SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(9)

 俺は死ぬ。そう思うたら、涙がぼろぼろ出てきて止まらへんかった。
 大の男が泣くなんて変やって、皆思うかもしれへんけどな、でも誰だって、悲しい時は悲しいんやで。鬼でも蛇でも、悲しい時は泣く。鬼の目にも涙っていうやろ。
 泣いたらあかんて思いはしたんや。にこにこしとかなあかん。
 だってアキちゃんが最後に見た俺が、めそめそ泣いてる顔やったら、ちょっと悲しいやろ。アキちゃんは俺の、笑ってる顔が好きなんやって。せやからラストシーンは微笑でないとな。
 そう思って、根性でにこにこしてたんやけど、アキちゃんが眠ってもうたら、もう泣けてきて、しゃあなかったわ。
 俺って、このまま死ぬんちゃうん。死ぬような気がする。
 おかんが手伝って疫神を祓ってくれて、それで病気のほうは治ったんやろけど、そいつらが出ていった後に、ぽかんと手の施しようのない空洞があるような気がする。
 実は病気のままのほうが、長生きできたんとちゃうんか。毒食らってるみたいな状態で、どんどん弱りはするけど、それって、物凄く虚弱っていうだけで、食うモン食うてたら死にはせんかったんちゃうんか。それでも、ゆるゆるデッドエンドに近づきはするんやろけど、今みたいに、もう死ぬわって感じは、まだしてへんかったで。
 死ぬのが怖い。
 死ぬのって、どんなもんやろって、昔から時々怖く思ってたけど、現実として迫ってくると、全然特殊なもんやない。疲れて眠って、そのまま目が醒めへん。ああ死んでもうたわって、そういう感じなんや、きっと。
 俺は人間やないし、たぶん精気の塊みたいなもんで、死んだら霧消して、なんも残らへんと思う。それとも何かは残るのか。カサカサに干からびた白い蛇とかか。嫌やなあ、それ。
 できるもんなら、なんも残さず綺麗に消えたい。
 アキちゃんが目を醒ました時、俺はどこにもいない。亨は消えた。あいつはどこに行ったんやって、アキちゃんは動揺するやろけど、でも、そのほうが、俺が目の前で消えるのを見るよりマシなんちゃうかって、俺は思ってた。もしかしたら、アキちゃんは、亨は元気になって、ふらっと散歩にでも行ったんや、この世のどこかにいるんやって、思ってくれるかもしれへん。そして俺を探してくれるかも。
 そういうのって、俺の我が儘と思うけど、いろいろある選択肢の中で、一番マシで美しいと思えたんや。死なんといてくれって泣きわめくアキちゃんなんか見たくないやろ。そんなキャラやないやん。格好悪いで。嬉しいけど、格好悪い。そんな目に、遭わせたくないねん。
 せやけど俺はアキちゃんの腕の中で死にたかった。最後の一瞬まで抱いといてほしい。せやしアキちゃんには眠ってもろたんや。疲れてるのもあったやろけど、俺の毒素はよう効くで。アキちゃん、ぐうぐう寝てたわ。
 ほんの一瞬、眠らせるんやのうて、このままアキちゃんにも死んでもろたらどうやろって、実はちょっとは思ったわ。連れ落ちしよかて。けど、やっぱ、それは無理やな。気の毒すぎて。
 それに、もはや人でなしのアキちゃんを、俺が簡単に殺せるもんなんか、それも分からへんしな。
 アキちゃんは元々、ただの人間やった時でも、優秀なげきの素養があって、俺より強いくらいやったんやから、それが不滅の体になって、どんだけ無敵になったやろ。俺にはもう、勝ち目なんかないって、そういう気もする。
 そんな凄い奴の作成に、貢献できてよかったな的な、そんな満足を冥土の土産にして逝こかて、俺は自分を納得させてた。アキちゃんは、俺を愛してた。結局、言葉に出しては言うてくれへんかったけど、でも言わなくても分かる。俺には分かってた。そういうつもりやった。せやから幸せやった。長い一生の終わりが幸せで、ハッピーエンディングやないかって。
 けど全然、納得でけへんかったで。悔しい。なんで何百年も何千年も生きてきてて、死ぬのが今このときなんやろ。まだアキちゃんと、半年しか一緒にいてない。なんでそういうことになるねん。無駄に生きた俺の数千年が憎いわ。
 アキちゃんとまだ、紅葉も見てない。クリスマスの夜に出会って、桜眺めたきりや。五月が過ぎて、梅雨に入るころにはもう、アキちゃんは例のCGの制作に取られっぱなしやったからな。
 畜生、あの犬め。てめえも死にかけてるからとは言え、俺の貴重な半年から、一ヶ月も二ヶ月も、アキちゃんを横取りしやがって。むかつきすぎる。思えばあいつに一矢も報いずに死ぬとは、心残りやった。
 感触からして、あいつはまだまだ初心うぶなほうやで。千年も生きたような化けモンとは違う。めちゃめちゃ人食って、一時的に強いけど、でも底が知れてるわ。ほんまやったら俺の敵やない。アキちゃんに使役されてるしきやなかったら、俺にはあんな奴、一捻りやったわ。
 なのにあいつはきっと、俺のことを、ちょろい奴やったって思うたやろ。ほんまに腹立つ。俺はお前に負けたんやない、アキちゃんに負けたんや。アキちゃんの命令に逆らえへんかっただけなんや。
 できるもんなら、リベンジしてやりたかった。あいつの可愛い顔を、土足で踏みにじってやりたかったで。もしまだ向こうも生きてるんやったらやけどな。
 思えば、それもむかつく。死にかけへろへろのやつに疫神うつされて、俺のほうが先にくたばるやなんて、許されへんわ。あいつはもうとっくに死んでるって、思いたい。俺も死ぬけど、それでも、アキちゃんの腕の中でやで。ざまあみろ、どろぼう犬。お前はひとりで死ね。アキちゃんも、そう言うてたやろ。俺にはちゃあんと、聞こえてたんやで。
 せやけどこれが、ほんまに勝利と言えんのか。死んだら元も子もない。
 死にたくない。アキちゃんとずっと、一緒にいたい。アキちゃんには俺が、必要やねん。そうでないと嫌や。他の誰かが俺の後を埋めて、アキちゃんを幸せにしてやるなんて、きっとそうだとええなって思うけど、でも耐え難い。俺でないといやや。俺がアキちゃんと幸せになる。めでたし、めでたしで終わって、ふたりはいつまでも幸せに暮らしました、ってなるのは、俺とアキちゃんとでないと。
