SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(10)

 アキちゃんが北野のホテルに移るというんで、竜太郎はジメジメしていた。親戚の兄ちゃんていうのは、そんなにええもんなんか。
 今にも泣きそうなような中一を、また来るからと、苦笑いで励ましているアキちゃんを横目に見つつ、俺は海道家の門のあたりで、車にもたれて待っていた。
 車内の後部座席には、すでに水煙様が鎮座していた。相変わらずの黙りで、水煙は朝からアキちゃんを落ち込ませていたけど、それでも口を利く気配もなかった。やっぱり喋られへんのやろうと、俺は結論した。
 おかんの跡取りやということで、ヴァチカンからの、どえらい依頼を受けたものの、自分に何とかできるもんやろかと、アキちゃんはマジで悩んでるようやった。そら心配もするやろ。大阪の事件とは比べモンにもならんようなデカい山やった。
 今こそ水煙様の指導力が問われる時や。そんな時にでも、うんともすんとも言わへんのやから、こいつは喋られへんようになったんやと思って間違いないやろ。
 アキちゃんて、やっぱり案外鈍いんや。
 剣の形をしてるとはいえ、水煙はアキちゃんのしきみたいなもんなんやから、命令してみればええのに。俺を無視するな、話しかけられたら返事しろって、俺にするみたいに、水煙にもビシビシ怒鳴ればええやん。
 そやのに、アキちゃんは水煙には、遠慮があるみたいやった。
 元は、おとんの持ち物で、それを譲り受けたんやし、伝家の宝刀やし古い神様やということで、ビビってんのやろ。
 自分のもんになったて言うても、抱いてよろこばせてやってる訳やなし、剣として使いこなしてやれてるという自信もない。それに水煙はいつも、つんつんしててお高いしやな、どうにも一方的に世話になってる感じがしてる。俺なら平気でも、アキちゃん、あいつにはデカい態度はとられへんのやろ。
 それが水煙の鼻持ちならんところなんやけど、今となっては好都合やった。遠慮してる限り、アキちゃんは水煙に頭ごなしの命令はできへんやろ。こないだみたいに、よっぽどブチキレでもせん限りはな。
 うまいこと操縦しようと、俺は決心してた。アキちゃんが真相に気づかへんように。
 午前中の日射しの中に俺を待たせておきながら、アキちゃんは竜太郎に、須磨すまにある水族館に一緒に行くよう約束させられていた。こないだの約束を忘れるなという事らしい。
 そんなことしてる場合やないような気がすんのに、アキちゃんは律儀というか、押しの強い相手に弱いんか、分かった、行くからと、中一に首根っこ掴まれてるみたいに承諾してた。
 怪しい。なんとなく怪しいわ。
 まさかと思うが、なんかあったんやろか。事故って帰ってきた日は、勝呂が出たというんで、俺もすっかりテンパってもうてて、中一にまでは気が回ってへんかったけども、今朝見ると、竜太郎はめそめそ湿っぽく朝飯食うてて、どうも怪しいねん。
 それ以外は特に怪しい奴はおらへんかった。イケメンだらけの海道家やったけど、どうもアキちゃんは、保護欲を刺激する系に弱いらしい。怪しいのは竜太郎と、強いて言うたら赤い鳥さんだけやった。
 せやけどあいつは信太とラブラブで、アキちゃんは少々、痛恨の表情やった。やっぱり怪しいんかと、俺はがっくり来たけど、寛太は突き抜けるほどアキちゃんに気が無いらしく、にこにこ信太の傍にいた。ええなあ、ラブラブ。
 俺、今回ちょっと恋のキューピッドさんやったんと違うか。
 そんなつもりはなかったんやけど、うっかりこいつらを幸せにしてもうた。なんということや。他人を幸せにしとる場合やない。俺の幸せのほうが何万倍も大事やのに。なんで自分とアキちゃんの関係を死闘に追い込んでまで、こいつらをくっつけてしもたんか。
 まったく、縁ていうのは謎めいたもんや。
 俺がアキちゃんにくっついて海道家に来てへんかったら、きっと信太は今でも同じところをぐるぐる回るコースを続行中やったやろ。
 信太は明らかに、俺に感謝しているという顔やった。にこにこ愛想はええけど、もう微塵も誘うようでない。
 なんやねんもう。別にそれでええねんけど、俺様のこの美貌に、もうちょっとも食指が動かんのか。タラシとしては完全に終わったな、虎。もはや骨の髄まで赤い鳥さんのとりこになってるんやわ。ほんで、それで幸せなんや。よろしおすなあ、お幸せで。
「じゃあまたな、亨ちゃん。どうせ近々顔合わすやろ」
 にこにこやってきて、信太は俺にも挨拶をした。
「お前らは妖怪ホテルには来えへんのか?」
「妖怪ホテルて……。泊まりはせんけど、行くことは行くで。そこがなまず封じの拠点になっとうし、蔦子さんの送り迎えもしてやらなあかんしな」
 面白そうに笑って、寛太は今日は真っ黄色のアロハやった。パイナップルか。今日も眩しいなあ、お前は。
「また遊んで」
 俺は別れの挨拶がてら言うた。信太はそれに、わははと声をあげて笑ってた。
「いや、やめとくわ。お前はヤバすぎ。いちいちあれやと、家壊れるからな」
 テレビ壊れてもうたから、今夜はナイター見に、聖地もうでやと虎は言うてた。
 ええなあ。俺なんか妖怪ホテルに缶詰にされんのに。アキちゃん一緒やから我慢するけど、でも行きたかったなあ、甲子園球場。阪神、どうなってまうんやろ。もしも日本一逃したら、アキちゃんのせいやで。
 蔦子さんへの挨拶を終えたアキちゃんが車に戻ってきて、乗れよと俺に言い、そして自分も運転席に座った。
 ばたんと車のドアを閉じると、それっきりで海道家とはお別れやった。何日居ることになるんやと、来たとき思ったもんやったのに、結局いたのはたったの二泊だけ。えらい目にも遭うたけど、案外居心地のええ家やったのにな。
 あぁあ、どんなとこなんやろ、妖怪ホテル。
 アキちゃんから聞いた話では、そこにはアキちゃんみたいな巫覡ふげきの類がいっぱい泊まってて、その式神もうようよいてるらしい。俺はそれに、めちゃめちゃ暗い気分やったで。
 まさか全員が美形ってことはないやろな。いくら俺が根性ある言うても、そんな無数の恋敵を、一度に相手にはできへんで。アキちゃん好みのナヨい美形がいませんように。また浮気されたら敵わんわ。
 俺はこの時はまだ、そんなことをのんびり心配してた。
