SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(16)

 その店は、いつも朝飯を出す店やった。店名が、オールウェイズ・ブレイクファスト。つまり、いつもオールウェイズ朝飯ブレイクファスト。そのまんまやろ。
 こぢんまりとして、いかにも英国風の店構えファサードで、ミントグリーンのペンキで塗られ、日除けルーバーから見える窓には、白いレースのカーテンが幾重にもかかっている。そして看板には金文字でAlways Breakfastオールウェイズ・ブレイクファストと店名が英語で入ってる。
 どうも外人狙いの店らしい。二十四時間朝飯食えますって、手書きの張り紙がしてあったけど、それが英語やった。店内見えへんし、メニューも外に出してない。むしろ、入らんといてくれみたいな雰囲気なんやけど、その緑色の壁から、なんともいえんオーラを感じ、この店は美味いに違いないと俺は思ったんや。
 アキちゃんと北野デートした時に、ホテルの近所をそぞろ歩いていて通りかかって見つけてあった。せやけどヴィラ北野は朝飯が売りのひとつやというんで、一泊目の朝はホテルのガーデンテラスで朝飯食うたわけ。
 そしてまた一夜明けた今朝は、喫茶「いつも朝飯」で飯食おうかという事やった。
 寝坊してもうてな、嫌でもそうせなあかんかってん。ヴィラ北野は藤堂さんの美学で、いくら朝飯が売りやて言うても、それは朝に食えやということで、十時過ぎたら食わしてくれへん。ルームサービスの朝食メニューはあるけど、それはコンチネンタルだけ。あくまで俺んとこのブレイクファストはガーデンテラスで十時までに食えという、そういうポリシーやねん。
 腹立つ。朝弱い俺への挑戦としか思われへん。
 これでもアキちゃんと住んでから、朝寝坊は治ったんやで。アキちゃん六時に目覚ましかけやがるしな。学校行くときは早出やねん。それと朝にも仲良うしたければ、俺かて早起きするしかないわ。
 ケチの藤堂さんとは違うて、アキちゃん抱いてて朝に強請れば、朝でもしてくれる。仕事あるんや朝は勘弁なんて言わへんで。言うけど拒めへん。拒んでんのかもしれへんけどな、そんなん関係あらへんから、アキちゃんやったらな。
 まあそんな訳でやな、今朝も六時に起きたけど、それから仲良うしてたんや。そしたらあっと言う間に十時になってた。もう朝飯やない。ブランチや。朝昼兼用ブランチ。ガーデンテラスでは朝飯食わしてもらわれへん。
 しゃあない行くかということで、グラタン風呂でぶくぶく寝ている水煙をほったらかしたまま、二人っきりで喫茶「いつも朝飯」に来てみた訳や。
 ポリッジ食おかって、俺はにこにこしていたよ。
 昔、英国暮らしやったことがある。ポリッジって麦のお粥みたいなもん。イギリスでは定番の朝の食いもんなんや。
 美味いでえ、イギリスの朝飯。ていうか、朝飯以外が不味い。不味いまで言うてもうたらあかんかもしれへんけど、まあ、なんていうか美味ない。朝飯だけや。
 でも、それにはそれの良さがある。朝飯が楽しみということや。
 昼飯や晩飯が不味ければ、成り行き朝飯が楽しみになるやろ。ポリッジなんか、ただの麦粥やから、なんでも美味い日本では、実は美味くも何ともない。でも懐かしいなあって、そういう嬉しさやねん。
 アキちゃん食うたことない言うてたし、いっぺん食わしたろって、そんな気持ちで連れていってみた。二人で食えば何でも美味いよ。ラブラブやからな。うっふっふ、って、絶好調でドアくぐり、俺は止まった。完全に静止した。アキちゃんそれに、もろにグフッて衝突してたわ。
「痛い。亨。なに急に止まってんのや……」
 恨めしそうに言うアキちゃんを無視して、俺は店ん中を睨んでた。入ってすぐの窓辺の上席に、藤堂さんがいた。しかも破戒神父を連れてやで。にこにこブランチ食うとんのやで。
 居るわけない。だって十時過ぎなんやで。仕事どしたんや、あんた。
「ああ、おはようございます。昨日はどうも」
 藤堂さんはこっちに気づいて、そんな気まずい挨拶を、いかにも爽やかに言うてたわ。アキちゃんに。
 ほんで、よろしければご一緒にて言うねん。よろしくないですとは言われへん。俺なら言えるけど、アキちゃんは言わへんかった。
 アキちゃんて、案外、人懐こい子やで。特に相手がすでに異常者とわかりきってる時にはな。
 学校とかでは人嫌いみたいやけど、それは警戒してるかららしいわ。普通のやつと付き合うて、お前変やて言われんのが嫌やて、そんなことが気になって、くつろがれへんらしい。
 せやけど藤堂さんやったら平気らしい。なんせ相手は血を吸う化けモンで、そのツレは破戒神父・神楽遥。どう見ても仲間そのもの。
 だからって、自分のツレの前の男と平気で飯食うアキちゃんの神経が、どこでどう繋がってんのか、俺にはさっぱりわからへん。
 そんな、俺は嫌やていうしかめっ面で、俺は真四角のテーブルの、藤堂さんの向かいの席に座った。アキちゃんはその斜向かい、破戒神父の向かいの席に。妙な構図やで。
 注文せんでも飯は来た。この店にはメニューというもんがない。だって二十四時間、英国風ブリティッシュの朝飯しか出さへんのやし、そのメニューは決まってた。客が来て、席についたら、それはポリッジと薄いトーストと、卵とベーコンと焼いたマッシュルームとトマト、そしてベイクド・ポテトを食うて、紅茶を飲むということやった。
 俺とアキちゃんに紅茶を出しに来て、どう見ても外人みたいな金髪の若い店主は訊いた。卵はどうする、って。
 炒り卵スクランブルドにするか、ゆで卵にするか、それは半熟ソフト・ボイルドか、固ゆでハード・ボイルドか、落とし卵ポーチドエッグにするか、オムレツにするか、目玉焼きにするか、それなら両面焼きターン・オーバーのか、それとも片面焼きサニー・サイド・アップか。そういうことやで。
 アキちゃんはいつでも、卵は片面の目玉焼きサニー・サイド・アップやし、俺もそれでええわって、ついでにまとめて注文してやった。コーヒーないですかって、一応聞いた。アキちゃん、コーヒー飲まへんかったら死ぬし。
 けど、ない、と店主に笑って断言された。ないやろと思た。だって匂いがせえへんもん。
「コーヒーがない……」
 まるで酸素のない星に来てもうたみたいに、アキちゃんはがっかりしていた。
英国風ブリティッシュやから……」
 気の毒そうに笑って、藤堂さんはアキちゃんを慰めていた。
 そこまで徹底して英国風ブリティッシュやと思ってなかった。知ってたら連れてきてへんかった。それに藤堂さんまでいると分かってたら、絶対来なかったのに。
 なんか、むちゃくちゃ違和感あるわ。なんでやろ。なんか変な感じ。
 藤堂さんの連れが、俺やのうて神楽遥。それも変。それに今は十時過ぎで、しかも平日やのに、藤堂さんがホテルやのうて外の店にいる。それも変。そして藤堂さんが、スーツやのうて、むちゃくちゃカジュアルなシャツにジーンズを着ている。それが猛烈に変。
 いや、変やない。似合ってるけど、藤堂さんはスーツ着てないと息でけへんのやと思ってた。
「なんで居るの……十時過ぎやで」
 どうしても気になって、訊かんでええのに俺は訊いた。藤堂さんに。
「休みなんです」
 お前に訊いたんやない。神楽遥が答えた。これからお前は、ロレンツォ・お前に訊いたんやない・遥・神楽・スフォルツァと名乗ればよし。
「休み?」
 それは何ですかという声で、俺は訊ねた。藤堂さんに。
「定休日です」
 余計な口挟まんでええねん。ロレンツォ・お前に訊いたんやない・余計な口挟まんでええねん・遥・神楽・スフォルツァ。名前どんどん長なるやないか。
 俺は、けろっとして紅茶飲んでる破戒神父を睨んだ。白磁の、薔薇のレリーフのあるティーカップやった。それが非常にかなり普通に似合っていた。王子様みたい。小夜子ワールドそのまんま。質素ですが、物はいいですみたいな白シャツを着て、グレーのシルクのズボンはいてる。そして金髪に碧眼。完璧である。しかも左手の薬指に、神楽遥は指輪をしていた。元々していた。神父はしてんねん。その聖職を示す、教会との結婚を示す誓いの指輪をな。
