SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(8)

 おかんは、ほんまにやって来た。
 亨が電話で話してた声は、俺にも嫌っていうほど聞こえてたんや。
 なんでか、やたら耳が鋭い。力も強くなったみたいで、水飲もうとしたグラスを派手に握りつぶしたりした。それで破片で手切れて、うわ、ヤバいと思ったら、見る間に傷が治ったりした。そっちのほうが、よっぽどヤバい。
 せやけど、まあええかって、これはこれで便利やなって、自分に言い聞かせて、おとなしく割れた破片を片付けてみたり。
 お前はもう、人間やないしって、突然そういうことになって、動揺しない奴がおるやろか。俺はたぶん動揺してた。相当に動揺してた。どうしていいかわからへんかった。
 それでも俺が案外平気やったのは、自分が下手すると半永久的に生きてるらしいという、亨の話を聞いたせいやったやろう。
 亨はずっと昔から、ずっと若いまんまで、ひたすら生きてるらしい。死のうと思えば死ねるけど、生き続けたいと思ってる限り、生きてられるような体らしい。
 そんな無茶な体に、俺もなったのかもしれへんかった。
 もしほんまにそうなら、俺は亨と、ずっと一緒にいられる。年食って賞味期限が来て、これはポイみたいに、亨に捨てられることもない。永久にフレッシュなままってことやで。
 それはつまり、俺は誰にも亨を譲らなくていいってことや。あいつが俺に、飽きへん限りは。
 今まで、たぶんずっと、それで悩んでた。俺は死ぬのに、あいつは永遠に生きる。その、どうにも埋められへん大きな隔たりが、唐突に埋まった。
 そのことに、動揺してる。
 明らかにヤバい、普通でない外道っぽい体にされたんやけど、俺はそれが嬉しいんやろう。これで亨と、ほんまにずっと一緒にいられるって思って。
 せやけど、一難去ってまた一難やった。
 亨の具合は、どうも良くない。
 抱き合った後の一時は元気で、俺は亨があれで治ったんやと早合点した。なのに、しばらく深く眠って、すっきり目覚めて隣を見たら、亨がぜえぜえ言うてたんで、俺はびっくりして、また生きた心地がせんようになった。
 渇いて苦しいて、亨は言ってた。
 寒いのに、喉が渇いて苦しいて言うから、水を飲ませてやろうとしたら、いらんて言うねん。水が怖いんやって。我慢して飲んでも、猛烈に喉痛くて、呑み込めずに吐き出してしまう。
 別にええねん、飲まへんでも。飯食ったり水飲んだりできへんようになっても、それで死ぬわけやないから。亨はそう言って、それが大したことやないみたいな口ぶりやったけど、俺は怖かった。
 それは例の、病気のせいやろう。お前はもともと、必要なくても、日に三度ちゃんと飯食ってたし、美味いもん食いに行きたいて、飯デートつれてけって俺にねだった。俺がコーヒー飲んでたら、自分も飲みたいて言うて、付き合って飲んでたやんか。それに蛇だけに酒好きで、いつも楽しそうに酔っぱらって、俺に甘えて襲いかかってたやん。そういうのが全部なくても、別に平気やでと言うお前が、俺にはありえへん。
 亨は弱ってるんやて、それに実感が湧いて、内心猛烈に怖くなった。
 そんな顔面蒼白の俺のところに、おかんはよそ行きの着物着て、大荷物持った舞ちゃんを連れてやってきた。舞ちゃんはなんでか、黒系のゴスロリ服を着てた。それで風呂敷包みの大荷物を三つも持ってんねん。一つは背負ってて、両手にもでかいのを一つずつぶらさげてる。まるで昔の夜逃げか泥棒みたいやで。
 ツッコミどころ満載やったけど、俺は言葉が出なかった。なんて言うてええか分からなすぎ。
「おかん、心配かけたな」
 ピンポン鳴らして、部屋の玄関に現れたおかんに、俺は開口一番、詫びを入れてた。
 おかんは普段どおり、にこにこ可愛い顔して、涼しげな鉄線の柄のの着物に、束髪にした黒髪には、氷みたいなガラスのかんざしさしてた。その綺麗な姿には、昔から、一分の隙もなかった。この人も場合によっては、寝癖ついたぐちゃぐちゃの髪してたり、よだれ垂らして寝てたりするんやろか。亨みたいに。
 想像つかへん。想像しよかという前段階で、脳死してる自分を感じる。
「アキちゃん、なんていう顔やのん。おひげらんと。うちがったろか」
 そんなに生えへんほうやけど、さすがに三日も放置となると、すさんで来るんやで。でも何か、一通りの身支度はしたものの、髭剃ひげそろうというところまで、気力が及ばへんかってん。あと一歩なんか足りてない。
 変な話やけど、家を出てからは特に、おかんと顔合わせる時は、俺はたぶん、めいいっぱいめかし込んでた。気合い入れてますみたいな気配はせんように、別に普段着やけど、アキちゃんは今日も男前やなあて、おかんがお世辞言うような姿でいようとしてた。
 それが無精髭やからなあ。俺もよっぽどフラフラなんやで。亨のせいで。
「いや、いらんよ、そんなん。みっともない顔で悪いな。さっき起きて着替えたとこやねん。亨がな、おかん。具合悪いねん」
 立ち話のまま、俺はおかんに言った。何とかしてくれて、そういうニュアンスがむんむんしてた。
 ほんまは俺が何とかしてやらなあかんのや。だって亨は俺のしきなんやから。俺があいつの面倒見てやるのが筋なんや。おかんに説教されんでも、そういうもんやという気が、俺にはしてた。