 アキちゃんはエンジンをかけ、神楽とかいう童貞の神父に教えられてた住所の場所に、カーナビを設定してた。初めて走る神戸の道やけど、行き先はそうややこしい場所ではないらしかった。
 鳥さんが事故った例の道をずっと行き、右に曲がってちょっと行ったら山のほうにあるらしい。俺は運転せえへんから道なんかどうでもええねん。カーナビに訊いてくれ。
 妖怪ホテルていうのは、もちろん正式名ではない。アキちゃんがつけた渾名あだなや。アキちゃんて時々、鬼みたいなネーミングすると思うわ。
 正式名は、ヴィラ北野という、なんや、あんまやる気なさそうなネーミングの、聞いたことないホテルやった。
 それもそのはずで、この夏オープンしたらしい。元々あったホテルのオーナーが変わって、新装開店なんやって。そんなところやから、ほぼ全室借り切りみたいな霊振会ご一行様にでも、皆にもれなく部屋があったわけ。
 せやけど到着してみたら、そんな大きいホテルやないねん。別荘ヴィラという名前にふさわしく、個人の邸宅みたいな造りになってて、三階建てやし、部屋数もそんなに沢山あるようには見えへんかった。
 ヨーロッパ風の黒い鉄を編んだ門扉があるゲートをくぐると、レンガ敷きの車寄せがあり、エントランスもくつろいだ優雅な雰囲気やった。趣味のいいホテルやなあと、俺は思った。なんか、あんまり商売っけがなくて、ほんまに西欧のお貴族様の、バカンス用のお屋敷にでも泊まりに来たみたいや。
 それは、いかにも神戸風に俺には思えた。神戸の人らは西欧趣味やねん。
 ずっと昔から貿易港で、いろんな国の人が住んでるし、そういうふうになったんやろな。三都の中でもここは、大阪とも京都とも違う。なんとなく異国情緒のある街やねん。
 そんな神戸にふさわしい、趣味のいい西欧アンティークの家具と、どことなくゴシックな感じのする蝋燭ふうのライトがいっぱいついた、重たげな鉄のシャンデリアが目を引くロビーに入ると、神楽神父が俺らを待ち受けていた。
 乳白色の大理石を踏んでやってくる、真っ黒い僧衣着た金髪碧眼の美形は、いかにもこのホテルの備品みたいやった。よう似合うてるわ。教会なんかより、ここで働いたらええのにと、俺はちょっと思った。こんな美形がロビーで出迎えたら、このホテルにも、さらに箔がつくやろ。
 せやけど神父はよっぽど俺が気に食わんらしく、にこりともしない難しい顔やった。アキちゃんには挨拶をしたけど、俺は無視した。よこしまなる蛇など、そんなもんは、ここには居らんて、そういう構えで行くつもりらしい。
 上等やないか。俺かてお前と口利きとうないわ。
 俺とアキちゃんを引き離そうやなんて。誰ともやったことない童貞バージンのくせして生意気やねん。あんまり、しつこいようなら、こいつもやっつけたらなあかん。
 フロントの綺麗なお姉ちゃんに車のキーと荷物を預けてチェックインして、大理石のロビーを抜けると、ぐるりを客室のある建物に囲まれたレンガ敷きの中庭があり、植えられた庭木の木陰がほどほどあって、オープンテラスのレストランでもやってるんか、屋外用のテーブルと椅子がたくさん置かれていた。
 黒いアイアンワークの鉄の脚に、オフホワイトのモザイクタイルで、まばゆいような食卓に、暗い赤のテーブルクロスが掛けられ、これもいかにも西欧風の趣味やった。
 その時点で俺は、なんとはなしに嫌な予感がしてた。どこかで見たことある景色のような気がして。
 既視感デジャビュというやつか。俺はここに来たのは初めてではないという気が、その時はしたんや。
 なぜ自分がそう感じたか、それはこの後、すぐに分かった。
「オーナーにご紹介しますが、雑誌の取材が来ているようなので、少し待ちましょう」
 いけ好かん感じに響く標準語で、神父はアキちゃんに話した。
 並んで立つと、アキちゃんのほうが上背があった。神父は少々小柄なほうみたいやったし、アキちゃんは日本人離れした長身やからな。その身長の釣り合い具合からして、二人は嫌な感じにお似合いやった。
 俺も、もうちょっと身長伸ばそうかな。アキちゃんと並んだ時に、若干やけど、ちっちゃすぎへんかと、急に心配になってきた。胸にすがり付くにはいいんやけどな、並んだ時にオマケみたいに見えへんやろか。
 どっちのほうが、アキちゃん好みなんやろかと、ぼやっと考えているうちに、神父の言う、取材なるものが終わったらしかった。
 オープンテラスの真ん中の席で、オーナーらしい背広の男と差し向かいで、いかにも神戸の女って感じのマリンルックで巻き髪の女が、にこやかに布張りのノートにメモをとり、それを閉じて立ち上がった。カメラマンらしい若い男が、それにくっついていて、辺りの風景や、取材を受けてる男の写真を撮っている。
 最後に自分に向けてシャッターを切ろうとするカメラマンを、このホテルのオーナーらしい、背広の背を見せてる男は、軽く手をあげて制して、にこやかなような声で言うた。
「申し訳ないですが、写真は出さないでいただけないでしょうか。そういう方針ですので」
 やんわりとした口調やったけど、それはやけに、きっぱりとした命令のようやった。カメラマンの男は、一瞬戸惑い顔やったけど、すみませんと言うてカメラを降ろした。
 挨拶をして別れた雑誌社の二人は、オーナーを待っていた俺ら三人をガン見しながら通り過ぎ、テーブルの脚にけつまずいたりしていた。
 たぶん異様やったんやろ。そらそうや。神父も美形なら、俺もぞっとするよな美貌やし、アキちゃんかてかなりの男前なんや。それに見覚えもあったんかもしれへん。アキちゃん、狂犬病騒ぎでは、ずいぶんメディアに顔が売れてもうたからな。
 せやけどこの際、そんなことはどうでもよかった。何の害もない。
 俺はオープンテラスの真ん中で、立ち上がってこっちを見ている背広の男に目が釘付けになっていた。趣味のいい、濃紺のスーツで、赤いポケットチーフが覗いてて、それが気障きざやねんけど、めちゃめちゃよう似合ってたわ。
「こんにちは、中西さん。お話ししていた本間さんです」
 神父は相手をすでに知っているふうな態度で、親しげにアキちゃんを紹介した。
 背広の男は気さくな笑みで歩み寄ってきて、アキちゃんに握手を求めた。
 艶のある黒髪が色っぽいような、四十代ぐらいの男に見えた。まさに男盛りというやつか。
