SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(14)

 昼飯前に、虎の信太はやってきた。妖怪ホテルに。ではなく、ヴィラ北野に。
 海道竜太郎を連れて、蔦子さんを三ノ宮に送ってきたという帰り道に。なんでかついでに鳥まで連れてやってきた。
「亨ちゃん。ナイター見たか。阪神勝ったで」
「マジか! 見てへん。知れて幸せ……」
 挨拶よりも先に、そんな耳寄り情報をくれた信太と、俺はホテルのロビーで熱く抱き合った。それにアキちゃんが激しく傾き、鳥は気にせずにこにこしていた。
「ああもう、ほんま首繋がったで。本間先生にホームランばかすか入れられて、いてこまされた時には、もう死んだて思うたけどな、やるよ虎は、まだまだ死んでへんよ」
 信太は絶好調やった。銜え煙草をもくもくさせて、今日も眩しいくらいの赤紫のアロハで、ペイズリーみたいな模様に包まれていた。ほんで勿論、虎みたいな金髪やし、黒革のパンツはいてるし、お貴族様の別荘みたいなヴィラ北野のロビーでは、恐ろしいほど浮いてたわ。
 鳥は鳥で真っ赤っかなアロハ着て、ざばーんみたいな大津波の上でサーフィンしてる人の絵が背中に描かれていた。いったい何着持ってんのやろ。もしかして共有、みたいな気がした。だって何となく、鳥が着てるとデカいんやもん。
 相変わらず仲がよろしいなぁ、みたいな。俺は一瞬でジト目になってた。
 信太、もう知らんしな。うっかり抱き合うてもうたけど、それは阪神勝って嬉しかったからやし。
「先生、俺はまた蔦子さんを二時間後に迎えに行くんです。竜太郎はそっちの車で連れてってやってくれへんか」
 気後れしたふうに立っている、背の低い頭をぐいぐい押し出してきて、信太はにこにこと愛想よくアキちゃんに頼んだ。竜太郎は絵の道具が入ってるらしいでかいカバンをぶら下げ、信太と寛太に挟まれて、守られてるようやったけど、本人は気まずそうで、居心地が悪そうやった。そら悪いわな、ラブラブカップルに挟まれてもうたら。どう考えてもお邪魔やもんな。
「いいけど、その後どうする」
「蔦子さん拾ったら、また戻ってきて、ロビーで待っときますよ。先生に甲子園まで送らせるわけにはいかへん。それに蔦子さんも、ぼんに挨拶しとこか言うてました」
「何しに行ってはるんや、三ノ宮」
「語学学校ですわ。韓国語習ってんねん。ほら、あれやん、ひとりヨン様ブーム」
 めっちゃ可笑しいみたいに、信太は蔦子さんの趣味のことをげらげら笑った。アキちゃんはもちょっと失笑してた。鳥もにこにこ笑ってたけど、笑いながらぽつりと話した。
「ひとりやないよ、兄貴」
「なんで、ひとりやないねん」
 笑いながら、信太は鳥の微笑む顔と、愛しそうに向き合った。
「昨日の昼間、テレビ買うたからな。俺も一緒に見たもん。めちゃめちゃ泣いた」
「嘘、やろ……」
 信太は真顔になり、銜え煙草を落としかけた。
 鳥も進歩したもんや。『冬ソナ』を理解するようになった。めちゃめちゃ泣いたという割に、めちゃめちゃ朗らかな笑みで、寛太はたじろぐ虎を見つめてた。
「あんなん、どこがええねん寛太。ベタやで。くさいくさいドラマやで」
「ヨン様いけてる」
 虎の気持ちは理解せず、寛太はけろりと褒めていた。
「いけてる、って……俺よりいけてんのか!」
 信太はマジで焦ってるっぽかった。
「いや、それは、兄貴のほうがいけてるけど」
「そうやろ? 『冬ソナ』なんか見たらあかん。目の毒や。くさいくさい台詞言うてほしくなったら、どないすんねん。困るやろ?」
 そんなことしたらあかんて、真剣そのものの目で、信太は鳥を優しく叱ってた。相手が意味わからんと思って、適当なことを言うてる顔やった。
「あかんの? ほな見ないけど……」
 寛太は、なんであかんのか悩んでるような顔になり、首を傾げてた。それでも信太に逆らうつもりはないようやった。
 可哀想にな、鳥。いまだに信太の言うなりか。くさいくさい台詞言うてもらえ。言うてほしいんやったら、言うてくれてゴネてやれ。ほんまに、まだまだアホそのものやな。恋の基本が分かってない。言うなりなってたらあかんやないか、ガンガン行っとかんと。
「蔦子さん、よっぽど好きなんやな……」
 未だに唖然とし続けていたらしいアキちゃんが、やっと現実世界に戻ってきて口利いた。
「めちゃめちゃ好きですよ。原語版で観るんやて習い初めて、もう日常会話ならほとんど不自由ないらしいですもん」
「愛の力やな……」
 俺は感心して言った。蔦子さんのどこに、そんな情熱が。冷たい女みたいに見えんのに。ヨン様のためなら韓国語マスターできるぐらい好きなんや。実は案外、情熱的なんか。それもまたアキちゃんくさい。
「飯食っていく? ここのイタリアン美味いらしい」
 俺は鳥と虎を誘った。しきは飯食う必要ないやろけど、こいつら海道家で朝飯食うてたし、食いたいほうかと思って、一応な。それとも二人でどっか行きたいやろか。俺って空気読めへんやつやった?
 それでも竜太郎は、ふたりに帰らんでほしいという顔をしていた。海道家では気の強そうな餓鬼やったけど、見知らぬホテルに連れてこられて、アキちゃんだけならともかく、俺や水煙もいる他人の縄張りに残されていくのは、ちょっと不安らしい。
 実は案外過保護なボンボンなんやないか。もう中一なんやし、水族館ぐらい電車乗って一人で行けって感じやのに、蔦子さんは最初、眼鏡のしきを子守りに付けようとしたし、ここへも結局、信太が車で送ってやってるんや。バスで来い中一。生意気や、ローティーンの分際でイケメンの送迎つきなんて。
 きっと、大事な大事な跡取り息子なんやろう。こいつも一人っ子やしな。
「アキ兄、信太と寛太も一緒に行ったらあかん? 水族館まで……」
 俺をチラ見しつつ、中一はアキちゃんに強請った。
 しきがいなけりゃ丸裸みたいな、そんな気分がするらしい。これは自分のやのうて、おかんの式神やろけど、式は家に憑くもんでもあるらしい。せやから竜太郎にも仕えてる。
「アホか中一。気を利かせろ。このゲロ甘くさいカップルを見てやな、二人っきりにしたろって思わへんのか。ビビることない。俺も水煙も、お前をとって食うたりせえへんわ」
「でも僕、蛇嫌いやねん」
 俺が人の道を諭してやると、竜太郎は不愉快そうに顔をしかめた。なんやとこら。爬虫類なめんな中一。
「蛇は、ええ奴やで、竜太郎」
 にこにこして、寛太は身をかがめ、竜太郎の顔を覗き込んだ。竜太郎はその鳥の、あっさりさっぱりした清潔感のある顔を、じっと気まずそうに見た。
「寛太は信太とふたりで居りたいだけやろ」
「そうや」
 にこにこ答える鳥は容赦なかった。こいつの辞書に気まずいという文字はないんか。あっさり言われて、竜太郎はうぐってなってたわ。
「まあまあ、寛太。昼飯ぐらいお相伴していこ。どうせどっかで食うんやから」
 信太はちょっと嬉しいですという顔で、いかにも余裕があるふうに、鳥さんをたしなめていた。それがあかんねん、お前はな。
「俺らは蔦子さん迎えに行かなあかんねん、竜太郎。飯食うてから須磨まで行ってたら、着いた瞬間にとんぼ返りやで。どうせお前と一緒には居られへん」
「ほんなら、どっちか片方残ってくれればええやんか」
 それでもあくまで気弱そうに、竜太郎は信太に反論していた。
「あかん、それは無理や」
「なんで無理なん。車二台あるんやで。寛太残していってくれればええやん」
「それは無理や。俺が寂しい」
 いやもう照れますわみたいな、くっと呻いた表情で、信太は嬉しそうに答えた。竜太郎はそれに、もう話したないわって思ったみたいで、うげえという顔をしたきり、もう何も反論せえへんかった。
「そもそも何で連れてきたん……」
 俺が訊くと、信太はふはあと煙を吐いた。
「いや、もう、家にひとりで置いといたら心配で心配で。こいつ、誘われたら断らへんのや。嫌やて言うけど、なんて言うて断っていいか分からんらしいわ」
「嫌やって言わせればええやん……」
 俺はアホかと思って、信太に教えてやった。鳥に言うても無駄な気がして。
「嫌やって言うても、にこにこしてるからな。嫌よ嫌よも好きのうち、みたいに見えてしまうんやろな」
 いやもう、ほんまに困りますみたいな苦笑して、信太は答えた。
 鳥さん。まだまだ課題だらけやな。人並みまで何マイルあるんやろ。確かに寛太は、目の前でそんな話されてても、平気でにこにこ笑っていた。
「ここ、変なんいっぱい居るな」
 そしてアキちゃんにむちゃくちゃ馴れ馴れしく話しかけていた。
「先生、髪の毛ついてる」
 そして、アキちゃんの襟の内側についてた抜け毛を、何ら気にせず襟を開かせて平気でとった。アキちゃんはそれに、眉寄せて痛恨の表情やった。何がつらいねん、アキちゃん。何を我慢したんや。
「近いねんお前はちょっと……他人との距離感がなってない」
「そうやろか。先生なんか、いい匂いする」
 近寄りすぎてアキちゃんの秋津家フェロモンにあてられたんか、鳥はうっとり匂いを嗅ぐ顔で、アキちゃんの首に鼻先を近づけた。
「くんくんするな、寛太。ハマってもうたらどないすんねん」
 血相変えて、信太がそれを引き戻してた。やっぱりこいつらもしきしきか。アキちゃんが振りまく甘露に触れれば、それなりに酔うんや。思わぬ伏兵。気つけなあかん。
 信太はその場で鳥に説教していた。
 他人の抜け毛なんかとってやらんでええねん。そんなんするから誤解されるんや、お前は。それに力のある巫覡ふげきには迂闊に近寄るな。強い式神しきがみもあかん。できたら俺以外の男には一切近づくな、女もあかん、お前は可愛いねんからと、そんな切々とした力説やった。
「アキ兄……僕、寂しいわ。僕も式神欲しい」
 どっちに混ざろうかっていう、宙ぶらりんの位置に出てきて、竜太郎は後ろでくどくど話してる、虎と鳥とのバカップルを振り返ってた。
「それもええけど、人間の友達作れ」
 苦笑して、アキちゃんは竜太郎にそう諭した。そんなん言うて、自分も友達なんかおらんくせにやで。別におらんでええやん、人間のお友達なんか。
「うん。でも。難しい。皆分かってくれへんもん、占いなんて、そんなもん迷信やって馬鹿にしてんのとちゃうか」
 竜太郎はどうも、悩んでるらしいことを言うた。たぶん蔦子さんがおらんからやろう。
 アキちゃんはさらに苦笑して、竜太郎の頭を撫でるように抱いた。可愛いセンサーに触れたらしい。
「飯行こか」
 中一のお悩み相談には特に答えず、アキちゃんはリストランテのあるほうへ足を向けた。竜太郎は背を押すアキちゃんの手が、ちょっと嬉しいという顔やった。
 邪魔やなあ、中一。お前が挟まってるせいで、俺はアキちゃんと手繋がれへんやないか。反対の手には水煙を握ってる。しかも抜き身のやで。危のうて近寄られへんやないか。
 まさか宇宙人のまま抱えていく訳にはいかず、とりあえず剣に戻ったものの、水煙には鞘がなかった。なくした訳やのうて、破戒神父・神楽遙が持ち逃げしたまんまなんやって。
 予想通りで良かったけど、あいつ案の定、藤堂さんにハマりよったな。ほんまムカつく。あいつに、いっぺんじっくり聞かなあかん。藤堂さんどんなんやったか。せめてお話だけでも。
