SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(17)

 神楽さんは、ものすごく落ち込んでいた。それも無理ない、デートをすっぽかされたんやから。デートというか、まさかプチ・ハネムーンやろか。神戸港に船乗りにいくという予定やったらしい。
 恐ろしい話や。結婚するなんて。
 そんなこと俺は、いっぺんも考えてみたことがない。男同士で結婚できるなんて、これっぽっちも想像したことがない。
 固定概念というのは恐ろしい。なんで亨が女やなかったら結婚できへんと思ってたんやろ。もちろん、それが常識やからやけど。
 しかし、世の中には、相手が異性でなくても正式に結婚できる国もあるらしい。それは後々聞いた話やけども、中西支配人はそういうのを知っていて、それで、結婚しよかという話を神楽さんにしたらしい。
 せやけど神楽さんにすれば、ほな、しよか、というような、簡単な話ではない。
 元はといえば、同性愛はあかんと言うてた人なんやで。それは教会がそれを禁じてるから。ヴァチカンが同性愛を認めてないから。社長があかんと言うてるからや。
 察するに、神楽さんは長年それで苦しんできた人やった。だって、ほら、初恋の相手からして、たぶん男やったんやんか。同じ教会に通うてる、ちょっと年の離れた兄ちゃんなんや。
 きっと、竜太郎が俺を好きやというようなもんなんやろう。子供の頃って、年上の兄ちゃんに憧れたりするもんや。それがちょっと本気すぎたってだけやろ。相手が下手に応えへんかったら、それはそれで適当に誤魔化してやっていけたんやろ。
 しかし神楽さんは割とマジやった。中西さんのことも、ほんま言うたら前々から、けっこうマジで好きやったんやないか。
 神楽さんのおとんは、家具を扱う貿易商。妻子を連れてイタリアに帰ったものの、事業を止めたわけではなかった。会社は依然として日本にあったし、その拠点は神戸やった。
 中西支配人は、藤堂さんやった頃から、そのおとんと親交があった。ホテルに家具入れたりする縁故があったんや。それがきっかけで、六甲の神楽・スフォルツァ邸に招かれたりもしていた。
 それに、なんせどっちもカトリックの信者やし、家もけっこう近かった。ひとつの教会が担当しているエリアのことを教区きょうくと呼ぶらしいんやけども、その、同じ教区内に家があり、つまりは毎週同じ教会で顔を合わせていた仲やった。
 もしかすると中西さんは、小さいようちゃんに悪魔サタンが憑いた話も、なぁんとなく知っていたんかもしれへん。
 イタリアに帰った後も、この家族の親交は途切れへんかった。中西さんが、その当時はまだ藤堂さんやったやろけど、仕事でイタリア行ったついでに、神楽さんのおとんの家を訪ねていくこともあったらしい。
 そこで神楽さんは藤堂さんに会っていた。ヴァチカンはキリスト教徒にとっては巡礼の地や。せっかく近場まで行ったら寄りたいもんらしい。
 藤堂さんは家族を連れてきていた。奥さんと娘。全員カトリックやで。その三人家族を連れて、神楽さんはヴァチカンを案内してやった。大聖堂に美術館。神聖な祭礼ミサ
 もう小さいようちゃんではない。神父様と、藤堂さんは冗談めかして神楽さんのことを呼んだ。神学生やったからや。神楽さんにしたら、久々に話す日本語やったんやろ。楽しかったんやって。自分は日本人やと、その時気づいた。
 フォロロマーノの古い遺跡を見て、円形競技場コロッセオを見て、トレビの泉を見て、真実の口を見る。古い都や、見るとこだらけ。
 藤堂さんは英語はぺらぺらやけど、イタリア語は話せない。神楽さんは教会から休暇をもらい、何日もかけて観光に付き合ったらしい。通訳兼ガイドやな。
 せやけどその時にはもちろん何もない。
 藤堂さんは結婚してた。そして自分は神学生。
 思えばおかしい。
 神楽さんが悪魔祓いエクソシストとして派遣されてきた時、藤堂さんはいっぺん死んで、蘇って、そして離婚してた。それで中西さんになったんやで。
 教義に合わないモンが嫌いで、白黒つけたい神楽さんが、俺を紹介してくれたとき、中西さんにはにこにこ挨拶してた。親しげやった。会えて嬉しいみたいに見えた。この人は中西さんですと紹介した。
 それはただの人物紹介やけども、神楽さんは亨みたいに、いつまでもあの人のことを藤堂さんとは呼んでへん。
 実は喜び勇んで、この人は日本に戻ってきたんやないか。中西さんは奥さんと別れて、今フリーやし。駄目もとで頼んでみた。霊振会の人ら泊めてやってくれへんかって。そしたらまた、顔を合わせる口実にもなる。
 それでどうこうしたいって、そんな勇気はなかったやろけど。でも無視しては通られへん。六甲に派遣されて、すぐ近くに居るのに、素通りはできへんかった。引き寄せられる。縁の力に。あるいは愛か欲か、そんなようなもんの引力によって。ぐいぐい引かれる。
 そして今はもう、これ以上近づきようもないぐらい近くに居る。抱き合って眠っている。俺と亨が寝坊したみたいに、神楽さんも今朝は寝坊した。そして外で一緒に朝飯食いたいって、甘えて頼んだ。すぐるさんに。そして船遊びクルーズデートの予定やった。
 そんな人には、全然見えへんのに。
 結婚しよかと言われて、そうするアイ・ドゥと答えた。亨みたいに、ちょっと考えさせてとは言わへんかった。即決や。血も吸わせた。僧服も脱いだ。背後位バックでやらせた。それが気持ちよすぎて、泣くほど喘いだ。
 案外、何でもする人や。
 いっぺん崩れ始めると、あっと言う間。崩壊しはじめたダムみたいに。もう元には戻らへん。
 見ると、神楽さんの首にはその日も、血を吸われたような小怪我があった。それを敢えて治してないんは、たぶんあれやろ。鳥さんのキスマークと同じ。虎が食うてましたよという噛み痕を、残しておきたい。そんな気分なんやろ。
 この人もそのうち、血吸うようになるんかな。亨が俺を外道に堕としたみたいに、亨が外道に堕とした中西さんが、今度はこの人を堕とす。それでいいかと訊かれたら、それでいいと言うんやないか、この人は。あんなに悪魔サタンを恐れてたのに、結局そこへ行く。
 背中を押してやったんやと、亨は俺に話してた。昨夜やったか、ベッドで抱き合いながら、ひと波越えた合間の睦言で。神楽遥は物欲しそうに見えたんやって。こいつはきっと藤堂さんが好き。抱いてもろたら嬉しいやろうと、あいつは直感したらしい。
 それで深く考えもせんと、神楽さんをれって命令したらしい。吸血鬼ヴァンパイアなりたての中西さんに。
 ようやるよ、亨は。それで結果オーライやったからええようなものの、どんな悲劇になってたか、わからへんやないか。
 それでも亨が居らへんかったら、神楽さんと中西さんは、たぶん永遠に結ばれることはなかったやろ。そんな気がする。それとも、もしかしたら不思議な縁の引力で、そういうこともあったんかもしれへんけど、しかしどこの世に、友人の息子をってまう奴がおるやろか。居るかもしれへんけども、中西さんはもっとマトモや。
 それに、無理矢理にられでもせえへんかったら、頭の固い神楽さんが、教会辞めるわけがない。自分から好きやって、中西さんに告れるとも思われへん。
 だから無茶苦茶やけど、結果的には、あれが正攻法やったんやろ。亨が言うように。
「お前も来んのか……亨」
 ホテルの地下の駐車場で、後部座席に乗ろうとしてる亨を呼び止めて、俺は訊ねた。
「そら行くよ。アキちゃん行くんや、俺も行くに決まってるやろ。行ったらあかんのか?」
 なんとはなしの喧嘩腰で、亨は運転席の横に立つ俺に、車を挟んで凄んでみせた。
 後部に乗るのはな、助手席を神楽さんに盗られたからや。はっきり言わへんかったけどな、外道の横は嫌やって、そういう顔やってん。
 外道って、亨やないで。水煙や。
 神楽さんが電話一本で呼び出された仕事はな、また鬼退治やった。それを手伝うんやったら、俺には得物がいるわ。せやから俺は部屋に水煙を連れに行ったんや。
 水煙はまだ風呂でぐうぐう寝てたけど、俺が呼んだらすぐ起きた。まだ人型のままでいて、なんとなく、ずっと人型でいられるコツが分かってきたと言うてた。
 それはええことかもしれへん。水煙がそうしたいんやったら。剣に戻れんようになってもうたら、ちょっと困るけど、それはないわと笑っていたので、きっと平気なんやろ。
 それはええねんけど、車まで、また抱いていってと頼まれて、嫌やとも言われへん。別に嫌ではなかったし。他には方法がない。まさか亨に抱いていってやれと頼むわけにもいかへんのやしな。
 だから抱いていったよ。地下駐車場まで。
 そして、そこで待ってた神楽さん、ドン引きしてたわ。
 忘れてた。水煙、そういえば見た目が宇宙人。
 剣とってきますと部屋に帰った俺が、青肌の宇宙人を姫抱っこして戻ってきたら、そら引くわ。普通やったら引く。そんな事も俺はもう忘れてきてるんやな。
 それが普通というのは分かるけど、神楽さん。水煙避けるのやめてくれへんか。俺も傷つく。こいつは外道やないで、神さんなんやで、うちの守り神。俺は美しいと思うんやけど、神楽さん視界ビューではやっぱり悪魔サタンか宇宙人?
