SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(20)

 アキちゃんの浮気性には、ほんまに呆れる。
 水煙を信太に預けていくとき、アキちゃんは相当未練たらたらで、俺が手引いて連れ出してやる間にも、お名残惜しそうにちらちら振り向いてみていた。
 たぶん、信太に水煙犯されるとでも心配なんやろ。そんなことするわけない。信太は鳥さんラブラブなんやし、水煙は剣なんや。どうやって浮気すんねん。水で戻して犯そうったって、突き詰めればあいつは穴無し宇宙人やで。せいぜい舐めさせられる程度や。平気平気、そんなん犯されたうちに入らへんから。
 あいつも案外、嬉しいんとちゃうか。ジュニアはケチでしてくれへんて、欲求不満で日々悶絶してるんやから、いい憂さ晴らしやで。
 それで、よしんば新しい恋なんかして、いつまでもアキちゃんを物欲しげに見るんはやめてくれたら、俺も万々歳やねんけど。無理かなあ、それは。
 応援するんやけどなあ、もし水煙が、誰でもええからアキちゃんの他の、誰か別のとくっついてくれたら。
 だってもう俺は、水煙とケンカしたないねん。竜太郎の魂食うたろかみたいな、思い詰めた必死の形相見てもうたら、なんや可哀想なってくる。お前もアキちゃん好きなんやなあって、こっちまで切なくなってくる。
 俺もとうとう変態なってきた。元々そうやけど、いよいよ頭おかしい級になってきた。
 恋敵に情けをかけるなんて、まるで天使か聖人や。汝の敵を愛せよじゃないですか。
 俺はそういう柄やないねん。悪魔サタンですから。邪悪エビル系出身ですんでね。亨ちゃん、しっかりせなあかん。アキちゃん盗られへんように、しっかり見張っとかなあかん。
 アキちゃんの浮気性は遺伝性の病気みたいなもんや。本人の意志ではどうにもできへんねん。しゃっくりみたいなもん。わざとやないけど、突然始まってもうて、始まったらしばらく止まらへん。止めよう思って焦ると、返って変なことになるねん。
 しっかり背中をさすってやって、いろいろ優しく撫でさすり、ついでに血も吸ってみたりして、愛してるのは俺やったよね? みたいに、優しく優しく思い出させてやらなあかん。結局アキちゃんの本命は俺やねんから。
 水煙居れば亨は要らんわって、そういうことにはならへんで。
 それは自惚れやって言われるかもしれへんけど、俺はそう思うねん。アキちゃんは、俺がおらんとダメやねん。俺が居るから安心して、あっちにフラフラ、こっちにヨロヨロしてる。夏に犬によろめいていた時かてそうやったんや。
 それでも、いざ俺が消えていなくなるんではと思えば、アキちゃんは他のことは全部どうでもよくなる。人間だって平気でやめる。おかんが電話してきても、それに気づきもせえへんかった。どっかで哀れな小型犬が、疫神に憑かれて死にかかってるっていう事も、チラとも思い出さへんかった。ただずっと俺のこと抱いててくれた。
 これから先だって、アキちゃんはきっとずっと、そういう奴のままや。俺はそう信じてるねん。健気やろ。
 たまりませんよ、ほんまに。そうとでも思わへんかったら。
 やってられへん、この多情な俺が呆れるほどの、真性の多情やねんから。
 朝っぱらからして、水煙やろ。それに鳥さんのセミヌードにも、絶対、フラッとしてたに違いない。アキちゃんの、目が泳いでたのを俺は見た。
 それだけやったら、まだ許す。俺の想定内や。
 せやのに眼鏡の氷雪系にまで、なんかヤバいでみたいな必死の顔して、目を背けてた。あんなん、どこがええんや。確かにちょっといい。どんなややこしいことも、こいつに任せといたらええわ、よろしく賢いお兄ちゃん、みたいな奴でさ。頼りがいがありそうやもんな。
 でもそれ、どっちかいうたら俺のストライクゾーンなんとちゃうの。アキちゃん、水煙の話によれば、弟欲しいて言うてた子らしいけど、実はお兄ちゃんでもよかったんか。
 藤堂さんにも、やけに愛想ええし、お父さんでもよかったんか。
 どこまで無節操やねん。誰でもええんやないか、顔さえ良ければ。ほんまにもう、よう言わんわ。
 結婚しといて良かったわ。
 何もなしやったら、俺も不安や。アキちゃん、俺のもんなんやろ、って、一時間ごとに訊かなあかんようになる。もしかしたら三十分ごとか。いや、待てよ。もしかしたら、十分ごと?
 とにかく不安でたまらんようになる。アキちゃんが誰か他のに、心を移したらどうしようかって。
 アキちゃんはほんまに、俺のことが一番好きなんやろか。なんで俺が好きなんや。
 今となってはもう、よう分からへん。
 顔のいいやつなんて、実は一杯いたんや。
 俺は人間が好きやったもんで、外道どもとは付き合いが薄かった。神やら鬼やらいうのは、滅多におらんもんやと思ってた。
 実際のところ、滅多におらんのやけども、今のヴィラ北野みたいに、そういう奴だけ集めてみましたみたいな世界になってくると、自分のどこが他より優れていたんやろって、謎めいてくる。
 アキちゃんは、去年のクリスマス・イブの夜、京都のホテルのバーで俺を見て、なんて綺麗なやつや、この世のモノと思われへんと、一目惚れしたらしい。せやけど、見てみ、今となっては、面食いのアキちゃんが一目惚れするような連中ばっかりが、ヴィラ北野にうじゃうじゃいてる。
 早まったかな、って、アキちゃん思ってんのとちゃうか。
 水地亨は大したことない。あの頃、俺は初心うぶやった。むしろ標準みたいなやつが、この世で最高みたいに思えて、めちゃめちゃ惚れてもうたけど、実は大したことなかったんやって、今さら気がついて、後悔してたらどうしようか。
 でも、もう、俺も今さらそんなん言われても困る。だってアキちゃんの他に、俺には行くとこないんやもん。行きたいところもない。
 なんでやろ。出会って、随分たつんやで。それこそ何千回もキスもした。毎晩抱き合って寝ているし、果ては結婚までしたで。
 それでも相変わらず思う。
 アキちゃん、俺のこと、捨てんといて。ずっと傍にいさせてくれって。
 でも、もう、アキちゃんに縋ってそれを言うのはしゃくや。その程度には、俺もスレてもうたわ。自分がアキちゃんのツレで、相方やって、それが当然になってきて、そんなこと、いちいち頼みたくない。お願いやからって、泣きつかんでも、それが俺の当然の権利であってほしい。
 アキちゃん、水煙より、鳥さんよりも、俺ことが好きやろ。そうや、っていう目で、俺を見てくれ。だって新婚さんなんやから!
 そうやろ? 結婚生活、初日やで?
 そやのに、うちのツレときたら、お手々つないでホテルのロビーまで降りてきたところで、例のDJと出会って、何が恥ずかしかったんか、照れたみたいに、ぱっと手を離した。でももう見られた後やで、階段ホールからロビーに出てすぐの、赤い砂色の壁にもたれて、湊川怜司みなとがわ れいじはにやにや煙草を吸っていた。
 アキちゃんはもちろんそれに、顔をしかめた。煙草の煙、嫌いやねんしな。普通の人間どもが吸うのに比べて、独特の芳香の強い、そんな悪い臭いではないそれでも、アキちゃんは嫌みたいやった。たぶん何か、呪術めいた臭いがする。外道が甘く酔うような、そんな香木か樹脂か、そんなもんが入ってる。たぶん乳香ミルラとか、伽羅きゃら抹香まっこう白檀びゃくだんとかや。
 俺にはけっこう、いい匂いやねんけども、アキちゃんはたぶん、鼻の利く子なんやろ。いい匂いでも、強い臭いは嫌なんや。
「おはようございます、本間先生。朝からお熱いなあ」
 にやにや冷やかす口調のDJは、確かに煙草吸う手に髑髏どくろの銀の指輪をしていた。信太が鳥さんに強請られて、くれてやってたのと同じもんやわ。
 ひどい話やで、それも。信太の野郎。てめえは鳥が淫蕩や、誰とでもやるって嘆いたくせに、自分は一体どうやねん。左右に髪の毛長いのを侍らせて、なかなかいいご身分やないか。
 同情してやって損した。悪い虎やったんや。うっかりエッチせんでよかったわ。してたらきっと、もっとムカついてたで。
 きっとDJもムカついている。そうに違いない。だって信太がくれてやった指輪を十年以上もずっと、身につけてるんやろ。信太のことが好きなんや。まさか髑髏どくろが好きってオチやないよな。そんなんアホみたいすぎる。
「廊下は禁煙なんやで」
「いや、ここはロビーやから。ロビーは吸ってもええんやで」
 にこにこした綺麗な顔で、DJはアキちゃんの忠告を無視した。
 微妙なところやった。確かにロビーの外れやけども、ここから一階の客室に行く通路が始まっている。だから廊下と言えなくもない。
 お前は藤堂さんを知らんやろうから、自分に都合よくこのホテルを解釈しているやろうけど、ロビーの床には白大理石のタイルが敷いてあるやろ。ほんで、俺らが今立っているところの床は、明るい粘土色の陶器テラコッタタイルやろ。それはな、お前らの立っているところは廊下やと、そういう意味やねん、藤堂さん的には。床が変わったところまでで、ロビーは終了やねん。
 でもまあ、知るかやで。俺のホテルやないしな。廊下は禁煙なんて知るか。
 それにロビーはちょっと、朝やというのに賑やかやった。何やかんや搬入してきている業者が居ったりして、何かのイベントの準備でもしているみたいやった。
 いつもの藤堂さんやったら、そういうことは客のいない深夜にひっそりやらせている。この時それを妥協したんは、時間がなかったからや。美学はあるけど、突き詰めれば現実的リアリストな男やねん。他に手はないと思ったら、美学よりも実利を取る人や。
 けどな、そうやって組んでいるイベント用のセッティングが、どう見てもラジオの収録スタジオやった。もともと置かれてあった黒いグランドピアノの横にそれはあり、にょろにょろと色とりどりのケーブルが、優雅でゴシックやったはずのロビーの床を這い回っていた。
 なんでこんなもんがヴィラ北野のロビーに。ありえへん。藤堂さんの世界観的に。
「なに、あれ?」
 絶対このDJと関係ある話。そう思って俺は、未だに煙草をふかしている湊川に訊いた。
「KISS FM KOBE 北野局」
 薄く笑った怜悧な美貌で、湊川は愛想よく教えてくれた。
 ああ、そうなんや。ほんまにラジオ局の支部なんや。
 ……って、それで納得いくわけないよ。なんでそんなもんが、ここにあるのかという話やないか。
「いや、そうやのうて。なんであんなん、このホテルに作ってんの?」
「ええ? 見たやろ、KISS FMの本局。神戸港にあったやつ。あそこな、地震来たら沈むらしいんや。そしたら放送できんようになるやろ。それやと困るから、ここに臨時局を開設してんのや」
 地震来たら沈むって、湊川はさらりと言うたけど、どえらい話や。明日、明後日、明明後日しあさってやで、その、神戸港が沈むという日は。予知で知ってて、あらかじめ撤収できる奴らはええけど、港にかて人はいっぱい居るんやからな。
「ラジオ局なんか移して、何になるねん」
 顔をしかめてアキちゃんは、背後にあるロビーの、変わり果てた姿を見やって言った。
 たぶんアキちゃんはこのホテルの、完成されてる世界観みたいなのが、好きやったんやろ。それがいきなりぶっ壊されてて、ムカっと来たんや。美しいモンが好きな子やからな。
「何にって、先生。冷たいなあ。知らんのですか、地震が来たら、携帯は通じへんようになるんやで? 電気も止まるし、テレビは見られへん。災害時の情報源や、連絡手段といえば、それはラジオやないか」
 なんも知らん坊ややなあみたいな目で、壁にもたれた湊川にすくい上げて見られ、アキちゃんはちょっとぐっと来たみたいやった。冷たい美貌の上目遣いに萌えたんではない。言われた事に! 言われた事にやな、アキちゃん!?
「人間どもはなあ、先生。メディアを信仰してんのや。隣のおっさんが、大丈夫や言うても安心せえへんけど、ラジオやテレビのアナウンサーが、大丈夫やて言うてやれば、安心するもんやねん。それが、いつも聞いてる馴染みの声やったら、なおさらやんか。パニックならへんように、街を宥めなあかんしな?」
 そういう話をする湊川の声は、確かに耳心地のいい美声やねん。大人っぽい声や。落ち着いてるし、滅多なことではビビらへん。いつも冷静沈着やって、そんな感じの響き方。それがちょっと、冷たいというか、つれないというか、そんな気配もするんやけども、皆が地震で浮き足立って、怖いなあ、どうしたらええんやろうって逃げまどうような時には、きっとこういう声がええんやろうな。
「霊振会の人らも、街のあちこちに散ってもうたら、お互いの連絡がとれないでしょ。専用チャンネル用意しとうし、先生もその時なったら、俺のナビゲーションに身を任すことになりますよ」
 にっこりとして、湊川は、前に見た時とはまた違う、仕立てのいい白シャツの、ちょっとボタン外すの一個多くないかという、はだけた襟元から、やけにくっきり浮き出た鎖骨さこつのあたりを揉んでいた。外道も肩が凝るのか。実は凝る。外道でも疲れる。
 湊川の顔は、いかにも爽やかで綺麗に微笑んでいたけども、昨夜は寝てませんという様子やった。色っぽい意味やない。出会った今朝も早朝やったし、今起きてきたところという感じやないし、きっとこのDJは徹夜で働いてたんやろ。
 ああ、眠いなあと言いたげな顔で、湊川怜司は、ふわあと欠伸をした。そうするとちょっと、可愛いような隙があった。アキちゃんはたぶん、それにちょっと萌えた。くるりと焦ったように目を背け、中庭のあるガラス戸のほうを見たから間違いない。
 この、浮気者のボンボンめ! チーム秋津にまだまだメンバー増やす気か! なんとか言うたれ水煙! て、居ないんやったわ! 外道の虎に預けてきてもうたとこやった!