 おかんはただ、にっこり頷いただけで、何も説教せえへんかった。
「ほな、まずはご機嫌うかがいして、それから支度しよか」
 白い草履を玄関に脱いで、和装のおかんは、すたすたと洋間のマンションの中を歩いていった。現代的なフローリングの床を、おかんの白足袋が踏むのが、いつ見ても違和感あるわ。
 俺が大学に入る時、おかんはこのマンションを買った。マンションごと買ったんやで。建物全部が秋津の持ち物やねん。建設中に買い上げて、最上階の間取りを全部変えさせ、元々は四件分やったフロアに、この最上階の部屋ペントハウスを作らせた。
 憧れやったんやって。昔から。洋物の映画やら、ドラマやらに出てくる、高層マンションの最上階の部屋ペントハウスに住んでる、外国の金持ち男の暮らしっぷりが。王子様みたいなんやって。
 そんなん素敵やわあて思うたから、アキちゃんここに住まわそ思うて、作ってもろたわて、大学入る前に嵐山から連れてこられて、俺は正直、おかんのやり方に顎が落ちてた。
 実家から通うつもりでいたからな。まあ確かに、電車の乗り継ぎは面倒やで。阪急電鉄の嵐山線に乗って、桂で京都線に乗り換えて、河原町まで行って、そこで四条大橋を徒歩で移動、そして京阪電車に乗って、出町柳まで行き、さらに叡山電鉄に乗り換えやからな。
 車で通えばええやんという説もある。俺は高校出てすぐに免許取ってたんで、お祝いや言うて、おかんが車買うてくれてた。でもな、見るからに、お前はどこのボンボンやみたいな、真っ黒のベンツやで。それで毎日学校行くの、俺は恥ずかしいわ。
 せやから電車通学ということで。西村京太郎サスペンス並みの時刻表マジックを駆使して通う。
 そう決めてたら、おかんが家を出ろと言ってきたんで、びっくりやった。考えたこともなかった。自分が秋津の家から出てもいいなんて。頭に無さ過ぎて、一案として検討したこともなかったんやで。
 それでも結局俺は、おかんの手により、この出町柳の最上階の部屋ペントハウスに捨てられ、現在に至る。ひとり暮らしなんて、ええなあて、大学の新入生連中はうらやましがってたけど、俺は正直、自分は捨てられたと思ってた。めちゃめちゃ暗かったで。たぶん、慣れないひとり暮らしで、寂しかったんやろ。
 うちの家族は俺とおかんの二人だけやったけど、秋津の家には他人が同居してた。俺の名義父の本間さんもそうやし、ごはん作ってくれるおばちゃんとか、他にも何やよう分からんような仕事してる他人がいっぱいおった。舞ちゃんみたいに人でないのもおった。静かなようで、にぎやかな家やった。
 そういうところに慣れて育って、人っこひとり、人でないのさえおらんような、他人の家みたいな、だだっ広い洋間のマンションで、ぽつんと暮らしてると、たぶん寂しかった。
 亨には言われへんけど、俺は誘ってくる女とは全部寝てた。でも長く付き合おうと思うような相手はおらへんかった。帰るのいややて言うのを、ほな泊まっていけばと部屋に連れてくると、みんな顔色か目の色かが変わったもんやった。こんなとこに住んでんの、王子様やわって、どんな健気そうな女でも、貪欲そうな顔をした。
 それを一晩抱いて、翌朝にさよならして、それっきりやねん。もう顔も見たないって、毎度思った。
 そんなこんなで、大学での俺は、本間は女ったらしのボンボンということで通ってた。自分が不実な男やということに、俺は自分でもショックやった。
 内心、こうしたいと思ってるのは、これが運命の女みたいなのに出会って、そいつと一途に愛し合うような感じやったんやろう。でも、なんでそれが無理なんか、ほんまは分かってた。
 どんな可愛い子と付き合っても、おかんのほうがええわって、どこかで思ってた。おかんのほうが美人やし、淑やかで、品もある。着てるもんの趣味もええし、話す口調もはんなりしてる。おかんはいつも、いい匂いがして、俺に優しい。アキちゃんは男前やなあ、大人になったら、お母さんと結婚しよかて、にこにこ言うてくれる。俺はそれを真に受けて、そうしようって思ってた。
 認めたくないけど、俺はたぶん、餓鬼のころからずっと、おかんに惚れてたんやで。俺の女やと思って眺めてた。それって、何なんやろ。頭のいかれた、おとんの血の置きみやげというか、怨念みたいなもんか。惚れてた妹抱いたはええけど、戦争で死んでもうて、無念やった、みたいな感じで、その因果が俺にたたってたんか。
 せやけど、おとんの代わりに、おかんと寝るわけにはいかへんで。それはあんまり、むちゃくちゃやで。
 そう思うのに、俺はもしおかんが、アキちゃん一緒に寝よかて誘ってきたら、喜んで寝たような気がする。たぶん、そういう気でいたから、アキちゃん大学遠いんやからて、おかんに出町に捨てられて、激しく凹んだんやろ。それで自棄やけになって、手当たり次第に女抱いてた。
 おかんを越えられる女はおらへん。そう思ってたけど。まさか男が越えてくるとはなあ。予想もつかん展開やったで。亨のことは。まさに想像を絶する出来事や。
