SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

大阪編(10)

 俺が呆けてる間にも、世間の時間は過ぎていた。
 亨が駅で大怪我して以来の三日間、俺は生きた心地がしてへんかった。それでも実は、暢気なもんやったんやって、亨が何とか助かって、ほっとしたところで、やっと気がついた。
 四日目の、ずいぶん遅く目覚めた朝に、テレビをつけてみて、ほとんど全てのチャンネルで、猟奇的な死と、蔓延していく狂犬病のニュースが扱われているのを見て、俺はやっと思い出したんや。
 そういえば、そうやった。勝呂も居るんやってことを。
 薄情やな。自分でもそう思ったわ。
 ずっと亨のことで頭がいっぱいで、亨が死んだらどうしようって、そればっかり考えてて、その他のことが頭から消えてた。そもそもの原因やった、勝呂のことも。さらにその原因にある、自分のことも。
 この三日間、枝葉の事として頭から抜け落ちてた事のほうが、ほんまは俺が必死で悩まなあかんことやった。
 おかんが言うには、騒ぎの出発点にあるのは、俺が描いた疫神の絵や。初めただの絵やったもんが、ほんまもんの疫神になり、勝呂に取り憑いた。それであいつは変になり、人を襲うようになり、疫神は狂犬病という形で、最初は大阪の街に現れていた。勝呂が大阪に住んでるからやろう。
 その後、狂犬病は、大学がある京都にも発生した。
 白昼堂々、あいつは人を襲ってたのか。
 勝呂は時々、しんどそうに見える時もあったけど、それは単に、根詰めすぎて疲れてるんやって、俺は思ってた。どことなく具合悪そうでも、勝呂は割と平然としてたし、そのうち元気になってた。体弱いやつなんかって、その程度にしか思ってなかった。見た目もちょっと、線が細うて、弱っちそうやったし。
 なんであいつは、自分の具合が悪いことを、誰にも相談してへんかったんやろう。ひとりで耐えてたんか。そういう話をするような相手が、一人もおらんかったということか。
 俺が見る限り、あいつにはツレがいっぱいおった。基本、無愛想やのに、妙に人懐こいところもあって、それにあの見た目やったし、勝呂が嫌いやという顔してたやつは、おらへんかった。男でも女でも、あいつには常に誰か群れとく友達がおるみたいやった。
 死んだ由香ちゃんも、その筆頭やった。せやのに、その由香ちゃんが、友達やなかったっていうんやったら、勝呂には実は、腹割って話せる相手なんか、一人もおらんかったんやないか。
 でも、もしかしたら、あいつは、俺に相談してたんやないやろか。
 そう思って思い返すと、そうとしか思えないような事も、いくつかあった。
 具合が悪いという話を、勝呂は時たま俺にした。ただの愚痴めいた世間話やと思ってた。疲れてるんやったら、無理せんと、帰って休めって、俺は返事してたと思うわ。だって他に、なんて答えるんや。
 大丈夫か、どこがどう悪いんやって、相手が亨やったら普通に訊いたと思う。
 けど俺は、勝呂を警戒してた。自分があいつに、変な気があるような気がして怖かったし、あいつも時々、じっと俺を見つめてた。たまたま二人っきりになったときに、何か突っ込んだ話に流れるのが嫌で、あいつが甘えたそうな顔すると、俺は全力で話逸らしてた。
 自分がそういうのに弱いっていう自覚があったんや。俺が助けてやらなあかんていう、そういう感じに。
 こいつ、ほんまは別に具合悪いんやのうて、話の口実なんちゃうかって、内心思ってた。きっと嘘ついてんのや。飲み会のときに、本間君、うち悪酔いしてしもた、夜風にあたりたいから、こっそり連れ出してって囁いてくる女みたいなもん。
 ああ、そうなんや、可哀想やなあ、大丈夫かって、真に受けて連れてってやって、その後、どうなる。抱きつかれて、キスして、それでお持ち帰りやろ。どうせ。
 そういうのは、俺はもう、やらへんねん。俺には亨が居るし、あいつが好きなんや。他のやつの面倒なんか見いへん。みんな自分で何とかしろって、そういう卑屈というか、逃げ腰というか。自意識過剰。
 要するに俺は、甲斐性無しやってん。
 もしも勝呂が俺に相談したときに、もっと親身に話聞いてやってたら、さっさとあいつの正体とか病気とかに気がついて、おかんに相談してたかもしれへん。そしたら、亨が助かったみたいに、あいつも助かったんかもしれへん。
 亨に取り憑いてた疫神は、確かに元は俺の絵やったけど、人の血肉を食らううちに、どんどん力を増してて、今やほんまもんの性悪の神さんや。人が狂犬病やら人食い事件の怪異に震えるのを力にして、ますます強力になってる。それに取り憑かれたせいで、亨はあっと言う間に死にかけてたらしい。
 せやけど勝呂が初めに取り憑かれた時期には、きっともっと話は簡単やった。あいつが最初のひとりを噛む前に、俺が何とかしてやるべきやってん。
 あいつ、なんではっきり言わへんかったんやろ。自分は人間やないって。
 そんなこと、ほのめかしもせえへんかった。ずっと人間のふりしてた。自分もひとりっ子で、大阪に親と住んでるって言うてた。
 亨に親がおるという話は聞いたことない。人でなしにも親はおるんか。それとも、あれは、勝呂の嘘で、親なんかおらへんのか。嘘の電話と、ひとりで喋ってたんか。
 そういう想像をすると、なんでか俺は、嫌な気分やった。胸苦しいような。切ないような。
 あいつには、ほんまに誰もおらんのやないか。ほんまにひとりで死にかけてる。死にたない言うて、人を食ってる。それでも、いつかは死ぬやろ。そうやって怪物そのものみたいになって、それでも生きていくつもりか。そういうのを、昔の人はな、鬼と呼んでたらしいで。
 鬼退治せなあかんえ、と、おかんは俺に念押しして言った。
 その方法は、お父さんの手記に書いてありましたやろ。アキちゃん、読んでへんのかて、ものすご咎める目されたわ。
 読んでへんかったわ、そんなもん。おかんに、勉強しろ言うて渡された、おとんの遺品である手記には、達筆でいろんなことが書いてあった。読むと、正直、なんのこっちゃっていう話ばっかりやったんや。それに、これがおとんの肉筆かと思うと気が滅入ってきて、言い回しが古いこともあったりで、とにかく読みにくかった。
 しゃあない、俺は課題で忙しい。家業も大事やけど、学生の本分もあるしな、って、俺はまた激しく逃げてた。
 せやけど、ここまで来たら、おかんの言葉やないけど、確かにもう逃げ場はないわ。
 おかんは戦い方は知らんて言うてる。女の子やさかい言うて、そういう荒っぽいことは仕込まれなかったんやって。おかんはあくまで、豊穣やら無病息災やらを祈る巫女やってん。
 戦うのはげきのほう、というのが、我が血筋の決まり事やったらしい。血を残すために女は生かしておかなあかん。男は死んでもええけど、っていう考え方らしい。性差別やで。けど、現実としてそういう、そこはかとなく母系の残る家らしい。
 おとんの手記に、系図がついてたけど、めちゃめちゃ長かった。折りたたまれて、何代前まであるねんていう、壮大な名前の羅列で、よく見ると、おんなじような名前が繰り返し出てきてることに俺は気がついた。暁彦と名付けられてる男は、なにも俺とおとんだけやない。同じ名前で系図に残っているご先祖さんが、何人もいてはる。
 その事実に、俺はちょっと、ほっとした。気休めやけど、俺がおとんと同じ名前なんは、うちの血筋では別に普通のことなんやって、自分を慰められた。
 おかんはもちろん、そういうつもりで俺の名前を決めたんやないやろ。俺は死んだおとんの生まれ変わりやって、おかんはきっと信じてる。それで俺に、大人になったら結婚してくれて、冗談めかせて頼んでたんやろ。
 おかんは、結婚したかったんか。実の兄貴と。それがずっと心残りやったんやろか。
 結婚して、子供産んで、ふつうに奥さんしたかったんかな。
 もしかして、そうなのかという気がして、俺はちょっと切なくなった。それは、無理やろ、おかん。たとえ生きてても、おとんは実の兄弟なんやし、俺に至っては息子なんやで。そんなん、普通やないわ。
 でも、もしかしたらそれは、秋津の家では普通のうちやったんかもしれへん。系図がそれを物語ってた。時には兄弟で結婚してるような形跡があった。おかんが俺に勧めてくる見合いの相手も、決まって遠縁のだれそれさんのお嬢さんとか、そういう、親戚やんかっていう女ばっかりやった。
 なんでやねんて、俺はそれが嫌やったけど、なんでなのか、理由はちょっと考えればわかる。血筋の力を保とうとして、近親婚を繰り返してきてるんやろう。そのタダレた婚姻関係まで含めて、秋津の家業やったってことや。
 俺はその直系の、最新版のひとりっ子やで。
 まさか俺には、血筋の女と子供つくる義務まであるんやないかって、そんな怖い予感がした。
 おとんはなんで、妹抱いたんやろ。ほんまに好きやったんか、おかんのことが。戦争行くし、もう死ぬかもしれへんという状況で、なんとか子供作ろうとしたんやないか。直系の血を残そうとして。選りに選って、妹と。