「年増やで、こいつ! アキちゃん。どう見てもアキちゃんより年上みたいに見えるで!」
 俺はとっさに、そう忠告していた。アキちゃんはそれに、びっくりした顔をした。
「急に何言うてんのや、亨……今そんなん、何の関係あるねん」
「そうや、関係ないで、白蛇ちゃん。俺はそういうことは気にせえへん。この子のおとんかて、最初に会った時は十六やった。それでも何ら問題なかったで?」
 むちゃくちゃ、しれっと言うてるDJに、アキちゃんは案の定、ぎゃあってなってた。
「そんな話、朝からせんといてくれ!」
 朝っぱらから大声で叫んでるアキちゃんを、湊川は面白そうに見て、あははと笑った。確かにな、アキちゃんは面白い。からかわれるとマジギレや。湊川はそういうアキちゃんが、ちょっと好きみたいやった。
 てめえ。信太にふられたからって、まさか俺のアキちゃんに、乗り換える気やないやろな。無理やから、アキちゃんはもう売約済みやから。売約済みって顔に書いといたらなあかん。背中にも赤い紙に書いて貼っといたらなあかん。もはや水地亨のものやから。見んのはしゃあないけど、触ったらあかんねんからな。
「ほんなら夜しましょうか? どっちの部屋にする? 水煙様が怖いんやったら、俺の部屋でもいいけど?」
 冗談なんやろうけど、俺には湊川は本気で誘っているように見えた。それでちょっと俺は、顔面蒼白なってもうてた。
 アキちゃん、まさか、行っとこうなんて思わへんよね。約束守ってくれるやろ。しき増やしてもええけど、寝るのは俺とだけにしてって、頼んだの、忘れてへんよね。
「何を言うとんねん、お前は……信太が好きなんやろ?」
 アキちゃんは、なんでかそれが苦いという顔で、湊川に教えてやっていた。
「ええ?」
 苦笑の顔で白い首を揉み、湊川は困ったように聞き返していた。それはちょっと、ぼやいてるみたいな声やった。
「信太? なんでそうなんの。言い訳せんと、嫌なら嫌て言えばええやん。信太は信太で俺に、お前は本家の暁彦様が好きなんやろうって、いつも文句言いよるし、その暁彦様は暁彦様で、水煙と仲良うできへんやつは出ていけ、やろう。なんでそんな理由やねん。関係ないやろ、俺が誰を好きかと、手前てめえが俺を好きかは。それは自分の問題やろ。皆、案外、ずるい男ばっかりや。お前には燃えへんて、はっきり言うたらええんや」
 はあ、とため息みたいに煙を吐いて、湊川は明らかに、ぼやく口調になっていた。
 モテへんのか、気の毒に。なんでモテへんのや、見た目ええのに。まさかエッチが下手なんか。それとも誰にもついていけへんような、変な趣味でもあんのか。なんやろう、それは。むしろ気になる。
「なんであかんのやろう。みんな言うねん、お前は俺に惚れてへんて。そんなことないんやけどなあ。俺は暁彦様も好きやったけど、信太も好きやし、寛太も好きやで。本間先生もええし。お前もちょっと可愛いなあ、白蛇ちゃん」
 初めて注目したみたいに、湊川は真面目な顔で、俺をじっと見た。
 見るな。話がもっとややこしなるから。俺は眉間に皺寄せて、言外にそれを訴えた。
啓太けいたは。ほら、あの、海道さんちの雪男。余ってるやつ」
 余ってる同志で仲良うしとけって、俺はそんな優しいキューピッドさんの心で、親戚のおばちゃんのように縁談をすすめた。せやけど湊川は首を傾げ、悩むような顔やった。
けいか……。ええねんけどな。俺、冷え症やねん。寒いのいややねん。温泉とか好きなんやけど、啓やと一緒に行かれへんやろ? 温泉エッチしたらあいつ死ぬやろ? それはちょっとなあ……」
 確かにそれはちょっとヤバい。相手がいつ死ぬかにもよる。ちゃんと最後までやっていけみたいなところで、いきなり溶けられても、生殺しやからな。悲しいというより、苦しくて悶えそう。
 いや、そうやのうて。そんな理由はないやろ。重要なのは愛やろ?
「啓はなあ、外でやんのが好きやねん。特に冬や、雪の六甲山で外なんやで、ほんま寒いというか、人間やったら死ぬで」
「それはキツい……」
 俺は思わず相づちを打っていた。
 俺、そんなんさせられたら、ぜったい冬眠するよ。やりながら眠ってまうんとちがうか。ただでさえ冬は眠い。春も眠いけど。
「それにあいつ人里離れた奥地が好きやしさ。俺は都会のほうがええねん。人がいっぱい居るとこな……。無理やん? 携帯とかラジオの電波届かんようなとこ行ったら、俺は死ぬもん」
 お前はどういう外道やねん。俺でも思ったそのことを、アキちゃんはずっと初対面の時から、疑問に思っていたらしい。
 もう本人に訊くしかないと、そういうノリで訊いていた。
「お前の正体はなんやねん、湊川」
 アキちゃんに、真面目に訊かれ、湊川怜司は目をぱちくりしていた。そんなこと、ストレートに訊くのはデリカシーがない。なんかそういう感覚が、外道にはあるねん。仮にも人のふりしてんのやないか。人間みたいな姿でいたいなあと、人間様を慕わしく思って、わざわざ人型してんのやないか。
 そやのに、お前は実はなんやねんて、まだまだ人くさいアキちゃんに、真正面から訊かれると、ちょっと恥ずかしいはずや。
 湊川はちょっと、顔をしかめた。答えなあかんの、それ、という顔やった。
「関係ないでしょ、先生には。俺のあるじやないんやったら、正体なんか何でもええやん」
「気になる」
 きっぱりと、アキちゃんは答えた。ものすご分かりやすい理由やった。アキちゃんはまるで、それが理由になるみたいに言っていた。
 謎々の答えが分からへん、教えてくれって強請る、我が儘なボンボンみたいや。
 それに湊川は、ちょっと情けなそうに、さらに顔をしかめた。
 アキちゃんはな、確かに我が儘なボンボンや。しかも、ただそれだけやない。本人、時々それを忘れてるけども、げきやねん。教えろよ、どうしても知りたいねんて、そういう強い意志で来られると、式神になるような外道には辛抱堪らん。
 そんじょそこらのヘタレに言われるんやったら平気でも、アキちゃんはなんと言うても、巫覡《ふげき》の名門・秋津家の血を継いだ、サラブレッドなんやからな。本気の本気で言われたら、きっと服でも脱いだで、湊川怜司。
 だけど正体を言えって命令されて、大人しく本性顕してもうたら、アキちゃんのしきにされてまうんやないか。こいつはまだあるじが決まってないねん。蔦子さんが面倒みてやってんのかもしれへんけど、そこで仕えるという決心はしてへんかったらしい。半野良みたいなもんや。
 それがいかにもご主人様みたいな態度してくるアキちゃんの、言うことをきけっていう我が儘に当てられてもうたら、やばいよ。やばい。チーム秋津に新メンバー増員なってまう。
 どういうつもりで言うてんの、って、伺うような青い顔で、湊川はアキちゃんを睨んで訊いた。
「気になる、って……そんなん、言わんでも分かるのが一流のげきなんやろ? 先生のおとんは、そんなこと訊かへんかったで……」
 未だに抵抗している湊川の話に、アキちゃんは若干、ムカッときていた。おとんの話したらあかんのになあ。さすがは部外者、ルールを弁えてへん。
「ほんなら、おとんはお前の正体を言い当てたんか?」
 明らかに怒ってるみたいな怖い声で、アキちゃんはガツンと言うてた。怖いでえ。偉そうな時のアキちゃんは。目が怖い。俺までとばっちりでビビって来てもうたわ。
「そら、そうや。でなきゃ、しきにはならんやろ?」
 気まずそうに言う湊川を、アキちゃんはじろりと睨んだ。
「ああ、そうか。おとんは一流やからな。俺はぼんくらやから、言うてくれへんかったら、わからへん。教えてくれ」
 頼む口調で、アキちゃんは言うてたけども、それは実質、命令やった。おとんが知ってた物事を、自分は知らんていうのが、アキちゃんには相当ムカついたらしい。
 いつも言われてたもんな。アキちゃんは、お前はなんも知らんのやな、って、おかんにも、おとんにも、水煙にも、蔦子さんにも、大崎茂にも。
 でも、誰もアキちゃんに教えてくれへんかったんやから、知りようがない。知っとくべきやて言うんやったら、それを学ぶ機会を寄越せと、アキちゃんは内心、悔しかったんやろ。
 けどさ。八つ当たりやで。こいつ関係ないから。ただの通りすがりの外道なんやから。なんでそんなやつを、力業で暴こうなんて、通りすがりの強姦魔みたいなことすんの。
 ええ、絶対教えたくないって、しばらくそんな苦悶の顔を、湊川怜司は浮かべていたが、結局折れた。勘弁してくれという深いため息をつき、壁にぐんにゃりもたれたまま、しゃあないなあと話した。
「何、って言われても、俺にも今イチわかってへん。先生のおとんは、俺のことをおぼろと呼んでいた。元は京の都の、すずめやろうと」
「鳥? お前も鳥なんか?」
 アキちゃんは、納得いかへんという顔で、じっと湊川を見ていた。
 こいつも鳥さん?
 信太はよっぽど、鳥類マニアなんか。
 しかし湊川は苦笑して、首を横に振っていた。
「違うよ。先生、なんも知らんのやな。京雀きょうすずめて言うたら、人の噂のことや。都の人らが勝手に話す、ほんまか嘘か、アテにならんような、噂のことやねん。はじめは誰が言うたんか、わからんような話が一人歩きして、読み本なったり、メディアに乗るうち、ほんまのことみたいに力を持ち始める。俺はたぶん、そういう力のこごったもんやと、暁彦様は言うてた。あのころはまだ、テレビはなかったしな……お前はラジオの精やろうと」
 そこまで聞いて、アキちゃんはきゅうに、うぐっと呻いた。
「それでお前、ラジオなんか。せっかく顔綺麗やのに、なんでテレビやのうてラジオなんかって、ずっと気になってたんや」
 そんなことずっと気にしてたアキちゃんが俺は情けない。
 湊川は、アキちゃん見上げて、ぽかんとしていた。その虚脱した美貌を見ながら、アキちゃんはいかにも惜しそうに続けた。
「インターネットの時代やねんで……それがラジオて。ラジオでもええけど。もう、火星にかてメール送れるんやで? いつまでも、おとんが戦前にした話なんか、未練がましく引っ張るな」
 どう聞いても命令口調やった。
 湊川はさすがに、ガーンみたいな衝撃の真顔を一瞬見せた。
 アキちゃん。何の権利があって、こいつに命令すんの。お前の式やないんやで。見た目も実際も年上なんやで。大昔から京都におった奴なんやで。
 それがお前のおとんにフラれて、鬼しかおらんと言われていた洛外らくがいの、昔々の都人みやこびとにとっては、涙出そうな流刑の地やった、神戸くんだりの浜まで流されて来てんのやないか。可哀想やと思わへんのか。
「よう言うわ……ほっといてくれ。なんの甲斐性もない、ぼんくらのぼんのくせして。俺はラジオが好きやねん。何でお前に指図されなあかんのや」
 よっぽど動揺してんのやろか。湊川怜司はどことなく京都訛りやった。もちろん、ぼんくらのぼんは、ぼんくらや言われてキレたし、京都訛りには萌えた。そうに決まっている。俺には分かっている。パターンや、アキちゃんの。綺麗な顔したやつの京都弁には弱い。しかも、負けず嫌いやから、おとんには懐いてた奴が、自分にはあっちいけみたいに心なしか背を向けているのも、負けるもんかみたいな気がしたはずや。
「何でって……何でもええやん。指図やないよ、ただのアドバイス。それにお前はラジオが好きなんやのうて、俺のおとんが好きなんやろ!」
 アキちゃんはまた、ギャースみたいに言うてた。プライドあるから抑えてるけど、駄々っ子みたいや。黒い飾り格子で枠取りされた、中庭を望むガラス戸の向こう側で、ピシャーンみたいにギザキザの雷が閃いているのが、見なくても見えた。廊下が一瞬、紫がかった白で、ギラッと照らされたから。
 怖いよう。アキちゃん。マジギレせんといてくれ。
 もう、わかったしな。おとんムカつくな。このしき、欲しいんやろ。もらって帰ろか。お店の人に包んでもろたろか。京都連れて帰ろうか。でもな、寝たらあかんのやで。血吸わせて飼うだけやで。会うときは俺と三人でやで。それだけ絶対守ってくれたら、俺も我慢するしな。こんな些細なことでキレんのやめといて。まったく、平成生まれは堪え性がないって、ほんまなんかな。アキちゃんだけやろ。つくづく我が儘。おかんが可愛い可愛いして甘やかすからやで。ほんま、敵わん。
 押しつぶされそう、みたいな顔して、アキちゃんの放つ圧倒的なご主人様オーラに青ざめた湊川は、横目にじっとアキちゃんを見た。
「先生、なんで、ぼんくらなん? 暁彦様よりイケてんのとちがうか……」
「今は、俺が、暁彦様や」
 一言一言、アホでも分かるようにって、アキちゃんは言った。我慢ならんかったらしい。
 おかんが同じ名前なんか付けるから悪いんや。可哀想やないか。自分の名前が無いみたいで。水煙も、蔦子さんも、アキちゃん言うたら、おとんのほうの事やし、この湊川も、暁彦様って、おとんのことやんか。無神経やねん、みんな。アキちゃんの切ないキモチ、わかってあげて?
