SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(6)

 蔦子さんは今朝はもう、黄色と黒のシマシマやなかった。
 すっきり涼しげな薄緑の絽の着物着て、朝飯の食卓についていた。
 でかでかと置かれたダイニングテーブルは、いかにも洋風な大物で、イタリアあたりの骨董ではないかという印象やった。
 ここんの和洋折衷の趣味は、蔦子さんの好みなんかもしれへん。とにかく嵐山の家とは違う。
 客間の風呂も、普通に洋風のやったし、ダイニングになんか銀のシャンデリアが下がってる。それが意味不明なんやけど、何かしっくり来てて格好ついてる。それに朝飯もパンと卵料理とサラダやった。
「お早いお出ましやこと。卵がすっかり冷めてしもたわ」
 スポーツ新聞をじろじろ見ながら、蔦子さんはアキちゃんに嫌みを言うた。俺はどうもアキちゃんのオマケで、嫌みを言うにも値しないらしかった。
「朝からしきといちゃついてる場合やおへんえ。いろいろやってもらいたい事があるんどす。ちゃっちゃと食べて、出かけますえ」
 食卓には何人かの式が飯を食うてた。
 昨日見たちびっ子もおったし、赤毛も端の席で、すでに黙々と何か食うてた。この家では食いたいときに飯を食うてええらしい。蔦子さんがアキちゃんを待ってたんは、蔦子さんなりに、アキちゃんを立ててたということみたいやった。
 それとも単に嫌みを言いたくて待ってただけか。
 はよ食え言う割に、蔦子さんはわなわな手に持ったスポーツ新聞をアキちゃんに見せて、すごい怖い顔やった。
「これ見なはれ。二十四対零どすえ。悪い夢どす。あんたはウチがテレビ消した後も、まだやってたんか。なんてしつこい子ですやろ。もう分かったて言いましたやろ。ほんまにトヨちゃんそっくりで、イケズやわ」
 あんたもおかんに恨みがあんのか。ほんまに親友なんかって謎めいてくるような、痛恨の表情で、蔦子さんはぼやいた。
「大敗北や。あと一試合でも負けたら敗退どす。ああもうほんまに、ウチはどうしたらええんや」
 どうもでけへんやろって、俺は思ったけど、黙っといた。蔦子さん、アキちゃん風で怖いし、下手なこと口走ったら何言われるかわからへんのやもん。
 アキちゃんに、頼むしかないわ。阪神勝つように、神風吹かせてくれって。
 せやけどそれはズルやろ。でも、いっぺんズルして、相手を勝たせてんのやから、もういっぺんズルして阪神勝たせとかんと、それこそ不公平やろ。アキちゃんが勝ち負けに介入してええはずがない。双方一回ずつ勝たせて、ズルをチャラにせなあかん。
 俺が頼んだら、アキちゃん、なんかしてくれるかな。それとも、蔦子さんが喜ぶようなことは、したくないんかな。
 俺はぼんやりそれを思い、新聞に踊る『虎、まさか!?の大敗北』の文字を見てた。
 それから目をやった別の虎のほうは、今朝も絶好調みたいな顔やった。がっくりきてたんは昨夜のあの連続ホームランを拝んだ時だけで、今はもう、にこにこしてベーコンエッグ食うてた。
 箸で掴んだ目玉焼きを、がつがつ囓ってる。その口元に目立つ牙があって、なんやちょっと、ぞわっとした。俺が血を吸うための細い牙とは違って、いかにも猛獣の歯やった。あれは肉を食いちぎるための歯やで。噛まれたらきっと痛い。
 でも、気にせんとこと思って、俺は飯を食おうと目を背けかけ、ふと、信太の隣にいる赤毛の首に、噛まれたみたいな痕がいっぱいあるのに気がついた。シャツの襟に隠れてはいたけど、牙のある歯で甘噛みされたような赤い痕やった。それともそれは単に、激しく吸われた痕なんか。
 血でも吸うてんのかなって、俺はちょっと動揺しつつ思った。
 血を吸うやつは珍しくはない。それが相手を殺さずに、効率よく食う方法やからや。血液は良質な精気の供給源やし、好む奴は多い。
 けど外道やったら特に、吸われた傷はすぐ治るはずや。そんなにいつまでも、痕が残ってたりせえへん。
 せやからそれは、道場で見た、アキちゃんの手首の傷みたいなもんやないかと俺には思えた。残してある傷や。印みたいなモン。ここは俺の縄張りやって、タイガーがつけてった印。それを消さんと受け入れて、残しといた傷なんやないか。
 赤毛は素知らぬ顔で、サラダ食ってた。赤みのある、とろっとしたドレッシングがかかってて、ぼやんり食うてる赤毛の口の端に、それが残った。それでも気づかず上の空でいる赤毛の口を、タイガーがいきなりべろっと舐めた。
 アキちゃんそれに、びくっとしてたわ。俺も驚いた。驚いた奴は、それで全部やった。
 食卓には他に、五、六人はおったけど、その式のうちの、誰も何とも思ってないようやった。蔦子さんも無反応。アキちゃんに話しかけてて、見もしてへん。
 そんな中で、信太は赤毛の顎をつかんで自分のほうに向かせ、ずいぶん念入りにキスしてやっていた。赤毛はうっとりきてるようにも、ぼけっとしてるだけにも見えた。
 聞いとりますのんかと蔦子さんに怒られて、アキちゃんは慌てて話に戻ってたけど、顎がくんてなってたわ。
 蔦子さんは、日本シリーズでの阪神タイガースの今後について、そして昨夜の試合が虎キチにとって、どんだけ大事なもんやったかを、切々と語って聞かせてた。それがどんだけアキちゃんにとって、何の価値もないもんか、全然分かってへん。
 それでも聞くしかないアキちゃんの隣で、俺は何となく呆然として、キスしてる虎と赤毛を見てた。
 お前らちょっと、キス長ないか。皆が見てる前で、ようそんなことやるわ。
 俺でもそんなんしてもろたことない。アキちゃん照れてまうから、人前では、そんなんありえへんから。
 何やそれが、無性に羨ましいような気がして、俺はずっと、ぽかんと見てた。
 赤毛は噛まれた痕のある首筋を信太に撫でられながらキスされて、ぼけっとしてるようやのに、突然ぽろっと一粒泣いた。感極まったような涙やった。
 信太はキスをやめて、その涙を赤毛の長い睫毛から吸い取った。
 変なもんやで。涙舐めてる。それを何とも思うてへんらしい、ここの奴らも異常やし、そこまでやられて、まだ箸持ってる赤毛の鳥も、なんやおかしいと思うわ。
「腹いっぱいになったか、寛太」
 信太は優しいような声で訊ねてた。
「なったわ。兄貴。俺は今日は蔦子さんのお供で六甲へ行ってくる。その後、長田のほうへ見回りへ」
 平然と答えてる赤毛の口ぶりで、俺は信太が口移しでなんか食わせてたんやと気がついた。
「そうか。無理すんなよ」
 労り感のある口調で言うて、信太は赤毛のほっぺた撫で撫でしてやってた。それでも赤毛は素知らぬ顔でサラダの続き食うてたわ。
 なんなんや。あれは。俺はアキちゃんに、あんなんしてもろたことない。すぐに怒るし、つれないしやで、まったくもって俺が可哀想や。
 アキちゃんもちょっとは虎を見習えって、思わずジトっと見ると、アキちゃんは心なしかあんぐりとして、まだ蔦子さんの恨み節を聞いてた。
「目指せ日本一なんえ。リーグ優勝だけやと煮えきらへんやないの。どうせやったら日本一になってもろて、皆でビールかけしたいんやウチは」
 テーブルを叩きながら、蔦子さんはアキちゃんに力説してた。
「え……そんなんしたいんやったら、したらええやないですか。別に日本一ならへんでも、瓶ビールくらい買えるでしょう」
「アホか! アホなんか、あんたは。日本一なってビール浴びるから気持ちええんやないの。負けてビール浴びたら腹立つだけどす!」
「そういうもんやろか……」
 蔦子おばちゃまの話に首かしげてるアキちゃんは、チームスポーツの経験がない。そう言うてた。このボンボンは見かけによらず運動神経はええねん。野球でもサッカーでも、やらせたが最後ひとり勝ちしてもうて、何が面白いんかわからへんらしい。お前ら下手やなって、つい口が滑ってもうて、そしてチームメイトのハートをロスト。せやから、一緒に野球しよか、サッカーしよかって、誘ってくれる友達がおらんようになる。
 というか、俺はアキちゃんに友達が居るという気がせえへん。
 嫌われてるわけやない。大学で嗅ぎ回ってみると、アキちゃんのこと嫌いや言うてる奴はそんなにおらへん。一方的に恨んでる奴もおるけど、それはどうも女がらみや。
 好きやった女を本間に食われた。しかも一口食ってポイ捨てみたいな食い方やった。許せへんていう、そういう物陰からの恨み視線で、アキちゃんはそういう奴が居ることすら気づいてへん。
 そんな悲しい一部の人々を除けば、アキちゃんの評判は悪くない。絵が上手いかららしい。本間の絵はいいって、皆言うてるし、機会があるなら仲良くしてみたいけど、それをやるには怖すぎるんやって。