 他にも居るやろ、親戚の女が。なのになんで実の妹やねん。やっぱり、ほんまに、好きやったんか、おかんのことが。それとも、単に、そうすればドロッドロに血の濃い子ができるやろって、そんな理由やったんか。
 俺のおとんは一体、どういう男やったんやろって、俺は初めてそれに興味が湧いて、書斎にあるMacを起動してた。
 亨が居ると、アキちゃんアキちゃんて、さかりついた猫みたいに、ごろごろ甘えてきてうるさいんで、俺は書斎に引きこもったんや。おとんの手記を急いで読まなあかん。
 せやけど、何か、集中できへん。いろいろ心が乱れてて。
 手記はいつまでも、系図のページのまま、パソコンデスクのチェアに座ってる俺の膝の上にあった。
 亨、一緒にいたいて言うてんのに、邪険にして可哀想やったかな、とか。俺はほんまに勝呂に可哀想なことしたとか。おかんも可哀想やとか、そんなことばっかり頭をよぎる。俺はつくづく気が多いらしいわ。
 これは誰の血やねん。おとんやないんか。
 そんなおとんの顔を、ひさびさにもう一度拝みたくなって、俺は残してあった、おとんの写真のファイルを開いた。年明けにスキャナで読み込んでた、古い古い一枚きりの写真や。
 そして、液晶画面に映ってる、白黒写真の軍服男を、じっと眺めた。
 実家にあったアルバムの写真を借りてきて、それを今年の初めに修復レタッチしたんや。印刷したのを郵便で送ってやったら、おかんは、お兄ちゃんの写真が新しなったって、嬉しそうに電話してきた。
 その作業をするときに、俺はしばらくこの写真と睨み合ってたけど、見れば見るほど、俺はおとんに生き写しやった。まるで自分の写真みたいなんやで。気持ち悪い。
 なんで俺が海軍コスプレせなあかんねん。
 でも、似合ってる。おとんには、真っ白い軍服も、金の星がついた軍帽も、よく似合ってた。顔そっくりやけど、俺より格好いい。覇気があるっていうんか。
 何にでもすぐ逃げ腰で、内心うじうじしてばっかりの俺より、きっとおとんは男らしかったんやろ。特にこの写真のおとんは、これから国のために戦って、死のうっていう男の顔なんやから。
 おかんが、お兄ちゃんは逃げへんかったえ、って、ものすご惚れてるふうに言うのも、そらしゃあないわ。それに比べて息子は情けないて思うてんのやろ。逃げてばっかりやもんな、俺は。きっと、ほんまにぼんくらなんやで。人が言うように。秋津の坊ちゃんは、ぼんくららしいで、って、昔から皆言うてたやんか。
「そんなことない。人の言うことなんか気にせんでええんや」
 力強く諭すような声で言われて、俺はますます落ち込んだ。気休め言わんといてくれ。人の噂には一理あるもんなんや、って。
 そうやって頭抱えてから気がついた。
 今の声、なんや。
 どっかで聞いたことあるような。そうや、俺の声なんとちゃうか。録音したら、あんな声やったわ。
 まさか俺、悩みすぎてブチキレて、無意識に独り言言ってんのかって、怖くなってきて、恐る恐る顔を上げたら、目の前にある画面の中で、サーベル床について、キリッみたいな顔やったはずの写真のおとんが、にこにこしてた。
「お前は俺に似て、気ぃ弱い男やなあ」
 そんな息子が可愛いわっていうノリで、おとんはデレデレ言っていた。
 写真やで。写真が喋ってる。大丈夫か、俺の頭。もう、ぶっ飛んだ後か。そう考えたきり頭まっしろになって、俺はあんぐりと写真を見てた。
 そういえば、と、しばらくして思った。俺、この写真に上書きしたわ。傷とか、色あせてんのとかを、綺麗に直してから、おかんに渡してやろうと思って、けっこう念入りに修復レタッチかけた。
 それって……絵描いたことになるんとちゃうか。俺が絵に描いた疫神が、世間に出てきて悪さするっていうんやから、この写真も、まさか、まさかとは思うけど、まさか、って。まさにな、そのまさかやったんや。
 よいしょって、写真の中のおとんは、撮影用の椅子から立ち上がって、とことこ画面の手前まで歩いてくると、にゅるっと画面から出てきた。
 俺は椅子からコケそうになり、実際コケた。真っ青な顔して、フローリングの床に椅子ごとコケてる俺を、ぱりっとした軍服でキメキメのおとんは、軍帽の角度直しながら、なにやっとんねん、大丈夫かみたいな目で見下ろしてきた。
 実寸大やないか。一分の一スケール秋津暁彦やで。おかん帰ってもらってて正解やったわ。俺はまず、それを思った。そんな小さい男やった。
「久しぶりやなあ。半年も実家に戻らんと、親不孝やで。お登与とよ寂しがっとるやないか」
 コケてる俺の傍に、胡座かいて座って、おとんはものすご親しげに話しかけてきた。どう見ても海軍コスの俺やった。亨もおらんでよかった。あいつ、これ見たら、何言い出すかわからへん。
「半年もって……半年……そうやけど、なんで知ってるんや」
「なんでって、正月に帰ってきて、あっというまに去ってたやないか。えらい顔の綺麗なしき連れて」
 そうやけど、それは事実やけどっていう話をさらっと話されて、俺はちょっと震えてきた。なんで、知ってるんや、おとん。亨の顔まで。まさか、実家におるんか、おとんは。み、見たんか、まさか。その、いろいろ、あれとか、これとか。俺と亨が、やってたことを。
「あの子ええなあ。可愛いで。お登与の次くらいに」
 自分に言い聞かせる呪文みたいに、おとんは最後のところを言った。本心なんかどうか、自己暗示くさかったで。
「い、いるんか。家に。おったんか、正月……」
 自分でも自分が気の毒なくらい、俺の声は上擦ってた。
「おったよ。話したやろ。お前が、なんとかしてくれ神様て言うから、無理やなあ、って、返事してやったやないか」
 天井裏におるやつや。
 昔からおるねん、俺の部屋の上とか、廊下の天井板の上とかに、うちには何かおるんや。
 俺が悩んでると、そいつが何かアドバイスしてきたりするねん。俺は聞こえないつもりでおったで。どこの世界に困ると天の声がアドバイスしてくる家があるんや。その娘はきっとお前が好きなんやで、男なら突撃やとかな、いらんねん、そんなアドバイス。自分で考えさせてくれ。
 しかもそれが、おとんやったんか。耐え難い。我慢の限界を超えてる。プライバシーの侵害や。
「誰が神様やねん……」
 俺は頭を抱えてうめいた。
「神様になってもうたんや。戦争で死んだやろ。英霊はみんな神になったんや」
 けろっとして、おとんは言った。英霊って、そうなんやろけど。知らんかったで、そんなん、俺は。たぶん、おかんも知らんかったんやで。だって、知ってたら、帰りを待ってたりするわけない。
「なんで、おかんに会うてやらへんかったんや」
 なぜか俺は恨みがましい口調やった。
 実際ちょっと恨めしかった。
 俺はずっと、自分にはおとんは居らんのやと思って育ってきたんやで。居るやろけど、どこの誰ともわからへん。ちゃんと、おとんのいる友達がうらやましかったわ。相談したいような事かて、あったかもしれへん。
 俺がそういう目で見たんやろ。おとんは、ちょっと、困ったなあみたいな顔で笑ってた。
「それがなあ、ちょっとマズかったんや。戻ってくるのに手間どってもうてな、気がついたら、おっさんになっててん」
 おとんの話に、俺はまたぱくぱくした。
 そうや、そういえば、天の声はおっさんみたいな声やった。
「せやのに、お登与は、あんなんやろ。恥ずかしいてなあ。会わせる顔がなかったんや」
「そ、そんなに崩れたんか」
 まさか禿げたとかか。それは聞いとかなあかんで。俺にとってはものすごい大問題やで。
「いやあ、そら、まぁ、年とともになあ……いろいろあるわなあ」
 ぼかして言って、にこにこしている目の前のおとんは、どう見ても俺と同い年くらいや。
「けどな、もう心配いらへんで。アキちゃんのお陰でな、俺もこのように、鮮やかに若返ったから。これで晴れて、お登与にも、胸張って、ただいまって言えるわ」
 ちょっぴり照れますねみたいな笑みを、おとんは浮かべてた。俺の顔してデレデレせんといてくれ。
「ちょっと待て、おかんのとこ行く気なんか」
 訊ねる俺の顔には血の気がなかった。
「行け言うたんお前なんやぞ」
 思わず止める口調になってた俺に、おとんは妙なやつやという顔をした。
「い……行くな、行ったらあかん」
「なんでや。ダディがおらんようになるんが寂しいんか」
 お前も可愛いてたまらんという目で、俺は見られた。自分に。いや、おとんに。
「誰がダディや!!」
 思わず絶叫する俺を見て、おとんは、あっはっはと楽しそうに笑った。
「実はなあ、戦争で死んだあと、なんで神国ニッポンが鬼畜米英ごときに敗れなあかんのやろ思ってな、敵情視察にアメリカのほう行っとったんや。そしたらなあ、すっかりアメリカかぶれしてしもて。美味いでぇ、本場のハンバーガー」
 おとんは懐かしそうに、しみじみ言った。腹減ってるみたいやった。
 アホなんか俺のおとんは!