 でもそれは、そういうのではない。金の指輪で、教会と関係ない。もともとそこにしてたらしい指輪の痕を隠すように、新しく填ってる、まるで昨日買いましたみたいな真新しい輪っかやった。
「定休日って、なに?」
 俺は念のため、もう一度、藤堂さんに訊いた。
「どしたんや、亨。ただいま日本語勉強中か?」
 にこにこ笑って答え、藤堂さんは葉巻を吸っていた。もう食い終わったらしい。皿は片付き、紅茶のカップだけが残されていて、俺が最後に気がついた時、もう結婚指輪の痕もなくなっていた左手の薬指に、金の指輪をしていた。
 あのね。そんなのね。したことないよね。あんたはね。俺といたとき、したことなかったですよね。してくれとも思わんかったし、そこまで強請ったこともないけど、その前の段階からして渋っていたよね。ほんまにね、愛してた? 俺のこと。
「休暇?」
 思わず難しい顔になり、俺は訊ねた。藤堂さんに。
「そうや。そうとも言う。よう知ってるな」
 今度は藤堂さんが答えた。にこにこ意地悪そうに。
「知ってるわ。何年日本に居ると思てんねん。お前より長く居るんやで。ただ、びっくりしただけや。いつからその単語、お前の辞書に載ってんねん。休暇、定休日、休み。そんなの前は載ってへんかったやんか?」
 思わず恨みがましく言うてもうてから、俺は気まずくなってアキちゃんを見た。アキちゃんは、怒ってはいなかった。でも、言わんほうがええのにみたいな顔をして、渋そうに紅茶を飲んでいた。
「最近、掲載された新単語やねん。俺もいっぺん死んだしな。第二版やから……」
 誰もいないほうに、ふはあと煙を吐いて、藤堂さんは紅茶を飲んだ。
「ずいぶん改訂されたんやなあ……」
 しみじみ寂しい気がして、俺は感想を述べた。葉巻吸う手にある指輪見て、俺は物欲しそうやったんかもしれへん。アキちゃんはじっと、俺の顔を見た。
 未練がましい顔したらあかんな。アキちゃん気分悪いやろ。
 俺は正直言うて、藤堂さんが惜しかったわけやない。それもちょっとはあったかもしれへんけど、昔とことん、つれなかった男が、今はそうでもないらしいのが、恨めしかっただけやねん。
 俺のなにが、そんなに至らんかったんやろ。どこに不足があったんや。この金髪で長い名前の元・神父と俺と、どこがどう違うんや。
「お前が改訂したんやろ? えらい目遭うたで、外道にされて。死んだと思ったら生き返るし。女房には捨てられるし。娘の結婚式には出られへんし」
 真顔でぼやく藤堂さんを、俺はぽかんとして見た。ほんまにぼやいてるらしい。
「結婚したん、あんたの娘」
 俺はその子の写真を見たことがある。姿も見たことがある。おかんと連れ立って、ときどきホテルに来てた。藤堂さんに似た綺麗な子やった。おかんは、まあ普通。宝塚に住んでる、ええとこのお嬢さん。どっかのホテルで藤堂さんを見初めて、結婚した女。実はこいつのおとんがホテル業のえらいサンで、藤堂さんは娘よりおとんが目当てで結婚したらしい。出世が目当て。えげつない男やで。
 そやから奥さんには頭が上がらんかったわけ。それにクリスチャンやったしな、けっこう真面目に教会通いしてたで。仕事休むのは日曜の朝だけ。礼拝行くんや。カトリックのキリスト教徒は離婚できへん。それは神様が禁じてるから、教会が許さへんのやって。まあ、ルールブック的にはそうなんや。
 今にして思えば、なんでそんな理由って思うけど、藤堂さんはそれが人間としての一線と、固く信じてたわけ。死が二人を分かつまでと、神に誓った。男としての義理があるから、その約束は破られへんと。
 でも、ああ。そうか。死んだしな。それで契約終了やったんや。ビジネスライクやなあ、藤堂さん。それで吹っ切れてもうたんや。もうええわって。
「結婚したした。しょうもない男と。できちゃった婚やで。いやいや、そうやのうて、こちらの業界では授かり婚というんやけどな。東山の例のホテルで、もうしたんやないかな。まさか俺がプロデュースした礼拝堂チャペルで腹ぼてなった娘が、俺抜きで結婚するやなんて、想像だにせんかったわ。客にはよくある話やったけどな、まさか自分とこの娘がなあ。京都のボンボンとやで。あのホテルで会うたんやって。まったくどこのボンボンや、ホテルで会うただけの相手にいきなり手出すなんて、手癖が悪すぎ」
 アキちゃんげほげほ言うてたわ。痛い話やったな。
 藤堂さんは意味分かってへんのか、煙たいですかと気をつかい、アキちゃんのために葉巻を消してやっていた。鈍いねん。藤堂さん。でも知らんのやからしゃあないな。俺は藤堂さんにはアキちゃんとの詳しい馴れ初めは話してへんもん。
 調べたんかと思ってた。探せば追えたはずやで。亨どこ行ったんやって、必死で訊いて回れば、俺がホテルのバーから男をひとり連れて、タクシーで出ていったことぐらい、簡単にわかったんやないか。
 でも、調べへんかったんや。なんで。格好悪いからか。去るなら去れって、そういうことやったんか。ほんまはちょっと、ほっとしたか。俺が消えて、悪い夢から醒めたみたいに。
「ええやん、別に。今時そんなん珍しくもないで?」
 俺は一応フォローしといた。
「そうやけど、仮にもクリスチャンの娘がやで、おとん死にかかっとうのに、男とやるか? しかもその娘がやで、おとん男とやっとうから嫌やて言うて、花嫁姿も見るなというんやで。やってへん、お前から一言、うちの娘に言うてやってくれ」
「はあ。なんて。お前のおとんは俺とはやってへんて?」
 俺が真面目に取り合うと、藤堂さんは面白そうに笑っていた。
「ひどい話やな。滅茶苦茶やでお互いに。俺も大概、滅茶苦茶やけど、生き返ってきたおとん見て、そんなんやったらいっそ死んどいてくれたらよかったのにて言う娘もすごいわ。なんか知らんうちに家庭が崩壊していた」
「すまんなあ、藤堂さん。俺のせいでそんな目に遭うて」
 俺は半分皮肉で言うたんやけど、藤堂さんは全く気がついてないみたいやった。
「いや、お前のせいやない。俺が家ほっといて仕事ばっかりしてたんがまずかったんやろ。娘にはいっぱい恨み言言われたわ。幼稚園の運動会に来なかったことから始まってやな、長い愚痴やったけども、いちいちごもっともで反論の余地もなかったわ。女房はおいおい泣くしやな、修羅場やったで。最高に格好悪かった」
 よっぽど格好悪かったんやろ。藤堂さんはしみじみ言うてた。
「そんなに悪いことかな。おとんの相手が男というのは」
 可笑しいてたまらんみたいに笑って、藤堂さんは俺に訊いてた。
「あかんやろ、それは。普通に考えてあかん」
 俺は正直に教えてやった。
 そんなこと、あんたが知らんわけない。非常に詳しく知っていた。せやから俺が怖かったんやないか。溺れてもうたら俺も終わりと、必死で逃げてた。怖い怖い魔性の蛇から。
「そうやろ。それに、もはや外道に堕ちたしな。相当に若返ってもうたし。このまま永遠にトシとらんのやったら、女房や娘とは縁切っといたほうがええで。なんせ相手が京都のボンボンやしな、そいつの家族に、うちのお父さん血吸うし、トシとらへんし、彼氏おるんやけどって、紹介できへんやろ。新婚早々、腹ぼてのまま突き返されるわ」
「ご返品かなあ」
 俺が、お気の毒にと請け合うと、藤堂さんはくすくす笑った。
「大したこと無い。ケ・セラ・セラやで。娘片付いて、肩の荷降りたわ」
 ほんまにもう心残りはないように、藤堂さんは言うていた。切ないやろけど、確かに選択の余地はない。人間としてのお前は、もう死んだ。ほんまやったら墓の下や。
 Que Sera Seraケ・セラ・セラとは、なるようになるという意味の言葉で、そういう歌の歌詞でもある。ビートルズとかと同じで、藤堂さんの好きな曲。似合わん曲が好きなんやなあと、前は思ったもんやった。

 Que Sera Sera, Whatever will be, will be.
 (ケ・セラ・セラ、なるようになるさ)
 The future's not ours to see, Que Sera Sera.
