた。
「俺、アキちゃんと会うてからは、他の誰ともしてへんで。ほんまやで。信じて」
「別に、したかったらしたらええやん。お前はもう、俺とは対等なんやろ。一方的に支配されてるだけやなくて、俺のご主人様なんやろ。好きにすりゃええやん」
「……俺がアキちゃんのしきやから、他のとせえへんのやと思ってたんか」
 亨は真っ青な顔で呆然としてた。どことなく、ぼんやり訊かれ、俺は顔をしかめた。
「そうや。俺が頼んだからやろ」
「違うで、それは。他のなんか、欲しないもん。アキちゃんがいれば、それでええんやで。ほんまにそうやで」
 亨はかすかに、震えてるみたいやった。さっきまで幸せそうやったのに、可哀想やなって、俺は何となく他人事みたいに思った。そしてだんだん、深く沈んできた。もともと沈んでた、自己嫌悪に。もう底の底やて思ってたけど、地獄の底にも井戸は掘れるんやって、そういう感じやな。
「そうか。ごめんな。知らんかったわ……」
「知っといて……ほんまに……知らんで済まんことってあるで」
 ふるふる震えながら真面目に言ってる亨の青い顔に、俺は小声で、そうやなと言って頷いた。
「アキちゃん、なんでそんなふうに思うてたんや。俺、アキちゃんのこと好きやって、ずっと言うてたやん。毎日言ってたで。信じてなかったんか」
「信じてなかったわけやないけど……わからへんねん。お前がなんで、俺が好きなのか」
「理由なんか、要るもんなん? そんなん俺もわからへんよ。わからへんけど……アキちゃんが、俺のこと愛してくれてるからやないか。俺が何者でも、愛してるって、そう思ってくれてるんやろ?」
 違うんか、って、亨は震えながら訊いてきた。
 違わへんよ。俺はそう答えたけど、ものすごい重いため息ついてたわ。
 なんで俺は、こいつを虐めてるんやろ。そんなつもりないけど、なんか虐めてるみたいな気がする。それに俺はすごく萎えてきた。フラフラんなってきた。
 家から出たい。とにかく。もう何日出てないねん。気詰まりで、頭おかしなる。
 そう思って押し黙ってると、猫がにゃあと泣いて、足にすり寄ってきた。いつのまに来たんや、ブサイクのトミ子。
 猫はひらりとソファに飛び乗り、俺の膝に乗った。亨はどえらい暗い目で、それを見下ろしていたけど、いつものように、アキちゃんに慣れ慣れしくすんな、あっちいけとは怒らなかった。
 猫が腹に頭を擦り寄せてくるんで、俺はそれを撫でた。毛並みの良くなってきた黒くて艶のある背を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに背をそらし、ごろごろ喉を鳴らした。
 俺のどん底気分をよそに、猫はくつろいだもんやった。それに俺は、癒された。そしてそれが、何となく後ろめたかった。亨がじっと、恨めしそうに見てたんで。
「なんやねんトミ子……喧嘩もしたらあかんのか。俺のせいやないで。アキちゃんがな、やせ我慢のあげくの欲求不満でイライラしててな、変なことばっか言うからやで」
 猫はぐちぐち言う亨に返事するみたいに、にゃおんと鳴いて、俺の膝で丸くなった。そうやって甘えてくる姿は、超ブサイクでも可愛い。俺が守ったらなって思う。俺はそういうのに弱い。
 それに猫好きやねん。おかんが、猫は深情けやから、下手に飼うたらあかんえて言うて、許してくれへんかったから、飼うたことはないけど、道ばたにいる野良猫とはよく戯れてたで。猫もよく懐いてくれて、ときどき食われるか思うぐらいたかられたわ。
「甘やかしすぎなんとちゃうんか。お前も、おかんも。アキちゃんを。そんなんやから、強い子になられへんのやで」
 恨みがましく、亨は猫に言った。それには猫は、知らん顔してた。そりゃそうやわな、猫やから。話しかけても答えたりせえへんわ。
「まあ、そうやろな。俺は弱い男やで。お前を守ってやりたいんやけど、そんな力無いしな」
「卑屈やで、アキちゃん。そんな卑屈なやつやったんか」
 亨は驚いたように言ってた。
「そうやで。俺はもともとこんな奴やねん。お前が知らんかっただけちゃうか」
 それが結論かと思って、俺はがっくりした。
 俺がお前を愛してるから、お前は俺を愛してんのか。ていうことは、俺のモチベーションしだいか。俺が萎えたら、お前も萎えんのか。なんかこう。しんどい話やで。
 そう思ってくよくよしてたら、唐突に電話が鳴った。携帯電話やった。
 いつもの癖でベルトに下げてたケースから携帯をとり、液晶に浮き出た発信者の名前を見て、俺は一瞬固まった。
 勝呂端希すぐろみずきと表示されていた。
 制作チームを組んだ時に、相互の連絡用にということで、番号は伝えてあった。こっちの電話帳にも、あいつと由香ちゃんの電話番号とメールアドレスが登録されてる。でも、意味のない電話してくんのも、意味のないメール打ってくんのも、由香ちゃんだけで、勝呂が電話してきたのは初めてやった。何しろ毎日顔付き合わせて制作してたんやから、わざわざ連絡せんでも、直に言えば済む話ばっかりやった。
 けど、この一週間、顔見てへん。例の、表現の自由を主張するストーカーたちからの被害による、自宅学習のせいで。
 何か連絡したいんやろ。