 今、俺の心の中で何かが激しく壊れる音がしてる。知らんかった、俺もおとんに夢見てたんや。おかんが惚れるんやから、どんな格好いい男なんやろって、どっかで期待してたんや。妹に惚れるような、そんな変態くさいおとんなんか要らんと思ってたけど、実はどっかで夢持ってたに違いないわ。
 胸に秘めてた、そのピュアな感じの夢が、今、ガラガラ音を立てて崩れ落ちていってる感触がするで。
「まあでも、美味いからいうて、あれはあかんわ。毎日食うてたら、えっらいことになる。お前も気つけなあかんで、せっかく俺に似て男前なんやからな、ジュニア」
「誰がジュニアやねん!!」
 俺はもう、泣きそうやった。
「しゃあないやん、おんなじ名前なんやから、紛らわしいやろ。俺もアキちゃんやったんやで」
「今は俺がアキちゃんや……」
 頭痛くなってきてな、俺はくらくらしながら、顔ごしごしして、おとんと向き合って床に座ってた。
「そうやろ。せやから俺がダディや」
「おとんでええやろ」
 俺が泣きつく口調で言うと、おとんは、ふっふっふと笑った。
「しゃあないな。ほな、おとんでええわ」
 にやにやしてる顔見てると、自分がハメられたような気がした。俺におとんと呼ばれて、おとんは嬉しそうやった。またさっきの、ちょっと照れたような顔で、俺をじっと眺めてた。
「アキちゃんなあ、困ってんのやろ、今。可哀想に、しんどいなあ。おとんが力貸してやろ」
 頷いて、おとんは優しいようにそう言い、持ってたサーベルを、すらりと抜いた。白銀の、かすかに剣の先の反った、美しい刀身やった。なんや、まるで、水でも滴ってくるような、潤んだ質感のある剣や。
「この太刀たちの名前はな、水煙すいえんやで。秋津家、伝来の家宝や」
太刀たちとちゃうやろ、サーベルやろ」
 俺がツッコミ入れると、おとんは刀身を見たまま、笑って頷いた。
「そうや、サーベルやけど、元々は太刀やってん。伊勢の刀師に頼んで、サーベルに打ち直してもらったわ。めちゃめちゃ不本意そうやったけどな、まあ、しゃあないわ」
「そういう時代やったからか」
 戦争中やったんやから、って、そういうニュアンスやと俺は思った。けど、おとんはにやにやして答えた。
「いいや。サーベルのほうが格好ええからな。軍服着て、太刀履いてたら、なんか、いまいちやろ?」
「いまいちって……そんな理由で、家宝を作り替えたんか」
「そうや。格好ええやろ?」
 本気で言うてるらしく、部屋の白色灯の光でも、きらりとまばゆく輝く水煙すいえんの刀身を、おとんはうっとりと笑って見てた。俺はもちろん、開いた口がふさがらへんかった。
「道具なんてなあ、そんなもんやねん。使う人間が、格好ええなあ、これにはきっと力があるて思える形やったら、なんでもええねん。形に力があるわけやない、それに力があるて、信じる人間の心の持ちように、力があるんや」
 おとんは、もっともらしく俺に解説してた。
水煙すいえんは、元々、隕鉄いんてつやったらしい。空から降ってきたて、先祖伝来のいわくく由来にはそう書いてある。すさまじき光とともに天より来たりしものらしいわ。それを伊勢の刀師とじ、つまり刀鍛冶がやな、太刀に打ったところ、刀身から水煙を発したとある。ほんで、名前が水煙すいえんなんや。蔵探してみ、今でも箱だけあるわ」
 天井を衝くように構えていた剣を、おとんは無造作に膝の上に抜き身のまま置いて、窮屈なんか、軍帽を脱ぐと、座っている脇の床に置いた。そうしてみると、髪型まで何となく俺とそっくりやった。
 旧海軍の軍人やから、丸坊主かと思ってたけど、違うんや。
「肝心の水煙すいえんは、俺と共に海の底に沈んだ。せやけどな、アキちゃん、いつかお前にも、これが要るやろて思て、これだけは持って帰ってきたんや。水煙すいえんの、魂だけは」
 受け取れというように、おとんは真面目な顔で、水平に構えたサーベルを、俺に差し出した。
「この太刀には実体がない。でもきっと、お前なら握れるやろ。俺の息子やからな。秋津の直系の末裔やで」
 きゅうに、ずしりと重い話をおとんがしてた。俺は、かすかに反りのある、金色の装飾のあるサーベルの黒い柄を、おとんの手が握ってるのを、じっと見つめてた。
水煙すいえんは、代々、秋津の当主となる男子が受け継いできた。この太刀を振るい、家を守り、国を守るために戦うのが、俺の定めやったし、今ではお前の定めや。家を継げるのは、もうお前しかおらんのやしな。それに……」
 動こうという気配もない俺に、おとんはじれたんか、胡座かいた膝の上にあった俺の手を、いきなり握ってきた。熱いような感触が、あるような、ないような、不思議な手やった。
 おとんはそのまま、自分が握ってた柄を、俺の手に押しつけてきた。水煙すいえんは、それこそほんまに、煮えたぎる湯のような、それでいて、ひやりと心地よく濡れたような、謎めく感触やった。
 その触り心地に、俺は覚えがあった。
 これは亨に、触れた時の感触と同じ。勝呂に手を握られた時にも、似たような感触がした。
 それはきっと、怪異に、あるいは神に、触れた時の感覚なんやろう。この世のものではない、異界の何か。怖気立つような、それでいて、心地よいような、身のうちのどこかが、揺さぶられるような感覚。
「それにお前には今まさに、これが必要や。水煙すいえんは、神殺しの太刀やで。人の身では殺せん神やら鬼やらを、水煙すいえんは斬ることができる」
 鋭利に光る切っ先を見つめて、おとんは教えてくれた。俺はその話にも、怖気立つような感じがしてた。なんでやろ。手に握らされた水煙すいえんが、一瞬、激しく騒いだ気がしてん。
 さあ、やろか、ひさかたぶりに。神さん食おかて、悦んだようやった。その喜悦は、握った柄から、俺にも伝わってきた。鬼でも食おか、病み崩れて死ぬしかない、可哀想なあいつを。ひと思いに殺ったろか。美味いでえ、きっと、あいつの血と肉は。水煙すいえんがそう、俺に囁いてた。それはほんまに剣の声やったんやろか。俺の内心の貪欲が語る、本音の声やのうて。
「神殺しなんて、人にはでけへんて、おかんは言うてたで。破廉恥やて……」
 柄から手を離したいて、そう思いながら、俺はおとんに訊ねた。せやけど、水煙の柄のこしらえは、まるで俺の手に吸い付くようやった。
「そうやなあ、アキちゃん。お前も俺も、似たもの親子で、破廉恥極まりないわ。神様殺したらあかん、それはほんまのことや。お登与は女やさかい、そう教えられて育ったんや。せやけどな、暁彦、男には、殺さなあかん時もある。ほかにどうしようもない時や、避けがたいいくさがあるやろ。それがどんだけ破廉恥でも、殺さなあかん神はおるんや」
 鎮まり給えで鎮まらんような、病み崩れて祟る神や鬼はな、もはや始末におえん。殺すしかないんやて、おとんは俺に話した。
 剣を握らされた俺の手を、おとんの手が、覆うように包んでいた。
 おとんが勝呂すぐろのことを言うてるって、俺にはすぐに分かった。水煙が囁くあいつて言うのも、勝呂のことやろ。
 あいつはもう、助からへんのかって、俺はおとんの目に訊ねてた。
 おとんはそれに、皮肉に笑った。
「無理やなあ、それは。俺の力では。お前の力でもやで、アキちゃん。もっともっと前やったらなあ、簡単になんとかなったやろ。疫神はもともと、弱りや悪心に憑く神や。傷ついてたり、飢えてたり、嫉妬してたりな、そういう気の弱りに憑いて、どんどん力を増す神さんやで。あないなことになる前になあ、アキちゃん、お前が優しゅうしてやったらよかったんや」
 諭すおとんは、親の顔やったけど、話す内容は、とてもやのうて、親が息子に教えるような話やなかった。
「ときどき抱いてやったらよかったんやんか。しきにしてくれ言うんやから、してやったらよかった。可愛い子ぉやんか。亨ちゃんもええけど、あの子も良さそうやで。なんというても若いしなあ。二番目のしきとして、可愛がってやったらよかったんや。きっとお前の役に立ったで」
 おとんは、秋津の男なら、普通はそうするもんやという口調やった。
「俺にはでけへんわ……そんなことは」
 おとんにじっと見られて、俺は無意識に、そう答えてた。
 それもええなて、正直、思ったことはあるはずや。なんかの本能みたいなもんが、俺の中にあって。
 せやけど、そんなことしたら、亨が泣くやろ。あいつ、すぐ泣くし。それに俺も、もしあいつが俺やない他の誰かと抱き合うてたら、めちゃめちゃつらい。格好悪いから、泣かへんけど、でも、泣くほどつらいわ。
 亨をそんな目に、遭わせたらあかんやろ。罰当たる。あいつ、神様らしいやんか。俺にはもう、罰が当たった。亨が死にそうになるやなんて、俺にはもう、罰当たってる。
「そうやろなあ、お前にはでけへんわ。惚れてもうてたらなあ、無理やろ。そんなお前に、秋津の跡取りが勤まるんかどうか、怪しいとこやけどなあ。幸い、昼の日中ひなかから、とっかえひっかえ抱いてやらな辛抱たまらんような荒々しいのんは、もう、みんな死んでしもうたわ。俺と一緒に太平洋の藻屑や。あのいくさで、みんな俺が使うてしもた」
 深いため息をついて、おとんはちらりと背後の扉を見た。
「せやから、それも有りやろ。秋津には、蛇が一匹、予備は無し。あれが、それだけ強い神なら、それでもいけんことはないやろ。こんな世の中やしな。皆が血流して戦う必要のない、まあまあ平和なご時世やからな」
 おとんは、にやにやして、俺にそう言うた。
「お堅いなあ、ジュニアは。開眼したらな、モテるでえ、お前は。まさにパラダイスや。蛇一匹のために、それをふいにするんか。隠れてやったらええねん。隠れる必要も、ほんまはないんやで。それがお前の仕事なんやしな。お登与かて、褒めてくれるで。アキちゃん、立派になって、まるでお兄ちゃんみたいやわ言うてな」
 軽口をきく、おとんの口調にはめちゃめちゃ毒があった。かつて、この男が生身で息しとった時、いったいどんな生活してたんやって、俺は想像しかけて、想像したないわって思い、その葛藤でわなわな来てた。
 おとん。寝てたんか。おかんという者がありながら。モテモテやったんか。昼日中からやりまくりか。それは、実家でか。あの実家。上は欄間で声は筒抜けの、あの古い日本家屋で、とっかえひっかえモテまくりか。
 想像したらあかん。想像したらあかんわ、それは。こいつ俺とおんなじ顔してんねんから。背格好どころか指の形まで一緒やんか。生き写しっていうか、クローン並みやで。ほとんど本人なんやで。
 それでそんな想像したらあかんやろ。黙っといてくれ、俺の想像力。
「お登与がな、俺の写真に愚痴って、やっぱり血は争えへんのやろかて言うてたわ」
 言わんといてくれて願ってる俺の気も知らず、おとんはしみじみ話してた。
「恥じらいもなくしきとべたべたして、お前はいやらしいて、お前のおかん言うてたで」