 (未来は誰にもわからない、ケ・セラ・セラ)
"Que Sera, Sera"(1956 / 歌:Doris Day / 作詞:Ray Evans / 作曲:Jay Livingston)より引用


 いつも渋面やった苦悩の藤堂さんも、俺が歌を歌うと喜んだ。ちょっと困ったみたいな顔で、微笑むこともあったんや。たぶんこの人は歌が好き。そして、歌歌ってる俺が好きやった。
 それにほんまは、そんな固い人でもなかったんかもしれへん。
 ただちょっと、ハマってもうてただけ。仕事の鬼みたいになって、正気やなくなってた。
 そんな感じで突き進み、行き着くとこまで行ったんやろ。それでポックリ逝ってもうて、やっと気がついたんやないか。何やってたんやろ俺は、って。
 人生、仕事よりも大事なもんがあったんやないか。娘の運動会に行ってやるとか、俺と手繋いで歩いてやるとか。
 でも、もう、それは、過ぎてもうた過去のことやしな。
 せやけど平気や、大したこと無い。ケ・セラ・セラやで。未来は誰にも見えへんもんや。俺には永遠に未来さきがある。やり直そうかって、そんなふうに思える人やったんやろ。
 しぶといわ藤堂さん。前よりずっと男前やわ。
 俺もクリスマス・イブの夜、女房と娘がいきなり来たし、仕事もあるしって全然俺にかまってくれへんあんたにキレたりせえへんと、あとちょっと待っといたらよかったんかもしれへん。どうせ死んでたやろ。そして復活していた。今みたいな、気楽なおっさんにリニューアルして。
 そしたら何でも許してくれたやろ。仲良く、よろしくやってたかもしれへん。
 それはそれで、楽しいコースやったやろけどな。
 でも、もしそんなコースやったら、あの夜のアキちゃん、可哀想やったよなあ。一人でバーで酒飲んで、酔いつぶれて帰る。もしかしたら飲酒運転で免停やったかもしれへんし、下手すりゃ事故って死んでもうてたかも。
 それはあんまり可哀想やしな、俺は耐え難い。やっぱり俺が居といてやってよかったで。
 コーヒー飲みたいつらをして、紅茶を飲んでるツレを見て、俺はそう納得していた。
 藤堂さんのほうは、惜しいけど、こいつにやろうか。
 ロレンツォ・お前に訊いたんやない・余計な口挟まんでええねん・名前長すぎる・遥・神楽・スフォルツァに。
「別れましょうか?」
 怒ったような冷たい声で、長い名前の外人は言った。
 突然なに言うとんねんお前。
「突然なに言うとんのや、よう
 同感やったらしい藤堂さんはびっくりしてた。
 びっくりするのにも、びっくりするけどな。お前がおると娘に気まずいみたいな話を本人のいるとこでして、気まずいって思わへん、お前が気まずい。
 こんな鈍い男やったんやと思いつつ、俺は店が問答無用で出してきた紅茶を飲んだ。いかにもな、英国式朝飯向け紅茶イングリッシュ・ブレイクファスト・ティーやった。徹底して「いつも朝飯」やな。
「ご迷惑でしたら出ていきますが」
「ご迷惑って、出ていってどうするんや。また教会帰るのか。スピード離婚やな。昨日結婚して今朝離婚や」
 そのオチになんでか俺は紅茶を吹きそうになってた。若干吹いてた。アキちゃんが仰け反ってたから、若干ツレにかけたんやろけど、それはまあいい。
「結婚!?」
 腕で口元を拭いながら、俺は必死で訊いていた。どっちに訊いたもんか決めかねて、名前長い外人と藤堂さんを代わる代わる見た。
 神楽遥はむっちゃ気まずいという顔をしていた。しかし目は逸らさずに俺を睨んでいた。
「そうや。再婚してん」
 藤堂さんはものすご普通にそう言うてた。
「えっ。ちょっと待って。こいつ女やった? 実は神楽遙かぐら はるかちゃんやったん?」
 俺は思わず席を立ってまで藤堂さんに訊いていた。はるかちゃんを指さして。
「いいや。男やで。ハルカやないで」
「どういう了見でそれと結婚なんかすんの!?」
 俺に真面目に頭上から訊かれて、藤堂さんは、えっ、どうって、と首を傾げた。
「結婚してへんのに一緒に住んだら、ふしだらやろ?」
 ああ、そうね、みたいな。そんな話か?
 藤堂さんは、考え方古いんか、新しいんか、よう分からん男。今時の世の中、結婚してないやつが同棲してて、ふしだらやと思うような奴がどこに居る。ヴィラ北野に居る。
 神楽遥は行き場がなかった。こいつは修道院に住んでたんや。それを教会おん出てもうたら、いきなり住み処に困るわけや。ほな一緒に住もか、って、そこまでは、まあ、何とか普通と言えなくもない話。
 そこからが普通ではない話。藤堂さんは考えた。一緒に住むのに、結婚もしないでは、ツレが可哀想やと。そして男としての甲斐性を見せたわけやけども、神楽遥はもともと教会と結婚してたような男やし、前のと別れたばっかで指輪の指リング・フィンガーが寂しい男。それで素直に承知して、前の男にもらった指輪の痕が消える間もなく、新しいのを填めたわけ。
「簡単やったで。うちのホテルに礼拝堂チャペルはあるし。発作的に結婚する客のために、ショップで指輪も売ってあるし。それに神父も居るしな」
 視線で神楽遥を指して、藤堂さんは、ほら完璧やという涼しい顔をしていたわ。
「それ、もう、神父ちゃうやろ」
 俺はいちおうツッコミ入れておいた。
 自分の結婚式の司祭を自分でやる奴がどこに居るねん。
 居るで、ヴィラ北野に居る。
「アキちゃん。絶句してへんと、何か言うてやれ。このアホどもに……」
 俺はテーブルに両手をついて、常識大好き本間暁彦に助けを求めた。
 もう俺をこの異常なアホアホ世界の泥沼から助けられるのはアキちゃんだけや。
 せやのに俺のツレは助けるどころか、自分も一緒に飛び込むほうを選択していた。
「画期的や」
 何が画期的なのか。アキちゃんはものすご感心した声で言うてた。
「そうや。それは考えてみたことなかった。お前と結婚すればええんや」
 それで解決、みたいな話を、アキちゃんは俺にしていた。
 すみません、お話の途中でアレなんやけど、亨ちゃんはなんの話か全くついていけてません。
 俺はテーブルに両手をついたまま、え、なんやて、という朦朧顔でアキちゃんを見た。
「実は昔から、誰かと結婚したかったんやけど、お前は男やし無理やなあと思ってたんや。でも、できるんやったらお前でええか」
 カツ丼ないなら天丼でええか。そんな感じでアキちゃんは言うてた。
 俺はさらに朦朧として、それを見た。
「これと結婚すんの。チャレンジャーやなあ、本間先生。でもいいですよ、結婚。離婚もできるし」
 藤堂さんがそう勧めていた。アキちゃんはそのアホな話を真顔で聞いていた。
「何やったら、これから帰ってします? 天気ええし。ものの十分くらいですよ。誓いますか、誓うアイ・ドゥ誓うアイ・ドゥでキスして終わりやし。指輪も店にありますし、金とプラチナとどっちがいいですか」
 藤堂さんは悪魔の結婚業者みたいやった。まるで娘をとっとと片付けたいおとんみたいやった。
「そんな発作的にしていいもんなんでしょうか」
 アキちゃんもさすがに引いていた。
「いいんやないですか。そんなん天職とおんなじですよ。深く考えて結婚しても、離婚するときゃするし、適当に結婚しても、一生添い遂げるやつは添い遂げるでしょ。なぁんとなくのノリでええんやないですか?」
「なぁんとなく?」
 アキちゃんは説得されつつあった。藤堂さんと斜向かいの席で向き合って、そうかなあって呑まれた顔で大人しく見つめ合っていた。
「結婚というのは契約なんです。仕事の契約と同じです。誓約して、それを守るだけです。守れそうにない場合は誓ってはいけませんが、守れそうなら難しいことではないです」
 長い名前の元神父が、そんな話を補足してやっていた。
「守るって何を守るんですか?」
「結婚ですから、誓約内容は愛です。お互いを尊敬し、愛し、守ることを誓うのが結婚です。死が二人を分かつまでです」
 アキちゃんに訊かれ、神父は真面目くさった顔をして、自分のカップに紅茶を注ぎながら答えた。その銀色のポットを持つ指に、金の指輪が光っていた。
「永遠に死なない場合は?」
「契約が、永遠に続くだけです」
 紅茶を飲みのみ、神楽遥は断言した。
「永遠?」
「何か不都合でも?」
 確かめているアキちゃんに、神楽遥はなにかムッとしたような声で答えた。
 アキちゃんはそれに、ちょっと慌てて首をふるふる振っていた。