 アキちゃん好きや、俺を離さんといてて、俺はおいおい泣きながら、眠ってるアキちゃんの胸にすがりついてた。アキちゃん、なんで服着てんのやろ。脱がしたろかな。でもそんなパワーないしな。服脱がせてて死んだらアホみたいやな。その分、一瞬でも長生きしたほうがトクちゃうか。どないしよ。
 そんなことで悶々している俺を、ものすご呆れた目で見上げてるやつがいた。
 ブサイク猫のトミ子やった。
 おかんと舞は追い払ったけど、そういやお前もいたんやったな。いつの間に入ってきてん。恋敵の俺が、あえないご最後を遂げるのを、笑って眺めに来たんか。お前も鬼やな。
「うちは鬼やない。猫や」
 見りゃあわかるやんて言うようなことを、トミ子は堂々と言うた。猫が喋ってた。アキちゃん寝ててよかったで。慣れてないからな、そういうのには、まだ。
「あんた、もうすぐ死ぬみたいやな、亨ちゃん」
 猫らしい、可愛い声で、トミ子は俺に訊ねた。
 そんなこと本人に訊くなやで。気の毒やと思わへんのか、俺のこと。お前が冬に、美大の廊下で掻き消えた時、俺はお前が可哀想やと思うたで。あの、憎ったらしい勝呂瑞希すぐろみずきでさえ、どことも知れん場所で、ひとり寂しく飢え渇いて悶死したかと思うと、可哀想やって思うわ。
 悔しいけど思う。あいつはアキちゃんが好きやっただけやろ。俺もお前の立場にいたら、同じことしたかもしれへん。
 そういう意味では、似たモンどうしやで。俺も、お前も。トミ子も、俺も。みんな似たような、お気の毒な化けモン仲間や。そんなアキちゃん同好会やからな。他人やないて思えて、俺はお前が嫌いやなかったんやで、トミ子。むしろ好きやったかもしれへん。だから駅から拾うてきてやったんやないか。そんな俺の情けに、ぜんぜん全く、一ミリも感謝してへんのか。薄情なブスやなあ、お前は。心の醜さが顔に出てるんやで、きっと。
 俺はアキちゃんの胸で泣きながら、トミ子に思いつく限りの悪口を言うてやった。
「あんたのその口の悪いのも、もう聞かれへんのやと思うたら、うち、なんや寂しいわあ」
 おっとりと、トミ子はそんな感想を述べた。お前の感想なんかいらんねん。言うこと言うたんやったら、あっち行っとけ。俺の可哀想なフィナーレを、アキちゃんとふたりっきりにさせてくれ。後釜埋めるんは、俺が完全に死んでからにしてくれ。いくら嫌いやないお前でも、横入りされたら、俺はつらいねん。それが復讐やていうんなら、仕方ないけど、もののついでやろ、拾ってやった返礼に、俺にも情けをかけてくれ。
「確かにあんたには、借りがあるわ、亨ちゃん。うちはこれから、それをあんたに返そうと思う」
 ひょいと身軽に、鮮血に赤いベッドに飛び乗ってきて、トミ子はブッサイクな黒い毛並みの顔の、爛々らんらんと光る猫の緑の目で、俺と向き合った。きれいな目やわと思った。お前の顔なんて、まじまじ見たこともない。だって、見たら笑うてまうやん。せやけど、お前の目はなんて綺麗なんや。目は心の窓やとか言うけど、お前はまさか、心の綺麗な女なんか。
 綺麗なもんが好きなアキちゃんが、お前とは半年保ったんや。お前にもどこか、綺麗なところはあったんやろ。まさかお前が化けの皮として被ってた、姫カットの死体が好きやったってだけやないやろ。死体は結局、死体やで。
 お前は誰も殺してへんかった。死んだ女の体を、ちょっと拝借しただけや。本人がもう要らんて言うんやから、それを拾って使ったって、別にかまへんやん。お前は人食ったような俺とは違って、罪穢つみけがれない女やで。まあ、あるとすれば、自分を殺した罪ぐらいか。せやけどそれも、心残りがあったから、道に迷って、何十年も居残ってたんやろ、自分が死んだ場所に。
「そうや。うちは迷うてたえ。せやけど発作的に飛び降りてしもてん。うちの絵が盗まれたんや」
 猫はにゃあにゃあと甘いような声で、俺に身の上話をもちかけてきた。聞いてる場合やないんやけどな、俺。でも聞かされるもんは、逃げようがない。
「うちが描いてた絵をな、別の女が盗んでたんや。それに自分の雅号を入れてな、品評会に出してたんえ。図々しい話やわ。それで金賞とって、一躍画壇の寵児なんやて。綺麗な子やったんえ。それで皆、あの子に優しかったんや。うちみたいなブスとは住んでる世界が違うてる。うちが金賞取った絵見て腰抜かして、先生に、あれはうちが描いた絵どすって、訴え出ていったら、どうせ嘘やろ、あきらめろ、お前みたいなブスが描くより、美人が描いた絵のほうが、みんな心地ええわって言わはった。うちはそれが悲しいてな、気がついたら飛び降りてたわ」
 悲しい話やなあ、それは。でも確かにお前はそれくらいブスやで。先生も思わず言うたんやで。言うべきやないけど、でも言いたくなる気持ちは分かるわ。ひどい話やなあ。
 それで、どないなったんや、その先生と女は。どうせデキとったんやろ。
 俺が訊ねると、猫はふっふっふと面白そうに笑った。
「鋭いなあ、あんたは。確かにそうやった。せやけど盗める絵は一枚きりや。うちはもう死んでもうてたしな。あの女も必死で絵描いたやろけど、うちの天才に敵うはずない。何か変やてバレてきてもうて、絵盗んだやろって言われて、先生も教え子に手出したんがバレてもうて、お気の毒にふたりで首吊りはったわ。あの作業棟の裏庭でやで。うち、いい気味やったわ」
 ほんならなんで、それを冥土の土産にして、成仏できへんかったんや。
 俺が訊ねると、猫はちょっと寂しそうに首をかしげた。
「やっぱり、心残りやってん。絵ももう描かれへん。うちはなんで死んでしもたんやろ。悔しくても、強く生きて絵描いてたら、生きてるうちに、いい気味やって思えたかもしれへん。死んだらあかんかったって、後悔してたんや」