 おとんは俺を殺しにきたんや、きっとそうやて、俺は思った。脳死する直前にな。
「せやけどな、それは別に恥やないで。そういうもんやねん、秋津の男は。俺もそうやったわ。やめられへんねんなあ、あれは。お登与は俺にはただ一人の女やて、心に決めてあったもんやから、男ばっかりやったけどな」
 ちょっと待て、おとん。そんな話、聞いてない。今初めて聞いた。おかんは何も言うてへんかったで。
 俺はあまりの話に脳死から再起動してた。
「お、おとん……お前、近親相姦だけで飽きたらず、男とやってたんか……」
「そうや」
 むちゃくちゃけろっとして、おとんは即答やった。豆腐は大豆からできてるんやろ。うん、そうや、みたいなノリやったで。
「へ……変態そのものやないか!」
「何を言うんや、ジュニア。お前もおかんに惚れてる身でやな、綺麗な男拾ってきて、毎晩毎晩やりまくってるやないか。おとんには見えてるんやで、神様やからな。お前ちょっとネチっこすぎやないか、いくら好き同志でもな、恥じらいってもんがあるやろ。式にあんな声出させて……」
「言わんといてくれ!」
 でも結局全部言い終わってたおとんに、俺は絶叫して頼んだ。その現実を俺に直視させんといてくれ。せっかく平気になってきてたのに、我に返ったら、また振り出しに戻ってまうやないか。
「往生際悪いなあ、お前は。やることやっておきながら……」
 感心したように言うおとんに、俺は言葉もなかった。言葉もなく崩れ落ちてた。
 見てたんや、おとん。見てたやなんて。
 まさか、おかんもやないよな。おかんは人間なんやもんな。見てへん、見てるわけない。見んといてくれて、俺は必死で自己暗示かけてた。
 そんな俺を、おとんはくすくす笑って眺めてた。
「アキちゃんなあ、大差ないて。惚れてもうたら。男も女も、人も鬼も、神さんでもやで。居直らなしゃあない。でないと、相手が可哀想やろ。お前に惚れてる自分が恥ずかしいて言われたら、誰かてつらいで?」
 おとんが俺に説教垂れてたらしいことに気がついて、俺は呆然としてた。
「神さん泣かしたらあかんよな。秋津の守り神やからな。大事に大事にせなな。お前が好きや、愛しいてたまらんて言うてやるから、式は気持ちよく働けるんやろ。そうやなかったら切ないやろなあ、好きなんは、自分だけやて、そういう片想いやったら。それで死ぬようなやつも、おるんやろ? どないすんねん、ジュニア。そんなお前の甲斐性無しで、何人食われてもうたんや」
 顔をあげて俺が見ると、おとんは俺とそっくりな顔で、皮肉なにやにや笑いやった。
 この人は、俺が面白くて、笑ってるわけやないって、その時は言われんでも分かった。皮肉なもんやなあ、分かるわ俺も。そういう覚えがあるわ、って、おとんはそんな顔してた。
「どうしたらええんやろ、俺は」
 どうしたらええんやって、俺はたぶん生まれて初めて、おとんにすがりついてた。
「殺さなしゃあないなあ、鬼は。鬼退治やで、アキちゃん。お前が引導渡してやり。愛しいお前に斬られて死ぬなら本望やて、鬼でも思うかもしれへんわ」
「そんなことがあるやろか……」
 俺は自分が、それほどの男やない、そんな自信ないわって、そういう意味で言ってた。おとんはそれが、分かってるみたいやった。
 いつもそうやった。うちの天の声は。口に出して愚痴ったり悩んだりせんでも、おとんはいつも俺のことが分かってるみたいやった。たぶん、神様やからやろ。それとも、ほんまの血の繋がった親やからかな。
「なったらええやん、それほどのげきに。水煙すいえんは斬った神さんを消してまうんやない、食らうんや。それで、どんどん切れ味を増す。そういう武器やねん。せやから、そいつも、水煙すいえんに斬られて死ねば、お前とずっと一緒にいられるわ」
 それで犬は幸せでした。めでたし、めでたし、ってことになれば、万々歳やけどなって、おとんは慣れたふうな口調で言った。せやけど明るい顔ではなかったで。きっと、おとんも鬼を斬ったことある。そういう気がした。
 でもそれは、とりあえず今、ジュニアの口から訊くような話やない。いつか、俺がおとんと、対等に話せるような日が来たら、ちょっと訊いてみようかなって、思う程度で。
「アキちゃん、剣道習ってたやろ、中学生くらいまで」
 おとんは何もかも見てたでっていう感じで、俺の子供時代の話をしてた。
「なんで、やめてもうたんや。秋津の当主には剣術の心得が必須なんやで?」
 軟弱やなあお前はっていう目で、おとんは俺を見た。
「やめさせられたんや、おかんに」
 その理由は確かに、この上なく軟弱くさい。でも嘘ついてもしゃあないし、俺は正直に吐いた。
「中一んときに、俺に告ってきた女とちょっと付き合ってから振ったら、そいつに惚れてた奴が三年におって、竹刀でめちゃめちゃに殴られてん。面つけてへんかったから、顔に傷できたって、おかんが逆上して、道場ごと潰したんや」
 そうとしか思われへん。
 幽霊というか、妖怪みたいな、変なモンが出るいうて、道場は急激に廃れてもうて、人っ子一人おらんようになった。それで師範が、よそへ行きます言わはって、京都を去ったんや。
 俺をタコ殴りにした三年は、なんかこう、ちょっと人には言えんようなトラブルが男の子の器官に生じ、療養のためということで、しばらく学校を休んでた。そいつの親が、平身低頭してうちの嵐山の家の玄関先で、一週間くらい土下座生活をし、俺が、あれはさすがに酷すぎるんやないかって、おかんに恐る恐る言うたら、次の日におらんようになってた。
 まさか死んだんちゃうか、って、俺はビビったけど、例の先輩はそのうち学校に来た。教室に土下座しにきて、それからもう二度と俺とは目も合わせへんかった。
 その話を、俺は掻い摘んでおとんに話した。
「えぐいなあ、お登与は。俺が留守にしてる間に、そんなえげつない出来事が……。まあ、居っても見てるだけしかでけへんのやけどな」
 おとんは、本気で怖そうに言った。
「憶えときや、ジュニア。俺は神様やから、助けてくれて祈ってもらった時しか、助けられへんのや。困ったら、祈ったらええんやで」
 いちいち祈らへんわ。気をつけなあかん、うっかり神頼みせんように。いちいちこんなん出てきたら、たまらんわ。
「ほんなら、なんで今回は祈ってへんのに出てこられたんや」
「なんでって。ひどい事言うやないか。祈ったやんか、お前。神でも仏でも悪魔でも、何でもええから助けてくれて、祈ってたやないか。あんなん言うたらあかんで、ほんまに悪魔来たらどないすんねん。食われてまうで。おとん大明神にしとき」
 それも悪魔の部類やないのか。
 俺は後々、ちょっとそう思った。おとんが俺をある意味食ったからやった。
 あのな。変な話やからな、ものすご淡々と言うわ。そうでないとヤバいような気がするねん。深く考えたらお終いや。
 おとんは俺に、水煙の使い方を教えたるって言うた。
 剣道習ってたんやったら、まだ何とか素養はあるやろ。ただの剣やし、型は別になんでもええねん、斬ればええんやから。
 せやけどな、お前も秋津の男やろ。見かけが大事や。剣はな、猿が棒振り回すんやないんやから、剣に恥じない技で使うてやらなあかん。つまり格好良くな。せやのうたら、水煙すいえんが拗ねる。そういう剣やねん。自分で相手を選びよる。嫌われたらな、触らせてもくれへんで。
 厳しいでって、おとんに教えられて、マジかと思って思わず目を落としたサーベルの柄を、俺の手はちゃんと掴んでた。ものすごく軽いような感じもしたけど、ずしりと重いようでもある、その熱い手触りを、俺の指はちゃんと感じ取ってた。
 うふふ、と剣が笑ったような気がした。
 剣てな、男なんか、それとも、女なんか。そんなこと、今までの人生で、いっぺんも考えたことなかったわ。
 でもあの時、それが無性に気になった。
 水煙すいえん、お前はどっちやねん。まさか男なんとちゃうか。男なんやろ。なんかそんな気がするんや。
 やめてくれ。俺はまともでいたいねん。
 亨が好きなんは、たまたまや。勝呂もたまたま男やっただけや。だって顔が綺麗やったんや。お前も綺麗やなあ、水煙すいえんて、確かに思うけど、第一印象としては好きやけどやな、それはちょっとどうやろ。剣やったら亨にばれへんのか。でも、俺はその、悪い秘密を持ってますみたいなのに、もう耐えられへん。
 男でも女でもええけど、剣と、その使い手っていう一線を、なんとしても守ってくれへんか。ちゃんと毎日手入れするし、なんか要るもんあったら買うてきたる。だから、水煙すいえん、俺も愛してくれって言わんといてくれ。俺にこれ以上、無茶なことさせんといてくれ。
「自惚れたらあかんで、ジュニア。水煙すいえんはそんな青臭いやつやない。何年生きとると思うてんのや。こいつは神さんやで。お前の師匠みたいなもんや。剣の指図に、おとなしゅう身を任せたらええねん」
 それってどういう意味。
「剣と一体になるんや」
 せやからそれはどういう意味やねん。
 おとんは、言葉ではうまく言われへんていう、困ったような顔をした。そして、しゃあないなあ、よっこらしょ、みたいなふうに、ゆっくり立ち上がった。
「教えよか」
 それしかないわと頷いて、おとんはまだ床にへたりこんでた俺の、水煙すいえんを預けられて、おろおろ見上げてる顔を見おろしてきた。
 それから、おとんはちょっと、にやりと笑った。もしかするとそれは、おかんが時々やるのと、そっくりな笑い方やった。
「変な声出さんといてや、俺もさすがにそれはどうやろって思うから」
 毒気たっぷりに言い置いて、おとんは俺の額の、眉間の上あたりに人差し指を押し当てた。
 それからなあ。何て言うんやろ。こう言うしかないけど、それは避けたかった。
 おとんは俺の体ん中に入ってきた。まさに押し入るって感じやった。
 指先からやで、一気に裏返るみたいに、するっと、ものすごい速さで、何かが自分の体に潜り込んでくるのを俺は感じた。
 ぎゃあって、俺は叫んだような気がする。もっと違うふうやったか。それはこの際カット。
 水煙すいえんを握る指に、もう一人誰か別の男の指が、ぴったり狂いないサイズで重なるのが感じられた。まるで、おとんに着られてるみたいな感じ。
 その二重に重なった指で、おとんは水煙すいえんを握り直した。そしてゆるりと立ち上がり、両手に剣を構え、それを振るった。びいんと空気が震え、水煙すいえんがまた笑った。
 若い男はええなあ、って。
 それはないやろ、俺かてまだまだ若い。大年増のお前に比べたら、赤ちゃんみたいなもんやろって、おとんは水煙すいえんに愚痴った。
 そうやなあ、アキちゃんて、水煙は猫なで声で答え、うっすらと水煙を発した。
 せやけど、お前のジュニアも気に入ったわ。当分こいつを助けたろ。初心うぶなところが、またええわって、水煙は喉を鳴らす笑い方をした。