「ジュニア、亨にもついていってもらえ。何があるかわからへんのやし、しきが要るかもしれへんやろ」
 先にシートに座らせていた水煙が、俺を見上げてそう言うた。開いた運転席のドア越しに、車の中にいる水煙を見ると、俺にはやっぱり美しいモンに見えた。
 もう見慣れたからやろ。それに俺は水煙好きやし。こいつはもう俺の身内やからな。笑うと可愛いように見える。
「でも、もう、こいつは俺のしきやないもんな」
 車の上に頬杖ついて、俺は向こう側に立っている亨の渋面を見た。
 なんか切ない。その場の勢いで切った縁やけど、それまでは確かにあったげきしきとの絆みたいなもんが、切れてしまうとはっきり分かる。俺は今、亨と赤の他人や。なんでもないで。ただ好きなだけ。
 そんな縁では頼りない。だから、結婚しようかなんて、そんなアホみたいなこと発作的に言うてもうたんかも。今さらまたしきになれなんて言われへん。でも他人も嫌や。何か絆がほしい。えらい我が儘やけどな。亨はもしかして、嫌やったんかな。うんとは言わへんかった。振られてた、俺? 痛い話やなあ。
「アキちゃん、そんなケチなこと、俺は言わへん。契約なんか関係ないやろ。お前が困れば俺は助ける。そういうもんやろ。連れて行ってくれ」
 亨はちょっと困ったように、俺に頼んだ。
 それでええんかなあ。もはや何の義理もない俺のために、場合によっては死闘やで。そんなことお前にさせられへん。元々、納得してへんかったしな。
「どしたんアキちゃん……早う行かな。神父キレ顔やで」
 情けなそうに言うて、亨はさっさとシートに消えた。
 確かに今はうだうだ言うてる場合やないらしい。助手席からの危険なオーラは俺も感じる。早うせいみたいな、そんな神楽さんからのトゲトゲしたテレパシーを。
 俺は諦めて、運転席に座り、シートベルトしながらエンジンかけた。
「どこ行けばええんですか」
 イライラしてるらしい神楽さんに、俺は控え目に訊いた。
中突堤なかとっていです。ポートタワーを目指してください。道案内はします」
 カーナビ要らんと、神楽さんは言っていた。
 道は頭に入っているらしい。神戸の道は、大して複雑ではないんや。海岸線と並行して走る幹線道路を行って、目的地が近づいたら、右折するか左折するか。後は何となく走れば着いている。
 それにポートタワーというのは、神戸では有名な塔や。海辺に建つ、赤く塗られた骨組みの、神戸といえばこの風景ショットみたいな、象徴的な建物で、ランドマークというほど目立つもんではないらしいけど、神戸在住者にとっては、それがどこにあるのか分からんわけはない場所のひとつらしい。
 たぶん京都人にとっての御所みたいなもんやろ。京都には京都御所があるやろ。昔、天皇さんの住まいやった内裏だいりやで。京都の住所は今でも、南北ではなく、あれに近づくか遠ざかるかを意味する、上がる下がるで解説される。せやから御所より南にいるか北にいるかで、上がるというのが、北上するのか南下するのか逆転してまう。タクシー乗るとき気をつけて。地元の運転手さん、ここ上がるんですか、下がるんですかって訊いてくるから。地元民なら普通やねん、いつも頭の地図に御所があるから。
 神戸の人にはその代わりに、いつも頭に六甲の山並みがあって、海岸線がある。ポートタワーも建っている。山側から順に並行して、阪急電鉄、JR西日本、阪神電鉄の路線が走り、街を横切っている。それより海側とか山の手とか言うて、場所を特定している。
 京都は碁盤の目みたいな格子状の街やけど、神戸はどこまでも平行に走る街や。海に寄り添って拡がっている。車で走ると、それが分かる。どこまで行っても海がある。
 海が懐かしいらしい。運転席側の窓から見え隠れする海を、神楽さんはじっと見ていた。
 でもそれは、海を見てた訳ではないのかもしれへん。仕事のことを考えていたんかも。それとも中西支配人のことを考えていたんか。
 昔、神楽さんが小さなようちゃんやった頃、中西さんはまだ藤堂さんで、ポートタワーの傍にあるホテルにいたらしい。その縁で、ようちゃんもおとんに連れられて、そのホテルに何度も来たことがある。
 その頃はなんとも思ってへんかったやろ。優しいホテルのおっさんやった。好きは好きやったやろ。中西さんはその頃も、格好いいおっさんやったらしいから。
 せやけど、縁は異なものや。そのおっさんと結婚することになるとはな。そんなことでも思ってたんかな。昔見たんと何も変わらん海でも見ながら。
「突堤横の駐車場に停めていっていいそうです、根回ししてもらえてるらしいので」
 俺にその場所を教え、神楽さんは携帯から電話をかけた。俺はその電話の相手の声に聞き覚えがあるような気がして、車を停めつつ、思い出そうとした。
 でも、わからへん。若い男の声やった。しかし知り合いではない。
「神楽です、到着しました。船はどこでしょう」
 また例の、カッチカチの標準語になって、神楽さんは電話の相手に訊いていた。どうもこの人、真面目んなると方言消えるな。お仕事モードというか、神父さんモードになると消えるらしいで。いけ好かへんな神楽さん。訛ってる時のほうが可愛いのに。要らんか、可愛さなんて、悪魔祓いエクソシストやるのに不要か。
 だけど着替えてきてへんかったで。神楽さんはもう、神父の服は着ない。あれは神聖なもんやから、もう着ないんやって。着てもしゃあない、もう神父やないし、神も見放す穢れた身やのに、格好だけつけてもしゃあないと、神楽さんはそういう価値観の人。
『突堤の船です、神父様ファーザー。ちょっと離れて停泊してるやつです。突堤に水上警察の人らがいとうから、そこで訊いてください』
 にこにこというか、にやにや笑ったような神戸弁で、電話の相手は言った。その声にはやっぱり聞き覚えがあり、話し方にもなんとなく聞き覚えがあった。なんとなくやけど、虎に似ている。最初に電話してきたときのあいつに。
 神戸訛りやからか。それとも電話から漏れる気配が、なんとはなしに人でないような、そんな気がするのが似てたんか。電話越しにも匂う、外道の匂いやで。
「行きましょう」
 俺に向かって言い、神楽さんは電話を切った。その顔は、めちゃめちゃ暗かった。
 俺は水煙に、剣に戻るように頼んだ。水煙はそれには逆らわれへん。俺のしきやから。
 青肌の怪物が剣に変身するのを、神楽さんは悪いもんでも見たように見てた。見慣れてへんのもあるやろけど、これが現実かと俺は思った。
 やっぱ水煙には、もっと人間くさい姿をさせとかなあかん。本人どうでもええらしいけど、俺が傷つく。誰が見ても綺麗やなあって普通に思えるような姿のほうがいい。でも、それって、水煙には傷つく話なんやろか。
 もやもやそう思いつつ、俺が剣を握ると、水煙はくすりと笑ったようやった。
 そして、好きにすりゃええよと言うた。お前のおとんも自分の好みに合うように、俺を刀師とじに打ち直させた。それをジュニアもやろうというんや、結局、似たもの親子やろと。
 それは皮肉に聞こえたもんで、嫌なら無理に付き合うことはないよと、俺は思った。思うだけでも水煙にはバレバレやからな。
 嫌やないよと水煙は笑っていたようやった。
 嫌やない。お前の好みに合うように、好きな形に作り替えてくれ。剣の時でも、人の時でも。そのほうが、俺は嬉しいと。
 それはなまめくような声で、ひたりと寄り添われたような錯覚がした。剣の時に話してよかったと、俺は思った。たとえ青い肌でも、人型の時やったらヤバかった。なんかそんな気がした。
 亨は車を降りて、車体越しの海を見ていた。そこには一隻の白い船が、港に到着するちょっと手前ぐらいで静止していた。いかりを打って、停泊しているみたいに見えた。
「あの船?」
 眉をひそめて、亨は誰にともなくそう訊いた。
 船は造花かもしれないが、とにかく白とピンクの薔薇で飾られていた。そして甲板には花のアーチがかけられていて、それをくぐった先には小さな祭壇がある。
 結婚式をする船やないかと、そんな風な見かけやった。
 しかし甲板には誰もいなくて、ひっそり静まりかえってる。誰も乗ってないわけやのうて、乗客は皆、船室のほうに引っ込んでるんやないかという気配がしてた。
 何か、ただごとでない気配はする。船室の窓に渦巻く、濃い紫の霧のようなもの。俺にはそれに見覚えがあった。もちろん神楽さんにもあったやろ。教会の地下で見たのと同じ障気や。
「行きますか、神楽さん」
 俺が訊いたら、船を見ながら立っていた神楽さんは、そっちを見たまま小さく頷いた。そして、後生大事に持っていた、ねじれたような溝のある装飾のクリスタルの瓶を、ごとりと車の屋根に置いた。
「これは、聖水ですが……ただの水でしょうか。それとも、これは、効くでしょうか。骸骨スケルトンに」
 真顔で訊かれ、俺は困った。そんなもん、分かるわけない。あんたが専門なんやで?
「分かりません。今は謎々やってる時では……」
「違います、相談してるんです。本間さん。これが効かないんやったら、僕は行っても役に立ちません。神の名と、聖句によってしか、悪魔祓いエクソシストは戦えません。それに意味がないら、僕はただの人間や。行けば足手まといになるかもしれません」
 行ってええかと、神楽さんは訊いてたんや。
 微妙なところやった。もしもこの人になんかあったら、俺はどうしよう。責任とられへん。
 亨に守らせたらええわと、水煙が俺に提案してきた。
 その声は、俺以外にも聞こえたらしい。少なくとも亨と神楽さんには。
「嘘やろ、水煙。冗談きついよ」
 亨が愚痴愚痴、文句言うてた。
「なんで俺が神父を守らなあかんのや。そんな義理ないで!」
 絶対いややという顔で言う亨を笑い、水煙は、チームワークやろと答えた。お前の好きなチームワークやないか。うだうだ言うな、ついて来たんやったら仕事せえと、びしびし叱って大人しくさせた。
 すごい。亨を説得した。俺はなんで水煙がずっと、うちの家の筆頭の式神として、家を守ってこられたのか、その一瞬で納得していた。
 嫌なら来るなと留めをさされ、亨は渋々やったけど、その作戦を受け入れた。
 あんたもええな、死ぬよりマシやろ、と、水煙は神楽さんにも語りかけていた。蛇や言うてもイイ子やで。うちでは神なんやからな、守ってもらえて有り難いと思え。土地の神の力を借りようというんやったら、その土地のルールを憶えへんとなあと、猫なで声で言われ、神楽さんは押し黙っていた。
 水煙と、話したくないんやろ。鳥さんとも、神楽さんは話したくなかった。あいつが聖なる文句を口に出来ると分かるまで、神聖か邪悪か分からんし、口利きたくないという態度でいたわ。
「あのな、水煙。お前、なんか神聖なこと言えるか?」
 そのほうが神楽さんも気が楽なんちゃうかと思えて、俺は水煙に頼んだ。お前も自分が神やという身の証を立てて見せてやればええよと思って。
 しかし水煙も伊達に歳食った神ではなかったんや。
 神聖なことやと。どういう意味や。俺にヤハウェを讃えろ言うんか。願い下げやでジュニア。言うとくけどな、俺はヤハウェより年上や。神殿やら天使やなんてウザい。気ままにやるのが好きなだけやねん。馬鹿にせんといてくれへんか、って、ご機嫌悪そうに言われたわ。
 ハイ。すみません。もう頼みません。
 何歳なん。水煙。歳訊いたことない。訊いたら悪いかなあと思って。
 とにかく、めちゃめちゃ年上や。そして、神楽さんとの相性は、めちゃめちゃ悪い。もともと悪かった神楽さんの顔色は、この会話以降、ますます末期的に悪くなってた。
「神の名を、みだりに口にしてはいけません……十戒に、そう定められています」
 神楽さんが水煙に、はじめて語りかけた言葉はこれやないかと思う。
 でも水煙、フン、て言うてた。そんなんローカルルールやろ。名前も隠してケチくさい。匿名さんでは話にならへん。この世に神は他にもいるんや。名前なしでは区別もつかへん。それはヤハウェでもアッラーでも同じやで。自分だけ特別扱いせえて言うても無駄やねん。我が儘言うなて取り合わず、顔面蒼白でいる神楽さんに優雅に名乗った。
 俺は水煙やで。みだりに口にしてもええけどな、舐めたら溶かして食うてまうからな、覚悟しとけよと。
 うちのしきはな、みんなえげつないねんて。秋尾さんがそう言うてた。秋津のしきはみんなえげつない。昔めちゃめちゃ虐められたわって。
 そんな話は聞いていたものの、えぇ、水煙は優しいのにって、俺はちょっと思ってたんやろなあ。でもそんなもん幻想やったんや。水煙も結局は、えげつない神やねん。全然優しくない。俺に特別優しかっただけ。
 凄む水煙を目の当たりにして、俺は少々引いていた。
 それにはっとしたのか、水煙は急にキラキラしてきて、気を取り直した可愛い調子で言った。さ、行こか、ジュニアと。
「エグいわあ、水煙」
 亨が感心して言うた。まるで見習ってるみたいに。
 アホか、そんなん見習わんでも、お前も充分エグい性格や。むしろお前のほうがエグいくらいや。俺なんか、お前と水煙に挟まれて、退路無しやないか。知りたくなかった、水煙は俺の心の安らぎやったのに。心のどこかで何かが切なく砕け散ったで。
 しかし、めそめそしている場合ではない。
 船ではもうとっくに何かが始まってるような気配がしてた。えげつない決意式が終了したらしいチームの面々で、突堤へと急いだ。
 船はどこにも接岸してなかったけど、行くならそこが一番近い。まさか泳いで行くわけにもいかへんし、突堤には警察カラーの小型船が一艘、横付けされていた。それが電話の声の言うてた、水上警察の人らやろう。
 俺は初めて見た。船に乗ってるお巡りさんていうのは。馬に乗ってるお巡りさんは、見たことあるけど、船は初めてや。京都には居るねん、平安騎馬隊と言うて、馬に乗ってるお巡りさんが。御所の警備とか、時代祭や葵祭の時にはパトロールしてはるで。
 でも水上警察は見たことない。京の都には海がないんやもん。俺は海って、実はほとんど見たことない。もしかして、まともに見たの、これが初めてやないか。なんやこれ、深泥池みどろがいけよりデカい。絵にある通りや。波が打ち寄せている。テレビや映画で見たのと同じやで。
 水族館から眺めたときも、すごいなあと思って、絵に描いててん。でも、波打ち際までは行かへんかった。ここまで海に肉薄したのは、この時が初回やで。
 コンクリートの突堤の真下にはもう、海が迫ってた。当たり前やった。そこから海に出て行く玄関口や。港やねんから。
「すみません、あの船に乗りうつりたいんですが、どうすればいいでしょうか」
 神楽さんは迷わず特攻やった。水上警察の人にやで。
 紺色の制服に、鮮やかなオレンジ色のライフジャケットを着た警察のおじさんが、白黒に塗り分けられた水上パトカーみたいな小舟の上から、じっと俺や神楽さんを見た。
 それだけでもう、すみませんて俺は言いたかった。
 何しに来てんお前らって、お巡りさんはそう思うやろうという気がして。
 だって、誰やねんみたいな二十歳そこらの男が三人、いきなりやってきて、その船乗せてって、それは無いやろ。通らへん。普通に考えて。
 街でパトカー見て、ちょっとそこまで行きたいし、乗せてくれって頼む奴居るか。居るわけない、非常識すぎる。船やいうだけで、パトカーみたいなもんなんやで。
 せやけどこの日は居ったな。神楽さんは明らかにそういうニュアンスで言うてた。
 何を言うてんのや君は、って、船のお巡りさんが今にも言いそうな顔になったところで、携帯の着信音が鳴った。六甲卸ろっこうおろしやった。阪神タイガースの応援歌や。歌まで入ってた。せやから着うた。
 険しい警戒顔のまま、おっさんは電話に出ていた。そして、もしもしと言う間も与えず、電話の向こうの声が話した。
とくさん、どうもですー。その人らね、言うてた除霊の先生やから。なんや増えとうけど、増えとう人らも俺の知り合いですわ。乗せてやってくれへんか、こっちの船まで』
 軽快で、親しみはあるけど品は悪くない、耳心地のいい声やった。
 俺はぼんやり思い出した。その声がどこから聞こえていたか。
 ラジオや。KISS FM KOBE。
 なんで思い出したかというと、突堤のある海の、向こう側にある建物に、でかでかと看板が出ていた。KISS-FM 89.9、って。そこが収録スタジオで、この放送局の本社でもあったらしい。ポートタワーのそびえるふもとに、背の低い三階建ての白いビルがあって、神戸中突堤こうべなかとっていの看板とともに、ラジオ局の赤文字の看板も出てた。
「そんなん言うてもな、警察の船やで。水上タクシーやないんやで」
 水上警察のおっさんは、いかにも親しげな口調で、電話の相手にぼやいた。
『そんなん言うて、もうあかんから。死人出ますから。変死やで、また変死。またもや迷宮入りや』
 笑いながら言う声は人が悪そうやった。もしもそいつが人なんやったらの話。
たち悪いなあ。ほんまにもう……」
 顔をしかめて、おっさんは言い、大きく腕で差し招いて、乗れという仕草を俺たちにしてみせた。
 電話を切って仕舞いつつ、おっさんはさらに、早うせえという急かす仕草をした。
 それで神楽さんは頷いて、迷わず乗った。なんで迷わへんの、恋愛ではむちゃくちゃ迷うくせに。乗らなあかんのか、俺も。
 もちろん乗るしかなかった。
 不幸にも、俺はパトカーに乗ったことがある。濡れ衣の罪でしょっ引かれて。それが今度は水上パトカーまで図らずもクリアした。あとは何に乗ればええやろ。
「水上警察の徳田といいます。君らは湊川みなとがわの知り合いか?」
 知りません。そんな人。
 俺は内心そう答えていたけども、ここは、知り合いですと言うところやろ。たぶん、その、湊川みなとがわというのが、今の電話の相手やろうからな。
「知りません」
 しかし神楽さんが一足先に断言してくれた。笑っていいのか泣けばいいのか。正直者やな、あんた……。嘘も方便て、キリスト教では教えへんのか。
「一時間ほど前に、初めて電話をいただきました。教会にご連絡くださったとかで、私に直に電話するよう、言われたとのことで」
「あんた神父さん?」
 水上警察の徳田さんは、じろっと神楽さんを見た。確かにどう見ても神父ではないような格好や。朝飯屋で会った時のまんまの格好なんやから。強いて言うなら良家のボンボンか、もっと言うなら休日の王子様? とにかく神父ではない。しかも水持ってる。怪しさ満点。
 制服って大事なんやと俺は実感したよ。警察の徳田さんは、いかにも水上警察の人みたいな格好してるから、俺は何の疑いもなく、この人は警察の人やって思えてる。海パト乗ってはるしな。
 しかし神楽さんは職業と格好がそぐわない。嘘でも僧服着て来りゃよかったんや。
「神父ではないです。しかし教会から派遣されて来ました。骸骨スケルトンが出たとか」
「出た。船上の人物から通報があって……」
 ごそごそと携帯を取り出して、徳田さんはメール画面を開き、それに添付されていた動画を俺たちに見せた。
 結婚式をしていたらしい甲板に、骨が出ていた。それを見て、骨だあみたいな悲鳴を上げている人たちが逃げていて、いかにも骨出たっていうシーンやった。嘘くさい怪奇ドラマのワンシーンみたい。
 その船は、どう見ても、ちょっと向こうに停泊している白い船やった。
「出てますね」
「出てるやろ?」
 神楽さんと徳田さんは睨み合って確認していたけど、あまりにもシュールな会話やった。俺と亨は何となく着いていけない気持ちになってた。亨はだらけてただけで、困ってたんは俺だけかもしれへんけど。
「やっつけられんの?」
 もう、そうするしかないという情けなそうな顔をして、徳田さんは神楽さんに訊いた。
「できます。この人が」
 後ろに立ってた俺を指さして、神楽さんは堂々と言った。俺か!