 リストランテは二階にあって、中庭を見下ろす気持ちのいい日当たりの店やった。ほどほどに夏の陽が入るよう、緑の日除けシェードがかけてあり、季節が進めば開放するんやろと思えるようなガラスの折れ戸になっている壁際にある席に、俺たちは案内された。
 ギャルソンエプロンした店員は長身の美青年で、藤堂さん絶対ルックスで選んでると思えたけど、それでも接客マナーは完璧やった。くそう。心地よいはずのイケメン店員がやけに不愉快や。
 信太は何でも食らうらしいが、鳥と竜太郎は偏食まみれやった。鳥はいわゆる生臭物なまぐさものは食われへんらしい。血の流れてる生き物を殺生して作った飯は喉を通らんらしい。それはどうも、こいつが神獣であることと関係あるらしい。
 その一方で、ただの人間の癖に、竜太郎は好き嫌いが多かった。魚は食えへん。貝も嫌いや。オリーブ食われへんて、次から次へ、食えへんもんが挙がってきて、ほんなら何が食えるねんて感じやった。
「お前は……卵かけご飯でもモソモソ食うとけ」
 俺は呆れて、思わずそうツッコミ入れてた。そしたら竜太郎のやつ、マジで怒ってたわ。
「嫌や! そんなん! お前、アキ兄のしきなんやろ。僕は血筋の親類やぞ。生意気な口利くな!」
 キイキイ叫んだちびっ子にむかついて、俺は向かいの席にいた中一を、長い長いおみ足でテーブル越しに蹴倒して、椅子ごとこかしてやった。
「痛い!」
 そら痛いやろ。とっさに信太が椅子は止めたが、タッチの差で間に合わず、竜太郎はちょっぴり頭をゴツンとやってた。それでも軽く当たった程度やで。
「なにをすんねん、この蛇め!」
 竜太郎は顔を真っ赤にして怒ってた。
「やめてくれ亨ちゃん。うちの跡取りなんやで。お前から見ても分家のぼんやろ。何でそんなことができるんや」
 信太はちょっと険しい顔やった。怖。亨ちゃん、ちょっとやりすぎたかな。
「フリーやねん、今は」
 ぷんぷんテーブルに戻ってきた竜太郎に、しゅーっと威嚇をしてやって、俺は信太に答えてた。
「ふられたんか、先生に。いったい何をやってもうたんや」
「浮気したんや。占いに出てた。やっぱり当たったんや!」
 水をぐびぐび飲みながら、竜太郎はテーブルにかじりつき、俺とは目を合わせずに罵っていた。
「振ったんやない。解放したんや。その話はええから。何を食うんや、とっとと決めろ」
 呆れ果てたという顔のアキちゃんにガミガミ言われ、一同はとっとと決めた。
 水煙はどうせ何も食えへん。剣やしな。アキちゃんの隣の椅子で、のんびりおくつろぎ。
 鳥はどうせサラダしか食わへん。草があれば幸せ。
 竜太郎はお子ちゃまやから、ミートソース食っとけばよし。ボロネーゼでよし。
 そして俺とアキちゃんと虎で、めちゃめちゃ食うたわ。まるでチーム貪欲。オードブルに生ハムとメロン食うて、モツァレラチーズとトマト食うて、ラタトゥイユ食うて、イタリアンオムレツ食うて、ミネストローネ食うて、手長海老のスパゲティ食うて、ボンゴレ・ビアンコ食うて、ジェノベーゼ食うて、ペペロンチーネ食うて、ピッツァ・マルゲリータ食うて、ピッツァ・ゴルゴンゾーラ食うて、ピッツァ・ポモドーロ食うて、〆にポルチーニ茸のチーズリゾット食うた。
 美味いわあ、ここの飯。いくらでも入りすぎ。
「デザートいっとく? デザート。ティラミスとジェラートいっとく? 桃のタルトもいっとく?」
「食い過ぎやろ、お前……」
 デザートメニューを眺める俺に、アキちゃんが指摘してきた。いやいや、お前もけっこう食うてたよ。
「焼き肉食いたいなあ……」
 信太が突然そう言うた。アキちゃんはそれに、びくっとしてた。
「まだ食えんのか」
「三ノ宮のガード下に、ものすご美味い焼き肉屋が店出しとうで。『平和』いうんですけど。元町まで足伸ばして専門店で豚足食うてもいい。この後、行こか」
 信太は本気らしい口調で鳥さんを飯デートに誘っていた。
「何を食うねん、その店で。鳥さんは何を食うんや」
 俺はテーブルを叩いてまで信太に力説してやった。ベジタリアンを焼き肉屋に連れて行くやつがあるかやで。
「ごはん」
 にこにこして、鳥さんは答えてくれた。
 俺はちょっと泣きそうなったわ。ごはんて、白飯のことか?
 それ、卵かけご飯以下やんか? 卵食われへんのやろし。可哀想やないんか。
「お前、牛乳平気なん?」
「わからへん。飲んだことない。牛死んでへん?」
「死んでへん。牛乳絞ったぐらいで死ぬ牛なんかおるか。ティラミス食え」
 俺は可哀想な鳥さんにも美味いモンを食わせてやろうと思った。めちゃめちゃ美味いでティラミス。アキちゃんはそんなもん女子供の食いモンやって言うけど、ティラミスは元々、男の食うもんなんやで。
 昔、イタリアの遊郭で遊ぶ客たちが、一発やる前の強壮剤として食うてたもんや。せやからめちゃめちゃ男らしい食いモンなんやで。鳥さんも精つけろ。草とか白ゴハン食うてる場合やない。
「やめといて、亨ちゃん。具合悪なったら困るしな。精進ものだけにしといて」
 信太がいかにも心配そうに言うので、俺はそれにも泣いた。
 ええなあ、鳥さんは。大事にしてもろて。
 そして泣く泣く鳥さんに、メロンのジェラートを食わせてやった。それなら草みたいなもんやろ。砂糖かてもとは草や。サトウキビかコーンシロップってとこやから。
「美味い」
 にこにこして、鳥さんはジェラートを食うていた。初めて食うたらしいわ。煙草吸うて酒飲むくせに、ジェラート初めてなんやで。
「美味いんか、寛太」
「めちゃめちゃ美味い」
 びっくりしている信太のほうを見もせずに、鳥さんはうっとりとメロン色のジェラートを食い続けてた。
「そうかあ……また食おか」
 信太はうっとりとその横顔を眺めてた。溶けてるから虎。バターなりかけてるから、また。
 神様、ジェラート食えるんや。
 俺もぼんやりそれを見て、そして、ぼんやり気がついた。
 もしかして、水煙て、ジェラート食えるんちゃうん。
 ルームサービスで朝食をとってやって、オムレツとかソーセージ食わせようとしたら、それは無理やって吐きそうな顔してな、結局食えたんが果物だけやってん。あいつも神様やからさ、もしかして精進モノしか食えへんのかもしれへんで。
 ということは、鳥さんが食えるもんは、水煙も食えんのかもしれへんやん。
 思い立ったら、善は急げと言うからにはと、俺はテーブルの真ん中に置かれてた水のピッチャーを取った。そしてそのままアキちゃんの膝上を越えて、端の席の椅子に置かれてた水煙様サーベルバージョンに、一気に氷水をぶちまけてやった。
 うわあって、びっくりしたみたいな悲鳴とともに、水煙はドロンと現れた。うわあって、海道家トリオもびっくりしてた。特に竜太郎なんか、また椅子ごとコケそうになってたわ。
 まあ。びっくりするかなあ。青い宇宙人が突然出てきたら。俺はもう、見慣れてもうたけど。
 アキちゃんも、見慣れてるはずやのに、めっちゃびっくりしてた。なんでか言うたら、水煙は裸やって思ったらしいねん。
 まあ。そうかなあ。でも、いっつもそうやん。服着てへんよ。宇宙人やしええやん。隠すようなもん何もついてないし。
 それでもアキちゃんは大あわてで、Tシャツの上に重ねてた半袖のシャツ脱いで、水煙の肩を包んでやっていた。優しいなあ、ジュニアは……。
「亨っ。何をやってんのやお前は!!」
 めっちゃ怒った声で言われてもうたよ、俺は。
「つ……冷たい……。水、これっぽっちで、ええんや……」
 氷水浴びたんが、よっぽど効いてもうたんか、水煙はがたがた震えつつ、そう言うた。
 そういや、そうやな。どぶんて水に浸けなあかん訳やないんや。ダメもとで、やってみたんやけど、ピッチャー一杯でも人型に変身できたんやしな。ずっと水に浸かってる必要もないんや。
「水煙にも、ジェラート食わしたろと思て」
「食わんでええねん、もうええやないか」
 頼み込む口調で俺に言い、アキちゃんは水煙をかばってやってた。まあまあ、そう言わず。何事も挑戦なんやから。鳥さんも美味いて言うてんのやから。
「食うてみ、水煙。不死鳥が美味いて食うてるんやし、お前も食えるって」
 俺が自分用にオーダーしてあった桃のジェラートを、金のスプーンですくって、ずいずいっと前に持っていってやると、水煙はドン引きの顔をした。
「美味いで」
 メロン・ジェラートのスプーンをくわえたまま、鳥さんが水煙にすすめた。宇宙人にもう慣れてる。早ッ。
 そう言われて、ちょっと食うてみたくなったんか。桃の匂いが美味そうやったんか。水煙は、ごくりと唾を飲むような仕草をして、見開いた黒い目でアキちゃんを見て、それからスプーンを見た。
「自分で、食うから……」
 そう言うて、水煙は俺の手からスプーンをやんわり取った。そして、ものすご身構えたような険しい表情をして、桃ジェラートのスプーンを銜えた。
 アキちゃんはそれを、ものすごおののいた顔して眺めてた。まるで水煙が爆発するかみたいな顔やった。
 ぺろりとスプーンを舐めてから出して、水煙はため息をついた。
「美味いわ」
「ほらな」
 当てずっぽうやった割に、俺は自信満々みたいに言うといた。
 水煙がもっと食いたそうに俺を見たんで、ジェラートは譲ってやったわ。だって他にもティラミス注文してたもん。選べへんのですよ。いっぱい食いたいんや俺は。
「あ……アキ兄……この、青いの、なに?」
 未だにビビったままの竜太郎は、未だにミートソースを食うていた。食うのが遅い。セロリが入ってるとか言うて残そうとしたのを、アキちゃんが全部食えって叱ったもんで、中一はしおしおになって、それでも頑張って食うてたんや。
「秋津の伝家の宝刀や。水煙。今は俺の剣」
 アキちゃんはコーヒー飲みつつ答えた。何となく気まずそうやった。
「アキ兄が持ってた、あの刀か」
 納得したように、竜太郎は答えた。剣が宇宙人に化けても、それに即座に納得できるあたり、さすがは同業者のうちの子か。
しきが変転すんの、初めて見たわ……」
 竜太郎は興奮したんか、ちょっとカタカタ震えが来てた。
「信太も、虎になれんの?」
 真顔で訊いてくる竜太郎に、信太はエスプレッソ飲みながら、苦笑して頷いていた。今ここで虎になれって言われるんとちゃうかって、困ってるような顔やった。
「寛太は不死鳥になれんの?」
 びっくりした声で訊かれ、鳥さんは首を捻っていた。
「わからへん。なったことない。どうやって変転すんの? 水かけて戻すの?」
 乾燥ワカメかお前は。
「いや、それは、人それぞれやないか。別に何もなしでも、自分の意志で変転できるやつもおるし……」
 信太は、煙草の箱を弄びつつ、吸いたいなーという目でアキちゃんを見たが、意図的に無視されていた。
「俺も兄貴が虎になったとこ見たことないわ」
 目を瞬いて、鳥さんは信太をじっと見つめた。それにも信太は苦笑していた。
「ここでは無理やでえ。レストランにいきなり虎居たら、他のお客さん引いてまうやんか。皆、お行儀良く人型しとうのやしな、やめとこ。また今度。家でこっそり見せてやるから」
 二人っきりでな、って、そんなニュアンスのある声で、信太は鳥さんに約束してた。
 すげえ虎プレイまじすげえ。俺ちょっと空想しすぎ?