 剣が笑うてる。俺はそれを、眉間に皺寄せて見てた。
 窮屈やってん。一人乗りの体に、ふたりで乗ってるんやからな。何か、むちゃくちゃ狭い。それに、自由がきかへんかった。体を動かしてるんは、おとんのほうで、俺はそれに操られてる。争わずに剣を振るえば、そのぴったり寄り添った感じが、何とも言えず、しっくり来たけど、相手は達人、俺は中一で挫折やからな、素地が違う。
 まさに、手取り足取りの世界やな。
 おとんは、俄仕込みの水煙操作術を、俺に伝授した。
 終わる頃には、汗がぼたぼた床に落ちてた。
 なんか、つらい。痛くも苦しくもないけど。なんというか。なんか。気持ちよくて。
 勘弁してくれ、おとん。俺にまで手を出すな。そこまでの変態レベルやないねん、俺は。ほんまや。俺は亨が好きなだけなんや。
 たったそれだけのことを皮切りに、なんでここまでの変態地獄に堕ちなあかんのか。
 泣きたい。
 そう思って、めそめそしてる俺を、おとんは、ああ久々にええ汗かいたわみたいな涼しい顔して見てた。汗もかいてへん。神様やからな。そういうご不浄とは無縁なんやって。めちゃめちゃタダレた性格してるくせにな。
「お前、ほんまに声出さへんなあ。我慢強いわ。ダディもびっくりやで」
 ダディって言うな。
「アホか……我慢もするわ。隣に亨がおるんやで。何やっとんねんて思うやろ……」
 何やってんのか説明できへんわ、そんなん訊かれても。何やっとんねんて感じや、自分自身でも。亨には、水煙すいえんが見えるんやろか。それともこれは、俺にしか見えてへんのか。おとんは、亨にも見えるのか。
 今さらやけど、それは重要やで。
「水煙も俺も、ただの人間には見えへん。でも、あの子には見えるやろ。声も聞こえてるはずやで」
 居間に出る扉を顎で示して、おとんはにやにや言った。
 なあ。聞こえてるよなあ、可愛い白蛇ちゃんにもって、おとんは呼びかける口調で扉に向かって言った。
 その意味を、俺は数秒考えた。考えたらあかんて、そう思ったせいで、数秒かかったんや。でも、怖いもん見たさのほうが強かった。
 誰か居る。扉の向こうに、誰か居るでって、そういう予感がした。それは予感やのうて、それを察知しただけやった。俺は自分の力や感覚の使い方を、今まで全然分かってなかった。せやけどそれも、おとんとの気まずいフュージョンによって、何だかちょっと掴めてきてもうてた。
 思わず駆け寄って、俺は扉を引いた。
 勢いよく開いた戸の向こうに、ぎゃって顔した亨が立っていた。逃げ腰で。
「見たんか、お前!」
 俺は思わず叫んでた。
「見てへん! 見てない。聞こえてもうただけ!」
 逃げようとして俺に腕掴まれて、亨は悲壮な顔でじたばたしてた。
「そんなら、なんでドア前にスタンバイやねん」
「だって気になったんや。アキちゃん大丈夫かなって。俺、心配やってん、それだけなんやで」
「心配ならドア開けて助けるもんなんやないのか普通!」
 今さら普通について語り合っても、どうにもならへん。そういう世界にすでになってる。それでも長年の習慣ていうのは抜けへんもんや。俺はこの期に及んでもまだ、普通とは何かについて取りざたしてた。
「開かへんかったんや……」
「鍵なんかかけてへん! 俺に嘘つくな!」
 言い訳してる亨に、俺はガーッと頭ごなしに言った。亨が腕掴まれたまま、床にへたってたもんやから、まさに頭から怒鳴りつけるような感じやった。亨はそれに、ひたすら首すくめてビクビクしてた。
「その子は嘘なんかついてへん。俺が閉めといたんや。結界あるのも気づかへんのか、鈍いなあ、お前は。そんなガミガミ言わんとき、可哀想やろ。お前のその様、いかにもバカ殿様のお女中無礼討ちみたいやで……」
 呆れた口調で、おとんが部屋の中から俺を批評した。
 その時俺は、亨の腕を掴んでないほうの手に、抜き身の水煙すいえんを握ったままやってん。
 神殺しの太刀やていう、その剣のことが、亨は怖いらしかった。けたけた笑ってる水煙すいえんに、亨は小さくなってた。
 哀れっぽかった。確かに。
 しまった、またやってもうたって、唐突に後悔して、亨の腕を放してやりながら、俺はふと気がついた。
 自分が亨より力が強くなってるらしいことに。
 ちょっと前まで、亨が本気で俺に力業をかけると、俺は抵抗できへんぐらい非力やった。たぶん、亨のほうが断然強かったんやろ。人でなしなんやしな。
 でも今は、俺のほうが腕力強いらしい。
 なんでやって、一瞬悩んでから、原因になりそうな事なんか、いくらでもあることに、やっと気がついた。
 亨の血吸って、俺も人でなしになった。それに水煙すいえんを握った手から、何か途方もない力が流れ込んできてるようやった。
 目を閉じればすぐに、もしかしたら閉じるまでもなく、いつだったかの夢の中で見た、黒々と熱くうねる混沌とした闇が、神と鬼の世界が、この世界のすぐ隣にあるのを、垣間見ることができるような予感がする。
 それは予感やのうて、俺にはそれが感じられるだけのことやった。
 それのことを、常世とこよとか、あの世と呼ぶ者もいる。異界やという者もおるやろ。この世とは違う、混沌とした力の渦巻く、別のどこか。それが神の国か、鬼の国かは、たぶん結論がない。それはきっと、似たようなものなんや。
 そういう気がして、俺はふと、おとんを振り返った。
 軍帽を拾い上げてたおとんは、にこにこして、俺を見つめ返した。
「まだまだ修行中の身やけど、お前はきっと、いい線行くで。俺のジュニアやからな。まあ、精々気張ったらええよ」
 にこにこ言うてるおとんを、亨はぱくぱくして見上げてた。
「アキちゃん……アキちゃんが……二人おる」
「あれは俺のおとんや」
 お前、盗み聞きしてたんやったら、知ってんのやろって、俺はぷんぷん亨に言った。にこにこしてる俺のそっくりさん軍服バージョンを、亨がこころなしか、目をキラキラさせて眺めてたから、腹立ってきたんや。
「アキちゃんのおとん……格好いい」
「俺よりか。俺より格好いいって言いたいんか!」
 一瞬でまた沸点に達してた俺に、ガミガミ言われて、亨は青い顔して、ひっと呻いてた。俺のことも、ちょっと怖いらしかった。
「そんなことない。アキちゃんのほうが格好ええよ。俺はアキちゃん一筋やんか。怒らんといて、お願いやから」
 俺の脚にすがりついてきて、亨は必死で言うてた。
 可愛いやつ。そんなお前も可愛い。って、なんでそんな事、俺がモノローグせなあかんねん。
「口に出して言うたらええのに。お前も時には声を上げんと……」
 外野席くさい立ち位置から、おとんはぼそっとアドバイスしてきた。もうやめてくれ、天の声。
水煙すいえん、お前も言うてやり。亨くん、可哀想やろ。泣きそうな顔してるやんか。俺はもっと優しい男やったけどなあ。お登与の血のせいやろか。きっとそうやで、あいつ、怒ったら怖いんやでえ。俺かて、想像するだに小便ちびりそうやわ」
 そんな近似値の誤差を競い合ってどないするんや。
 ていうか、どういう関係やったんや、おとんとおかんは。尻に敷かれとったんか、おとん。これまたジュニアのピュアな想像がガラガラ大崩壊や。
 あかん。ジュニアて言うたらあかん。おとんの世界観に飲み込まれたら、もう終わりや。
「大事にしてやらなあかんでって、俺がお前に話してる時な、この子、ちょっと涙出てたで」
 亨を指さして、おとんがしれっと暴露した。
 亨はそれに、びくうってしてた。
「泣いてへん、ちょっと泣きそうになって涙出てただけや!」
 同じやろ……。
「可哀想になあ、ほんまに。でもそんなに涙脆うて、秋津の守り神勤まるんか。お前しかおらんのやで。まあ、水煙すいえんおるから、ええようなんもんの。せやけど水煙すいえんは一人では動かれへんからなあ。もっと強い式が要るってことになったら、お登与も俺も、お前に遠慮したりせえへんやろ。暁彦に言うて、もっと強いの探させよか。ほかにもう一人二人、従順で働き者なやつが、おってもええんやないやろか……」
 どう聞いても虐めてるとしか思われへん口調で、おとんはにやにや亨に言ってた。亨はそれに、ますます青い顔になってた。
「そ、そんな……。俺、アキちゃんのためなら何でもやるし、そんなこと言わんといて」
 亨は俺から引き離されるとでも思ってんのか、慌てて腕にすがりついてきた。
 でも、おとんは多分、亨をからかってんのやろ。こいつは必死すぎて、それがわからへんのや。
 にやにや面白そうにしてる、おとんの目が、可愛いやつやていう表情で亨を見てるのに、俺は気がついてた。そして何となく、モヤモヤしてた。
 おとん。用事済んだんやったら、はよ帰れ。
 なんでお前が、俺の亨をいたぶってんのや。確かにこいつは、からかうと面白いようなところあるけどな、それやっていいのは、俺だけなんやないやろか。なんかそういう気がするんやけど。
「暁彦盗られんのが嫌なんやったら、粉骨砕身して秋津のために働いてくれ。ええな、分かったな?」
 式神はこう使えみたいなデモンストレーションやった。たぶん、そういうつもりなんやろ。おとん的には。
 でも、俺はな、こいつにそんなん、したくないねん。
 こんな青い顔して、カタカタ震えてるのを、見るのはもう嫌や。
 俺の腕を掴んでる亨の指が、微かに震えてた。
 病気の時に、寒いて言うて震えてたのに、それはよく似てた。これはもう、俺にはトラウマになってるんやと思うわ。嫌な気持ちになった。亨が可哀想で。
「知らんわ、家なんて。俺は秋津の人間やないからな」
 むかっと来て、俺がそう言うと、おとんは横車に虚を突かれたような顔をした。
「えっ。なんやて。何を言うんや、お前は」
「俺は本間暁彦やもん。おかんがな、俺の戸籍作るとき、弟子の本間さんの名字借りたんや。秋津の家継ぐ覚悟できるまで、姓は名乗らせへんて言うてな」
 おとんはそれを、知らんかったらしい。ぎょっとしてた。
 神様かて、万能やないらしい。俺が剣道やめた事も、知らんかったようやし、俺が秋津暁彦やないことも、知らんかった。おとんが完全無欠に正しいわけやない。俺より先を歩いてるだけや。
 いずれ追いつく。先に出た言うてもやで、おとんは二十一歳で早々と死んでもうたんやろ。その後は死んで英霊かもしれへんけど、こっちは永遠に生きられるんやで。おとんに対抗して、生き神様目指したる。
「お前はお登与と俺の一人息子なんやで」
 それがどうしたみたいな事を、おとんはちょっと必死で言うてきた。いい気味や。格好悪い。
「い……家はどないするつもりや」
「知らんわ、俺は。もうそんな時代やないと思うけどな」
 ほんまはそこまで思ってへん。おかんが家を大切に守ってることは、俺も子供のころから、よく承知してた。せやから、至らない跡取りである自分のことが、ずっとつらかったんやないか。