「ちなみに、浮気はだめです。婚外の相手と、どうのこうのあるのは、姦淫かんいんです。十戒によって禁じられています」
 伏し目にテーブルを見ながら話す神楽遥は、なんや言いしれぬ怖さに満ちていた。神父やからかな。元やけど。司祭さまやからか。それが説教垂れてるからか。
 そんなビビってる俺のところへ、できあがった朝食を持って、金髪の店主がにこやかに現れた。店主はイギリスから来たとかで、日本語が下手やった。それでも藤堂さんとは気さくに話した。藤堂さんはホテルマンやし、長く海外で修行したこともあって、英語はぺらぺらや。発音もええしな。英語で冗談言えるレベルやで。せやし店主に冗談を言って笑わせていた。
 飯出てくんの遅いし、お客さん二回ぐらい餓死して復活したところやわ、って。
 それは嫌みといえば嫌みなんやろけど、藤堂さんはこの店では常連らしい。店主はぜんぜん気にしてへんかった。あははと笑って受け流し、俺とアキちゃんの前に、卵やポリッジの白い皿を次々並べた。
 その笑ってる顔がな、美貌やった。綺麗な顔やったんや。歳は、そうやな、三十なったかならへんかくらいか。それでも藤堂さんから見たら、まだまだ若いほうやろ。品もええし、アングロ・サクソン系のエレガントな男やった。
 ごゆっくりと言って、店主はまた引っ込んだ。
 美味そうな朝飯や。
 さあ食おか、って。
 そんな空気やなかった。
すぐるさん」
 むっちゃ冷たい声で、神楽遥は訊いた。
「この店、休みの度に来てたんですか? 毎週?」
 眉をひそめて、神楽遥はちらりと、カウンターの向こうに見えてるキッチンの湯気の中で、何かをタイプしてるらしい店主を見やった。かたかたと、キーボードの音が聞こえる。
「いいや。基本的に毎朝来てた。朝飯、美味かったやろ?」
 どことなく、言い訳臭く聞こえる声で、藤堂さんは答えた。
「いいえ。僕はイタリア系なんで、朝はカフェラッテとビスコッティです。英国風ブリティッシュやないんでね。朝は甘いもんを食べるんです。ポリッジとか、芋やのうてね。もっと洗練されたもんを」
 神楽遥は、むちゃむちゃトゲトゲしてた。そして、引き続き怖かった。
 怖いなあ、って、藤堂さんは引いていた。でもそのビビる感じが、案外気持ちいいです、みたいな、そんな感じやった。
 それを見て、俺はふと思った。この人、歌ってる俺も好きやったけど、実は案外、鬼みたいやった俺のことも、好きやったんやないか。藤堂さん実は、ちょっとマゾっ気もあるのかなみたいな。そうやなかったら、悪魔サタンそのものみたいやった俺に、一年も耐えられたはずがない。そしてそれを、愛せたはずがない。
「怖。怖いなあ。お前はいったい何を怒ってんのやろ」
「顔で、選んだんですか」
 ゆっくりと、神楽遥は問いつめた。まるで宗教裁判やった。答えしだいで火炙り決定みたいな。
「何が。味で選んだんやで?」
 飲もうとしたけど紅茶空っぽやったわって、藤堂さんは笑いながら慌てていた。
 紅茶ありますよって、アキちゃんがそれに注いでやっていた。なんか同情湧いたんやないか。いつも自分が俺にやられてることやしな。
「味? 味で選んだんか! 人間性やのうて味!?」
「お前のことやない。この店の話やろ?」
 アキちゃんに注いでもらいつつ、藤堂さんはキレかけ二秒前みたいな神楽遥をむっちゃ避けてた。
 まあ、これはこれで、名コンビ。というか、バカップル。というか、お似合いの夫婦? 妻はおらんから、お似合いの連れ合いどうしになれそうや、というところかな?
 関西でいう、ツレというのは、連れ合いのことを指す。友達もツレ、恋人も、配偶者も、漫才の相方もツレ。連れ立って何かする固定の相手はみんなツレ。せやから、アキちゃんは俺のツレ。ほんで、神楽遥は藤堂さんの新しいツレやった。もうそれでええか。怖いけど、怖いのんがけっこう好きらしい、俺の前のツレを、よろしゅうお頼み申します。
 我慢ならんという顔をして、神父は白い両手を額に添えて、堪えなあかんという態度をとってた。まるでブツブツ祈ってるみたい。
 我慢するんや。キレへんの。俺なら絶対キレてるけどなあ。水か紅茶かぶっかけてると思うわ。
 よかったなあ、藤堂さん。おとなしい子が来て。お育ちええ子は違うわあ。これこそあんたの好みやろ。顔ええし行儀はええし、神父やしな。良縁やった、まさに。
「血吸うたん、こいつの」
 卵食いつつ、俺は藤堂さんに笑って訊いた。
「吸うたよ。めちゃめちゃ吸うてやった」
 自嘲的に、藤堂さんは言うた。恥ずかしいんやろ、俺に訊かれて。俺から逃げて逃げて、結局これかみたいな、そんなオチやもんなあ。情けない。
「ほどほどにしときや。ほんまに永遠に連れ添う羽目になんで。こいつ力強いみたいやからな、たぶん上手く化けるやろ。怪物なったりせえへんと、ほんまになってまうで、血を吸う外道に」
 藤堂さんがきっと心配してるであろうことを、俺は教えてやった。
 そんな俺の親切極まりない結婚祝いのスピーチに、藤堂さんはにやりと舌なめずりをして、意地悪そうな照れ隠しを言った。
「食いながら喋るな、亨。お行儀悪いなあ、お前は相変わらず。本間先生お育ちええねんから、行儀よくしてへんかったら嫌われてまうぞ」
「ああ平気。アキちゃん俺のこと、心底愛してるから」
 ベイクド・ポテト食いつつ、俺は自信満々で勝ち誇ってやった。そして、そうやんな、俺のツレ、と思って、アキちゃんを見つめた。それにアキちゃんは、こう答えてくれた。
「ほんまやで亨。お前、行儀悪いから、食いながら喋るのやめろ……俺も前から気になってて、いつ言おう、いつ言おうと思ってたんや」
 ノーフォローやったね。むしろ突き落としてた。
 アキちゃん、そんなこと思ってたんや。気をつけよ。
 でもね、今は言うたらあかんとこやったね。空気読めてない。
 そんなお前と、誰が結婚なんかするか。ほんまムカつく。俺を舐めんな。びっくりするやんか、そんな話にいきなりなったら。心の準備もくそもないわ。
 俺を式神やのうて連れ合いにする気か。頭おかしい。学生の分際で。そんなこと、できるわけない。おかんが許すわけない。おかんが許さんことを、マザコン野郎のお前がやれるわけない。
 でももし、おかんが許したら、してやってもええわ。ちょっと誓いますアイ・ドゥ言うぐらい、言うてやってもいい。でも、もうちょっと、考えさせて。
 考えたところで、断る理由もないんやけど、俺もとうとう年貢の納め時かって、ビビってくるからさ。そんな玉やないんです。それにそんな時でもないやん。
 のんきやな、アキちゃん。緊張感がない。
 俺がアキちゃん死んだらどうしようって、必死で焦ってる時にお前というやつは、そんなアホみたいなこと考えてたんか。お幸せやなあ。ほんまにアキちゃんは、お幸せ。そんなお前に愛してもらえて、俺もほんまにお幸せやわ。
「のんきやなあ、神父。結婚なんかして、アホみたい。なまずどうすんの」
 お行儀よく紅茶飲んでる王子様風外人に、俺は訊いてやった。
 神父はさすがにちょっと、ぐっときたみたいやった。自分でも思うんやろ。アホやな自分て。
なまずってなに?」
 死んでも禁煙はできへんらしい。アキちゃんにごめんねしながら、藤堂さんは葉巻にまた火を入れていた。これはこのおっさんの朝の儀式である。ゆっくりと一本吸うのが。
 それをにこにこ吸いながら、藤堂さんは何も知らんらしい口調で誰にともなく訊いていた。
 話してないんや、神楽遥。
「なんも知らんの、藤堂さん? ようそれで、あんな変な客、うじゃうじゃ泊めてやってるな」
 俺は呆れて訊ねた。
「いやあ、どんな客でも、お客様は神様やから」
 冗談のつもりはないやろけど、藤堂さんは的確なことを言うてた。そうやで、藤堂さん。知らんやろけどな、お客様の一部は神様なんやで。
 しかし、さすがに、尋常ではない客やというのは、いくら藤堂さんが鈍くても気がついていた。この人は仕事に関してはめちゃめちゃ勘が鋭いからな。鈍いんやないねんで、偏ってんねん。
「今回のは超大口の客でな、ホテルまるごと貸し切りやねん。大崎茂さんが、最終的にまとめて全部の費用を支払うということで」
 えっ。大崎茂って、大崎先生やんか。眼鏡の狐のご主人様やで。それに藤堂さんにとっては、アキちゃんが描いた俺の絵を競った相手やないか。赤の他人やないで。