 それはほんまに凄いと思うわ。まさに虎並み。もうね、百パーセント虎やからね。食われるう、みたいなね。もうどうしようか。亨ちゃん、ちょっと落ち着かなあかん。
 ああ、ほんまに世の中広い。ええなあ鳥さん。若干羨ましい。
「蛇も蛇になれるんやもんなあ?」
 鳥さんは悩んだような顔で俺に訊いた。
「そら、なれるよ。蛇が蛇になられへんかったら変やろ」
「すごいなあ、皆」
 普通やから。たぶん普通やねん。式神が本性を顕すのは。
 でも俺も、長いこと人型で過ごしてて、どうやって変転すんのか忘れがちやった。
 寛太もわからへんのやろ。どうやって不死鳥に戻るか。どうやって、って、言葉で説明しにくい。コツがあるんやと思うけどやな。強いて言うならイメージかな。自分の本性を強くはっきり思い描くと、実際の姿もそれと入れ替わってる。変身しちゃうぞみたいな、そんな強い意志があれば、それでええんやないか。
「アキちゃんに、絵描いてもろたらええんやないか」
 いっぺんも変転したことないという鳥さんも、信太が拾ってきた時には鳥の格好してたっていう話やんか。それに海道家の床板に映るこいつの足は、鳥の足やったで。それでも店のガラスにうつる寛太のシルエットは、どう見ても見たまんまの人の姿やった。
 たぶん何らかの霊力がある鏡でないとあかんのやろ。あの家は、蔦子さんの支配下にあって、何かそういう力があったんやないか。
「絵って、見たことないで、こいつが不死鳥になったところなんか」
 アキちゃんは難しい顔して俺を止めてた。
「適当でええねん。どうせ本人も憶えてないんやし。だいたい不死鳥みたいなん描いてやったらええんやないか?」
「変なんにせんといてくれ」
 ぼけっとしてる鳥さんに代わって、信太のほうが焦ってた。
「お前、見たことあんねんから、アキちゃんに話して、それを描いてもらえばええやん」
 そうかなあって、疑わしそうな顔をして、信太はまだ心配してた。むっ。こいつ。うちのツレの画力を疑ってるな。絵、めちゃめちゃ上手いねんで。知らんやろ。
「いけるかもしれへんで、ジュニア」
 ジェラート舐めつつ、水煙が囁くような小声でアキちゃんに話してた。
「アキちゃんは、そうやって式神を捕まえていた。超自然の神威を見つけると、それに人型に近い姿を与えるために、絵を描いてやっていた」
 そういえば、おとん大明神も絵師やったらしいで。俺は見たことないけど、アキちゃんのおかんがそう言うてた。アキちゃんのおとんが描いた絵が、今でも秋津家の蔵にあるらしいけど、それはおかんが封印していて見せてくれへん。
「舞も、そうやで。お前のおとんの作品や」
 水煙に教えられ、アキちゃんはブッて吹いてた。意外というか、ショックやったんやろ。自分とおとんの萌える路線が同じすぎて。おかん路線やないか。そんなん火を見るより明らかや。
「お前もそうなんか、水煙」
 アキちゃんはなんでか慌てて訊いてた。水煙はそれに首を横に振っていた。
「いいや。俺は何となくこの姿やねん。自然に人型に近づくやつも居るんや。人と暮らすと似てくるし、人に近づこうとする。大崎茂の狐なんかその類やないか」
 水煙はそれ以上の例を挙げはせえへんかったけど、俺のことをじっと見た。
 俺もそうやろ。その類やで。元は蛇なのが本性なんやったら、今のこの人の姿は後付けで、人の世界で生きるために、自分の力で作り上げたイメージやろう。
 それに、あいつもそうやろ。勝呂瑞希。あれも元々は、ただの犬やったんやから。白いマルチーズやで。それがあんなんなってもうて。化けまくったもんやで。
「秋尾さんか……あの人、ドロンドロン化けられるみたいやけどな、人型の姿も、何個も持てるもんなんか?」
 アキちゃんは考え込むような顔やった。何を考えてんのか分からんけども、不死鳥どんなんやろって思ってる訳ないことは確かやで。
「持てる。能力しだいやけど。お前のおとんのしきには、むじながおって、アキちゃんはそいつに、十個も二十個も違う姿を与えてた。秋尾と張り合わせてたんや。大崎茂と仲が悪うてな」
 皮肉に笑って、水煙はそれを馬鹿にしてるような口ぶりやった。
 はあ。アキちゃんのおとんにも、そんな餓鬼くさい時代があったんか。それともそれは、げきげきとの悪い遊びみたいなもんなんやろか。狐とむじなをドロンドロン化けさせて、俺のほうが凄いみたいなのはさ。
「変転が得意なやつも居るんや。個性やな。俺みたいに苦手なのも居るしな」
 水煙が変転するには水が要る。剣の姿で安定してて、自分の意志だけでは人型になられへんらしい。それも、いかにも人外臭い姿やからな、人に化けんのが上手いとはお世辞にも言われへん。
 アキちゃんはちょっとの間、真面目に考えてる顔やった。
「絵があっても無理か?」
 アキちゃんに訊かれて、水煙はきょとんとしていた。
「絵とは?」
「お前のその今の姿もええとは思うけど、もし俺がお前の気に入るような別の姿の絵を描けば、それに変転できんのか?」
 問われつつ、水煙は大きな黒い目を、ゆっくりと瞬かせていた。
 アキちゃんにはなんか、熱意があったで。やる気まんまんやで。きっと描く気やで。
 俺はそれに、ああもう、なんという奴やと呆れてた。でも諦めてたで。だってアキちゃんは、描くと言うたら描く男。思いついたら、描かずにおられへん。それを止めろというのは、息するなと言うのと同じやからな。死んでまう。
 やめといてて頼んでも、なんでやって言うやろ。俺はただ、絵描いただけやないかって。
 悪い子ぉやでアキちゃんは。おかんもそう言うてたで。
「できるかも、しれへんけど、約束はできへん。試したことない。まあ、またいずれ、そんな暇ができたらな」
 今はそんな場合ではない。水煙は言外にそう言うてた。
 さすがや水煙兄さん。慎み深い。俺なら飛びつくけどな。美人に描いてくれって。
 せやけど確かに、そんなことやってる場合やないわ。竜太郎を連れて水族館に行かなあかん。信太と寛太をラブラブデートに追いだして。竜太郎を拉致らなあかんのや。
「不死鳥、描いてほしいんか?」
 お前と口利くのは気まずいわと書いてある顔で、アキちゃんは鳥さんに訊いていた。
「どうでもええわ」
 にっこりして、鳥さんは正直に答えてた。アキちゃんはそれに、むかっと来てた。
「どうでもええんか。ほんなら描かへんで。俺も暇やないからな。描いてくれて言うんやなかったら描かへん」
「どうしたらええの、兄貴。先生こう言うてるけど」
 お前に訊いとんのやろというアキちゃんを無視して、鳥さんは信太に訊いていた。
「せっかくやから、描いといてもらえ。先生にそんな時間がある時に」
 苦笑して虎は、火のついてない煙草をくわえた。それに火をやろうと手を伸ばしてきた、炎を操れる鳥の指を途中で止めて、信太は禁煙の顔で首を横に振り、そのまま寛太の手を握ってた。
「俺もお前が変転したとこ、また見たいしな」
 にこにこしてる信太は、うっとり惚れてる目をして鳥を見つめた。
 見つめ合う鳥と虎から、アキちゃんはもう見るのも嫌やという顔して目を背けてた。
 なんでそんなに嫌やねん。ほんまにもう、どうしようもない。分かるねん、鳥が好み系なんやろ。だからってそんな、欲しい欲しいみたいなつらせんでもええやん。
 それでも、それは巫覡ふげきどもの本能らしいわ。
 蔦子さんも、俺のこと、欲しいわあみたいな目で見てた。もしも海道家に到着した日に、アキちゃんが蔦子さんの口説きに負けて、俺を預けていってたら、きっと俺はあのまま蔦子さんの配下に従えられてたんやろう。もう要らんて言うだけで契約が切れるんやったら、預かってくれと頼めば所有権が移る。そんな感じなんやないか。
 欲しい欲しい俺にくれやで。花いちもんめの世界やな。あの子が欲しい、あの子が欲しいや。
 なんと中一も、すでに色気づいてきてんのか、めちゃくちゃ物欲しそうに水煙を見てた。そういやしきが欲しいって、ついさっき言うてたばかりや。生意気やでえ。本家の伝家の宝刀を、自分に寄越せて言うんやったら。水煙、嫌やて言うやろう。アキちゃん好きやで離れられへん。そういう奴なんやから。
 舐めたらあかんで、水煙を。こいつは見た目は綺麗でも、触れば切れる白刃なんや。
 じっと魅入られた目で見る中一を、水煙はじっと見つめ返してた。ジェラート食ってる白い舌が、ちょっとばかりエロくさく、我が意を得たりと勝ち誇り、スプーンをぺろりと舐めた。
「そろそろ行こか、ジュニア。服ありがとう。また剣に戻るわ」
 羽織らせてもらってたアキちゃんのシャツを脱いで返し、水煙は、濡れてもうたかなと囁く小声で詫びていた。シャツは濡れたやろけど、すぐ乾くやろ。夏やしな。
「海道竜太郎」
 アキちゃんの腕をとり、その手に戻るという気配で水煙は、じっと竜太郎を見つめた。
「悪いけど、太刀持ちしてくれへんか。うちのぼんは運転せなあかんしな。お前も秋津の分家の子やから、俺に触れるやろ。シートまで運んで、お前の隣に乗せてくれ。俺は自分じゃ歩かれへんのや」
 にこにこ話す水煙に、竜太郎はびっくりしていた。アキちゃんもちょっと、びっくりしてたで。水煙がアキちゃん以外に自分を運ばせるのは、未だかつてないことや。俺には長らく、触らせもせえへんかったしな。それに水煙はアキちゃんの剣なんやから。
 まさか竜太郎に鞍替えするつもりやないやろなって、アキちゃんは心配したんかな。ちょっと顔色悪かったで。
 でも、もちろんそうやない。水煙は結局、アキちゃん命。可哀想やけど中一は、式神欲しさに付け込まれている。
 早く大人になりたい、可愛いぼんやなあって、そんな目をして見つめ、身を任せるけどええかって誘う。初心うぶで奥手やと思ってたけど、水煙もなかなかえげつない。好きでない相手には、案外何でも出来る奴らしい。
 するっと剣の形に引き込まれるように、また抜き身のサーベルに戻った水煙を、竜太郎は席から立って、恐る恐る眺めにやってきた。
「持ってもええの、アキ兄?」
「ええんやないか。こいつがそうしろ言うてんのやから」
 振られたわあ、ていう憂い顔で、アキちゃんは竜太郎に許した。結局、剣やねん。アキちゃんにとって、剣のときの水煙は剣で、別に親戚の子が持ってみたいというんやったら、ケチることはない。そういう感覚らしい。
 でもこれが、人型の時やったら触らせへんで。俺が信太と抱き合うと痛いって顔をするのと同じで、アキちゃんは水煙にも執着してる。手でも握ろうもんなら怖い顔して咎めるやろう。それがつかなら平気やねん。ただしちょっと、横目にちらりと竜太郎を見たけどな。
「軽い……」
 嬉しそうに、立てて構えた剣を見上げて、竜太郎は感想を述べた。うっすら笑って、ちょっと照れたような顔やった。
「実体がないねん。せやから軽い時は軽い」
「重いときもあんの?」
 不思議そうにアキちゃんを見て、竜太郎はいかにも、親戚の兄ちゃんが持ってるすごい玩具おもちゃを貸してもらった又従兄弟の餓鬼の顔やったわ。
 せやけど水煙は玩具おもちゃやないで。ほんまもんの神剣や。
「あるよ。鬼を斬るときには重い」
 水煙の白く輝く刀身を見て、アキちゃんは教えてやってた。
 きらきらしてる水煙の刀身からは、アキちゃんがそれを振るう時のような白いもやは出てへんかった。それが証拠や。水煙は燃えてへん。アキちゃんでないと。
「鬼斬る剣なの?」
 びっくりした顔をして、竜太郎はアキちゃんを見た。
「そうや。気をつけろ。人は斬れへんけど、しきは怪我するかもしれへん。こいつら鬼の一種やからな」
 アキちゃんが真面目に脅す口調で言うと、うっふっふと信太が可笑しそうに笑った。
「怖い怖い、殺されるう」
 いかにも吸いたそうな火のない煙草を指にはさみ、信太はエスプレッソを飲み干した。