 そう思ったけど、なんでか俺は電話に出るかどうか、何コールか迷った。
 そして結局、電話に出た。隣の部屋に行こうかと、ちらっと思ったけど、そんなの変やろと思って、ソファに座ったまま、むすっと拗ねたようなまま、また体をくっつけてきた亨を隣に、ごろごろ気持ち良さそうなブサイク猫を膝に抱いてた。
「もしもし、どうしたんや。何かあったんか」
 電話の向こうは、騒々しかった。屋外から電話してきてるような音やった。
『先輩、今日は暇ですか』
 唐突に愛想もなく、勝呂は訊いてきた。
 その声は電話から割とはっきり漏れていた。俺に体をもたれさせていた亨が、ふと身を固くするのがわかった。そして、耳を澄ますのが。
 亨は地獄耳やった。かすかな音でも、聞こうと思えば、よく聞こえるらしい。せやから隠そうなんて思うだけ無駄や。
「暇と言えば暇やけど、なんでや」
『俺のツレが京都駅でライブやるっていうんで、来たんです。それはもう終わったんやけど、家で作ったデータ持ってきたんで、よかったら京都駅まで来て、見てもらえませんか。がんばれば間に合うと思うんです。苑センせ、なんて言うてはりました? もう使ってもらわれへんのかな、俺らの作ったやつ』
 勝呂は歯切れ良く響く声で、ぺらぺら話した。それが熱心なようで、俺は困った。
「教授はなんも言うてへん。無理なんちゃうかな。それで言いにくうなって、オロオロしてんのやろ、どうせ。あの人のことやからな」
『まあ、そんなとこやろけど』
 笑ってるらしい声で、勝呂は同意した。
『先輩はどうなんですか。もう、どうでもええんですか。俺らと作った作品のことなんて』
 どうでもええかって、どうでも良くはないよ。
 なんとなく、脅迫めいて響く勝呂の質問に、俺はそう答えようと思ったけど、なんとなく押し黙った。
 ハメられてるような気がする。あいつの作戦に。とにかく出かけてこいって、そういう強引さやで。
「行ってもええけどな。でも、うちのマンションには、カメラ構えたストーカーが張り付いてんねんで」
『そんなん、何でもないですよ。撮らせたったらええやないですか。先輩、男前なんやし。雑誌もさぞかしよう売れますわ。社会貢献やと思って』
 冗談なんか、勝呂はけらけら笑いながら、そう言った。なんでかそれに、亨がむっと、眉間に皺を寄せた。
『それに俺の勘やけど、先輩。ストーカーは今は留守ですよ。また死体が出たんやって。そっちに行ってるんとちゃいますか。せやから、出かけるんやったら、今がチャンス』
「行ったらあかんで、アキちゃん」
 携帯持ってる手をぐいっと引いて、亨は俺に返事させへんかった。
 まだ妬いてんのかと思って、亨の顔を見たら、そういうふうでなく、亨は真剣そのものやった。
「死人が出たいうことは、人食うてきたばっかりなんやで。力つけてる。行ったらあかん」
「なんの話やねん、亨」
「あいつが犬やねん」
 ものすごい葛藤があるような、力のない口調で、亨は俺に教えてきた。言いたいけど、なんかに邪魔されてて言われへんというような、苦しそうな顔を、亨はしてた。
「アキちゃん、行ったら嫌や。行かんといて」
「心配すんなて言うてるやん。お前ちょっと、しつこいで」
 俺はイライラしてきて、ひそめた小声で、亨を叱りつけた。それに亨は、すごく困った顔をした。
「どうしても行くんやったら、俺もつれていって」
 なんやねんそれ。見張ろうみたいな話か。別にええよ、見張りたいなら見張っても。絵の話しにいくだけなんやから。
 それに俺は、外に出たい。家の外に。その口実ができて、内心すごく乗り気やった。家から出られるんやったら、行き先なんかどこでも良かった。
「俺のツレも一緒やけど、それでもええか」
 携帯を握った自分の腕を亨から取り返して、俺は黙って待ってたらしい勝呂に訊ねた。
『いいですよ、それで。ほんまは嫌やけど』
 皮肉たっぷりの笑い声で、勝呂は答えてきた。それに何て答えるか、俺は迷って、結局何もコメントしなかった。
「車で行くし、三十分ちょいかな。どこにおるんや、お前」
『大階段のどこかにいてますわ。探してください』
 ほな待ってますんで。そう結んで、勝呂は電話を切った。
 大階段ていうのは、京都駅の駅ビルにある、一階から屋上十一階までぶっ通しの、ものすごい大斜面みたいな階段や。なんでこんなもんあるやという謎なもんが多い京都駅の名物の一つで、定期的に、その大階段を上まで駆けあがるレースまで開催されてる。普段は、カップルやら暇なやつらが座ってだらだらする場所や。
 ただし、夏暑く、冬寒い。建物の中のようやけど、京都駅はでっかい風洞みたいな設計になってて、大階段は実は屋外やねん。せやから京都の厳しい寒暖をまともに受ける環境なんやけど、それでも人が吹きだまる。なんかあるんかな、あそこには。
「行くんか、アキちゃん。飯どうすんの。せっかく作ったのに」
「置いといて晩食えばええよ。お前も来るんやろ。勝呂と三人で駅で食おう」
 亨はものすごく嫌そうな顔やった。嫌なんやろな、たぶん。嫌なんやったら、来んかったらええやんて思ったけど、言ったらえらいことになりそうな予感がしたんで、言わなかった。