 今でも、おかんと会うと、必要以上にときめいたけど、亨よりおかんが好きとは思わへんかった。亨が好きや。俺もまともになった。亨は男で、常軌を逸したエロで、人間ですらないけど、それでも、おかんと寝たいというより、当社比で、まとも度はかなりアップしてる気がする。これで亨が女で、普通程度のエロで、人間やったら良かったんやろうけど、それはもうこの際、贅沢や。
 蛇でもええねん。いや、正直ちょっとキツいかもしれへんけど、でも正直もう全然気にしてない自分がおるねん。あいつが元気でにこにこしてて、美味いて言うて飯食ってたら、俺はそれで幸せやねん。それ以外でもう、幸せになられへん。そういう気がする。
 おかんが亨の顔色を見て、なんて言うか、怖すぎて俺は寝室についていかれへんかった。それで仕方なく、リビングで悶々と待っていた。
 おかんはしばらくしてから、舞ちゃんを連れてにこにこ戻ってきて、ソファの端にいた俺の、反対側の端に、ちんまりと行儀良く座った。そして容赦なく言うた。
「死にますわ、あのままやと」
 爽やかに言われて、俺はイメージ的には、頭から爪先までざらあっと砂になって崩れ落ちた感じやった。
「死にますて……なんとかなるんやろ」
「うちには無理どす。強い疫神が取り憑いてますのんや。それを祓わなあきません。せやけどこれが、ずいぶん強おす。うちには無理やないかと思うえ」
 にこにこしながら、おかんはサラッと言うた。
「疫神て……病気ってことなんやろ。病院行ったらええんか」
 俺が真面目に訊くと、おかんはよっぽど可笑しかったんか、ころころと鈴を振るような声で笑った。
「なにを言うてんの、アキちゃん。この子は人やのうて蛇の化身やけど、病気やからお薬くださいて連れていって、どこのお医者様が診てくれはるやろか」
 知ってたんか、おかん。亨が蛇やって。
 なんで教えてくれへんかったんや。あいつ悩んでたんやで。たぶんずっと悩んでたんや。
 駅で大怪我して、蛇に戻ってたのを、俺が家まで連れて帰ってきたら、亨は人の姿に戻ろうとした。わからへんけど、あいつは弱ってたから、本性現してたんやろ。人の姿してるのには、それなりに力が要るんやないかという気がするんや。
 苦しそうに変転して、亨は俺に言った。この格好のほうが、アキちゃん我慢しやすいやろ、って。抱いて欲しいって言うてた。蛇でごめんやけど、今は抱いといてほしいって。
 もっと早くに知ってたら、ちゃんと言うてやったで。お前が何でもかまへんて。気にせんでええって。
「ほな、どうしたらええんや。亨はどうやったら助かるんや、おかん」
「そうやなあ。お兄ちゃんやったら、疫神を祓えたやろけどなあ。うちよりずっと、力のあるお人やったんえ」
 惚気のろけか、おかん。そんなん言うてる場合やないねん。もう死んだ変態の話せんといてくれ。
「あんたがやれるんやないやろか。アキちゃん。あんたはお兄ちゃんに生き写しやし、それに、うちより力が強い。あの子が死んだら困るんやろ。たまには本気を出してみてもええのやおへんか」
「本気って……なんや」
 俺は本気やないんか。力の使い方なんかわからへん。たまに事故みたいに何か変なことを起こすことはある。せやけど無意識にやってるから、どうやってやってんのか、自分ではわからへん。
「願えばええんどす。息しよ思て息してへんやろ。それと同じどす。まあ、いろいろ流儀はありますやろけど、根本的には、難しいことやないんどす。力さえあれば、それを振るうのは」
 けろっとして、おかんは説明していた。
「うちはな、踊り踊る時、なんも考えてへんえ。踊りたいわあて思うてたら、勝手に体が舞いますのんや。あんたもそうやろ、絵描いてるとき、どうやって絵描くのやろって、思うてないんとちがいますか」
「思てへん」
「ほな、それと同じですやろ。お兄ちゃんも、絵描いてはりましたえ」
 そんなショックな話をな、さらっと言うな、おかん。
 おとんが俺より絵、上手かったらどないすんねん。再起不能やで。それで俺が美大受けるわ言うたとき、日本画にせえて頼んだんか。おとんは日本画描いてたんか。むかつくわ。
 油に転向しよかな。俺、油絵のほうが得意なんちゃうかと思うんや。CGでも何でもええわ、変態のおとんと同じ日本画でなければ。
 そんなことを思いつつ、俺は痛恨の一撃を黙ってこらえた。
「せやけど今回は、神様が相手やさかい、礼儀正しくせなあかんえ。きちんとご挨拶して、申し訳ございませんが、よそへ行っておくれやすて、お願いするんや」
「やっつけるんとちがうんか」
 意外に思えて、俺は訊ねた。おかんは、きょとんとしてた。
「人が神に勝てるわけないやないの。たとえ勝てても、勝ったらあかんえ。神殺しやなんて、破廉恥なこと。お祭りして、ご奉仕して、気持ちようなっていただいて、そのお力におすがりするんや。豚もおだてりゃ何とやらどす」
 それはどういう距離感やねん。崇めてんのか、馬鹿にしてんのか、どっちやねん、おかん。
「わからへんのんか。亨ちゃんかて、おだてて使えば、よう働いてくれるえ。こないだなんて帰りにコンビニで宅配便送っていってくれやしたえ」
 おかんにまでパシらされてたんか、亨。
 というか、あいつは、神なんか。
 神様?
 神って。
 そんなアホな。
 ただの、エロエロ妖怪やろ。あいつ、血吸うねんで。アイスも食うし。『ダウンタウンのごっつええ感じ』のDVD見て笑い死にしかけるんやで。
 それが、神?