「暁彦様……」
 空恐ろしいものを見た、という目つきで、湊川は答え、鳥さんと同じ、長い睫毛が煙るみたいな目で、アキちゃんをじっと見た。首細い奴やなあ。きっと、これが信太の、好みのタイプなんや。
 せやけどこっちは、アホみたいな鳥さんと違って、ちょっとさかしい感じがして、どことなくお高いし、信太にとっては癒し系の不死鳥のほうが、よりいっそう心のツボにジャストミートやったんやろう。
 でもな。俺は思うけど。アキちゃんにはむしろこっちのほうが、心のツボにジャストミートやねんで。水煙とかな、偉そうやろ。そういうやつが自分にはひざまずく、そういうのがな、たまらんらしいねんな。変態やで、うちのツレ。ド変態。
 青ざめた湊川に様付けで呼ばれて、アキちゃんはちょっと、ぞくっと来たらしい。
 それで、はっと我に返っていた。
「いや、そう呼べ言う話やないねん。本間先生でええけど。先生も要らんけど。お前、もうちょっと、自分が幸せになれる方向性を模索してみたらどうや。手当たり次第なんでもかんでもみたいなの、虚しいやろ。別に、誰にも惚れへん訳やないんやろ。おとんや信太には、惚れたんやから」
 ものすご言い訳みたいな口調になって、アキちゃんはべらべら早口に言うた。うつむいている渋面は、照れ隠しやったやろうけど、やってもうたという顔やった。
「そうや……俺は寛太にも惚れてたで。気が多いだけや。惚れっぽいねん。今は本間先生にも惚れている」
「あかん、それは。最終行は削除や。アキちゃんはもう俺のもんやから、手出し無用で頼む」
 俺はもうストレートに頼んだ。直球でいくしかない。
 こんな、強いか弱いか分からんような奴と戦いたくない。水煙をやっつけたところで、俺もしばらく、のんびりしたい。新婚さんなんやから。なんとか無事になまず様と龍をやっつけたら、そのあとはアキちゃんとラブラブでのんびりしたいねん。すずめとケンカしたくない。
「ほな、どうせえ言うねん。しょうがない。俺は、イケてる奴はみんな好き。見込みがありそうなのは。それがマスメディアの性分やしな、それが俺の性癖なんや。お前は俺だけに惚れてないって、そんなん言われてもな、信太もアホやで。ラジオがずっと虎の話ばっかりしてたらアホやんか。俺まで虎キチなれ言うんか。タイガー専用チャンネルか」
 いや、早まるな。そういうのもある。ネットラジオとか、ケーブルテレビの専門チャンネルとか、そういう手もあるやんか。赤星様専用チャンネルあったら、俺かて24時間テレビやるで。愛は地球を救うんや。そんなニーズもこの世にはちゃんとある。
 虎キチの神になれ、湊川。アキちゃんに来るぐらいやったら、信太に戻って、24時間態勢で虎虎タイガースやっといたらええから。
 俺はマジでその話をすすめようかなあと思った。でも、一瞬遅かった。
「もうええねん。ほっといてくれ。信太は鳥にイカレたらしい。別にかまへん、俺は別に、寛太と違て、虎に養ってもらわんでも一人で生きていける。夏やろうが冬やろうが、人がメディアに飽きることはない。遊び相手なんか、新しいのをまた作るしな。作らんでも、売るほどいるんや。どうでもええわ、虎なんか、もう飽きた」
 湊川は虚勢めいた悲しい美声で、べらべらそう話し、どう聞いても自分に言い聞かせているようで、哀れやったんで、俺はやめといてほしかった。それは可哀想で、アキちゃんのツボのど真ん中に来る。どう見てもアキちゃんは、トキメいてるような目やった。トキメくな、俺のツレ。俺を見とけ。すずめなんか忘れろ。お前はすずめより蛇が好き!
 醜態さらしてもうたわと、そういう悔恨の目で、湊川はどことも知れない床の陶片テラコッタを睨み、小さく呼吸を整える息をついてから、手に燃え残っていた煙草を吸った。深く吸い込んで、ふはあと吐いた白い煙は、むらむらと妖しい文様のようになって立ち上り、なかなか消えへんかった。
 おぼろや。まさにこれ。この、モヤモヤっとして、形がないもの、見ようとすると消えるもの、妖しくかすんだようなもの。正体の定まらないもの。それがこいつの正体で、アテにはならん。せやけど確かにその力は存在している。善か悪か、それは謎やけど。
「そんなん言うなら先生が、幸せにしてくれたらええのに。俺も、幸せになりたくない訳やないんや。信太も寛太も、幸せそう。先生んとこの蛇も、あの水煙様まで、デレっとしやがって、幸せそうやなあと思うと、そりゃあちょっとは羨ましいよ。でも、あかんのでしょう、俺は。何があかんの?」
 悔しそうに言うて、目も合わせへん湊川に、アキちゃんはドギマギしていた。相手が傷ついたようやったんで、急に反省してきたらしい。
「いや、あかんことない。お前は見た目もええし、立ち居振る舞いも品があるしさ、声も美声や。性格なんや、問題なのは。邪悪そうやねん。愛が全然足りてない。可愛げがないねん」
 アキちゃん、フォローしてるつもりなんか。どんどん批判していた。
 邪悪そうやと言われて、確かに湊川は、邪悪そうな目をした。ぎろっと冷たく横目に見つめて、眉間に皺を寄せていた。恨んでる、アキちゃんを。そら、しゃあない予感。
「可愛さなんか、俺にはないよ」
 正確無比な自己申告やった。可愛さはない。さっきはあったけど、今はない。超怖い。メディアに目つけられたら、どんな目に遭わされるか、アキちゃん、狂犬病騒ぎで痛い目見て、ようく知ってるはずやのに。懲りてへんのか。前のは結果、好意的な報道に転んだから良かったけども、次のはどうなるかわからんで、このラジオの、お前が憎くなってきたっていう顔つき見てたら、俺はそう思う。
「お客様」
 突然、外野から声かけられて、湊川はびっくりしていた。
 俺もびっくりした。藤堂さんやった。いつの間に来たんや。気配せえへんかったで、あんた。まるで外道やで。そういやそうか。すでに外道なってたわ。
 営業用のにこにこ顔で、今日もビシッとスーツで決めた藤堂さんは、歩いてきたまま、つかつかと、壁にもたれている湊川のすぐ目の前まで、歩調を緩めなかった。
 湊川は明らかに、何やねんとビビっていた。固い表情で、自分より上背のある藤堂さんを見上げ、手を握られて、短くなった煙草をむしり取られるのを、呆然と追いつめられて見ていた。
「廊下は、禁煙ですので、ご理解ください」
 にっこりフェロモン全開で微笑んで、藤堂さんは、わかってるやろなあ、俺のホテルで俺のルールを破ったら、叩き出すぞと、その満面の笑みで語っていた。低姿勢やのに、めっちゃ高圧的。これに逆らおうと思ったら、キレて暴れるしかないんやって。そうしたところで、100%知らん顔しよるけどな、このオッサン。ビビらへんねん、その程度では。
「……すみません」
 藤堂支配人マジックに呑まれたんか、湊川はスーツのおっさんと見つめ合い、案外素直に謝っていた。藤堂さんはそれに、うんうんと、優しいおとんみたいに頷いてやっていた。俺はそれに、ちょっと胸キュンやった。アキちゃんまで何でか胸キュンやったらしい。しかも意外なことに、ラジオまで胸キュンやったらしいで。
 藤堂さんがこっちに向き直り、奴に背を見せると、湊川は壁際で、心なしか、ぐにゃっとなっていた。そして、そんなアホなみたいな、冷や汗かいてるような目で、藤堂さんの横顔を盗み見ていた。
「朝食はもう、召し上がられましたか、新婚さんたちは」
 藤堂さん、いらんこと言わんでええねん。面白そうみたいに言われて、俺とアキちゃんは無駄にオタオタした。なんでオタオタせなあかんねん。俺はわかるが、なんでアキちゃんまでそうやねん。照れてんと勝ち誇れ。お前の大事な蛇は奪ってやったぞガッハッハ的な勝利感とかないんか、アホ!
「雨やから、ガーデンテラスの朝飯はないですよね」
 アキちゃんはまるで、大人しいイイ子みたいな、穏やかな話しぶりで、藤堂さんに訊いていた。藤堂さんにも、アキちゃんは好ましいらしかった。そらそうやろ、このオッサン、上品で頭のいい、お育ちええ子が好きなんやから。悪かったですね、どうせ俺は下品でアホでガラ悪いですよ!
「庭ではないです」
 雨の降ってる中庭を見て、藤堂さんは答えた。
「代わりに、少ないですけど室内に席がありますし、二階のリストランテでもイタリアンな朝飯が食えます。ようも二階に居るはずやから、一緒に朝飯食ってやってください。一人で食いたないって、朝からめちゃめちゃ怒ってましてね。ほな、外のいつもの店行こうかって言うたら、さらに猛烈に怒ってもうて、もう、あかん」
 もうダメ宣言をして、藤堂さんはめちゃめちゃ朗らかやった。お仕事モードやからか、それとも、焼き餅焼いて怒ってる神父が、よっぽど面白かったんか。
「朝飯抜きです」
 むっちゃ爽やかに、藤堂さんはアキちゃんに教えた。神楽遥がいかに怖いかという話らしかった。でも、それは、藤堂さん的にはノロケ話みたいなもんなんやろう。怖いのが好きなんやもん。
 俺もキレると、このオッサンに、いろんな事をした。
 藤堂さんが心血を注いだ、非の打ち所のない内装のインペリアル・スイートに、火つけてやったこともある。一度ではなく何回も。
 それも効かんようになったら、実は、その部屋のテラスから、飛び降りたことがある。投身自殺やな。
 そういやあの部屋も、奇しくも十一階やった。俺が犬に襲われて、叩き落とされた京都駅のビルと同じ高さや。
 でも、ホテルの部屋から落ちた時、俺はさほどこたえてへんかった。駅ビルの時に死にかけたのは、その前にワンワンにさんざん痛めつけられたからやったし、それに俺は傷ついていた。アキちゃんが浮気したって事に。それで死にそうなってたんや。
 インペリアル・スイートから落ちた俺を見て、死にそうやったのは、むしろ藤堂さんのほうやった。そらまあ、堪えたやろうなあ。俺は実際死んでたし、死体やのに生きていた。不死系アンデッドやからな。
 それを見て、藤堂さんは、ますます俺が怖くなった。俺はちょっと、困らせてやろうと思っただけやったんや。ホテルの窓から人落ちて、午前中にはもう、結婚式したやつらの写真撮りますていう庭の石畳が、血の海なってるやなんて、藤堂さんは支配人として焦るやろうと、そう思っただけやねん。
 俺はあん時、震えている藤堂さんを初めて見た。怒りもせんかったし、心配して泣きもせえへんかったけど、もう死にそうやという顔やった。実際、ショックで死んだかもしれへん。だって、いつ死んでもおかしない体調やったもんな。
 俺の血飲んだら、不死になれるでと、俺は教えてやった。ただし、俺と同じく悪魔サタンで蛇の眷属の、外道やけどな。人間界とはおさらばや。それでも死ぬよりマシなんと違うかなと、俺は誘った。ずっと一緒に、俺と生きていってくれよって。永遠に。
 でもその時は、このオッサンは拒んだんやで。嫌やったんやろ。俺は化けモンなんやと、藤堂さんは思った。そんなモンになるくらいなら、大人しく死んだほうがマシやって、覚悟決めたんやないか。だって可愛い娘もおるんやし、あの頃はまだ大学生なんやし、化けモンなったおとんがおるより、おとんが死んでていないほうが、まだしもマトモやと、藤堂さんは思ったんやろ。
 それが結局、こんなんなってもうて。血、飲んどきゃよかってん、あの時。絶対、誰にもバレへんかった。確かに、えらい若返ってきてて、とても五十代には見えへんけども、でも、誰もあんたが人間やないとは気がつかへんやろ。
 こっちのコースに来たかて、どうせ娘にはふられたんや。いつまでも年取らへん男なんか変やもん。娘の旦那やその家族に合わせる顔がない点では、似たようなもんやで。
 俺とふらっと消えたかて、おんなじやったやんか。おとん死んでる奴が普通なように、おとんが失踪した奴かて、大して珍しくない。
 でも、もし、そうしてたら、この人はこのホテルにはいてへんかった。どこに居たやらわからへん。結局マトモな行き場なんて、なかったんかもしれへん。俺と行っても幸せには、なられへんかった。今みたいには。
 それが正直、ちょっと切ない。俺もちょっと恥ずかしながら、あの当時には、抱いてくれへんのやったら飛び降りて死んでやるからなって、それほど思い詰めたのに。病気やったで、お互いに。病んでたわ、俺も。きっと、去年のクリスマスらへんが、もう限界いっぱいで、俺は清水の舞台から飛び降りるようなつもりで、アキちゃんについていったんやけど、そのほうが良かったな。まあ、十一階からもういっぺん落ちてみるよりは。結局落ちたけど、もう一回。京都駅から。
「湊川さんですよね、KISS FMの」
 藤堂さんはまた、若干ふにゃふにゃなっている湊川のほうに向き直って、手には奪った煙草を持ったまま、愛想よく訊いた。それに雀は神妙な顔をして、こくりと黙って頷いただけやった。
「そんならお客様やないね。うちと提携してるわけやから、仕事で来てはるんや。あのロビーの件でね、ちょっとお伝えしておきたいことがあるんですけど、あなたが責任者?」
 てきぱきとお仕事モードになっていく藤堂さんに、湊川はまた、うっすら青ざめた顔のまま、こくりと頷いた。
「ちょっとね……あれはまずいです。特にケーブル類ね。醜い」
 きっぱり醜い宣言やった。やっぱりな。やっぱり嫌やったんやな、藤堂さん。
「醜い?」
 そんなこと、面と向かって言われたことないわって、湊川は呆然みたいに言い返していた。
 これな。俺もこのオッサンに言われたことある。めちゃめちゃ荒れてる俺を見て、藤堂さんは言った。お前は醜いと。いつもは俺のこと、美しいと言うてた男やで。むっちゃ傷ついて、さらになお一層荒れたわ。どうせ俺は醜いよ! 性格が悪いですよ! でも誰のせいで荒れてたと思うとんねん。お前やろ、このホテルオタク!
 キレろ、湊川。俺は代理戦争を求めて、それを促す目で見つめた。
 長い睫毛のある切れ長の目を、伏し目にさせて、慌てたように湊川は瞬きをした。
「どこがあかんのでしょうか?」
 うっ。なんか素直やで。それともキレる5秒前かな?
「ケーブル剥き出しやないですか。お客様がつまずいたりしたら、大事ですよ。それに見た目にブサイクでしょう」
 堂々とした支配人の顔で、藤堂さんはまた断言した。
「ブサイク……」
 それも言われたことないよな。雀はちょっと悲しそうやった。
 あれ。どないしたんや、DJ湊川。元気ないやん。それとも、キレる2秒前?
「どうせえ言うんや」
「どうせえ言うんやて、それを話そうと思ったんですけどね。ここやと何やし。朝飯まだでしょう。あんまり時間ないんで、食事しながら話ませんか」
「でも、俺、朝はいつも食べへんのやけど……」
 むっちゃ無防備な顔をして、湊川はビビっていた。お前、なんでビビってんの? それとも、キレる0.01秒前?
 ……違うよな。お前、藤堂さんに、呑まれてるやろ。というか、トキメいてるやろ。藤堂さんな、ビジネスマンやしな、話すときに人の目をじっと見る。じいっと見るねん。それがな、ちょっとトキメくねん。俺もいっつもトキメいた。眼力強いねん、このオッサン。本人分かってへんみたいやけどな。てめえの放つカリスマに疎いんや。モテるだけモテといて、結果、鬼みたいな生殺しなのよ。
「あかんよ、朝飯食わな。力出ないやないか。今日は食べなさい」
 にこにこ言うてる藤堂さんは、いかにもおとんみたいな優しい命令口調やった。
「どこがええかな。会議室……は、大崎先生に使われてるんやった。ほな、支配人室?」
 そこでええかという意味なんやろうけど、藤堂さんは湊川に訊いていた。それにも雀は、うんうんと曖昧に頷いていた。なに言われても頷くようになっている人形みたいやった。
「あかんて、藤堂さん。支配人室は。神父にばれたらブッ殺されるで……」
 俺は親切心から忠告してやった。そしたら藤堂さん、何でやっていう、分かってない顔で俺を振り向いた。
「あそこは応接室やで?」
「そうやけど、あんたの家の玄関みたいなもんやんか」
「玄関で、悪さなんか、普通せえへんやろ」
 いやあん、もう、何言うてんの。エロオヤジのくせに!