 立ち上がろうとすると、膝にいた猫が、にゃおんと名残惜しそうに鳴いた。
「ごめんな、トミ子。お前も連れてってやりたいけど、居るとこないからな。留守番しといてくれ」
 赤い首輪をした猫の首を撫でて、俺が詫び入れてると、亨がソファでうなだれて、くっ、と、悔しそうに呻いた。
「そんなん俺が留守番してた時にはいっぺんも言うてくれへんかった」
 亨は本気で悔しいらしかった。俺は内心ちょっと引いた。
「そらそうやろ……猫可愛がりってやつやで。お前は一応人型やろ。そんなん言うてたら気持ち悪いやん」
「俺は気持ちええけどな。猫型やったら言うてくれるんか」
「猫型て……ドラえもんか、お前は」
 俺が思わずつっこむと、亨はよっぽど悲しかったんか、めそめそ言うてた。
 それでも、置いてかれるんが嫌やったんか、車で出かける俺におとなしくついてきた。
 家出たとたんにストロボ攻撃かと思って、内心身構えてたけど、勝呂の勘が当たったんか、ガレージからの出口には、ストーカーはおらへんかった。エントランスのほうにいたんかもしれへんけど、とにかく車は何事もなく街に出た。
 俺はそれに、ものすごく清々した。
 閉じこめられんのはな、もう沢山やねん。
 悪い子やから蔵に居り、とかな、京都から出るなとか、そんなんばっかりなんやで、俺の一生は。ほんまにもう、放っといてほしいねん。俺ももう大人なんやから。
 そう思って、多少気分も上向きになりつつ運転してたら、亨の電話が鳴った。コンチキチンと、いかにもな祇園囃子の着メロが鳴って、俺はがっくり来た。
 それは亨が、おかんからの電話に割り当ててる専用の音やった。亨が前にふざけて色んな着メロ入れてんの見たわ。でも、鳴ってるのは初めて聞いた。
 おかんや、なんやろ言うて、亨は携帯を引っ張りだし、電話に出た。
「もしもし。え、なに? 出かけてるよ。出かけたらあかんのかい。家に居らんでも俺の勝手やんか。アキちゃんも一緒や。一人でほっといたりせえへんよ。一緒です」
 伏し目になって、うるさそうに亨は答えていた。電話の向こうで、おかんが何て言うてんのか、俺には聞こえへんかった。それでも何か、むっとした。
 おかんはこいつを、俺の監視役に使ってるんやないやろか。何かそういう雰囲気したで。俺のしきや言うて、お前はほんまは、おかんに仕えてるんとちがうか。
「京都駅行くねん。大丈夫やないよ。超ヤバやで、おかん。ワンワンとデートやで。俺はお邪魔虫らしいで。ほんまにもう泣きそうなんやで。知らんてそんな。愚痴ぐらい聞いてえな」
 くよくよ情けないような口調で、亨は俺なんかいないみたいに、おかんと話してた。
「えっ。なに。マジで? やったー! 電話してきたんか、守屋のおっさん! うんうん、待ってた、めちゃめちゃ待ってたで」
 亨は突然、上機嫌になって、俺の耳に電話をぐいぐい押しつけてきた。危ないやんか、やめろ。運転中に電話したらあかんのやで。
「アキちゃん、お仕事どすえ。守屋刑事、とうとう泣きついてきたらしいわ。じゃんじゃん人死ぬ、犯人見つからん言うて、おかんに電話してきたらしい」
 せやから、おかんと話せと俺を説得する口調で、亨は言った。お前、おかんの口まねすんの、やめろ。
 もしもし、アキちゃんか、これもう切れてんのやろかと、電話がおかんの声で話した。横でまいちゃんが、奥様そんなことおへんえ、ちゃんと繋がってますえと、励ましているような声がした。
『アキちゃん、刑事さんがな、人食い犬なんとかしてくれ言わはって、お祓い依頼してきはったんや。うちがやってもええのやけど、せっかくの機会やからな、あんたがやったらどうやろか。縁のある事件なんやし』
 おかんも諭す口調で、俺に話してきた。なんやねん、みんなして説得口調か。
 縁がある言われたら、確かに縁はある。由香ちゃんのかたきやし、俺もそいつのせいで、一部報道ではもろに殺人鬼呼ばわりされてんのや。それに、すでに何人も殺してるやつやで。放っとかれへん。
「せやけどな、おかん。その犬はどこにおんねん。ほんまもんの犬と違うんか。俺は野良犬退治のノウハウなんか知らんで」
『犬はもう見つけてあるて、亨ちゃん言うてましたえ』
 おかんに言われて、俺は顔をしかめた。亨はおかんにまで、そんな話してたんか。
 勝呂が犬やって。
 そんなん、とんだ妄想やで。あいつはれっきとした人間やろ。大学に在籍してて、大阪の実家から通うてんねんで。親もおんねん。作業が詰まってきて遅くなるときには、おかん晩飯いらんでって、わざわざ電話しとったわ。それも全部、偽装やっていうんか。
「勝呂は違うと俺は思うで、おかん。なにを根拠にそんなこと言うんや。亨はな、焼き餅焼いとんねん」
 俺は気まずく照れながら、おかんにその話をした。なんで親にこんな話せなあかんねん。
『そら仕方あらしまへん。しきは焼き餅焼くもんどす。みんな自分を使うてもらいたいんやから。せやけど嘘はつきまへんえ。あんたがしっかり捕まえてるんやったらやけど』
 挑戦的に言われ、俺は正直むっとした。そんなん、どうやったらわかるねん。俺がこいつを捕まえてるかどうか。