「行こか、寛太。三ノ宮行って、蔦子さんの出待ちしてよ」
 鳥さんの手を引いて、信太は席から立った。
「ごちそうさまでした」
 にこにこ礼を言う虎に、アキちゃんはちょっと呆れ顔をした。
「俺のおごりなんや」
「そらそうやわ先生。本家筋なんやから」
 当たり前やろという笑う口調で答え、信太はまだぼうっと水煙を見上げてる竜太郎の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ほんなら分家のぼん、俺は行くけど、気をつけろよ。お前もちょびっとやけど龍の血が入っとうからな。案外、ばっさり斬れるかもしれへんぞ」
 こんこんと、指先で水煙の刀身をつつき、信太は立ち去る気配を見せた。
 それに手を引かれ、鳥さんも出ていったけど、ちょっと心配そうに竜太郎を見た。それでも店の入り口あたりで、信太に煙草の火を頼まれて、それに応じてやってから、やっと待望の一息をふかした虎が、次はキスをと肩を抱くのに絆されて、何を心配したんか忘れてもうたらしかった。
 どこでも気にせずいちゃついてるんや。信太は貪るようなキスしてた。誰憚らず舌絡めてる虎と鳥とを、通りすがりに見る客もいたけど、どうせ人でなしと巫覡ふげきの類や。邪魔やなあって見るだけで、ビビったりせえへん。
 やがて納得したんか、信太は鳥の肩を抱いて戸口から姿を消した。
 後には本家の面々と、消えた式神を物欲しそうに眺めてる、可哀想な中一が居るだけや。
「羨ましいんか……」
 なんとなく苦い声で、アキちゃんが竜太郎に訊いた。竜太郎は照れて、びくっとしてたわ。
「あんなん変なんやで」
 諭す口調でアキちゃんは言うけど、自分かてやってるやんか。今朝も中庭のガーデンテラスでキスしたら、逃げんと許してくれてたし。人が見てなきゃ、めちゃめちゃやるやん。
 まったく、どの口でそれを言うかやで。
「変やないもん。信太は寛太が好きなんや。アキ兄かてするやろ、その蛇と」
 竜太郎にまでそう突っ込まれ、アキちゃんはうぐっていう顔をした。反論できへんな。
「水煙とも、すんの……?」
 さすが中一。めっちゃ気まずい話題を振ったで。
 剣を眺めて、空想する目をした竜太郎に、アキちゃんはあっさり敗北してた。
「行こか……」
 伝票とって、アキちゃんはそれに部屋番号とサインを書き込んだ。お会計は部屋付けで。
 頭痛いわみたいに眉間を押さえるアキちゃんに促され、俺も席を立った。
 水煙はほんまに、竜太郎に自分を運ばせるつもりみたいやった。中一はちょっと誇らしげに、抜き身の剣を提げて持ち、踊るような浮き立った足取りで、俺とアキちゃんについてきた。
 画材が入った荷物のほうは、竜太郎が糞生意気にも俺に持てとほざいたので、アキちゃんが持ってくれた。優しいねえ。
 黒いナイロン張りのお絵かきバッグを歩きながら覗いてみて、アキちゃんは、水彩かと言うた。
「描いてない。何年ぶりやろ」
「アキ兄のぶんの紙も持ってきたし、いっしょに描いてな」
 なんで俺がと、アキちゃんは言わへんかった。たぶん絵描きたかったんやろ。海の絵描きたい言うてたし。ちょっと道場に行くつもりで家を出て、それからずっと出ずっぱりやから、毎日なにかは絵描いてたアキちゃんが、これでもう三日も筆を持ってない。そろそろ禁断症状や。
 アキちゃんはほんまに絵が好きな子でな、家でも学校でも絵を描いてる。素描をやるためのクロッキー帳が家のあっちこっちにあって、ペン立てに削った鉛筆がいっぱい立ててある。それで思いついた時にいろいろ描いてる。そんな画帳があっと言う間に絵でいっぱいになって、アキちゃんはそれを焼き捨てる。
 昔は時々実家に持って帰って、処分してもらってたらしいけど、最近はいろいろあって、実家の敷居が高いらしい。大学の焼却炉で焼いてるわ。
 苑先生、それ見て泣いてはる。絵が欲しいんやって。アキちゃんの。あの人もちょっと妖怪化してきてんのとちゃうか。怨霊やった時のトミ子が、絵欲しいて言うてたやん。実を言うたら俺もアキちゃんの絵が欲しい。でも敢えて強請るまでもなく、一緒に住んでんねんから、特に貰う必要もないかと、ときどき眺めて満足してんねん。
 しかし外道に限らず、アキちゃんの絵が欲しい奴は多いらしい。大崎先生かてそうやん。あの人、態度でかい爺やけども、結局アキちゃんのファンなんやんか。絵が欲しいんや。描いたら全部持ってこい、買うてやるからって、むっちゃ執着してるもん。
 苑先生もアキちゃんのファンやねん。それで絵が欲しい。
 よもや藤堂さんまで絵を強請るとは。どないなっとんねん、あのおっさんの神経は。恥ずかしないんか。自分が負けた恋敵の若造に絵なんか強請って。ほんまにもう。
 他にもアキちゃんの絵のファンは一杯おるわ。勝呂瑞希もある意味そうやろ。あいつはアキちゃんの絵を見て惚れたて言うてたし。当のそいつを描いたとおぼしき犬の絵も、祇園の夜の蝶だかなんかが、有り金はたいて必死で買っていったって、画商西森言うてたやんか。
 それが今度は鳥さんまでもが、絵描いてくれってご依頼なんやし。忙しいなあ、アキちゃんも。デビュー前からファンだらけ。絵描きとしては、きっと安泰やのにな。
 それが死の予言やなんて。到底受け入れがたい。
 俺はアキちゃんを無事に大学卒業させて、ちゃんと絵描きにしてやりたい。きっと楽しい人生なんやで。だって毎日好きな絵を描いて、生きていけるんやから。
 水煙は、こいつは秋津の跡取りと、アキちゃんをげきとして育てるつもりでおるんやろけど、俺は正直、それはもうどうでもええわ。アキちゃんが幸せやったら、それでいい。別にただの絵描きでええねん。きっと、それ一本で身の立つような男やろ。
 そういう気がする。イルカの絵描く言うて、輪くぐりしてる海のほ乳類のショーを見る石段で、ぼけっと海の絵描いてるアキちゃんを眺めると、むちゃくちゃ幸せそうやもん。
 それに比べて竜太郎と来たら、びっくりするくらい絵が下手や。ほんまに血が繋がってんのか、この二人は。信じられへん。見せたいわ、皆にも、竜太郎が描いたイルカの絵。
 わざわざ現物見ながら描く意味あるんか。意味のわからん絵やった。これイルカ? どれがイルカ? 魚? アシカ? オットセイ? お前ほんまに見て描いたんか。アキちゃんが寝ながら描いた絵のほうが数段上手い。小学生かてもっと上手やで。
「アキ兄……ぜんぜん描かれへんのやけど」
 ぐったりと画板に項垂れて、竜太郎はギブアップした。
 それがええわ。もうやめとけ。白紙で出したほうが点数もらえる絵やわ。
「なに言うてんねん。ちゃんと描け。宿題なんやろ」
 スタジアムみたいに段々と高くなっていく、すり鉢状の石段の席の、一番上に座ってるアキちゃんは、イルカやのうて横の海を見ていた。俺はその隣で、アキちゃんが描いている海を見ていた。
 水彩画描いてるのを見たのは初めてやったけど、上手いわあ。魔法みたい。下書き無しで、アキちゃんはさらさら描いてた。まさに午後の神戸の海の色やった。青また青のグラデーション。きらきら光る波。水平線の雲。ゆっくりと往く船と海鳥。
 それは目の前にある海やったけど、単にそれを描いたわけやない。そこにはないものも絵の中にあった。たぶんアキちゃんは、自分の中にあるイメージを絵にしてるんやろ。海を描いてる。でも、自分の中から出てくるもんを描いてるんや。
「アキちゃん。中一ちょっと助けてやったら。ほんまひどいで。いっぺん見てみ。ほんまひどい。笑うてまうくらい凄い」
 自分の絵に夢中になってて、竜太郎の面倒みてへんアキちゃんに、俺は忠告しておいた。
「うんうん。絵なんか教えられへん。適当に描けばええねん」
 上の空みたいに、アキちゃんは答えた。薄情やった。絵描いてる時に、こいつに何言うても無駄。聞いてへんし。邪魔やって思われるし。
「なあ。何しに来たんか分からんようなるで。絶対に完成せえへん。竜太郎のあの絵は。今描いてるその絵をくれてやるつもりでないんなら、ちょっとくらいアドバイスしたほうがいい」
「お前が行け」
 筆を洗いながら、アキちゃんはきっぱりとそう命じてきた。
 でももう俺は聞かへんで。お前のしきやないからな。命令に服従する理由がないから。呪縛されてんのやないで。俺はフリーやねん。自由な亨ちゃんなんやで。
 せやのになんで俺は、大人しく石段降りて竜太郎のほうへ行くんやろ。操られてるんやない。そうやないけど、他にすることもないしな。アキちゃん偉そうやねん。我が儘やしな。やれ言われたら、やらなあかんかなみたいな気になるねん。
 同じやないか? 式神やってたときと、何か違うか?
 めちゃめちゃパシらされてるやん。
「竜太郎。お前ちょっと絵が下手すぎへんか」
 後ろに立った俺に、竜太郎はびくっと起きた。その横に、水煙が横たえられていた。
「見んといて!」
 体で絵を隠す気の毒な中一に、俺は哀れむ目を細めた。
「見たないわ、そんな下手くそな絵。でも見えてもうたんや、俺は目がええねん。あんまり下手で吹いてもうてはな出そうなったわ」
「うるさい。言わんといて!」
 泣きそうなって、中一はめそめそ言うてた。
「諦めろ、もう。人にはできることと、できへんことがある。お前は未来予知とかデイ・トレードはできても、イルカの絵は描けへん男や。先生にそう言え。俺に絵描く宿題出すなんてお前はアホかって」
「そんなん言えるわけないやないか」
 そうやろか。俺なら言うけどな。中学行ったことないねんけど。もちろん高校もないし、小学校かてないで。学校なんか通ったことない。どんなとこなん、ほんまの話。
「イルカの絵でないとあかんのか。ちょっと貸してみ」
 画板を奪って、俺は竜太郎に、プールで跳ねてるイルカの絵を描いてやった。鉛筆で素描やけども、俺も絵が描けるんや。トミ子由来の画才があるねん。
「う……上手い……」
 敗北。そんな気配で、竜太郎は俺が返した画用紙を見てた。
「それに適当に色塗って先生にくれてやれ」
「でも、バレへんかな。急に絵が上手くなったらバレるよね」
「バレへんバレへん。バレたらチューのひとつもしてやれ。お前は顔可愛いから、それで何とかなるかもしれへん。それでダメなら脱いでやれ。一発やらせりゃ文句あらへん」
 えっ、て竜太郎は言うてた。なんや、そんなことも知らんのか。まだまだ青いなあ。
 使え、ここぞというところで、神が与えたその可愛い顔を。そうやって生きていくもんや、人の世は。
 勉強なったやろ、今日は。亨ちゃんの話、聞けて嬉しいやろ。
 にこにこ見上げてやると、竜太郎は画板を抱いて、もじもじしてた。
「そんなん……したことないもん」
 小声でゲロる竜太郎は童貞君やった。そらそうやろな。中一やしな。今のご時世、まともな家の子やったらそうやろ。そんなん言われんでも俺は知ってた。匂いでわかるねん、バージンのやつは血が匂う。溜まりに溜まった美味そうな匂いやで。甘露の香る桃のジェラートみたいにな。
「アキ兄と、するの……どんな感じ?」
 興味に負けたって、そんな感じの振り絞った小声で、竜太郎は訊いてきた。眼下のプールで、イルカがざぶんと跳ねていた。
「めちゃめちゃえで……」
 誘う外道の微笑で、俺は竜太郎君のまだまだ発育途上のお膝を撫でてやった。
「入れてもろたら、それだけで脚震えてくる。中が燃えるみたいで、気持ちええねん、蕩けそうやで」
 解説してると、こっちもちょっとモヤモヤするやんか。しかし俺より中一や。色薄い白い顔を真っ赤に染めて、大して何にも話してないのに、もじもじ照れて困ってた。
 そうか、お前やっぱり、アキちゃん好きなんか。モテるなあ、俺のツレ。せやけど中一はさすがに引くやろ。それとも案外、いける口か?