「この人も神父さん?」
 ものすご疑わしいという目で、俺は見られた。神父っぽくないか。そらそうやろ。神父やないんやからな。そんなもん、なろうと思ったことすらないわ。
「いいえ。京都の拝み屋の息子です」
 きっぱりと、神楽さんは俺を紹介してくれた。その通りやった。確かに朝飯屋でそう話した。でも、そういう風に紹介されたの、生まれて初めてかもしれへん。
 おかんが俺のことを、うちの跡取りどすと人に紹介することはあったけど、うちの家業がなんなのかは、一種の秘密みたいなもんやったんか、面と向かって、あんた拝み屋やろと言うてくる人はおらへんかった。おかんはあくまで秋津の登与姫で、お屋敷の登与様やったしな。巫女やねん。そしてほんまに、お姫さまみたいに崇められ、畏れられていた。
 そんな具合やったから、俺は自分の素性を客観的かつ端的に認識したことはない。この時、神楽さんにずばり言いますみたいに言われてもうて、俺はちょっとびっくりしてた。確かにそうや、俺って京都の拝み屋の息子です。
「やっつけられんの、骨」
 困ったなあ、ていう顔のまま、徳田さんはため息ついて俺に訊いた。そうしてくれへんと困るんやって、言われたような感じがしたわ。
「たぶんできます」
 教会に出た骨も斬れたんや。船の骨は無理ということはないやろ。それでも俺は自信なく保証した。自信を持って言えるほど、俺にはまだ経験がない。そのための修行らしい修行もしていない。それでもとりあえず、俺には剣がある。うちの伝家の宝刀で、名前は水煙。それに亨もついてきてくれたしな。チームワークで乗り切れるやろ。
「分かりました。よろしくお願いします」
 そう言うて、徳田さんは横付けした船にかけられた縄ばしごを、さあ行ってこいという顔をして、顎で示してみせた。
「アキちゃん……」
 先に行こうとする俺を、亨が引き留めた。
「なんや」
「落としたらあかんで、水煙。絶対に落としたらあかん、海へは」
 真面目な顔をして、亨は俺に忠告した。
 せやけどな、抜き身やで。鞘ないねん、神楽さんが未だに返してくれへんねん。あったところで、サーベルを身に帯びるための剣帯がない。だから手で持って運ぶしかないわけや。
 今までは、それで特に支障なかった。剣として使う機会がないしな。
 でも、梯子を登るとなると、両手が空いてないと厳しいわ。もっと普段から、ちゃんと考えておけばよかった。こういう時どうするんやみたいな備えというか、鞘はもちろんやけど、サーベル用の剣帯もいる。おとんはそれは、くれへんかったしな。
 ごめんな、水煙。くわえてええか、って訊くと、水煙はぎょっとしていた。亨もなんでかぎょっとしていた。でも他に、方法あるか?
 い、いいけど……っていう水煙の刀身の、刃のないほうをがっちり噛んで、俺は梯子を登ったよ。水煙はなんか変で、まさか痛いんかなあと思うたけども、でも落としたら落としたで大変やからさ。
 甲板に上った俺に、神楽さんが聖水の瓶を投げ渡してきた。びっくりしたわ、そんな割れモンを。しかも、ええ肩してる。狙いも正確やしな。
 これは後から聞いた話やけども、神楽さんは小さいようちゃんやったころ、少年野球のチームにいたんや。こんなナヨそうな癖に、少年野球のピッチャーやったんやって。せやから案外、野球好きなんや。
 好きなプロ野球チーム、どこやったか知ってる?
 そう。阪神タイガースやんか。信じられへん。ここにも虎ファンが。
 ほんまなんかもしれへん。あの、虎の式神の話。京阪神在住で、阪神ファンじゃないやつはモグリやという。俺はモグリやったんや。神楽さんですら阪神ファンやなんて。虎の王国かここは。
 まあ、実際そんなもんかもな。
 皆が皆、タイガースのファンということはないけど、阪神が勝っていると三都はなんとなく景気がいい。おすましキャラが板に付いてる京都はさほどでもないけども、大阪はあからさまにそのようやし、神戸も何というても甲子園球場を擁する地元や。ほんまもんの六甲卸ろっこうおろしが吹いている土地なんやからな。虎が勝っていて気分の悪かろうはずはない。
 特にこの年は、日本シリーズで阪神が勝つか負けるか、一試合一試合を勝ったり負けたりして競り合うてる年やった。阪神ファンは気が気でないらしい。皆が虎の行く末に注目していた。勝ってくれと何となく願い、人によっては心の底から強く祈っていた年やった。
 そんな年の出来事やねん、この物語は。せやからまさに、虎の王国やった。虎の信太も絶好調。あいつの縄張りである神戸で、それを出し抜こうなんてことは無理や。あらゆるものに、あいつの息がかかってる。
 しかし今ここでは関係がない。話を戻そう。
 甲板に降り立った我々チーム拝み屋・ウィズ神様は、誰もいない甲板に残る不吉な臭いにおえってなってた。なってたのは俺だけやったかもしれへん。なんか気持ち悪いねん。なんやろうこれ。すごく胃が気持ち悪い。頭がくらくらする。
「大丈夫か、アキちゃん……顔色、真っ青やで」
 亨がびっくりした顔で俺を見た。
「なんか気持ち悪いんや……骨のせいかな?」
「違うと思いますよ。だって昨日は何ともなかった」
 深刻な顔をして、神楽さんは俺を見た。でもその顔は、ちょっと笑いを堪えてるようにも見えた。
「船酔いやないですか」
 船酔い?
 くらくら来ながら、俺はそれについて考えた。
 船って、そういえば、乗ったことないかもしれへん。さっきの海パトに乗った時点から、なんか変やった、俺は。
「船酔いって……アキちゃん、この船、ほとんど揺れてへんで? 停泊中やで?」
 そんなはずないって説得するような口調で、亨が俺の肩を掴んで顔を覗き込んできた。そうやな……止まってる船で酔うなんて、そんな話、聞いたことない。
 しかし水煙は、聞いたことあるらしかった。
 アキちゃんそっくりやなあジュニアと、水煙は嬉しいんか困ってんのか分からんような口調で言うた。
 お前のおとんもな、軍艦乗った瞬間に吐いてたわ。格好悪かったなあ、おかんに黙っといてやれよ。なんでげきが船に酔うんやろうなあ。一種の遺伝的トラウマとちゃうか。昔は船に乗ってたげきは死ぬこともあったから。相性悪いんやろうと、水煙は笑いながら俺に教えた。
 なんで、船に乗るとげきは死ぬこともあるんやろ。
 俺は朦朧としつつそう思ったけど、そんな豆知識を仕入れようという余裕は皆無やったわ。とにかく仕事しよ。それで一杯一杯やから。俺は吐かへん。おとんはゲロったんかもしれへんけど、俺はそれの上を行く男になるから。吐いたりせえへんしな。
 俺はくすくす笑っている水煙の柄を握り直した。噛むぞ、水煙。俺を笑うな。俺がそう命じると、水煙はその命令を聞いたのか、それともビビっただけか、ぴたりと笑うのをやめた。
「平気ですか、本間さん……」
 笑いたいけど、笑ったら可哀想やしっていう目で、神楽さんは俺を見ていた。
「平気ですよ、もちろん。さっさと行って片付けましょうか」
 俺が吐く前に。そう目で訴えると、神楽さんは頷いた。
 そして甲板をすたすた行って、船室に続く白い扉に手をかけた。
 念のためやろう。神楽さんは瓶から聖水をちょっとだけ扉の周囲に撒いていた。そこから何か悪いもんが出てきても、外には漏れへんように。
 正しい判断やったと思うわ。
 扉を開くと、そこから猛烈な勢いで何かが漏れてきた。濃い紫色をした、光を通さない暗い靄のようなもんが。そして見えない壁に押し込まれたように、扉のすぐ外までで停止した。聖水の結界が効いている。
 それはまるで薄められた闇みたいに見えた。吹き出た煙みたいなそれに、神楽さんがあっと言う間に包まれてもうて、俺は一瞬ぎょっとしたけど、当人は平気な顔をしていた。
「行きましょう、本間さん」
 暗い靄の中から俺のほうを振り返り、神楽さんは誘った。
 その中は修羅場ではないかと、俺は想像していた。
 でも、そうやなかってん。確かに暗かった。深い濃霧に包まれて、ほとんど夜のように見える異界に堕ちていた。しかしそれは夜のクラブか怪しげなバーの、照明を落とされたダンスフロアのようにも見えた。
 音楽が鳴り響いていた。外からは全然聞こえへんかったのに。ものすごく速いテンポの、テクノ系のダンスミュージックみたいやった。
 フロアの向こう側に、綺麗に着飾った結婚式の客らしい人たちが、吹き寄せられた難民のように身を寄せ合って、壁際の床にへたり込んでいた。その中には真っ白なウェディングドレスを血に染めた、見るからに深手と分かるような花嫁さんが座り込んでいて、それよりもさらに手ひどくやられたらしい新郎が、ぐったりと横たわっていた。
 血の臭いがする。
 フロアには両腕を血に染めた骸骨スケルトンがいた。踊りながら。狂ったように。まるで夢中で踊っている。
 踊る骨はそれひとつきりではなく、フロアに何体いたやろか。十か、十五か、数えてない。
 ちょっとレトロなダンスミュージックを聴きながら、俺は踊る骨を見てた。
 その肋骨剥き出しの人垣の向こうに、DJブースがあって、ノリノリやっていう、うっとり顔した若い男が、イコライザのある盤面を小さく叩きつつ、鼻歌を歌っているようやった。
 そしてそいつはおもむろに、携帯電話を取り出して、それを耳に当てていた。
 リズムをとるように揺れる、その横顔を見ながら、俺は自分の電話が振動するのを感じ取り、それが誰からの電話なのか、不思議な確信を持って受信ボタンを押していた。
『もしもし、初めまして。湊川みなとがわです、本間先生』
 うるさい音楽にも紛れず、男の声ははっきり品良く耳に響いた。
『あのね、そっちに行かれへんのです。途中の異界が濃すぎてね、並みの人間には渡られへん。渡ってきてもらえませんか。新郎さん、死にそうやねん』
 全然大変そうではなく、その男は話していた。人が死んでも平気やと、そんな感じの話しぶりやった。せやけど一応、助けは求めてる。生きても死んでもどうでもええけど、どうせやったら助けたらどうやろかって、そんな程度のドライ感。
 これは人ではないんやろうと、俺は思った。人間がそんな、人の生き死ににドライでいていい訳ないしな。
「お前、誰やねん。なんで俺のこと知ってるんや?」
『俺は、海道蔦子さんのしきです。いやあ、それは今イチ、微妙なとこです。スカウトされとうけども、踏ん切りつかんで交渉中やねん。でも、信太のツレはツレです。友達なんや』
 電話の話す声と、まったく同じように話す口で笑い、踊る骸骨の対岸にいるDJブースの男は盤上の箱から煙草を一本とって、それをくわえて火をつけた。ふはあと吐き出す煙が、黒くたれ込める闇の中でも、輝くような文様を描いて渦巻き、いつまでも消え残っていた。
『それも、まあ、微妙かな。信太のやつテンパってもうてなあ、先生。赤い鳥さん独り占めやねん。みんなのもんやろ、フェニックス』
「そんなもん知るか」
 激しくムカついてきて、俺は電話に怒鳴ってた。それにフロアの向こう側で、あははと耳障りなような笑い声を上げ、電話の男は言った。
『どうでもいいか、今は。早う助けてください。俺もここから、出るに出られへん。俺が逃げたら、この人ら死ぬと思うんや』
 向こう側には結界のようなもんがある。それはあの男が維持している。それが無くなれば、追いつめられてる人たちは死ぬ。そういう話のように聞こえた。
「あの人は敵ですか、それとも味方?」
 神楽さんが俺に訊ねた。
 わからへん。あいつが神か鬼か。正体が全然わからん。雲か霞か、なんかそういう、見極めようとしても正体がぼやけてる、そんなモンにしか見えへん。
 しかしとにかく、今は味方の部類やろ。とにかく人の命を守ってる。せやから今この瞬間には神のたぐいや。それに蔦子さんの式神やと言うてた。微妙らしいけど。どっちつかずやな。訳のわからん奴や。
「敵ではないです。襲ってくるわけやない」
 それだけ聞けば充分と、神楽さんは頷いて、持っていた聖水の瓶の蓋を開けた。そしてそれを、踊り狂う骸骨の居るフロアの中央めがけて、瓶ごと放り投げていた。
 くるくる回転しながら、瓶はほの明るいような光る聖水をふりまいて、まっしぐらに飛び、DJブースと、寄り集まった人々のいる壁に叩きつけられて、粉々に砕け散っていた。
 その水の跡は、まるで一筋の光る道のようやった。暗い海を割って、一本の光り輝く道が現れたみたいに。
 骸骨スケルトンたちは、明らかにその道を避けていた。一瞬おののき、踊る手足が乱れたけども、それでも奴らは音に縛られていた。またすぐ憑かれたように踊り始める。振り上げられる骨の手が、ひらひらと扇のように舞い、骸骨たちは皆、激しく身をくねらせ腰を振る、おんなじようなステップを踏んでいた。
「うおー、懐かしい。ジュリアナや……ノリノリやなあ、骨」
 失笑しながら亨が褒めてた。
 それは何かと、俺は後々亨に訊ねた。そしたら亨は教えてくれへんかった。歳がばれるやんかと言うて。ばれるもなにもお前は何千歳なんや。何を今さら歳のこと気にしてんのや。無駄やねん、そんなのは。