『亨ちゃんに見えるもんが、あんたには見えへんのか。まだ目も開かへんような赤ちゃんなんやろか。秋津の跡取りが二十一にもなって、そんなことでは困るえ』
 畜生、またそれを言うか。俺は跡取るやなんて言うてへんで。一人息子やから、自動的に跡取らされるのか。今さらそんなん言うんやったら、もっと早期に俺にしかるべき教育をほどこしといてくれ。この激しい手遅れ感を、どないせえいうんや。
「とにかく、もう切るで。運転中やねん」
『行くんやったら行ったらよろしおす。せやけど亨ちゃんを傍から離したらあきまへんえ』
 亨が耳に押しつけてた携帯を振り払う間際に、そんなこと言うてるおかんの声が聞こえてた。
 勘弁してくれ。亨は俺の子守妖怪とちゃうねんで。こいつに守ってもらえみたいな、情けない話せんといてくれ。
「俺を傍から離したらあかんのやって。おかん、ええこと言うてたなあ」
 亨が電話を切りながら、しみじみとそう言うた。
「お前、いつからおかんとグルやねん……」
「グルやない。利害が一致してるだけや」
 亨はしれっと答えた。どういう利害や。訊きたいけど、聞くのは怖い。なんやそんな気がして、俺は黙ってた。
 車もちょうど、京都駅に着くところやった。
 白い、でっかい和ローソクみたいな京都タワーが、見上げる近さで現れる。京都駅の駅ビルは、その麓にある、異様に横長の、暗い灰色をした建物や。その中に、JRの駅と、伊勢丹デパートと、ホテルが格納されてる。新幹線に、関西空港に行く特急に、日本海側まで走る特急、奈良や神戸、滋賀に行く在来の路線が、ずらりと並ぶ長大なプラットホームに乗り入れ、もちろんここから大阪へも行ける。遠くへ行く駅や。そういうイメージがある。
 地元、京都の人間には、繁華街といえば四条河原町で、京都駅はそこから遠い。大阪行くにも、電車なら河原町から阪急か京阪。そのほうが便利やし、京都駅は観光客が来るところ。そういう感じがして、俺は滅多に来ない。
 この、いかにも、おいでやす京都って感じのする、京都タワーが嫌いなんや、俺は。いや、ほんま言うたら、新幹線が嫌いや。昔、小学生んときに、修学旅行で乗る新幹線を原因不明の機関トラブルで止めて以来、この駅は俺の鬼門なんや。トラウマやねん。
 それでも用事あったりして来ることはあるけどな、毎度、ろくなことないで。相性悪いんや。
 でもそれは、もしかすると、おかんのせいやないかという気が、俺にはしていた。俺が京都から脱走せんように、おかんが俺をこの駅から遠ざけてる。そういう読みや。
 せやけど今回は亨も居るし、何ともないやろ。今まで私鉄やら車やらで行く限り、亨が一緒やったら何事もなかった。あっけないほどやったで。それに今回は電車乗るわけやない。ここが目的地なんやしな。
 俺は駅ビルのはす向かいにある駐車場に車を停めて、いかにも渋々な亨を引き連れ、勝呂と約束した待ち合わせ場所の大階段に向かった。駅ビルの巨大な風洞を吹き抜ける風は、夏の熱風やった。
 勝呂は、探さへんでも、割とすぐに見つかった。
 大階段にはその日も、暇そうにいちゃつくカップルやら、何人かの友達どうしらしい群れが座っていたけど、ひとりで座ってるのは勝呂だけやった。遠目にも分かる見た目の良さで、勝呂はぽつんと遠巻きにされて、ビルの最上階まで続く階段の、かなり上のほうにいた。
 何もそこまで歩いて上がる必要はない。隣にエスカレーターがあるねん。
 幾つもそれを乗り継いで、俺と亨は勝呂がぼけっと座ってるところまで行った。
 勝呂は自分の膝の上に、ノートパソコンを開いてた。どうもまだ何か、作業してたらしかった。
 熱心というか、こいつは一種のオタクなんやで。紙に絵描いてるところを見たことない。美大の入試に通ったんやから、普通の絵もちゃんと描けるんやろけど、勝呂には紙と鉛筆よりは、パソコンでモデリングするほうがラクらしいねん。それが俺には、つくづく不思議やった。
「勝呂、来たで」
 気づいてへんようやったんで、俺は座ってる勝呂の隣に立って、頭の上から声をかけた。勝呂はびくっとして、俺を見上げた。
「何や、先輩か。すみません、ぼけっとしてました」
 パソコンを閉じて立ち上がる勝呂の顔色は悪かった。暑いせいか、額にじっとり汗かいて、そこに明るい色の長めの髪がはりついていた。
 暑いんやったら、クーラー効いてるところで待ってりゃええのにと言うと、勝呂は、いや暑くはないです、寒いんですと答えた。風邪でもひいたんか、寒気がするって。
「さっさと帰ったほうがええんとちゃうか」
「いや、平気です。せっかく来てもらったんで。屋上行ってもいいですか。ここ、人多いし」
 長い睫毛の重そうな目で、勝呂はちらりと亨のほうを見た。
「しばらく、遠慮してもらえませんか。気が散るんで」
 お前は去れというのがあからさまな勝呂の口調に、亨はむっとしていた。
 確かにその時の勝呂は、凍えそうに寒かった。
 それとじっと向き合って、こいつは何か、決着をつけにきたんやと、俺は感じてた。言いたいことがあるという目で、勝呂は俺の目を見ていたし、誰がいようが、それを言う。亨でも。不都合やったら、よそへやっといたほうがええんやないかと、そんな警告みたいに見えた。