 まあ、確かにな。アキちゃんは時々怖い。それに本人に、あんまり友達作ろうという気がないんやないか。愛想悪いってほどやないけど、なんとなく上っ面での付き合い方しかしてへん。ボロが出えへんように、当たり障りのない生返事して、それでさっさと会話を終わらせ、早いとこ作業室こもって絵描いてたいって、そんなかんじの引きこもりなんやで。
 おかんに聞くところによると、子供のころからアキちゃんはそうらしい。小学校の頃から、学校終わると全速力で走って帰ってくるんやって。そして家に籠もってる。一緒に遊ぼうって呼びに来る友達もおらへん。自分から呼びに行くなんて、もちろんせえへん。いつも一人で絵描いて遊んでるか、それか家憑きのしきと遊んでる。
 成長とともにしきが見えんようになってきて、仕方ないから、ずっと絵描いてる。とにかくひたすら絵描いてる子やって、おかんは言うてた。
 他人を避けてるんや。たぶんバレたくなかったんやろ。自分がまともでないことを。普通の子でいたかったけど、それは無理やって、アキちゃんは餓鬼の頃から内心分かってたんやろ。それで、しょうがなくて、人と関わらんようにした。
 そんな奴にチームスポーツの意味が分かるわけ無い。甲子園球場で、虎ファン全員で一丸となって大応援やみたいな、そんなのが楽しいはずないんや。応援したら勝ってまうしな。あんまりやったらあかんて、おかんに言われたんかな。俺はアキちゃんが何かの応援をしてるところを見たことないわ。
「あんたに何を言うても無駄やということが、ようわかりましたえ!!」
 蔦子おばちゃまは朝からキレまくってた。
 そして、もう泣きそうみたいな気配をさせて、しくしく冷え切った目玉焼きを食べ始めた。いかにも不味そうやった。
 アキちゃんはそれを、ぽかーんとして見てた。そして、見ててもしゃあないと思ったらしく、気まずそうに自分も朝食に手をつけた。
 なんや、お通夜みたいな朝やった。どんより飯食う蔦子さんのせいか、他の奴らも賑やかに騒ぐってことはない。しんみり押し黙ってた。たった一人のちびっ子を除いて。
「お母ちゃん」
 ちびっ子は唐突に口きいた。
 それにアキちゃんがものすごギョッとしてたわ。
 お母ちゃんて。こいつ式神やなかったんや。人間の子やったんか。ていうか、まさか、蔦子さんの子ってことなんか。
「なんどす、竜太郎。ちゃっちゃと食べなはれ」
 くよくよトーストを囓りつつ、蔦子さんはちびっ子に言うた。
 俺は初めてまともにその子をじっと観察した。チビやて思うてたけど、よう見れば、中学入ったぐらいやないか。もしくは小学生の終わりぐらいか。髪の毛の色薄いんやけど、それはどうも天然みたいやった。ふわふわの細い毛してて、色も白いし、目も日当たりのいい食堂の窓から射す陽の光のせいで、淡い茶色に見えた。
 顔はあんまし蔦子さんに似てへんかった。きっと、おとんに似たんやろ。どことなく笑ったような目をしてて、異国モンくさい。そういえば赤毛の顔にちょい似てる。中国系というか、もっと向こうのほうの顔やろか。どことなくエキゾチックやねん。まさか赤毛がおとんということは無いやろから、蔦子さんの言うてた若いツバメがこんな顔なんやろな。そういや、そのツバメ、どこ行ったんやろ。おらんけど。
「僕、水族館行きたいねん。絵描かなあかんねん、夏休みの宿題で」
「中学生にもなって、そんな面倒くさいことせなあきまへんのんか。ほな、啓太けいた、あんたが連れていっておやり」
 食い終わってコーヒー飲んでた、他よりちょっと歳のいった見た目の式に、蔦子さんは命令してた。薄青い楊柳のシャツ着たそいつは、三十手前くらいに見えた。フレームのない眼鏡かけてて、いかにも真面目そうやのに、髪が銀色やねん。まさか白髪ってことはないやろから、色抜いてんのか、それともこういう毛の色のやつなんか。眉毛とか睫毛まで白いし、目まで銀色なんやで。
 大人しめの和顔したそいつは、いかにも忠実そうに黙って頷いてた。なかなか端正な顔してる。蔦子さん、絶対、式を顔で選んでると思う。もしくは顔が命やって叱咤激励して、見た目のよさに精力を傾けさせてるか、そのどっちかや。イケメンまみれの朝ご飯なんやで。
「お母ちゃん、僕、啓太でもええけど、アキ兄と行きたい」
「誰どす、それは」
 ものすご険しい顔で、蔦子さんは訊き、ちびっこは空席一席をおいて隣に座ってるアキちゃんを指さした。
「なんでそんなもんと行きたいんどすか」
 そんなもんに降格されてた。
「だって、絵描く学校の人なんやろ。代わりに描いてもらおかと思て」
「あきまへん。大人には大人の用事があるんえ。それに、宿題は自分でやらな意味ありまへん」
 にべもなく禁止の蔦子さんに、ちびっ子は、はあっ、て、当てつけがましいため息をついた。僕、寂しいねん、みたいなな。
「絵、下手なんやもん。描かれへん。学校なんか、なんで行かなあかんのや。つまらんわ、はよ辞めたい。灘中や言うて、どんな凄いやつ来んのか思うてたら、アホばっかりなんやで、お母ちゃん。勉強できても、それだけなんやで。おもろい奴なんか一人もおらへんわ。家に居りたい。それか、僕も働きたい」
 べらべらと、餓鬼は言いたい放題の文句を言うてた。蔦子さんは黙々とパンを食らいつつ、困ったなという顔で、それを聞いていた。
「あきまへん。学校はちゃんと出ときなはれ。今はそういう時代や。どこの学校出はったんて、まず最初に訊かれますえ」
「嘘や。そんなん訊かれへんわ。茂ちゃんがそう言うてた。学歴なんか関係あらへん、大事なんは実力や、学歴だけのアホはリストラされて路頭に迷う時代なんやって」
「茂ちゃんの話なんか聞くことおへん」
 大崎先生、海道家にもちょっかいかけてんのんか。しかも割かし懐いてるふうなちびっ子の様子に、俺もアキちゃんも、ますますポカーンやったわ。
「お母ちゃん、僕は実力あるんやから、学歴なんか関係あらへんと思うんや。夏休み終わっても、学校行かんでうちに居りたい」
「まあまあ、竜太郎、そんな我が儘言うもんやない。本間先生かて大学まで行ってるんやから、お前も学校行け」
 子供が苦手らしい蔦子さんに助け船出して、虎がにこにこ話してた。まるでお前がおとんかみたいな口調やで。
 竜太郎なるちびっ子は、それに盛大に顔をしかめた。不満やって、それが誰の目にも明らかな、そんな顔やった。
 それから餓鬼はくるりとアキちゃんを見て、きっぱりとこう言うた。
「アキ兄は、アホやから大学行ってんのやろ」
 ものすごい話に、アキちゃんコーヒー吹いてたわ。
 すごい。アキちゃんを真正面からアホ呼ばわりできる中学生や。血筋の力か。俺にはほとんど超能力としか思われへん。
「え……? なんの話や?」
 アキちゃん、ちょっと呆然としてきてる声やったわ。それでもこれがアキちゃんと海道家の餓鬼とのファーストコンタクトやった。
「茂ちゃんから聞いてん。外国ではな、賢い子は飛び級できんねん。日本ではそれはあかんねん。せやから、ほんまもんのエリートは外国行くんやで。日本で大学行ってるやつはアホばっかりやねん」
 小僧の暴言に、アキちゃんはほぼ完全に停止していた。
「最悪でも、東大くらいは行かなあかん。お母ちゃんが、外国行ったらいややって言うねん。でもな、茂ちゃんとこの子らは、みんな外国に居るんやで。無能やったからな、せめてパンピーとして生きていけるように、学歴つけさせてるんやって。可哀想やなあ。なんの力ものうて、どないして生きていくんやろ」
 真面目に言うてるらしい餓鬼の薄茶色い目とあんぐり見つめ合って、アキちゃんはしばし口ごもってた。でも、どう見ても、餓鬼は返事を待っていた。
「普通に働いてやろ……」
「そんなん、アホらしてやってれらへんわ」
 中一はそう言うてたわ。
 皆さん、お腹立ちのことと思うけど、ちょっと割り引いて見てやってくれへんか。海道竜太郎はまだ十三歳やねん。それにな、朝っぱらから虎が赤毛に長チューするような家で育っててやな、常識感覚がまともやないねん。
 それに、こいつがそういう結論に至る理由は他にもあった。
 もはや返答不能になってるアキちゃんと、自分の席との間のテーブルの上に、海道竜太郎は着てたワークパンツのポケットから、タロットカードをざらっと出してきた。
「見てて、アキ兄」
 にこにこ急に愛想ようなって、餓鬼は手慣れた器用さで使い込んだカードを切り、ぱたぱたと食卓に並べて、ものすごい早さでそれを開いていった。
「カードはな、まあ、ひとつの目安やねん。札の絵も見るけどな、大事なんは感じることやねん」
「何を?」
 すでに頭真っ白なってきてるんか、アキちゃんは子供相手に真面目に会話してた。それが餓鬼には、これまたええ感じやったようや。にっこりしてたわ。