 そうやな、トミ子。お前は可哀想なやつや。でも幸いというか、なんというか、ブスを悔やむあまりの怨念のお陰で、お前は化けて出られて、今後は猫のトミ子として、愛しいアキちゃんとの同棲生活に戻れるんやないか。元気出せ。人生、七転び八起きらしいで。ちょっと自殺してもうたくらい、もう忘れろ。過去のことや。幸せな化け猫として永遠に生きればええんや。
「永遠には生きられへん。うちの命には限りがあるえ。猫には命が九個あるって言うやろ。九個しかないねん。それでも、九個あれば足りるやろ。人間並みかどうか、うちにはわからへんけど、それでもあんたの、腹の足しにはなるやろ」
 けろっとして言うトミ子の緑の目と見つめ合って、俺は絶句してた。
 俺はな、腹ぺこやってん。
 もう、血吸うぐらいのことでは、満たされへん飢えがある。
 勝呂瑞希すぐろみずきもそうやったやろ。初めはちょっと噛みつく程度で我慢してたのに、最後には人食いはじめてた。命の器から漏れ出てくる精気を舐めるだけでは足らんようになってきて、命そのものを食らって生き延びようとした。
 それでも、そんなもんは一時しのぎや。あいつは病気で、一時回復しても、結局はまた疫神に蝕まれる。
 せやけど、俺はどうやろ。もう疫神は去った。今このときの命を繋げれば、あとは回復するだけやで。精の付くようなもんを、がつがつ貪れれば、それで死なんで済む話や。
 でもな、まさかほんまにアキちゃん食うわけにはいかへん。そんなん本末転倒やからな。他の人間食うわけにもいかん。おかん食うんか。腹壊すわ。舞は人やない。食いたい言うたら、アホかて言うやろ、あの女。舞には舞の都合があるし、あいつはおかんに仕えてるしきや。勝手に死なれへん。
 ほな、ふらふら出ていって、道歩いてるやつ片っ端から食うか。それで口の血拭って、何食わぬ顔でアキちゃんのところに戻って来れるか。蛇でもええんや、ほんなら人食った鬼でもええよなって、そんなこと平気で言えるやろか。
 なんで人食うたんやって、アキちゃんは勝呂瑞希すぐろみずきなじってた。アキちゃんにとっては、許されへんことなんや、それは。それをやったら、もう愛してもらえへん。それは嫌や。愛が醒めたて、冷たい顔されるくらいやったら、お前が好きや死なんといてくれて言われて死んだほうがマシ。
 そう思って、俺は潔く死ぬ覚悟やったんやで、トミ子。
「うちはなあ、クリスチャンやってん。知ってるか、キリスト教やで」
 聞いとんのか、トミ子。なに話逸らしとんねん。俺の健気な激白はスルーか。
「自殺は大罪やねん。自殺したら天国へ行かれへん。それで困ってもうてなあ。地獄行くの怖いわあ、て、ずっと居残ってた節もあるんや」
 大丈夫や、地獄も天国も気の持ちようやで。それにお前みたいな鬼並みというか、鬼顔負けみたいな顔のやつやったら、地獄の悪魔か鬼さんも、こいつはスタッフやろって思って、大して虐めへんのとちゃうか。
「もう。亨ちゃん。ふざけてへんと、まじめに聞いとくれやす」
 ふざけてへん、俺は。本気で言うてんのや。
 そう言うと、猫は、がくりと項垂れた。もう話してても意味ないわみたいな、ものすごく呆れられた感じやった。
「あんたに言うても、どうしようもないな。とにかくな、うちにはうちの信仰があるんや。自殺は罪やけど、自己犠牲は天国への近道や。今まで道に迷うてて、八方塞がりやったけど、今ここに来てとうとう、天国へ続く抜け道を見つけたえ」
 ついてるわ、うちは、と、黒猫はしみじみ言った。
 うちを食うて生き延びたらええよ、と。
 そしたら、うちも、あんたの一部になって、暁彦君とずっと一緒に居れるかもしれへん。ひょっとしたら、また絵も描けるかもしれへん。それが無理でも、とうとう赦されて、天国へ行けるかもしれへん。どう転んでもトクなことばっかりや。
 それに、あんたも死なんで済むやろ。生きていたいんやろ。
 ちょっとの間、ここの家族やってて、うちも思うんやけどな。暁彦君はあんたのことが、ほんまに好きみたいやわ。うちと過ごしてた時には、もうちょっとまともな人やったえ。ええ格好してはったわ。それは、要するに、その程度の気持ちやったってことやんね。うちに夢中になってたわけやないんや。
 それはもう、しょうがない。しょうがないんや。頭下げて頼んだからいうて、人を好きになるわけやないやろ。きっと運命なんや、こういうものは。
 暁彦君には、あんたが必要やと思う。せやから、うちの命をあんたにやるわ。それが、うちが暁彦君のためにできる、最高の献身なんえ。
 どうや、参ったか、冷血の蛇め。
 そう言って胸を張る黒い猫を、俺は畏れ入って眺めた。
 負けた。お前には。完敗してる。
 お前は俺が今までの長い生涯で出会った、最高の女や。最高に献身的。心映えが、美しすぎる。その反動で、顔がブサイクなんか。その逆やったら、きっとお前は幸せやったろうに。
 けど俺は、そんなブサイクなお前のほうが好きや。クレオパトラや楊貴妃よりも、きっとお前のほうが美しいで。いや、本人知らんのやけどな。勝手なこと言うてごめん。せやけど、お前の心は、それくらい綺麗やで。
 死ぬことない。お前がアキちゃんを幸せにしてやり。時間かかるかもしれへんけど、お前が九回生きる間に、アキちゃんかて立ち直るやろ。俺はもう、そのお気持ちだけで充分。
「あら、そうか。ほんなら、死ぬんか。それはお気の毒やねえ。お悔やみ申し上げます」
 けろっとして言い、トミ子はまた、ひょいとベッドから飛び降りた。
 後ろ姿を見せて、猫はこちらをちらりと振り向いた。
「あんたをやっつけた、あの犬なあ。まだ生きてるえ。うち、テレビで観てん。大阪で、人がいっぱい死んではる。それと暁彦君を、戦わせるて、お母様が言うてはる。命なくなるかもしれへんけど、それが筋やしなぁ、て。きちんと責任とらなあかん。責任とって死ななあかんのやったら、それが運命どす、って」
 何言うとんねん、おかん。
 死なな倒せへんような相手やないで。俺なら一捻りなんやで。