「妙なもんやなあ。人の縁て。まだ死んでへんのかって言われたわ。よっぽどあの絵が欲しいらしいなあ、あの人」
 大崎先生と会うたことあるらしい口調で、藤堂さんは俺に言うてた。絵を買う時には、画商の西森さんを介しただけで、直には会うてへんかったらしい。病身やったしな、代理人を通した。
 ちなみに西森さんと藤堂さんは、あの絵を買うずっと前からの知り合いやで。
 藤堂さんは元々、東山のホテルのリニューアルのために呼ばれた、その手の仕事に定評のある男で、内装やらルームサービスのメニュー、フロントのお姉ちゃんのお辞儀の角度なんてものまで含め、何から何までのトータルコーディネートをするのが仕事や。言わばホテルの指揮者か調律師みたいなもん。
 せやから、もちろん絵も買うし、リニューアルにあたって、西森さんに依頼して、ホテルのエントランスに飾るでかい絵を探させた。真っ赤っかな三連作で、なんでか茶碗の絵やで。意味不明やけど、でもその絵があるせいで、地味くさかったエントランスはぐっと華やいだらしい。西森さんはそう言うてた。
 ほかにも藤堂さんは絵を沢山買うてやったし、西森さんはあんなおっさんや。お洒落やし、人好きもする。ふたりは気が合うたらしい。
 ここだけの話、俺を藤堂さんに紹介したのは、誰あろう画商西森やで。別にそういう意味で引き合わせたわけやないけど、あのホテルにある店で飯食おかって、西森さんに誘われてついていった時に、たまたま行き合うたんや。
 せやからまあ、共通の友人というとこか。西森さんは人に好かれるタイプなんか、人の縁のタコ足配線みたいなおっさんやで。めちゃめちゃ人脈広いしな。今では大崎先生かて、あの人のお客さんらしいやんか。めちゃめちゃ絵買うてるらしいで。金持ちは違うなあ。
 そう。大崎茂は資産家やった。それも桁外れの。某メーカーの会長さんやで。世界をまたにかけて稼いでるから、懐は暖かいのを通り越して灼熱や。
 これも、ここだけの話、大崎茂が他府県に引っ越そうかなあて言うだけで、京都の府知事は泣きながら土下座しにくるいう噂や。そして大崎茂が海外引っ越そうかなあ言うだけで、総理も青ざめるいう話や。
 みんな分かってへん。そんなん、あるわけないのにな。大崎先生が引っ越すわけない。アキちゃんのおかんが住んでる京都から出ていくわけない。狐が言うには、大崎先生はアキちゃんのおかんに惚れてるらしいからな。
 それでもあの爺さん、ちゃんと結婚してるらしいで。奥さん居るねん。妾もおるで。それで息子とか娘もいっぱい居るねん。それでも自分のような、巫覡ふげきとしての力を継いだ子が、ひとりも出てけえへんかったんやって。
 それでもアホな子らやないで。みんな頭良くてエリートらしいで。竜太郎がそう言うてたやろ。海外留学とかして、一生懸命お勉強して、立派に会社を継いでいる。それでも大崎先生は、あかんらしい。アキちゃんや竜太郎みたいのが欲しかったらしい。わがままやなあ。そして無茶苦茶や。
 もしも自分が愛しの登与姫とよひめと結婚できてたら、アキちゃんみたいな子が自分の息子として生まれてたんやないかって、思うらしいよ。それでアキちゃんにも執着してるんや。
 そんなん言われてもなあ。アキちゃんも困るよ。爺と親子ごっこさせられてもなあ。ほんまのおとんがカムバックしてんのやしな。要らんよな、海原遊山。
「本間先生と、大崎先生は、いったいどういうご関係なんです?」
 訊いてええのかなという、ちょっと遠慮がちな態度で、藤堂さんはアキちゃんに質問をした。
「どういうご関係なんやろ……」
 なんて説明したらええんやという困り顔で、アキちゃんは口ごもった。なんか適当なこと言うてごまかすんやろと、俺は思ってた。
 しかしアキちゃんは藤堂さんに、ぶっちゃけ話してた。
「うちのおかんが一種の拝み屋で、大崎先生はその客なんです。俺が家業を継ぐやろということで、目をかけてもろてるようです」
「えっ。先生、拝み屋なるんですか。画家やのうて?」
 むちゃくちゃびっくりしたように、藤堂さんは吸いかけた葉巻を宙に浮かせた。
「いや……悩んでるんやけど。たぶん、両方なるんやないかなと」
 ちょっと恥ずかしそうに、アキちゃんは話してた。
 藤堂さんはそれを見て、しばらく不思議そうに目を瞬いていたけども、やがて面白そうに吹き出して笑った。
「それは凄いね。不思議不思議や。先生は絶対に、絵は描いたほうがいいと思いますよ。言うつもりなかったんやけど、あの絵ね、俺が先生から買うたやつ。生きてます」
 誰を見るのも照れくさいという顔をして、藤堂さんは他に見るもんなかったんか、キッチンで何かタイプしてる店の主人を眺めた。
「夜中にね、夢かもしれへんけど、歌歌うてる。それに、喋るときもあるんです」
「喋る!?」
 気色悪い。俺は思わず叫ぶ声やった。
 絵が喋るなんてキモい。しかも俺の絵なんやで。本人差し置いて、勝手に発言せんといてほしいわ。アキちゃんの絵やから、そんなことがあっても変やないけど、それにしても凄い。
「なんて言うてんの、俺の絵は」
 怖いわあと思いつつ、俺は藤堂さんに訊いた。俺も空気読めへん蛇やった。
 藤堂さんはにやりと笑って俺を見て、その苦みばしった笑みのまま、俺に教えた。
「アキちゃん好きや、アキちゃん好きや、俺をずっと、離さんといて……」
 ぼんやり詩を読むような声色で、藤堂さんは言うていたけど、それはいったい、いつからの話かと、俺にはそれが気になった。
 まさか藤堂さんがいっぺん死ぬ前からずっとかな。ずっとそれを聞きながら、この人は死んで、また生き返ってからも、時々それを聞いてたんか。
「胸糞悪いしな、焼いてまおうかと思ったんやけども、よう描けてる絵やし、それも惜しいと迷ってな、他に相談する相手もおらんし、世間話でここのマスターに、人生相談乗ってもろたんや」
 カウンターから見える店主の横顔は、日本語会話は聞いてない、そんな顔やった。
「あの人な、小説家やねん。朝飯屋は道楽や。喫茶店で小説書くと、はかどるんやって。せやけど他人の店やと好みに合わんところもあるから言うて、自分で店することにした。そしたら二十四時間でも、年中無休やろ。時々来る客の話から、ネタも拾えるっていうんで、ええご身分らしいわ」
 どうりで商売っけがないわけや。どうでもええんや、客入りは。
 その割にお前の作る朝飯は美味い。紅茶美味いよ、小説家。いい腕してる。イギリス人やから?
「マスターが言うにはな、あの絵は帰りたがってるらしいですわ。アキちゃんのところに。せやから先生に返してやらなあかん。そんな絵描けるんやから、先生は絵描きになったほうがいい。あんな雄弁な絵は、俺は見たことがない」
 ふっふっふと藤堂さんは笑った。アキちゃんは照れたような難しい顔をして、うつむいたまま黙っていた。
「持って帰ってください、チェックアウトするときに。それまでの間は、あの、人の気も知らんかった悪魔サタンに、せいぜい見せ付けとくから」
「い……嫌です。絵は外してください」
 慌てたふうに、神楽遥が頼み込んでた。
「何が嫌やねん。外しても置くとこないやろ、あんなデカい絵。どうせちょっとの間やないか。いつごろお発ちになるんですか、先生」
 にこにこして、藤堂さんはアキちゃんに訊いた。
「わかりません。仕事が終ったらです。大崎先生にでも聞くしかないか……」
 ちらりと神楽遥を見て、アキちゃんは、お前は知ってんのやろという顔をした。そうやった。神楽遥は、なまずがらみの予言を握ってるヴァチカンからの派遣で来てるんや。詳しい事を知らんわけがない。
「近々です」
 言いにくそうに、神楽遥はアキちゃんの視線に答えた。
「予言には、この八月としか、記されていなかったようです。大崎氏が地元の予知能力者を動員して、なまずが出現する日を特定させようとしています」
「分かったんですか、その日」
「八月二十五日です」
 けろっとして神楽遥は言うた。深刻な顔やったけども。
 今まで、なんで言わへんかったんや。
「四日後やないですか」
 アキちゃん、心底驚いたような顔やったわ。
「そうです、しかし、予知やなんて。実際にその日が来るまで、当たるかどうかわかりません」
 渋々そう言う神楽遥に、アキちゃんは難しい顔をした。
「誰が予知したんです?」
「海道蔦子さんです」
 えっ。蔦子さん?