 それでも絶対言わんと亨が言うので、俺は後にやむなくネットで調べた。
 ジュリアナとは、バブル全盛の日本において、社会現象とも言われるほどに流行っていたディスコ、ジュリアナ東京に端を発する一種のダンス文化を指す言葉である。ボディコン、これはボディコンシャスの略らしいが、ボディラインも露わな、要はほとんど着てないような服を着た半裸の女が、鳥の羽でできた扇をふりふり、腰もふりふりしつつ、お立ち台と呼ばれた高台に上って踊り狂う。そんな変な文化のことを指す。全て俺が生まれる以前の出来事や。
 ここで豆知識。日本では古来より、文化が行くとこまで行ってもうたり、恐慌や凶作などへのリアクション、または予兆として、庶民が全く意味のないでたらめの歌を流行らせたり、集団で踊り狂ったりする傾向がある。たとえば江戸時代末期に全国を駆け抜けた、「ええじゃないか」踊りの大流行などである。
 群衆が踊るのは一種の社会的ヒステリーであり、発散でもある。ダンス。それには独特の魔術がある。刹那的なエロスとか、開放感とか、あるいは破滅とかいうエッセンスを持った、集団の魔術やねん。
 何を隠そう、うちのおかんも、扇を持って踊る女のひとりや。俺はその踊りを見たことがない。見たらあかんえと言われてきたんや。おかんは時として、神さんと踊っているらしい。群衆が踊ると、その中には神や鬼が紛れ込んでくる。人ならぬモノたちは、歌舞音曲を好むもんらしい。
 そういえば亨も、ちょっと踊りたそうやった。歌も好きやし、実はこいつも踊る妖怪なのか。
 俺がじっと見ると、亨ははっとしたように、鳴り響く古い曲のリズムをとるのをやめた。
「懐かしい」
 にっこりとして、亨はなぜか言い訳をした。いい時代やったらしい。バブル。踊り狂う酔った男や女の首から、少々血を吸うてもバレへん。べろんべろんやから。
 俺はその話にもちょっと衝撃を受けていた。だってこいつは夜遊びなんかしたことないんやで。俺と住むようになってから、夜はずっと家に居るし、遊んでるとこなんか見たことない。
 でも実は、そっちのほうが仮の姿なんやないかと、すごく嫌な予感がしたわ。ありえる話や、こんなエロエロ妖怪なんやから。
 すみやかに忘れよう。そんなん気にしてたらキリがない。太刀筋が鈍る。これからこのフロアにいる骸骨を、俺はひとりで全部やっつけなあかん。
 頼むで水煙と、俺は剣の相方に語りかけていた。
 さすがお高い水煙は、エロくさい骨の踊りなんぞに興味はないわという様子やった。
 神楽さんは骨のフロアを中央突破して、さっさと怪我人を助けに行っていた。それもさすがと言うべきか、神父様はやめたけど、お医者様はやめてへん。
「亨、神楽さんについといてやれ!」
「ええ!? やっぱそうなん? 嫌やで俺は!」
 うるさい。亨やのうて部屋が。仕方なく俺は亨と怒鳴り合っていた。
 後は任せたと思ったんか、電話の男、DJ湊川は、めちゃくちゃうるさい音楽の音量をさらに上げていた。もはや聴くというより、体にびりびり音が響いてくるような状態や。
 難聴なりそう。俺はうるさいのは嫌いやねん。ようこんな結婚式するわ。元々用意してあったんやろ。いくら異界や言うたかて、突然ダンスフロアとDJブース出てくるわけないもんな。踊るつもりやったんや、披露宴で。世の中いろんな人いてる。
 見れば花嫁は少々歳を食っていた。こう言うたらなんやけど、若いカップルではなかった。あと十年くらい若いほうが、しっくり来る絵なんやないかと、俺には思えた。
 その十年や。震災から十余年。このカップルは震災の前夜、結婚の前祝いとして友達を集め、地元のクラブを借り切って、ダンスパーティーを開いてた。踊る人らやったんや。友達はみんなダンス仲間。一晩踊りに踊ろうかというネタで、踊りに踊ってその瞬間が来た。
 ぐらっと揺れて、天井が落ちてきた。仲良し仲間はみんなで仲良く生き埋めやった。そのダンスフロアはビルの地下。大勢死んだ。この結婚は呪われている。友達の屍を越えてまで、ハッピーエンドに持ち込むべきやないと、十年思いとどまって、それでも好きやとご成婚やったんや。
 生き残っていた友達は、みんな祝福してくれた。
 せやけど死んでいたお友達は、ちょっと微妙やったらしい。船には骨が現れた。また一緒に踊ろうよと、懐かしい面子を連れて行こうとした。異界へ。死んだ者だけが行く、隣の世界へ。そこへは死なんと行かれへん。
 ほんなら死ねばと、それが死者の意見。死ぬのは嫌やと、それが生者の意見。
 どうして踊らないのと、俺は踊る女の骨に訊かれた。いけてる骨盤。生きてる時には美しいお姉さんやったんやろか。踊る姿は骨になってもどこかしら淫靡で、それを斬るのは気が引けた。死者にも踊る権利ぐらいはあるんやないか。誰も殺さへんのやったら。
 しかし中には普通でないのが混ざってた。明らかに体術を使う。見たことないような格闘技で、俺はそいつに殺されそうやと思った。踊るように舞い、鋭い武器のような爪や爪先で、喉元めがけて突きや蹴りを食らわしてくる。まさに死の舞踏。
 踊る危険な骸骨は、鳴り響く音楽に合わせてリズムをとっていた。時々そいつはなにか話したけども、俺には意味がわからへん。耳慣れない外国語やった。神戸やからな、そんな奴かて居るんやろうと、俺はその時には深く考えへんかった。そんな余裕はなかったんや。相手はめちゃくちゃ手練れやし、やられへんようにするだけで必死やで。
 宙に舞うみたいな鮮やかな回し蹴りを、そいつが繰り出し、水煙はそれを斬り捨てた。骨と切り結ぶ刃が通り抜けるまでの間、骸骨《がいこつ》はけたけた笑い、そして灰となって消え失せながら、まだ消え残る骨の手で、俺の頬をざっくり裂いていった。
 痛え! まじで痛いで。治ると言うても、痛いもんは痛い。外道になっても、痛みまでは消えてへん。
 ううっと呻いて、俺は血の出た頬を押さえた。骨に殴りつけられた衝撃で、頭もさらにクラッと来てた。音楽うるさい。それに飛び散った俺の血に、残った他の骸骨どもが、目の色変えて踊るのをやめていた。
 目はない。もう、暗い眼窩があるだけで。
 俺の血って、亨は美味いというけども、そんなに美味いもんなんか。踊り狂う骸骨が、踊るのを忘れるほどにか。
 やばいと思った瞬間にはもう、十や十五はいる骸骨の姉ちゃんたちが、わっと一気に殺到してきた。
 勘弁してくれ、骨だけやないか。肉が付いてればまだしもや。骨にモテても仕方ない。人魚に続く第二弾、モテても虚しいシリーズや。
 んなこと言うてる場合やない。斬れ斬れと、水煙が景気よく俺に怒鳴った。
 甘い甘いと水煙は骨をなじった。ただの死んだ女の分際で、うちのジュニアの血を舐めようなんて、そんな美味しい話があるか。舌もないのに生意気やと、ばっさばっさ斬った。もう自分が剣を振るっているのか、水煙が俺を振るってるのか、あまりの速さで分からへん。
 よう動けたなと思う。これも新開師匠の鬼の教えのたまものか。こう来たらこう動く、こう斬ってこう避けるみたいなのが、考えなくても体に染み付いている。もともとそれは、染み付いてたんかもしれへん。餓鬼のころに通った時にも、師範は俺をびしびしシゴいてた。生傷だらけで戻ってくる俺を見て、おかんはよう怒ってたもんやった。
 それでも俺は楽しかったんや。たぶん剣道が好きやった。無心になって剣を振るうと、頭がすうっとクリアになって、心が静まりかえる。それでいて熱く燃える。その感覚が気持ちよくて、癖になりそう。
 俺もやジュニアと、水煙が舌なめずりする声で俺に教えた。癖になりそう。
 あたかも剣と一体のノリで、俺は高速の殺陣たての中にいた。ああもうひと突きと、喘ぐがごとくの水煙の声がして、俺は飛びつく勢いできた骸骨の、頭のど真ん中を突き刺した。それは灰となって飛び散って、水煙はもう堪らんと言った。
 熱く燃えてる。ひさかたぶりで。ぬるい敵やけど、それでも愛しい骨どもや。お前らのおかげでアキちゃんと、また一体になれる。褒美に食わんといてやるし、黄泉よみに戻って転生するがいい。死の舞踏はもうやめや。
 諭す水煙にひるむ様子で、残る骸骨の群れは寄り集まって俺を警戒していた。頬の傷口は、いつの間にやら閉じていた。もう治ってもうたんやろう。血はもう舐められへん。どうせ舌もないしな。
 それでも斬らなあかんのか。
 俺は水煙に訊ねた。
 斬ってやれジュニアと、水煙は俺に命じた。
 こいつらは、死の舞踏や。なまずに囚われ操られている亡者どもや。斬られたほうがええねん。そのほうがまた転生できる。鬼ではない。ただの死者やと。
 死の舞踏。そしてなまず。それはどういう神なんやろ。それこそ悪魔サタンやないのか。地震起こして、何の罪もない人々を殺す。やっつけなあかん神や。
 気の毒にこの人らは一度死んでる。そしてまた二度までも、俺に斬られて死ぬ羽目になったんやないか。なんの悪さもまだしていない。昔なじみの友達を、連れて行こうとはしたけども、殺していない。まだやってへん。神楽さんが助けた。それでも斬られなあかんのか。
 泣いて斬れジュニア、それがお前の仕事やと、水煙は言った。
 それが血筋の定めや。お前が止めへんかったら、こいつらはまた現れる。今度こそ生者を連れていくやろう。なまずのところへ。
 斬らねば斬られる、それが剣の道やで。
 お前がお前のおとんから、俺を受け継いだ時から、その道の続きを歩くことに決まってた。嫌なら俺を捨てるしかない。
 どうするジュニア。捨ててもええんやで。そして家からトンズラこいて、どことも知れない地の果てで、俺から逃げて生きていけ。それは負け犬の一生や。それでもお前が、それで幸せなんやったら、俺は別にかまへんのやで。
 戦えと、結局水煙はそう話してた。剣を捨てたら負け犬で、お前はその一生から永遠に逃れられへん。死なれへんのやから。永遠に逃げ続けることになる。
 そんな一生、嫌やろう、堪らんやろと、水煙は俺を誘う声やった。こいつは結局、剣やねん。それは、ものを斬る道具や。それと愛し合ったら、斬り続けるしかない。斬って斬って斬りまくるしかないやんか。こいつはそれが好きなんやから。それ以外では燃えへんのやから。
 俺も結局、それが好きやねん。逃げようという気は、全然してへんかった。俺にとっては、秋津の家が世界の全て。そういうふうに生きてきた。そこから逃れようとしても、結局それを愛してる。そんな自分の心から、どうやって逃げ隠れできるやろ。
 呪われた血や。でもしょうがない。それが血筋の定めや。
 俺は剣を構えて、逃げまどう骸骨をひとつひとつ斬り捨てた。音楽はガンガン鳴っていた。踊るようなリズムに揺れて、人でなしのDJが盤上を操作する指を走らせていた。その声が俺を褒めていた。まるで鬼やと。まるで人でなしの鬼。最高にイケてると。
 俺はそのはやす声に、最高にむかついていた。吐きそう。これって船酔い? それともあの男が最高に胸糞悪いだけか。
 最後の骸骨は、そいつに助けを求めるように、俺に追われてDJブースに逃げた。でかいデスクみたいにも見える、その機械に縋り付く骨を、俺は背中から斬った。手応えらしい手応えはない。灰のように散る。塵の塊に斬りつけたみたいに、切っ先はあっけなく通り過ぎ、DJブースにも突き刺さった。
 しかしそれにも手応えはない。水煙は霊しか斬れない剣や。隣の位相に居ると言うてた。せやから斬れるのは骨と、そしてDJブースに居た人でなしだけ。
 剣の薙ぐ風が、男の白い鼻筋に吹き付けたようやった。目を見開いた顔で、湊川はにやりとした。その風刃に小さく額が裂けて、たらりと赤い血が一滴、その整った鼻梁を流れ落ちた。
 その自分の血を、男は舌を出してぺろりと舐めた。じっと俺を見ながら。
 酷薄そうな顔やった。人が死んでも、骨が死んでも、自分が死んでもかまへんみたいな。
「お見事、先生。幸せな骨や。一度ならず二度までも、踊りながら死んだ」
 手に持っていた煙草をくわええて吹かし、男は小さく踊るように身悶えた。そして裂けた額を撫でるように煙草を挟んだ指で撫で上げた。それだけで、傷は消えていた。こいつは人やない。
「先生の、しきになろうかな。少々痺れたわ」
 こっちを眺め、目をすがめて笑う男の顔を、俺はじっと見つめ返した。美貌というならそうかもしれへん。虎かて顔はいい。こいつも針のようやけど、鋭い美貌をしてた。力のある式神は、たぶん皆、その力に見合う美しい姿をしてるんやろう。
 湊川は長髪の男やった。細い茶色の髪を肩の辺りまで伸ばしてて、耳にはピアス。白シャツに、ビンテージっぽいジーンズ。手首と指にも銀をじゃらじゃら帯びている。それも髑髏《どくろ》のモチーフやった。虎の信太が確かこれと、同じ物をしてた。
 あいつには好みなんやろ。こういうのが。鳥さんも髪長い。あんなふうにナヨくもアホそうでもないが、静かな美貌や、品もあるし、頭も良さそう。