 誘導尋問か、みたいな、そのとぼけた質問も、藤堂さんはマジで言うてる。鈍いねん。天然やねん、藤堂さんは。
 画商西森も言うていた。あの人、自覚がないねんなあ、って。実は悪魔サタンの素養たっぷりで、その気のあるよなホテルの若い男の子とかにも、そりゃあもうモテモテやったのに、藤堂マネージャーに気に入られたい一心で頑張ったそういう奴を、君は仕事熱心やなあ、気に入ったわって言うだけで、一緒に飯も食わしてやるし、酒も飲ましてやるが、最後はむっちゃ爽やかに、ほなさいならって帰るらしい。西森さんはそれに腹が割れそうなほど笑えるらしいわ。ほんで可哀想やから、藤堂さんの食い残しを食うといてやるらしい。おもろいやろ。
 ま、俺は全然笑えへんかったけどな。だって、自分も同じ手で干されてんのに、笑えるわけあるか。めちゃめちゃストレートに強請るしかない。抱いてくれ藤堂さん、抱かれたいねんて、頼むしかない。
 でもそれを、このオッサン蹴るんやで。俺はそんなことせえへんて。背徳やからって。
 なんであかんの、背徳が。その、こんなことしたらあかん的なのがええんやないか。まさか、まだ分かってへんのか、外道になっても天然なんか。遥ちゃん絶対泣いてるわ。
「そうかなあ。ええでえ、玄関プレイ。遥ちゃんと、まだやってみたことないの、せっかくソファとかデスクとかあるのに。せえへんの、社長椅子のお膝に抱っことか……」
 余計なことを、俺は教えた。藤堂さんは、むむっという、苦い顔をした。
 あっ。しまったね。
 俺もアキちゃんと暮らすようになってから、ええ格好する癖がどっかいってもうてる。俺、アキちゃんと、やったことある。玄関で。あるよ、普通せえへんようなことでも、普通やないから、俺らはやるよ。
 でも、やらへんのね、藤堂さんは。とりあえず今のところは、やってへんかったのね。
 ほんで藤堂さんはね、そういうの、変なことすんの嫌いなわけではないけど、自分がさせるのは良くても、相手が提案してくんのは萎える人やねん。初心うぶな子がええねん。自分からは何も言えへんと、大人しく抱かれて泣いてるようなね。結局お前も変態やないか。偉そうなつらすんな! 俺の足舐めてたくせに!
 そんな強い目で、俺はお応えしたけど、お前はどうしようもない淫乱やなあみたいな目で藤堂さんにじとっと見られ、結局しおしおなってたわ。あかんねん亨ちゃん、このオッサンにはなんでかあかんねん! そんな蔑むような目で見られたら、お腹痛うなってくる。助けてアキちゃん。
「お前はほんまに、はしたない子やなあ、亨。朝っぱらから、よくもそんな話。しかも、あろうことか、俺のホテルのロビーで……」 
 ぶちぶち説教垂れる藤堂さんを見上げて、湊川は物言いたげに目をぱちぱちさせた。そして、どうしても気になるというふうに、小声で口を挟んだ。
「廊下やないんですか、ここ」
 こそっと言われて、藤堂さんはさらに、むっという困った顔になった。
 そして、ゆっくりと湊川を見返した。
 その時、藤堂さんがどんな顔していたのか、俺は知らん。見えへんかった。でも、湊川は、相当にビビッたような悲しい顔になっていた。
「廊下です。しょうもない事で揚げ足とるのはやめなさい」
 可愛げない若造やという気配むんむんの声色で、藤堂さんは忌々しそうに言った。でもちょっと照れていた。してやられたな、オッサン。うっふっふ。ええ気味やわ。
 アキちゃんはその光景を、あんぐりとして見ていた。ほんで、ぽつりとコメントをした。
「お前、そんなこと言うから可愛くないねん……。好きなんやったら、余計なこと言うたらあかんやないか。それにな、中西さんはもうあかんで、結婚してはるから」
 お前こそ余計なこと言うてんで、アキちゃん。
「なに。なんの話?」
 明らかに置いてけぼりなってる藤堂さん@天然が、わからんというように顔をしかめて、アキちゃんに訊いた。
「いや……なんというか。こいつ中西さんが好きらしいんで。惚れっぽいらしいんです」
「言わんでええやん、先生! そんなの黙っときゃバレへんやん!」
 キレたみたいな悲鳴で、湊川怜司はアキちゃんを咎めていた。お前の言うとおりや。オッサン鈍いんやから、言わんかったら絶対バレへんかった。
 せやけど藤堂さんも日本語がわからんようなアホではない。
 ちょっと困ったような顔をして、藤堂さんは湊川をもう一度眺め、それにラジオはイライラしたような顔をした。たぶん、恥ずかしいんやろ。気の毒すぎる。
 湊川怜司は、いわゆるその、ツン系やった。ほんまに好きな相手には、つんつん素っ気ない。好きやみたいな感情に、素直になられへんらしい。相手がたとえ他の奴にいってもうても、平気やみたいな態度をとってまう。でも、アホやった鳥さんとは違うて、こいつは全然平気ではない。ほんまは密かに傷ついてたわけ。いや、アホでも鳥さんも傷ついてたかもしれへんけどさ。自分が傷ついてんのが分からん程度にアホやった寛太と違うて、こいつは自覚はあった。
 秋津家で水煙と仲悪かったんも、どうもアキちゃんのおとんが、あんまり水煙を大事にするもんで、焼き餅焼いてただけらしい。俺は正気や、なんでもないみたいなフリをしながら、ものすごい嫉妬と羨望を胸に秘めてる。それがマスメディアや。それが湊川の正体。自分のそんなラブラブ体質に、奴はまだ自分で気がついてなかった。
 だって振られんねんもんな。ものすご好きみたいなラブラブ爆弾を爆発させたくても、相手がおらへん。暁彦様は水煙のほうが好きやったし、それどころかラブラブなってる相手がいくらでもいて、埒があかへん。信太は信太で、遊び人やし、向こうは向こうで照れ屋さんやろ。それでお互いぐずくずしてる間に、虎の本命は鳥さんてことになってもうた。敗退。そして、お次のアキちゃんは、俺に牛耳られている。一瞬で終了。さらにその次のは藤堂さんなのかもしれへんけども、出会い頭にこれやから。それにこのオッサンには、その正体は小悪魔の、美形神父が取り憑いている。怖いでえ、薔薇神父。真面目やねんから。
「あのね……せっかくやけどね、もう伴侶が居るんでね……」
 ゴメンネみたいに、藤堂さんは気まずそうな上ずった声やった。この人ほんまに固いねん。しょうもないやろ? なにが伴侶が居るからやねん。一発やんのに関係あるか、そんなこと。この甲斐性無し。アホ。不能。インポ野郎。ほんまひどい男やった、藤堂さん。俺、切ないわ。ひどいなあって、皆も思うやろ。思うよなあ、普通。人間やったら思うはずや。思わへん? 人間やないんとちがう? いっぺん医者行って調べてもらえ!
「仕事の話、してええかな?」
 でもちょっと、さすがに気まずいみたいに、藤堂さんは優しく媚びるような口調やった。
 湊川はそれに、痛恨の表情で頷いていた。
「ロビーで話そうか。支配人室まずいから。地下やし、ちょっと密室やからね、あそこは」
 藤堂さんはやっと、俺の忠告を理解したらしい。そんなことを言って、趣味のええ豪華ソファのいっぱいあるロビーのほうへ、湊川を促した。
 去り際、じとっと冷たい目で、ラジオはアキちゃんを見た。
「先生……恨むから」
「えっ、なんで?」
 ラジオの恨む宣言に、アキちゃんはマジでボケていた。俺は代わりに謝りたかった。うちのジュニアがほんますんません。アホな子なんです、許してやってください。ラジオで悪口言わんといてください。まだまだこれからの新人なんで、潰さんといてやってください。
 立ち去る二人を見送りながら、俺はアキちゃんに提案した。
「飯、外で食おか」
「えっ、なんで?」
 アキちゃんは俺にもボケていた。
 なんでって。二階のリストランテで神楽遥と飯食う気なんか。今、お前のすぐるさん、オッサンに気がある美形のDJとロビーで打ち合わせしてるけど、大丈夫かなあって話すんのか。神父、発狂すんで。それとも、我慢すんのかなあ。どっちにしろ気まずいで。
 それがひどいって思うのって、俺が焼き餅焼きやからかな。我慢せな、あんまりうるさく言うたら、アキちゃんに嫌がられるやろうと思って、なるべく黙ってんのやけど、俺はアキちゃんが水煙に優しいのも嫌やし、二人で話してんのも嫌やねん。他の誰でも一緒やで。ほんまは俺は、アキちゃんには俺とだけ話しててほしいし、俺だけ見といてほしいねん。独占したいしな、他のやつに触らせたくない。
 我慢してんねん。せやから、我慢したぶん、二人っきりの時には、めいいっぱい優しくしてほしいんやけどなあ。
 俺、寂しいねん。アキちゃん。なんで神父と三人で飯食わなあかんの。やっと二人っきりになったんやで。そろそろ優しくしてくれよ。でも、アキちゃんも鈍いしな、言うてやらな分からへん。俺ってたぶん、そういうのがツボに来るんやろうな。変態やねん。この、つれなくて、鈍さ爆発みたいなのが、ええねん。気がついて、優しくしてくれたときの嬉しさが、また、ひとしおで。
「アキちゃんと、ふたりっきりがええねん。新婚さんやんか?」
 恥ずかしいのも我慢して、俺が教えてやると、アキちゃんはちょっと、たじろいでいた。たぶん、照れたんやろ。ちょっとうつむき、それからおもむろに、俺の手を握ってくれた。
「そうか。そうやな。先に三ノ宮行って、そこで簡単に飯食おうか。二階の店は戻ってきてから、ゆっくり昼飯でも行ったらええわ。あそこ、美味かったやん」
「アキちゃん和食党のくせに、案外、パスタ好きやなあ。さすがは麺食いや」
 俺がからかう冗談を言うと、アキちゃんは俺が、憎ったらしいけど、可愛いやつやという、苦笑みたいな顔をした。その、俺を好きそうな目が、俺には嬉しかった。ラブラブ。ラブラブしてるやん。これですよ、これ。新婚さんムード。
「なんやねん、アホか。和食党って、まだこだわってんのか。確かに基本はそうやけど、でも俺は別に、和食でないとあかんわけやないで。お前が前に作ってた洋食系の飯も普通に美味かったで。今はむしろ、お前の三食和食責めで飢えてて、パン食いたいぐらい」
 そんなんやったら早う言え。トキメくみたいな顔しつつ、そんなこと今さら白状するな。大阪の事件以来、家でいっぺんも和食でない飯を食わせたことないわ。どうりで外食するとき、洋食系ばっかり選ぶと思うたわ。蔦子さんちのや、朝飯屋のトーストも、えらい美味そうに食うとったしな。実は飢えとったんか。
「ほな、パン系行こか。神戸はパン美味いでえ」
 古くから西欧人の居留地やったんやからな、ほんまもんのパン屋があるで。
 アキちゃんが怒らんふうやったんで、俺は調子に乗ってアキちゃんと腕を組んだ。ロビーのソファには藤堂さんがいて、うんざり顔のラジオと話していたけども、俺はその目は気にせずアキちゃんにべたべた甘えてそこを通った。
 俺、今、幸せやねん、藤堂さん。これが俺の幸せなときの顔やねんで。あんたは、滅多に見たことなかったやろ。とっくり見とけ。そして後悔しろ。俺がお前を幸せにしてやりゃ良かったって、チクリと切ない胸の痛みでも、感じたらええわ。
 でも、仕事の鬼が仕事の話をしているときに、そんなことまで気を回したか、俺には分からん。どうでもええねん。もう俺の男やないし、過去やから。今はアキちゃんが俺の肩抱いて、にこにこしていてくれてるし。そんな貴重な二人っきりの時を、他のことで紛らわせたくない。
 エントランスに出ると、配車係がてきぱきと、アキちゃんの車を回してきてくれた。車寄せには屋根があるから、ずぶ濡れなったりせえへんのやけど、俺は恨めしかった。せっかくアキちゃんとデートやのに、雨やなんて。傘さして歩くのもええけど、それやと、今イチいちゃつかれへんやんか。
「晴れればええのに!」
 俺は恨んで、天に呼びかけた。
 我が儘やけどな、元はといえば、俺が泣いたし、それに感じてもらい泣きしてくれた天地あめつちや。せやけどもう、悲しないねん。もうやめて。いつまでも泣いてたところで意味ないで。
 死を思えメメント・モリや、虎もそう言うてたやんか。俺とアキちゃんにはもう、死は永遠にやってこない。せやけど、この格言はためになる。死を思えメメント・モリ今日を楽しめカルペ・ディエムや。
 ヨーロッパにペストが大流行して、人口の四分の一が死んだ。その頃できた格言や。
 四人に一人が死んだってことやで。自分の家族や友達が、四人おったら、そのうち一人は確実に死んだということや。どんな恐ろしい病魔やったか、それで分かるやろ。
 その時、ヨーロッパの人々は考えた。人間なんて、儚い。いつ死ぬかわからへん。一日一日を、楽しんで生きなあかん。後悔することがないように。
 たとえ永遠に生きる、俺でもそうやで。アキちゃんと過ごす今日は、今日この一日だけで、明日はまた違う日やねん。めいいっぱい今日を楽しまなあかん。
「晴れさせてえな、アキちゃん。できるやろ。虹出して、虹。縁起がええから」
 べたべた甘えて、アキちゃんにお強請りすると、困ったなあという顔をされた。アキちゃんは、俺の腕からむっちゃ逃げたそうやった。そらそうやろな。配車係がにこやかにガン見やし。
 せやけどそいつは、プロやからか、それとも妖怪ホテル化したヴィラ北野では、今さらもう驚くに値しない光景やったのか、まったく平気そうやった。ただひたすら微笑ましそうに俺とアキちゃんを眺めていた。配車係もドアマンも、新たに到着した客の荷物を取りに来た、ワゴン押してるベルガールも。さすが藤堂さん、社員教育徹底してる。実は全員ドン引きなんかもしれへんけどな!