 アキちゃんみたいな初心者にやらせたらあかんわ。誰かおるやろ。おかんのしきを出せ。生前贈与や。
「おらへんようやで、亨ちゃん。戦えるようなのは、ぜんぶ、お母様のお兄ちゃんが戦争に駆り出してしもたんやて。あんたが秋津家にやってきた、久々の武闘派や」
 トミ子の話に、俺は喘いだ。
 なんということや。俺さえ健在やったら何でもないことが、生憎この様で、それでアキちゃん命懸けやていうんか。下手すりゃ、あの犬と心中か。絶対許せへん。
 俺は悔しい。俺にあと、ほんのちょっとの力があれば、死んだりせえへん。アキちゃん助けて戦ってやれるのに。
 俺はそういう目で、にやにや尻尾振ってる黒い猫を見た。
 お前、美味そうやなあ、と思って。
 美味そうや、トミ子、まるまる太りやがって。顔はブサイクやけど、それは味とは関係あらへん。女なんてな、人間の顔なんて、一皮剥いたら、関係あらへんで。人も猫も、結局はただの肉と骨。食うてしまえば美人もブスも、おんなじや。美味いか不味いかの差しかあらへん。
 お前は化粧もしてへんかったし、ごてごて何か飾り立てたりもしてへんかった。香水ぷんぷん振りかけたり、得体の知れんダイエットサプリ飲んだりするような、食品添加物たっぷりの女やなかったで。アキちゃんに、体にいいもん食わさなあかんて言うて、俺に教える料理も、無農薬野菜の昔ロハスみたいな和食ばっかりやったやろ。そら体にええわ。骨まで食うても何の害もない、俺の体に優しい猫やわ、お前は。
 俺がそんなこと考えながら、何となくはあはあしてきて、よだれを堪えていると、トミ子はにやにや言うた。
「うちはな、ほっぺた落ちる美味しさえ。いっぺん食べてみて」
 ゆらゆら揺れる猫の尾が、なんとはなしに誘うようやった。
 まさかな、俺がこのブスに誘惑されることがあるとは、想像したこともないわ。
 なんや胸苦しくなってきて、俺は自分を抱いてるアキちゃんの腕から這い出した。胸押さえてた布団を退けたら、まだ、胸にぽっかり開いた傷から、血がだらだら流れてた。そら死ぬわと、自分でも思った。俺、あのエグい顔のコビトさんたちに、ばりばり食われてもうたんや。あんなもんでも神は神、それが身の内にいるうちは、いくらか力もあったけど、もうゴチソウサマや言うて、出ていってしまいはった今では、俺はただの、美味いとこから食い散らかされた残飯みたいなもんかもしれへん。
 まともに動く気力もないわ。
 そう思ってたけど、黒猫食いたさで、俺はベッドから這い出してた。
 アキちゃん眠らせといて正解やったで。自分がその時、どんな顔してたんか、自分でも想像したないわ。
 俺はほんまに、自分の全てを、アキちゃんにさらけ出したやろか。多分、そうやない。醜悪やと思うもののなかでも、自分なりには美しい部類やと思えるものから順に脱いでいっただけで、好きな相手には絶対見せたらあかんもんはある。まあ、それは追々、アキちゃんがもっと、人の世とおさらばする覚悟決めてから、ちょっとずつ味見させたらええねん。
 這い寄ってくる俺を見て、トミ子は食われる覚悟はあったんやろうけど、張り付いた笑みのまま、じりじり逃げてた。そら、怖いやろ。自分を食おうってやつが、よだれ垂らしてじりじり迫ってきたら。
 はあはあ喘ぐ俺を見て、ブスのトミ子は怯えた声で、それでもしみじみと言った。
「亨ちゃん……あんた、ブッサイクやなあ」
 そうや。俺はほんまは醜悪やねん。化けモンやからな。美しいのと醜いのとは、突き詰めると紙一重やで。
 俺の心根は、今すごく醜いねん。トミ子、俺はほんまのこと言うたら、お前のこと、友達やと思ってた。お前が好きやってん。おんなじ男に惚れた仲やないか。おんなじ痛みが分かるやろ。お前もアキちゃん好きなんやろ。そんなら俺が、お前を食うてでもアキちゃん守りたいと思う気持ちが、お前には分かるやろ。それが分かるからこそ、俺に自分を食うてもええて言うてくれたんやろ。
 そんなお前がな、俺は好きやで。なんて健気で可愛い女や。
 けどな、お前にかて、アキちゃんはやらへんで。ほんまは誰にも譲りたくないんや。横入りするやつは皆殺し。全部俺が食うてまうやろ。俺のほうが、アキちゃんには相応ふさわしい、アキちゃんに必要なのは、お前やのうて俺なんやて、内心の奥深いところでは思うてる。それが俺の、本音の本音やで。
 そんな醜い心根が、顔にも姿にも顕れてるんやろ。そんな有様、アキちゃんには見せられへん。せやけどお前には隠しはせんわ、俺の友達なんやろ、トミ子。ブサイクなんはお前だけやないで、ブス。みんな似たようなもん、お前なんかな、めちゃめちゃマシなほうや。
 食うてもええか、痛くはせんから。まるごとひと呑み。べろんごっくん、ゴチソウサマやで。
 俺が強請ると、トミ子はもう捕らえられた獲物の目して、ああ、ほんまにそうして、うち、痛いのは嫌やわ。早う済ませて頂戴て言うた。
 ほんまに一瞬やったで。猫一匹なんて。俺は人でも牛でも、やろうと思えば丸呑みやからな。
 それでも俺は泣きながらトミ子を呑んだ。
 悲しいていうより、何でこういう事になるのかって、呪わしかったんや。俺は別に、あとで食うたろと思て、トミ子を拾ってきたわけやないんやで。こいつもアキちゃんの傍にいたいやろうと、情けをかけたつもりやったんや。
 付き合うてみれば、案外ええやつやった。ブスやけど、いろいろ物知りで家庭的やったし、料理も得意で、それでいて控え目で、俺が困ってると、どしたん亨ちゃんて言うて、隣に座ってきたりした。おかんみたいな女やったで。アキちゃんのおかんとちゃうで、一般論としてやで。
 そんなブスがな、俺には慕わしかった。お前がいてくれおかげで、アキちゃんとの二人暮らしにも、なんとなく和み感があるなあ、みたいなな。アキちゃんが留守の間に、俺がひとりで部屋に戻ってきても、真っ暗で誰もおらんのやのうて、ただいま、お帰りっていう相手が居るのは、何かええもんやな、って思ってた。