 俺は引くわ。餓鬼は趣味やないねん。可哀想やろ。
 それでも今日は訳ありで、俺は竜太郎君を誘惑していた。
「なあ。分家のぼん。ちょっと他所よそ行って、俺と素敵なお話しよか。俺と水煙とお前と、三人で。アキちゃんを喜ばせるには、どうしたらええか、水煙が教えてくれるらしいで」
 膝より上も撫でてやると、竜太郎は、ああもうどうしようみたいな顔をした。可哀想になあ、ほんまに可哀想。
 お前がアキちゃんとよろしくやれる可能性はゼロや。俺が居るしな。それに、お前には童貞バージンでいてもらわな困るんや。
「飲み物でも買いに行こう、竜太郎。アキちゃんコーヒー切れる頃やし、お前も喉乾いたやろ」
 俺は石のベンチの上にある、水煙の柄を手に取った。それはもう、俺の指にも触れた。ひやりとした感触のする柄を握り、俺は抜き身の水煙にちょっとばかしビビったが、よもや俺を斬りはせえへんやろ。今や運命共同体なんやから。
 おいでと言って手を引くと、竜太郎は慌てて画板を置いてついてきた。ついて来えへんはずがない。俺には基本的に、幻惑できない人間はいない。まして身も心も隙だらけみたいな中一なんて、俺の敵やない。好みかどうかは、この際なんの関係もないわ。俺はお前に用がある。
 俺が、というか、水煙が、かもしれへんけどな。
 竜太郎と水煙を連れて、俺が出ていくのに、アキちゃんは全く気づいてへん。絵に夢中になっていて、自分の世界に没入してる。
 まだまだ幼い足がもつれる早さで手を引く俺に、竜太郎は必死でついてきた。さあ、どこがええやろ。あんまり人の来ないところがええなと、俺は辺りの扉を探した。
「どこ行くの。なあ。こんなとこ、入ってええのか」
 関係者以外立ち入り禁止のドアを俺が開くと、竜太郎は動揺していた。そのドアにはもちろん、鍵がかかってた。せやけどそんなん関係あらへん。俺は扉を開けられる。それが霊的に閉じられていて、俺より閉じる力の強いやつが鍵をかけたんでなければ。
 いくつか扉をくぐり、俺は竜太郎を半地下のような高い吹き抜けのある部屋に連れて行った。奥にはゆっくり回遊する魚の群れが見えていた。たぶん大水槽の裏なんやろう。その奥には幾つもの、小さな水槽が並んでいた。金網張りの床の、いわゆるキャットウォークが張り巡らされて、水槽の水面が足もとに見えている。
 水槽の中には、いろんな魚が飼われていた。水は海からとってるらしい。むわっと濃厚な、潮の香りが立ちこめていた。
 そんな水槽だらけの部屋の真ん中らへんで、俺は竜太郎の手を放した。
 手が痛かったんか、それともちょっとビビってたんか、竜太郎は自分の手首を神経質そうに揉んでいた。
「なに、ここ? コーヒー買うんやなかったんか」
「後で行く。その前に、水煙がお前に話があるらしい」
 ちょうどええわ。水もいっぱいあるしな。
 どうせやったら、人の姿に近いほうが、竜太郎も話しやすいやろって、俺は深くも考えず、すぐ足下にあった水槽に、水煙の刀身を浸からせてやった。
 変化はすぐに目に見えた。ものすごい光というか、白く輝く靄みたいなもんが、水面から吹き出るように立ち上ってきた。
 あれ。変やなあ。ここまで派手やなかったはずやで。
 剣が熱くて、俺はつい柄から手を放した。水煙はふっと支えをなくし、水槽に沈んでいった。あっ、やってもうたと、俺は思い、とっさに水槽を覗き込んでた。
 泡立つ水の底で、なにかでかいモンがうごめくのが、俺には見えた。それはすぐに、白い水面を割って現れた。
 水煙やで。そうやと思うわ。
 でもそいつは、龍やった。上半身は水煙なんやけど、腰から下が蛇やねん。それとも龍か。
 龍と蛇って、下半身だけやと、どう違うんや。わからへん。
 水煙はずっと俺のこと、蛇や蛇やと蔑むように呼んでやがったけど、お前も似たようなもんやないか。大層変わらん長虫仲間や。
「海道竜太郎」
 真っ青な長い指で、水煙は竜太郎の両肩を掴んでた。
 蛇体がけっこう長くてな、水槽から立ち上がられると、上から迫ってくるようなでかさやねん。
 竜太郎は完璧に腰抜けてたと思うわ。キャットウォークにへたり込んでいた。
 実を言うと俺もちょっとへたりそうやった。怖いねん。水煙怖いよう。こいつは俺の先輩で、蛇神の一種やったんやなあ。実はこっちが本性で、ずっと長く剣の姿をとりすぎて、自分がどんな正体やったか忘れてもうてたんやないか。
 それを思い出したんやろ。アキちゃんのおとんと一緒に軍艦乗ってて、いっしょに海に落ちてもうて、海のエキスたっぷりの水気を吸うて、思い出した。自分がどんな神やったか。でももうその時には、アキちゃんのおとんは死んでもうてたんや。
「お前には予知の才があるやろ。分家筋には昔からあった。それに僅かばかりとはいえ、お前も龍の眷属や。龍に愛された血筋や。そうやろ竜太郎」
 震いつくような美貌の水煙に、間近に甘い息を吐きかけられて、竜太郎はこくこく頷いていた。泣きそうみたいな、ビビりきった顔でな。
「血が匂うてるわ。龍人の末裔や。そしてげきでもある。秋津の傍流やからな。お前やったら申し分ない。お前が龍の生け贄になれ」
「なに……なに、なんの話なん。生け贄って……」
 水煙は、非力やったはずや。それでも竜太郎は、水煙から逃げられへんらしい。確かに食い込むような指で、水煙は竜太郎をとっつかまえてた。
 もしかして、この水が、海水やからかなと、俺は水煙が長い半身を突っ込んだままでいる水槽の中の、潮の香る水を見つめた。海の水って、ただの水と、なんか違うの。塩辛い以外にも、なんか違いがあんのかな。
 あるんやろうな。風呂の水やと、あんなにナヨかった水煙が、今ではまるで怪物か、海の底から現れた、ええのか悪いのかよう分からんような神さんや。水煙の体は、怪しく輝くような鱗で飾られていて、綺麗やけども、抱かれると傷だらけになりそうやった。
「龍が現れると予知したやろう。お前の他の連中も、同じように予知をした。ヘタレの茂がそう言うてたわ。せやからそれはもう確定やろう。確定した未来になるんや」
 キレたみたいに水煙は怒鳴り、それに部屋の水槽の中で飼われてる魚が、びしゃびしゃ跳ねた。
「忌々しいわ。でも、そうなるもんは仕方ない。肝心なのは、そこから先や。お前に見える未来は、ひとつだけか、竜太郎」
 怪しく光る水煙の大きな目に睨まれて、竜太郎は縮こまっていた。それでも神の問いかけや。質問には答えないとあかんと思ったんやろ。ふるふると、小さく首を横に振ってた。真っ青な顔してな。
「わからへん……見ようとすると、モヤモヤってなって……」
「まだ確定してないんや」
 竜太郎の言葉を引き取って、水煙は結論をつけた。そうして黒い目を細め、水煙は少しの間だけ、遠くを見透かすような目つきをしてた。
「未来を視ろ、竜太郎。一番当たり障りのない未来を。それが無理なら、お前が生け贄になる未来を視るんや。うちのぼんを生け贄には出させへん」
「アキ兄が生け贄になるんか?」
 驚いた顔をして、竜太郎は聞き返してた。
 こいつは龍の出現を予知しただけや。詳しいことは分かってへんかったんやろ。
 俺はどうも、水煙のやり口に賛同しかねる面もあってな、思わずよそ見をしていたわ。見てるとちょっと引いてもうてな。
 水煙は、こういう考えやった。
 なんでうちのジュニアが死ななあかんねん。竜太郎がおるやろ。あいつも傍流とはいえ秋津の血を汲む餓鬼んちょで、予知の才能もあるげきや。それに生け贄は若いほうがええねんて。そしてできれば、童貞バージンのほうがいい。龍は実際的には童貞バージンやのうても、より強い力のあるアキちゃんのほうが好きかもしれへんけども、それでも竜太郎でもかまへんやろ。
 なんというても童貞バージンやしな。
 なんというてもアキちゃんを死なせるわけにはいかへん。
 せやから代わりに、死んでもらおか、竜太郎に。って。それなら秋津の面目も立つし、アキちゃんも死なせずに済む。こういう時のバックアップとしての分家やないか。それを使う時やって。
「秋津は龍が暴れた時には、一族から生け贄を出してきた。大抵は適齢の、できるだけ末子に近いのをやった。せやけどあいにく、本家は一人っ子でな。分家のお前が適任や」
「嫌や……生け贄なんて、なりたないわ!」
 逃れようと藻掻いて、竜太郎は拒んでた。水煙はそれを、逃しはせえへんかった。
「誰かてそうや。死ぬのが嬉しい言うて死んだ奴なんかおらん。泣く泣くの覚悟を決めて、家のため、国のために死ぬんやないか。お前もそれをやれ、竜太郎。本家の養子にしてやるわ」
 水煙は怖いぐらいの無表情やった。
 せめて泣いて頼めと、俺にはそういう気がしたけどな。血も涙もないわ。
 そのガラス玉みたいな目で見下ろされ、竜太郎は震えてた。
「ジュニアもきっと喜ぶやろ。あの子はずっと子供のころから兄弟欲しいて言うてたからなあ。弟できて嬉しいやろう」
 そうかなあ。すぐ葬式出さなあかん弟なんやで。俺は賛成できへんけどなあ。
 竜太郎も賛成できへんようやった。泣きべそかいて答えたわ。
「アキ兄は、そんなん、喜ばへん。僕が死んでもええなんて、そんなこと、思うわけないもん」
 めそめそ言うてる竜太郎に、水煙はうっすら笑った。馬鹿にしたような、壮絶な笑みやった。そんなふうに笑わんといて、ここで。怖いしな。
「そうやろか。自分が死ぬよりマシやないか。お前もそう思うやろ。アキちゃん死んでも、自分が生きてるほうがええわって、そう思うやろ。どうでもええんや。うちのぼんがつらい思いして死んでも、どうでもええんや、お前らは」
 水煙は、恨む目やった。こいつがこんな顔するなんて、思いもよらへんかったな。
 相手、中一なんやで、水煙。こいつが悪い訳やない。アキちゃんのおとんが死んだのも、龍が出るのも、こいつのせいやない。やむを得ぬ時流というやつなんやで。誰も彼もそれに押し流されて、否応もなく生きてるだけや。竜太郎に罪はない。
 もう止めへんか。やっぱり止めとかへん?