「そんなん急に言われても……」
 アキちゃんはいつもの引っ込み思案で、そんなふうに言うていた。
「できるって、ほんまに。俺は信じてる。キスしてやろか。そしたら楽しい気持ちになって、うきうきしてきて、空もぱあっと晴れるかもしれへんで」
 きっとそうやという口調で言って、俺は引いてるアキちゃんの首に両腕で食らいつき、無理矢理チューをしてやった。ええねん新婚さんやからええねん。何してもええねん、Just Married(結婚したて)やから。
 アキちゃんは照れて、その抱擁を一瞬拒もうとしたけど、なんでかすぐに諦めた。そして抱きつく俺を、もっと強い腕で抱き返してきて、超熱烈なキスをしてくれた。
 うわあ。どないしたんやジュニア。ちょっと痺れた。いや、ほんま言うたら、相当痺れた。やっぱやめよか、三ノ宮行くの。とって返して部屋に戻って、ちょっと遅めの朝エッチを。
 俺はそんな潤んだ目で、キスを終えたアキちゃんを見たけど、アキちゃんは鈍かった。部屋行こかとは、訊いてくれへんかった。その代わりに、眩しそうな目で俺を見て、虹は出てるかと訊いた。
 俺とアキちゃんは、どれくらいの間、そこでチュウチュウしてたんかなあ。問われてみて、ふと見たら、雨は上がっていた。未だにポタポタと雨垂れが、あちこちから垂れているけども、車寄せにかかる優雅にカーブした装飾屋根の向こうに見える神戸の空は、眩しいような鮮やかなブルーやった。そしてそこに、絵に描いたような、くっきり七色の、でっかい虹がかかっていた。アキちゃんが絵描くときに作るような、綺麗で優しい色の虹やで。
 この絵はほんまに、よう描けてるわ。アキちゃんはほんまに、絵が上手やなあって、俺は感動した。
 ホテルのドアを守るはずのドアマンたちも、さすがに人の子や。綺麗な虹やなあって、驚いて覗き見るような仕草をしていた。アキちゃんの絵は、皆の目を惹き付ける力があるんやと思う。そして見る人になにか、力を与えてくれる。
 アキちゃんより凄い天才も、絵の世界にはいてるかもしれへんけど、空に絵描けるんは、そうそうおらん。俺のツレならではや。
「あれ、俺の虹? 俺にくれんの?」
 強請る口調で確かめると、アキちゃんは恥ずかしいんか、うんうんと黙って頷き、逃げるように車の運転席に潜り込んでいた。恥ずかしがりは治らへんねんなあ。でもそれが、けっこう可愛くて、俺は好き。
 うきうきしながら、俺はアキちゃんを追って、いつもの助手席に座った。
 でも今日は、お久しぶりで二人っきりのドライブや。やっぱり嬉しい。二人っきりやと。
「道わからへん。カーナビつけようか」
 照れ隠しやろう。どうでもええことを、アキちゃんはやたらと喋った。そしてカーナビの画面をつけて、三ノ宮までの道筋を表示させ、JR三ノ宮駅の二階に、御用達のコーヒー屋があるのに気がつくと、ものすご飢えた顔をした。
「コーヒー飲みたい」
「ほな、そこでコーヒー買うて、パン買うて、海まで行って朝飯食おうか」
「なんで海まで行くんや」
「すぐそこやで。三ノ宮は海からすぐやねんから。海見て、美味いパン食うて、カフェイン補給して、ほんでいっぱいキスしてから、東急ハンズ行こか」
 にこにこ教えると、アキちゃんは困ったなあっていうふうに、目をしょぼしょぼさせた。
「そんなんしたいんか……?」
「したい」
 逃げ腰のアキちゃんに、俺は断言してやった。したいよ。したらあかんのか。どの部分があかんねん。いっぱいキスか。ケチやなあジュニア。
「キスは無しでもええよ。どうせ嫌なんやろ……」
 エンジンかけてるアキちゃんに、俺はぼやいた。
「嫌やないよ。恥ずかしいだけ。ちゃんとするから」
「どうせ結界張ってやるんやろ。無理してそんなんせんでええよ」
 拗ねたついでに、俺は口を尖らせて、ブチブチ言うてやった。どうせいつものことや。俺かてもう分かってるよ。誰も公衆の面前の、一般人パンピー見てるようなとこでやれなんて、言わへんよ。
「いや、するよ。お前がしたいんやったら、なんでもするよ」
 カーナビ見てるアキちゃんの声が、なんか変に、思い詰めたふうに聞こえて、俺は横目にじっと、アキちゃんの横顔を盗み見た。
 変やで、アキちゃん。そんな甘ったるい男やなかったやんか。結婚したから、変わったんか。
 そんなわけない。こいつが結婚したぐらいで、アモーレ系に生まれ変わるわけない。
「どしたん、アキちゃん……なんでそんなこと言うの」
 俺は訊いたけど、アキちゃんは答える代わりに、アクセルを踏んだ。
 車はいつもと変わらんスムーズな運転で、ヴィラ北野を出て、急な坂を下る北野坂の道に入った。
 アキちゃんは黙っていたけど、俺にはずっと、分かっていたような気がするわ。たぶん、夜のスポーツ・バーでな、アキちゃんが、今夜結婚しようかって、そんなアホみたいなことを決めた時から。
 正気やったら、決めてへんと思う。そんなこと。そこまで思い切るだけの、発作みたいなもんが無かったら。
 アキちゃんは、あの時、結婚を決意したわけやない。死を決意したんや。そして、もう死ぬんやったら、何が心残りか、それを考えたんやろう。
 この子はなんでそんな事を、勝手に決心したんやろ。よう分からん男や。どうやったら生き延びられるか、それを必死で考えるのが、人のさがやし、生きとし生けるもの達の、さがやないのか。それをなんで好きこのんで、死のうやなんて思うのか、俺には全く理解できへん。
「アキちゃん……死なんといて。なんでそんなこと思うの。アキちゃん死んだら、俺も生きてられへん。何か困ってることあるんやったら、俺にも教えて。相談してくれよ。一緒に、考えさせて」
 静かにそう問いつめると、運転しながらアキちゃんは、難しい顔やった。
 黙っていたけど、アキちゃんが何か答える気がして、俺も黙って、返事を待っていた。
 北野から三ノ宮へは、実は大して遠くない。ほんでアキちゃんは口下手や。黙るとなったら、石のように押し黙る。黙々と運転するうち、坂がだんだん緩やかになって、なだらかな山麓のゆるい傾斜地へと入っていった。そしたらもう、繁華街・三ノ宮の景色が見える。
 これといって、景観のない街や。三ノ宮は。海にすごく近いんやけど、海が見えるわけやない。ポート・タワーとかがある、いかにも神戸みたいな場所も、目と鼻の先やのに、三ノ宮から見えるわけやない。あれは、隣町にあたる元町もとまちの景観で、三ノ宮いうたら、これといって観光っ気のない普通のビルが建ち並ぶ、地元の人らが働いたり、買い物したりするための街や。それでも神戸らしい、さっぱりとした小綺麗な街なんやけど、アキちゃんにはこれといって、何の印象も与えなかったらしい。普通の街やという目で、特に驚きもせず見てた。
 三ノ宮駅の二階に、確かにタリーズ・コーヒーはあり、アキちゃんは駐車場探すの面倒くさいから、お前が行って買ってきてくれと俺に頼んだ。このに及んで未だに俺を、コーヒー買いにパシらせるとは。うちのジュニアも大したモンや。
 パシるついでやからな、俺はアキちゃんにナビをして、もうちょっと南に車を走らせ、そごうデパートの裏にある、神戸国際会館まで連れていかせた。そこに美味いパン屋があるねん。ビゴの店。フランス系やで。ビゴさんていうフランス人のおっちゃんの店やから、ビゴの店。そのまんまやろ。でも、めちゃめちゃうまいバゲット売ってる。
 そこでやたらとパンやらサンドイッチを買い込んで、俺は美味そうやったもんで、マカロンまで買うた。なんで朝飯からマカロン買うてくんねんてアキちゃんに言われたけども、美味そうやからしゃあない。ほんまはアイスも買いたかったけど、溶けたらあかんと思って自重したのに。
 そして、その足で、海辺まで車を走らせた。メリケン波止場まで。
 ここは神戸の古い船着き場で、昔は賑やかやったけど、今では港の機能を新しく作られた突堤に譲っている。跡地は海を埋め立てて、公園なんかになっている。そこには白い帆船みたいな姿をした、海洋博物館もあるし、真っ赤っかのポートタワーも建っている。昔は藤堂さんが働いていたという、綺麗なホテルもあるんやで。メリケン波止場は神戸のなかで、もっとも神戸らしい場所のひとつや。
 実はヘタレ神父の手伝いで、船の骸骨やっつけにいってやった中突堤という場所は、ポートタワーを挟んで、このすぐ隣やねん。あの時は、バタバタしてもうて、のんびりメリケン波止場デートでもなかったけどな。
 言うたらここは、神戸の定番デートコースや。海が臨めるホテルも沢山あるし、メリケン波止場から海沿いに、仲良くそぞろ歩くうち、神戸のハーバーランドまで辿り着く。夕日を眺める遊覧船にでも乗って、晩飯食って、戻った港は夜景が綺麗やし、ロマンティックなボードウォークもある。
 歩き疲れてきたところで、ほんならホテルのバーで酒飲もうかって飲んで、酔ったなあって、部屋で服脱いでいちゃつくんやないか。藤堂さん、京都の前はそんなホテルで最上階の部屋ペントハウスにスイート・ルーム作ってたりしてたんやで。そんなんばっかりやで、あのオッサン。せやのに本人はそのロマンティックを利用せえへん。
 利用したいわ、俺は。アキちゃんと。のんびり綺麗な海でも眺めて、ゆっくり組んずほぐれつしたい。ロマンティックに、二人っきりで。
 せっかく神戸に居るのにやで、ヴィラ北野はええホテルやと俺も認めるが、なんでお邪魔な奴ばっかりの、見るつら見るつら美形やみたいな劣悪な環境で、新婚ライフを送らなあかんのか。
 言うとくけど俺は初婚やで。はじめて結婚したんやで。別に今まで結婚願望なんか、いちミクロンもなかったけどもや、いざ、してもうたとなると、こんなんでええんかと思えてくるわ。
 昨日までと何も変わらへん。ロマンティックでもなんでもない。アキちゃん確かに優しいけども、それは結婚したからやない。名残惜しいからや。そんなん、悲しいばっかりで、ぜんぜんロマンティックやないで。
「アキちゃん、ビゴの店のアップルパイを食え。泣くほど美味い」
 おすすめの一品をすすめて、俺は海を眺めるメリケンパークのベンチに座るアキちゃんに、甲斐甲斐しく食い物をくれてやった。
 大雨の後で、よく乾いたベンチがあったと思う。あるわけない、ほんまやったら。でも、アキちゃんが、どこか乾いたやつないかって、探してみたらあったんや。不思議やろ。不思議ちゃんやねん、アキちゃんは。
「朝からアップルパイか? 甘いやん。男がそんなもん食うの変やで」
 アキちゃんは渋々やった。おかんの教えが未だに染み付いてんのか。
「そんなん言うたら、神楽遥にブッ殺されんで。あいつらイタリア系は、オッサンでも朝からタルト食うてる」
「なんで知ってんのや、そんなこと」
 嘘ついてんのちゃうかっていう目で、アキちゃんは俺を見た。
「知ってる。ローマに住んでいたことがある。悪魔サタンアレルギーのお膝元で、無謀やねんけど、どうしても懐かしなって行ったんや。もっと昔にも居たことがある。キリスト教がまだ無い頃。その頃にはたぶん俺も神様やった」
 急な俺の思い出話に、アキちゃんはアップルパイ持ったまま、難しい顔をした。およそ難しい顔をするときに持っとくもんとして、理想からほど遠い、葉っぱの形した手の平サイズの可愛いアップルパイや。ほんまに美味い、マジやから、皆もいっぺん食うてみて。
「えらい昔の話やなあ……」
 アキちゃんは、やっとそれだけコメントしてきた。
 そうや、無茶苦茶昔の話やで。紀元前やからな。俺ももう忘れたわ。忘れたと思って生きてきた。忘れといたほうがラクなことってある。お前は悪魔サタンやて追われつつ生きなあかんのに、昔はもっとええご身分やったって、しつこく憶えといて何になる。惨めなだけやで。そうや俺は悪魔サタンなんやって、居直っといたほうがラク。
 自分でも自分が何なのか、よう分からん。神なのか、鬼なのか。それを決めるのは、俺ではないからや。
 せやけどアキちゃんは俺のことを、悪魔サタンではないと言うてた。
「アキちゃん、俺は神様なんやで。ひとりで背負い込まんと、時には神頼みしてみたらどうや」
「おとん大明神の次は、お前にか? 水地亨大明神?」
 苦笑のような笑みで、アキちゃんは俺を見た。
 アキちゃんにとっては俺は、ひれ伏さなあかんような神様ではないんやろ。おとん大明神と同列か、それ以下の、めっちゃ身近で、抱きたきゃ抱ける相手やねん。それでいい、別に。有り難い神さんやから、顔を見るのも畏れ多いなんて、アキちゃんにそんな扱いされてもうたら、俺は悲しい。アホやなあ亨、お前は可愛いって言って、めちゃめちゃ抱いてくれたら、それでええねん。
 でも俺にも、ずっと忘れていた本当の名前がある。俺が悪魔サタンになる前の、ええご身分やったころの名前。思い出してん。アキちゃんのお陰で、再び真《まこと》の愛に目覚めて、俺は神やと、そんな脳内革命の後。