 しかしこいつは、俺の好みではない。ストライクゾーンを外してる。人の死を、笑って眺める奴は、俺は嫌いや。
「要らん、うちはもう、定員オーバーや」
 俺が拒むと、男はにやりと、また目を細めた。
「そうです? あと一人くらいいけるやろ。あの蛇ちゃんと、その刀と、それだけなんやろ。まさか神父も飼うてんの?」
「飼うてへん。人を飼えるわけないやろ」
 淫靡に言われた想像にむかついて、俺は唸るような口調で言った。
「そうやろか……」
 薄く笑って、湊川は同意はせんかった。
「飼うてる奴もいますよ。この世の中、なんでもありや。なんでもあり。欲にかられて鬼ばっかりや。それが面白うて、メディアのばらまく他人ひとの不幸に釘付けなってる鬼もおるでしょう。なんで先生が鬼やったらあかんの。やりたいようにやったらええやん。抱きたい奴は抱いたらええやん。蛇もええけど、神父も美味そう、鳥もええなあって、そんな感じでしょ?」
 笑って踊りながら、湊川は俺に話した。ものすごい音量で流れる曲のまっただ中やのに、こいつの声はクリアに聞こえる。たぶん普通の声ではないんやろ。
「信太が言うてた。先生、寛太に気があるって。困ったなあって。ええやん別に、何も困ることない。一晩貸してやればええやん。前は誰にでも貸してたで。三人でやったこともある。それが何で急に嫌やねん。鳥さんラブラブ、イカレてもうてな、頭おかしい」
 何がおかしいんや。あいつは鳥さんに惚れてるだけやろ。そんな相手を誰にでも貸す奴居るか。俺なら発狂するわ。
「おかしいのはお前の頭や」
 俺は湊川の目を見て教えた。何でかな、ほんまにイカレてる奴には見えへん。どっちつかずで迷ってる。闇に堕ちるか、光の中に出てくるか。手を引いて、正しいほうに連れていけば、鬼にはならへん。悪魔サタンにも。きっと美しい神になるやろって、そんな気のする奴やねん。
「そうかなあ、先生。乱交します? ええよう、気持ちいい。誰彼かまわずやりまくり。抱くもよし、抱かれるもよし、俺は両方いけますし、何やったら両方同時でも」
 けらけら笑う酔うたような目で、湊川は俺を誘った。上品そうな声なんやけど、言うてることは品がない。どっちやねんお前は。
「せえへん、そんなの。音楽止めろ。めちゃめちゃうるさい。怪我人連れ出してやらなあかん」
 銜え煙草で踊りつつ、湊川は面白そうに首を振り、そして盤上にあったバドワイザーを瓶ごと飲んだ。煙草を挟んだ指で持つ茶色のボトルに、窓から射し始めた港の鋭い夏の陽が、まばゆく透けて、俺は例の暗黒の霧が晴れ始めていることを悟った。
「もう、いない。怪我人は。神父様ファーザーが治した。美味そうな血やな。逆さに吊して全部絞りたい」
 流し目に、床に座って泣く花嫁を膝に縋らせて宥めてる神楽さんを見て、湊川は物欲しそうに言うた。
「お前も鬼なら斬っていこうか?」
 俺はちょっと本気で訊いていた。湊川はそれに、可笑しそうに笑った。
「俺は鬼やないですよ。KISS FMのDJのお兄さんやで? 今日かて船上結婚式の取材で来たんやもん。皆、俺のことは人間やと思うてる。いきなり消えたらびっくりしますよ」
 盤上に指をやり、まだ何か操作しようとする男にキレてきて、俺は怒鳴った。
「音楽止めろ!」
 それだけで、音は止まった。何も触らへんのに、ぴたりと無音が始まって、急にしいんとした船室の中に、人の息遣いや、すすり泣く声のする静寂が立ちこめた。
 湊川はそれに小さく口笛を吹き、探すと亨は離れた壁に背をもたれさせ、退屈そうな渋面のまま腕組みをしてた。
 結婚式のために着飾っていた人たちは泣いていた。まるで葬式みたいに。
 色とりどりの衣装は、踊るための服かもしれへん。今時もうボディコンでもないんやろけど、ダンス用の服やと思えた。ひらひらのスカート。キラキラのラメにスパンコール。ダンスフロアの照明に照り映える、そんな衣装や。
 楽しく踊って、十年遅れの結婚を祝おうって、そんな集まりやったんやろ。
 俺はその派手な服の人らの趣向がなにか、その時になってやっと、DJ湊川の口から訊いた。
 この人ら、震災の生き残りのダンサーどもや。死に損ないの友達を骨が迎えに来た。それでも死にたくないとこの人らは言う。なんで死んだらあかんのや。助けてくれって逃げるんで、とりあえず助けたけども、なんで俺は助けたんやろ。なんでもうババアになってんのに、結婚なんかするんやろ。愛してるって何。愛とは何か、俺にはまだ分からへん。先生、教えてくれへんか。
 湊川はその話を俺だけに聞こえる周波数チャンネルで話したと思う。囁くような声やったし、それに床で泣く気の毒な人らには聞こえていないようやった。亨も全く無反応。それにムッとしないような奴ではないのに。
 言葉もなく、俺は首を振って、それを拒んだ。お前に教える愛なんかない。
 次から次に、そんなんばっかり出てきてもな、俺は耐えられへん。一人でええねん。愛し合う相手なんて。亨ひとりでいい。
 抜き身の水煙を床に突き立てて、俺は亨のところへ行った。なんかもう、離れてるのがつらい気がして。
 頭がくらくらする。気分も悪いし。俺は不愉快で、どことなく気弱になってた。そういう時に逃げていくのが亨のとこやというのが、いかにも自分勝手で参る。
 亨がもたれる隣の壁にもたれると、そこにも花は飾られていた。白とピンク。嘘くさいような華やかさ。でも結婚のお祝いやから、いくら派手でも華やかすぎるということはない。
「アキちゃん……俺は要らんかったな。水煙居れば足りてたな」
 苦笑して言う亨の手を、俺は探して握ってた。
「そんなことない。俺はお前が居らんと駄目や。頭痛い。なんか吐きそう。なんとかしてくれ亨」
 俺が嘆くと、亨は笑った。困ったように。
「船酔いかあ……それは治したことないなあ。神父に頼めば?」
 意地悪そうに亨はそう勧めたが、俺は首を横に振ってた。亨に抱き寄せられながら。
 亨は背中に回してきた腕で、抱くようにゆっくり俺の背を撫でた。
「よしよし、アキちゃん、可哀想になあ。船に酔うやなんて。なんでもないよ、揺れてるだけや。海は皆のおかんやで。おかんに抱かれて、ゆらゆら揺れてるんやと思えばええねん」
 苦笑したように笑みを含んだ声色で言う亨の頭の中には、たぶん、うちのおかんが居ったやろ。お前はマザコン野郎やと、ちょっと皮肉を効かせたつもりなんや。
 せやけどお前は俺を誤解している。確かにそうや、おかん大好き。俺は救いようのないマザコン野郎やけども、この時はおかんのことは考えてへんかった。亨に抱かれてゆらゆら揺れてる。かすかな波のローリングが感じられる。肩にもたれてそれを感じると、確かに心地いいような気がしなくもない。
 でも離れてもうたら、また苦しいだけの波やで。船なんか嫌いや。どんな波でもお前と抱き合って揺れるんやったら、気持ちいいかもしれへんけど、一人だとつらい。一緒がええんや。
「ほんまにお前は、どうしようもない男やな。水煙様と相性ぴったりみたいなのを、選りに選って、この俺のいる前で見せつけてくれたりして。どないなっとんねん、アキちゃんの脳の神経回路は」
 ぼやく口調で優しく咎めて、亨はそれでも俺の背を撫でていた。
 悪い子ぉやわ、アキちゃんは。昔、おかんが、俺によくそう言うてた。ぼやくみたいに。ちょうど今の、亨みたいに。
 おかんは優しい。怖いけど綺麗やし、俺がどんなに悪い子しても、結局は許してくれる。泣いて戻れば、抱いてよしよししてくれる。そんなんやからマザコンやめられへんねん。
 亨もそうかもしれへんかった。俺にとっては、おかんみたいなもん。今となってはもう俺も、いくらなんでも、おかんには、弱音は吐かへん。二十一やで、ええ歳して、十やそこらの餓鬼やない。それでも弱い男やねん。ヘタレなぼんなんやからな、弱音吐きたい時もある。そういう時に頭に浮かぶのは、なんでか亨の顔やねん。この白い手。白い腕。それに抱かれて甘えたい。そんなことを考えている。
 マザコンより強い、水地亨コンプレックス。不治の病や。しかも症例は世界に俺ひとりだけ。そうであって欲しいところや。
「吐くなよ……アキちゃん。なんか嫌な予感すんで……」
 俺を抱きながら、亨がいかにも焦ったように言った。
「吐かへん。吐きそうなだけや……」
 俺の返事を聞いて、亨はびくっとした。
「水煙、アキちゃん連れて戻るわ。おかに返さな、こいつはおかの生きモンらしいで。海は無理!」
 俺の腕を引いて出ていく亨にビビったように、水煙が怒鳴った。もちろん声ではない声で。
 アホか! 俺を置いていく気かと。
「泳いで帰れ」
 亨は、しれっとしてそんな事を答えてた。
 泳げるわけないやん。歩かれへんのに。それとも泳げんのかな、水煙。そういえば水族館で見た人魚、何とはなしに水煙と同じ系統に見えた。同じシリーズというか。イルカとクジラは同種族みたいな程度には近いような。
 水煙て、もしかしたら、おかに這い上がった人魚か。だから歩かれへんのか。でもお話の人魚姫は歩けてたで。足痛いだけで。ダンスもしていた。ほんで王子様と結婚でけへんで、あえなく海の泡に。そういう魔法がかかってるんや。確かそういう話や。
 まさか水煙も、そういう話やないやろな。まさか水煙とも結婚せなあかんとか、そういう事はないよな。それは重婚、というか、一夫多妻、というか。ハーレム状態。
 連れて帰ってくれ、置いていくなジュニアと、水煙が哀れっぽく俺を呼んでた。
 可哀想やで。置いていかれへん。もしも無くしてもうたら大事や、うちの伝家の宝刀なんやから。ご先祖様に申し訳ない。
 水煙、連れて帰らなあかんと、亨に連れ去られつつ振り向くと、輝く剣の前にJD湊川が立っていた。奴は首を傾げて、水煙を不思議そうに眺め、そしておもむろに柄を握った。
 盗るな。俺の水煙。
 一瞬そう焦ったけど、別に盗られた訳ではなかった。
 湊川は床から剣を引き抜いて、颯爽と見える足取りで、俺と亨を追ってきた。立ち居振る舞いの美しい奴やった。それがラジオで働いてるなんて、宝の持ち腐れ。声も確かに美声やけども、どうせやったら顔や姿も見えてたほうがええのに。
 港の陽光の下で奴を見て、俺は結局そう思ってた。これもまた美しい神や。そんなんばっかりや。吐き気で自制心が薄くなってる。病気の時には誰にでも惚れるという噂は聞いたことあるけども、そういうのやったらどうしよう。
 舷側ごしに、湊川は横付けして待っていた海パトの船上に立つ、水上警察の徳田さんを覗き込んだ。
とくさん、どうもですー。骨、やっつけたよ。もう船、港に着けても平気ですわ」
 打って変わって、にこやかに、湊川は徳田さんに報告していた。
 そして水煙を指で吊して、普通人には見えへんようやと分かってるんか、ほっとした顔で見上げる徳田さんの顔面めがけ、すとんと落とした。
 俺はそれを見て、一瞬吐き気を忘れたわ。自分の喉がひっと鳴る小さな音が聞こえた気がする。
 確かに水煙は人は斬れへん。そのはずや。勢い余って神楽さんの体に刀身がめり込んだ時にも何ともなかった。それでもわざわざ、人の顔めがけて剣を落としたことはない。
 水煙は声にならんような悲鳴をあげて、船縁に足かけて立っているおっさんの顔を貫き、そのまま体を貫通してから、すとっと海パトの舷側に突き刺さって止まった。止まらな海まで落ちてまうと、水煙は焦ったらしい。
「ほんまか、怜司れいじ。いやあ、助かったわ。どないなるかと。いくら変なモンが港に入らんようにするのが、水上警察の仕事や言うても、相手が骨やと手も足も出えへんかなら」
 串刺しなったまま、徳田さんは平和に安堵のため息をついていた。
「こちらの本間先生が、全部やっつけてくれたんや。感謝しといてくださいよ。うちの本家筋のぼんやねん」
 にこにこ教えて、湊川はその笑みのまま俺を見た。まるで、とっつきやすいイイ子みたいに見えた。しかし、俺がそれに応えないでいると、奴はさらに、にやりとしたような本物の笑みになった。
「ホテルまで送ってください、先生。ヴィラ北野。そこで信太と落ち合う約束やねん。生憎仕事やけどな。俺も霊振会に雇われた」
「お前が何の仕事すんねん」
「パーティーのDJですよ。なまず先生を囲む会」
 楽しみやなあという顔で言い、湊川は海パトに飛び降りた。そして徳田さんと親しげに話した。不気味やった。無愛想というか、生まれて一度も笑ったこと無いようやった徳田のおっさんが、湊川には笑いかけていた。デレデレと。
 それに応える笑みで、湊川は愛想は良かったが、目が笑ってない。きっと誰にでもこうなんやと、俺には思えた。役に立つ人間には優しい。きっとそんな神か鬼かや。
 怜司れいじか、と、俺はぼんやり考えた。湊川怜司みなとがわ れいじ? 人臭い名前やな。それに、ファーストネーム交流か。案外、インターナショナルなオッサンなのか。なんせ神戸の水上警察の人やからなあ。
 それとも、やっぱりアレかな。仲良しなんかな。すごく仲良し?