 そんなん、これっぽっちも言うてなかったで。
「なんで、黙ってたんですか、神楽さん。言うてくれてたら、何か準備のしようもあったんやないですか」
 アキちゃんもさすがに、眉間に皺寄せて、険しい顔をして訊いた。神父はそれに、たじろぐ気配もなく答えた。
「皆が信じると、それが実現する確率が高くなるので、部外秘にという事やったんです。でも、本間さん。僕にはピンと来ません。奇跡や予知というのは、神が与えるもので、人が起こせるものやないです。海道蔦子さんは、一体、どういう理屈でそんな奇跡が起こせるのですか。あなたも、天使を見たというけど、信徒でもないし、なぜそんな人のところへ、天使が降臨するんやろ」
 神楽遥は、恨みがましかった。
 それは、こういうことやった。
 なんで神父として神と教会に人生捧げてた自分のとこには天使は現われへんかったのに、お前みたいな蛇飼うてるエロ男のところに現われるんやろ。納得いかへん。ということ。
「それは……その天使が、俺と縁のある奴やったからです。別に、キリスト教の神さんだけが、唯一の神やないでしょ。蔦子さんはほんまに、未来を予知する力があるんやないですか。うちはそういう血筋なんです。天地あめつちと交感して、力をもらって、その、いわゆる神通力じんつうりきというやつを、使えるんです」
「それは異端です」
 ムッとして、神楽遥は答えた。でも、否定してるというよりは、ただゴネてるみたいやった。アキちゃんは、困ったなあという顔をした。
 そして、なにか描くもの持ってませんかと、誰にともなく訊いた。
 あいにく誰も持ってへん。しかし気の利く藤堂さんが、執筆中らしいマスターに、メモ帳借りるでと言いに行き、マスターはどうぞと言うて持っていかせた。えらい、勝手知ったる他人の店やなあ。
 いわゆるイエローパッドやった。薄黄色い紙に、罫線の入ってるメモ用紙。日本ではあんまり見ないけど、欧米では定番。その辺も、さすが外人の店というか、さすが神戸というか。
 アキちゃんは見慣れないその紙をもらって、深い緑色の塗装をされた消しゴムつきの鉛筆で、何かを描き始めた。その手元を、神楽遥はじっと見ていた。
 黒い蝶やった。丸い目のような模様を、はねに持っている。鉛筆の濃淡で微妙な陰影のついた絵姿は、ものすごく写実的リアルで、まるでその紙に貼り付けられた蝶の標本みたいやった。丸く塗り残された文様のところが、紙の地色のままの黄色で、鮮やかに見える。
 アキちゃんはそれを、あっという間に描き上げた。それだけでも魔法みたいやと、俺はいつも思うんやけどな、この時のアキちゃんの魔法は、それだけでは終らへんかったんや。
 仕上がった蝶の絵の、鉛筆の粉を吹き払うように、アキちゃんはそうっと、絵に息を吹きかけた。ふうっと吹かれて、黒い蝶はびっくりしたみたいに、羽をそよがせ、ふわりと紙から飛び立った。
 はためく黒い羽の色は、鉛筆のタッチもそのままの、絵の蝶やった。それが黄色い目を閃かせ、ひらひらとテーブルの上を舞い、そんな馬鹿なという形相の神楽遥の目の前を、これでどうやと見せ付けるように、行きつ戻りつした。
「すごい、まさに奇跡や」
 驚いたような、いかにも嬉しいという声で、藤堂さんが褒めた。ようやったと、おとんが息子を褒めてるような声やった。
 アキちゃんはそれに、にやりと苦笑のような、堪えた笑みをした。ほんまはにっこり笑いたいんやないか。なんかそんな感じ。
 嬉しいんか、このおっさんに褒められて。いったいアキちゃんの脳みそは、どういう造りになってんのかな、神経おかしい。
「こんなのは、奇跡では、ありません。ただの幻覚です」
 往生際悪く、神楽遥は苦虫噛み潰したような顔をしていた。
 そんな元・神父に、そんなことない、俺は触れるよと言うように、蝶はひらりと舞い降りて、テーブルの上にあった神楽遥の白い手に、そっと止まった。触れる感触があったんやろう、神楽遥の手が、ぴくりと震えた。
「奇跡と、ただの幻覚って、どう違うんです?」
 アキちゃんは、困ったなあという顔で、わなわな来てる神楽遥の顔を見た。
「信仰の、ある・なしです」
 断言する神楽遥は、それ以上は何か言う気配もなかった。ただじっと、手の蝶を振り払いたいのを耐えてて、それで精一杯ですという感じ。
 そんな相方の顔を、やれやれみたいに眺め、藤堂さんが代わりに話した。
「キリスト教の神の奇跡はな、信仰深い者だけが起こせることになっとうのや。天使もまあ、基本的には信者の前にしか現れへん。でも例外はあるはずやで。神がその存在を異教徒にも証そうというときに、誰の目にでも奇跡は見えへんとおかしい」
 そうですよね神父さんと、藤堂さんは相方に話を促した。それで神楽遥は、口が利けるような気になったらしい。
「そうです……そういう例は、確かにあります。キリスト生誕の時には、天空に天使の群れが現われて、神を讃える歌を歌うのが、信者ではない者の目にも見えました。その時にはまだ、キリスト教は宗派としては存在しなかった訳ですからね、信者はいません。それでも近隣にいた羊飼いたちには、その天使が見えました。聖書にはそう記されています」
「ほな、ええやん。本間先生に天使が見えても」
 そんな小さいことに拘ったらあかんでお前と、そんな口調で藤堂さんは神楽遥を宥めていた。しかしそんな藤堂さんを、元・神父はじろっと睨んだ。
「いいえ。天使の降臨はともかく、奇跡を起こせるのは神に選ばれた信仰篤い者だけです。それ以外は皆、悪魔サタンが仕掛ける妖術です」
 悪魔サタンや言われて、アキちゃんは少々引いていた。
 それでちょっとだけ言いよどんだけども、結局言うてた。
「妖術……やと思いますけど、なんか、まずいですか。それやと」
 ちょっとビビってるみたいやった。なんでビビんの、この元・神父に。信者でもないし、キリスト教なんかほとんど知らん、クリスマス・イブに女とホテル泊まって、セックスしようみたいな男がやで、何を恐れることがあんの。
 そん時にはまだ敬虔な信者やった藤堂さんが、何してたと思うんや。家族で教会行ってたんやで。真夜中のカトリック教会に。クリスマスのミサに列席するためにやで。そしてまた仕事に戻り、俺をほったらかしにしていた。その隙にお前が俺をゲットしたんやないか。
 クリスマスに人間がやることとしては、最もキリスト教の信仰から遠い。救世主メシアの生誕を祝う聖なる夜に、てめえは悪魔サタンを口説いてたんやから。思いっきりのアンチキリストや。
 そして極東の島の妖術使いですよ。まさにそれです、アキちゃんは。キリスト教、一切関係なし。家は神道、おかんは巫女、おとんは大明神、そして本人もげきや。クリスマスはサンタクロースの日やと思うてる。
 だってホテルのバーで飲んだくれながら、アキちゃんはいろんな愚痴を吐いていたけど、うちにはサンタが来たことがないって言うてたもん。
 サンタなんかいまへん、迷信どす、っておかんが一蹴して、クリスマスはなんもなし。代わりに正月に新しい服と玩具をもらえたらしい。
 別にええけど、うちは普通やない、なんでそうなんやろ、普通のうちのクリスマスには、サンタが来るもんやろ、とアキちゃんは俺に言うてた。
 しゃあない。悪い子やから来ない。それにあれは普通、おとんが化けるもんやろ。おとん、居らへんのやからしゃあない。居ったけど、おとん大明神がサンタに化けて出たら、それはそれでアキちゃん怖かったやろ。サンタなんか居ないって、ほんまは知ってたみたいやから。信じてへんから来ないんや。あれの中身はおとんやと、お前が知ってたからあかんねん。信じてれば、来たかもしれへんで、サンタクロース。信じてる子のとこにしか、あの爺は現われへんねん。そういうもんやろ、神や怪異というのは。
 まあ、とにかく、あの爺さんも、キリスト教と関係あるようでいて、実はない。聖ニコラウスとかいう聖人やということで、後付けで関連付けされてはいるけども、それは無理矢理。クリスマスにツリー飾るんは、ほんまは北欧のほうの常緑樹信仰がもとになってるもんで、冬至の祭りや。サンタクロースも玩具くれる妖精なんやで。せやから手下どもも妖精なんやんか。
 なんも関係あらへん。アラブのちょい横、エジプトのちょい上あたりのベツレヘムで、粗末な馬小屋で生まれた男の子がはじめた宗教の神さんと、北欧の玩具くれる爺さん、なんも関係ない。せやけど楽しい、クリスマスにツリー飾ったり、家族でケーキ食うたりするのは楽しいし、やめられへんし、子供ら可哀想やしということで、キリスト教の神さんも、それを許したんやろ。水煙兄さんに言わせれば、その神の名はヤハウェや。
 俺が唯一絶対と、強面こわもての神さんやけど、折れる時には折れているらしい。悪魔サタンアレルギーでも神は神や。結局人間を愛してるんやろ。人間が好きやというもんを、あかんと言うて取り上げることはできへん。ピンチになれば救おうとする。そうしてバレてまう、俺は全知全能やて言うてるくせに、そうでもないやんということが。