「内緒やけどな、アキちゃん。俺のまことの名はエアや」
「エア?」
「そうや。エアとか、塚の王エンキと呼ばれていた。俺はもともと、ユーフラテスの川辺で生まれた神や。いつ生まれたのかは、よう憶えてない。とにかく憶えている限りの昔には、エリドゥという街の、神殿にいた。その神殿のことを、神官たちは深い水底の王の家エエングラと呼んでいた」
 耳慣れない言葉の響きに、アキちゃんは首を傾げて聞いていた。俺がなにか、寝言でも言うてるんやないかって、そんないぶかしむ目やった。
「ユーフラテスって、チグリスとユーフラテスの? メソポタミア文明?」
「そうや。シュメールや。バビロニアとかや。そこで俺は、生命と、創造と、豊穣の神さんやった」
「蛇はこの島でも豊穣の神や」
 アキちゃんはうつむき、波止場の地面を睨んでいた。
 たぶんアキちゃんは、知りたくなかったんやろう。俺の正体なんて。亨は蛇やで、満足していた。それ以上詳しくなんて、知りたくなかった。きっとそこらへんの蛇が人に化身して、アキちゃん好きやって居着いただけやと、思っていたかったんや。
「うん。俺はたぶん、エアの欠片かけらやろう。残りモンの、くずみたいなモン。今はもう、深い水底の王の家エエングラはないし、俺を崇める民はいない。栄華を誇ったバビロンも、もはや昔々のおとぎの国や。今の俺は、アキちゃんに取り憑いてる、ただの蛇の化けモンや。でも、俺にも偉大な神やった時はある。ものすごい昔やけども、アキちゃん、お前のためやったら、俺はまた、偉大な神にもなってみせる。俺がそうやって、信じてくれ」
「そんなこと信じて、どうせえ言うんや」
 俺を見もせず、そう答えるアキちゃんは、なんでかすごく悲しそうやった。
 なんでなんやろ。俺はアキちゃんを助けてやりたいだけやねん。俺にもっとすごい力があったら、アキちゃんを救ってやれるかもしれへん。俺はもう、悪魔サタンやめたしな。今は神やで。蛇神様や。どんな名前で呼ぶのかは、人間どもの勝手やけども、元は生命を司る蛇で、水の神やったんや。
 それでは龍と、戦えへんやろうか。そりゃあ、俺かて確かに、深い水底の王の家エエングラにお住まいの頃から見たら、落ちぶれ果てたもんやで、きっと。信徒もいなけりゃ、神殿もない。生まれたところを遠く離れた、こんな極東の島国まで、ふらふら漂ってきてもうたんやないか。
 俺もきっと、信太と大差ない。消えそうなって、あっちこっちを彷徨って、気がついたら鬼になっていた。あいつと違って、誰も拾ってくれへんかったんで。元は有り難い神が、ただの妖怪みたいになってる。人を救うどころか、アキちゃんに養ってもらってる。そんな消えかけの蛇や。
 せやけど、ひとたび信仰を得れば、俺かて神やで。めちゃめちゃバージョンアップするかもしれへんで。とりあえずアキちゃんが信じてくれれば、とりあえず龍ぐらい、やっつけられるようにならへんもんやろうか。
「アキちゃん食おうなんていう悪い龍を、俺がやっつけたるねん。一緒に戦うよ。せやから、あと三日で死ぬなんて、思い詰めへんといて」
 こっちを見てくれへんアキちゃんが、悲しくなってきて、俺は誰も見てへんしと思い、ベンチで隣にいるアキちゃんに、じりじり擦り寄った。
 守ってやるよみたいな事を言いつつ、俺は明らかにアキちゃんにすりすり甘えていたわ。ほんまに、どっちが神か謎や。
 俺はほんまに神やけどな、ほんまやで、せやけどアキちゃんは俺にとって、神様みたいなもんやった。シェイクスピアの書く、ジュリエットやないけども、俺にとって、めちゃめちゃ愛してるアキちゃんこそが、まさに神。お願いや、ずっと俺を愛して、守っていてくれって、いつも祈ってる。
「アキちゃん死んだら、俺も死ぬしな。抜け駆けなんかできへんで」
 結局、泣きつきたいような気持ちで、俺はアキちゃんにそう言うた。
 そしたらアキちゃん、笑っていたわ。
「大丈夫や。俺がおらんようになっても、お前には誰か新しいのができる。それまで不安やったら、おかんか蔦子さんにでも、養ってもらえばええよ」
 アキちゃんが、皮肉に笑ってそう教えるのは、俺がどうやって生きていくかという事やった。俺は、神は神でも、情けない神でな、精気を吸わな生きていかれへん。誰も俺を信じてへんしな、そんな神さん日本に居るって、誰か聞いたことある? 水地亨っていうんやけどな。聞いたことないやろ。俺らの話を聞いて、今、初めて知ったやろ? せやからな、俺はほうっておかれると、消えてまうんやで。絶滅が危惧きぐされる亨ちゃんやねん。レッド・データ神様やで。大事に守らなあかんよな? 皆もよう憶えといて協力してな。
 けど、俺が死ぬしなって言うたんは、そういう意味やないねん。腹減って死ぬわけやない。アキちゃん、ほんまに鈍いしな、ムードの欠片もない奴やから、ほんましゃあない。
「アホか、アキちゃん。俺は情けない。そういう意味やないやん。お前が好きやからやろ。アキちゃん死んだら、俺も絶対ショック死するわ」
「そうなんや……」
 苦い顔をして、アキちゃんはそんな、つれない返事やった。
 アキちゃんは、そうなると思わへんの。アキちゃん死んでもうても、俺が平気やと思うんか。そんなのひどいわあ。薄情なやつや。
 俺ってアキちゃんに、何やと思われてんのやろ。何かもう、情けなくなってきて、涙出そう。
 でもちょっと、我慢しよ。男の子やから。俺は涙をこらえてアキちゃんを口説いた。
「そうなんや、って……そうやで。絶対そうやで。夏に俺が死にそうなったとき、アキちゃんどう思った。まあええかと思ってたんか?」
 そんなはずないと言うことは、俺は知ってた。アキちゃんは我が身に代えても俺を助けようとしてくれてた。せやから俺は助かったんや。
 俺が死にそうなってたんは、怪我したからやない。俺、アキちゃんに振られるんやと思ったんや。なんでやろ。今考えたら謎やけど、俺も思い詰めてたんや。アキちゃん、あの犬のこと、ほんまに好きみたいやったしな、俺より好きなんやないかって、怖かってん。
 しまった、亨さえ居らんかったら、犬と仲良うできたのに、って、アキちゃん思ってんのやないかって、そんな気がして、俺は居らんほうが、ええんやないかって、一瞬すごく弱気になった。
 もしもアキちゃんがそんなふうに思うんやったら、俺はつらい。いっそ消えてしまいたい。俺は最初からおらへんかった。そんな奴は居なかったんやって、そう思おうとした。
 消えて居なくなれば、もう、つらい思いもしなくて済む。アキちゃん犬に盗られてもうたって、泣かんで済むやんか。
 でもなあ、恋愛感情というのは矛盾してる。もう死にたいみたいに思う一方で、アキちゃんきっと俺を選んでくれる、きっと助けに来てくれるとも、思ってた。そう、祈ってたんや。助けてくれって、アキちゃんに。俺を選んでくれ。他の誰かではなく。
 そしたら、ほんまにアキちゃんは、犬には目もくれず俺のほうに来て、三日三晩抱いて介抱してくれた。アキちゃんがその間ずっと、俺のことしか考えてへんのを見て、もっと生きていたいって思ったんや。アキちゃんとずっと、生きていたい。もっとずっと一緒にいたい。
 つらいことあってもええから、やっぱり俺はアキちゃんとずっと、一緒に生きていたい。
「まあええかと、思う訳ないやろ。何を今さらお前は……」
 ほとほと悔しい、みたいなふうに、アキちゃんは俺を詰る言葉も途中で詰まらせて、がっくり来てた。いろいろ思うところあるんやろ。腹も立つし、反省せなあかん面もあるしやな。アキちゃんはそれについて、たっぷり考え、やがて、はあ、みたいに深いため息を漏らした。
「お前を死なせるくらいやったら、自分が死んだほうがましや。お前を生け贄になんか出さへんしな、心配せんでええねんで」
「そんなん心配してへん」
 俺はきっぱり即答やったわ。
 だって心配する必要あらへん。俺はアキちゃんのしきやないしな、俺は心根の醜い神や。自分が死ぬくらいなら、他の誰かをなまずに食わせる。きっとそうすると思う。土壇場なったら、そうするで。なんせ自分が助かりたい一心で、親友みたいに思ってたトミ子をガツガツ食うた俺やから。信太だろうが、秋尾だろうが、俺はきっと平気で見殺しにする。
「なんでや……」
 アキちゃんはちょっと意外そうに、険しい顔で俺を見つめた。
 その、嫌な予感がしているふうな目を見て、俺は思った。
 話してないんや。水煙。生け贄のこと。
 ずるいわあ。
 話つけとく機会なんか、いくらでもあったやろ。知ってるで、お前がこそこそアキちゃんと、専用ラインでお喋りしてんのは。その内容こそ俺にはわからへんけど、何も気づかへんほどアホやない。
 なんで俺が話さなあかんの。そんなん、お前の仕事やろ。お前のアイデアやねんから。あの犬を生け贄として、なまずに食わせようというのは。
 俺かて話したくないよ。アキちゃん怒るに決まってんのやから。畜生、あの宇宙人。アキちゃんの前では可愛いふりしやがって。えげつないねん。また出し抜かれたわ。
「なんでって。俺はもう、秋津の式神やないし……生け贄なんて、そんな義理ないもん。アキちゃんかて、嫌やろ、俺がそんな化けモンみたいな神に食われて、いなくなるのは」
「嫌や。当たり前やろ」
 何の思惑もないふうに断言してるアキちゃんが、俺にはちょっと嬉しいようなで、思わずちょっと、悲しい笑みになっていた。やっぱり最初に、アキちゃんに話してやっとくべきやったんやないか、水煙。陰でこそこそ俺とお前で、話し合って勝手に決めて、それでええかって談合してんのは、卑怯やったんやないか。
 だってアキちゃんが、俺とお前のご主人様やろ。俺はもう、アキちゃんの式神やないかもしれへんけども、そんな契約がなくたって、どうせアキちゃんには逆らわれへん。自分を使役する強い呪縛が解けてみて、ほんまに分かった。俺はアキちゃんの望むことなら、なんでも叶えてやりたい。アキちゃんのためやったら、なんでもするで。それはまじないではない。俺の意志やったんや。
なまずは、水煙は食わんらしい。前にも試したことあるんやって。せやから、うちに残ってる式神言うたら、あいつだけやんか」
「あいつって誰や」
 強ばった声で俺に訊くアキちゃんは、それが誰のことか、知らんわけない。忘れてもうたんか。忘れてるふりしてるだけや。考えたくないから、そんなとぼけたこと言うてんのやろ。だって、アキちゃんはすでにもう、怖いという顔をしている。
「勝呂瑞希やんか」
 俺が教えてやると、アキちゃんは痛恨の表情で、一時目を閉じた。やられたという顔やった。自分が誰にしてやられたのか、アキちゃんには分かってるんやろうか。水煙やで、アキちゃん。それとも俺なのか。実際にはその両方や。
「あいつは居らん。ほんまにまだ、戻ってきてへん」
 俺に弁解するような口調で、アキちゃんはそう答えた。俺が疑うてると思ったんか。犬がこっそり戻ってきてて、アキちゃんがどこかにそれを隠しているって?
 まさか。そんな芸当、アキちゃんいつからできるようになったんや。できる訳ない。そんな秘密を持ったが最後、気が咎めてもうて、まともに俺の目を見られんようになる。だいたいずっと、べったり一緒に居るのにさ、いつ浮気すんの。ありえへんやんか。寝るときだって、がっちり抱き合うて寝てんのやで。
「不都合やなあ。今日入れて、ほんまにあと三日やろ。それまでに、あいつが現れへんかったら、アキちゃん、例のくじ引き、誰の名前を書いて出すの」
 俺は単なる興味で、それを訊いた。勝呂瑞希って書いて出す。そう言うてほしいような気がしてた。
 でも、そうやない。俺はそれについても、承知していた。
 アキちゃんは、本間暁彦と書いて出す。そういう覚悟を決めていた。そもそもくじ引きなんてもん自体、やめてくれと、大崎先生に頼むつもりなんかもしれへんかった。
「俺の名前や。他に誰を書くねん」
「なんであかんの。あの犬やったら。それが秋津の当主の責務なんやろ。おかんかて、前になまずが暴れた時には、自分が飼うてる可愛いしきを、全部なまずに食わせたんやで。自分が生け贄なったりせえへんかった」
 そうや。おかんは今もピンピンしてる。そういや、あれから、全然連絡来えへんようになったけど、ブラジルでサンバ踊った後、あの二人はどこで何をしてんのや。息子がこんなにピンチの時に、いい気なもんやで、ラブラブ・フルムーンどもめ。こっちは可哀想に、新婚さんやというのに、ハネムーンにも旅立たれへん。
「式神は、また探したらええけど、アキちゃんには代わりがおらへん。気持ちは分かるけど、自分が死ねば解決つくなんて、そんなん、考え甘いんとちがうか」
 ええこと言うやろ、亨ちゃん。それとも鬼なだけか?