 俺はそれに、怖じ気づいたんやと思う。勝呂がなんの話をするつもりか、何となく察して。
「亨。悪いけど、途中の階にコーヒー売ってたやろ。冷たいの、買うてきてくれ」
 振り返らずに俺が背後に頼むと、亨はびくりとしたようやった。
「あかんで、アキちゃん。何言うてんの。一緒に居らせて」
「行ってきてくれ。屋上に居るから」
 振り返って、俺は頼んだ。せやけどそれは、命令やった。
 亨は険しい青い顔して、しばらく唖然としてた。それでも俺に逆らいはせえへんかった。
 俺はその時はまだ、気づいてへんかった。亨が俺の命令に、逆らえないんやということに。
 しばらく震えたように押し黙り、亨はやがて、物も言わずにくるりと向き直って、大階段を降りていった。
 屋上までは、すぐそこやった。
 最後に残る幾つかの階段を上がり、俺は勝呂と、誰もいない蒸し暑い屋上の炎天下に出た。そこは、ほんのちょっと居るだけで、暑いなと喉の喘ぐような場所やった。
 何の飾り気もない灰色のコンクリート敷きに、ところどころベンチがあり、京都の盆地がぐるりと見渡せた。その手近なベンチを選んで、勝呂は俺をそこに座らせ、電源が入ったままやったノートパソコンで、今朝仕上げてきたという、架空の祇園祭のムービーを見せた。
 大して長い映像やない。四条通を河原町通りに向けてやってくる色鮮やかな山鉾の背景には、灰色一色に落ちた、簡単にデフォルメされた街並みがあり、おなじみの祇園囃子が鳴り響く。鉾が進むと、街にはびこる疫神が、追われるように逃げまどう。幻想的なような、ユーモラスなような、毎年の祭りの光景や。
 ただ、普通なら祓われる疫神は目に見えないというだけで。
 せやけど、見る目があれば、それは見えるんかもしれへん。追い祓われていく疫神が。
 もともと祇園祭は、京都の街を疫病や災害から守るための祭礼で、疫神はほんまに追われていなければならんはずなんや。破魔の効用のある囃子と、潔斎して神のものとなった稚児を押し立てて、鉾は街の辻辻を浄めて回る。今では無数の観光客が押し寄せて、ただのパレードみたいになった祭りやけど、本来そういう姿のもんや。
 今でも先頭を行く長刀鉾には、生きた本物の稚児が乗って、稚児舞いを舞う。
 それを俺にもやれと、適した年頃のときに、人づてにそんな話があった。おかんはそれを丁重に断っていた。アキちゃんは力がありすぎる。それに、潔斎しても落とせない穢れがある。向きまへん、人前で舞うのには。
 おかんは自分も舞いで身を立て、弟子までとるような人やのに、俺には踊れと言うたことがない。不思議やけど、人に言われて踊るんでは、意味あらしまへんというのが、おかんの主義やった。自然に手足が動く。自然に絵筆が走る。そういうもんでないと、なんの力もない。
 アキちゃんは絵が上手やなあ。それに絵が好きなんやから。それが天地あめつちがアキちゃんにお与えになった力ということどすえ。大事にしなあきまへん。畏れなあきまへん。あんたの描く絵には、ただごとでない力がありますえ。
 おかんは親馬鹿で、俺の絵を褒めてるんやと思ってた。でもほんまに、それだけやったやろか。
 勝呂が開いて見せた画面の中にうろつく、自分が描いた疫神の絵を見て、俺は思った。疫神は病気を運ぶ物の怪や。そんなモンの絵を、山ほど描いたりして、ほんまによかったんか。
「もうほとんどできてます。このままでも、人に見せられんことはない」
 ベンチに座って、俺と同じ画面を見つめながら、勝呂は険しい顔で冷や汗をかいていた。
「先輩。これが完成したら、言おうと思ってたことがあります。でも、この作品は、もう完成せえへんのとちゃうやろか。由香ちゃんも死んだし、こんなことになって、先輩ももう、これが出来上がらんでも、別にどうでもええって思ってはるんかもしれへん」
 思ってないよ。完成させたい。せやけど、これは、完成したのを大勢の人に見せるようなもんとは、違うんやないやろか。そんなふうな予感が、俺にはするんや。普通の人には見えへんもんを、絵にして見せようやなんて、それは悪いことなんやないか。疫神なんて、そんなもんおらへんて、皆が信じてる時代なんやから。
「先輩、俺、先輩のこと好きです。ずっと好きでした。俺のこと、好きですか」
 小声で訊ねてくる勝呂は、ものすごく苦しそうやった。炎天の熱で、俺はくらりと来た。
 そんなもん、あるわけないと信じて、見んようにしてるもんが、俺の世界には沢山あり過ぎる。
 変やろ、それは。お前が俺を好きで、俺もお前を好きやて言うたら、それは、まずいやろ。お前は俺の後輩で、可愛い奴やけど、俺には亨がおるし、お前は男やし、そんなわけないやろ。お前は、由香ちゃんが好きなんや。そうに違いない。だって由香ちゃんが俺と二人でいい雰囲気になろうとすると、お前は必ず邪魔をした。それは俺が好きやからやない。由香ちゃんが好きやからやろ。そのほうが、普通やで、勝呂。そのほうが自然なんや。きっとみんな、そう言うで。
「なんで、黙ってるんですか、いつも。好きやないなら、好きやないって、言うてくれてええんですよ。そしたら俺も、諦めるのに。何で黙るんですか」
「お前のことは、嫌いやない。好きや」