 ありえへんやろ。あいつが神やったら、お釈迦様がヘソで茶沸かすで。
 俺のそんな内心を悟ったんかどうか、それはわからへんけど、おかんは俺の泳ぐ目を、面白そうに見てた。
「知らんと付き合うてたんか。暢気な子ぉやなあ、あんたは。舞ちゃんも神様え。力のある不思議なもんは、みんな神様なんえ、この島国では。鉛筆削るのがせいぜいのような、ちびっこい神様から、山海を揺るがすような大きい神様まで、いろいろいてはるけどな。神は神え」
 鉛筆削る神様ってどんなんやねん。鉛筆削り大明神か。俺のデッサン用の鉛筆削っといてくれ。
 非現実的な現実から逃避したくて、俺は古代人の格好したちっさいおっさんが必死で鉛筆削ってるところを想像してた。
 あかん。そんなこと考えてる場合やない。亨の命がかかってるんやから。
「亨ちゃんにとりついてはる疫神やけどな、アキちゃん。あんたが生んだんやな」
 おかんは複雑そうな笑みで俺に訊ねた。俺はなんにも答えられへんかった。
「うちには見えるんどす。あんたの画風やったえ。とんでもない話どす。何遍言うたら、分かってくれるんや。神様の絵描いたらあかんえ。それも、よりによって疫神やなんて。大勢の皆さんがお困りになってはる、狂犬病騒ぎも、とどのつまり、全部あんたのせいやおへんか」
 俺のせいやって。俺はなんもしてへん。絵描いただけななんやで、おかん。絵描いたらあかんのか。なんであかんねん、俺は絵描きたいんや。
 昔からおかんに叱られて、何度となく言ったようなことを、俺は頭の中で反芻してた。
 小学生のとき、写生の授業があって、桂川の河原に絵描きにいったときに、俺は目の前の穏やかな川を見て、竜の絵を描いた。物静かな竜や。そんなん、面白うないわと思って、その夜に、絵に描いた竜が暴れてる夢を見た。
 そしたらな、桂川が氾濫して、渡月橋が流されそうになった。そうなるはずやったって、おかんは俺をめちゃくちゃ叱って、蔵に閉じこめた。
 そんなはずないねん。川は何事もなかった。いつも通りの穏やかな川やった。
 それでも、明け方髪を振り乱してへとへとで帰ってきたおかんの姿を見て、なにかただならぬ出来事があったのは、子供心にも分かった。
 おかんは、頭おかしいんやないかって、怖くなった。
 だって俺は絵描いただけやで。みんな描いてた。絵描く授業やったんやもん。何で俺だけ、叱られなあかんの。
 そんな不満はあったけど、俺は結局おかんの言うなりの餓鬼で、手加減して絵描くことをおぼえた。わざと下手に描くんや。本気出して描いたら、おかんに怒られる。
 それでも、おかんが俺が絵をやるのを止めはせえへんかったんは、それが俺の一番際だった取り柄やったからやろう。
 自分が授かった力と本気で向き合う気があるのかて、おかんは俺に訊いた。あると俺は答えた。絵が好きやってん。浅慮やったな。今にして思えば。
 おかんが訊いてたんは、そういうことやない。血筋に受け継がれてる力が、絵を描く力として俺には顕れてるけど、それでも描くんかて、おかんは訊いてたんやろ。
 絵筆を折って、普通に生きていく道もあったんやろか。
 それは、どうやろ。無理なんやないか。
 やめられるような気がせえへん。絵を描くのを。
 息しよう思って、息してるわけやないのと同じで、絵描こうと思って、描いてるわけやない。描かんと死ぬような気がするから、描いてるんやで。息止めて、生きられへんやろ。それと同じ。
「どうしたらええんやろ、俺は」
「責任とらなあかんえ。死んだ人は戻って来やへん。もう手遅れ、黄泉の国の神さんのもんや。せやけど、助けられるもんは、あんたが責任もって、助けなあかんえ。げきとして、立つべき時や。もはや逃げ場は、あらしまへんえ」
 おかんは、きちんと背筋を伸ばしてソファに座り、首だけこちらに向けて、俺を諭した。凛とした美しい姿やった。おかんが綺麗なのは、たぶん、顔がいいとか、姿がいいとか、そういう問題やのうて、もっと別のところに理由があるんやないかって、その時初めて思ったな。
「何をすればええんやろ」
「うちが踊って、神さんを誘い出すさかい、あんたが説得しておくれやす。蛇なんぞ食らうのはおよしになって、もっと美味いもんをお召しがりくださいて」
 にこにこして、おかんは白い手を握りあわせ、揉み手した。
「もっと美味いもんて?」
「そら、アキちゃん。絵に描いた餅どす。絵の中に、お戻りいただきたいんやから」
 ころころと、おかんは楽しそうに笑った。
 俺は訳がわからず、ぽかんとしてた。
 おかんの言う、ことの次第はこうやった。
 おかんが楽しそうな踊りを踊る。そしたら疫神が、なにごとやろ、面白そうやなて、お出ましになる。そこに、美味そうな大御馳走の絵がある。そしたらその剣呑な神さんが、美味そやなあ言うて、絵にお入りになる。後はその絵を、しかるべき相手に寄贈して、焼き払ってもらう。
 そんなアホなと、俺は思った。そんなアホみたいなことで、解決つく話なんか。おかんが踊って、俺が絵描いたらいいだけなんか。
 そんなしょうもないことで、人が死んだり生きたりするんか。
 俺がそう言うと、おかんはにっこりとした。いや、にやりとしたんか。そして、こう言うた。