「まずい、というか、なぜ全知全能の神が、そんな妖術の力を借りねばならんのかということです、本間さん」
 まるでアキちゃんが悪いみたいに、神楽遥は問い詰めていた。
 尋問されてるアキちゃんは、むちゃむちゃ姿勢が良かったよ。めっちゃ緊張していた。怖いねん、神楽遥。マジで怒ってるんやもん。
「なぜ、って……なんでやろ。そんなん俺は知らんけど。えーと……なんでです?」
 結局、神楽遥本人に聞き返してた。
 そうやな。お前が知らんのに、アキちゃんが知るわけない。アホやねんから。この件に関しては、かなりアホやで、アキちゃんは。なんや知らんうちに巻き込まれて、なんや知らんうちに祭主にされてんのやから。下手すりゃ生贄なんやで。アホとしか言いようがない。
「私が訊いているんです。ヴァチカンでも同じことを訊きましたが、ウヤムヤにされました。まあええやん、とにかく行ってこいみたいなラテン乗りで。そういうの駄目なんです僕は。白黒はっきりつけたいんです。我慢できへんのです、我慢しろて言われても!」
 我慢がきかない神楽遥は、ちょっとばかし怒鳴る口調やった。それに藤堂さんは、呆れたみたいに眉ひそめてた。
「大きい声出すな、よう。はしたないで……」
 なんやとこら。俺に指図できるような立場か。跪いて足をお舐め。と、俺ならそう言うところやで。しかし神楽遥は、そんな奴ではなかった。
 藤堂さんに呆れられて、うっと詰まってた。嫌われちゃったらどうしよう、みたいな、そんなしんどい顔を、一瞬だけした。可愛いやつめ。そこがポイントやったんか。知らんかった。キレたらあかんかったんや。
 もじもじ黙った神楽遥の手にはまだ、蝶々が止まってた。それを恨めしそうにじっと見てから、神楽遥はさっと手を振った。蝶はびっくりしたように、また宙に舞い上がった。
「あのね、本間先生。話見えへんし、ぶっちゃけ聞いてもいいですか。何してるんです、霊振会て。お客様の素性をあれこれ詮索すんのは、褒められたもんやないとは思うけど、それでも普通やないからね」
 吸い終えた葉巻を灰皿に置いて、藤堂さんは店の外、ドアの向こうの、ヴィラ北野があるほうを見た。
「うちのホテル、全部で七十五室しかないんですよ。そこにどうやって、二千人も泊まってるんやろ? 二千人分払うからええやろって、大崎先生は言わはるんですけどね、こっちも、ああそうか儲かったでは済まないんですよね。だって七十五室ぶんの人員しかいないはずやからね、ハウスキーピングとか、どないなってんの……」
 許せへんわという顔で、藤堂さんは苦々しくホテルを透かし見ていた。
しきがやってるんやと思います」
 アキちゃんが、ぼそりと答えた。
「しき?」
 なにそれって、ものすご強い声して、藤堂さんが訊いた。アキちゃんそれに、かすかに身構えていた。
「なんというか……いるんです、そういうのが。幽霊みたいなもん、ていうか……ものすご強い神様みたいなのから、鉛筆削るくらいしかできへんのまで、いろいろ等級があるらしいんですけど、巫覡ふげきに憑いて、使役に応えるんです。それが、部屋の掃除とか、ベッドメイキングとか、やれと言うたらやるんでしょう」
「ハウスキーピングを?」
 そんなアホなって、藤堂さんはそんな口調やったけど、そら、ご主人様にやれ言われたら、しきはやるやろ。喜んでやる奴もいてるはず。だって俺もやってたやん、アキちゃんのために飯作ってやってたし、掃除もしてたで。別に俺は、そういうの、嫌いやないねん。藤堂さんは知らんやろけどな。
「許せへん」
 藤堂さんは嘆かわしそうに断言した。
 そうやろな。ごめんな。藤堂さんはどっちかいうたら、自分ではなんもできへんみたいな、王様というか王子様というか、そんな子が好きなんやもんな。一日だらっと楽しく遊んでて、カナリアみたいに歌歌うて、夜は待ってる、そんな感じの浮世離れしたのがええんやろ。せやけど俺にはつらいねん、性に合わへんのです。遊びもええけど、一緒やないと面白うない。一人じゃ嫌なの。構って欲しいの。それが無理ならしゃあないんやけど、他の男とやっとけって、そんなん無茶苦茶すぎなのよ。
 それでもやるけど。だって誰かから精気吸わんと死ぬんやもん俺は。
 それ見て、お前は淫乱やって、そんなのあんまりやないか。たへんお前が悪いんやないか。血も吸うたらあかんて言うし。亨ちゃん、どうにもやむをえず悪い子してたんやないか?
「ハウスキーピングにも美学があります。勝手にやってもろたら困るんや」
 あれ、そっちの話やった。しきの事やなかった。
 急にイライラしてきて、藤堂さんは言った。ものすご険しい顔やった。俺がようく知ってる渋面や。仕事の鬼やで、鬼がまた現われた。
「そうまでして、何をしようというんです? なんの根城やねん、俺のホテルは」
 藤堂さんは、怒ってる。それが分かるんやろ。アキちゃんはさらに姿勢が良かった。なんでビビんの。なんでお前が藤堂さんにビビる必要があるんや。おとんのご機嫌そこねてもうた子みたいに、正座していいなら正座したいみたいな、なんでそんな気配がむんむんしてんのや。
なまず封じです」
なまずって何」
 取り付く島も無い、部下にもの訊く口調になって、藤堂さんはアキちゃんに訊いた。
「俺もよく知らんのやけど……大地震を起こす神さんらしいです」
「地震!?」
 すいません地震です、すいませんて、アキちゃんはそんなこと言いたいのを堪えてるような、若干青い真顔やった。ぱっと見には無表情やけど、俺はこの顔見慣れてる。アキちゃんがリアクションできないくらい動揺したときの顔やねん。
 なんで動揺してんの。藤堂さんに嫌われたと思ったんか。なんでそれがマズいの。変な子やわあ、アキちゃん。好きなんか、藤堂さんのこと。誰にでもモテるんやなあ、このおっさん。
 鈍いから、本人は気付いてへんのかもしれへんけど、藤堂さんはけっこう、いろんな奴に愛されていた。前のホテルでも、藤堂さんに片思いしてる男や女の部下がいくらでもおった。ドアマンにベルデスク、コンシェルジュの美人のおばちゃんまで。むしろあのホテルは藤堂さんの愛の城やったで。藤堂マネージャーの美学を達成すべく、日夜の努力を惜しまない下僕どもの巣窟やった。通りすがりに藤堂さんが、ようやってるわと微笑めば幸せで、なんやこれはと眉ひそめればチビりそうになる。慌てて直して、廊下の隅で泣く、そんな世界やってんからな。
 そんなハーレム生成男の魔力に、お前が捕まってどうすんねん、俺のツレ。画家やめてホテルで雇ってもらうんか。やめてアキちゃん、そんな新しい世界に目覚めんといて。そんなことになったら俺はどうなるんや。前の男に今の男を寝取られるやなんて、そんなん変すぎる。
「地震が起きるんですか? いつ?」
 じろりとキツい目をして、藤堂さんは訊いた。
「せやから……八月二十五日……?」
 アキちゃんは自信なさそうに言い、助けを求めるように神楽遥を見た。神楽はそれを見つめ返すだけで、否定はせえへんかった。たぶん、そうやという意味なんやろ。
「四日後やないか」
 どないなっとんねん、という口調で、藤堂さんは言った。たぶん、神楽に言うたんやと思う。お前はなんで黙ってたんや。いつから知ってたんやて、叱り付けるような空気やった。
 前もよくそうやって、あれが間に合わん、これがもう無理やって電話してきた部下に、藤堂さんは説教していた。子供でも叱るみたいに。厳しいねん。うまくやったらめちゃめちゃ褒めるけど、あかんときは冷たく叱る。その飴と鞭がな、えらい効くようや。愛の城ではな。
 俺はそれには、抵抗してたけどな。俺はお前の下僕やないねん。俺がご主人様なんやでって、いつもキレてたな。向こうは向こうで、俺に溺れたらあかんわって抵抗してたんやろうけど、こっちはこっちであらがっていた。お前に飼われて時々歌うカナリアやないねん俺は。悪魔サタンなんやぞって。
 しかし神楽遥は悪魔サタンではない。今や悪魔サタンの下僕。
「すみません……」
 何がすまんのか、神楽は藤堂さんに詫びていた。それに藤堂さんは暗い顔してため息をついた。
「何がすまんのや。意味なく謝るな。お前はちょっと変やな」
 ぷんぷん怒ってる顔で言い、藤堂さんは席を立った。
「お先に失礼しますよ、本間先生。仕事ができたんで、戻ります。大崎先生に文句言わなあかん。それに地震とは……支度せなあかん。水に食料に、それから薬も要るやろ」
 ほとんど独り言みたいに言うて、藤堂さんは店主に金を払いに行った。
「今日は、休みでしょう、すぐるさん。出かける約束は……?」
 訊ねる神楽は最高に哀れっぽかった。
 そんなんで、いちいちヘコタレとったら続かへんで。すっぽかしはこのおっさんの常套手段やからな。仕事やったら約束チャラにしてええと思ってる。本気やで。