 でも、知るかて言うたら、おとんがまたぎょっとしたので、俺は最高にいい気味やった。てめえ亨を虐めやがって。ほんまにもう許せへん。俺以外のやつが、こいつに痛め見せるんは。俺は時々、亨の天然ボケに強めにツッコミ入れすぎて、痛いアキちゃんて涙目にしてもうたりするけどやな、それはしゃあない、ツレやから。でも第三者がやったらあかんわ。
「どんな時代やねん、今の日本は」
 おとんはそれを、よく知らへんみたいやった。
 留守なことがあるんやったら、ずっと家に居るわけやないんやろけど、それでも浦島太郎みたいな顔してた。
「知らんのか、おとん。世の中のことも見いへんと、どうやって家守るんや。とっととカミングアウトして、おかんと旅行でも行け。留守番くらいなら、俺がやったるから」
 それが筋やろ。おかんを何年待たせてるんや。ずっと家に居ったくせに、こそ泥か、天上裏のネズミみたいに息ひそめたりして。そのくせ、気の向いた時にはこっそり親父面してみせたりして。せこいねん。俺に似て。
「そんな、旅行やなんて……」
 呆然と呟くおとんは、むちゃくちゃ行きたそうやった。
 それって、超フルムーンか。それとも、おかんの一人旅なんか。どっちでもええけど、おかんが家を空けることは今まで滅多になかったし、もしかしたらあの人も、京都の盆地を出たことないようなおひいさんのままなんやないか。それで山の向こうには鬼が棲んでるて、そんな昔ながらの感覚で、俺を都に閉じこめようとしてたんちゃうか。
 行ったらいいねん。どこへでも行け。熱海でもハワイでも。ふたりで行け。俺には亨が居るから平気や。ぜんぜん平気。亨が居るし。亨が居るから。
 かなり無意識に歯を食いしばってるような感じがしたけど、それには敢えて触れんといてほしい。
 しゃあない、おかんが好きなんは俺やのうて、おとんやねん。この海軍コスプレの近親相姦男。サーベル持って俺の部屋の天井裏にとりついてた変態のおっさんや。俺がおとんの写真を修整してやったおかげで、やっとおかんも長年の待ちぼうけを終わりにできる。俺がおかんを幸せにしてやれるんや。
 それで手を打っとこう。
 亨が居るから。って、それはもうええか。
「帰れ、おとん。嵐山へ。用事あったら呼ぶから」
 むちゃくちゃ尊大に、俺は言うてたけど、おとんはただ、ぼんやり難しい顔して、眉間に皺寄せて、頷いただけやった。
 たぶんイメージトレーニング入ってる。どうやって再会しようかな、どうしたら格好ええかな、みたいな想像や。わかるんや、俺には。親子やから。
 そんなんやめろ、おとん。考えても無駄や。格好良くなんかでけへん、ほんまに好きなんやったら。格好悪いおっさんでも良かったのに。アホやなあ、ほんまに、俺もおとんも。
「ほな俺は行く。せやけど平気か、ついていかへんでも。ひとりで戦えるんか、ジュニア」
「戦える、俺はもう二十一やで。それに、ひとりやない。亨も居るし、それにこの剣も貸してくれるんやろ」
 水煙すいえんの白銀のきらめきを、俺が示すと、おとんはちょっと、名残惜しそうに笑った。
「それは、貸したんやない。お前に譲ったんや。俺にはもう、武器は必要ない。お前のために持って帰ってきたんや」
「知ってたんか、俺が生まれたこと」
 何となく引っかかるそれを、俺はおとんに訊ねた。おとんは、こくこくと頷いた。
「知ってたで。お登与がそう言うてた。跡取り息子を、しかと孕んだて。時局もあるから、産むのはしばらく待つて言うてた。せやから産声上げるんは、俺が死んだ後やろうってな」
 回想する目で、おとんは俺を見ていた。俺と亨を。そして水煙すいえんもかもしれへん。遠い時代から、こっちを眺めてるような目やった。
「俺と同じ名前をつけてくれって、お登与に頼んだんや。もし俺が死んでたらやけど。生きて帰れたら、別の名前を俺が決めるからて、約束してな」
「なんて名付けるつもりやったんや。もし生きてたら」
 それが俺の、本当の名前なんやないかって、俺は驚いた。おとんはそれに、ちょっと困った顔で笑ってた。
「考えてへんかったわ。生きて帰れる戦やなかった。せやからお前は、秋津暁彦やで。いつか気が向いたら、俺の続きを生きてくれ」
 おとんは、おかんだけやのうて、もしかしたら、俺のことも愛してたんやないかって、そういう予感がした。そんな目を、その時おとんはしてた。
 どういう感じか、俺にはそれが分からへん。俺はもう死ぬ、それでも息子がひとりいるって、そう思う感じが。
 なんせ俺は永遠に生きる。それにまだ二十一やった。まだ父親になるような歳やないわという感覚やった。そして、俺にはそれぐらいのお年頃が、この先永遠に続く羽目になったんや。
 アキちゃんはな、お登与とお前のために死んだんやでって、水煙すいえんが余計なことを言うてた。お前は俺を泣かせようとしてんのか。やめろ、そういう事は。そういうキャラやないんや、俺は。格好悪いやろ。
 ほな、よろしゅうお頼み申しますと、おとんは水煙すいえんに別れを告げた。心配いらへん、任しときと、水煙はそれに答えたきり、あたかも本物の剣のように、しいんと沈黙した。おとんが、すうっと透けるように消えて、画面の中の白黒写真に、きりっとした姿がまた戻った時を境にして。
 もしかすると俺にはまだ、水煙に口をきかせるだけの力がないのかもしれへんかった。剣の心は感じたけど、俺の前では水煙は、無口なやつやった。
 せやけど単に、気のきいた奴やっただけかもしれへん。
 俺の腕を掴んだまま、亨がもじもじ立っていた。
 なんかそれが気まずくて、俺は亨の手を解かせ、書斎の床に置かれたままやった水煙の鞘を取りにいって、その中に淡く濡れたような刀身をおさめた。鞘の装飾も綺麗やった。綺麗な剣やと、俺が心底褒めると、水煙は声とも無い声で、うっとり笑ったようやった。
 振り返ると亨が、それを恨めしげな上目遣いで見てた。
「殺すんか、あいつ……」
 勝呂のことやろ。亨は訊きにくそうに訊いてきた。
「わからへん、行ってみないと」
「殺さなあかんて、おとんも言うてたやないか」
 亨は静かに、駄々をこねてた。でも俺と、目を合わせようとしなかった。
「そうやな。それくらいの覚悟で行かなあかんのやろうな」
「アキちゃんが嫌やったら、俺がやる。何やったら、家で待っててくれてもええねんで。あいつ殺ってこいって、俺に命令して、家でのんびりしてたらええやん。映画でも観て、のんびり……」
 もじもじ言うてる亨は、俺をもう勝呂に会わせたくないらしかった。
 そういう気持ちは、俺にもよく分かった。俺も亨には、前になんやかんやあったような相手と、もう会ってほしくない。別に平気やて信じてても、嫌な胸騒ぎがする。
 まして、平気なんやろかって、心配してたら、なおさら嫌やろ。
「そうはいかへん。俺の責任なんやから、俺が行く」
「そんなん言うて、もしもの事があったら、どないすんねん。刀一本もらったくらいで、強くなったつもりなんか」
 非難する口調の亨に、水煙がかたかた鍔鳴つばなりしてた。不満なんやろ。失礼な蛇やって、思ってるんや。俺にはそれが、手に取るように分かった。
「俺にやらせて。リベンジやんか。アキちゃんの敵う相手やないんとちゃうか。心中してやるつもりなんか、あいつと。それは……それは、どうやろ。いい考えやとは、俺には思われへんけど」
 俺に反論するのが、亨にはつらいらしかった。
 たぶん、俺の式しきとして、まだ捕らわれてるんやろ。戦えって、命令してくれたら勝てたんやでって、亨はベッドで血まみれのとき、言い訳みたいに何度も言うてた。あんな犬、俺の敵やないんや。簡単に勝てたんやで、アキちゃんさえ、そうしろって言うてくれてたら。俺も無能やないんやでって、亨はずいぶん必死みたいやった。
 別にええのに。お前が無能でも。そのほうがええやんていう気もする。そしたらもう、危ない目に遭わせることもないやろし。
 それでも、結局、亨は俺のしきで、こいつを戦わせるしかない。因果な話やで。なんか俺って、いわゆるその、美人局つつもたせみたいやないか。ほんまに情けない。
 おとんが自分の式の話をするとき、ものすご毒のある笑みやった理由が、俺にはそのとき、なんとなく読めた。
 抱いてほしいて強請られるから、抱いてやらなしゃあない。それと引き替えに、式は働く。戦って死ねて命令されたら、戦って死ぬ。そうして自分だけ生き残る。そういうのが、おとんはつらかったんやろ。あれは自嘲の笑みやったんや。
 俺もつらい。亨を戦わせて、自分は家でのんびりなんていうのでは。俺も戦う、その必要があるときは。ヘタレで何の役にも立たへんかもしれんけど、俺は後悔してる。なんであのとき、ぼけっと突っ立ってたんやろって。
 勝呂が亨を襲ってる、それをぼけっと立ちすくんで見てた。何とか助かったから、良かったようなものの、もしもあのまま亨が死んでたら、俺は惨めやったやろ。助けるのが無理でも、なんで一緒に死なへんかったんやろって、ずっと思う。俺はあの時、亨を助けてやりたかった。でも、体が動かへんかったんや。
 強くなりたいなって、思ったのは久々やった。
 昔は思ったことあったような気がするで。剣道の道場で俺をボコった気の毒な三年の件とかでな。強なってあいつぶっ殺したるって思ったわ。まあ、実際、おかんのほうが強くて、そんな必要は皆無やったけど。
 せやけど子供の喧嘩に親が出てくるのは、どうやろ。おかんは過保護やねん。それに、やりすぎ。俺は自分でやれる。リベンジくらいはな。
「亨、心配せんでええねん。今さらお前以外になびいたりせえへんわ。俺はお前が好きや。何があってもそれは変わらへん。でも、俺は責任感じてるんや。勝呂のことは、可哀想やったと思うてる。何とかしてやりたいねん。それは俺の我が儘か」
「我が儘や、アキちゃん……」
 がっくり項垂れて、亨は即答やった。
 綺麗な顔を歪めて、亨がううんと呻いてるのを、俺は困って眺めた。
「可哀想って、そんな……あいつが好きやったんか。そうなんやろ。正直に言うてくれ。俺もう、何回もイメージトレーニングしてて、きっと平気やから。嘘つかんと、ほんまのこと言うて……」
 死刑なら死刑って言うてくれみたいな顔で、亨は部屋の中にいる俺に懇願してきた。
 おかんに嘘ついても無駄やって、昔からずっと思ってた。バレるからやけど。不誠実やろ。嘘ついて、誤魔化そうなんて。そんなん、男らしくないて、俺はずっと思ってた。
 嘘ついて、ええ子やなあアキちゃんて言われても、嬉しくない。悪い子やって、鬼みたいな顔されても、俺はおかんには嘘つきたくなかったんや。
 おかんが好きやってん。嘘つく男なんやって、思われたくなかった。