「未来をや。寛太。為替レート見て。今朝がピークやで。円売ってドル買うて。差益は今が最大やから、売り逃したら損するわ」
 ぺらぺら話す学童の命令を聞いて、赤毛は黙って頷き、携帯出してきて何や操作してた。カードを集めながら、餓鬼はうきうきと待ってるような顔してた。
「売れました」
 携帯閉じて、ズボンのケツに仕舞いながら、赤毛はなおもサラダ食うてた。お前は草ばっかり食うてるけど、草しか食われへんのんか。
「幾ら儲かった?」
「五百七十八万とんでとんで四円」
 めちゃめちゃ飛んでた。
「な?」
 なにが、な? やねんと思うけど、餓鬼はむちゃくちゃ得意げに、アキちゃんに笑いかけてた。
「普通に働くなんてアホやで」
「そうやろか……」
 そうかもしれんと言わざるをえない。この餓鬼に関して言えばや。
 海道竜太郎はおかんから未来予知の能力を受け継いでいた。まだ十三歳のくせに、為替相場や株のデイトレードでアホほど稼いでる。ある意味アキちゃんより甲斐性のある学童や。
 乗り換えようかな、お前がもうちょっと大人やったら。ほんまに良かったで、お前がまだまだ餓鬼んちょで。俺は餓鬼には興味ないねん。俺のストライクゾーンに未成年はおらへんのや。アキちゃんかて、ほんま言うたらギリギリやった。あとちょっとでも若かったらアウトやったわ。
 せやけど、お前は要らんは向こうもそうやったらしく、餓鬼はどう見てもアキちゃん狙いやった。まあ、子供なんやから、深い意味はないんやろけど、とにかく自分に興味を向けさせたい、一日付き合わせたい、一緒に出かけたいって、そういうムードやったな。
「なあ、昨夜のアレ、どうやってやってたん。ホームラン」
 すごいなあみたいな憧れ口調で、餓鬼はアキちゃんに擦り寄り、隣の空席のほうに移ってきた。それは空いてるテーブルでタロット占いをやるためやという事やったんやけど、俺にはそれが口実に思えてならない。
 被害妄想やろか。十三歳の海道竜太郎君に対して、危機感を覚えるというのは。
「どうもしてへん。ホームラン打てばええのにって思うだけや」
「アキ兄は未来を変えたんや。運命に関与してもうたんやで」
 それがいかにも凄いっていう鼻息の荒さで、餓鬼は話しつつ、また慣れた指でカードをめくってた。アキちゃんはそれを、不思議そうに横目に見てた。
「それで、えらい目に遭うた奴もおるかもしれへんで。だって野球で賭けしてる悪い大人もおるらしいやん。借金して株買うたりしてる人もいてはるけどな、暴落したら首吊るんやって。怖いなあ。アキ兄のせいで、誰か首吊って死んでもうたかも」
 にこにこ無邪気な目で、餓鬼は言うたらあかん話をしてた。アキちゃんにはそれは、シャレにならん話なんやで。
「それが運命を変えるってことなんやん? すごい力やで。僕は未来を読めるけど、変えるのは無理や。見えるだけ。どんなひどい未来が見えても、来るモンは来る」
 開き終わったカードを眺めて、餓鬼は悟ったような口調やった。
 テーブルの上には、絵の描かれたカードがたくさん配置されていた。
「アキ兄の占い結果。近未来に再会、恋人の裏切り、それから、ちょっと先の未来に、これがある」
 開いたカードを一枚とって、海道竜太郎はそれをアキちゃんの目の前に突きつけた。
 死に神のカードやった。骸骨がでっかい鎌持って立っている。
「なんやこれは。どういう意味やねん」
 顔をしかめて、アキちゃんは訊ねた。
「どうって、骸骨やんか。骸骨がたくさん踊ってんのが見える。なんやろうな。先のほうの未来の解釈は難しいねん。アキ兄のせいで沢山人が死ぬってこと?」
 竜太郎は他愛もないことを訊くかのように、黙然と見守っていた自分のおかんに助言を求めた。蔦子さんは真顔でその質問を受けたが、しばらく答える気配はなかった。
「なんでもよろし。勝手に人の未来を視るもんやおへん。さっさと水族館でもどこでも行ってきなはれ。あんたはほんまに困った子ぉやわ」
 ため息ついてる蔦子さんは、なんや随分と気弱そうやった。育児ノイローゼか、おばちゃま。まるで悩んでるみたいに見えるで。
 実はまったく、そのものズバリで、蔦子さんは悩んでた。うちの子の手に負えなさに困ってて、どうしてええかわからへん。誰に相談したらええんやろって弱気になって、嵐山のアキちゃんのおかんに相談してた。そして、おかん二人の愚痴大会や。
 うちの息子、悪い子ぉやねん。どないしたらええんやろ。うちもそうやねん。ほんまにもう困ってしもて。ああどうしよう。どうしようって、そんなおばちゃま達やねん。
「お父ちゃん帰ってきはったら叱ってもらいますえ」
 それが決め台詞みたいなノリで、蔦子さんは竜太郎を叱った。せやけどそんなん全く何の効果もなかった。
「当分帰ってけえへんわ。お父ちゃん、今、アフリカの奥地やで。途上国開発支援で風水見る言うて、行ったわええけど、土地の精霊にえらい目に遭わされてる。竜、どないしたらええやろって、昨日、手紙来てたで」
 集めたカードを切りながら、中一は余裕しゃくしゃくやった。蔦子さんはそれに、ぎょっとしてた。
「手紙なんか、いつの間に来たんや。なんで教えてくれへんかったの」
「僕宛やったもん。返事ももう飛ばしといたわ。北北西に活路ありやって」
「そんなん、うちが占います!」
 若干キレぎみで、蔦子さんは息子に怒鳴ってた。
 なんやねん、おばちゃま。アキちゃんのおとんに未練ありありかと思うてたら、実は若いツバメとラブラブなんか。ほっぺた赤いで。ええトシして。
「ええからええから。僕のほうが精度高いから。お母ちゃんは休んどいて。僕が面倒見たるから」
 にこにこ頷いて、生意気パワー全開で言い、竜太郎はカードを元のポケットに仕舞った。どうも常に持ち歩いてるらしい。もしかしたら、こいつにとっては、このカードが必須アイテムで、これが無かったら未来予知できへんのかもしれん。嵐山のおかんが、踊らへんかったら能力を発揮できへんみたいにさ。
 霊能者の皆さんにも、それぞれ個々人の癖や習慣があるらしい。儀式というか、持っている力を発揮しやすい方法論みたいなもんが。
 せやけど、俺が知る限り、アキちゃんにはそれがない。儀式めいたもんは何も。ただ願ったり祈ったりするだけで、能力が発揮されてる。
 それって実は、なにげに凄いことなんとちがうんか。
 それとも、何か自分独自の儀式を見つけられれば、もっとエグいことできる奴なんやろか。
 トレーニングしだいで、まだまだ化ける。アキちゃんはそんな感じの逸材やった。
 見たとこ、海道竜太郎の能力は、すでに激しく開花していて、十三歳にして完成されてる感のある能力者やった。それはこいつが、乳飲み子のころからこんな環境で育ち、自分の能力を何の疑問もなく伸ばしてきたからやろう。
 それに対してアキちゃんはといえば、長年のぼんくら時代を経て、本腰入れてからまだ一年経ってない。トシは食ってるけども、竜太郎のほうが先輩やねん。
「アキ兄、ヘタレなんやろ。知りたいことあったら僕が教えたるから、なんでも訊いてええよ」
 にこにこして、竜太郎はアキちゃんに言うた。
 アキちゃんはそれを、ものすご大人しく聞いていた。瞬間的にキレすぎて言葉もないのか。いつ爆発するのか。俺はそれにビビりながら隣でガタガタ震えそうになってたんやけど、実はそうではなかったんや。
「手紙……」
 アキちゃんは真剣としか思えへん声で、竜太郎に答えた。
「手紙、どうやって出すんか、知らんのやけど。教えてくれ」
 アキちゃん、竜太郎は中一なんやで。恥ずかしないんか。そんな真面目にご指導ご鞭撻を乞うたりして。面子はないんか、年長者としての。
 それに。それによくも、俺というものがあると知りながら、この餓鬼は。ちょっとおかしいんやないか。おかしい奴らと生活してるから、お前までおかしいんや。絶対おかしい。人との距離の取り方が。
 それとも、それは、秋津家の皆さんの悪い血のせいなんか。顔はぜんぜん似てへんこいつにも、結局その血は流れてるということか。
 竜太郎はいかにも隙アリみたいな瞬間をとらえて、アキちゃんと腕を組んだ。
 お前、中一なんやろ。それはちょっと、微妙やないか。なんでそんなベタベタしたいねん。全身からどろっと甘く、僕、寂しいねんみたいな空気出すのやめろ。
「教えたるわ! その代わり宿題の絵描くの手伝ってほしい。アキ兄も一緒に須磨の水族館行こ。今日やのうてもええんや」
 あからさまに水族館デートをねだるちびっ子の口調は、どう聞いても媚び媚びやねんけど、それは俺が邪な蛇やからそう聞こえただけなんか?