 アキちゃんは一応の社会的スマイルを見せ、お世話になりますと挨拶をして、背広の男の握手に応えた。二人の手が触れあうのを、俺はなんとなく呆然と見ていた。
 そんな俺を、向こうもじっと見てたわ。じいっと見てた。初対面というには、長く見過ぎやった。
 そんなに見るなと、俺は思った。その視線に、なんとなく、鋭い苦痛を覚えて。
 藤堂さんやった。
 藤堂さん。
 俺がアキちゃんの前に、取り憑いてた男。
 なんで名前違うんやろかって、俺はくらくらそれを考えてた。
 それに、俺の知ってる姿と違う。藤堂さんはもっと老けてた。髪も白髪交じりやった。それは染めれば済む話かもしれへんけど、それでも顔までは若返らんやろ。
 以前はどことなく、疲れた死相のあった顔には、今は得体の知れん生気がみなぎってた。
 まさかなと、俺は思った。藤堂さんは死にかけていた。こんなに元気なはずはない。癌やったんや。それもほとんど末期の。俺の力で生きながらえてたけど、去年のクリスマス・イブに俺に捨てられ、もう死んだんやと思ってた。生きてるわけない。
 せやけど、どう見ても藤堂さんやった。着てるもんの趣味も、何も気づいてないアキちゃんと、にこやかに世間話してる話し口調も、このホテルの内装の趣味も、全部そのまんま、藤堂さんの好みそのもの。
 既視感デジャビュを感じるのも当然やった。俺は藤堂さんが支配人をやっていた京都のホテルの、この趣味とそっくりそのまんまのインペリアル・スイートで、しばらく飼われてたんや。アキちゃんと出会うまでの、半年か、一年近く。
 逃げたいと、俺は思ったけど、この場を立ち去る理由がなかった。
「支配人室でお話ししましょうか。ここはもう日射しが暑うなりすぎます」
 ロビーに戻る方向を手のひらで示して、藤堂さんはアキちゃんに促した。アメリカと、ヨーロッパで修行したんやという、筋金入りのホテルマンの動きで、一分の隙もない接客やけど、にこやかな目の奥で、藤堂さんがアキちゃんを値踏みしてるのが俺には分かった。
 アキちゃんのこと、恨んでるんか、藤堂さん。この子はなんも悪くないんやで。一緒にいてくれ言われて、俺がふらっとついて行ってもうただけ。なんも知らんかったんやで、アキちゃんは。俺に飼い主がいるやなんて、想像もせんかったような初心うぶな子なんや。
 ほっといてくれ。頼むから、アキちゃんに何も言わんといてくれ。
 謝れ言うなら俺が謝るやんか。済まんかったと思うてる。ほんまやで。
 俺はあんたを死ぬ目に遭わせたんやろ。とっくに死んでるはずの男が、ぴんぴんしてる。若返ってる。それの意味するところは一つだけやった。
 俺は気づかんふりをしてたけど、藤堂さんは俺と混ざってもうてたんや。蛇の仲間にされていた。
 そりゃあまあ、考えてみればありそうな話やった。よう効く薬やということで、この人、俺のアレを飲んでたんやからな。毎日やで。そうでもせんと死にそうやったんや。
 それに一回だけやけど、俺はこの人の血を吸ったことがある。そういう点では、俺の支配は薄いやろけど、それでももう人間ではない。そういうことなんやろ。
 地下へ行くエレベーターのボタンを押す藤堂さんの指から、いつもしてた結婚指輪がなくなってるのを、俺はじっと見つめた。もう、指輪の痕さえなかったわ。
 どんだけ外せと言うても、抜けへんのやとこの人は言うてた。そんなら指を切れと、俺はキレてた。なんでそんな、無茶な我が儘言うてたんやろな。できっこないわと思うて言うたんや。そして実際無理やった。できるわけがない。そんなこと。
 俺はそれに類する無茶な我が儘を、毎日頭から浴びせるように、この人に言うてたわ。よう我慢できてたよな。ほんまは我慢の限界なんか、日に二度三度越えてたやろけど、それでも命が惜しかったんやろ。大事な奥さんと娘のために?
 その人ら、今はどこでどうしてんの、藤堂さん。
 俺のその内心の問いに答えるようなタイミングで、チン、とエレベーターが止まるベルが鳴った。そしてドアが開き、どことなく暗い照明だけの地階の廊下が現れた。
 そこは元々は倉庫とか、スタッフ用の更衣室なんかがあるだけのスペースに見えた。客は通らんところやろう。いかにも工事中みたいやった。
「春先に譲り受けまして、突貫工事で内装を入れ替えたところですので、実は上辺だけで、まだまだこのあたりは手つかずです」
 お恥ずかしい、と言いつつ、余裕たっぷりの雰囲気で、藤堂さんはアキちゃんに説明してやっていた。藤堂さんはアキちゃんをエスコートして歩き、礼儀正しかったけど、それが余計に怖く思えた。一体、いつ言うつもりやねん。
 目的地らしい部屋の扉を藤堂さんが開くと、中は普通の支配人室で、ここも西欧風の趣味やったけど、地下で窓がないせいか、どことなく陰鬱やった。
 マホガニーの大きな執務机と、その前に鈍い赤のビロードを張った骨董らしいソファがある。血のしみたような赤やった。そこにアキちゃんと俺を座らせ、コーヒーテーブルを挟んだ向かいのソファに、藤堂さんは神父と並んで座った。
 この神父は、少々鈍いんやないかと、俺は思った。お前が並んで座ってる男は、もう外道なんかもしれへんで。お前に言わせりゃ悪魔サタンの一党やろ。なんで気づかへんのやろ。
 邪悪な悪魔サタンと罵るどころか、神父はちょっと藤堂さんが好きなくらいに見えた。淡い笑みやけど、とにかく微笑んで話してる。そういえば海道家の居間で見た俺のことも、こいつは一時、ぼやっと眺めてた。アキちゃんが俺を見る時みたいな、どことなく、うっとり来てる目で。
 もしかして、こいつは区別がついてないんやないか。自分の目に映るモノが、悪魔サタンかどうか。頭で判断してるだけで、感覚的には分かってない。分かってないどころか、ほんま言うたら魅入られてる。悪魔サタンどもの放つ、悪の華に。
「お飲み物を持たせましょう。何がよろしいですか」
 デスクのインターフォンへ行って、藤堂さんは訊ねた。
 神父はにこやかにそれを制した。
「せっかくですが、時間が押しているので、すぐに霊振会の方々との会合に行かないといけません」
「そうですか。では、長話はまたの機会に」
 ソファに戻ってきて、藤堂さんは座り、向かいにいるアキちゃんを見た。