「アキちゃん……要らんこと考えたらあかんで。もう定員オーバーやから、うちは。No More New Oneやで。新しいのはもう要らん」
 俺の肩を叩いて、亨がしみじみと言うた。
 違う違う、そんなんやない。顔綺麗やなと思って見てただけ。ほんまにそれだけ。
 それで俺は亨に、キリキリ歩けと引っ立てられて海パトに叩き落とされ、水煙に口を利いてもらわれへんかった。なんでやろ。何となく分かるけど。
 神楽さんは、なんとか花嫁を宥め賺して解放してもらい、いかにも元は神父らしく、新しく夫婦となった古いカップルの門出を祝福してやっていた。結婚は神の御心みこころに適うものらしい。せやから幸せになったらええんやと神楽さんは保証していた。
 人にそんなん言うとらんとお前も頑張れ。
 神楽さんは俺の顔色が最高に悪いのを見て、帰りは運転しましょうかと言った。
 俺は自分の車を人に運転させたことはない。それでも、よろしくお願いしますと頼んだ。だって事故ったら嫌やから。それくらい不調やったんや。
 神楽さんは、何でか増えてる新しい一人に警戒感たっぷりの引きつった笑みをして、それでも相手がにこにこ愛想ええもんやから、さほど気にせず助手席に座らせていた。そして俺は亨と水煙を左右に侍らせ後部座席で半分気絶してた。
 海は俺を受け入れてない。船にはもう乗りたくない。なんかおかまで揺れてる気がする。
「あんな短時間でおか酔いまでするなんて……すぐるさんがいずれ、お二人を誘って、ホテルのクルーザーでも出そうかなんて言うてましたけど……やめますね」
 気の毒というより面白いという顔をして、神楽さんがバックミラーの中から笑って俺を見ていた。やっぱり小さい悪魔サタンや、お前は小悪魔系なんや。神父のくせして人の不幸を笑うとは。
 そしてその、船酔いもおか酔いもしない素敵なすぐるさんは、なんでかホテルの玄関で待っていた。虫の知らせやと言うてた。もうじき戻ってくると、そんな気がしたんやって。誰がって、嫁がやないか。神楽遥の接近を察知できたらしいで。
 別に超能力やないねん。なんとなく分かったらしい。ただの勘。当てずっぽうや。たまたまその場に居ったんで、神楽さんに喜びそうな事を言うてやっただけかもしれへん。気障きざなおっさんやからなと、それは亨の意見。
 お帰りと、中西さんはにこにこ言うた。それに神楽さんはぼうっとしてた。そしてその、恋しかったみたいな顔で呆然と、ただいまと言うた。二人は恥ずかしげもなくホテルの玄関先で抱擁していた。
 俺と亨はもちろんそれからは意図的に目を背けていた。
 しかし湊川怜司はもちろんガン見していた。
「おおすげえ! 薔薇や! 背景に薔薇が……」
 さすがに釣られて見てもうたわ。
 神楽さんの背後から、半透明の薔薇がにじり寄っていた。ホテルの入り口で待ちかまえていたようやった。
 神楽さんはそれに、気がついていない。でも、うっとり抱かれてるその背をよしよししてやっている中西さんは、気がついている。笑いを必死でこらえてる顔してる。笑うたらバレてまう。バレたらお祓いされてまう。それは惜しいって、思ってるらしい顔やった。
 亨は車の窓から半泣きでそれを見ていた。ハンカチあったら端っこ噛みそうな顔やった。
「藤堂さん、なんであんなんなってもうたんや。なんであんな、吹っ切れてもうたん?  遅い、遅いのよ、アホなるのが遅い……」
 くよくよ指噛んで言うてる亨に情けなくなってきて、俺はハンカチ代わりに、うちの家紋の蜻蛉とんぼの柄の、いつも持ってる手拭いを貸してやった。亨は案の定それを、びりびりに噛み裂いていた。そんなに悔しいんかお前は。おかんが作らせてる秋津家グッズになんて仕打ちを。
「アキちゃん、俺らも抱擁ハグを、あそこに立って花背負って抱擁ハグしよか!」
 涙目の亨に言い寄られ、俺はがっくり来てた。
「張り合うな……勝てるわけない。神楽さんの薔薇はほんまもんの薔薇の精やで。それに花なんか出せるか、抱擁ハグしたくらいで……」
 さあ抱き合おうみたいに迫ってくる亨をじわじわ避けて、俺はいじけた。なんでまた中西さんなんや、神楽さん。働いたの俺やのに。お帰り言うただけの人に全部持って行かれてる。
「あらあ。本間君やないの」
 どっかで聞いた女の人の声で言われ、朗らかそうなその声のしたほうを、俺は探した。
 後部座席側の窓を、こんこんと、微笑んでいる巻き髪の小夜子さんがノックしていた。
 新開道場の奥さん、俺の剣の師匠の嫁さんや。
 日傘さしてる。白レースの。そして巻き髪。そして白ブラウスに紺のフレアスカート。バレエシューズ。典型的な神戸ファッション。
 そして嫁だけやのうて、新開師匠本人もいた。道着やない、ごく普通の半袖シャツとズボンで。
「師範?」
 窓開けて、俺は怪訝に訊ねてた。
「何や、その顔。あかんのか、俺も居ったら」
 いつもの髭面で、師範はからかうような叱りつけ方をした。
 どう見ても、中身は日本刀やろうという、紫色の絹にくるまれた長物を持っている。雷電らいでんやろう。新開道場に伝わるご神刀や。
「なんで、洋服着てはるんですか。日本刀まで持って。捕まりますよ、異常者やと思われて、警察連れて行かれる」
 俺は心配して言うたんやで。師範、しょっ引かれたら大事やと思うて。銃刀法違反やで、日本刀持ってうろうろしたら。
「アホか。刀ならお前も持って歩いてるやないか。それに俺が洋服着てたらあかんのか。いつも道着なわけないやろ!」
 普通やわ、師範。普通の服着てたら、髭面がむさ苦しいだけの、普通のおっさんやった。とても雷を呼ぶご神刀振り回す、その筋の人とは思われへん。おっさんのくせに体格ガタイがいい。その程度にしか普通で無さがない。
「あの人、女の人かな。男の子? 綺麗やわあ……宝塚のスターみたい」
 ほうっと感嘆のため息ついて、小夜子さんがエントランスにいる神楽さんを見ていた。またそれか、小夜子さん。また宝塚。あれ男です。神楽さん男の子やから。
「本間、お前……なんか斬ってきたやろ。肩に塩撒いとけよ、厄払いに」
 顔をしかめた小声で、新開師匠は俺に囁いた。小夜子さんがうっとりお祈りポーズで、向き合って話す中西支配人と、天然で赤い薔薇が出せる男・神楽遥を見るのに夢中でいる間に。
 水煙を見ただけで、新開師匠には、それが分かったらしい。
 ぱっと見普通やのに、新開師匠も普通の人ではない。水煙見えてるし、それに、その時俺が纏っていた、死の舞踏を斬り捨てた灰の名残のようなもんも、師範には見て取れた。
 小夜子さんにも、見えるんやろかと、俺は初めて、それを思った。
 たとえば見えてんのか、他のモンは目に入らんような顔をして、中西さんと話してる神楽さんが、むらむら赤薔薇にまとわりつかれているのとか、俺が抜き身のサーベルを、うろうろ持ち歩く男やということが。
 小夜子さんは昔から、道場の運営にはノータッチやった。稽古が終わると、おやつ食わしてくれる優しい奥さんで、竹刀なんか握ったこともない。
 うちのおかんの暴虐で、道場に化けモン出るって悪い噂をたてられた時にも、小夜子さんはにこにこしていた。門下生が激減してもうて困ったやろけど、お嬢さんみたいな人で、これで神戸帰れるんやし嬉しいわあって、そんなのんきさやったんや。
 お化けなんて、私には見えへんかったけど。皆、臆病な子ばっかりねえと、小夜子さんは笑っていたような記憶がある。
 つまり、小夜子さんは普通の人なんやないか。それも相当鈍い。霊感ゼロみたいな、ゼロどころかマイナスみたいな。見えてない。恥ずかしさ大爆発の、神楽さんの赤薔薇も。水煙も。その他の様々な怪異も。巫覡ふげきたちが歩いてる、鬼道きどうの世界も。
「なんで、こんなとこ来はったんです?」
 俺も小声で師範に訊いた。新開師匠は苦笑していた。
「しゃあない。喚ばれたんやもん。俺も霊振会の会員さんやから」
「嘘やん……師範、そんなこと一言も言うてなかったやないですか」
 俺は恨んで話してた。
「そんなん、なんでいちいち言わなあかんのや。必要ないやろ。期待しとるで、新会員くん。肩の荷重いやろけど、お前ならやれる。本気出していかなあかんのやで」
 にやにや哀れむような苦笑をして、師範は亨にめそめそ抱きつかれている俺の肩をぽんと叩いた。
 神楽さんは運転席に戻ってきそうもない。
 ホテルの配車係の人がやってきて、なんとなく燕尾服を思わせる制服の黒も目に鮮やかな白手袋で、あたかもお屋敷の執事か使用人、そんな感じのきりっとした低姿勢から、お車をお預かりいたしましょうかと、にこかやに俺に聞いた。
 俺はこの人の顔に見覚えないけど、向こうはこっちを憶えてる。これが俺の車やということを、憶えてたんやから。さすがプロ。
 お願いしますと俺は頼んで、車を明け渡すことにした。
 助手席のドア開けて、湊川怜司が降り立った。ふうんという薄い笑いでホテルの建物を見上げ、奴は臭いを嗅ぐような顔つきをした。
「外道だらけやな、先生」
 それが好ましいというような口ぶりやった。視線鋭い切れ長の目で、湊川はいろいろ眺めたようやった。仲睦まじい支配人と元神父。小夜子さんと新開師匠。エントランスの丸く刈られた鉢植えの常緑樹。そしてロビーに見える沢山の人影を。
 そして、にやっと笑った。
「ええホテルやな。気に入ったわ。信太どこやろ」
 親しげに名を呼ぶ口調は独り言めいていた。重そうなびょうチェーンに飾られた低めのベルトに指をかけて、モデルみたいな軽快なリズムをとる足でロビーに消えた。ちゃらちゃら銀の鳴る音が、いつまでも耳に残るような、残像めいた余韻のある奴やねん。
「綺麗な人やわあ……」
 心底感心したというふうに、立ち去る湊川を眺め、小夜子さんがほっぺたに片手をあてて、またため息ついていた。
 保たへんで、小夜子さん。このホテル、入っていくつもりなんやったら、いちいち綺麗やわあ、そしてため息、みたいなんやってたら、何にもでけへんようになる。スルーせなあかん。美形がいてもスルー。
 今やこのヴィラ北野は、まさに妖怪ホテルそのものの様相で、霊振会の貸し切りによる巫覡ふげきとその式神どもとで、ほぼ異界みたいになっていた。
 今日から泊まるという新開夫妻を連れて、チェックインのためのフロントに行くと、顔を見るたび俺の胸がなぜかズキズキ痛む、例の綺麗なお姉さんがいて、美しい笑顔と完璧な接客により、書類に記入している新開師匠の相手をしてくれた。
 そうして住所と名前なんかを書き込む間にも、小夜子さんは見てるこっちが笑えてくるぐらい、あの人綺麗やわあ、まあ、あの人も綺麗やわあ、まあまああの人も……みたいなため息地獄に陥っていた。亨はそれを、あんぐり呆れて見てた。