 誰が行くか。水族館なんか。アキちゃん暇やないんや。それに水族館デートなんか、俺でもまだしてもろたことないわ。京都には水族館はないねん。大阪の海遊館行こうかていう企画はあったが、アキちゃんが夏の犬事件以来、大阪に行きたがらんようになったから立ち消えてもうてたわ。
 それを出会って二日の中一のお前が早くもクリアするて言うんか。許せないわ、キーッみたいな話やで。
 しかし十三歳の人間の餓鬼を睨むわけにもいかず、俺は内心わなわなするだけで我慢した。断れ、アキちゃん。無理やて言え。
「行ってもええけど……そんな暇があればな。それに、自分で描かなあかんのやで」
 アキちゃんはどう聞いても承諾してるような事を言うてた。
 えっ。なんで断らへんの。なんでこんな餓鬼と水族館行くんや。顔可愛いくて色白やからか。どこまでストライクゾーン広いねん。無限の彼方まで拡がってるんやないか。
「うんうん、ちゃんと自分で描くわ。行ってええやろ、お母ちゃん」
「好きにしたらよろし。秋津のぼんが行ってやろて言うんやったら、ウチはどうでもよろし。せやけど竜太郎、このぼんも決して暇ではないんえ。無理言うたらあきません」
 白いカップからコーヒーを啜りつつ、蔦子さんは許した。
 なんで許すねん。危ないと思わへんのか母親として。アキちゃん何するか分からへんのやで。もはや変態の外道なんやから。何かの気の迷いで中一でもよろめくかもしれへんやないか。まして、あんたの息子が媚び媚びなんやから。
 一体お宅では息子さんをどういう教育してますのん。うちの大事なアキちゃんに、変なちょっかい出さんといてくれへんか。俺のもんやねん。
「分かってる分かってる。アキ兄が用事ない日でええから。でも夏休み終わるまでのいつかにしてや。美術の宿題やねんから」
 あんまり待たせんといてて、中一はストレートやった。なんということや、学ぶべき点が多すぎる。アキちゃんは竜太郎の媚びまくりの我が儘に、なんと素直に頷いていた。
 アホや。なんで律儀にこの餓鬼に付き合うてやらなあかんねん。宿題なんか知るか。自分でやれっていうのが普通やろ。えっ。普通やないか? しゃあない、俺も普通やないねん。
「お母ちゃん、今日はアキ兄連れてどこ行くの。僕もついていってええか」
 にっこり訊ねてきた息子に、蔦子さんはギョッとしてた。
「あきません。遊びで行くんとちがうんえ」
「分かってるやん、そんなん。なまずの件やろ。僕かて行きたいわ。社会勉強やんか。アキ兄がそうやて言うなら、僕かて海道家の跡取りなんやから、いろいろ知っといて損はないやろ?」
 鮮やかなまでの方便やった。蔦子さんは何か言い返そうとして、ぱくぱくしてた。しかし竜太郎はそんな劣勢のおかんに反撃の余地を与えへんかった。
「なあ、ええやん。お母ちゃん。僕も行きたい。行きたい、行きたい、行きたい……」
 にこにこ笑って、中一は行きたい機関銃の掃射をおかんに浴びせた。それに蔦子さんは段々たじたじとなってきてた。やがて、ううっ、て胃が痛いみたいにうめいて、蔦子さんは陥落した。
「分かりました。ついてきてよろしおす。せやけど邪魔したらあかんえ」
 な、なんて甘いおかんやねん、蔦子さん。昨日、アキちゃんにビシビシ言うてた威勢はどこへ消えたんや。虎のまさかの大敗北で廃人なってもうたんか。
 俺は黙ってられんようになって、思わず口を挟んでた。
「いや、ちょっと待ってくれ、蔦子さん。どこ行くか知らんけど、車で行くんやろ。アキちゃんと俺と、運転が赤毛で、蔦子さんも乗るんやろ。俺ら後ろでこの中一と三人なんか」
 俺はその三人での席配置を検討して、どれでも嫌やって焦った。竜太郎が真ん中はありえへん。アキちゃんが真ん中もまずい。それやと結局この餓鬼の隣やからな。せやけど俺が真ん中も嫌や。なんで俺がこんな糞生意気な色白の餓鬼と並んで座らなあかんねん。
「そんな心配せんでよろし。あんたは留守番なんやから」
 蔦子さんに、けろっと言われて、俺は呆然やった。
 えーっ。なにそれ、ちょっと待ってくれ。
 俺はアキちゃんの大事なツレなんやで。離ればなれにせんといて。一緒にいたいねん。アキちゃんかて、絶対そうやで。そうやんな、って、チラ見したアキちゃんも、微かに険しい顔やった。
「なんで亨は留守番なんですか」
「行き先がカトリック教会やからどす。まあ一応、こういうのも礼儀や。あちらは蛇はお嫌いやろから」
 な、なにぃ、みたいな感じやったわ。まさに青天の霹靂。
 せやけどちょっと、やっぱりなみたいな衝撃でもあった。
 蔦子さん、アキちゃんを教会に連れて行くつもりなんか。それは、なんで。誰と会うんや。
 それをわざわざ訊くまでもなく、俺には何となくの予感があった。きっとあの神父やで。なんて言うたかな。神楽遥かぐら よう? 神楽遙かぐら はるか? 分からへんやないか、フリガナつけとけ霊振会。とにかくあのメルマガに載ってた、あの金髪碧眼の美形神父に違いないって、俺は根拠のない確信を感じてた。
「黙ってればバレへんのやないですか」
 アキちゃんは渋々やった。そうや、もっと言え。俺を置いては一歩も動かへんて蔦子さんに言うてやれ。格好いいアキちゃん。愛してる。
「バレへんわけありまへん。今日お会いする相手の方は、わざわざヴァチカンから遣わされて来てはる悪魔払いの神父さんや。バレへんかったらモグリですやろ」
 まじもんエクソシストやで。
 あかん。それはあかんわ、確かに無理かもしれへんわ。正直行きたないもん、俺。
 取り止め取り止め。会わんとこ、そんな怪しいやつ。
「会わなあかんのですか」
 アキちゃんは、なおも渋る口調で訊ねてた。蔦子さんはそれに、眉をひそめてた。
「会わな始まりません。前回の鯰《なまず》の封印は、最終的にカトリック教会が担当しはったんや。個人より、組織のほうがええやろということで。いずこも後継者育成には難儀してますけども、大手さんに人材が尽きる可能性は低いやろからな」
 大手さんて。確かにそうや。キリスト教は世界三大宗教のひとつで、日本では今イチ布教が不発に終わってるんやけど、それでも世界規模で考えれば、信者も聖職者もうじゃうじゃ居てる。不発や言うても、国教になる勢いやないというだけで、日本国内にかて教会はいっぱいあるし、大阪には大司教がおるで。
 カトリック教会で働く人らには序列ヒエラルキーがあるねん。会社で言うなら課長とか部長とか、そういうのやな。教皇を社長とすれば、大司教は部長みたいなもんか。その地域の布教や教会運営の責任者やねん。厳格なピラミッド構造の中間管理職。その下について忠実に働く神の兵士が神父たちで、それぞれの性格や能力に合わせて、色んな仕事をしてる。
 教会でミサやってる場合もあれば、孤児院の院長やったり、大学で教授をやってる場合もある。そして、悪魔祓いエクソシストをやってることもある。総本山であるヴァチカンで内密に養成されて、悪魔サタンと戦うことを専門としてる神父やねん。
 そういう連中にはもちろん霊能力があるわけや。悪魔サタンが見えな仕事にならへんやろ。誰でも彼でも魔女や悪魔憑きやて言うて火炙りにしていい時代とちゃうわ。ほんまに悪魔の憑いてるやつだけやっつけへんかったら、時代の波に足もとさらわれてまう。
 それでも連中が悪魔サタンを祓おうとしていることに変わりはないやろ。それは奴らが奴らの神から与えられた使命やねん。
 煙たいわ、俺から見たら。聖水ぶっかけたろかって追いかけ回されんのは気分悪い。
 日本では古来から、蛇神様は有り難い豊穣の神さんで、白蛇さんはそのお遣いや。大事にしてもらえることもあるやろけど、キリスト教世界では人を堕落に誘う悪魔サタンの一派やからな。評判悪いわ。
 まったくとんだ言いがかりやで。俺が誰を堕落に誘ったっていうねん。アキちゃんか。ええやん、それでもアキちゃん幸せやて言うてんのやから。第三者が横からごちゃごちゃ言わんといてくれやわ。
 せっかく上手くいってんのに。なんでここで悪魔祓いエクソシストの神父かなあ。
 話うますぎると思たわ。俺みたいなのが、アキちゃんと永遠にお幸せやなんて、やっぱり無理やってことなんちゃうか。
 俺と一緒に居るせいで、またアキちゃん困るんやろか。悪魔祓いエクソシストが臍曲げて、アキちゃんとは話されへんて言い出したら、それって俺のせいやないのか。
 もしかして今ではすでに、アキちゃんも悪魔憑きなんやないかと、俺には思えた。悪魔祓いエクソシストの目で見たら、そういうことになるんかもしれへんやん。
 場合によっては、もっと酷くて、アキちゃん自身も蛇の眷属やって、やっつけようとするかもしれへん。俺の見る限りではアキちゃんは、邪悪さとはほど遠い男やけども、それでも俺も常識からかけ離れた価値観の持ち主やからな。