 俺はなんとも、つらくなってきてた。やっぱり本人見てまうと、どう見ても中一やで。まだまだ餓鬼やわ。アキちゃん死ぬのも可哀想やけど、こいつかて可哀想やないか。まだ一丁前の恋もしてへん。背丈も俺の胸くらいまでやで。それで龍に食われろなんて、鬼やないか。鬼そのものや。
 それでも水煙は鬼やったわ。まさに鬼。神様レベルの冴えた美貌も禍々しい、青い鬼さんやった。
「死なせへん。俺はもう沢山なんや。葬式出すのはもうええわ。アキちゃんは永遠に生きられる。もう俺は永遠にアキちゃんの剣のままやで。お前が死ね、竜太郎。お前が死ねばええんや」
 愛ってときどき、醜いな。水煙はめちゃめちゃ怖かった。マジもんの怪物みたいやった。
 俺にはそれが、ちょっと心配やった。
 アキちゃんはきっと、こんなの好きやないやろ。水煙のことは、綺麗やと言うてた。こいつが実はこんな醜い鬼やとは、知りたくないやろ。きっと、がっかりする。ほんで、ちょっと、傷つくんやで。もしかしたら、すごく傷つく。水煙のこと、好きなんやったらな。
「水煙、もうやめとかへんか……無理やで、そんな餓鬼。びびってもうて腰抜けてるやないか。生け贄なんか勤まるわけない」
 ついつい俺が諫めると、水煙はキッと怒って俺を見た。ぐはあ。チビりそう。勘弁してくれよ、俺かて罪もない蛇やで。
「根性無しの蛇め。こいつの血吸うてやれ。お前のしもべにして操るんや」
 水煙に怒鳴られて、俺も震え上がってた。逃げたい、正直逃げたい。でも逃げるわけにいかへん。竜太郎ほっとくわけにいかへんしさ。
「嫌やで、やっぱりやめとく。アキちゃんに怒られるわ」
 怖じ気づいた俺を、水煙は憎そうに見た。
「死んでもええんか、アキちゃんが」
「嫌やけど……でも、きっと、お前は醜いって言われるで。水煙。お前は今、鬼みたいやで。鬼さんいっぱい食い過ぎて、自分も鬼になってもうたんか?」
 顔をしかめる水煙は、竜太郎を握り潰すんやないかと思えた。そんな凶暴な神に見えた。
 神と悪鬼の境目はなんやろ。
 たぶん、そんなもんはない。堕ちた神が、悪魔サタンなんやで。
 お前はずっとお高くて、神さんやって崇め奉られてきたのに、今さら悪魔サタンはないやろ。格好悪いやんか。せっかくアキちゃんの剣に納まれたのに。アキちゃん好きやて、そんな顔して抱かれてた時には、お前はけっこう可愛いかったし、確かにまあまあ綺麗やったで。
 そんな顔して、ずっと居るわけにはいかへんのか。
「綺麗事では守れへんのや。俺はアキちゃんが可愛い、何より大事やねん。何と言われてもええわ。命あっての物種や。生きてれば幸せになれる、そのためにお前が居るんやろ、水地亨」
「なられへん、アキちゃんは。俺が居っても、この餓鬼殺して生き延びたと分かれば、幸せにはなられへん。そんな薄情な男やないで」
 黙ってればバレへん。そういうもんやろか。
 竜太郎を龍に食わせたら、アキちゃん立ち直れへんのやないか。
 勝呂を殺ってもうたことからも、全然立ち直ってへん。つらいつらい、あいつに済まないって、人食うたような外道の犬にでも、本気でそう思うてる。自分のせいで大勢死んだって、今でもずっと傷ついてるで。
 内心の奥深くにあるその傷が、今でも治ってないのが俺には分かる。だって俺はアキちゃんのツレやしな。何を思ってんのか、それくらいは分かる。
 それが何の罪もない中一殺してもうたって、いつか気がつく羽目になったら、俺も水煙もただでは済まんで。絶対許してもらわれへん。お前ら鬼やって、まとめてポイポイ捨てられるんやで。
「相談しよう、アキちゃんに話して。あいつは割と大人物やで。案外なにか妙案を、思いつくかもしれへん」
 俺は水煙を説得しようとした。それでも俺の話なんか聞くような奴やないわ。
「そうか。お前が嫌ならしゃあないな。俺ひとりでやるわ」
 やりたくなかったんやけどな、って、水煙は俺にぼやいた。
 お前のやりかたのほうが、まだしも優しいと思うんやけどと。
 そう話す水煙は、名前の通りの白い霧を発し、その大きな黒い目の中に、白い光が灯って見えた。それはまるで、夜空に渦巻く星雲のようやった。その目で見つめられた竜太郎の瞳の奥にも、同じような白い光が渦巻いて見えた。
 ヤバない? なんか、ヤバそうかな、みたいな、そんな空気やない?
「竜太郎。お前の頭ん中を、がらんどうにしてやろう。体だけあればええ。生け贄に、心なんかは要らへんで」
 震えて見つめる竜太郎の頭を撫でるみたいに、水煙は青い指を這わせた。
 その指がね。入ってる。頭の中に。入ってるっぽい。
 あのな。ヤバない? すでにもう、言うてる場合やないぐらいヤバい。
「水煙、ちょっと待て、何すんのそれ?」
「魂引き抜く」
 ごそごそ探す指使いで、水煙は目を細めてた。
「あかんあかん、そんなん引き抜いたらあかんのとちがう? だってどうなんの、死んでまうやないか?」
 俺はオタオタ訊いていた。
「死にはせえへん。人形みたいになるだけや。それでも命も力もあるんや。骨抜きのほうが龍も食いやすいやろ」
「いやいや、そんなんあかんて。バレるから。絶対バレるよ、アキちゃんに。こんな可愛くない餓鬼が、急に腑抜けになってもうたら、何かあったって思うに決まってるやんか」
「お前さえ黙ってればバレへんわ……」
 何か探し当てたような顔をして、水煙は目を伏せた。そうっと引き出す慣れた手際で、水煙は竜太郎の頭から手を引き抜いた。
 その指に、手の平いっぱいに納まるくらいの白く輝くゼリーかぎょくか、そんな感じのするものが、揺らめくような虹色の光を時々閃かせて、鷲づかみにされていた。
 それが、元の体に惜しむ名残があるように、とろりと長い尾を引いて、竜太郎の眉間と繋がっていた。
「やめとけ、そんなん、出したらあかんて。どうすんのそれ、どこに置いとくの」
 戻せ戻せって、俺はジタバタ水煙に頼んだ。そやのに奴は白い舌で舌なめずりしやがって、美味そうやなあって顔で答えた。
「食うんや」
 そうやった。こいつ、命とか魂とか食うやつなんやった。
 勝てるんかなと、俺は焦って考えた。
 もしここで、俺が変転して戦ったとして、俺は水煙に敵うんか。
 たぶん無理。こいつのほうが強いやろ。年期が違うわ。亨ちゃん、まだまだピチピチやからな、水煙みたいによわい何万年みたいなやつから見たら、ヒヨっ子やねん。
 それでも、やっとかなあかんかな。
 あのなあアキちゃん、水煙兄さん乱心してもうてなあ、竜太郎の魂食うちゃった。俺、見てたけど、怖いし見殺しにしちゃった。えへへ。ゴメンネ。なんつって、そうか、それはしゃあないなあ亨って、アキちゃん許してくれるかな?
 んな訳あらへん。何やっとったんやお前って、めちゃめちゃ言われる。どつかれる可能性もある。許してもらわれへん恐れもある。
 やらなあかんか。水煙と一戦。変転したかて似たようなもんやで。倒そうとして倒せる相手やない。こいつも神様なんやから、拝み倒すしかないんとちゃうか。おかん方式。こうなったらもう、おかん方式しかない。
「食うたらあかんて水煙。やめとこうって、今ならまだ引き返せるやんか。俺はチクるで、お前が食うたら、アキちゃんに全部べらべら話す。お前もここにほったらかして行くからな。腑抜けの竜太郎に連れて帰ってもらえんのか。それともその、ジュニアにドン引きされそうな格好で、ずるずる這って戻ってくるつもりか」
 ぐっと堪えたらしい顔をして、水煙はぎろりと俺を睨んだ。
 めっちゃ怖い。ほんま言うたら、その時の水煙は、めちゃめちゃ怖いんやけど、醜くはなかった。それはさすがに神さんや。荒ぶる神で、禍々しくはあっても、怖いような美貌やわ。
 きっとアキちゃん、見とれてまうやろ。あいつそういう変態やからな。
 それでも水煙は明らかにビビってた。自分は醜いんやないかって、怖いらしい。可哀想にな、水煙兄さん。俺も分かるよ、その気持ち。まだアキちゃんに、見せてへんもんな、この海の化けモンみたいなお姿は。
 嫌われるかもって思うよな。今度こそ、可愛いジュニアが目を背け、お前は醜いて言うかもしれへん。そうなったらつらいよな、お前はアキちゃん好きなんやから。
「死ぬよりつらい目に遭うで。竜太郎を殺したら。アキちゃんきっとお前を許さへん。もうどこへでも行け、お前なんか要らんて言うわ」
 海蛇みたいなのたうつ動きで、水煙は身を捩ってた。険しい顔して俺を見る、その目に迷いがあるようで、俺はちょっと希望を持った。きっとどこかに隙はある。水煙の手から、竜太郎を奪い取って逃げる、そんなタイミングが。
「それでも……かまへん。あの子が死ぬよりましやないか」
「思い詰めるな、なんか手はある」
 もう適当やで。口から出任せ、嘘八百で俺は言うてた。算段なんかあらへんで。何の策もなかったけどもや、黙ってもうたらお終いやって、そんな気がしてん。
「やめよう水煙。ひとりで突っ走らんといて。俺ら家族やろ。チームやないか。どう見ても『アダムス・ファミリー』みたいな妖怪一家やけどな、それでも一人で考えんと、皆で考えような。アキちゃんにもちゃんと、話してやってくれ。ジュニアやないで、あいつがお前の主人やないか。秋津の当主の、秋津暁彦なんやろ?」
 水煙は、俺の話を聞いていた。せやけど俺は俺の話をいまいち聞いてへんかった。なんて言うてた、今。必死すぎて聞いてへん。どのへんに反応してたんや。
 妖怪一家? それやないな。
 秋津暁彦? あっ、それかな。その辺やった? 誰か見てた? 見てへんかった?