 そんな相手を食うてでも、生き延びようっていうんやから、俺はよっぽど因業なんやで。
 ごめんな、トミ子。ありがとうやで。成仏してや、って、お前、クリスチャンや言うてたな。ほんなら何になるんや。天使か。天使やないか。キリスト教の神さんは、人間死んでも神や仏にはせえへんのやで。ケチやなあ。せやけど、人は人のままで、天国でぼけっと永遠に幸せで、絵描きたいやつは絵描いてりゃええらしい。それはそれで、らくでええかな。死んだ後まで、神や仏や言うて祭られて、働かされる人らもいてはることを思えば、そのほうが気楽やろか。
 どっちでもええけど、トミ子、お前がなんとか思うような天国へ行ければいいけど。実は俺に食われて、それっきり消えたんやないやろか。そんなような罪の意識があるせいで、俺が感じた錯覚か、はたまた妄想か。俺は自分の身の内に、まだ黒猫がいるような気がしてた。そりゃあまあ、呑んだばっかりやからな、すぐには消えへんのやろ。消化するのに時間がかかる。苦しみもがくような感じはせえへんかったけど、とにかくトミ子は俺と居るって、そういう感覚がしてた。
 あのな、結論から言うとな、フュージョンしてもうたんやな。食うたんやけど、それってつまり、食うたもんを自分の血肉として活かすってことやろ。マジでトミ子は俺の中におったらしいで。
 どないなってんの、これ、って、錯乱した声が、頭ん中で響いてたわ。これもう天国かて、トミ子がうろうろしてるんで、ちょっと待て、天国やのうて俺の中やでって、俺は慌てて教えた。そしたらギャッみたいな悲鳴あげやがって、なんでうちがあんたと一緒にならなあかんのって、トミ子が激怒してた。
 まあ、そうやわな。俺もそう思う。なんで選りに選って、このまばゆい美貌を誇る俺様が、ブスのトミ子とフュージョンせなあかんねん。亨ちゃん・ウィズ・ブスはないで。それはあまりにも無茶や。お前、友達やけど、一応は恋敵なんやからな。天国でも極楽でもええから、さっさとどっか行ってくれへんか。
 俺はじたばたして、なんとかトミ子を吐き出そうとした。けど、吐いてもうたら、俺ってまた死にかけ状態に逆戻りなんやと気がついて、それもでけへん。
 どうしよ。とにかく人の姿に戻っとかな、アキちゃん起きたら困るしなて思って、よっこらしょと変転した。
 ビルから落ちる荒療治のお陰で、俺も変転するコツを思い出したんやな。あんまり長いこと人の姿で過ごしてきたから、変わり身が遅くなってしもて、これから練習せなあかんて、俺は思った。
 これでちゃんと戻れてるかて、自分の体を見てみて、ほんまにもう絶叫やったで。
 女になってる。
 嘘やあ。女になってるで。乳がある。
 どう考えてもブスを食うたせいやった。まさか顔もブスかと思って、俺は焦って鏡を探した。せやけど寝室には鏡は置いてない。アキちゃんが寝てる枕元の、例の目覚まし時計しかない。
 それで恐る恐る忍び足で近寄っていって、軽い寝返りをうつアキちゃんにびくうってしながら、俺は取り上げた目覚まし時計の鏡面と向き合った。
 別にブスやなかった。と、いうか、美人さんやった。
 もともと俺は、どっちかいうたら中性的な顔やったからな。それがさらにちょっと女っぽくなったかな、ていう程度のもんで、あんまり変わったような気はせえへん。
 しかしこれはヤバいで。おかんの思うつぼや。嫁いびりの本格スタートや。アキちゃんも、もしかしたら大喜びするんとちゃうかて、俺はなんとなく青くなって、ううんて呻いてるアキちゃんに、起きんといてて心で頼んだ。
 戻ろう。なんとかして、元通りの男の姿に。でも、それでええんかな。アキちゃんが、女の俺のほうが好きやていうんやったら、それもありかて、ちらっと思った。
 それで、ビビりながら、アキちゃんが起きるのかどうか、突っ立って眺めてた。
 アキちゃんは、抱いてた俺が腕の中からおらんようになったのが気になって、目が醒めてきたらしい。ごそごそと布団を探る仕草をして、そこに俺がいないのを確信すると、アキちゃんはびっくりしたように、がばっと起きた。
 そして、ベッドの脇に突っ立っている、全裸の女を見た。俺やで、念のために言うと。
 アキちゃんは、口ぱくぱくしてた。俺が蛇になった時より、よっぽど驚いてたわ。
 しばらく、心ゆくまでぱくぱくしてから、アキちゃんはやっと叫んだ。
「なにやっとんねん亨、お前、女になってるやないか」
「う、うん、そうやねん。なんかな、こういう事になってしもてな……」
 乳ぐらい隠したほうがええんなあて、俺は悩んでた。なんかな、わからへんよな、急に女になっても。どうしたらええか。恥じらったほうがええかなあ。アキちゃんものすご見てるし、上から下まで三往復くらいスキャンしてガン見してたで。見過ぎやろお前。未だかつて、そこまで必死で俺の裸見たことあったか。やっぱお前、女がええんか。そういう男なんやな。そうやろうとは思ってたけど、現実にそうやというのを目の当たりにすると、寒いわあ。
「ちょっと、くらい、隠せ」
 青い顔して、しどろもどろに言ってから、アキちゃんは自分の顔を覆った。自分が目瞑ればええんやって気がついたらしかった。ていうか、別に見たいなら見たらええんやないんか。だってお前のモンなんやし。毎日組んずほぐれつしてたやろ。人には言えんような事もしてたやん。まあ、そん時には女体にょたいやなかったけど。恥ずかしいんか、女体にょたいが。今さら恥ずかしいて言うほうが、よっぽど恥ずかしいで。
「めちゃめちゃ好きか、アキちゃん」
 俺は呆れ口調で訊ねた。むしろ非難してた。お前はどうせそういう奴やって。
 アキちゃんはそれに、頭を抱えたまま、ふるふる首を横に振った。
「無理」
 なにが無理やねん。
「刺激が強すぎ」
 なんの刺激や。やりたいんか、俺と。やったらええやん。いつもやってることを。今日は選択肢が増えてるで。まさかの新展開やろ。ご期待どおりか、この野郎。やるならやるで、俺は。もうすっかり元気やからな。何発でも付き合うたるで。