 実はアキちゃんかて、充分に邪悪で淫蕩なんかもしれへんで。だって最近エロいしさあ、時々めちゃめちゃ意地悪なんやで。それが元々の本性か、俺のせいかは分からへん。
 せやけど遠い時代を振り返ってみると、俺みたいなのと血を吸うたり吸われたりして、混ざってもうた人間たちは、お前も悪魔の下っ端やて言うて、真っ先に殺されていた。お気の毒な話やで。外道に惚れたばっかりに、命取られる羽目になる。
 アキちゃんまでそんな目に遭うてもうたら、どないしよ。
 行かへんほうがええんとちゃうか。その神父、美形やのうても危険やで。よろめくのとは全然別の方面でも。
 蔦子さん、知らんのやないか。アキちゃんの肉体の変調を。俺は、アキちゃんのおかんには話したけども、このおばちゃまはどこまで話を聞いてんのか。
 言うといたほうがええんやないか。最悪の事態になる前に。
 そう思って、俺は重い口を開いた。バラしたら怒られるんやないか、アキちゃんに。
「あのな、蔦子さん。アキちゃんのおかんから、何も聞いてへんか、その、アキちゃん、夏から前とはちょっとばかし違うてもうてるんやけど」
 俺のいきなりの暴露話に、アキちゃんギョッとしてたわ。驚くような事ばかりやな、今朝は。
 せやけど蔦子さんは、驚きもせん訳知り顔やった。
「存じてますえ。蛇憑きなんやろ。それはまあ、なったもんは仕方ありまへん。時々あることやし、それが家業の障りにはならへん。何と言うても秋津の跡取りや、向こうさんにも理解していただいて、相応の礼儀は尽くしてもらいますえ。この島を長年守ってきたのは、キリスト教の教会やのうて、土着の神さんや霊や、それに仕える巫覡ふげきの力なんやから、先人には敬意を払ってもらいます」
 さすが秋津の非常識。蛇憑きくらいは楽々クリアか。
 そういや、アキちゃんのおかんも、話聞いて驚いてたんは一瞬やったわ。ええ、うちの跡取りになんちゅうことしてくれたんや、でもまあええかみたいな、そんな軽くスルーするノリやった。
 この血筋の人ら、どういう神経してんのやろ。
 何でもありか。巫覡ふげきとしての力に差し障りがなかったら、蛇が憑こうが悪魔サタンが憑こうが、なんでもええのんか。むしろどんどん憑いてくださいみたいな世界か。それは悪魔サタンやのうて式神やって、そういう価値観なんやから。
 大変助かるお話です。そんな異常な血筋の皆様のお陰様で、俺も親公認でアキちゃんとラブラブしてられるわけ。まさに望外のパラダイスなんやけどな。
 せやけど、アキちゃんは知らんのやないか。神父に会うたことないて言うてたもん。悪魔祓いエクソシストがどういうもんか、分かってるようで分かってないんとちゃうか。
 ホラー映画で観たことあるねん。「エクソシスト」っていう、そのまんまな内容の映画があって、アキちゃんそれを観たことあるから。せやけど、まさか、自分が悪モンの側やって、想像ついてないんとちゃうか。
 アキちゃんは俺とご同類になったことを、ええことやって思ってくれてるみたい。実はまだ、大して実感してないんやろ。それが意味することを。何やよう分からんけど、亨とずっと一緒に居れるんやから、良かった良かったって、そんな可愛い安易さやねん。
 俺にはそれは嬉しいんやけど、でも、もしも今日、蔦子さんに連れられて教会なんか行って、そこの祭壇の十字架を見て、アキちゃんが悶え苦しんだら、一体どうなんの。
 街に氾濫するパチもんの十字架なんて、俺かて屁でもないんやけど、今回のは祭壇にあって、信者や神父が祈り崇めてるモンなんやで。ほんまもんなんや。悪魔サタン許すまじ、やっつけたるっていう神さんの、神威の象徴なんやで。
 心配やから付いていきたいけど、こればっかりは俺の苦手系。行ったところで、十字架を見て、悶え苦しむのは俺のほうかもしれへん。そしたらアキちゃん引いてまうやろ。それにまた、足を引っ張ることになる。
 どうしても行くっていうんやったら、俺は大人しく留守番してるしかないんかな。
「アキちゃん……どうしよ」
 俺は暗い上目遣いで、ご主人様にお伺いを立てた。
「行くの嫌なんか」
 微かに驚いた気配で、アキちゃんが俺に訊いた。
「うん……嫌やな、ちょっと。近所までなら行けるけど、教会の中までは無理かもしれへん。怖いねん」
「怖いって……なんでや。何も怖いことあらへんやろ」
「うん、でも、今日はおとなしく留守番しとこかな?」
 足引っ張りたくないねん。
 俺は目を合わせてられんようになって、問いつめる表情のアキちゃんの目から逃れ、食卓の上の自分の皿を見おろした。
「無理することおへん。永のお別れやあるまいし。ひとりで行けますやろ、ぼん
 ああもうそれで決まりやしって、面倒くさそうに蔦子さんは言うた。
「せやけど、平気やろか。誰も付いていかへんで。万が一、荒事にでもなったら」
 俺は未練がましかった。行きたくないけど心配や。アキちゃん、まさか、自分も外道の身で、美形神父に惚れてもうたらどうしよ。
「心配いらへん。寛太かんたが付いていく」
 唐突に、虎の信太に声をかけられ、俺はびっくりした。そうや、こいつもいたんやって、また思い出して。
 その横の席で、赤毛はさすがに草を食い終わってた。どことなく上の空で、窓の外を眺めながら、話を聞いてるんやら、どうやら、退屈そうにしてた。
 こんな奴、何かの役に立つんやろか。集中力なさそうやで。どうせやったら、タイガーが一緒に行ってくれればええのに。アキちゃん気に食わんやろけど、でも、信太のほうが強そうやもん。
 でも、まさか信太に、アキちゃんが美形神父によろめかんように見張れとは頼まれへんしな。そんなん言うたら余計にヤバそうやないか。
 なんかそんな予感がするわ。俺の自惚れかもしれへんけど。タイガーは俺を狙ってる。そんなような気がするねん。惚れられたとか、そういうんやないやろうけど、蛇もどんな味か一口食うてみたいわって、そういう感じか。
 赤毛はどうやろ。こいつは俺の苦しい気分を、理解できるんやないか。それとも無理か。頼んでみる価値ぐらいはあるんかな。アキちゃん守ってやってくれって。
 そうするしかない。
 そんな結論になる俺は、よっぽど藁にもすがる思いやったんやろ。
 なりふり構わずやな。恥ずかしいと思わへんのやろか、俺は。そう思うけど、でも、蔦子さんと、中一の餓鬼と、火吹く鳥の式神とやったら、どう考えても式神が仲間やろ。中一は論外やし、蔦子さんは昨日、もっと式を探せって言うてたような人なんやから。アキちゃんが浮気するのを止めようとはせんやろ。そんなことする理由がないもん。
「ほんまにぼんは、なんも知らんようやなあ。なまずについては、トヨちゃんからちょっとも教えてもらわへんかったのか」
「あいにく、聞いたこともありません。なまずが暴れるから地震が起きるんやっていう、古い迷信くらいは知ってますけど」
 自信なさそうに言うアキちゃんの隣で、まだまだ腕にぶら下がってる中学生が、興味深げに聞いていた。
「僕もそれ知ってる。せやけど学校では嘘やて言うてたで」
「嘘やおへん。世の中には色んな物の見方があるていうだけの事どす。なまずはほんまに居るんや。ウチもこの目で見ました。震災のときに」
 怖気だったふうに身を縮め、蔦子さんは血筋の跡取りふたりに、それを教えた。
「荒ぶる神の一種どす。鎮めるのには生け贄が要る。目覚めて暴れ出したら最後、ただではまたお眠りにはならへん。お腹が空いて目を醒ましはるようやから」
「僕と一緒や。夜中に腹空いて、なんか食べようかって台所まで行ったりするわ」
 笑い事みたいに、中一はけたけた話してた。冗談のつもりなんやろ。こいつは前の地震があったとき、まだ物心ついてない。知らへんのや、当時の惨状を。それともこんなえげつない餓鬼やから、知ってても笑い事なんか。
 いっぱい死んだで。あたかも地獄絵図や。死と嘆きに引き寄せられて、悪い人らも、人でなしも集まってくるもんやし、大地震の後には、地震よりもさらに悲惨なもんも待ってるのが常や。疫病やら、暴動やらな。
 せやけど阪神大震災では、そういうことは無かった。不幸中の幸い。そういうことやけど、それは偶然やなかったって事なんやろな。三都を守護する巫覡ふげきが、なまずを何とかしたって、水煙が言うてたんやから。
「子供が夜中にうろうろするもんやおへん。部屋におりなさい」
 びっくりした顔を隠して、蔦子さんはぴしりと竜太郎を叱った。それに中一はにやにやしてた。お前は平気なんか。このうちの夜の廊下をうろついて。見たい見たいの妖怪もおるし、お子様が聞いたらあかんような声もすんのに。
 それともお前も、見たい見たいの一種なんかな。そろそろそういうお年頃?