「本間先生は画家の卵でいらっしゃるとか。お迎えできて光栄です。いつか当ホテルのために一枚お描きいただけたらと思います」
「機会があれば、ぜひ」
 社交辞令やろう。アキちゃんは、アキちゃんにしたらまあまあ上出来の愛想のよさで、穏やかに答えてた。
「最上のお部屋をご用意しました。お困りのことがありましたら、何なりとお申し付けください」
「ありがとうございます」
 そんな話に始まって、藤堂さんはアキちゃんと、当たり障りのない世間話をにこやかにした。先生は京都の方ですね、私も短い間でしたが、京都に住んでいたことがありますと、藤堂さんが切り出した時には、俺は内心、脂汗がだらだら流れた。
 どの辺りですかと聞くアキちゃんに、藤堂さんは東山ひがしやまやと答えてた。確かにそうやった。東山にあるマンションに部屋を借りてて、そこから仕事に通ってた。ホテルと目と鼻の先。歩いてでも行ける距離やったけど、俺はいっぺんも入れてもらったことがない。
 奥さんや娘が来るとこに、俺の吐いた息だけでも残したくないというのが、この人の方針やった。俺のことは神のように崇めてたけど、でもほんまは、そんなふうには思ってなかった。きっと俺のこと、汚らわしいと思ってたんやろ。
「そろそろ行かないと、本間さん。上で皆さんお集まりでしょう」
 腰を浮かして、神父が急かした。藤堂さんは引き留める気配もなかった。
 ではまたと、そつのない支配人の態度で客を送り出そうとしていた。せやけどその伏し目がちな目で、藤堂さんはアキちゃんが握っている水煙の、鞘に包まれた刀身を見ていた。
 藤堂さんに、そんなもんが見えるはずがない。昔のこの人なら、ありえへん。だって普通の人間やったやもん。
 俺はその事実を確信した。藤堂さんはもう、人間ではない。
 俺はこの人を、外道に堕としてから捨てた。
 それを済まないと思うけど、今この場では謝られへん。知らんふりさせてくれと、俺はアキちゃんについて出ようとした。なのにそれを、金髪の神父が止めたんや。
「駄目です、あなたは先に部屋へ行っていてください。会合には大司教様もお越しです。遠慮してください」
 悪魔サタンは去れと、神父はまたもや俺に言うてた。
 選りに選って今か。
「アキちゃん、俺も行く」
 俺は藤堂さんの前で、初めて口利いた。できれば話したくなかってん。お前、えらいキャラ違うやないかって、思われるに決まってる。
 アキちゃんは俺と神父を振り向いて見比べて、困ったような顔をした。
「うん……でもな、昨日みたいな事になったら、えらいことやで、亨。そう長くはかからへんやろから、先に部屋行って待ってろ」
 ついてくるなと、アキちゃんは俺に命令してた。なんでそうやねん、こいつ。肝心の時にはいつもこれや。鈍い。そして、離したらあかんときに、俺の手を離す。
 憎いわ、アキちゃん。お前のその、つれなさが。
 どうなっても知らんで、俺は。俺のせいやない。アキちゃんのせいやで。
「部屋を知らん、俺は。どこへ行けばええんか、わからへん」
 それでも諦め悪く追いすがった俺の背後で、藤堂さんはにこやかに言うた。
「ご案内しますよ」
 まるで親切なホテルマンみたいやな、藤堂さん。
 男前やわ、相変わらず。
 俺はあんたのことも、顔で選んでん。最初はな。
 紹介された人づてで現れたあんたが、男前のおっさんやったんで、俺の好みにジャストミートで、美味そうやから食うとこかって、そういう軽い興味が始まりやってん。
 せやのに病気で死にかけやっていうもんで、俺も大概深情けやからな。あんたが可哀想になって、ついついハマってもうたんや。
 まあ、正直言うたら、顔良くて可哀想っていうだけやのうて、たへん言うなりに、あんたは床上手やったからな。さんざん悶えたよ、あんたのところでも。俺は溺れてたんや。ぐでんぐでんに酔っぱらわされた、大蛇おろちみたいに。
 神父に連れられて出る去り際、アキちゃんは不安そうに俺を見た。疑ってるんやろ、どうせ。お前の好きそうなおっさんやなあって、アキちゃんにも分かるんやろ。
 そう思うんやったら、連れてってくれたらええのに。俺より神父の言うこと聞くんか。アキちゃん。俺を信じることにしたんか。
 信用できるわけないやんか。アキちゃんの手を離してもうたら、俺は邪悪で淫乱な蛇やし、悪魔サタンなんやで。
 しかし扉は閉じた。
 歩み去る足音が遠ざかって、微かにエレベーターのベルが鳴るのを聞いてから、藤堂さんはやっと、また口を開いた。
「久しぶりやな、亨」
 聞き覚えのある低い美声の、神戸のなまりやった。
 藤堂さんは仕事するとき、声を作っている。押しつけがましさのない、落ち着いた朗らかさのある声で話す。なまりのない標準語で。
 せやけど二人きりになると、それより低いような暗い大人の男の声で話す。ちょうど今みたいにな。
「元気そうやな。相変わらず、お前は美しいわ。まるで絵のようや」
「その絵は。絵はどうしたんや、藤堂さん」
 振り返って向き合う気がせず、俺は早口に話題をすり替えてた。
「絵はある。この奥の部屋に。それに俺はもう、藤堂さんやない。今は中西卓なかにし すぐるやで」
「なんで改名したんや」
 背後からの声が近づいてくる気がして、俺は我慢ならず振り返った。藤堂さんは目の前にいた。俺のすぐ、目の前に。
「なんでって、分かるやろ。お前は勘が働くほうやから。離婚したんや。もともと妻とは養子縁組やったからな、藤堂はあちらの姓で、別れたら俺はもう、藤堂さんやない」
「じゃあなんて呼んだらええんや」
 止めようのない早口で、俺は訊ねた。藤堂さんはさらに一歩歩み寄った間近から、俺に微笑みかけてきた。皮肉な笑みやった。
「なんとでも。お前の呼びたいように」
「なんで離婚なんかしたんや。俺がいくら言うても、奥さん捨てられへんかったくせに」
 責める口調になる俺を、間近に見つめて、藤堂さんはいかにも可笑しそうな顔をした。
「違うよ。捨てたんやない。俺が捨てられたんや。亨、俺はな、実は一度死んだんや。癌やったやろ、よもや忘れてへんやろ。それで一度死んだが、葬式の最中に、ひつぎの中で生きかえったんや」
 可笑しくてたまらんという顔を、藤堂さんはしてた。
 こんな人やったっけと、俺は思った。