 好きな居るんかって、にこにこ訊かれたら、居るときには正直に、居るよって答えてた。でも、おかんのほうが好きや。ほんまは、おかんのことが好き。あののことは好きやけど、ぼんやり好きっていうくらいで、おかんを好きなんとは違う。死ぬほど好きなわけやない。おかんが死んだら、俺も死ぬって、ほんまはずっと、そう思ってたんやけど、それは口に出しては言えへんことやった。俺はずっと声を殺してた。それがすっかり癖になってる。
 せやけど亨には言うてもええんやないか。
 お前が好きやねん。死ぬほど好き。おかんよりも、勝呂よりも、俺はお前が好きなんや。せやから心配せんでええねん。我が儘な気の多い俺を、許してくれって。
 試しにな、俺は言うてみた。
 亨は綺麗な顔を真っ青にして、息でけへんみたいに、ぱくぱくしてた。幸せっていう顔ではなかった。開いた口がふさがらんみたいなな、そんな顔やった。
「お……おかんもか、やっぱりそうなんか、アキちゃん」
 しまった。その話、まだしてへんかったっけ。
 俺の目は一瞬で遠洋まで泳いでた。
「勝呂瑞希とも、どこまでデキてたんや……」
 わなわなしてきて、亨は訊いてきた。Tシャツから出てる白い腕に、なんとはなしに、うっすらと真珠色の鱗が見えた気がした。
 おいおい。ちょっと待ってくれ、亨。まさかお前、また蛇に化けるんやないよな。そんなもんになって、俺になにする気なんや。
「どこまでって……なんもしてへん」
「駅で抱き合うてた。キスしようとしてたやろ。いっつもしてたんか、大学で……」
 わなわな震えてる亨は、綺麗やったけど、悲しそうな顔やった。でも鬼みたいやった。めちゃくちゃ怖いような感じがした。それで俺は思わず伏し目になった。正視できへん。なんでやろ。美しすぎやからかな。たぶん違うな。怖すぎなんや。
「してへん。あれが初回や……」
「しようとしてたんや、やっぱり!」
 ドーン、みたいに、その結論を亨は俺に突きつけてきた。
 ああ、まあな。よく憶えてへんねんけど。そういう考え方も一説としてはあるな。だってな、なんというか。可哀想やってん。それだけやで。ほんまに。
「可哀想やが恋の始まりやないか。俺もお前が可哀想やから、初対面なのに入れさせてやったんやろ。どないなっとんねん、そこは。あいつ、可愛い顔しとったやないか。ああいうの好きなんか、アキちゃん。女みたいやで、あいつ」
 お前もある意味女みたいやんかと、俺は心の中でだけツッコミ入れてたけど、亨にはそれが聞こえてるみたいやった。
「そうや。そうやから、好み系やったんやろ。アキちゃんああいうの好きなんやろ。それで食指が動いたんやろ。誰でもええんや、顔さえ好きなら! 俺やのうても! あんなポッと出のワン公でもや!」
 客観的に見て、俺は亨に激しく罵られてた。
 今まで堪えてたらしい一言一言が、メガトン級に重い。言われてもしょうがないけど、お前ちょっと強く言いすぎなんとちゃうかって、俺は思った。俺が凹むとは思わへんのか。正直ものすご凹むんやけど。
 それでも俺が我慢して拝聴してると、亨はもっと血の滲むような事もいっぱい言うて、そのうち息切れしたみたいに、はあはあ黙った。
 言い終えた亨は、すっかり傾いてた。
「悔しい……俺、こんな目に遭ったことない。振られたことないねん……ど、どうしたらええんや、こういう時」
「振ってない……お前が俺のこと嫌んなったんやったら、しょうがないけど」
 俺が何気ない一般論で応じると、亨はガーンみたいな顔をした。見えない大岩が亨の頭の上に落ちてきてるのが見えたような気がした。なんやそれ。目には見えない隕石か。
「嫌や……しょうがないなんて。そんなこと言わんといてくれ。しょうがなくないやろ、ずっと……ずっと一緒にいるって、約束してたんとちゃうの」
 亨は猛烈に危険な状態やった。
 何がどう危険なんか、言葉では上手く言い表せへんけど。一触即発って言うかんな。うっかり変なこと言ってもうたら、このままドカンみたいな、何かそう言う感じ。猛烈に危険な壊れ物。そういう感じ。強いて言うなら爆弾処理班の人のご苦労が偲ばれるような感じ。
 後から思えば、亨とは、爆弾と付き合うてるようなもんやった。それくらいの力を、あいつは内に秘めてたらしい。俺の返答しだいでは、出町柳を爆心に、京都は壊滅なんてことも、絶対にないとは言えへん。亨は爆発しそうな顔してた。
「約束、したけど……それは、お前が嫌やないんやったらの話やろ」
 俺は内心ビクビクしながら、返事してた。格好つけてる余裕は皆無やったな。ガタガタ震えてる亨が心底怖くて。蛇に睨まれたカエルさんやで。
「嫌やない。嫌なわけないやろ。俺ずっと、頼んでるやんか。離さんといてて、ずっと必死で頼んでんのに、なんで分かってくれへんのや!」
 その一撃で鴨川寸断、みたいな衝撃波を、亨は放った。もちろん、ものの例えやで。とにかくそういう、血の出るような絶叫やった。
 それでも亨の目が、ギラギラ金色に燃えてくるのを、俺は真顔で見下ろしてた。硬直してたんやで。
「ほ、ほかのやつのこと、好きにならんといて。俺、し、し、し……」
「……し?」
 わなわなした青い顔で、口ごもってる亨の話に、俺はつい触れてもうた。
「死ぬわ! ほんまに死ぬ! 今度こそほんまに死ぬんやからな! 今回かてな、生きてられたんが不思議やわ。やっと立ち直ってきたところやないか、それを何やねん、あいつが好きなんか。悔しい。おかんはしゃあないよ、あっちが先着順やから。せやけど俺のほうが犬より先やんか。なんでなんアキちゃん、俺のほうが先やのに」
 ネチネチ言って、亨はわっと泣き崩れてた。男が泣き崩れんの、俺は初めて見た。高校野球とかで一瞬見たことあったような気がするけど、亨のそれは、また全然違ってた。身を揉むような泣き崩れ方やった。
 順番抜かして、そんな話なんか。なんで、泣いてんの、亨。
 お前さ、お前かて、こう言うたら何やけど、俺と付き合う前から使ってた、あの携帯電話の住所録、まだ消してへんやろ。昔のお友達がぎっしりのやつ。それは、どうなん。俺はあかんけど、お前はええのか。そんな独自ルールか。
 なんにもしてへんねんで、ほんまに。一回、手握られただけ。それはこの際、言うたらあかんような気がするけど、もしかしたら、お前が『ミッション・インポッシブル』観て、トム・クルーズかっこいいってゴロゴロ身悶えてるのの半分も、浮気してへんかったかもしれへんのやで、俺は。
 なんで泣くねん。泣かんといてくれ。怒ってるほうがマシやわ。
「アキちゃん、我慢せなあかんのやろか。おとんが言うてたやろ。俺はそういうの、我慢せなあかんのか、アキちゃんのために」
 しくしく泣いて、亨は哀切やった。
 外は雨やろうって、俺はぼんやり思ってた。
 リビングのカーテンは閉まってた。京都での、人食い騒ぎが盛り上がってきて、マスコミの連中が盗撮しようなんて思い始めてから、うちのカーテンは閉まったまんまやった。
 自分が撮られるんも、もちろん嫌やったけど、俺は亨が撮られるんやないかって、それを警戒してた。普段は写真に写らないこいつが、何かの間違いで写ったら、どうしようって。
 みんな見るやろ、こいつは綺麗やし、もっと見たいと思うやろ。
 そうなったら、どうなってまうんやろ。せっかくここで、平和にふたりで生きてたのに、それが崩れるような気がする。それが全部自分のせいで、俺はつらい。何もかも始末をつけて、元通りの暮らしに戻りたい。
 大学で絵描いて、亨と飯食って、ふたりで寝て。ときどき喧嘩して。
「我慢せなあかんのやったら、そうやって言うてくれ。そう命令して。つらいけど、俺、我慢すると思うで。だって、アキちゃんと一緒に居られへんようになるほうが、ずっとつらいんやもん」
 亨の顔は、まだ涙で濡れてたけど、もう泣いてへんかった。あれは一瞬の豪雨みたいなもん。今まで溜めてたぶんが、一気に流れ出ただけやったんやろう。
 もしかして亨は、ずっと知ってたんやないかって、そんな気がした。
 何もかもお見通しやった。神様やからかな。
 俺がおかんを好きやったことも。勝呂の綺麗な顔に、内心ドギマギしてたことも。みんな知ってる。全部知ってて、ずっと我慢してたんやないやろか。
 いつも縋り付くような目してた。アキちゃん、離さんといてて言う時、亨はいつも、必死のような目をしてた。
 なんでそんなこと言うんやろって、いつも不思議やったけど。俺はお前に不実やったんかな。俺にはずっと何か、足りないもんがあったんやろか。
 お前はそれをずっと、我慢してたんか。腹減ったって、それでずっと、困ってたんか。
 血吸えばええんやみたいな解決がついても、亨は俺にべたべたしてた。抱いてほしいらしかった。前みたいに、昼となく夜となくって訳ではないけど、それでもずっと抱いててほしいって、そんな雰囲気やった。
 よっぽど好きなんかなって、俺は亨の淫乱を呆れて見てたけど、でも、たぶんそれが嬉しかった。俺もお前と、ずっと抱き合ってたかったんや。
 それって単に、好きやからやろ。
 それ以上の説明つかへんけど、とにかく、好きやからやねん。お前が。
「我慢なんか、せんでええねん。怒っていい。俺はお前のもんやねん。そうやったらいいなって、俺も思う。せやからな……」
 なんて言えばええんやろ。
 俺は口ごもって亨を見つめた。俺ってなんで、肝心な時に口下手なんやろ。
 なんて言うていいか、さっぱり見当もつかへん。
 亨は悲壮な金色の目で、俺を食い入るように見てた。
 綺麗な目やなあって、俺は思った。お前には、ほんまに見とれる。怒ってても、泣いてても、綺麗な顔や。でも、お前の笑ってる顔が一番好きなんや、俺は。
 あの、ちょっと切なそうな目と、また見つめ合いたい。なんで俺はお前をわんわん泣かしてるんやろ。いつも、にこにこしてて欲しいのに。
 俺が脇目も振らないくらい、もっとお前の虜にしてくれ。俺の中に流れてる、悪い血を、お前が全部吸い尽くしたら、俺も悪い子やめられるかもしれへん。
 俺はもう、悪い子やめたい。お前だけに夢中になりたい。
「アキちゃんの、血吸いたい。みんなして、横入りしてきて、もう嫌や。俺のものにしていいっていうんやったら、アキちゃんの血、全部吸わせて。肉も骨も、全部俺が食うてまうよ。そしたらアキちゃん、誰にも盗られへん」
 くよくよ言って、亨は俺に許しを求める目を向けた。
 血吸うてええかって、訊いてんのか。ええけど。お前、俺を殺す気か。許せへんのか。
 それやったら、しょうがないけど、俺の罪はどうなるんやろ。俺に代わって、亨が落とし前つけてくれるんか。リベンジがてら勝呂を始末して、それで終わり。
 それでも結果的には同じか、って、俺は諦めた。
 でも、あんまりむちゃくちゃな事したらあかんのやで。勝呂が可哀想やろ。おおもとは、あいつは何も悪くなかったんや。俺の不始末なんやで。
 それにお前も、鬼になってしまう。亨も鬼になって、元に戻れんようになるんやないかって、俺は心配やった。