 でも、そうやんか。アキちゃん死んで、さようならってなってやで、その後、秋津の家は血が絶える。まさか、おかんがまた新しく跡取り産めるとは思えへん。あの人何歳やねん。相手はおとん大明神やしさ、人間やめてんのやで。
 せやから常識で考えて、分家の竜太郎が代わって後を継ぐんやろう。せやけど、あいつ、予知する以外になんか力あんのか。蔦子さんかて、そうや。本家の人らみたいに、なまずと渡り合うだけの力があるんやったら、今回の祭主は、蔦子さんがやらなあかんところやろ。アキちゃんは本家の当主とはいえ、なんも知らん若輩なんやから。
 そやのに、蔦子さんは前に出ず、アキちゃんが祭主を務めるということは、蔦子さんにはでけへんのや。予知だけが、あの人の力で、竜太郎もそうなんやないか。アキちゃんが力を使って、阪神に連続ホームランを浴びせまくった時、あいつは素直に驚いていた。そんなことが、できるんやって。自分にはでけへんことをやってのけるアキちゃんに、尊敬の眼差しやった。
 アキちゃんは、死んだらあかんのや。きっと。生き延びて、家の仕事を継がなあかん。仕事のたびに、いちいち死んでたら、それはプロとは言えへんのやないか。ちゃんと業務を完遂して、それでも無事で生きているのが、ほんまの成功やろ。死んでもうたら負けなんやで。
 俺はそう思うけどな。アキちゃんまだまだ餓鬼やから、そう思わへんのやろ。一生懸命やればええんやと思ってるんや。死ぬほど頑張れば、後はどないなってもかまへんて、後先考えてへんのや。
「どないせえ言うねん」
 アキちゃんは、どうしろと言われているのかは、知っているふうな声やった。なまりでも呑んだように、ぐったりと重い声で、せっかく綺麗に晴れていた海には、また薄暗い雲がかかり始めていた。
「どないせえって。おかんが居ったら、なんて言うやろ。くじには犬の名前を書けって言うか、そもそもくじ引きするやなんて、お家の恥やって、突っぱねるんとちゃうか。おかん、プライド高いねんから」
「そうやろな……」
 息でも詰まってもうたんか、アキちゃんは苦しそうやった。
 しばらく、おかんが留守で、アキちゃん忘れてたんとちゃうやろか。てめえの親が、どんな奴やったか。
 ほんま言うたら、アキちゃんは、おかんが留守で解放されていた。やっとラクに息ができてた。おかんはどう思うやろ、おかんに何て言われるやろかって、いつもそんなことばっかり気にして、今まで育ってきてたんやからな。その恐ろしい目が消えて、寂しいけども、ほっとしてた。
 ええトシこいて、旦那とラブラブ世界一周やなんて、どないなっとんねん、おかん、とは思うけど、あれはあれで、あの人の思惑なんやで。うちが居らんようになったら、アキちゃん、ちゃあんと一人でやっていけんのやろかって、可愛い子に旅をさせてみたんとちゃうか。自分が旅に出て、しばらくいなくなってみることで。
 アキちゃんは、いずれ一人になる。おとんとおかんが、もっと遠いところに旅立ってしもて、もう永遠に帰ってきてくれへんようになったら、ほんまのひとりぼっちになってまう。兄弟もおらへんし、秋津の家におかんと母一人子一人やった。式神欲しけりゃ、いくらでも増やせるかもしれへんけど、それでもアキちゃんは一人や。秋津家には他に、血筋を受け継ぐ人間がおらへん。いずれは一人で家を背負って、やっていかなあかんのや。
 練習というには、めちゃくちゃ激しい実地訓練や。いきなり命かかってる。自分の命だけやのうて、三都を構成する都のひとつ、神戸に住む人々の、ほんまもんの命がかかってる。
 これは訓練ではないんや。仮想敵ではない、ほんまもんの敵がやってきた。なまずと龍や。エイリアンとプレデターが同時に襲ってきたみたいなもんやで。無茶苦茶や。普通死ぬ。
 でも、そこを、奇跡の生還ていうオチやなかったら、お話にならへんやないか。あら死んじゃった、みたいなオチになってもうたら、皆怒るで、アキちゃん。金返せやで。映画館に火付けられる。ゴールデン・ラズベリー賞もらえる。そんなアホ映画の主人公みたいなB級人生で、ほんまにええの。お前、いちおう、サラブレッドなんやろ。名門の出なんやろ。誇りはないのか。
「わからへん。何が正しいのか、わからんようになった」
 アキちゃんは素直な子やねん。思ったとおり、そう言うてた。
 一度は決めてた覚悟が、ほろほろ崩れてきたんやろ。自分では、それが一番正しいって、覚悟決めてた死にオチが、ほんまに正しいのかどうか、わからんようになった。
 効くわあ、おかん効果。言うてみて正解やった。
 まさかここまで効くとは。嫌みなほど効果絶大や。
 でも、何とかこれで、アキちゃん自分が死のうやなんて、アホな考えは捨ててくれるんとちゃうか。死ななあかんような事やないねん。犬一匹でいい。もしくは虎一匹でも、狐一匹でもええねん。生け贄に捧げればいい。俺にとっては、もちろん、犬が理想やけどな。
 とにかく俺のアキちゃんが、なまずや龍に食われるというオチだけは、絶対避けなあかんコースやねん。
 いまごろ水煙様は、きっと張り切っているやろ。竜太郎ぶっ殺してでも、アキちゃんが助かる未来を視させようとしているに違いない。
 そんなら俺は俺で、あいつが後編・龍の部をなんとかしている間、前編・なまずの部のほうを、なんとかしとかなあかん。それでこそのチームワークやしな。
「悩めばええやん。まだ時間ある。せやけどアキちゃん、一人で考えんといて。俺はアキちゃんの何やねん。配偶者やろ。いかなる時も支え合うんやろ。そう誓ったくせに、俺に無断で死のうやなんて、無茶苦茶すぎる」
 ほんまに結婚しといて良かったわ。アキちゃん、その話にも、ちょっと心の動くもんがあったようや。真面目な子やなあ。馬鹿正直というか。そこがええんやけど。
「死ぬ時は一緒やで、アキちゃん。そうやろ? 俺を遺して死なんといて。どうしても死ぬ他無いときは、俺も連れて行ってくれ。一緒に戦おうよ。そうしてほしいねん。俺のこと、愛してんのやったら、俺の気持ちも考えて」
 腕を引いて、そう求めると、アキちゃんは俺の話にほだされたみたいやった。なんとか真顔を作ってみても、照れているから、もろわかり。
 アキちゃんは結局、死ぬんやったら一緒やでという俺の話が、嬉しいという顔で答えた。
「分かった。分かったけど……なんでそんな話、アップルパイ持ちながら聞いてなあかんねん」
 手に持ったままやった葉っぱの形のアップルパイを、アキちゃんは恨めしそうにしかめた顔で見下ろして、俺から目をそらしてた。恥ずかしいらしかった。アキちゃんそんな、ジャンプの法則みたいな話、されたことないんやもんな。チームプレイに慣れてないんやから。
 ほんま言うたら、俺かて慣れてない。必死なだけやねん。人間、愛しいツレのためやったら、何でもできるで。俺は蛇やけど、蛇でもできる。
 アキちゃんの餓鬼くさい照れ隠しに、俺は思わず、にっこりしてた。可愛いなあ、アキちゃん。ちゃんと納得してくれたんか、俺の話。やけっぱちで無茶苦茶したらあかんのやで。
「甘いの嫌なんやったら、ミートパイもあんで。これも美味い」
 俺が袋から出してすすめてやったのと、アキちゃんは大人しく、自分が持ってたアップルパイを取り替えた。甘いのあかんねんなあ、ほんまにもう、しゃあないやつや。
 俺は甘いの大好きやけど。なんでこんな、甘味の薄い男に惚れてもうたんやろ。アキちゃんと並んで座り、ばくばくパイを食らいつつ、俺はにこにこ笑った顔で悔やんでた。
 俺にここまで言わせた奴は、紀元前ウン千年以来、お前が初めてやで、アキちゃん。落ちぶれたとはいえ、俺も神やで。有り難き幸せやとか、なんか無いの。ミートパイ食うとる場合か。
 海見て腹を満たしつつ、アキちゃんは俺に、ぽつりと言った。
「あのな、亨……」
「なんや」
 コーヒー飲みつつ、俺は返事した。
「さっきの話、忘れてええか」
 目を上げるとアキちゃんが、どことなく切なそうに俺を見ていた。
「さっきの話って、どれのことや」
「お前が、大昔、なんとかいう神様やったっていう話」
 アキちゃんは、その名を憶えてないのか、それとも口にするのが嫌なんか、ぼやけた言い方で俺のまことの名を呼ぶのを避けた。
「なんで?」
 何が嫌やねん。蛇でも何でもかまへんて、いつも言うてたくせに。有り難い神様やったら、何があかんことあるんや。
「嫌やねん、なんとなく。お前がそんな、ご大層な古い神やなんて。ほんまやったら俺なんかと、一緒に居るようなモンやないってことやろ。お前がそういう神なんやって、本気で信じてもうたら、お前がどこか、俺には手のとどかんような、高いところにいってしまうような気がする」
「なんで? そんなことないよ。俺はアキちゃんおらんかったら、生きていくこともできへん神やで。もし力をつけて、立派な神になれたとしても、それは変わらへん。アキちゃんが居らんかったら、俺は死ぬ。寂しなって、死んでしまうわ」
 そんなん、当たり前のことやで。アキちゃん。心配なんか、せんといて。約束するよ、俺はずっとアキちゃんのもんやで。つい昨日の夜に、そう誓ったばっかりやないか。
「抱いてもええか」
「えっ、ここで?」
 やるなあ、アキちゃんと、俺は身構えた。まだアップルパイ食い終わってないのに。まさかこんなところで朝エッチすんのか。びっくりするわ。
「アホか、違う。抱きしめるだけ!」
 むっちゃ怒った照れ隠しの声で、アキちゃんは答え、食いかけやった俺と自分のパイを袋に落として、おもむろに俺を抱き寄せてきた。
 海風が吹いていた。潮の香りがする。それに混じって、微かにアキちゃんの肌の匂いがした。ミートパイの匂いも。アキちゃんはまだ、その味の残る舌で、俺にキスをした。
 それがあんまり熱烈で、ベンチに押し倒されそうやった。倒してくれてええんやけども、アキちゃんはそれを我慢していた。切ない話や、やっぱりホテルでいちゃついとけば良かったか。
 アキちゃんの背に腕を回して、俺は貪られる感覚を愉しんだ。お前は俺のもんやって、そういう気合いで、アキちゃんは俺を抱いていた。
「亨。お前のほんまの名前は、水地亨やろ。他の名前なんか要らんやろ。俺の亨やろ?」
「どしたんアキちゃん、子供みたいな駄々こねて」
 アキちゃんが時々、お前はおかんみたいやという、俺はつい、そんな口調になっていて、アキちゃんはそれに、苦笑する寂しそうな目やった。
「しゃあない。ほんまに子供なんや。お前と会うまで、こんなに誰かを好きになったことはない。どうしていいか、わからへん。でも、ありがとう。お前のお陰で、俺も生まれてきた甲斐があったわ。お前に会えて、ほんまに良かった」
 アキちゃんはそんな、アホみたいなことを、どうも本気で言うていた。目がマジやった。その目で見つめられ、俺はものすご戸惑っていた。
 そんな直球も直球の、くさいくさい台詞を言われ、ものすご胸キュンしてる自分のことが、アホかと思え、めちゃめちゃ恥ずかしい。そやのに、なんか、ふわふわ浮かんでいきそうな温かい心地がして、胸がアキちゃんへの愛で一杯なって、ほんまにふわふわ浮いてきた。
「浮いてる、お前。また浮いてるで」
 それが全然何でもないように、俺に教えて、浮き立ちそうになる俺の体を、アキちゃんはまた、ぎゅうっと抱きしめた。
 アキちゃんが結界張ってないことは確かやった。だって、メリケン波止場に犬を散歩させに来たらしい、高校生くらいの、JIBのパラシュート生地の派手なスポーツバッグ持った女の子がな、ちょっと向こうのほうで、短いラップ・スカートを海風にひらひらさせつつ、俺らのほうに走って来ようとする空気読めへん嬉しがりのビーグル犬を、行ったらあかんて泣きそうなりながら、引き戻そうと必死で引き綱リードをギリギリ引っ張っていた。
 朝からごめんな、残り少ない夏休みの爽やかな一日の始まりに、びっくりするようなモン見せて。でも、これに懲りたらしばらくは、散歩コース変えたほうがいい。この港は、三日後には地震で沈むらしい。危ないで、うろうろしてたら。
「亨、俺はお前が好きや。ほんまに好きや。むちゃくちゃ好き。憶えておいてくれ。俺がお前を、ものすご好きやって事を。ずっと俺のモンでいてくれ。お前が居らんようになったら、俺も死ぬ。寂しいねん。なんでやろ。お前と会うまで、ずうっと寂しかったんや」
「心配いらへん、アキちゃん。もう寂しない、俺が居るやんか。ずうっとアキちゃんのもんやで。ずっと傍にいる。めちゃめちゃ好きや、アキちゃん。愛してる……」
 俺が囁く、くさいくさい愛の言葉を、アキちゃんはそれがまるで、有り難い神様のお告げでも聞いているみたいに、じっと俺に縋って聞いていた。
「俺は、怖いんや、亨。どうすりゃええんやろ。もう俺のせいで、誰かが死ぬのは嫌や。耐えられへんねん。耐えられへん……」
 アキちゃんは俺を抱いて、暑かったこの夏以来、誰にも見せへんようにしていた、胸にぱっくり開いてる、痛うてたまらん傷を見せてた。
 アキちゃんは、優しい子やねん。人がいっぱい死んだ。俺に言わせりゃ、大した数やない。アキちゃんが描いた疫神の絵のせいで、病気になって死んだ、そんな人らの数は、アキちゃんがこれから救う人の数に比べたら、芥子粒けしつぶみたいなもん。
 それでもアキちゃんは、そのひとつひとつが身に堪えてた。自分を責めてた。俺さえいなければ、死なずに済んだ人たちやったって。そんな人らの命を奪っておきながら、幸せになろうという自分が、どうしようもなく駄目に思えて、内心どこかで、いつも苦しがっていた。
 絵描きになりたいんやと言いつつ、げきにならねばと自分を責めてた。そうやって世の中の人の役に立つ者にならねば、許されないようなことをしてもうた。それ以外の道で、どないして生きていけるか、わからへんて、むちゃくちゃ悩んでた。
 いつもやったら描くものに、迷うたりせえへんアキちゃんが、卒業制作に描くもんを、ぜんぜん決められへんねん。息するみたいに描いてきた、自由やった筆が、本気の大作に向き合おうとすると、自分に自信がなくなってもうて、ぴたりと止まる。怖くて描かれへん。
 これが俺やというもんを、描けばええねんで。美大で過ごした四年間の、集大成。あるいはアキちゃんが今まで生きてきた人生の、集大成で、これからどんな絵を描いていくんかを予感させる、最初の一歩を、なんも気にせず好き放題描けばいい。
 でもそれが、アキちゃんには怖いんや。どんな醜い、罪に穢れたもんが飛び出してきて、なんや本間暁彦、お前はこんな醜い男かと、誰の目にも明らかになるのが怖い。
 可哀想や、アキちゃん。たとえその絵が醜くても、それがお前やで。その姿で、生きていくしかないねん。ええ格好はできへんねん。俺の蛇の姿をした正体が、結局暴かれたように、お前も暴かれる。
「大丈夫や、アキちゃん。ひとりやないで、俺がいっしょに、耐えてやる。生け贄にはな、アキちゃん。犬をやったらええねん。それが無理なら信太を。あかんかったら秋尾もおるしな。式神なんかホテルにいくらでも居るわ。そいつらコマして、メロメロに手なずけてから、なまずに食わしたったらええねん。今朝会ったDJでもええやんか。あのラジオ。まあまあ好きなんやろ。帰ってから口説いたらええやん。なんも悪いことないで、それがアキちゃんの、お仕事なんやから」
 そうやって生きていくんや。それが血筋の定めなんやろ。おとんも、おかんも、ご先祖様たちも、みんなそうやって生きてきた。なにを今さら恥じることがあるんや。ようやったと、それでこそウチの子やって、みんな褒めてくれるで、アキちゃんを。
 俺はそれを、アキちゃんの耳元に囁いてやった。睦言のように。甘い毒のように。
 アキちゃんはゆっくり顔をあげ、自分の腕の中に収まっている俺を見つめた。悲しいような、怯えたような、可哀想なぐらい、若く未熟な顔つきで。
「水煙かて、褒めてくれる。さすが秋津暁彦やって、アキちゃんのこと、惚れ直すと思うで」
 俺はそれを、微笑んで励ましていた。まるで俺も水煙みたいになってきたわ。
「お前は?」
 眉根を寄せて、アキちゃんは俺の顔色を、うかがう目をした。
「お前はそれで、俺を愛せるんか、亨。それで平気か?」
「平気や、アキちゃん。アキちゃんが死ぬのに比べたら、そんなん屁でもない。どんだけでもしき増やせばええよ。欲しいだけ。水煙が耐えられたんや。俺かて我慢できへんわけない」
 でもそれを、自分は我慢しづらいと、そんなふうに目を伏せて、アキちゃんの手は俺の頬を愛しそうに探っていた。
 アキちゃんは結局、なにも答えんかった。
 ただしばらく悩むそぶりでいて、それから怖ず怖ずと、俺を引き寄せ、またキスをした。
 してええねんで、アキちゃん。なんも遠慮することない。俺とキスしたいって思ってくれて、俺は嬉しい。俺のこと、ずっと愛して。水煙より、誰よりも、俺が一番可愛いって、思い焦がれていてほしい。それでたぶん、俺は報われる。
「絵を描きたい。お前の。水煙の。皆の。めちゃめちゃ一杯描きたい。描けるだけ全部、描きたいねん」
 アキちゃんは強請るように俺に、許しを求める口調やった。描いたらええよ、どんな絵でも。アキちゃんが描きたいと思うもんを、誰が駄目やと止められる? 俺はおかんみたいに、ケチやない。描きたいもん、描かせてやるから。それで天地がひっくり返ろうが、知ったことかやで。
「ほな、そろそろ紙買いに行こうか。それから鉛筆も。俺が削ってやるわ。俺がアキちゃんの、鉛筆削り大明神や」
 ふざけて言うと、アキちゃんは苦笑して、お前を食いたいという、ムラムラ来てるような顔をして、俺にぎゅうっと強い頬摺りをした。
 鉛筆削り大明神な、アキちゃんのおかんが言うてたネタやで。世の中の神さんには、鉛筆削るくらいが精々の、弱っちいのもいてるんやって、もののたとえでそう言うたんやって。
 アキちゃんはそれが、ほんまに居ればええのにと思うらしい。そしたら式神として従えておいて、鉛筆削っておいてもらう。
 面倒くさいんやって。じゃんじゃん使う大量の鉛筆を、いつも削って尖らせておくのが。式神が勝手にやっといてくれたら、らくやのになあって、前に話してた。夜のベッドの、一発激しくやったあとの、枕話で。
 いつもそんな、アホみたいな話してる。くすくす笑いながら、愛しく名残惜しいような、未練がましい睦み合いの続きで。そういう時間も、俺は好き。やったらポイみたいな、そんな男もおる一方で、アキちゃんは一発抜いた後のほうが、甘く優しいという、貴重な男や。
「好きや、亨……」
 まるで、やってる最中の喘ぎみたいに、アキちゃんは俺の耳に直に、その言葉を囁いていた。めちゃめちゃ感じる。気持ちいい。アキちゃんの言葉責め。これには魔法がかかってる。この島ふうに言うんやったら、言霊や。こんな普通の愛の囁きだけで、アキちゃんはいつも俺をどろどろに溶かす。
「やめて、アキちゃん。耳弱いねんから。辛抱でけへんようになる。抱いてくれんのか、ここで。違うやろ? もう、行こか? 昼までに、帰られへんようになる……」
 俺の唇をまさぐるアキちゃんの優しい親指を、切なくガジガジ噛みながら、俺は自分の心と裏腹なことを促していた。
 ほんま言うたら今すぐしたい。ここでええやん。抱いて抱いてみたいな、そんな淫蕩な蛇さんやったんやけども、頼めば本当にやってくれそうで、アキちゃんちょっとヤバかった。
「ホテル帰ったら、続きをやってもええか」
 めちゃくちゃ恥ずかしいという顔で、自重したアキちゃんは、俺にお強請り言うてたわ。
 そんなん、いいに決まってる。大オッケー。常にウェルカムやから俺は!