 せやから、うちは、お屋敷の登与様て、皆に畏れられてるんやないの。うちが踊れば、つられて神さんも踊らはる。田の神舞えば、米も豊作。麦も万作、商売繁盛、会社は一部上場、選挙には当選確実どすえ。うちの舞の手の、ほんのちょっとの手違いで、その逆もあるかもしれへんえ。そんな女が、怖くないわけあらしまへん。
 あんたもいずれは、そんなお人になる定めえ。秋津の跡取り息子や。うちとお兄ちゃんの間にできた、一粒種。そんなあんたが、なんでもない、ただのつまらん男として、生きていけるやろか。
 逃げたらあきまへん。お兄ちゃんは、逃げへんかったえ。うちは、逃げる男は嫌いどす。
 おかんは、いつものにこにこ顔で、そう話した。
 ああ、なんというかやな。それは俺には殺し文句やった。マザコンやからな。おかんが俺を、嫌いや言うてる。そんなこと今までの甘々な一生では、いっぺんも無かったことやで。
 鞭打たれるような衝撃や。それで俺は、鞭打たれた馬のごとく奮い立ったらしい。走り出したわけやないで。そのまま黙って座ってたけど、ある意味、生まれてこの方やったことないぐらいの全速力で走り出した。
 絵を描いたんや。手加減なしで。渾身の作やったで。
 一生懸命描いた絵は、ほかにもいろいろあったけど、この絵には俺の全身全霊がかけられてたな。少な目に見積もってもや。なにしろ亨の命がかかってんねんから。
 そう思って描いたのが、何の絵やったと思う。
 豚の丸焼き。
 お肉がええわて、おかんのアドバイス。祭りのときには、にえとして、豚の丸焼きを用意するらしい。それに疫神を乗り移らせて、どこかよそへ行っていただくためらしい。
 俺が描いた絵を見て、美味そうやて、亨が言った。元気になったら、こんな美味そうな豚の丸焼きを、べろんごっくんて丸飲みしたい。
 おかんが神様やていう亨が、よだれ垂らしそうな顔で、はあはあしながらそう言うんやから、神様へのアピール度は十分やったやろ。お客様満足度では業界一や。
 絵が描けるのを見計らって、おかんは舞に支度させた。うちも踊るけど、舞ちゃんにも踊ってもらうて言うて。この際、多いほうがにぎやかやから。
 そう言って、鳴り物入りで寝室に現れた舞ちゃんを見て、亨は喉痛いて言うてたくせに、まさに血を吐くような絶叫をした。
 アキちゃん見るな、て。
 舞ちゃんは、素っ裸やった。つまり、全裸。博物館にあるような、古代っぽいアクセサリーはつけてたけど、それ以外は、裸。
 もちろん俺は見いへんかったで。最初の一瞬しか。見てたらやばいで。血の雨降るから。見たら八つ裂きみたいな怖い顔して、亨が俺を睨んでたんやから。
 ほんなら始めよかて、おかんが部屋に入ってくる気配がしてた。俺はそれを、一瞬たりとも見いへんかったで。
 見たらあかんでって、亨が言うねん。見たらあかんような気が、俺もしてた。類推できるやろ。舞ちゃんが全裸やねんから。おかんもそうかもしれへんやろ。
 ほかには誰もおらへんはずやのに、楽の音が鳴っていた。俺に見えてへんだけで、おかんは他にも誰か、つれてきてたんかもしれへん。
 とにかく賑やかな音楽が聞こえ、それに合わせて、ふたりの女は舞った。
 これは見たらあかん、見たらあかんわと、亨はベッドに身を起こしたまま、俺が踊る二人を振り向かんように、がっちり頭を押さえてた。そういう自分はガン見なんやで。
 亨は、ぬいぐるみ抱いてる小さい子みたいに、俺にヘッドロックかけたまま、こらあかん、まさにアキちゃんの煩悩そのものの光景や、うわあ、あかんわ舞は、やりすぎやわ、おかんもいい歳して大概にせえよ、アキちゃん俺のほうがええよ、俺の顔を見つめとかなあかん、頭からっぽにせなあかんでって、めちゃくちゃうるさく言うてた。
 考えさせたくないなら、中途半端な実況すんな。男の子の妄想の世界に踏み込んでまうやん。俺は一応真剣なんやで。お前を助けようと思って、一生懸命なんやないか。無心でいるのに、だんだん必死になってきたわ。俺の鋼の集中力にも限界はあるんやで。
 どうせなら、亨のこと考えなあかん。そう思って、その考えに逃げたら、むちゃむちゃヤバかった。ふと見たら、大人しなって、かすかに呻いてた亨の目が据わってて、しかも金色やった。
 あかんでこいつ、血吸う気やでって思って、俺は逃げようとしたけど、亨はがっちり俺を捕まえてた。白い腕で。布団には入ってたけど、でも裸やねんで。その目が異様に苦しげで切なそうなのと見つめ合って、俺は逃げたらあかんような気がした。
「アキちゃん、苦しい……」
 俺にすがりついてきて、そう呻いた亨の腕に、うっすらと白い真珠色の鱗が見えた気がした。
 そうか、と俺は思った。亨は血吸いたいんやのうて、人の姿を保ってられへんようになってるんや。蛇に戻りかけてる。
 あらわれ給え、って、きゃらきゃらした声で、舞ちゃんが歌ってた。それとも、まさか、おかんが歌ってたんやろうか。若い女の子みたいな声やった。
「頑張れ、亨。別に蛇んなってもええねんで」
「嫌や、俺、アキちゃんにはもう、見られたないねん」
 涙目ですがりついてきて、亨は苦しげに悶えてた。蜃気楼みたいな蛇の幻影が、亨と二重写しみたいにカブって見えた気がした。それは駅で助けて連れてきた傷だらけの白蛇よりも、ずっと大きかった。そして俺はそれを、前にも見たことがある。実家で過ごした元旦の、初夢の中に、これとおんなじ蛇が出てきたわ。川辺に立ってて、俺を呑もうとしてる、金色の目の大蛇おろちや。