 亨は、にじり寄るような足取りで、静かに俺に近づいてきた。水煙が、こいつを斬れって、かたかた鳴ってた。せやから亨は、そのとき割と本気やったんやろ。本気でブチキレてて、俺を殺そうとしてた。
 それなら、しゃあないわって、俺は思った。俺は亨を裏切ってたんやろか。そんなつもりなかった。その手前のとこで、持ちこたえたつもりやった。
 それでも亨が俺を信じられへんのやったら、仕方ない。
 ゆっくり抱きついてきた亨の熱い息を、俺は自分の首筋に感じた。ちくりと甘い痛みが肌に走った。その後は毎度のように、身の震えるような深い陶酔が沸き上がってきた。
 ものすごく、気持ちいい。下手すると、悶えるお前を抱いてる時より、気持ちいいのかもしれへん。
 けど、俺はお前に言うたことあったっけ。
 うっとり微笑んでる、俺が好きやって言う顔のお前と、ぼけっと見つめ合う時も、おんなじくらい俺は陶酔してる。明け方に目がさめて、まだ寝こけてるお前が、幸せそうに俺に抱きついてるのを見る時も、おんなじくらい幸せやった。
 それって、一回くらい、言うとかなあかんのとちがうかな。まだ口利けるうちに。
 亨は、はあはあ喘ぐ息で、俺の血を飲んでた。その顔を、見たらあかんのやないかって、俺は直感してた。きっとこいつは今、鬼みたいな顔してる。勝呂がそうやったみたいに。
「亨……」
 急にくらっときて、俺は立ってられへんようになった。
 俺を押し倒して、亨はそれでも血を吸ってた。最後の一滴までって、決めてるみたいやった。
 死ぬんかな、俺、って、ちょっと驚いて、それを感じた。おかしいなあ。ちょっと前まで、亨と永遠に生きる予定やったはずが。人生って、どう転ぶか分からんもんなんやなあ。
 無念もあったような気はしたけど、うっとり薄れる意識には、別に不満はなかった。まあええかって、俺は思ってた。
「亨……一個忘れてたわ。お前が元気になったら、返事するって、約束してたやつ」
 やっぱりそれは、亨には心残りなんやないかと思えて、俺は力を振り絞って話してた。
「お前な……ほんまは俺やのうても、誰でもよかったんやろ。愛してくれたら、誰でも。たまたま俺の血の力にとっつかまって、ここから出られへんだけや」
 あれ、そんな話やったっけって、俺は思いながら話してた。そんな話やない。亨が無事に助かったら、俺が亨を本気で好きかどうか、教えてやるって、約束してたんやで。
 はよ言わな。俺はお前に本気やった。最初からずっとそうやで。それがこんな展開で、格好つかへんけど、ごめんなって。
「思い詰めたら、あかんのやで。勝呂みたいに、鬼になってまうやろ。お前を愛してくれるやつなんて、いくらでも居るはずや」
 そんなもん居らんて、亨はまだ血を吸いながら答えてきた。恐ろしいような声やった。
 波打つように喘いでる亨の背を、俺は無意識に撫でてた。
「行くとこないんやったら、嵐山のおかんのとこに居たらええよ。それともまた誰か、他の男を探すんか……」
 そうかもしれへん。こいつには、俺が最初やないし、最後でもないんや。
 無念といえば、それが無念や。
 俺は亨と永遠に生きられると思って、ほっとしてた。お前はもうずっと、永遠に俺のもの。他の誰のとこにも行かせへんて、執着してた。つらいんや、お前が俺の居なくなった後に、誰かほかのと幸せになるのが。
 俺がお前を幸せにしてやりたかった。永遠にずっと幸せに。ふたりで、ずっと。
「あのな、口で言うたら、嘘くさいやろ。でも俺は、お前に本気やったで。本気で好きやった、亨……」
 強く抱きしめると、亨の背がびくりと震えた。
「ごめんな、嫌な目に遭わせて」
 他になにか、言っとかなあかんことって、あったやろかって、俺は朦朧と考えてた。
 眠かった。苦痛は全然無くて。
 もう、ものすごい量を吸われてて、死にかけなんやって、俺は思ってた。
 けど、そういう訳やなかったらしい。俺に苦痛がないように、亨は俺に催眠をかけてた。失血死も楽とは言い切れんもんやて、亨は後に話してた。何日もかけて、ゆっくり食うつもりやってん。それとも、迷ってただけかもしれへん。どこかで止めて、引き返せるように、その時を引き延ばしにしてた。
 亨、と、俺はぼんやり名前を呼んでた。
 俺のこと、許してくれ。いつか、お前がそんな気になる時がきたら。
 俺もお前とずっと一緒がよかった。そしたら俺はきっと幸せやった。お前が好きやったんや。めちゃくちゃ好きやった。
 最後にお前の顔、見せてくれ。俺を見て、微笑んでる顔、もういっぺん見たい。
 俺はたぶん、ほとんど寝てたと思う。
 酔いつぶれて寝こける寸前みたいな感じやった。このまま意識喪失の、ちょい手前。
 亨は顔を上げて、震えながら俺を見下ろしてきた。笑ってへんかった。今にも泣きそうな金の目で、じっと俺を見る亨の顔は、いつもに増して綺麗やった。
 綺麗やなあ、お前は。触ってもええかって、俺は最初に亨を口説いたときに言うてたらしい。憶えてへん。泥酔してたんや、その時も。
 そして、二回目のも、実は憶えてへん。朦朧状態やったんや。
 おんなじ事を、俺は言って、亨の頬を撫でたらしい。
 亨はそれに、呻くような押し殺した苦悶の声をあげた。不思議や、そっちは憶えてる。たぶん俺は、びっくりしたんやろ。何かまた痛いのかと思って。
「アキちゃん……過去形で、言わんといて。俺、つらい」
 俺の首にすがりついてきて、亨はそう言った。
「無理や、俺には。アキちゃん殺すやなんて。許すしかあらへんわ」
 キスして、抱いてって、亨が求めてた。せやけど無茶言うなやで、俺は意識失う寸前やねんから。それでも亨は妥協せず、強引に唇を合わせて、自分の背を抱く俺の腕にもっと力を込めさせた。
「好きや、アキちゃん。ずっと俺と一緒にいてくれ。愛してるんや。いつも俺のことだけ見てて。お願いやから」
 お願いやって、亨はめそめそ頼み込んでた。
 怖いわ、お前。浮気したら、俺は、こいつに食われてまうんやって、俺は寝ながらぼんやり思ってた。
 怖いなあ、それは。浮気なんかせんとこ。ずっと亨のことだけ見てよ。
 こいつが俺を許してくれて、また俺の目が醒めるんやったら。きっとそうしよう。
 眠り込む闇の中で、俺はぼんやりとそう決心してた。
 その熱い闇の中でも、亨は真っ白く光るような体で、俺に抱きついてた。それを強く抱き返してやって、めそめそ懐いてくる亨の柔らかい髪を撫でてやりながら、俺はのんびり横たわっていた。
 それを脇で見てる奴が居った。
 頬杖突いて、しゃがみ込み、じっと呆れたような顔して、俺と亨を見てる。
 そいつは薄青い肌をしてた。人のような形はしてたけど、人ではなかった。長い髪をしてたけど、それは髪というよりは、なんとなく海の生き物っぽい透けかたしてて、ところどころ鮮やかな黄色やった。熱帯魚みたいやと、俺はその綺麗な姿を眺めた。
 綺麗やってん。俺の悪い癖やな。俺はそいつの臈長けた人ならぬ美貌を、じっと見とれて見上げてた。
 やがてそいつは、呆れたという顔そのまんまの声で喋った。
「アホか、お前らは」
 鋭いツッコミやった。
「なにを激しくいちゃついとるんや、この時間ない時に。仕事はどないなったんや、ジュニア」
 皮肉な笑みを浮かべて、青い熱帯魚は俺に指摘した。その笑い方は、おとんを彷彿とさせた。剣と一体になるんやと言っていた、俺のおとん。秋津暁彦。そんで俺がそのジュニア。
 ということは、こいつは、と、俺は気づいた。さすがの鈍い俺でも。煙るような霧に包まれている、その青白い姿の正体が何か。
「す、水煙すいえんか、お前……」
「そうや。他に誰がおるねん。はよ起きろ。起きられるやろ、ジュニア。それくらいの潜在能力あるんやろ。とっとと覚醒して、俺と暴れようや」
 アキちゃん、と、水煙すいえんは意味深に言って笑った。
 亨はごろごろ喉を鳴らす猫のように、俺に甘えていて、ぜんぜん気づいてへんみたいやった。
「ほんまにもう、ええ加減にしてくださいやわ。俺が脇におるのに、まったく気にせずラブシーンか。お前、アキちゃんより無節操やわ。俺がそういう気持ちいいことはでけへん体やって知った上での狼藉か?」
 俺に抱きついてる亨を、羨ましそうに流し目で見て、水煙すいえんは小さくチッと舌打ちをした。
 しかし立ち上がって遠望する目つきになった水煙すいえんは、うっとりと妖艶なような笑みやった。
 あおーん、と、水煙は青い喉をそらせて、犬か狼の遠吠えのような真似をした。
「犬が待ってるで。早う行って、一緒に暴れよか」
 俺を振るえと、水煙すいえんは誘った。
 そして、起きろ蛇と鋭く言って、容赦ないキックを亨にお見舞いしてた。
 ひどい話や。ぎゃっと言って飛び起きた亨を、俺はとっさに抱き寄せて庇ったけど、もはや今さらやで。
 修行が足らへん。こいつを事後やのうて事前に庇えるようになるまで、まだまだ修行が必要や。
「お久しぶりで燃えるでえ」
 うっとりと、拳を握りしめ、水煙すいえんは漆黒の天を仰いで、そう叫んだ。俺と亨は抱き合ってそれを見てた。古い神が咆吼するのを。そして、それに熱い闇が、ずうんと重い低音で応えるのを。
 世の中にはまだまだ、俺の知らない怪異がある。俺の知らない美も。水煙を発する神はそのひとつだった。亨は水煙の麗しい横顔を見て、むっと顔をしかめ、そして俺を睨んだ。
「なんやねん、こいつ。俺のほうが美しいわ。そうやろ、アキちゃん」
 つねるノリで俺の脇腹を掴んできた亨の指にびくうってなりながら、俺は反射的にこくこく頷いてた。微妙や。ほんまのところ、甲乙つけがたい。俺が亨を愛してなかったら、水煙のほうが綺麗やって思うこともあったかもしれへん。
 せやけどその話はタブーやねん。
 なんせ俺は亨とは永遠に一緒やけど、水煙とも長い付き合いになるからやった。亨は俺のしきで、水煙は剣。どっちが欠けても、俺はいまいち役立たず。
 そんなふうに、神さんたちのご機嫌次第でやっていくのがげきというもんやから、せめて愛想良くせんとあかん。
 アキちゃん、好きやって、また懐いてきた亨を抱き寄せて、俺は冷たい目の水煙に、誠に申し訳ありませんという視線を向けた。それに水煙は、ふんと鼻で笑ったが、さすがは大先輩というところか。大目に見てくれた。
 アホやこいつという目で亨を一瞥し、また遠望する横顔になった水煙は、震いつくような美しさやった。
 でもその詳しい話は残念ながらカットや。
 俺のツレが怒る。
 せやから詳細は御想像にお任せやけど、とにかく俺はおとんから神剣を受け継いだ。そしてそれは、秋津の家督を継いだということでもあったんや。
 それで支度は調った。長い戦いの日々の始まりやった。


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