 一体どのへんつつけばええんや。水煙が崩れ落ちる、そんな心のツボみたいなんが、絶対あるはず。人でもなんでも、心があるやつには、それがあるはず。それは経験的な俺の勘。甘く囁く二枚舌で、人たぶらかして生きてきた外道やないか。こうなったらもう、舌先三寸に賭けるしかない。
「あの子はまだ、秋津の当主やない……神剣を受け継ぐげきが、秋津の家督を継げるんや」
 それを語る水煙は、苦しそうやった。代々の当主に俺は崇められた。そういうプライドが、こいつにはあるはずや。せやのにアキちゃんは散々水煙を踏みにじってやな、こいつの心はズタボロや。それでも好きやて折れたんやないか。折れたらあかん神剣のくせにやな。
「なんで。お前はアキちゃんの剣やんか。二人セットで家を守るんやろ。俺なんかお邪魔なんやろ。そういうデカい態度しとったやないか」
「あの子は俺を、愛してない。お前を愛してる。お前だけが好きやねん」
 俺を求めてない。だから神剣の主になれないと、水煙は俺にゲロった。
 あら。そう。そんなふうに来ちゃうのね……。
 ほんなら俺は、お前に一番教えてやりとうないことを、言うしかなくなる。
「そんなことない……訊いてみたことあるか、アキちゃんに。頼んだことある? 俺のこと、愛せるかって。覗いてみたらええやん、アキちゃんの本音の本音のとこを」
「そんなもん、見てどないすんねん。亨好きやはもう沢山なんやで。俺にも耐え難いことはある」
 さあ食おかって、水煙はやけに長いように見える白い舌を見せた。美しい顔して、それはちょっと怖い。ぺろりと舐められ、水煙の手の中の竜太郎の魂は七色のさざ波のような震えを走らせた。
「可哀想になあ。この子もジュニアに惚れてるわ……そんな味やで。淡いけど」
 初恋の味ってとこやろ。水煙は美味そうに舐めた。べろんごっくんまで、あと一秒、それとも二秒かって、俺は悶えた。言うしかないなあ、教えてやるしか。
「あのなあ……水煙。アキちゃんは、お前のことも好きなんやで。愛してると思うわ」
 どうにもしゃあないと、俺もゲロった。
 水煙は不愉快そうに顔をしかめた。
「えらい口から出任せやなあ……」
「嘘やない。俺に気兼ねしてるだけ。俺が居らんようになったと思った時には、迷わずお前を抱いたやろ。キスもしたしな。そういう奴やねん。気が多いんや」
 ほんまにどうしようもない。
 今ごろのんきに海の絵描いてるやろうツレのことを、俺はぼんやり思い出し、脳内でタコ殴りにしてやった。もう死ね。本間暁彦。死んでまえ、この浮気者。
 嘘。死なんといて。言うてみただけ。死んだら困る。愛してんねん。でも水煙も、勝呂瑞希も竜太郎も、お前を愛してるらしい。死ぬほど好きやて水煙言うてる。ほんなら死ねばって、なんでかもう思われへん。情が移ってもうたんや。ほんの一時だけやのに、お前も家族って思ったら、アキちゃんが好きなお前のことが、他人と思えへん。
 トミ子二号や。ブサイクやないけど、この宇宙人がトミ子二号。
 アキちゃんが、藤堂さんのこと、好きやって言うてくれた。なんでやろ。俺にはそれがけっこう胸に来た。嬉しかったんや。過去も未来もなにもかも引っくるめて受け入れてくれたって、そんなふうな気がしてん。
 アキちゃんアホやわ。俺もそんな超弩級のアホにならなあかん。だってそのほうがアキちゃんはきっと楽やろし、幸せに生きていけるんやないか。妖怪だらけのアダムス・ファミリーと。
 水煙好きなら好きでええやん。確かに美形や。しかもちょっと怖い。でも頼りにはなる。お高いけど賢い。でもちょっとアホ。ひとりでいろいろ思い詰めすぎやねん。そんなアホな宇宙人を鎮められるのは、アキちゃんの愛だけや。
 愛して欲しいって苦しいねん。俺にも分かるよその気持ち。アキちゃん愛してくれへんかって、ずっと切なかった。苦しみ藻掻いてアホなところも、ブサイクなところも見せた。それでもアキちゃん愛してくれたで。
 せやから平気や、宇宙系でも、下半分が龍でも、顔綺麗なんやから。それで心優しい神さんやったら、美しすぎるて言うて崇めてくれる。うっとり眺めて、絵に描いてもらえるで。絶対そうや、あいつの底知れぬキャパを以てすれば、水煙くらい楽勝。
 ただ俺が、つらいだけやねん。しかし耐えようか、敢えてそれを。耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぼうか。それもこれも、可愛い俺のツレのため。水煙好きや、愛してるって、言うてやっても許す。だってそうやなかったら、何ともならん状況なんやで。
「ほんまやで……水煙。嘘やて思うんやったら、俺の心を覗き見してもええからさ。やめてくれ。助けてやってくれ、竜太郎。アキちゃん泣くしな、やめとこうな、そんな無茶苦茶は」
 水煙は、ほんまに俺の心を読んだんかもしれへん。遠慮のない奴や。この際ええけど。見たらあかんで、そんなん普通。知らんでええモンもあるやんか。
 竜太郎をとっつかまえてた腕をだらりと垂らし、水煙はじっと俺を見た。
「嘘や」
 水煙はまるで、駄々をこねてる餓鬼んちょみたい。
「もしほんまに、ジュニアがそうやったとして、何でお前が俺にそれを許せるねん」
 まだ魂出たまんまやからな、竜太郎。ちょっとあんまり引っ張らんといてくれへんか、水煙。尻尾切れたらどないすんねん。魂が体に戻られへんようになるんやないか。
 ハラハラしながらそれを見て、俺はヤケクソで叫んでた。
「アホやから! アホやから許せるんや。どうでもええやん、そんなん。言われたいやろ、アキちゃんに。お前を愛してるって。言うてくれて頼め、亨が言うてええって許した言うとけ。あいつもアホやから、ああそうか助かったって言うわ!」
 ほんまにもう、どさくさまぎれのやけっぱちやで。俺は喚いた。わなわな来てる水煙相手に、思いつくまま怒鳴りまくったわ。
「どうせ一目惚れやねん、知らんかったやろ。アキちゃんお前をひと目見た時から、うっとり来てたわ。勝呂瑞希かてそうやろ。鳥さんでもええんやで。誰でも好きやねん。おかんも好きやで、舞もちょっとええなみたいな感じやろ。愛してええなら全員まとめていっとくような男やで。亨居るからしゃあないなあって、我慢してるだけやないか。行ってええなら誰でも行くよ。せやけどしゃあない。お前も犬に言うとったやないか。そこらの男に惚れたんやないねん、あいつは……」
 言うてて自分で泣きそうやったわ。重い重い。
 あいつは俺だけのモンにはならへん。アキちゃんには仕事があるわ。都を守るのが血筋の務めなんやって。それから逃げたら負け犬と、おかんは俺に諭してた。
 おとんがいくさに行くときに、おかんは行くなと泣きついたりはせえへんかったらしいで。ほんまかどうか。もう生きて戻って来ないと分かり切ってた相手でも、勝って戻れと送り出したんや。どっかへ連れてトンズラしようかなんて、俺みたいな無様なことは、ちっとも思わへんかったらしい。
 ほんま言うたら思いはしたやろ。あの人かて心はあるんや。それでも付き合うてやったんやろ。逃げたら負けやという愛しい男に。勝って戻ると信じてやった。
 お前はそんな英雄と、信じてやらんでどうやって、秋津暁彦は英雄になれるやろ。信じてやらんと神でも消える。そういうもんなんやで。信じる愛が、人を支え、神を支える。
 おかんは立派な連れ合いやった。見上げたもんやと俺でも思うわ。そんなおかんがアキちゃんの理想の人で、俺にとっては史上最大の恋敵。負けるもんかと張り合うんやったら、こっちもそれなりの器量を見せなあかん。
 厳しいわ、あのオバハン。がっちりアキちゃんのハートを掴んでるんやもんな。あれに勝つのは難儀やで。水煙ぐらいで、へこたれてられへんで。なんでもない水煙ぐらい。亨ちゃん強い子やからな。きっと耐えられる。耐えられるやろ、アキちゃんのためなら、何だって耐えられる。
「もう……行こうな、水煙。アキちゃんには、黙っといてやるし。竜太郎の記憶は、俺が消すわ。そんな小技もあるねんで。ちょっと血吸うて、暗示かければ一発やから。なあ? リセットかけてやり直してみよ?」
 なあなあ頼むよ水煙て、俺は拝み倒した。もう頼むしかないわ、神頼み。
 水煙はまだ、わなわな震えたような悲しい顔やった。それでよっぽどヘコタレてきたんか、もともと半人半龍やったんが、ふにゃふにゃあって、いつもの人型に戻ってた。
 キャットウォークにへたる水煙の膝で、竜太郎の魂は、はよ逃げなあかんみたいな手際の良さで、するすると竜太郎の眉間に引き戻されていった。それで平気なんか、廃人とかなってないやろなと、俺は心配やったけど、とにかく一難は去った。そう思えて、こっちもヘトヘトなってましたわ。
 あー。ビビった。マジで怖かった。我ながらよう止めた。口車だけで。
「お前のアホには、勝たれへん……」
 愕然と負けた小声で、水煙は金網を掴むようにへたり込んだまま、俺に向かって呟いた。
「ああそうか。褒めてくれてありがとうやで。これ、寝てへんのやないか?」
 さっさと記憶消してやろと思って、俺は竜太郎を自分の膝に抱えてやった。何の抵抗もせず、だらりと痺れてる竜太郎は、それでも見開いた目で俺を見上げた。意識がないとか、混乱してるというような目とは違うねん。体は金縛りみたいになってるけど、それでも意識はあるっぽい。
 可哀想に。怖いモン見たな、竜太郎。ひとりでトイレ行けへんようになる。
 俺が全部見なかったことにしてやるから、ひとりでトイレ行け。
 しかし奇跡というのは、だいたい唐突に起きるもんである。そしてそれは何も、神とか、天使とか、光の洪水とか、そういう舞台装置が一個もなくても、起きる時は起きるもんらしい。
 俺が血を吸おうとして、首筋を噛もうとしたとき、竜太郎が口を利いた。
「ま……待って……」
 痺れた舌で俺を止め、竜太郎はじっと俺を見た。
 ゆっくりと、魂が体にまた馴染むまでの間、竜太郎はもつれそうな舌で、それでも必死で俺と水煙に訊いた。
「僕が……アキ兄を……助けられんの?」
 考えたと、中一は言うた。餓鬼のくせして、まるで惚れた男がいるみたいな目をして。
 考えたんやって。自分が死ぬのは確かに怖いし嫌やけど、それでアキちゃん助かるんやったら、まあええかなんやって。
 そしたらアキ兄は、僕も愛してくれるかと、竜太郎は俺に訊いた。
 俺に訊くなやで、そんなこと。本人に訊け。なんで俺がそんな大盤振る舞いせなあかんねん。それでも言うしかあらへんやんか。
「そんなんせんでも愛してくれるで。心配せんでええねん、お前は餓鬼なんやから」
 とっとと忘れとこかって、俺はすすめたけども、結局竜太郎はそれを拒んだ。
 忘れたないんやって。自分も戦いたいと、中一は言うた。アキ兄死んだら嫌なんやって。それなら自分が身代わりにと、申し出ましたよ、ローティーンの童貞君が。うちのツレ、どこまで恐ろしい男やねん。えええ、みたいな。えええ、マジかって感じですわ。
「お前、なんかしたやろ。こいつに暗示をかけたやろ」
 俺はへたりこんでる水煙を詰った。なんもなしで中一が死を覚悟するわけがない。
「なんもしてへん……」
「嘘や絶対。お前に魂舐められて、変な病気がうつったんや。絶対そうに違いない」
 不治の病や。アキちゃん恋しい病。ちょっとあちこち蔓延しすぎてきてへんか。俺だけでええのに。その病気の罹患者キャリアーは。闘病仲間なんか要らんねんて。
「責任とれ水煙。どないすんねん、ほんまに生け贄にすんのか」
「変えればええねん……先回りして、運命を」
 SFか。あかんねん俺、SFはどうもおもろない。アキちゃんも水煙もSF好きらしいけど、俺はどうしても萌えへんのや。小難しすぎ。
「あのなあ、水煙。アホでも分かるように言うてくれへんか?」
「これ以上、簡単に言われへん」
 水煙はほんまに困ったみたいな顔で俺を見た。
 それは口では説明つかん話らしい。どうやって変転するか、それを口では教えられへんように。どうやって未来を先取りするか、そしてそれが違う方向へ行くよう切り替えるか、それは出来る奴には出来るし、出来へんやつには意味わからん。そんな種類のことらしい。
 せやけどかまへん、俺に理解できへん話でも、竜太郎はばっちり理解していた。偉い。さすがは分家の跡取りや。
「変えれんの、視るだけやのうて、未来を?」
 まだ強ばったままの表情で、竜太郎は訊ね、水煙はそれに頷いた。
「どんな龍が、どういう形で現れて、何をするやら分からへん。せやけど龍は大抵、水と関わりがある。そこに天使がアキちゃんの、水底での死を予言してきた。きっと関わりのある話やと思うけど、未来は実現するまで確定しない。いろんな可能性があって、どれが実現するか、人がそれを選ぶ。最初にその分岐点に辿り着いた人間が」
 水煙は、憑き物が落ちたみたいに、へなへななって話してた。いつもみたいなお高さがなくて、もう怖くもなけりゃ、壮絶な美貌って感じでもない。見慣れた青い宇宙人。しかもちょっと凹んでるっぽいで。
「辿り着くって、予知でもええの?」
 気力の戻り始めたらしい竜太郎が、ぼんやり訊いてくるのに、水煙は凹んでますという顔でこくりと頷いていた。
「誰より先にそこへ辿り着いて、アキちゃんが死なない未来を探す。それに切り替えなあかん。人は人の信じるモンを信じようとする。先にその予知を信じさせれば、ほかの予知者も同じコースを視るようになるはずや」
 そしてそれがいずれ現実になる。予感された未来は実現するという具合らしいで。悪い予感は当たるっていうやんか。ほんまにそうらしいで。信じたらあかんな、悪い予感。
 しかし海道蔦子はこの界隈では随一の予知者やと、水煙は言うた。竜太郎のおかんや。それより先回りして、竜太郎は未来さきへ行けるのか。
「そうや。蔦子さんに頼めばええんやないか、アキちゃん死なへん未来を視てくれって」
 あっちのほうが本職なんやないかと、俺は今さら気がついた。せやけどそれに首を横に振る水煙は、そんなことはもうとっくの昔に検討してたらしいわ。
「無理や。あの女にその力はない。蔦子はアキちゃんの戦死も予言した。そして、死ぬほど力を振るっても、それ以外の未来を見つけられへんかったんや」
 未来を、運命を変えるなんて、そんな簡単なことやない。ほんのちょっとの偶然が積み重なって、できてるようなこの世でも、それには綿密なからくりがある。運命は現在のコースを突き進もうとする。それが誰かにとって幸福でも、不幸でも、お構いなしに。
「高位の神によって死が予言されている。結局誰かは死ぬことになるやろう。それがアキちゃんでなければいい。そんな未来を視られるか。うまく避けても、代わりにお前が生け贄になる未来へ行くことになる公算が強いが」
 水煙はさっきと同じ話を竜太郎にしてた。でもそれは、かなり穏やかなもんやった。
 最初から、そう言うたらええねんて。テンパってもうてたんか。アキちゃん死ぬて予言を聞いて。思い出したんか。おとん大明神のお気の毒なご最期を。そんなトラウマなんてな、もう捨てろ。話ややこしなるから。俺がどんだけ焦ったか。
 まあ、そういう俺もテンパってたけどな。良かったわあ、途中で目が醒めて。
 いっぺん壁をぶち抜いてみると、ほんまに憑き物が落ちたようやった。ドロドロくらくら来てた頭の芯のほうが、ふっとクリアになって、戦う気力が湧いてくる。
 きっと一人やないせいやろと、俺はそう思ってた。もしも俺が一人で来てて、竜太郎をたらし込むんでなければアキちゃんは死ぬと、必死で思い詰めてたら、俺かて水煙なみのドロドロで、怪物そのものに化けてたかもしれへんわ。
 だって大阪の事件のとき、そうやったやん。アキちゃんが、お前は鬼みたいやって俺を止めて、それで我に返ってなければ、俺はほんまに鬼になってたんかもしれへんで。
 水煙かてそうや。さっき俺が止めてへんかったら、こいつも鬼と化していた。不幸になってたで。中一殺して鬼になり、アキちゃんに嫌われて捨てられて、その後どうする。あまりの嘆きにくたばるか、荒れてもうて悪魔サタンのコース。悲惨やな。こいつにとっても、それに迷惑する俺や皆様にとっても。
 二人で来といて正解やった。俺と水煙と。チームワークやな。美しいねん、チームプレイは。
 俺がそれを何から学んだと思う?