「生け贄って、どんなんするん?」
 面白そうに話を逸らして、竜太郎は気持ちええのか、アキちゃんの腕にべったり体をくっつけた。俺はそれにムカッとしたけど、蔦子さんの手前、その息子を怒鳴りつけるわけにもいかへんかった。
 アキちゃんは話の内容にビビってんのか、眉間に皺寄せて難しい顔してるだけで、竜太郎を払いのける気配もあらへん。アキちゃん、またもや隙だらけやんか。ガード薄いねん。ほんまにもう、どうしようもない男やわ。
「どうもこうも。なまずが人を食らうのを、黙って見てるしかおへん。どうぞ控え目にって、お祈りして頼むぐらいしかないわ。それも祭事を行う巫覡ふげきの力しだいや。うまいこと祈りが通じれば、なまずも腹八分で我慢しよかと思いはる」
「メタボなったらあかんもんな」
 あははと笑って冗談で受ける餓鬼を、アキちゃんはやっと、じろっと怖い目で見た。それに竜太郎はびくっとしてた。怖かったんやろ。怒ってる時のアキちゃんはむちゃくちゃ怖い目してるもんな。
「笑い事やおへん、竜太郎」
 おんなじ芸風の冷たい声で、蔦子さんは息子を咎めた。
 そしたら中一は、しゅんと大人しなって、アキちゃんの腕から手を引いた。それでええねん、この餓鬼が。
「目覚めさせへんのが一番なんどす。せやけど予兆がある。ぼん、例のメールマガジン読みましたか」
 突如出てきたその話題に、アキちゃんはがっくり来てた。
「読んでません……」
「何をやってんのや、あんたはほんまに。一晩あったし、朝ものらくらしてましたんやろ。呆れ果てて物も言えまへんわ」
 蔦子さん、たぶん悪気はないんやろな。アキちゃんと同じ性格なんやと仮定するなら。せやけどアキちゃんは明らかにグサグサ来てた。
 可哀想にな。日頃の報いや。
「まあ、よろし。ここに印刷したやつがあるよって、これでお読みやす」
 しゃあない子ぉやわっていう毒の息を吐きかけつつ、蔦子さんは自分の席の後ろにあったキッチンワゴンに置かれた、やたら沢山ある雑誌やら新聞やらの合間にあった、ホチキス留めの何枚かの紙ペラを取り出して、アキちゃんに渡した。
 アキちゃんはそれを受け取り、呆然と記事タイトルを読んだ。
「ヨン様ファンクラブ通信Vol.1025……」
「あら。それ違うわ。間違えました、こっち」
 なに読んどんねん蔦子おばちゃま。ファンなんか、ペ・ヨンジュンの。未だに冬ソナブーム続投中か。俺、80%ぐらいの力が今の瞬間で一気に抜けたわ。
 アキちゃんも、どないしてコンセントレーションを保とうかという必死の顔やった。それで次に渡されたのが、霊振会通信Web版のプリントアウトしたやつやからな、アキちゃん的にヨン様通信よりマシかどうか謎やった。
 でもそれは、一応は仕事の話や。今朝iPodでブラウズして見た例の画面が、紙何枚かに分けて印刷されてあった。美形神父や大崎先生の顔もありゃあ、アキちゃん本人の盗撮写真まで載ってる。やるなあ秋尾さん、あの狐。アキちゃんの写真を盗み撮りしてるやなんて。今度会うたら、ちょっと文句言うとかなあかん。
「人魚の話や。出てますやろ、真ん中らへんに」
 蔦子さんに教えられて、アキちゃんはページをめくった。須磨すまで妙な海洋生物が上がったっていう話や。最初に俺が見てたやつ。
 亨ちゃん、冴えてるやん。そう思うやろ。最初に車ん中でメルマガ見たときに、これが一番気になるニュースやってん。絶対それは俺の才能や、外道の勘やねん。アキちゃんかて、真面目に読めばそれに気がついたかもしれへん。狂犬病騒ぎのときには、そのニュースが出始めた時から、それをずっと気にして追いかけてた。そういう勘がちゃんと働くんやから。
 それでも霊振会通信はアキちゃんにとって脱力系すぎたんやろ。人魚の話も、アキちゃんは顔をしかめて読んでいた。浜に打ち上げられてる、人なんか魚なんか、よう分からんような混ざった見た目の、半分腐ってもうたような遺骸の写真を、不愉快そうに眺めてた。
「これと地震と何の関係が?」
「予兆ですのや。なまずは今、神戸近海の海底より、さらに地下に眠ってる。地下で何か起きてますのや。なまずが目を醒ますような何か。それに、びっくりした海のモンたちが、慌てて海面に逃げてくるような何かや」
 何かって、なに?
 でもそれは、蔦子さんにもまだ見当がついてないようやった。もどかしそうな険しい表情で、蔦子さんは眉間に皺。そして、この世の景色ではないものを、じっと見つめてるような目をしてた。
「まだ、わかりまへん。でも、水か海と関係のある何かどす。途方もなく大きい、なんか、長いもんや」
「蛇?」
 アキちゃんにとっては身近な連想やったんやろ。俺は横目にアキちゃんの顔を見た。
「竜やないか、アキ兄」
 中一が、いくらか遠慮がちに口を挟んできた。蔦子さんはそれを、微かに首をかしげて、じっと見つめた。
「そうかもしれまへん。あんたには竜が見えますのんか」
「分からへん、お母ちゃん。何となくそんな気がしただけや」
 アテにせんといてくれって、竜太郎はそういう口ぶりやった。自信持って言えるほどではなかったんやろ。せやけど蔦子さんは、じっと鋭い目で息子を見つめたままやった。
「分からへんやおへん。早々に一人前になりたいんやったら、自分の視たモンには責任持たなあきまへんえ。分からんのやったら口に出したらあかん。分かりましたか」
 蔦子さんの眼光は鋭かったで。竜太郎はそれに、素直に、はい、て言うてた。偉そうで、我が儘言うてても、結局はおかんに勝たれへんのやなって感じがした。それも秋津の芸風か。それとも、これはシャレやないって、蔦子さんが、そんな厳しい目をしてたせいか。
 おかんの目やない。人並みではない力を授かった者が、同じ道をやってくる我が子を睨むような目やないか。嵐山のおかんも、そんな顔してアキちゃん見てたわ。この子は自分を凌ぐ力を授かった、それでも舐めさせへんで、ウチはあんたの先輩やっていう、そんな感じの気合いみなぎる背景オーラ。
 そんな怖いオバチャンたちに、駆け出しの小僧なんかが気合い勝負で敵うわけあらへん。竜太郎は結局チビや。そう思える静かさで、チビは椅子にちんまり座ってた。
「やれやれ。人の息子の世話してる場合やおへんわ。トヨちゃん何やってんのや、大事な跡取りウチに押しつけて、海外旅行やなんて。ほんまにあの子にも敵わんわ、昔っから自分勝手で、自由奔放やのよ。それでも仕方ありまへん、よろしゅう頼まれて、任せといてて請け合ったからには」
 はあっ、て忌々しそうに深いため息ついて、蔦子さんは立ち上がった。
「行きましょか。行くんやったら支度おし、竜太郎。車出しなはれ、寛太。ウチでいちばん地味なやつ」
 ご主人様の命令を受けて、赤毛は頷き、黙って立った。その手を虎の信太が握ってたのを、俺は何となく意外で見つめた。赤毛はぶらりと席を離れたが、想いを残したような指で、手の届く限りは自分の手を取る信太と指をからめてた。
 この二人は、案外というか、見たまんまというか、普通にデキてんのやないかと、俺はその時やっと思った。それでも虎は俺を狙うのか。なんや、さっぱり、訳わからん。
 アキちゃんは他人事ながら恥ずかしそうに顔を伏せてた。他人のまで恥ずかしいんか、お前は。ちゃんと見とけ。ああいうのが正解なんや。ちゃんと見習って、お前もあれをやれ。
 飄々と出ていく赤毛の後ろ姿を眺め、俺はちょっとプンスカしてた。お前はちょっと、無感動すぎやないか。いかにもそれが当然みたいな、素っ気ない態度で。それでええのか。心配やないのか。俺と信太を後に残して、自分は出かけなあかんのやで。
 やっぱり一言、言うとかなあかん。何か分からんけど、何か言いたい。
 それで俺はそいつを追いかけとこうと思って、がたがた席を立つ他のに混じって、赤毛の行ったほうへ足を向けようとした。でもその俺の腕をアキちゃんに取られ、引き留められた。
「ひとりで平気か、亨」
「平気って何が。いっつもひとりで留守番してるやんか」
 信じてへんのかって、俺はちょっと腹が立った。信じてへんやろ、それは。心配なんやろ、俺が虎のいる家に留守番してて、何やあるんやないかって。そう思うアキちゃんは正常やし、信用でけへんて思われるのもしゃあない。俺はどうせそういう奴や。
 それでも信じてほしい。俺はちゃんと分かってるつもり。それが悪いことやっていうのは。
「平気や、アキちゃん。早う帰ってきてくれ」
 俺が頼むと、アキちゃんは困ったような難しい顔をして、うんうんて頷いた。頼まれても困るやろ、どういう予定なんか、蔦子さんは全然教えてくれてない。
 それでもええねん。とにかくアキちゃんが、そうするって言うてくれれば、俺はそれでいい。
 どうやろ、少々いちゃつきついでに、この場の皆さんの目の前で、抱きしめてキスのひとつもしてみたら。それが無理なら、手を握るだけでもええんやけどな。別にええんやないか、ここはそういう家らしいしな。なんも気にすることあらへん。