 俺はその夢を、怖気立つほど恐ろしいと思った。蛇は俺を呑もうとしてた。自分がそれを、拒んでないのを感じて、俺は怖かったんや。恐ろしいその蛇を、震いつくほど美しいと、俺は感じてた。その金の目に魅入られて、どうすりゃええんやと思った。こんなもん、夢に見たらあかん。正夢になってまう。夢見たらあかんねん、俺は。それが現実になってまう。
 それは予感やったんか、それとも俺の願望やったんか、俺は確かにその後半年かけて、白い大蛇おろちに呑まれた。骨まで全部食われたで。毎日食われて、どろどろに溶かされてる。
 今もそいつは、俺に抱きついてる。苦しいて、悶えながら。
 お前の本性が何か、俺は最初からずっと知ってた。本当は知ってたんやろう。ただそれを、知らんふりしてただけやねん。
「亨、心配せんでええねん。お前の本当の姿を、俺にも見せてくれ」
「今のが俺の本当の姿やで。アキちゃんが一番好きなのが、俺の本当の姿や」
 亨が首を振って、俺の肩口に顔を伏せてた。見んといてくれという気配で、亨は必死に俺に抱きついてる。その裸の体に、真珠色の鱗が浮かぶのが、綺麗なように見えて、俺は思わずそれを撫でてた。触りたい。なんかまるで、生きてる真珠やな。
 亨は触れられた指の感触に、びくりとしてた。
「綺麗やで、亨。お前がほんまはどんな姿か、俺はもう知ってるんや。初夢に出てきててん」
 後ろが気になって、俺は小声で亨の耳に囁いてた。実はそのほうが恥ずかしいか。後にはそう思うけど、でも、その時にはそれが妥当な気がしたんや。
 亨は顔を上げて、哀れっぽい綺麗な顔で、俺を見た。いつもに増して、真っ白な顔やった。
「そうなんか。知らんかった。ほな、ずっと知ってて、俺を抱いてたん?」
「いや、それは、微妙なところなんやけど。でも、夢に出てきた白い大蛇おろちを見て、俺は全然、嫌やなかったで。美しかったわ……怖いくらい」
 俺にもういっぺん、その蛇を見せてくれって、俺は亨に囁いた。
 亨は、うっとりと、苦しそうなような、切なそうなような、複雑な表情で、金色の目を伏せた。軽くのけぞった白い胸に、何か禍々しく黒い文様が浮いていた。黒いところなんか、あったっけと、俺は我が目を疑って、それを見下ろした。
 それそれ、お出まし給え、こっちにお越しやすと、笑いさざめく女どもの声が、楽しげに賑やかで、淫靡に誘うようやった。
 亨の胸の黒い影は、深い水底から何物かが浮かび上がってくるように、みるみる濃くなり、はっきりと盛り上がってきた。それを生み出す苦しみに悶えるように、亨は身を揉んでいたが、その姿はゆっくりと薄れ、二重写しの蛇に取って代わられようとしていた。
 立ち上がれば見上げるような大きさの白い大蛇おろちが、寝室のベッドの中にいた。予想はしてたけど、俺はどこか呆然として、それを見つめた。
 マジで蛇やんか、お前。
 どないなっとんねん、亨。
 俺は蛇あかんて言うてたやんか。それなのにお前、そんな俺に、半年も昼となく夜となく、蛇と組んずほぐれつやらせてたんか。色んな事させられたで。それも見るやつが見たら、俺は鱗のある長いのと、抱き合ってたっていうことなんか。
 変態そのものやんか、俺は。許し難いわ。もう、想像しただけで頭割れそうやわ。気が狂う。変態そのもの。それが、ものすごく淫靡やななんて、ちょっと本気でモヤつくのは。それはもう、人間やめてる。実際もう人間やめさせられてる。お前とやると、ものすごく気持ちいい、もう他のやったらあかんて思う時点で、俺の人間としての人生、とっくに終わってる。
 そんなことでおののきながら見ている俺の目の前で、白い大蛇おろちは音でない声で悲鳴のような呻きをあげた。
 めりめりと何かが裂けるような音がして、蛇の体の黒い文様が割れ始めた。白い蛇体を真っ赤に染める血を滴らせて、それは現れた。うっそりと背を丸め、貪欲なような醜悪な顔をした、牙のある黒い疫神。ぞろぞろと次から次へ、幼児くらいの大きさのそいつらは、蛇の体の中から現れてきた。
 一人、二人、三人、四人……お客様は何名様やねん。焼き豚もっと、何個も描いといたらよかったわ。足りるんかな、一頭分で。
 俺は腰抜けそうになりながら、それでもぐったりした大蛇を抱きかかえ、出てくる出てくる疫神ご一行様を、顔面蒼白で見つめてた。
「お姿顕しはったえ、アキちゃん。ぼんやりせんと、きちんとお願いせなあかんえ」
 聞き慣れたおかんの声が、ぼけっとしてる俺に指示した。
 そうやった。そういう手はずなんやった。
 せやけど、じとっと俺を見てる疫神の群れを見て、俺の喉は喘いだ。何て言うねん、この悪いコビトさんみたいなやつらに。その姿はだいたい、俺が描いた絵のまんまやったけど、中には勝手に増えてるバリエーションもあった。俺の絵が、まさに一人歩きしてる。
「亨に取り憑くんは、やめてくれ。大人しく出てってくれ」
 上ずった声で俺が頼むと、疫神たちは、お互いに耳を寄せ合って、ひそひそ話した。どうも咎められてるみたいやった。
「失礼どすえ、アキちゃん。相手は神さんえ。せめて、出ていってください、とお言いやす」
 おかんに指摘されて、俺は、そ、そうかと思った。でもこれ、元は俺が描いた絵なんやで。それでも、こいつらのほうが、俺より偉いんか。自分より偉いもんなんか絵に描いたらあかんわ。
「どうか、出ていってください。豚の丸焼き描いてありますんで、どうかあっちのほうへ、引っ越ししてください」