 水煙は、ひさかたぶりに燃えたのに、よっぽど満足してたんか、剣のままやったけど、俺の手に戻り、ぐうぐう寝てるみたいやった。その、満ち足りた寝息のようなもんを、俺はなんとなく感じてた。
 ここは、普通の世界やない。
 こんなとこに泊まって、小夜子さんは平気かな。普通の人やのに。
「綺麗やわあ。私ね、憧れてたんよ。ここに泊まるの。前々から良かったらしいんやけどね、改装されて、もっと良くなったみたいって、宝塚で会った観劇仲間の子が言うてたの。それでいっぺん泊まってみたくてね……まさか浩一さんが、連れてきてくれるなんて、嘘みたいやわあ」
 嬉しそうに頬染めて、小夜子さんは俺に話した。それに俺は、なんと言うてええやら分からず、ただ曖昧な苦笑をしただけやった。
 師範はたぶん、仕事で来たんやで。そのついでにというか、自分も行きたいとせがまれて、小夜子さんを連れてきてもうたんやろか。
 そうやない。師範は奥さんを愛してた。これは会員特典というやつや。ヴィラ北野は霊振会に貸し切られていた。来る四日後のなまず出現に備え、会の偉いさんたちは、ホテルに一種の結界を張っていた。大地震に襲われても、この大本営が無事に生き残り、その機能を果たせるように。
 そのためにここに巫覡ふげきと式神を集めたんや。結界張れる能力のある奴らは、自分の身に被害が及びそうになると、無意識にしろ意識的にしろ、それを避けようと防御用の結界を張るもんらしい。せやから、そんな奴らをここに泊まらせておくことで、突然襲ってきた地震にも、とっさの防御網を張ることができる。
 それが俺が最上階のど真ん中の部屋に泊められている理由やったんや。会長・大崎茂は読んでいた。俺はあの秋津暁彦あきつ あきひこと、登与姫とよひめさまの間にできた子や。きっと、えげつないほどの力を秘めている。火事場の馬鹿力で、アホみたいな力を出すかもしれへん。そうでなくても駄目もとやと。
 そんなホテルは、神戸に居るなら一番の安全圏やった。新開師匠は秘密にしてたんや。自分の血筋の持つ力とか、普通ではない自分のことを。せやから小夜子さんには、どうしても言われへんかった。あと四日したら大地震が起きるから、どこか安全なところへ逃げろって。
 それでやむなく連れてきた。ヴィラ北野、泊まってみたいわあっていう、お嬢さんみたいな奥さんを、嬉しいわあっていう気分のまま、何も説明せんと連れてきてたんや。
 それを意気地がないと、俺は責めへん。俺もそうしたかもしれへん。どっかの剣道の大会に出て、そこで自分に惚れてくれた、何の力もない鈍くて可愛い普通の女の子と結婚してたらな。
 知られたくない。今時の世やのに、俺には血筋の定めがあるんや。鬼と戦う義務がある。そのための神剣を受け継いでいるやなんて。言うに言われへんよ、普通でなさすぎ。
「本間君と亨ちゃんもここに泊まってるの? なら今晩、いっしょに晩御飯食べましょうね」
 にこにこ嬉しそうに、小夜子さんは俺らを誘ってくれた。
「若い人らの邪魔したらあかんで、小夜子。若いモンどうし遊ぶほうが楽しいんやから」
 訳知り顔の苦笑で止めて、新開師匠は部屋に案内しようというホテルの人についていくよう、小夜子さんに手招きをした。
 師匠はもちろん知っていたやろ。俺と亨がどういう間柄やったか。亨が人ではないことも。そしてロビーにたむろする顔の綺麗な連中がみんな、人ではないことも。
 三人そっくり同じ顔した、長い長い巻き毛の黒髪をした女を侍らせて、ロビーのソファに腰掛けている白髪の老人が、タイトな真っ黒いパンツスーツに身を包んだ女たちの、乳バーンみたいな露出度大の胸元を擦り寄せられて、何かをしきりに強請られているのを見て、小夜子さんは目が点になっていた。
 女たちの息ははあはあ荒かった。たぶん血が欲しいんやろ。あの爺さんが三人相手に頑張れると思えへん。それとも頑張れるのか。それはそれで異界や。三つ子のセクシーダイナマイツとジジイ。想像するだに目の毒や。
 それだけやったらまだええよ。
 よりによって小夜子さんは、その隣のソファで虎とめちゃめちゃキスしてる湊川怜司みなとがわ れいじを見てもうて、もともと点やった目が、さらに宇宙の彼方ぐらいに遠くなり、敷かれた赤い絨毯にけつまずきながらエレベーターホールに消えた。
 なんで居るねん、ここに。しかもなんでキスしてんねん、虎。DJのお兄さんと。しかも隣に鳥さん侍らせて。鳥さん、ぽかーんみたいな顔で見てるやないか。
 さらに言うなら、虎はその鳥さんと手を繋いでた。赤いのと薄茶のと、左右に侍らす虎さんやった。
 俺はそれに、開いた口が塞がらん。人のこと言えた義理ではないかもしれへんけど、そんなことしてええんかお前。あかんやろ、いくら鳥さんがぽかんと見るだけで怒らんとしても、立場が逆やったらお前はどういう気がするねん。
 しかしそれは、奴らの感覚では浮気には含まれないらしい。うちでは吸血が浮気に含まれないという合意がなし崩しに成立していたように、虎にとってキスは性行為ではない。給餌きゅうじや。エサ。飯食わせてるようなもんらしい。
 信太は口移しに何か精気の塊というか、あめ水飴みずあめみたいなもんを与えてやれるらしい。鳥が雛にエサやる時に、とってきた食いモンを吐き戻して食わせるみたいなもん。虎は神やと祈る人々から吸い上げた、まさに虎並みのお力を、信太は仲間に分け与えてやっていた。そうやって赤い鳥も育てた。欲しい言うたら、それが湊川怜司みなとがわ れいじでも、しゃあないなあってくれてやる。それが目当てで奴は信太と付き合っていた。せやから、しょうがない。しきが懐くのは、エサが見当てや。通常、それ以外に理由はない。
 見なかったことにしよう。俺はそう思って目を逸らそうとした。
 しかしうちの亨がですね、それを許さん構えやった。つかつかと、奴らの座るソファへ行き、まだまだエサをやりますよ的なディープキスに入ってる虎のキンキラ頭を、ピシャーンみたいに力一杯叩いてた。
 びっくりしたやろな、叩かれたほうは。うわあ言うてたわ。ええ気味やった。
 そんなんしたらあかんでと、亨を諫めるべきとこかもしれへんけどな、まあええか虎の頭やし。ちょっと叩いたくらいで何ともならへんやろ。平気平気、強いから。
「何やっとんねんお前というやつは」
 呆れ果てたよという口調で、亨は虎を責めていた。お前にはそれを責める権利があるつもりなんか。お前もそいつと仲良うしてきたことあったくせに。
「何や、亨ちゃん。びっくりするやないか。頭どつく前に声かけてくれ」
 叩かれた頭を撫でながら、虎は亨を恨めしそうに見上げていた。
「何ややないよ、これは何やねん。鳥さんというものがありながら、こいつはお前の何やねん、信太」
 湊川をビシビシ指差しながら、亨は説教する声や。虎の信太はそれに情け無さそうな顔をした。まるで嫁に浮気がバレてもうた旦那みたいやった。
「何ってツレやないか。お前ら、もう会うたんやろ。怜司れいじがそう言うてたで」
 わいわいがやがや話してる奴らのほうへ、俺も一応顔出した。ほっといて部屋帰るわけにもいかへんしな。
「鳥さん、お前もなんか言え。ぼけっと見てへんと! 何か言うことあるやろ!」
 亨に説教されて、鳥さんは急に慌てたような、眉寄せた悩む顔をした。
「何かって……何? あっ、そうか!」
 分かったという顔をして、鳥さんはにっこり虎を見た。
「俺もキスしてほしい、兄貴」
 にこにこ可愛いようなアホの鳥を見て、虎はデレデレしていた。
「そうかそうか、ついでやし寛太もしよか」
 そうして遠慮無く鳥ともキスする虎を見て、亨はぐったり来てた。
 言うだけ無駄やって。鳥さん、アホやねんから、もう、諦めろ。そいつらに関与するのは、極力避けろ。何の縁も義理もない。赤の他人、というか、赤の人でなし。蔦子さんの式神なんやから、本家とは関わり合いがない。増してお前は今はもう、ほんまに赤の他人なんやから。
「寛太、次は俺としよか」
 うっとり淫靡なように誘う声で言い、湊川は虎が離した鳥さんのうなじに手をかけた。さあキスしよかという、いかにも慣れた仕草やった。
「あかんねん、怜司れいじ。もう、したらあかんのやで」
 ぼけっとにこやかに、鳥さんは湊川に説明していた。
「何があかんのや」
「もう、信太の兄貴としかせえへんねん、キスも、アレも」
 有り難いというか神々しいというか、底抜けにアホみたいな微笑を浮かべ、鳥さんは人懐こくそう断っていた。それに湊川は、品良く怜悧な顔を歪めて、はぁ? みたいなリアクションやった。
「マジか。そんなアホな。お前、キスは俺のほうが上手いって、いつも言うとうやんか」
「そうや」
 即答してる鳥さんに、虎は今すぐ絶命しそうな顔をした。ざまあみろ。
「でもな、そういう問題やないねん。愛やねん、怜司れいじ
 後光が射してきそうな顔で、鳥さんは話してた。それにDJのお兄さんはさらに顔を歪めて言った。
「なにそれ、愛?」
 まるで、初めて聞くけど、それは何、みたいな口調やったわ。
「わからへん」
 にっこり笑って鳥さんは即答やった。一瞬前に深く頷いていた亨は、次のこの瞬間にはもうコケそうになっていた。
 ほらな。真面目に取り合うたらあかんねん、この鳥さんは。俺はそう直感してる。諭して分かる相手やないんやって。
怜司れいじのこと、好きやけどな、信太の兄貴としか、したないねん。それやと、あかん? 俺のこと、嫌いになるか?」
 ちょっと困ったなあって顔して訊ねる鳥さんに、湊川はものすごい渋面をした。とにかく不満ということが、何も言わんでも詳しく分かるような表情やった。それを浮かべた美貌を脇に置き、信太は照れるというより、ほとほと自分が情けないというようなつらをしていた。恥ずかしいんやろ。こっちはこっちで、それを堪える渋面やった。
「嫌いには、ならへんけど。つまらんわ……」
 すねたように答える湊川は、向かっ腹でも立つように、長いため息をつき、切なそうやった。それがちょっと可愛げあると、俺は思ったが、それについては、考えたらあかんコースにつき、脳内削除。うちはもう満員。満員やからな。
「お前も誰かと愛し合ったらええやん」
 信太がそんな代案を出していた。ほとんど言い訳みたいなもんや。
「誰と。信太と?」
「いやいや、それやと何の解決にもなってへんから。誰でもええから他の奴と」
 虎みたいなキンキラの頭をがしがし掻いて、虎は困ってるようやった。まんざらでもないらしい。なんて多情な奴や。俺も人のことを罵れる立場ではないけどもや。
「他のって……」
 組んだ膝の上に肘をつき、長い指を顎に添えた姿勢で、湊川は相当深く考えていた。頭の中で何を検索してるのか、考えると怖い。めちゃめちゃ長いらしいリストを上から下までサーチしたという気配のあと、眉根を寄せて閉じていた目をゆっくりと開き、奴は俺を見た。
 えっ。俺? なんで俺?