 俺がぼけっと、そう答えると、勝呂は小さく呻いたようやった。苦しいんか、切ないんか、よう分からんような声やった。たぶん両方なんやろ。
「ほんなら、何があかんのですか」
 目眩でもすんのか、勝呂は片手で目元を覆っていた。
「俺、見ました。あの人が作業室に来た時、先輩に抱いてもろて、キスしてたんを。許せへん。なんでや。俺も先輩とずっとあの部屋に居ました。何日も何ヶ月も、ずっとや。俺も抱いて欲しい……」
 そこまで言って、勝呂は感極まったみたいに、言葉に詰まった。そして、目を覆ってた手を口元へやって、ベンチの上にある俺の手を、じっと食い入るように見下ろしてきた。それを掴みたいという、そんな目やった。
 けど勝呂は俺に触ったことはない。一回だけしか。
 お前はどうやって絵を動かしてるんやて、俺が興味が湧いて聞いたら、勝呂はいつもの作業室で俺にパソコンのソフトを試させた。マウスを握ってる俺の手に、勝呂が手を重ねてきた。その指が冷たいような、熱いような、不思議な体温で、微かに震えてたのを、俺は感じて、どうすりゃええんやと思った。けど、そのときはまだ、由香ちゃんが生きてた。作業室に戻ってきた由香ちゃんの声で、全部うやむやになったんや。
 それから俺は、ずっと気をつけてた。こいつが俺に、触れへんように。俺がこいつに、触れへんように。
「先輩、俺は、あの人みたいに、我が儘言いません。なんでも言うことききます。別れてくれなんて言いません。ただ、ちょっとでええから、俺にも、触って。俺も先輩と、抱き合ってキスしたい。俺のこと、瑞希って呼んでください。いっぺんだけでも、ええねん。お願いやから」
 勝呂は喉が渇いてるみたいやった。酷暑に灼かれて枯れたような声やった。
 亨は今どこに居るやろと、俺は考えてた。早くコーヒー買って戻ってきてくれ。アイスコーヒー。あいつ、ちゃんと勝呂の分も、買うてきてやってくれるかな。喉渇いてるらしい。苦しいて言うてるで。俺はこいつが、可哀想や。目の前で苦しいて言われると、可哀想になる。
「それは、無理やわ、勝呂。そんなん、変やろ。お前は俺の後輩で、俺には亨が居るわ」
「あの人のどこが、俺よりいいんですか。先輩のこと何も知らんやないか」
 縋り付くような目で俺を見て、勝呂は亨を非難していた。
「そうかもしれへん。そうやけどな……」
 勝呂の言うとおりかもしれへんけど、俺はずっと逃げてきた。勝呂がこの話をするのから。それにはいつも理由があった。勝呂が男やからやないわ。そんなん今さら大した問題やないよな。
「俺は亨が好きなんや。あいつを傷つけたくないねん」
 口に出してみると、ものすごく単純な話やった。それでもこの話を勝呂にしたくなくて、俺は逃げ回ってた。お前のことも、傷つけたくなかってん。つらいっていう、今このときみたいな顔を、させたくなかった。
「先輩……嫌いやて、言うてはったやないですか」
 震えてるような声で、勝呂が問いただしてきた。押し殺した悲鳴みたいやった。
「嫌いて、なにがや」
「蛇嫌いて言うてました。鱗系はあかん、気持ち悪い、せやから竜も描かへんて」
 CGの山鉾に着せる、綴れ織りの文様の話やろ。勝呂がしてるのは。
 確かにそんな話した。俺は蛇は苦手やねん。鱗が怖くて。竜も嫌や。描いたらあかんねん。おかんに怒られる。川が乱れるからて言うて、悪い子やって、また蔵に閉じこめられる。俺は自分の力を、自分で抑えられへんねん。せやから描いたらあかん。想像するのもあかんねん。
「それと亨と、何の関係があるんや」
「何のって……あの人、蛇やないですか。知らへんのか、先輩」
 知らん。亨はそんなこと、一言も言うてへんかった。
「ほな、それ知ったらもう、抱かれへんでしょ、気持ち悪うて。どこがええんや、あんなやつの。俺よりちょっと先に、先輩と会っただけや。俺でも代わりやれます。俺かて先輩のこと好きや……ずっと好きやった、分かってください。俺のこと、無視せんといて……俺も見てほしい、先輩、お願いです、お願いや、俺のこと好きやって言うてくれ」
 勝呂の手が、迷いもなくノートパソコンを払いのけるのを、俺はぼけっと見ていた。ノート機はあっけなくコンクリートの床に落ちていった。壊れるで、勝呂。精密機械やねんから。気にならへんのか、お前は。パソコン壊れても、由香ちゃん壊れても、それでええのか。邪魔やからやっただけやって言うんか。
 勝呂は俺の胸ぐらを掴んで、凄い力で引き寄せた。そのまま首に抱きついてきた腕が、物凄く強引で、それでも怯えてる犬みたいに、がたがた震えてた。
 胸に飛び込んできて、両手で俺の頬を引き寄せる勝呂は、それでも待ってた。こいつは俺にキスしたいんやなくて、されたいんや。抱いてくれ、撫でてくれって、健気にずっと待ってる。ほんまに、犬みたいなやつ。俺は気づきたくない。それを、信じたくない。
「お前が由香ちゃん食うたんか。なんでや、勝呂。友達やったんとちがうんか」
「友達やないです。あの女、俺が先輩のこと好きやって、知ってたんやで。せやのにずっと、俺に先輩のこと好きやって、どうやって告白しよかなって、相談してたんや。ひどいわ。あんな女、死んだらええんです。でも、先輩、信じてください、殺すつもりやなかってん。でも、俺……おかしいんや、病気なんです。苦しいよ……助けて……」