「お前な、ちょっと正視に耐えないから、元に戻っといてくれ」
 アキちゃんは情けないような声で、俺にそう頼んだ。
「元に、って?」
 俺は唖然として訊ねた。アキちゃんはすぐには答えへんかった。
「元にって……男に戻れっていう意味か?」
 俺は訊ねた。女声で。それで、アキちゃんどんな顔してんのと気になってきて、眉をひそめて、ベッドに膝をかけて、そこに座ったままのアキちゃんの顔を、のぞき込みにいった。
 アキちゃんはぎょっとして、俺の顔を見た。そして、また青い顔でぱくぱくしてた。
「アホか、そんな格好で俺の視界に入るんやない。びっくりするやろ。さっさといつもの姿に戻れ!」
 めちゃめちゃ本格的な命令口調で、アキちゃんは俺に言った。それが切っ掛けで、俺はドロンと元の姿に戻った。つまりな、裸の男にやで。アキちゃんはそれを見て、ものすご深いため息ついてた。
「あかんで……ほんまに、冗談きつい」
 くよくよ言うてるアキちゃんは、額に汗かいてた。部屋が暑いせいかもしれへん。それとも違うのかも。
「何が、嫌やったん、アキちゃん。好みやなかった?」
 なんとなくドギマギして、俺は訊ねた。そういえば俺ってぜんぜん和風やないし、女になっても、アキちゃん好みの姫カットとか、おかんみたいな、着物美人にはならへんで、たぶん。どっちかいうたら外来の顔立ちやもんな。
「嫌やない。嫌やないけどやな、あかんよ、あれは。美しすぎる」
 錯乱してんのか、アキちゃんはストレートな説明をした。
 照れていいんか、俺はわからんようになって、難しい顔になった。自分のこと褒めてもらってるんやろけどな、なんか他人事なんやな。
「いいやん、アキちゃん、美しいモン好きなんやろ」
「好きやけど、なんかもう、日常生活の枠を越えてる。お前くらいで限界や」
 つまり俺は、女版よりも一段落ちるということか。男やからか。それが身近な感じなんか。
 なんやと、こら。男の姿でもな、俺は人がぼんやりするくらい美しいはずや。実際ずっとそうやった。神々しいくらいの美貌なんやで。お前もそれが好きやったんやろ。違うんか。
 それなのに、ひどい。見慣れるやなんて。
 見慣れたんやろ。それで、あー、これで身近やみたいなため息ついて、俺を抱き寄せてくるんやろ。
 アキちゃんは傷がなくなった俺の胸を見て、ああ良かったみたいに、そこに頬をすりすりした。すりすりっていうか。髭剃ってほしい、アキちゃん。くすぐったいから。その感触に、何やモヤモヤするから。
「元気になったんか、亨。血吸ったからか」
 俺を抱きしめたまま、アキちゃんは嬉しそうに訊ねてきた。俺は曖昧な作り笑いをした。
 血吸ってません。猫食うたんです。しかもその猫が、まだどっかに引っかかってる。
 答えないでいる俺に、まあええかというノリで、アキちゃんはキスしてきた。うなじと背を抱かれて、ぎゅっとされると、気持ちよかった。気持ちええわあ、て、猫も言うてた。
 お前、どっか行け。去れ、去るんや、トミ子。確かにお前は、俺の命の恩人や。せやけどアキちゃんのラブラブを半分こせなあかん義理はないで。ノゾキや、それは。見たらあかん。成仏してくれ、頼むから。
 そう言われてもなあ、て、トミ子は困ってた。しばらく居るしかないみたいえ。まあまあ居心地ええからかまへんけど、いつまで居らなあかんのやろ、って、ぺろぺろ前足舐めながら、居座る気配でトミ子は言うてた。
 アキちゃんにはそれが聞こえてないみたいやった。トミ子は俺の中にいるだけで、外からは姿は見えへんし、声も聞こえないみたいな。あたかも俺の妄想のお友達。ほんまにそうやったら平気やけど、トミ子は実在してるで。しかも俺が感じるもんはトミ子も感じるらしい。つまり、つまりそういうこと。アキちゃん気づいてないけど、基本3Pってことやで。冗談やないで。
 アキちゃんは俺が無事そうなのが、よっぽど嬉しかったんか、傷ひとつなく元に戻った俺の体を、なでなでしてた。それがまた何か気持ちいいから困るんや。俺、感じやすいねん。人より感覚が敏感なんや。それで何か、心持ち喘ぎ気味になってきて、これはヤバいと俺は焦った。このまま基本3Pコースやったらどないしよ。トミ子さえおらんかったら、元気になった記念に一発やっといてもええかなあ、えへへ、みたいな話やけどや。今はヤバい。嫌やもん、俺。
「あっ、や、やめて、アキちゃん。俺、まだ、しんどいから」
 思わず拒むと、アキちゃんは照れた顔をした。そして、俺を離して、ごめんなって言った。
 いや、ごめんな事ないねん。ほんまは抱いてて欲しいんや。畜生。なんでこんなことに。おのれトミ子、化け猫め。食われてもタダでは消えへんていうことなんか。お前は俺の中から出られへんのか。永遠にこのままってことないよな。
 俺が脂汗かいてトミ子に訊くと、猫は出られるえ、って、けろっと言った。
 そして、ドロンとアキちゃんの背後に現れた。
 俺はそれを見て、ぱくぱくしてた。黒猫が、ていうか、バニーガールの猫版みたいな、バニー服着たネコミミ女が、長い尻尾ゆらゆらさせながら、アキちゃんの背後に横になってた。その顔がな、あのブスやないねん。俺の顔やねん。それにどこか姫カットも混ざってる。いろいろ混ざってるらしいねん。
 アキちゃん、これ、見えてへんよな。まさか見えてないよな、って、俺はぱくぱく通りこして、あわあわしてきた。
「どうしたんや、亨。アホみたいな顔して」
 優しく笑いながら、アキちゃんは鬼みたいなことを言うた。
「う、う、うしろ……見てみて」
 俺は怖かったけど、意を決して指さしてみた。アキちゃんは、なんやろっていう顔で、後ろを振り返って、そしてまた何事もなかったように、俺に向き直った。
「何や。何があるんや」
 にこにこしたまま、アキちゃんは俺に訊ねた。
 見えてへんのや。よかった。ひとまず。良かった……っていうか、何なんやろ、このネコミミ女は。煩悩の塊みたいな、この姿は。