 俺は亨の体を抱きしめて、ジト目の連中に必死で頼んだ。疫神たちはまだ、ひそひそ話していたが、どこや豚の丸焼きはと、探すような目をした。俺は背後を指さして、ありかを教えた。
 疫神たちは、寝室の壁にかけてあった俺の絵に、気がついたらしかった。よだれたらした貪欲そうな顔で、ふらふら俺の横を行きすぎていく。
 さあさあ、皆さん、ごちそうありますえ、って、おかんが言うてた。いやあんお尻触らんといてくださいて、舞ちゃんが言うてた。何をすんねん疫神。お前は俺が描いたんやで、やめてくれ。俺が舞ちゃんにセクハラしたいんやって思われるやろ。
 美味そやなあ、これは美味そうやって、がつがつ何か食うてるような音がしてた。やがてそれは、静かになった。しゅるしゅると布を巻く音がしてた。たぶん、おかんか舞ちゃんかが、俺の絵を貼り付けてた軸を巻いたんやろ。
 ほな、ごゆるりとと、襖を閉めて出ていく茶屋のおかみのような口調で、おかんが疫神たちに言い渡した。それに答える声は無かった。あったんかもしれへんけど、俺には聞こえてへんかった。
 事が上手くいったんかどうか、俺は気にする余裕がなかったんや。亨の体の、連中が這い出してきた傷からの出血が、ぜんぜん止まる気配がしない。
 痛みをこらえてるふうに、力なくのたうつ蛇の体を抱きかかえて、俺は傷口を布団で押さえた。元は白かった羽布団が、ずっしり重く血吸ってた。
 亨はこの三日、俺のせいで、どれだけ血流したやろ。
 大蛇の体はどんどん軽くなっていくようやった。
 それが怖くなって、亨、と、俺は声に出して呼びかけた。大蛇おろちは宝玉のような大きな金の目で、じっと俺を見た。そして、見る間に輪郭がぼやけて、その真珠色のもやの中から、いつもと変わりない、しかしぐったりとした人型の亨の姿が現れてきた。
 自分を抱いている俺の腕に、亨は冷たい指で触れてきた。
「予想以上にいっぱい産んだわぁ……」
 冗談のつもりなんか、亨は力なく笑って、蒼白の俺を見上げ、そう言うた。
「ブッサイクな子やったなあ、アキちゃん。俺とアキちゃんを足して二で割ったら、もうちょっとマシなん出てくると思うねんけど」
 血染めの布団を抱えて、目を閉じそうな亨を、俺は慌てて強く抱きしめた。
「なんで元に戻ろうとするんや。別に大蛇おろちのままでええやん。そのほうがラクなんやないんか」
「いやあ……どうも微妙や。もう人型のほうが慣れてて、しっくりくるわ。それに……」
 亨はまたぼんやり俺を見上げ、冷たい指で俺の唇に触れてきた。
「蛇にキスしろて言いにくいやん、さすがに……」
 真顔でそう言うてる亨は、冗談のつもりやないやろ。背後にいる、おかんと舞ちゃんが、俺らふたりを見てんのか、見てへんのか、俺は一瞬だけそれを考えたけど、考えてもしゃあないことやった。
 亨がキスしてほしいて言うてる。
 なんでもしてやるって、俺はそのとき思った。それでお前が満足するんやったら、なんでもやるで。
 唇が触れても、亨は弱々しくそれを貪っただけで、すぐに疲れたみたいやった。
「あのな、アキちゃん。おかんがな、孫欲しいんやって。俺も、蛇になれるくらいやからな、頑張れば人間の女に変転することも、できるんやないかと思うんやけど、アキちゃんはどうなん。そのほうが、俺のこと、もっと好きになってくれるか。そうやなかったら、誰か他の女と結婚して、子供作って、俺はお蔵入りになるんかな」
 俺の耳元で囁くように、亨はぶつぶつ訊いてきた。
 こいつはなんで今、そんな事を訊くんやろて、俺は不思議やった。そんなこと、今はどうでもええんやないか。お前、また死にそうな顔してる。ほっといたら死ぬって、おかん言うてたで。せやけど疫神が出ていって、お前は今、助かるかどうかの瀬戸際なんやないんか。命かかってんねんで。おかんが孫欲しいかどうか、今は全然関係ないやん。
「なんでそんなこと訊くねん」
「ええ、なんでって……ちょっと連想してもうてな。アキちゃんどうなんやろって、また気になってきて。もし、あかんようやったら心残りやし、この際、本音のとこ聞いてから逝こかと思て」
「死んだりせえへん。もう助かったんやから」
 俺は亨に、怒ったような声で軽く怒鳴ってた。そんな話、して欲しくなかってん。不吉な話は、口に出したらあかんのやで。昔から、おかんがそう言うてたわ。信じなあかんねん、絶対大丈夫って。
 せやけど俺の声は、ちょっとばかし、駄々こねてるみたいやった。
「そうやけど……ケチケチせんと、教えてえな、アキちゃん。俺が蛇でも美しいて言うんやったら、俺のこと、本気で愛してるんやろ。別に俺が男でも女でも、蛇でも鬼でも、なんでもええんやろ」
 そうやって言うてくれって、亨はそんな甘えた口調やった。
 日頃、亨は我が儘やけど、そんなベタなことは言わへんかった。たまには甘い台詞も言うてくれたらええのにって、口尖らせて拗ねるけど、でもそれは、ほんの遊びみたいな軽いもんやってん。本気で怒ってるわけやない。
 けどお前は実は、ほんまに切なかったんか。最後やから言うてくれて、そういうノリか。
 俺は嫌やで。そういうのは言わへん主義やねん。だって恥ずかしいやんか。絶対言わへん。無理やねん性格的に。言えるわけない。お前に強請られて、普通に、好きやて言わされるだけでも、脳みそ溶けそうなんやで。
 これが最後やっていうなら、俺も考える。お前がもう死ぬんやったら、ほんまのところを伝えたい。