 俺はそんな気合いで待つ顔やったけど、アキちゃんは結局気にした。なあんもせえへんかった。
 まとわりつく足取りの中一のチビを連れて、水煙をとりに客間に戻るって言うてたわ。なんで連れて行くんか知らんけど、竜太郎が一緒に行くって言うんやから、来るなとも言いにくかったんやろ。とんだことやで、新たなお邪魔虫。
 俺も行くわって、なんでか言いにくい。赤毛を追おうかと、そう思ってたせいやろか。俺は何となく、立ち往生してた。
「白蛇さん、お暇なんやったらな、大画面で『冬ソナ』観たらええわ。ええでえ、ヨン様。何遍観ても泣ける。それで退屈やったら、信太に言うて、どこか遊びに出かけたらよろし。うちらは夜まで戻らんかもしれまへんよって、よろしゅう頼むえ、信太」
 そう念押しして玄関へ向かう蔦子さんに、さっきは竜太郎の子守りを命じられてた銀髪眼鏡が、いつの間にとってきたんか、着物の色とすっきり合うてる青と灰白に桔梗の絵柄の絹のハンドバッグを渡してた。
「車のクーラー効いてくるまで、お待ちになったらどうやろか」
 眼鏡に言われて、蔦子さんはイライラ答えた。
「そうやね、玄関で待ちます。なんやもう、気が急いて、忙しのうてしゃあない。ここで待ってる気がしまへんわ」
 蔦子さんはどうも、大阪で言うイラチやねん。家で待つんやったら、食堂でもええやん。なんで落ち着かん玄関で、今か今かと待つねん。せっかちで、変な人やで。
 それを送っていくような形になってもうて、俺は女予言者と気まずく黙ってせかせか歩いた。蔦子さんの白足袋が踏む黒光りの床を、裸足のこっちはぺたぺた歩く。
 三和土たたきに降りて、靴を引っかける俺を見て、蔦子さんは、どこへ行くんやと訊いた。散歩散歩と、俺は誤魔化した。それに嫌みのひとつも言われんのかなと思うたら、蔦子おばちゃまは上がり框に正座して、バッグから出した手鏡を覗き、口紅を直してた。人食ったような、真っ赤な唇や。それが白肌に鮮やかで、口元には泣きぼくろ。伏し目に鏡を覗く姿を見ると、俺の目にでも色っぽいオバチャンなんやで。
 この人がこの家の女王様で、信太がたぶんその一番の式神なんやろ。その他の連中って、いったいどういう関係になってんの。
 いろいろあるんや、一口に巫覡ふげきと言うても。式神の捌き方は人それぞれやということやろか。そんなら俺とアキちゃんにかて、何か方法あるんやないか。俺も納得、アキちゃんも幸せで、それでいて式神増やせるような方法論が。
 それが何か、今んとこまだ全然まったく見当もつかへんのやけどな。
 それでも何か考えへんかったら、アキちゃん可哀想やろって、俺は思ってた。
 竜太郎みたいなチビにまで、ヘタレや言われて呆然やったで。強うなりたいと思うのが男の性やろ。アキちゃんかて、内心の本音ではそう思うてるはずや。
 ただ、俺には言えへんだけで。
 そんな口には出せへん本音のところを、察してやんのが相方ってもんやろ。分かってるそれは、分かってるねんけどな。
 それでも事が事やねん。水煙が言うような事は、俺はしたくない。アキちゃんの時々の浮気に目をつぶるなんて、そういう芸当はできそうもない。
 そう思って、何となく惨めに歩く玄関先からの道筋は、まだまだ暑い残暑の始まる夏の日射しやった。それでも京都に比べたら、断然涼しい。山からの風が吹いてる。
 これが六甲卸ろっこうおろしやなと、俺はしみじみとした。神戸は山から海から風が吹くので、夏でも割と涼しい街や。六甲山には避暑地があるし、昔から外人さんたちの保養地として使われてたらしい。冬は冬で、六甲卸が寒いけど、それでも骨まで凍るような、京都のイケズな寒さに比べたら、随分マシやで。それもきっと、温かい海が隣にあるせいやろ。
 俺は神戸はけっこう好きやねん。美味いモンもあるし。ええ男も居るし。なにより景色が綺麗。せやけど甲子園球場というのは来たことなかったな。阪神に夢中ですみたいな虎キチも、俺は今年だけのにわかファンで、赤星目当ての邪さやったからな。日本一なりそうやって言うから、急に愛しくなってきてん。
 そんな浅はかな情熱や。いっつも虎を見つめてる訳やない。勝っても負けても好きやっていうほどの、狂った情熱やないわ。薄情やねん、俺は結局。
 せやけどお前はどうなん、て、俺は玄関先の小道を出たとこの車寄せに、銀色の車を停めて、なんでかわざわざ車の外におる赤毛の鳥を眺めてた。それが虎の趣味なんか、こいつも今日は派手派手しい赤いアロハをお召しになっていた。白い千鳥に青い波濤の文様の、かき氷始めましたみたいなやつやで。
 お前、その服ぜったいキャラに合うてないから。ぼけっとしてて熱くもなんともないやんか。ツレの趣味に合わせてんねん、深い意味はないねんみたいな。いかにもそんな感じやで。
 しかもそれで首筋には、さんざん噛まれたような赤い痕つけて。お熱い。
 それが何となく妬けて、俺はじとっと暗い目やった。羨ましいねん、たぶん。俺よりいい目を見てそうな赤い鳥が。
 そんな暗く湿気った俺を、赤毛は車にもたれ、うっすら微笑んで見てた。その手にまだ火のついてない煙草があって、確かめんでも多分、虎が吸うてんのと同じ銘柄やろ。どうせそういう奴やねん。従順で忠実、何されても文句言わへん。
 自分の男がご主人様の命令で、俺の面倒見てやることになっても平然で、それが不発に終わったら、残念やったなって嫌みでなく俺に言う。そんな夜でも、虎が腹減った言うたら、私を食べてでお前は平気。
 そんだけ好きやのに、今朝は今朝で、皆さんご覧の朝飯中に、あんだけ長チューされといて、俺に勝ち誇った顔のひとつも向けんと、ぼけっと草食うてられるお前が変や。俺には理解ができへん。
 それでも昨夜、鬼畜なアキちゃんの差し金で、虎が怒濤の連続ホームランを浴び、これはもう負けかという時にだけは、お前は悲しい顔してた。それは何でや。虎キチやからか。ご主人様も虎キチで、負けたら蔦子さん悲しむからか。それとも信太が愕然と、床に伸びてまうほどダメージ受けてたからか。
 そちらはそちらで、畜生、なにが連続ホームランやてキレて、お前を激しく責めたんか。お互い、心中複雑なモンがある。
 そのはずやけど、複雑なんは俺だけか、赤毛は俺になんの含みもない目をしてた。
 なんやったっけ、こいつの名前。
寛太かんたや。ほんまは別の名前やったんやけど、日本語の名前やなかったら呼びにくいて蔦子さんが言うて、全員名前変えられた」
 なんて呼ぼかて口ごもる俺に、にこにこ教えて、赤毛の寛太は、今日は束ねてない、濡れた仕上げの髪が頬にかかるのを、けだるそうに指でけた。
「何か用やろか」
「頼みがあるねん」
 回りくどく言うてもしゃあないと思って、俺は直球勝負で行くことにした。
「うちのツレ、面食いやねん。今日会う神父がどえらい綺麗な顔してる。人間やけど、心配やねん。アキちゃんがよろめかんように、さり気に邪魔したってくれへんか」
 俺がすらすら頼み込むと、赤毛はよっぽど意外やったんか、きょとんとして、それから、うっふっふと火のない煙草を銜えながら、どことなく身を揉むようにして笑った。
「変な話やな」
「変でも、ほっといてくれ。やってくれんのか、それとも嫌なんか、返事だけ聞かせてくれたらええねん」
 俺は正直、恥ずかしかったわ。それで奥歯を食いしばってたわ。お前は嫉妬深いなあって、そういう目して赤毛に見られた。
 俺やのうて、お前が変やねん。嫉妬が浅すぎ。なんで平気なんや。
「やってもいいけど、保証はしない。常に張り付いてられるか分からへんし、邪魔しても無駄やったときに、責任はとれへん。それでもいいなら、やる」
 そうか。それでええわ。おおきに、ありがとうやで。って、それがどうも口を衝いて出てこなくて、俺はむすっとうつむいて、押し黙ってた。
 赤毛はそれをじいっと見るだけで、気を悪くした様子もなかった。
 指先にふっと火を灯し、それで煙草に火を入れて、六甲卸に持って行かれる薄煙を、赤毛は細く空中に吐き出した。
「なんで平気なんやろ、お前は。俺が留守の間に、お前の兄貴とデキてもうてもええんか。何か頼むことあるやろ、交換条件で」
 思わず噛みつく口調の俺を、赤毛は薄い笑みで見つめてた。
「ない。別に、ない」
「好きなんとちがうんか、あの虎のこと」
「好きやけど、言うても無駄やし、信太の兄貴は。別に気にならへん」
「妬けるやろ。妬けへんのか」
 お前は火を吹く鳥なんやから、胸にメラメラ来るモンくらいあるんやないのか。俺は絶対そうやっていう期待で言うてた。自分がさんざん苦しい思いをしてる、嫉妬ってやつを、全然まったく感じないやつがいてるやなんて、俺はつらい。許せへん。そういう我が儘心やった。
「妬いたら、なんか、いいことあるのか」