 俺もこれに、変身できるんやないかって、そういう気がした。もしかしたら黒猫にもなれるんかもしれへん。俺って、もしかして、食うたやつの姿とか要素を、取り込んで生きてきたんやないか。今の姿は、そうやって食らってきたもんの中からチョイスした自己ベストで、まだまだバージョンアップするわよみたいな感じなんとちゃうか。
 アキちゃん、姫カットみたいな和風が好きやし、もしかして、これもありかって、俺は汗かきながら、横たわるネコミミ女を見た。猫部分、要るんかって謎やけど、アキちゃん猫も好きやし、案外、好きなんか、これ。萌えるんか。和風にしましたみたいな俺顔の、さらさら姫カットの、ネコミミ女。
 えええ。それは、また一段と世界が拡がりすぎる。小出しにせなあかんよ、小出しに。先行き長いんやから。
「お邪魔やったら、うちはヨソへ行っとくけど、そう遠くには行かれへんえ」
 Eカップぐらいが眩しい、太腿剥き出しのえろえろタキシードの女が、京都弁でそう言った。お前は、トミ子なんか。トミ子・改か。変わりすぎやろ。和装のブスのほうが耐えやすかった。
 けど、俺が過去に食らってきたはずの、他の連中は、どこへ行ったんやろ。もしかして、ゆっくり溶け合って、ひとりになってもうたんかな。なんか、そんなような気がする。食いたいと思って食うたら、その相手はいなくなってしまう。せやから、いくら好きでも、アキちゃん食うたらあかんねん。アキちゃん、いなくなってしまう。そう思って我慢してきたんやった。
 て、いうことは、トミ子もそのうち消えてまうんやろ。それには、どれくらいかかるんやろ。
「心配せんでも、うちはしばらく居るわ。命が九個もあるから」
 俺に似た美声でそう教え、ゆらゆら尻尾振りながら、ちゃんと二本足で歩いて、トミ子は部屋を横切っていった。
 痛いわあていう顔で、それを見送る俺を、アキちゃんは不思議そうに見てた。
「まあ、せいぜい、ごゆっくりお楽しみやす。前と何が違うのん。うちが見てようが、なんも気にせんと、いちゃいちゃいちゃいちゃしてたやないの。見た目がちょっと変わっただけやろ、ブサイクな猫やったんが、自分そっくりの女に」
 そうやけど、それは大きな違いやで、トミ子。だって。もし俺がアキちゃんと抱き合うて、気持ちよくなってたら、お前はどういう状態になってんの。想像するだに鼻血ブーやわ。想像させんといて、俺に。かといって目の前で見せるのもやめといて。ナルシズムの極致やわ。なんか、それ、エロすぎへんか。いくら俺でも、ヤバないか。
「どしたんや、青い顔して。まだ、寝といたほうがええんやないか」
 アキちゃんは心配そうに俺の顔を見た。
「平気、たぶん平気……それはそれで」
「それはそれで、って、何が」
「俺、元気になった。復活したで、アキちゃん」
 もう気にしてもしゃあない。俺はぽかんとしてるアキちゃんにがしっと抱きついた。なんのこっちゃというリアクションやったけど、アキちゃんはそれでも抱きしめてくれた。ううん、気持ちいいと俺は思った。それに同意する声は、今回はなかった。トミ子もいちおう、気遣ってくれてんのか。
 変なことになった。でも、まあ、ええか。俺も生きてて、トミ子も生きてる。いつかは消えるんかもしれへんけど、それでも、友達食い殺したわけないらしいから、それはそれで、ええか。
「アキちゃん、いっぱい抱いて。その前に俺、なんか食いたい。風呂も入りたい。でもその前にもっとキスもしたい」
 うにゃあんと甘えて、俺はアキちゃんにすりすりした。俺、ちょっと、猫入ってへんか。平気か、気のせいかな。
 アキちゃんもそんな感じがするんか、おお、よしよしみたいに、猫可愛がりやった。それはそれで美味しいか。
 ちゅうちゅうしてくれるアキちゃんにうっとり来ながら、生きててよかったと俺は思った。
 アキちゃんと抱き合ってキスするの、めちゃくちゃ気持ちいい。
 けど、その前に、髭剃ってやればよかった。なんか、やつれてて、可哀想。
 おかんがまだ家にいるというんで、俺は挨拶せなあかんと思って、リビングに行こうとした。アキちゃんは俺に、裸やでって大あわてで言ってた。
 ああ、そうやったって思って、俺はなんか着るもんないかて辺りを探した。そしたらな、おかんが買うてくれてたバスローブがな、なんでか一滴の血にも染まらんと、ふかふかのまま残ってた。袖を通すと気持ちよかった。
 それでリビングに出ていくと、おかんは喜んでくれた。いやあ、亨ちゃん、良かったわあて、にこにこ嬉しそうに笑ってくれて、舞ですら、感激したように涙ぐんでた。ていうかお前、なんでそんなゴスロリ服やねんて、俺はツッコミ入れたかった。新たな萌えでアキちゃんを誘惑しようという戦法か。去れ、植物系。そんなもんより俺の新ネタ・ネコミミタキシードのほうが萌えに決まっている。本物のしっぽがあるんやで。
 まあ、そんな水面下の戦いはさておき、俺とアキちゃんは居住まいを正すべく、久々にふたりで風呂に入った。ついでに気持ちいいことは残念ながら省略やった。おかんが居るしな。一人ずつ入るって主張したアキちゃんが、今さらなに言うてますのんていう、若干冷たいおかんの声に一蹴されて、二人で入ることになったんやけど、あの時ほど早風呂なアキちゃん、今まで見たことなかったわ。真面目に風呂入る以外、一切行っておりませんみたいな、そういう事なんやろな。ものすごテキパキ風呂入ってたわ。
 そしてキッチンに作り置いてあった和食そのものの飯を、みんなで食った。舞は食えへんらしくて、お前は水でも吸っとけと、優しい俺様が超おいしい水道水をくれてやった。
 その飯を、誰が作ったんか、アキちゃんは分かってないみたいやった。鈍い男や。でも、美味いわ言うて食うてたわ。おかんか舞が作ってくれたとでも思うたんかな。でも、ふたりとも、料理はでけへんらしいで。