 気難しいような人やったで。くそ真面目で、仕事の鬼で、いつも必死で働いたし、敬虔なクリスチャンで、奥さんと娘が大事で、夫として父として、善良な信者としての体面が大事で、いつも俺とのことを苦悩していた。
 会う度いつも苦悩顔なのを、それは病気のせいやろと、俺は自分に言い聞かせてた。
 にこにこ機嫌のいい時なんて、数えるほどしか見たことないわ。
「俺はそのとき、お前の名前を呼んだらしい。死ぬときもそうやったと、妻はえらい泣いてな。訳を話せというんで、話してやったら、娘にも愛想尽かされて、もう出ていってくれと言われたわ。それきり一度も会うてない」
 それが何でもないことのように、藤堂さんは話してた。
 あんなに大事にしてたもんを、あんたは全部捨ててきたんか。ひつぎの中に。かつては人間やった、自分の抜け殻とともに。
「いつ。いつ死んだんや、あんたは」
「二月の終わりごろや。その頃お前は、なにしてた」
 じっと見つめてくる藤堂さんと向き合うて、俺は言葉が出えへんかった。
 二月か。何もしてへんわ。アキちゃんと、べたべた抱き合うて暮らしてた。好きで好きでたまらんで、毎日毎晩やりまくってた。今ごろ藤堂さん死んだかななんて、思いもしてへんかったわ。
「あっけないもんや、人間の一生なんて。手術して、一時は持ち直したんやけどな。信じられへん。療養中の院内感染で、風邪ひいてもうてん。それで肺炎なって、三日四日でご臨終やで。びっくりしたわ、自分でも。あんまりあっと言う間に死んだから」
「それは大変やったな……」
 いつ詫びようかと、俺は内心おろおろしてた。
 藤堂さん、俺はあんたに、酷いことをしたかもしれへん。許してくれとは言わへんわ。ただ、済まないとは思うてる。
 せやけどお互い様やないか。あんたも俺に酷いことをした。俺があんたをいくら好きでも、あんたは俺を悪魔サタン扱いで、いつも恐れてた。ご奉仕はしてくれても、愛してはくれへんかったやんか。俺をけだものみたいに扱ってた。
 俺にも心があるやろうって、ちょっとでも思ったことあるか。
 ないやろ。あるはずない。
 せやのになんで、死ぬとき俺のこと呼んだりすんの。
 嘘や。ぜったい嘘に決まってる。そんなこと、あるわけないわ。
「亨」
 懐かしく心をくすぐるような、低い美声で、藤堂さんは俺を呼んだ。そして、昔なら絶対に、そんなことはしなかったくせに、俺の腕を掴んできて、優しく力を込めて、長身の胸に抱き寄せた。
 ああ、やめてくれ。
 陶酔のような気分が湧いて、俺は藤堂さんの胸を押し返そうとした。
 それでも、そんなに、力のない腕やったろうか。
 それとも、藤堂さんの腕が、前より強くなってたんか。
 俺は抵抗しながらでも、結局、藤堂さんにキスされた。
 キューバ産の葉巻の香りがしてた。くらっと来るような、大人の男の匂い。
 やめてって、俺は何となく震えが来てた。
 アキちゃん助けて。助けに来てくれ。なんでか分からんけど、俺は逃げられへん。なんでやろ、甘く唇を貪ってくる藤堂さんを、拒まれへん。喘ぐような息で、俺はされるがままやった。
 なんでかなんて、分からんわけない。
 俺はずっとこの人が、好きやった。未練があったんや。アキちゃん好きやて言いながら、心のどこかに残ってた。この人への気持ちが。はっきり決心しないまま、なしくずしに逃げてきてもうた。一緒に居るのが、もう辛くて堪らんような気がして。アキちゃんに逃げたんや。
「抱いてやろうか、亨」
 強く誘う声で、藤堂さんは俺の耳に囁いた。それに甘く痺れて、俺は泣きそうやった。
「嫌や、やめといて」
「まあ、そう言うな。嫌やって顔はしてへん」
 苦笑しながら言うてきて、藤堂さんは俺をソファに連れて行った。渾身の力で拒めば、拒めたはずやと思いながら、俺はよろめく足でついていき、素直にそこに押し倒されてた。
 俺を組み敷き、唇に優しいキスをして、藤堂さんは、じっと見下ろしてきた。
「美しいな、お前は。俺はずっと、お前を抱きたかった。堪えてたんや。それをやったら、もう後戻りできへん。お前に芯から、狂いそうな気がして」
 なんでそれが、あかんかったんやろ。
 俺は狂って欲しかった。
 それでもあんたは、嫌やったんやろ。俺を拒んだ。それが結局、あんたの選んだ、正しい道やったんや。
「なんで今さら、こんなことすんの。俺にはもう、好きな相手が居るんや。お前なんか要らん」
 俺は怒鳴ったつもりやったのに、それは囁き声やった。藤堂さんの目が、爛々と光るように見えた。
「あの絵描きの若造のことか。あれのどこがええんや。俺がもっと、愛してやる」
 藤堂さんは確かに、俺が好きらしい目をしてた。
 でも結局、それは愛とは違う。執念や。
 その執念に応えて、俺がこの人をもしまた受け入れたら、いつかは愛してくれるかも。
 愛なんて、そんなもんかもしれへんで。やってるうちに胸の奥から湧いてくる。俺かて最初からアキちゃんのこと愛してたわけやないのかも。
 初めはただの欲望で、アキちゃんみたいな力のあるげきにくらくら夢中になってもうて、アキちゃん欲しいって貪るうちに、その気持ちが愛に変わってた。お前が好きやって愛してもらって、それに応えたくなっただけ。どっちが先かわからへん。
 それでも今はアキちゃんのこと愛してる。アキちゃんが俺のこと愛してくれなくなっても、それでも愛してると思う。もう無理やねん。離れられへん。
 藤堂さんのこと好きや。今でも実はぜんぜん変わらず好きかもしれへん。
 それでもアキちゃんのことがもっと好き。もっと比べようがないくらい好きやねん。
 だってアキちゃんは俺が誰だか知らない時も、俺が人ではないと分かった後も、俺がアキちゃんを人でなしに堕とした時でも、ぜんぜん変わらず俺のこと好きやって言うてくれてたで。
 いつも好きやって言うてくれる。俺のために何もかも捨てて、俺と一緒にどこまででも行ってくれる。そういう子やねん。俺に溺れて、俺に狂ってくれる。藤堂さんとは違う。アキちゃんは、俺を悪魔サタンにはせえへん男。
 俺はそういうアキちゃんが、誰より好きでたまらへん。
「無理や、藤堂さん。俺が寂しくてつらいとき、あんたはどこにいた。俺が抱いてって頼んだ時、あんたはどうした。買った男に俺を抱かせて、それで我慢せえて言うたやろ。そんなもんまでルームサービスか、ほんまにムカつく!」
 俺の喉はやっと、どうやって怒鳴るか思い出したらしかった。