 けど、言うてもうたら亨が納得して、ほんまに死ぬんやないかって、俺は怖かった。
「嫌や、俺は言わへんで。知りたいんやったら、あと一年ぐらい待て」
「一年か……それは長いな。ウヤムヤになるんとちゃうか。つれないわ、アキちゃんは」
 俺の胸にぐったりもたれかかってきて、亨はぼやいた。そして、とろんと目蓋を閉じた。
「俺、そんなに待たれへん。元気になったら教えてくれるか」
 俺の手を探しにきた亨の指先を、捕まえて握ってやって、俺は頷いた。
「しゃあないな、元気になったら教えてやってもええわ。一緒に祇園祭り見て、大文字見るんやろ。俺と行きたい言うてて、まだ行ってへんところも山ほどあるやろ。永遠に生きられるからて、だらだらしとったら、ヴェニスとか沈んでまうんやで。二階ぐらいまで海に沈んでるらしいわ。早う行かなあかん。とっとと元気にならへんかったら、祇園祭かて、終わってしまうで」
 亨は目を開いて、血まみれになったベッドをちらちら揺れる視線で見た。
「そうやなあ、アキちゃん。俺、物凄いスピードで元気になることにするわ。せやから、抱いといて、このままずっと抱いといてほしい」
 暗い目でそう頼んできて、亨は重い瞬きをしていた。
「アキちゃん、俺なあ、腹減ってもうたわ」
 お腹ぺこぺこやねん。アキちゃんの描いてたさっきの絵、めちゃめちゃ美味そうやったなあ、て、亨はしみじみ言った。
 そして何でか、ぽろぽろ泣いた。
 なんで泣いてんのやろって、俺は不思議やった。泣くほど腹減ったんか。餓鬼やないんやし、そんな飢えんでもええやん。飯食いたいんやったら、なんでも持ってきてやるし、血吸って力つけたいんやったら、俺のを吸うてええんやでって、俺は抱きしめてた亨を励ました。
 うんうん、とそれに小さく何度か頷いて見せて、亨は寝ようと言った。眠いから、一緒に眠りたいって。
「おかん、素敵な踊り、ありがとうやけど、邪魔やし、舞もあっち行っといて」
 憎たらしいような口調を作って、亨は俺の背後に呼びかけた。それに答える声はしなかった。元々そこには誰もいなかったみたいに。
 目を逸らすと、その隙に亨も消えそうな恐ろしさがあって、俺はじっと亨の白い顔を見つめてた。
 何度か目を瞬き、ゆっくり俺を見上げた亨の目が、じわりと塗り替えられるように金色になった。薄く開いた唇の奥に、するどい牙が見えてた。
「血吸っていいか、アキちゃん」
 求めてきた亨の声に、俺は黙って頷いた。喉元に唇が来るよう抱きしめてやると、亨は初め、ただ愛しむように、俺の首筋に唇を這わせた。
 ちくりと来たのは、その後や。切ないような痛みやった。
 亨は血を吸うつもりなんやて、そう思ってたけど、その感じは今までのとは違ってた。俺はぼんやりと眠くなり、亨を抱いたまま、どんどん目蓋が重く感じられてきた。
 すぐに牙を抜いて、噛みあとのついた首を、亨が舐めてきた。
「アキちゃん、眠っても、抱いといて。また、俺の夢見てな」
 自分がそれに頷いたんかどうか、あんまり眠気が強くて、俺はわからへんかった。
 俺は普段、夢は見いへん。見ないようにしてる。夢も見ず深く眠るように。
 せやけど亨の夢なら、見てもええかなと思った。川辺の大蛇おろちでもええけど、普段通りに、けらけら笑って、がつがつ食って、優しくしてえなって甘えてくるような、そういう何でもない時の亨を。
 きっとそれは、いい夢やろう。
 けど、そんなもん、わざわざ夢に見んでも、いつも目の前にあった。
 この三日間が、悪い夢やったんやて、俺は思いたかった。
 亨はきっと、良くなるし、今俺が夢に見たいような、いつもと変わらん姿は、すぐにまた目の前の現実として、俺のところに戻ってくる。そうでないと困る。
 お前がおらんようになったら、俺はどうすりゃええんや、亨。
 お前が俺の、ずっと探してた運命の相手みたいなやつで、これからお前とずっと一緒に生きていくんやって、俺は思ってたのに。ほんまに文字通り、ずっと一緒に。ふたりで幸せに。
 ひとりやと寂しい、お前無しやと、俺は幸せになられへん。
 せやから早う、元気になってくれ。神様でも仏様でもキリスト様でも、なんでもええから、亨を助けてくれて、俺は祈ってた。祭りすんなら生け贄寄越せて、そういう神か悪魔が、こいつを助けられるていうなら、それでもいい。俺を食えばええやん。
 そう思って眠ると、どろりと深い闇のような夢やった。
 何か得体の知れない、猛烈な力を持った光や闇が、激しくもつれ合いながら、どこが上とも分からんようなところで、明滅していた。これはなんやろうって、俺は思った。
 それがたぶん、俺が最初に意識して見た、神か鬼かの世界やった。
 熱く灼けたようでいて、冷たく凍てつくところやった。そこには竜がいて、鬼もいた。おそらく神もおったやろ。どんな名で呼ばれるか、結局はそれだけのことやった。
 天地あめつちよ、と、俺は茫漠と呼びかけた。お前はなんのために俺に力を与えたんや。その力は、自分が心底愛してるもんも救えないような、そんな虚しい力なんか。
 答えてくれって、俺は祈ったけど、答える声はなかった。
 熱く渦巻くような闇に、どおんと深く唸るような音が、重く響いただけやった。


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