「また今度な、それどころやないわ」
 財布から札を出しつつ、藤堂さんは煙草も出した。葉巻ではない紙巻の、昔吸ってたやつや。何も変わりない。仕事中に葉巻は吸われへんから、代わりに紙巻吸うわけやけど、ヘビースモーカーやねん。そんなんしてるから癌になるんやで。今更もう、体は壊さへんやろけど、やめたんちゃうの、仕事の鬼。やっぱこっちも、死んでも治らん病気やったんかなあ。
「それどころやないって……すぐるさん。昨日結婚して、今日はもう仕事?」
 そんなアホなっていう、呆然と立っている神楽の電話が、ぴりりと鳴っていた。日本来て、使い始めたばっかりやからか、その音は初期設定デフォルトのままの電子音やった。
「電話鳴っとうで。お前も仕事や」
 ふかした煙草で指されて言われ、神楽はぐっと堪える顔をした。それでも電話に出んわけにはいかんらしい。元・神父は今も神父みたいな顔をして、それでも痛恨の様子で目を伏せながら電話に出ていた。そしてこちらに背を向け話す。
「はい……神楽です。いいえ、何もしてません。すぐ行きます、司教様ファーザー
 そして電話を切っていた神楽に、笑いながら藤堂さんは言った。
「パパだらけやなあ、よう。お前は不実な悪い子や」
「仕事です……」
 言われた軽口にぐったり来たんか、神楽はうな垂れていた。
「ひとりで平気か。本間先生についていってもらえ」
 えっ、なんでそんな話に。
 えっ、なんで俺がって、アキちゃんもそんな顔をしていた。
 せやのに藤堂さんは頭を下げた。
「よろしくお願いします、先生。また昨日みたいなことになったら困るから」
 笑顔ひとつでツレを俺のツレに押し付けて、藤堂さんは帰るみたいやった。一人で。
 店主は慣れた様子で会計用のカウンターに頬杖をつき、にこにこと愛想よくそれを送り出した。
 良い一日をグッデイすぐるさん。と店主は挨拶をし、藤堂さんはそれににこやかに手を振って、君もねユートゥー、ジョージ。と答えた。
 毎朝、来てる。確かそう、言うてたな……。
 ほんまもう、殺さなあかん。もしも今まだ俺のツレなんやったら。
 よかった。もう、俺のやのうて。
「ジョージ……すぐるさん……」
 呆然と、神楽はそう呟いた。アキちゃんはものすごく、気まずそうやった。目を逸らしてた。目が合ったらどんな目に遭わされるんやろって、恐れてる顔やった。
「普通やで、神父。普通やろ? お前も外人なんやから、仲良ければ普通にファーストネーム交流やろ?」
 俺は後輩を慰めてやった。
 せやのに神楽はゆっくりと、首を横に振っていた。
「僕は、日本人です。寝言も、日本語で言うし。それに、ちょっと店で会う程度の相手を、ジョージなんて呼びません」
「しゃあない、藤堂さん、外国暮らし長かったんやから。あの人ときどき、英語で寝言言うで?」
 なにげにした思い出話のせいで、俺はキッと神父に睨まれた。怖ッ。思わず目を背けてもうた。
「知りません、そんなの。まだ寝言なんか言うたことありません。行きましょう本間さん。車出してください。今、自分で運転したら確実に事故るから」
 確かに神楽はわなわな来てた。その手でハンドル握ったらヤバそうやった。
 確かにそうなんやけど、アキちゃん、付いて行くことに決定されてる。なんでそうなるんや。俺ら今日は特に予定がなくて、ゆっくりいちゃつこうかなあみたいな、そんな胸算用やったのに。それかて大事な用事やで?
 しかし神楽はお構いなしやった。
「ああもう早う行かなあかん。さあ行きましょう、本間さん。悪い子やて言うんやったら、僕かて悪い子してやろかな」
 ぷんぷん怒って、神楽はアキちゃんの服を引っ張り、ずかずか店を出ようとしていた。
 会計はと焦るアキちゃんに、店主はにこにこ面白そうに見る頬杖のままで、すぐるさんが全部払ったよって、英語訛りの日本語で教えてやってた。それに一言の挨拶もせずに、無礼な神父は出ていった。からんころんとドアに吊るされたベルを鳴らして。
 You were Suguru-san's sweet heart, weren't you?
 (君はすぐるさんのイイ子やった子やろ?)
 ジョージは俺にそう訊いた。
 そうや。俺は黙って頷いた。
 それに、にこにこ笑い、店主はもう外に出て行った神楽を視線で指して、And that's new one.(ほんであっちが新しいのや)と言った。
 俺はそれにも黙って頷いた。
 そして、よろしくジョージ、お前はすぐるさんの何やねん、と訊いた。
 すると店主は笑って一言、こう答えた。鮮やかで品のあるイギリス英語で。
 Friend.(友達や)と。
 そして、それ以上詳しくは答えず、にこにこしている店主に、にやりと笑いかけ、俺は喫茶「いつも朝飯」を後にした。ドアを閉じると、からんころんと軽やかな、鐘の音が鳴った。
 ミントグリーンの店構えファサードを見上げると、その二階は住居になってるようやった。店の奥にあった階段を上れば、そこには部屋があって寝室もあるんやろ。どうせ客も大して来んような店、休憩中のメモ書きでもドアに貼っときゃ済む話。
 しかしそれはもう、俺にはどうでもええことや。神父もまだ気付いてないみたいやから、言わんといてやろ。可愛いもんやで、名前呼んだくらいで、わなわな来ちゃう初心うぶな子なんやから。
 友達やってと教えてやろか。それとも余計なこと言わんと、それも黙っといてやったほうがええか。
 友達言うたら日本では、もちろん友達のことや。親しく付き合うけども、恋愛関係はない相手のこと。
 せやけど英語のFriendは少々ニュアンスが違うてる。日本で言う友達のことも当然含むが、肉体関係はあるけど恋愛関係のない相手のこともFriendと呼ぶねん。いわゆるセックス・フレンドというやつですわ。
 俺と画商西森みたいなもん。それも内緒やで。
 なんでジョージが俺のことを、藤堂さんの前のツレやと分かったか。それはな、想像やけど、たぶん絵を見たことがあったんやろ。藤堂さんはホテルの地下の自分の住処に、俺の絵を飾ってた。でかいベッドからよく見える壁にやで。
 そしてジョージに絵の話をした。この絵は時々歌歌う。そして、アキちゃん好きや、離さんといてと頼む。どうしたらええろって。
 それにジョージは教えてやったんやろ。この絵はアキちゃんのところに帰りたがっている。返してやりなよと。
 そして別れた。良い一日をグッデイ君もなユートゥーと手を振って。それだけの話。
 大人って、みんな悪い子や。俺はそんな悪い大人には、なりたくない。いつまでも永遠にアキちゃんのイイ子でいたい。No More New One.(新しいのはもういらん)それがうちのスローガンやで。
 神父に拉致られてホテルに戻る道を連れて行かれるアキちゃんが、亨、早う来いと叫んでた。はいはいご主人様と、俺はそれを追いかけた。
 俺と一緒に店を出た蝶が、ひらひらと舞って、どこかへ消えた。きっと飛ぶんやろう、アキちゃんの吹きかけた息の魔法が消え失せて、もとの紙くずに戻るまで。それでも楽しい一日やろう。メモ用紙として過ごすより、蝶になって飛ぶほうが。
 良い一日をグッデイ黄色いメモ用紙イエローパッドと、俺はその蝶に挨拶をした。すると蝶は答えた。君もねユートゥー僕のご主人様のイイ子ちゃんマイ・マスターズ・スウィートハートと。
 ひらひらと、飛び去る蝶を見送りながら、俺は思った。
 俺は金よりプラチナが好き。その方がきっと、俺のツレには似合うやろう。
 そう思うと最高に幸せで、最高に甘い気分スウィートハートになれたんや。
 人生は、甘くない。せやけど時には、こんな甘い朝もあるという話。
 あと四日。俺は祈った。誰とも知れない神に。どうかお救いください。俺からアキちゃんを、とりあげんといて。どうか俺とアキちゃんを、永遠に添い遂げさせてくれと。
 祈っても、しょうがないやろか。
 けど、それならなんで、人は祈るんやろ。つらいとき、苦しい時、人は祈る。
 答えは明白。それには意味があるからや。
 神とは限らん。誰かがそれを聞いていて、頑張れと、きっと幸せになれると、一緒に願ってくれるかもしれん。皆が俺の話を、こうして聞いてくれてるみたいに。
 聞いても何もできへん。ただ聞くだけや。でも神さんも、そんなもんかもしれへん。だけど聞いてくれたら、俺は嬉しい。だから祈る。まして神なら、何かはできる時もあるやろ。
 それが祈りの効用や。その具体例については、また今度話そう。それまで皆も、祈っていてくれ。俺とアキちゃんが、幸せになれるように。それによって俺は、強くなれる。祈念する力が、幸福を呼び寄せる、そんな未来もきっとある。
 何の話かわからんやろう。それはまだ、先の話。またいずれ。また、いずれ。


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