 藤堂さんは罵る俺を、どこか懐かしそうに見下ろしていた。悲しそうなような苦い笑みをした顔を、俺は見つめた。
「あんたがそんな風やった時に、アキちゃんは自分で飯作って俺に食わせてくれたし、毎日いくらでも抱いてくれたわ。俺が蛇でもかまへんて、笑って許してくれたんやで。そんな若造がな、お前より愛しくないわけあるか!」
 俺は泣いてた。泣いてたと思う。藤堂さんが笑って俺を見てるのが、ぼんやり潤んで見えてたからな。
「そうか。あの絵は、ほんまに良く描けてるな。お前もあんな顔できるんやって、俺はびっくりした。あれは才能あるわ。きっと名のある絵描きになるやろ」
 頬を優しく撫でてきて、藤堂さんは俺を見ていた。でもいくら眺めたところで、俺は苦悶の顔やった。
 アキちゃんが描いてくれた、あの絵にいたような、お前が好きでたまらんて、そんな顔して俺が藤堂さんを見る、そんなこともあったかもしれへん。そうなるような未来もあった。俺は何度もあんたを口説いたやんか。それでもそれを全部無視して、我慢しろって言うてたやんか。
「亨、ひとつだけ憶えといてくれ。俺もお前を愛してた。それは本当や」
「藤堂さん。それを言うのは、あんたがもう死んだからや。もう蛇の眷属に堕ちてもうた。奥さんとも別れたし、それなら言おかって、それだけのことやねん。それのどこに愛があんの。ただの残りモンやないか」
 分かってへんらしいおっさんに、俺はそれを教えてやった。
 けど、そんなこと、俺に言われなくても藤堂さんは、分かってたらしいわ。言われて笑う顔は、自嘲する苦痛の表情やった。
「そうやなあ。お前の言うとおりや……」
 俺を組み敷いたまま、藤堂さんは疲れたようにうな垂れた。
「俺はお前を愛してた。それでも勇気がなかったな。お前とどこまでも堕ちるほどには」
 もう指輪のない手で、俺の首筋を愛しげに撫でてきて、藤堂さんは低く呻くような声やった。
「俺にはもう機会はない。それは分かってる。あの絵を見ればそれは分かった。せやけど亨、今は俺を哀れんでくれ。俺はお前の……血が欲しい」
 間近に俺の顔を覗き込む、欲情した藤堂さんの顔が、俺の知らない形相やったのに、俺の呼吸は止まってた。爛々と銀色に光る蛇の目を、俺は見た。飢えて鋭い一対の牙を。それは俺の知る、余裕の笑みの大人の男の顔やなかった。
 怪物みたい。まさに悪魔サタンや。
 変成に、失敗しかけてるんやないか。
 そうや、アキちゃんみたいに、誰も彼もが上手くいくわけがない。
 もう止めとこう、藤堂さん。急激にやりすぎた。それでもあんたは死にかかってたんやから、仕方なかったけど、でも無茶したら、後戻りできんような狂った化けモンになってしまうんやで。
 それでも藤堂さんは怪力やった。今度は本気で抵抗してる俺を押さえ込み、暴れる蒸れた首筋に、その貪欲な牙を突き立てた。
「ああ……っ」
 めちゃめちゃ痛くて、俺は悲鳴のような声で喘いだ。
 吸い取られる感覚がして、ふっと気が遠くなるようやった。
 痛いよう、藤堂さん。もっと優しくやってくれ。俺は辛くてたまらへん。そんなに一杯吸わんといてくれ。ああもう俺は、死にそうや、って、くらくら来てる揺れる気分の中で、助けを求めた。
 誰にかわからへん。たぶん、アキちゃんに。
 でも、こんなとこ見られたら、俺はもう終わりやないか。アキちゃんは今度こそ、俺を許してはくれへんやろ。
 ああ、でも、信じて。お願いやから。俺が愛してるのは、アキちゃんだけやで。アキちゃんに抱かれてる時が、いちばん幸せ。血を吸われるのだって、ふらつくぐらい気持ちいい。
 誰にやられても同じやないかって、ちらりとそんな不安もあった。
 もしも藤堂さんが俺を抱いてくれてたら、もしかして、俺はアキちゃんよりも、藤堂さんのほうが好きやったんやないかって、それがすごく未練で不安。結局それが心配やってん。自分のことが、信用できなくて。
 でも、もう、わかった。吸血されて、幸せな気分。そんな、ふわふわ漂うようなのは、相手がアキちゃんやったからやねん。
 藤堂さんに血を吸われても、俺には苦痛が勝っていた。
 永遠に生きる体になっても、俺はもう、あんたとは一緒に生きられへん。ひとりで化けモンになって、永遠に生きるつもりか、藤堂さん。そんなことして、幸せなんか。
 俺はあんたも愛してた。アキちゃんと出会うまでの間の、もうずっと過去のことやけど、今でもそのことを、忘れてはいない。
 幸せになってほしかったんや。一緒に幸せになりたかった。それが無理なら、あんただけでも、って、そこまで思えるほどには、俺は愛ってやつの真髄を、理解できてなかったけど、それでも好きやったで。
 一人で不幸にならんといてくれ。普通に死んで、生まれ変わって、また幸せな人間に、なればええやん。そうするにはもう、手遅れなんか、藤堂さん。
 夢中で血を吸う化け物を、俺は必死で引き剥がしてた。首から血を滴らせる牙が抜け、真っ赤に染まった舌の男が、懐かしいような、見知らぬような悪魔サタンの顔で、俺を見つめた。はあはあ喘ぐ息やった。
 上手くいくのか心配で、俺はじっと藤堂さんだったものの顔を見つめた。その頬を両手で包んで、作り替えられる痛みに苦悶する顔を、じっと見上げた。
 変成は、急激に進んでいるように見えた。
 頑張れ藤堂さん。負けたら化けモンになってまうんやで。
 脂汗の浮く額を、自分の額に押しつけさせて、俺は藤堂さんを抱いてやってた。獣じみた呻き声がして、体が小さく暴れてる。それでも、ぎゅっと強く抱いててやると、悶えるような震えは、だんだんと治まった。
 やがて、暗く長い水路を一息に泳ぎ切ってきたような、はあはあ悶える息をして、藤堂さんは俺に抱かれてた肩口から、目を見開いた顔を上げた。
 その目が、じわりと浮かぶような金色に変わり、それがいくらか溶け残ったような銀色の輪郭をしていた。それでももう、化けモンみたいな顔ではなかった。元の通りか、それ以上に男前やったわ。さすがは俺が、アキちゃんの前に惚れてた男。
 ついついそう思えて、俺は自分を罵る笑みで、まだ体の上でぐったりしてる藤堂さんを見上げた。汗の雫が、ぽたぽたと幾つか、降りかかってきた。
「根性あるやん、藤堂さん。どうやら化けモンならずに済んだようやな」