 キスしてくれって、ねだる唇で、勝呂は頬を擦り寄せてきた。不安なんやろ、こいつは。ほんまに病気なんやろ。苦しそうな息してる。冷や汗かいて、がたがた震えてる。俺もお前を、らくにしてやりたい。せやけど、その方法を、知らへんのや。
 お前はなんで、病気になったんや。なんでや。いつから病気になったんや。俺が描いた疫神の絵を、毎日眺めてきたせいか。
「先輩、好きや。好きです……俺のこと、抱いて、キスして。そしたらもう、死んでもええねん。このまま、死ぬのはいやや」
 全身でかき口説いてくる勝呂を突き放すのは、可哀想すぎてできへんかった。なんで俺は、こいつにキスぐらいしてやれへんのやろ。可哀想や。たとえ人食うた犬でも、こいつのせいやない、俺のせいや。お前がおかしなったんは、俺のせいなんやろ。
 なんとかならへんのかと思って、俺は勝呂の頬に手を触れた。その時俺は、勝呂にキスするつもりやったんかもしれへんな。勝呂はそれも可哀想なくらい、期待と嬉しさに満ちたため息ついてた。薄く開かれた、待ってる唇に指で触れると、乾いていて熱かった。
 でも、結局それまでやった。
 亨が叫んでる声が、突き刺さってくるような鋭さで聞こえた。
「あかんで、アキちゃん。そいつは病気の犬やで。キスしたらうつる。アキちゃんを連れてくつもりなんやで!」
 絶叫するようなその声に教えられて、そうやったと、俺は思い出した。
 狂犬病って、唾液からうつるんや。噛まれたらうつる。もしもその時、俺がもうちょっと早く思い切ってたら、勝呂は俺と、噛みつくようなキスをしたんかもしれへん。
 うつむいて、唸る勝呂の声は、人間とは思われへん暗い凶暴さやった。
 その時、勝呂のちょっと可愛いような顔が、どんなふうになってたんか、俺には見えなかった。見ないようにしたんかもしれへん。
 勝呂は俺を振り捨てて走った。亨のほうへ。
 その光景に蒼白になりながら、俺は納得した。勝呂は人間やない。人じゃない何かや。
 逃げろと、俺は亨に言うたかもしれへん。とっさのことで、よく憶えてない。
 亨は葛藤して、そして、逃げようとした。俺が逃げろって、叫んだからやろ。そんなこと、言わんかったらよかった。何もかも全部、俺のせいなんや。
 勝呂が狂ったのも、由香ちゃんが死んだのも。
 そして、亨がこのとき勝呂に勝てへんかったのも。
 勝呂は逃げるべきか迷う亨の胸ぐらを掴んだ。仰け反った亨の白い喉笛に、勝呂が食らいつくのが見えた。その次の瞬間には、信じられんぐらいの真っ赤な鮮血が吹き出して、亨はよろめいていた。
 勝呂はそれだけでは満足がいかなかったらしい。喉に食らいついたまま、亨を引きずっていって、京都タワーの見える、屋上の端のガラスの壁に、血の壁画を描くみたいに、頽れた亨の体を滅茶苦茶に叩きつけた。
 俺はそこに、駆け寄ってたんやろう。
 亨が俺を見てる目と、俺は一瞬見つめ合った。
 アキちゃんと、亨が呼んだような気がした。それは音のある声やなかったかもしれへん。
 アキちゃんと、亨は二度、俺を呼んだ。助けを求めてるわけでも、恨んでるようでもなかった。ただ俺の名前を呼びたくて、呼んだんやと思えた。
 亨、と、俺はそれに答えた。一度だけ、やっと、声にはならん声で。
 亨の体は、まるで本当にはないもののように、ひびひとつ入れずに、分厚いガラス壁をすり抜けた。
 落ちる。
 それを俺は、血まみれの壁に張り付いて見た。亨が落ちていくのを。十一階分の高さを。
 一瞬やった。何かが激しく衝突するような音が、下から聞こえた。俺が声に出して、亨の名を呼んだのは、その音を聞いた後になったからやった。
 自分の絶叫する声の残響を、俺はガラスにもたれて、へたりそうになりながら聞いていた。
「憎たらしい蛇や……」
 人ではないものの声で、勝呂が呻いていた。
 俺は顔をしかめて、その声がしたほうを振り向いた。
 勝呂はいちおう、二本の足で立っていた。せやけど、その姿はけだものやった。お前は醜いと、俺は思った。醜い狂った獣やで。俺はもう、お前が好きやない。お前が憎い。この災いを防げなかった自分が、心底、はらわたの煮えくりかえるくらい憎いわ。
「勝呂」
 呼びかける俺の声は、案外冷たく澄んでいた。
「すまんけど、ひとりで死ね」
 はあはあと、狂犬は病的な熱い息を繰り返していた。
「俺は、亨と死ぬから」
「いやや。俺と死んでくれ」
 熱く媚びるような声やった。突進してくる、でかい犬のようなものを、俺は目を逸らさず見つめていた。
 俺はお前が許せへん。可哀想やけど、許せへんわ。
 そう思って、苦しさと虚しさのあまり、目を閉じた俺は、頭の中で一枚の絵を、破り捨てたようやった。
 俺を食おうとしていたけだものは、俺に触れるより早く、撲たれた犬のように、悲しく、激しくいた。
 しかし撃ち漏らしたという実感があった。
 犬は俺を通りぬけ、ガラス壁をすり抜けて、真夏の京都の炎天に駆け上がっていった。そして見えなくなった。死んだわけやない。手応えはあったような気がしたけど、仕留めてはいない。