 思わず睨み合う俺と湊川の視線の交錯の意味に、一瞬遅れて気がついたらしい亨がはっとして、俺をくるりと裏返し、背を向けさせた。
「あかんあかん。見るのもあかん。俺のモンやからアキちゃんは。今は本家は新規募集してないからね、式神お断り」
 きっぱり首を振って拒み、亨は、それはありえへんからという作り笑いを見せていた。
「そうかなあ。絶対的に足りてへんで、秋津家は。有事に備えて戦力増強しとかへんかったら、えらい目にあうで。今や兵力尽き果てて、哀れお高き水煙様も、涙ぐましき孤軍奮闘やないか?」
 講談みたいな名調子で、湊川怜司はにやにや言うた。寝ててよかったわ、水煙。絶対バトルになってたと思う。なんやそんな敵意があったで。
 実はけっこう歳食うてんのかな、この式神も。人でなしの歳なんか、俺にはさっぱり分からへん。せやけど水煙と何かあるというんやったら、それは水煙がうちのおとんと従軍するより前のことやろうから、少なくとも第二次世界大戦よりも昔なんやで。
 見た目には、湊川はそんな歳には全く見えへん。いってて二十五かそこら。亨よりは年上やろうという見かけなんやけど、でも突き詰めれば年齢不詳やった。式神はみんなそうや。
「抱いてくれたら仕えてもええけど」
 笑う声して、でも本気らしく湊川は俺に呼びかけた。それに亨はびくっとしてた。
「絶対ないから!」
 腕を絡めてきて、亨は俺をせしめるように縋りつき、なんでか必死の声やった。なんでそんな必死やねん。あるわけないやんか、そんな交渉に俺が乗る訳がない。
 だってお前が居るんやし、他のと寝るわけないやんか。
「やめとけ怜司、本間先生は。蔦子さんに声かけられてるんやろ、よそへ行くなら、そっちをちゃんと断ってからが筋やろう」
 やんわりと、信太は組まれた湊川の長い脚のももを叩く手で触れ、そうたしなめた。湊川はなにも答えずにやにやしてたけど、特に反論せえへんかった。
「決めかねる。蔦子さんは悪うないけど、本家のぼんのほうが力が強い。力というなら、蔦子さんより竜太郎のほうがイケてるらしい。でも俺は餓鬼は好かんのや。本間先生のがいい。でもまあ、ほんまのこと言うたらな、お前のおとんのほうが良かったわ。暁彦様は相当イケてた。でも俺は水煙と相性悪うてな、水煙と仲良うできへん式《しき》は要らんて、振られてもうたんや」
 それが痛恨の極みという顔で、湊川は煙草を出してきた。口に銜えたそれに、鳥が指に灯した火を差し出してやり、ちょっとは優しいような笑みをして、湊川はそこから点火した。ありがとう寛太と、甘いような小声で言って、それににっこりした鳥に微笑み返してやってから、湊川はまた話を継いだ。すでにもう、冷たいような、人の悪いにやにや笑いに戻った顔で。
「でもな、秋津に行かんでよかったわ。もし行ってたら俺も、とっくの昔に海の藻屑になっとうで。聴けてよかったわ、玉音放送。命あっての物種や。暁彦様にイカレてもうて、使い潰されたら敵わんからな」
「そんなことない。お前も本家に仕えていたら、喜んで討ち死にしてた」
 信太に言われて、湊川はしばし、真顔でその溶けたバターみたいな色の目と、じっと向き合っていた。
「そうやろか。そんなにええんか、暁彦様は」
 おとんを値踏みするような、淫らな口調でそう茶化し、湊川は俺をまたむかっとさせてた。信太はそれにため息をつき、いつになく真面目に話した。
「そういう意味やない。巫覡ふげきしきとの契約はそういうもんなんや」
「ほんなら信太は、蔦子さんがそう命じれば、大喜びで死ねるんか」
 ありえへんと言わんばかりの笑う声やった。こいつにはあるじがおらんらしい。蔦子さんのしきやない。誰の式神でもない。通りすがりの魔物か鬼か、人に化けてる神威の一人や。俺に会う前の亨が、そうやったみたいに。
 それを哀れむような目で眺め、信太は全然迷う様子のない声で、静かに答えてやっていた。
「死ねる。それに納得のいく理由があれば」
「アホみたい」
 苛立つ口調で言い返し、湊川はまだ吸いかけたところやった煙草を、ロビーのクリスタルの灰皿に押しつけて消した。そしてまだ肺に残っていたらしい紫煙を、ふうっと細く吐き出した。それは細かな編み目のような複雑な文様を、ヴィラ北野のロビーの、赤茶に塗られたドームのような、高い吹き抜け天井に描き出していた。
 嫌な話を聞いたという顔をして、湊川は眉間を揉んだ。
「仕事の話聞こか……」
 やっと本題という、固い声で呻き、湊川は話題を変えろと信太に求めた。
 その様子を斜に眺め、俺はちょっと思った。こいつは信太が好きなんやないか。
 惚れっぽいというか、気が多いというか、あいつもこいつも好きなんやろうけど、中でも目下の本命は、もしかしたら虎なんやないかと、そんな予感がちょっとした。
 だとしたら、ちょっと、ややこしい話やな。虎は鳥さんにメロメロやしな。褒められたもんではないけども、深く悩まず三人でとか、皆で仲良く組んずほぐれつ、そんな無茶な関係のほうが、こいつは幸せやったんかもしれへん。あからさまに振られるくらいやったらな。
 おとんの事も、割と本気で好きやったんか。それでも水煙と折り合いつかずで敗退って、いったいどんな血も凍るようなドラマがあったんか。やっぱり水煙て、全然優しくはない。おとんを巡って、あれやこれやの鞘当てが、式神どうしの間にもあったんやろう。それをくぐり抜けての生き残りなんや、あいつは。舐めたらきっと怖い目に遭う。
 それに湊川が、俺でええかと思う理由って、絶対俺がおとんに酷似しているせいや。そうに決まってる。またその呪いが発動や。
 おのれ、おとん大明神。いったいどこまで俺の人生を踏みにじる気や。
 おとん死んだし、こいつでええかみたいな扱いされて、俺はめちゃめちゃ不愉快やしな。要らん、綺麗なDJお兄さん。性悪すぎる。
 おとんはまだしも、虎が無理ならこいつでええか的選択肢として選ばれても、俺も嫌やわ。俺が好きやで来るんやったら、考えんこともないけど。
 いや。考えませんけど。たとえどういう経緯でも、考えないですけども。
「本間先生、今日はどうも」
 いきなりよそから声かけられて、俺はびくっとした。中西さんやった。
 赤・金色・薄茶色みたいな髪した奴らが座るソファの前で、何でか立ち話させられていた俺と亨のところに、神楽さん連れたスーツ姿の支配人が現れて、信太はそれに恭しく目礼してみせ、俺は答礼をした中西さんと向き合った。
「お話中、申し訳ありません。すぐ退散します。今日は本当にどうも、うちのがお世話になりまして」
 俺に頭を下げて、中西さんは礼を述べた。神楽さんからはまだ一言も聞いてへんけどなと、俺は恨めしく、スーツの後ろでうっとりきてる初心うぶな神父を見た。
 あんたはもう、ほんまに、もうあかん。慣れてなさすぎ、恋愛に。中学生みたいやで。夢中になりすぎ。
 それもしゃあないやろけど、この人の経歴を察するに。この年なるまで、誰かと恋愛したことないんやろけど。
 正直ちょっと、羨ましい。亨が俺に、そんなふうやったらええのに。無い物ねだりやなあ。言うてもしゃあない、亨については。
「後日、きちんとお礼はいたしますので」
 余裕たっぷりの大人の笑みで言い、中西さんは去る気配やった。
「待って。俺らももう行くわ。別にこいつらに用はないねん。藪蛇なってもうたら困るしな、とっとと退散しよか、アキちゃん」
 亨はこのタイミングでとんずらしたいらしかった。たぶん、部屋でのんびり二人っきりになろうみたいな気分なんやろ。
 それに笑って首を傾げた湊川は、中西支配人のことも、じいっと見た。値踏みするような目で。こいつと寝たら気持ちいいかなと、そんな感じの狙う目やった。しかしそれには愛はない。好奇心というか、なんというか。ただちょっと、食うてみたいだけ。
 誰でもええねんな。確かに中西さんは男前やけど、それでもちょっと、おかしいで。虎が好き、でも鳥さんも好き、おとん大明神も好き、そのジュニアでも良し、通りすがりの支配人もイケてるな、そういえばそのツレの神父もいい味出してそうやって、誰でも良すぎやないか。
 つらくないんか、そんな中身のない生き方してて。つらそうやったで、勝呂瑞希すぐろみずきは。
 あいつも娑婆しゃばに舞い戻ったら、こいつみたいになるんやないかと、俺はちょっと怖くなってた。勝呂はあのまま、天使のままでいたほうが、ほんまは良かった。なのに俺のせいで、またえらい目に遭うんやないか。あるじのいない野良犬みたいに、ふらふら彷徨う羽目になるんやないか。
「ほな、またな、信太。無茶苦茶したらあかんのやで。そのうちまたチェックしたるから、時々会いに来るんやで」
 本気か冗談かわからん口調で、亨は信太に挨拶をして、俺と腕を組んでいた。さあ行こうという亨の背に、鳥さんはひらひら手を振っていて、信太は自分も煙草を吸うついでにやろか、それともご機嫌とるためか、湊川にも新しい一本をくれてやっていた。
「会いに来んでも、ここに居るんや、亨ちゃん。俺らもここに泊まっとう。蔦子さんも、竜太郎もや。いよいよ大詰めですわ」
「テレビないのに、蔦子さん平気なん?」
 びっくりした顔で、亨が信太に訊ねた。
「いいや、キレとうで」
 にやにや苦笑して、虎は答えた。そういえば昨日、阪神タイガースはどうなったのか。
 俺はもちろん知らへんかった。どうでもええことや。俺にとっては。阪神勝とうが負けようが、俺の生活には何の関係もない。
 せやけどそれは大問題やった。蔦子さんと、その一門と、そして亨にとって。
「どないなったんや、昨日。俺まだ結果見てへん」
 亨はそわそわ禁断症状みたいな顔をした。それでも平静そうな小声やった。
 たぶん、歩み去る中西さんが、まだ聞こえるところに居たからやろう。野球に一喜一憂してると知られたくないんやな。お前はまだそんな無駄な努力を続行してんのか。情けない。俺は正直情けない。
「さすがモグリやな、亨ちゃん。しょせんにわかファンや。俺なんか試合中にリアルタイムで携帯に実況メールが来ちゃうから」
 虎は虎模様の携帯電話を、これを見よという、水戸黄門の印籠ばりの態度で俺と亨に見せた。電話まで虎か。工事中みたいやで。
「昨日はな……負けた。だから今夜、蔦子さんには近づくな。今夜負けたら敗退や。その時の蔦子さんは、正気やない」
 キレた蔦子さんに気絶以外の特殊モードがある。そんなことを匂わせる口調で、虎はしみじみ言うていた。
 そういえば、俺にもある。気絶か胃痛以外のブチキレモードが。
 今夜は、蔦子おばちゃまに、お会いしたくない。俺はそう思い、しみじみ怖いと思いつつ、亨と部屋に引き上げた。
 そして部屋の電話に、メッセージが録音されているという印の、赤い小さなランプが灯っているのを見つけてもうた。
 俺はもちろん、それを聞いた。誰やろうと、深く考えはせず。
 そして電話は話した。蔦子おばちゃまの声で。
『もしもし、ぼんか? なんで部屋にいてませんのや。今夜な、このホテルの近所に、スポーツ・バー言うて、テレビで試合見ながらお酒飲める店があるそうなんどす。コンシェルジュの人が教えてくれましたんえ。そこへ行きますよって、あんたが車で送りなはれ。よろしいな。八時にロビーで待ってますから、おめかしして来なはれ。大事な話もあるんや。すっぽかしたら、ただでは済ましまへんえ』
 果たし状やった。殺人予告というか。
 俺は内心震え上がっていた。
 とうとう来たかと思ったんや。蔦子さんが話したいのは、竜太郎のことに違いないと。
 うちの大事な跡取りに手出したら承知しまへんえ的なことを言われるに違いない。出すわけない、蔦子さん、俺もそこまで変態やないから。
 たぶん。
 そんな一言が、ついつい追加されてまう程度に自信はなかったけども、それは俺のせいやない。血筋の呪いや。
 それでも蔦子さんには、一言言い訳させてくれ。俺が誘ったわけやない。竜太郎が勝手に惚れた。不可抗力やねん。そこんとこちゃんと理解しといてもらわへんかったら、俺も立場が無さ過ぎる。
 どうやって話そうかって、そんなことばかり考えて、俺は暢気やったな。夜も二人でのんびりできへんのかと、ぷんぷん怒ってる亨に平謝りをしつつ、何着ていこかと困ってた。おめかしって、どんな格好なんやろか。
 言うほど着替え持ってきてないねんけども。
 そう思って開いたクロゼットの中には、いつの間にやら、確か海道家で見たのと同じ、ずらっと並ぶ新品の服がつり下げられていた。しかもスーツが、これを着ろと言う気配むんむんで、開いた扉の内側に吊されていた。
 たぶん、蔦子さんたちがチェックインするときに、ついでに持ってきたんやろ。
 そうか、このためのスーツやったんかと、俺は納得をした。海道家でクロゼットを開けたとき、なんでスーツあるんやろと思ったもんやったけどな。
 せやけど蔦子さんは、この日のことが視えていたんか。だとしたら、あの人は、何日先まで視られるんやろ。
 そんなことも俺は、知らへんかった。おかんの親友で、おとんの死のショックで三年寝込んだという、海道蔦子という人のことを、なんも知らん。そしてこの夜、知ることになる。血筋の定めというやつが、皆に等しく試練を与えていくことを。
 蔦子さんは、お見通し。おかんと同じで、何もかも知っている。ただ、うちのおかんが知っているのは、すでに起きた過去のことだけで、蔦子さんが気の毒なのは、まだ起きてへん未来のことまで、お見通しということやった。


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