「これが化けモンやのうて、なんなんや。悪魔サタンそのものやないか」
 疲れたっていう笑みで、藤堂さんは俺を見つめ返してきた。ええ男や。ひとりで生きていくのは勿体ないな。
「そうやな。確かに悪魔サタンそのものやけど、前よりさらにイケてるで」
 汗で濡れた乱れ髪を撫でつけてやって、俺はそう褒めた。
「そんなら俺と寄りを戻すか?」
「いやぁ、生憎やけど、それをやるには、俺はアキちゃんが好きすぎる。ごめんやで、藤堂さん」
 首を振って、俺が断ると、藤堂さんは俺が憎そうに笑った。
「お前はほんまに、鬼畜みたいや」
 愛しげにそう言うて、藤堂さんは、うっとりと首をそらせた。新しくなった体のことが、まあまあ気に入ったらしかった。
「それなら、しゃあない。新しい恋でも探そうか……」
 そうや、藤堂さん。挫折したまま枯れたらあかん。
 もう藤堂さんではないんや。なんやっけ。中西さん? しっくりけえへんなあ。藤堂さんでええやん。そっちで慣れてるんやから。
 さあもう、俺に乗っかってる必要ないやろって、俺は言おうとした。いつまで足割っとんねん。未練がましいのはモテへんで。
 そうやなあって、そんな大人の別れで終わり、みたいなオチのつもりが、間の悪い子もおるわ。だいたい、いっつもそうやねん。うちのツレ。
 俺がどんだけ、助けてアキちゃんて思ったか。そん時にはチラとも登場せんかったくせに、今さら来たで。しかも美形神父のオマケ付き。
 ばあんてドアが開いた。
「亨!」
 助けに来たんか、殺しに来たんか、謎なご登場やった。
 アキちゃんは抜き身の水煙を構えてた。そうやって飛び込んできたアキちゃんがまず見たものは、乱れた風体で、ソファに組み敷いた俺に乗っかっている藤堂さんやったやろ。
「なにやっとんねん、お前!」
 俺は被害者やのに。可哀想に、亨ちゃん乱暴されたんやで。
 それでもアキちゃんは、俺に怒鳴ってた。
「訳ありや……アキちゃん、キレる前に話聞いてくれ」
 もう別れたし。交渉成立してると思うし。それに血吸われただけやで。それって浮気したうちに入るんやろか。その前にキスもされたけど、アキちゃん、それは見てへんやん?
「お前はもう、殺さなあかん……」
 キレそうやっていう、酩酊したような顔をして、アキちゃんは戸口で剣を構えて、苦悶していた。水煙はやる気まんまんなんか、むらむらと白く煙るほどの靄を発してた。俺を斬ろうっていうんで、悦んでるんやろ。やっぱり、ええ根性しとるわ水煙。
「殺したいんやったら、殺してもええよ。でも話聞いて」
「聞いてどうする……言い訳なんか……。なんで俺に、こんなことさせるんや」
 アキちゃんは上段に剣を構えたまま、数秒耐えた。それでも耐えきれへんかったんやろ。一声もなく、鮮やかに斬り込んできて、風を薙ぐ音を立て、水煙を振るった。
 その、わずに湾曲した切っ先が、藤堂さんでも、俺でもなく、乾いた血のような色の骨董らしいソファの背を、ざっくりと切り裂くのを、俺はうわあと叫んで見守った。刃先は寸でで誰からも逸れたが、それは偶然やなかった。アキちゃんが、寸止めしたんや。
 水煙は実体のない剣で、鬼しか斬ることができへん。ソファには元通り、傷一つなかった。どっちかいうたらアキちゃんのほうが傷だらけ。そんな顔して、剣振り下ろしたままの姿勢で、じっとソファの中にいる俺を睨むように見下ろしてた。
「アキちゃん……」
 どっと湧いてきた汗を感じて、俺は髪を額にはりつかせ、アキちゃんの顔をまっすぐ見上げた。
「アキちゃん、信じて。俺、アキちゃんのこと、愛してる」
 その声が、聞こえなかったはずはない。アキちゃんは黙って、睨む目やった。
 藤堂さんも俺に乗ったまま、その話を聞くことになったが、もう構うもんかやった。
「ほんまやで、アキちゃん。誰よりも愛してる。比べようもないぐらい好きや。俺を斬りたいなら斬ってもええわ。でもそのことは、憶えておいてくれ」
 ほとんど無意識にそう言い募りながら、俺は思い出した。ついさっき、藤堂さんから聞かされた話を。
 俺はお前を愛してた。お前を抱きたかった。それだけは、憶えておいてくれ、って。
 ああ、ほんまに藤堂さんは、俺を愛してくれてたんかもしれへんな。なんや急にそのことが、嫌みも反発もなく腑に落ちた。
 愛してたけど、この人は、俺を抱くことはできへんかった。何やかんやのしがらみで。大人の事情やら、薄情やらがあって。
 縁がなかったんや。仕方ない。
 でもそのお陰で、俺はアキちゃんと出会えたんやないか。運命の出会いやで。
 それが生憎ここで、水煙様にばっさり斬られて終わりって、そんなオチかもしれへんけどな、アキちゃんがそうしたいんやったら、しょうがない。愛してるって目で、見つめるほかに、俺にできることはない。
 その目で見られて、アキちゃんは震えてた。もう剣は構えてへんかった。それでも水煙はまだむらむらと、危険な靄を発してた。
「どうやって、信じたらええんや、お前を。頼んだやないか、俺だけにしてくれって……」
 アキちゃんは、それ以上口にしたら死ぬというような顔をしてた。屈辱やったんやろ。また俺を寝取ったと思えた昔の男を前にして、泣き言言わされる羽目になり、激痛が走ったんやろな。
 アキちゃんはその時、俺を抱いているのが、絵を買った男やと、知ってたらしい。それが藤堂さんなんやって分かった上で、また頼んでた。俺を選んでくれって。そう頼むしかない、青臭い初心うぶな若さで。
 アキちゃんはすごく、苦しそうな顔をしていた。
「もう、今は無理。信じられへん」
 アキちゃんはそう断言して、ふいっと剣を持ったまま、部屋を出て行く速い足取りになった。
 追わなあかんと、俺は思ったが、藤堂さんは未だにぽかんとしたように、俺の上に乗ったままやった。たぶんアキちゃんの直情さに、あっけにとられたんやろ。
「退いてえな、藤堂さん。アキちゃん行ってまうやんか!」
 俺が遠慮会釈のない我が儘声で怒鳴ると、藤堂さんはびっくりした顔で、ああ、すまんと言った。そして俺を立たせてくれたけどな。律儀な人やなあ。ぼさぼさなった髪の毛まで直してくれたわ。
 そのまま走り出ようとした俺に、今度は神父が立ちふさがってくれた。
 何をすんねん、童貞神楽くん。追わせてちょうだい。アキちゃん、どこ行ったかわからんようになるやんか。