 だからトミ子が作っといてくれたんやろ。元気になったら腹減るやろうって、これから食われて死のうという女がやで、飯作っといてくれるなんて、ほんま泣かせる。お前はさすがや。俺が男やったら惚れてる。男やけどな。でも俺は基本的に男のほうが好きな男やから。そうやなかったらヤバかったな。ブスとデキてまうところやった。
 生きていくのに必要はないけど、トミ子が作ってくれた肉じゃがは美味かった。肉じゃがはこう作れ、みたいな味やった。もしかしたら俺も、今はそれと同じもんが、作れるんかもしれへん。トミ子とフュージョンしたんやからな。
 とにかく、あたかも家族のごとく食卓を囲んで、みんなで飯を食い、今後のことについて相談した。
 大阪ではまだ、人死にが続いてるらしい。
 俺が助かって、ああ良かったみたいな一件落着気分でいたアキちゃんは、またどん底に落ちてた。
 でももう、なんも心配することあらへん。悪い犬なんか、俺が一捻りで片付けてやるから。
 リベンジしたるで、勝呂瑞希すぐろみずき。死に損ないのお前に、俺が引導渡したる。
 おかんと舞が帰っていった後、アキちゃんは無口やった。
 わざわざ残しといてもらったアキちゃんの髭を、俺がってやった。
 別に深い意味ないねんけど、心配かけたし、いっぱい面倒みてもろたから、そのお返し。俺もアキちゃんの世話してやりたくなったんや。
「それでなんでウェット・シェービングやねん」
 ちょっと泣きそうな顔で、アキちゃんは俺の膝に頭を乗せて、シーツも何もかも入れ替えたベッドに寝っ転がってた。その喉を反らせて、ぴかぴかの剃刀で泡ごと剃ると、なんかもう、ひいーって感じ。切れたらどうしよ。手が滑ったら大怪我やでえ。そういうピンチ感が俺にはたまらん。しびれるねん。
 そう。単なる俺の趣味。
 これなあ。好きやねん。昔、理髪店で床屋さんごっこしてた事があってな。その時に病みつきになってん。おっさんが大好物やからなあ、パラダイスやったわ。
 まあ、そんな話は、アキちゃんには秘密やけどな。いろいろ晒けだしてるようでいて、俺は秘密でいっぱいなんやで。そのほうがええやん、アキちゃんも、お前のこともっと知りたいって、ドキドキするやろ。鬱々うつうつしてるようにも見えるけどな、まあ、それはまあ、アキちゃんの性格やから、しゃあないな。
 刃物の感触に、身が縮むらしいけど、アキちゃんはそれでも眉間に皺寄せて、大人しく剃らせてた。大人しくしてへんかったら、切られるかもしれへんもんな。
「電気のやつやったらあかんのか……」
 それでも、ぶつぶつ文句言うアキちゃんの伏し目がちな顔を、俺はにこにこ見下ろした。
「あかんなあ。これでないと萌えへんわ」
「お前の趣味が、俺には理解でけへん……」
「ええねん、そんなん理解せんでも。アキちゃんはその初心うぶな感じがええんやから」
 初心うぶって、と、胡座あぐらかいた俺の膝の上で不満そうでいるアキちゃんの顔を、めちゃめちゃ熱いタオルで蒸し蒸ししてやって、熱い熱いて言うてるのを押さえ込みながら、俺は笑って見てた。
 平和やな。平和に戻れて良かったわ。
 明日からはまた、激しい日々かもしれへんけど、それでも今夜は平和に二人で過ごしたい。
 長かったなあ、この三日間。もしかしたら、そのずっと前から。
 あの犬がアキちゃんの前に現れて、くんくん鳴き始めた頃から、俺はほったらかしにされてたからな。
 ほんま許し難い。俺はマジで死ぬほどつらかった。
 けど、しゃあないなあとも思う。モテる男に惚れたツケやで。しかも相手は人外ばっかり。アキちゃんも、普通の女にモテるだけならラクやったのになあ。
 息でけへんやんて、怒ったような薄赤い顔で、俺の手を払いのけたアキちゃんに笑いかけて、俺は上機嫌ににこにこしてた。
 アキちゃんはちょっと痩せたけど、相変わらず男前やった。実は俺もお前を、顔で選んだんやけど、鈍いから気づいてへん。言わんとこ。言ったらきっと気にする。気にしても、しょうがないことを。
 今はアキちゃんの、何もかもが好きや。たとえエレファントマン並みのすごい特撮顔でも、俺はぜんぜんかまへんで。そのほうがむしろラクなんちゃうか、寄ってくる奴が少なくなって。それとも、そんなこと、実はぜんぜん関係ないんかな。アキちゃんがモテるのは、別の理由なんやから。
 俺だけのものでいてって、そんなことは贅沢かもしれへんけど。
 いつまでも、離さんといて。俺だけを抱いててほしい。それが祈るだけ無駄な願いでも、俺は心底そう祈ってた。誰にか、わからへんけど。もしかしたら、アキちゃん本人にかな。
 俺を、裏切らんといて。もう二度と、傷つけんといてくれ。
 自分にとって、俺がどんだけ大事か、アキちゃんが思い知ってくれてるといい。
 そうだといい。それが俺の期待や妄想でなく、ほんまのほんまやったら、それを力にして、俺は生きていける。永遠に、アキちゃんとふたりで、幸せに。
 これがそんな長い物語の、まだまだ出だしの話だといい。あの頃は、大変やったなあって、ふたりで笑って思い出せるような。
 その時、どんな波瀾万丈が、俺とアキちゃんを待ち受けてるか、さっぱり見当もつかへんけど、俺は別に怖くない。信じてる。その時もふたりで、手をとりあって戦う。自分がそういう物語の、主人公だってことを。
 実際のところ、どうやろ。
 それは読んでのお楽しみやで。
 うっふっふと、俺は笑った。アキちゃんはそんな俺を見て、しゃあない奴やという、困ったような顔で笑った。
 そしてふたりで酒飲んで、スタートレックの続き見て、いつも通り寝た。いつも通りって、どういうことか、すでに皆さんおわかりやと思うけど。楽しい夜やったわ。
 そして俺は戦う力を蓄えた。
 敵はまだ大阪にいた。
 行くでえ大阪。俺様の真の力を見せてやる。


--------------------------
←Web拍手です。グッジョブだったら押してネ♪

作者あてメッセージ送信
Name: e-mail:  

-Powered by HTML DWARF-