「ない。ないけど、それが自然な心の流れやろ。感じへんのか、毛の先ほども悔しくないんか、もし俺が今日、お前の虎とよろしくやっても、全然かまへんのか」
「かまへん。兄貴がそうしたいんやったら」
 煙草吸いつつ、赤毛はさらりと答えた。本気で言うてるとしか思えへんような、肩の力の抜けようやった。
 悟ってんのか、お前は。悟りを開いた修行僧かなんかか。煩悩はないのか。そんなら俺の煩悩ちょっと貰ってくれ。ありすぎて困ってんねん。
「いや、俺は、そんなんせえへんから。アキちゃんと約束したし、妙な邪推はせんといてくれ。でもな、そんな、何の手応えもない人形みたいな心の無いやつとやって、信太は満足なんか。あいつの趣味もおかしいと思うわ」
 半分くらい嫌みに入ってた。相手がけろっとしてるから、益々悔しくなってきたんやな。
「おかしいかなあ。誰でもええんやろ、兄貴は。誰でも平気みたいやし。お前のことも、気に入ったって言うてたわ。可愛いんやって。俺は可愛くはないやろから、そういうのが欲しいときには、他のとやるんやろ」
 確かに、お前は可愛いなあと、赤毛ににこにこ言われたわ。俺はそれに、ぱくぱくしてた。自分の男が浮気心を起こしてる相手に対して、お前は可愛いなあて、微笑ましそうに言うの、変やないか。
 嫌みで言うてるんやと、思われへん。ほんまに可愛いなあと思われてる。そんな優しい上から目線に、俺はむかっと赤い顔やった。
「ほんなら食うで、もしそういうことになってもうたら。それでええんやな。後で泣いても責任とらへんで」
「さっきと話が矛盾してる。秋津のぼんと約束した件は、どこ行ったんや」
 ちょっと天然入ってんのか、赤毛はマジで俺に訊いてた。それに益々、恥ずかしさがアップした。
「それはそれ、これはこれや。カマかけてんのやないか。ちょっとはお前が焦るかと思って! 嘘でちょっと言うてみただけ!」
「嘘か……」
 長い睫毛のある目をぱちぱちさせて、赤毛は納得したように言った。
「心配せんでもええわ。俺と兄貴はうまくいってる。それに万が一、俺が泣いても、兄貴には、それが狙いやないやろか」
 煙草を持ったままの指で、目頭を掻いて、赤毛は話した。そういえばさっき、キスしてたこいつが何でか泣いて、信太はその涙を舐めてた。
「不死鳥やねん、俺は。涙を飲むと、精がつく」
 不死鳥の涙は、生命力の源で、死んだモンでも蘇る。そういう話は聞いたことあるけど。と、いうか、読んだことある。手塚治虫の漫画で。『火の鳥』やで。超面白い。まさかほんまもんのフェニックスが近所におるなんて、想像もしてへんかった。
 おお、すげえ。握手して。というか、変転してみて、火の鳥に、って、一瞬でそんなミーハー心に取り付かれ、思わず半笑いで目がキラキラしてきた俺を、赤毛は変な奴っていう面白そうな顔で笑って眺めた。
「どしたん、白蛇の」
「どうもせん。ちょっと自分の世界に行ってもうただけ。想像上の生き物に出会うとは、予想してへんかったから」
ばれてん。神戸に」
 蘇らなあかんねん、不死鳥のように。フェニックス神戸やからな、震災後の復興スローガンは。せやけど心底信じてる人ばかりかどうか、それは怪しいところやわって、赤毛は言うた。
 フェニックスなんつっても、やっぱり震災の傷手は深い。言うだけ無駄やって、内心諦めとう人らもおるわ。それでも信じてもらわなあかん。信じてもらえるかどうかが、不死鳥が実在するかどうかの分かれ目やねん。
 信太の兄貴が俺を愛してるとしたら、それは神戸が好きやからや。お前が復興の命綱って、望みをかけてる。それで惜しみなく俺に餌をやる。虎の聖地で祈る人たちの熱い思いを、俺に貢いで頑張らせようと、毎日毎晩必死やねん。
 お前んちの先生とも、やれるんやったら行っとけと、昨日言われたんやけどな、お前のご主人様は、俺みたいなのは好みやろうかと、赤毛は真面目に俺に訊いてた。
 殺してええか、フェニックス。殺しても死なへんのやったっけ。そんな恐ろしい敵が参戦してきたら、俺はどうしよう。
 あわあわしながら、俺は親しげなような、天然ボケのフェニックスを虚しく睨んだ。
 こいつ、アホなんや、きっと。真性のアホで、ついさっき俺が恥をしのんで、美形神父からアキちゃんをガードしてくれって頼んだ意味が、これっぽっちも分かってなかったんか。それとも、分かってるけど言うてんのか。
「ちょっとくらいええやん。別に付き合う訳やないから。一発やるだけ」
 だからそれがあかんのや。
「絶対だめ」
「なんでや。ケチやなあ、お前。一発くらいええやん。それで世のため人のためなんやから」
 しれっとそう言う赤毛は、どう見てもアキちゃんに惚れてなかった。信太がやれって言うからやるんやっていうノリやった。お前はおかしい。何度も言うけど、絶対どこか激しくズレてる。
「ならへん、世のため人のためなんか。そんなんしたら、俺がお前をぶっ殺してまうから」
 わなわな来ながら、俺はすごんだ。それにも赤毛は平気なつらやった。
「それは無理やで。俺は死なれへんから。だって不死鳥なんやもん」
 むかつく、こいつ。本棚にある『火の鳥』全巻セットを、帰ったら即刻ゴミに出す。
「アキちゃんに、手を出すな。それから、神父にも、手を出したり出されたりさせへんように見張れ。ええな、わかったな。他にも顔の綺麗そうな奴がおったら、百メートル手前ぐらいから避けさせてくれ。悲惨なことに、今日はお前だけが頼りやねん」
 俺が頼むと、赤毛はにっこりとした。承知したということらしい。奴は何の見返りも、俺に求めはしなかった。恋敵かもしれへん俺を、可哀想やと思ったらしい。それで優しくすることにした。
 驚くべき話やけども、不死鳥は神の部類や。穢れなき神聖な生き物やねん。
 せやけど寛太は若かった。見かけは二十歳かそこら、俺と大差なく見えてたけども、それは兄貴の好みに合わせてただけで、アロハ着るのと同じことやってん。
 実は経歴は浅かった。震災の後に生まれたらしい。中一以下やんか。神戸の街が、熱く幻影のフェニックスを求めた時に、西の方から飛来した。
 虎がそれを拾うてきて、こいつは海道家の家隷の神に収まった。たぶんどうでもよかったんやろ。右も左もわかってなくて。家に居れって兄貴が言うんで、ほんなら居よかって、それだけの話。
 人並みの感情みたいなもんも、あるようで無い。言わばこいつも、修行中の身やねん。自分が何を感じているか、相手が何を感じているか、全然分かってへん。
 薄情なまでに鈍く寛大な神の鳥を、夜な夜な貪り食って慈しんでた虎が、一体何を考えてたのか、それを知るのには、まだ日数がいる。
 他愛もない脇道の草のようでいて、これはこの時、再びの大災害の危機に瀕してた神戸に与えられた、奇跡のごとき縁やった。愛の喜びも苦痛も醜さも知らない不感症の鳥が、それに目覚めたのは、この夏の終わり。
 俺は事の次第を全部知ってるはずやけど、ここで一気に語るのは止そうと思う。
 まあ、ちょっとずつ、小出しに行こか。あまりに早く、この物語を語り終えてしまわんように。
 せっかくここまで聞いてもろた縁やしな。俺も多情や、皆が他人と思えんようになってきた。せやから、ちょっとでも長く、語っていようか、神戸での日々を。
 エンジンかけてた車の中は、ギンギンに冷えてた。
 赤毛は蔦子さんやアキちゃん達を呼びに、玄関の方へ戻っていった。
 俺は海道家の門前で、ほな行くわというアキちゃんを、ただ見送った。手も握らず、手も振らず、走り去る車のナンバープレートをじっと睨んでた。
 海道家のおかん、あれで案外、猛烈なヨン様ファンやった。
 ナンバーが、43−00やった。つまりな、ヨン様LOVEなんや。
 後で確かめたら、本人が、そうどすえって言うてた。そんなオチかと、がっくり来てまうこの日の始まりの話は、これで終わりなんやけど、これまたけっこう長い一日やった。
 しかし、待て次号。次章に続く。しばし待たれよ皆の衆。うちの相方の、若干キレ芸ぎみの涼やかな語り口調でも聞いて、次に待ってる俺の話を、楽しみにしといてくれ。
 お別れのキスは無しやけど、信じる心があれば、皆にも見えるはず。俺がこの美しい顔で微笑み、バイバイまたねって、手を振っているのが。
 信じる者にだけ見える、信じるからこそ実在する、そういうものが、この世にはあるねん。それが案外、大事やねんで。
 フェニックスが生きるか死ぬか、それは信心しだい。人に信じてもらうことによって、神は神になれる。これはそういう物語やねん。
 以上、次回予告でした。それではこれで、ほんまにさよなら。また会いましょう、港神戸は恋の街にて。六甲卸ろっこうおろしと海風に、甘く優しくなぶられながら。


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