悪魔サタンそのものだ。もう放置しておけない」
 神楽神父は俺を断固とした目で見つめ、そして、ちらりと藤堂さんを見た。
「本間さんだけで飽きたらず、中西さんまで毒牙にかけたのか……」
 むっちゃ責めてる目やったで。なんやねん、それになんか文句あんのか。
「そうや。ていうか、アキちゃんよりこっちが先やったんや。ただ仕上げただけ」
「彼は敬虔なキリスト教徒だ!」
 叫ばれて、俺は笑った。なんやまるで、この人は俺のもの、みたいな言い様やってん。
「でも今はもう悪魔サタンやで。そこどいてくれ、童貞神父。さっさと退かんと、ケツに突っ込んで犯してまうで」
 神楽はそれに、いかにもショックを受けたような怒りの顔をした。キレかけてる。
「中西さん、離れましょう。この悪魔サタンは私が必ず祓います。まずはあなたが逃げなければ」
 藤堂さんの腕をとって助け起こし、神父は俺に十字架を見せた。ちょっと嫌なような気もした。でもそれだけやった。
 俺から離れるため、背後に庇った藤堂さんを連れて壁際へ引く神父の後ろに、もうひとつの扉があった。
 それを俺に顎で示して、藤堂さんはにこりと笑った。悪いような笑みやった。こんな人やったっけと、俺はまた思った。
 たぶん違ったやろう。それでも俺と混ざってもうたんや。俺の性悪な性質までも、移ってもうたんやな。
 俺は囁く声で、すでに蛇の眷属となった昔の男に命令してた。
 藤堂さん、そいつをいてまえ。俺ほどやないけど、美しいやろ。寂しい夜に抱いて寝るには、まあまあええやろ。なんといっても童貞バージンやしな、それに神父やねんから、こちとら邪悪な外道としては、犯す楽しみがたっぷりあるやろ。
 その話に藤堂さんはくすくすと笑ったが、俺に反論はないようで、自分を庇う神父の腕を、逆に背後から掴んでた。
「神父様、一緒に来てください。私一人では、とてもこの恐ろしい蛇から逃れられません」
 すがるような声で話した、それでも笑う気配の藤堂さんに、神父は怪訝な顔で振り向いた。
 そやけどな、もう、時すでに遅しやで。
 さよなら童貞神父。
 藤堂さんが別室の方へ、神楽神父を引っ張り込むのを、俺は微笑で眺めたわ。
 惜しいなあ。犯されるのが、俺やったらよかったか。それでも、どうしてもそんな気に、なられへんかったんやもん。だってアキちゃん悲しむやんか。
 それでも惜しいことしたかと、余裕の湧いた心で思い、俺はふと、執務机に伏せられていた写真立てが気になって、俺は藤堂さんがいつも妻子の写真を入れていたそれを、眺めに行った。
 そっと開いて見てみたら、それは、俺の写真やった。
 厳密には写真ではない。アキちゃんが描いた、俺の絵の写真やった。確かにあの絵は、執務室の写真立てには入らへん。それに他には、藤堂さんは俺の写真は持ってない。あの頃にはまだ俺は、写真に写らへんかったからな。
 切なそうに、愛しげに微笑みかけてくる、写真立ての中の自分の顔を、俺ははにかんで見つめた。
 藤堂さん。愛してくれてありがとう。俺とはうまくいかへんかったけど、新しい恋でもしてくれ。いつかお互い幸せになって、別れて良かったって思う日が来るわ。それが運命やった。お互いの幸せに続く、正しい道やったんやって。
 その時、扉の向こうから、耳をつんざくような神父の悲鳴がして、ひいっと思って俺は首をすくめた。激しいなあ、藤堂さん。優しくしたらなあかんで、バージンやねんから。
 それでも悲鳴はしばらく続き、俺は心地よい音楽のように聞こえるその声に、じっと耳を澄ませてた。泣き濡れたような声やった。
 でも、やがて、それに嗚咽に似た喘ぎが混ざり、熱い息を吐く嬌声に変わるのを聞いて、俺はにやりと満面の、悪魔サタンの笑みやった。
 どうやろ、神楽さん。ええやろ、淫行。辛抱たまらんやろ。
 藤堂さんな、ほんまに上手やねん。抱いてもろたことはないけど、それ以外はいろいろされたわ。俺も一晩さんざん泣かされた。愛してようがいまいが、そんなん関係無しに病みつきになるようなさやなあ。あの人の巧さは。
 百戦錬磨の俺でもそうやったんやから、バージンの神父なんか訳ないで。あっと言う間に足腰立たんようになる。脳の随までどろっどろに溶けるわ。
 そして散々搾り取られた後にでも、お前が淫行は悪やっていうんやったら、俺もちょっとは考えてみる。せやけど多分、俺の勝ちやで。お前は今、そういう声で泣いてるわ。
 やめてと泣いてた声が、やめんといてくれって喘ぐ。そんなもんやろ、人なんて。そこから始まる愛もあるやろ。そうやといいな、藤堂さん。できたら幸せになってくれ。
 俺も頑張る。あんたとは別の道で。アキちゃんを追いかけて。
 必死で追っていって、今度こそ、すがり付いてでも頼むことにするわ。
 俺と幸せになってくれ。いつまでも永遠に。俺にはお前の他に、一緒に生きていきたい奴はおらへん。一緒にどこまでも、行き着くところまで行こう、って。
 それでも振られてもうたらな、きっと俺は死ぬ。それでええねん。生きてもしゃあない、アキちゃんのおらんこの世に、何の意味があんの。
 さよなら、藤堂さん。俺もあんたを愛してた。俺が選択しなかった運命の恋人や。
 そう結論すると、もう胸に未練がなかった。俺はやっと、自分の過去から解放された。
 軽くなったその心で、アキちゃんどこやって、俺は追いかけた。
 そうして、どこかへ消えた気配を目を閉じて探るうち、気がつくと俺は蝶の群れに変転していた。真っ黒い羽根の揚羽蝶あげはちょう。金の点が目のように浮かぶ、その漆黒の羽ばたく群れの姿で、神戸の山々から吹き下ろす風に乗って、俺は愛しく光る恋人の白い光の軌跡を追った。
 アキちゃん好きや、どうかもう一度、俺を抱きしめてって、熱く祈りながら。
 きっとその抱擁を与えられたら、俺は溶ける。他の何とも比べものにならないくらいの、深い陶酔に灼かれて。どろどろ溶けてしまうやろ。
 そして再び形を得るとき、俺はもう二度と、アキちゃんから離れない、そんな運命の恋人になっている。
 それを夢見て、蝶の群れはひらひらと舞った。誘うように、恥じらうように。まっすぐ迷うことなく、愛しいアキちゃんを追いかけて。


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