 虎や。虎に決まってる。信太やないで。阪神タイガースやないか!
 まったく水煙様にも、もっと学んでもらわなあかんね。協力しあうということの真髄を。少年漫画とか読んでね!
「アキ兄も僕も、死なない未来もあるんやろ?」
 さすが若い中一は前向きやった。
 水煙はそれに渋い顔をしたけども、否定はせえへんかった。
「お前しだいや……お前の力しだい」
「うん。僕、頑張るわ! もし上手くやれたら、ご褒美で、アキ兄のうちに泊まりにいってもええやろか。ほんで僕がアキ兄と寝る」
 自惚れてんのか、中一は自信満々やった。
 自分が死ぬって実感ないんやろな。餓鬼やしな。怖いモン知らずやねん。
 俺はちょっと呆然としてきて、キャットウォークに胡座あぐらかいたまま、五度ほど傾いていた。
 こいつ、やっぱ水煙に魂食うといてもらえばよかったかな。海道竜太郎。本気でアキちゃん狙いやで。それに顔可愛いしな、あと五年か六年したら、アキちゃんのストライクゾーンにぐいぐい食い込んでくる、めちゃめちゃ恐ろしい子になってるかもしれへんで。
「一緒に寝るって……そんなん、俺もまだしてもろたことないのに」
 水煙が、ほんまに情けなく切ないというふうに、そうぼやいた。俺はそれに、さらに三度くらい傾いた。こいつら俺を舐めている。最愛の俺様を差し置いて、お前らがアキちゃんと寝られると思うんか。ありえへんそれは。絶対ないから。
「もう行こ。もう戻ろ。アキちゃんカフェイン切れてる頃やから、いないと気づいて怒ってるかもしれへんで」
 もうやってられへんと思い、俺は立ち上がった。
 こんなとこでヘタってもうて、ケツ濡れたやんか。最高に嫌や。それに、びしょびしょ水煙、どうやって乾かすねん、俺。後先考えずに水槽に突っ込んだりして、アホやったわ。
 お陰で俺は水煙様を抱っこして戻る羽目になったんや。俺も嫌やったけど、水煙はほんまに嫌そうやった。俺にお姫様抱っこされて、ぐんにゃりしてたわ。よっぽど屈辱やったんやろ。
「這って戻るよりマシやろが」
「微妙なとこや……」
 水煙はいかにもつらいという口調やったけど、それでも俺が抱きやすいように、首に腕かけて抱きついていた。抱っこしてると水煙の体はむにゅっとしてて、何か気持ちいい。ほどほどひんやりしてるし、抱き枕っぽい。実は気持ちええんやないか、こいつを抱いて寝るのは。そんなん新しい世界すぎ。
 勝手に使った部屋の照明ぐらい、消して行こうかと思って、俺は水槽部屋を振り向いた。壁の電源板に手をやって、なにげなく大水槽を遠目に眺め、俺はぼんやりとした。そこにな、人魚がいたんや。
 回遊する魚に混じって、くすくす笑うような目をした人魚が二匹三匹、いや、三人ていうのかどうか。とにかく長い髪した女のような姿で、こっちをガン見していた。
 そして俺らが気づいたのを知ると、爆笑したようやった。それでも声が聞こえるわけやない。そんなふうに見えただけ。
 でも水煙には聞こえたらしい。海の女がげらげら笑い、指さして何か話すのが。
 それに水煙は白い顔になり、俺に抱きついて大水槽から顔を背けた。
「早う行こう、亨」
「なになに、なんて言われたん」
 嫌な予感がして、俺は電気を消しながら、水煙を問いつめた。
 水煙は分からんととぼけていたが、俺は怖いもん見たさで聞き出した。
「痴話喧嘩かって……お前と俺と、どっちが上か訊かれたわ」
「な……なにぃっ!? 気色悪い。さぶいぼ出るわ! 自慢やないが俺は誰かの上に乗ったことはない。童貞バージンなんやぞ。なんちゅう海女あまや。俺をそんな男と思わんでほしいわ!」
 まあそんな感じで、チーム童貞バージンの危険な密談は終了した。
 えっ。水煙か。水煙もそうやって。だってそんな匂いがするもん。俺には分かるんやって。アキちゃんとは、きっとまだしてへん。ほんまにキスしただけ。
 ずっとそのまんまでいてほしいわ。水煙様にはお気の毒やけど、それだけはどうしても、俺も我慢がしづらいからな。アキちゃん、いくら外道にモテモテの色男でも、その一線は守っといてほしい。
 ほんでその肝心のうちの色男やけど、コーヒー買って戻ってみたら、なんとまだ絵を描いていた。二枚目描いてる。足らんかったらしい、一枚では。よっぽど溜まってたんやな、禁断症状。
「どしたんや、水煙。また水で戻されたんか」
 俺に抱きかかえられて戻ってきた青い姿を見て、アキちゃんはやっと驚いた。
 水煙はなんとも言えない苦笑いをしたけども、何にも答えへんかった。恥ずかしいらしい。素っ裸が恥ずかしいわけない、こいつはいつでも裸なんやしな。きっとあれやで、俺のこと愛してるかジュニアとか、そういう線やで。ほんまにもう殺さなあかん。
「俺が水槽に落としてもうたんや」
 夏の陽で、水煙はもうほとんど乾いてたけど、それでも人の姿をしてた。なんでやろ。もしかして、海水やったから?
 余計なことを知ってしまった。たぶん気づいたやろう。水煙本人も。
 アキちゃんはコーヒー飲みつつ、左右に俺と水煙と、それから一段下の向かいの席に中一を侍らせて、ぼけっとのんきにイルカを眺めた。
「何をやってたんや、お前ら。喧嘩してたんとちゃうやろな。仲良くしてくれへんと困るんやで、俺は」
 そのご指導に、俺は笑った。水煙も笑っていた。竜太郎さえ笑った。アホやと思ったんやろう。ほんまにアホや、うちのツレは。のんきやし、絵描いてたらお幸せ。
 俺らが修羅場に陥っているときに、アキちゃんは海の絵と、それからイルカの絵を仕上げてた。どう見ても、平和そのものの水彩画で、今、アキちゃんの心が割と穏やからしいことが見てとれた。
 ずっとそのままやといい。アキちゃんがずっと、平和で幸せそうな絵を描いてられるとええなあ。俺はそう思うんやけど、それが上手くいくかどうかは、海道竜太郎しだいやった。
 中一はじっと、アキちゃんが描いた二枚の絵を見て、それをくれと強請っていた。アキちゃんは、まさかそれを宿題として出すつもりやないやろなと、渋々くれてやってたが。鈍い男や、相変わらず。
 竜太郎は単に絵が欲しかったんやろう。アキちゃんが描いた絵を。そこに現れている、アキちゃんの心や人柄を。ちょっとでもそれに寄り添うためのよすがとして。
 もらった海の絵を、嬉しそうに抱いているちびっ子を、俺は咎めはせえへんかった。
 殺さなあかんとも、もう思わへん。
 俺のツレを、お前の小さな胸で、めいいっぱい愛してやってくれ。そして助けてやってくれ。今はもうそれに、賭けるしかない。
 そして、できれば、お前も死なんといてくれ。竜太郎。死ぬなと祈った俺はたぶん、もはや悪魔サタンではない、自分でも何なのか分からん何かやった。
 神でもなく、鬼でもない。愛したり憎んだりする。そういうのをたぶん人はこう言う。
 人間らしいと。
 俺はアキちゃんを外道に堕とし、アキちゃんは俺を救い上げて、人間にしてくれた。
 それは不思議な入れ替え劇やった。強いて言うなら愛の魔法か。何百年、何千年を経て、俺はやっと理解した。昔からずっと俺が、好きで好きでたまらんかった人間様とは、一体どういう生き物なのかを。
 そして俺は、それが愛しい。俺の愛するアキちゃんが愛してる、儚く無力な普通の人の世が。守ってやりたい、俺のツレが、命がけで守るというこの都を、俺も命をかけて守りたい。
 神とは何かと人に問えば、一説には守護する者である。また一説には、愛する者である。それに照らせば、俺はこの夏、間違いなく神やった。
 グッジョブ、水地亨。俺はとうとう神になってた。文句なしの神の領域に到達し、そしてほんまもんのアキちゃんの守護神になれたんや。バンザイ!
 運命の日の始まりまで、あと五日。未来を視る者たちによって、その日は特定されようとしていた。そして俺たちは一足先に見ることになる。死の舞踏ダンスマカブルの前座を。


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