 自分がどんな力を振るって、なにを感じたんか、夢中すぎて俺は良く分かってなかった。
 気がつくと、京都駅の大階段を、必死で駆け下りていた。なんで走って降りたんやろうなあ。人間て、必死になってると、何するかわからへんもんや。エスカレーターもあるし、エレベーターかてあるんやで。
 それでも階段を駆け下りる俺は、まるで風のようやったらしい。なんや、よう分からんもんが、大階段を物凄い速さで吹き降りてきたと、その場にいた人々は、後から証言したらしい。
 俺は地上に叩きつけられたはずの亨を探してた。
 おびただしい量の血だまりはあった。けどそこに、亨の体はなかった。
 何かでかいもんが、這いずったような、のたうち回る苦しげな血の軌跡だけがあり、それは暗い灰色の駅舎と、隣の建物の隙間へと続いていた。
 それを追って、俺は亨を探しにいった。
 路地裏の闇は、真夏の日射しの鋭さか、夜から切り落とされてきたみたいに、ざっくりと深く、色濃く落ちていた。
 そこにも血だまりはあった。
 血に染まった亨の服だけが落ちていて、その中に、大人の腕ぐらいの太さの、白い蛇が、ぐったりと沈み込んでいた。
 その傷だらけの金色の眼をした蛇を、俺はそれ以上傷つけないように、服に包まれたまま抱き上げた。
「死んだらあかんで、亨。俺が悪かった。死んだらあかん」
 思わず頬ずりして頼むと、蛇の体は冷たく、血で滑っていた。
 アキちゃん、家に帰りたいと、蛇が言ったような気がした。
 家に帰りたい、連れて帰って。そういう蛇に黙って頷いて、俺は車停めてた駐車場まで、そのまま歩いた。大した距離やなかった。せやけど、血まみれの白蛇抱えた血まみれ男は、充分に真夏の怪異やったやろう。
 でも、その時は、そんなことどうでもええわと思った。そう思ってさえいなかったと思う。
 ぐったりした蛇を膝に抱えたまま、俺は運転して出町の家まで帰った。よう事故らへんかったな。どこをどう走ったか、全然憶えてへんわ。
 気がついたら家の寝室にいて、亨をベッドに寝かしてやってた。その時はまだ、蛇やったで。
 亨に戻ったんは、その後や。
 どうやって変転するんか、俺にはわからへん。人間やからな。とにかく亨は、総身の力を振り絞ったような気配で、人の形に戻った。戻ると、傷がどんだけ深いか、よく分かった。
 俺は泣いてたかもしれへん。それとも、泣きたいような気持ちやっただけか。
 ぼろぼろになってる亨の手を握って、まだ血の溢れてる胸に額を擦り寄せ、俺は必死で謝ってた。
 許してくれ、亨。お前の言うこときかへんで、俺が悪かった。全部俺のせいやったんや。そのせいでお前が死んだら、俺も死ぬ。死なんといてほしい、どうすればええんやと、俺は亨に話しかけてた。
 アキちゃん、抱いて、キスしてくれ、って、亨は声に出して言ったんや。そして沢山血を吐いた。
 声に出して言わんでも、その時の俺には亨の声は聞こえたんやないやろか。せやから喋らんといてくれと、俺は頼んだ。
 言われるまま抱きしめてやって、キスすると、血の味がした。それでもまだ、熱いキスやった。まだ生きてる。亨は死んでない。それだけが、その時の、唯一の希望やった。
 アキちゃん、血を吸ってもええかと、亨が聞いてきた。
 俺は頷いた。血なんか吸いたいんやったら、いくらでも吸ったらええよ。それで死んでも、別にかまへん。それでお前が助かるんやったら、全然かまへんで。
 亨はちょっと、笑ったみたいに見えた。でもそれは、気のせいやったかもしれへん。
 照れたような、切ないような、愛しげな目で俺を見ている亨の瞳が、すうっと針のような細い金色の虹彩の裂け目に変わり、血に濡れた赤い唇を開いた亨の口に、鋭い牙があった。
 それを恐ろしいとも、醜いとも、俺は思わなかった。ただ愛しいだけで。
 死んだらあかん、亨。お前を愛してる。俺にお前を、守らせてくれ。天地あめつちの力を全部吸い尽くしてでも、お前を助けてやる。
 そう呼びかける俺に、亨はなにも答えなかった。その代わりに、ためらいのない牙を、ざくりと俺の首筋に突き立てた。
 痛みはなかった。いや、あったのかもしれへん。それでも、それは、亨がいなくなる痛みに比べたら、ほとんど感じへんようなちっぽけなもんやった。
 亨は俺の血を吸い、疲れると、キスしてくれと言った。ぐったりと応えない亨の唇に、俺は何度もキスをした。そうして短く眠り、目が醒めると、亨はまた血を吸った。
 夜が明けようとしていた。
 どこかで猫が鳴いている声がしていた。目覚まし時計が鳴った。部屋の電話も鳴っていた。でも、そのどんな音も、俺の耳には入ってこなかった。
 ただ、亨を抱いて横たわり、その息の音を聞いていた。それが絶えず、ゆっくりと繰り返し続いているのを、亨の頬に耳を押し当てて聞いているばかりやった。
 三昼夜、それは続いた。恐ろしい昼と夜やった。ひとりで生き残るなら、いっそ死んだほうがええわと俺は思ってた。だから自分の死は怖くなかった。怖いのは、ただ、亨が消え失せることだけやった。


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