 帰ったらまた、抱いてもらえるんやって、嬉しくなってきて、俺はうきうき頷いた。ほんでアキちゃんの首筋に、すりすり甘い頬摺りをして、たっぷり名残を惜しんでから、体を離した。
「行こうか、はよ行こう、東急ハンズ。そろそろ開いてるはずや。何買う。水彩? 油か? 日本画の顔料とかも、ちゃんとあるんかなあ? ありったけ買って、さっさと帰ろう」
「朝飯は?」
 まだ照れた顔のまま、アキちゃんは俺に、お預け食ったみたいに訊いた。
「そんなん、車ん中で食えばええねん。俺が、あーん、てしたるから、運転しながら食えばええねん」
「そんなん危ないよ……」
 アキちゃんは、俺を咎める目をして、そう言うた。
 言うたけど、結局そうした。
 海辺の駐車場を出て、また少し山の方へと走る間、俺が優しく、はいアキちゃん、あーんして、みたいに、にこにこミートパイ食わせてやったら、しょうがないので食っていた。
 腹減ってんのかもしれへんけども、アキちゃんかてもう、ほんま言うたら飯なんて、食わんでも保つ体や。霞か雲か、よう分からんような天地あめつちの、有り難い霊力を、いつでも好きなだけ、ありったけ食うことができるんやから、アキちゃんは食事なんかする必要はない。仙人みたいになっている。というか、それそのものや。ただの人やないねん。
 でも、そういう自覚はないし、それにちょっと、楽しかったんやろう。俺と車でいちゃつくのが。俺も楽しかった。ほんで、ビゴの店のミートパイも、思わずデレデレするぐらい美味かったしな。俺もアキちゃんが囓る、その反対の端っこを、がじがじ囓って、じゃれあう二匹の犬のように、おこぼれを頂戴した。アップルパイも美味いけど、ミートパイも美味い。両方食うといたほうがいいよ、皆も。
 まあ、そんな、慌ただしくも甘々の、神戸グルメな朝食を済ませつつ、あっという間に着いた東急ハンズは、いかにも霊験あらたかな、生田神社いくたじんじゃのすぐ南にある。古い大きい神さんや。
 京都も街の真ん中に、ででんと八坂神社やさかじんじゃがあって、生活の中に神が居る。そんな古くさい、いかにも神の国やという京都とは、一線を画したハイカラな神戸の街やけど、その点は一緒やった。街にはうじゃうじゃ神が居る。
 京都と違て、神戸に居る神さんたちは、インターナショナルやった。京都も近頃は、よそから色んなモンが入ってきてるけども、神戸はもっとすごい。もっと昔から、普通に居てる。回教寺院モスク教会チャーチみたいな、よそモンの神の神殿が、いくらでも建っているし、生田神社のような古い神さんも、気前よく自分の縄張りに、よそモンを棲ませてやっていた。さすがは海辺の土地の神さんや。海からやってくるモノを、優しく受け入れてやっている。
 駐車場に車をとめて、でっかい手のマークのロゴ看板のある東急ハンズの店内に、俺とアキちゃんは入った。俺も初めて来たけど、けっこうでかいビルやった。地下二階から地上六階まである、ぐるぐる回るスキップフロア構造で、生活用品から、ペット用品、木工とかアウトドア用品、訳の分からんパーティー用の仮装グッズまで、いろんなもんを置いている。
 もちろん画材もあった。それは五階のCフロア。
 えーと。各階につき、フロアがABCと三つある。全部高さが違うから、それぞれ短い階段で繋がっている。せやから厳密に言うと、このビルは二十四階建て?
 ややこしい。どうでもええねん、それは。とにかく画材フロアは上のほう。なぜか狭っくるしいエレベーターで、俺とアキちゃんは、五階まで一気に上がった。夏休みの時期とはいえ、ほぼ開店と同時の時刻では、店の中にはまださほど客は居らんかった。
 初めて来た店の品揃えの良い棚を、俺はアキちゃんと仲良く手を繋いで初めは見たが、買い物するとなったら、アキちゃんは鬼や。バイ・ナウの鬼。俺のこと、あんなに好きやって言うたばっかりやったくせに、荷物持ちの下僕かなんかと思うてる。自分でもショッピング・バスケット持つけども、一個じゃ足らんから、さも当然のごとく俺にも持たせる。
 あのな。アキちゃん。忘れてくれてええけどもや、俺は神やで。めっちゃ偉いんやで。絵の具とか紙とか入ってる、東急ハンズって書いてある緑色の買い物カゴなんか、持たされてついていくような、そんなモンとほんまはちゃうんやで。アキちゃんのこと、愛してるから、持ってやってんのやで。そこんとこ、海よりも深く理解しといてくれる?
 そんなブチブチ思うてる俺をよそに、アキちゃんは、頭の中の買い物リストと相談するのに忙しかった。キャンソン・ミ・タントに水彩絵の具、アクリル絵の具に、コンテにパステル、絵筆もいっぱい買わなあかんし、筆洗のバケツもいるやろ、絵の具を混ぜるパレットや、素描用のクロッキー帳も買う。何冊買うねんていうぐらい買う。あとは鉛筆買わなあかんなあ、って、アキちゃんはそれがどこに置いてあるのか、探すような目で、きょろきょろ棚を眺めてた。
「フィキサチーフも買わなあかん。何本くらい要るかなあ」
 アキちゃんは相談でなく、独り言みたいにそれを言うてた。
 フィキサチーフというのは、鉛筆とかパステルみたいに、描いたあとに擦《こす》ると消えたり汚れたりしてまうような画材で描いた絵を、紙に定着させるためのスプレーやねん。塗料やからな、超臭い。あれをヴィラ北野の新婚さん用スイートルームでしこたま使ったりしたら、藤堂さんに殺されへんか、俺はちょっと心配や。
「何枚描くつもりやねん、アキちゃん」
「わからへん、描けるだけ」
「ずっと絵描いとくつもりか。俺と仲良うせえへんの」
「するけど、絵も描く」
 棚を見ながらアキちゃんは、上の空で答えていた。
「するけど、って、いつすんの。そんな暇あんの、こんだけ描くんやったら」
 どっさり持たされた紙を恨んで見つめ、俺はぼやいた。とうとうやるか、描きながらセックスすんのか。やるなあジュニア。ありえへん。どうせ絵ばっかり描いてて、俺がアキちゃん仲良うしようなって懐いていっても、後で後でって言われんのや。
「お前の分も入ってんねん。お前も描くやろ。大司教と約束したやん」
 ほんまか、みたいな、律儀なことを、アキちゃんは言うてた。大司教と約束した聖トミ子光臨イラストなんてな、そんなもん、どうでもええやんか。生きるか死ぬかいうときに、ブスの絵なんか描いてられっか。
 だいたい顔んとこ、どないすんねん。ぼかすの。光らすの。それともヴァチカンにウケそうな、美人に描いといたるんか。なんで俺がトミ子にそこまでしてやらなあかんねん。まあ、言うても命の恩人やけどな、あいつは。
 可愛く描いといてやればええのかなあ。でもそんな。俺、なんか恥ずかしいわ。アキちゃんが描けよ。亜里砂でええやん。どうせあいつ、アキちゃんには何があろうと顔出しせえへん気なんや。亜里砂の顔のまま思い出に残しといてやったらええやんか。あと、ヴァチカンの記録にも、それで残しといてやったらええわ。
 どんな顔やったっけ、姫カット、と、俺は大学の作業棟で、初めてトミ子と鉢合わせた時のことをぼんやり思い出していた。
 思えば、いろいろあった。あれから。えらい遠くまで来た。
 俺も去年の今頃は、まだまだ悪魔《サタン》で、まさか翌年こんな事になってるとは、想像もしてへんかった。ほんまに未来というのは、その時になってみるまで、わからんもんや。
 俺は自分が幸せになるやなんて、そんなこと想像したこともなかった。そうなりたいと思ってたけど、なれるわけないとも諦めていた。
 アキちゃんと出会うまで、俺もずっと寂しかったわ。どれだけ下僕を侍らせようと、結局、俺はひとりぼっちやったし、俺と生きていってくれる奴は一人もおらへんかった。
 でも今は、アキちゃんが居るしな。アキちゃんと、過ごした冬も、アキちゃんと、過ごした春も、アキちゃんと、過ごした夏も、いろいろあったけど、振り返って見れば俺は幸せやったわ。
 でもまだ秋は、アキちゃんと一緒に過ごしてないな。出会ってからまだ、一年経ってへん。次のクリスマス・イブが来たら、それでちょうど一周年。なんて長くて、ドタバタした一年やったんやろ。
 とうとう一年経ったなあって、次のクリスマスには、アキちゃんとのんびりケーキ食いたい。家族で、クリスマスを祝いたい。
 俺はもちろん、ヤハウェは嫌いや。その息子やていう、イエスとかいうおっさんの誕生日なんて、どうでもええ日や。せやけど昔から、家族で楽しく特別な日を過ごす連中を横目に眺め、俺はたぶん、羨ましかった。俺にも家族があったらええのに。ただいまって帰れる場所が、どこかにあったらええのになあって、いつも羨ましかったんやで。
 俺はとうとう、それを手に入れた。アキちゃんが居るところが、俺の家。甘く優しい愛の巣で、アキちゃんと一緒に居ると、俺はすごく安らぐ。優しい気持ちになれる。
 そんな相手がやっと見つかったのに、それが次のクリスマスまで続かへんなんて、どういう事やねん。ありえへん。無茶苦茶すぎるわ。そんな未来、ボツやから。ハッピーエンド以外、俺は受け付けへんからな。
「鉛筆どこやろ。反対側やったんかなあ」
 アキちゃんは、うろうろ探すのを諦めて、店員さんにでも訊こうかと、緑のエプロンをしたスタッフの姿を眺めていた。
「トンボでしょ、先輩」
 突然、背後から声をかけられて、俺とアキちゃんはその場に凍り付いていた。たぶん、俺とアキちゃんは、それぞれ違う理由でやけど。
 間違えようもなく、聞き覚えのある、まだちょっと可愛いような声やった。愛想ないけど、どことなく人懐こいような。はじめは警戒してるけど、こっちが来ていいと優しく許せば、嬉しそうにじゃれついて来そうな、ワン公みたいな声やねんで。
 勝呂瑞希や。戻って来たんや。
 振り向かれへんアキちゃんの背を、目の前に見つめながら、俺はゆっくり首を巡らした。
 そこにはやっぱり、見知った顔が立っていた。鉛筆の箱持って。
 気が利くなあ。お前はほんまに、いつも目ざといわ。
 俺を見つめる犬の白い面《つら》は、うっすら挑むような淡い笑みやった。
 とても三万年もトシ食ったようには見えへん。相変わらず、見た目は俺よかちょい若い。癖のある茶髪の髪が柔らかそうで可愛い。まだまだ十代、どことなく幼いような、少年のムードやし、こいつはきっと、このまま成長止まってんのやろ。
 この姿が一番ええわって、思ってんのや。アキちゃんが、ぐっと来る、守ってやらなあかんみたいな、まだまだ固まってへん骨の気配のする関節をした、ひょろっと華奢みたいにも見える腕を、なんの飾り気もない真っ白いTシャツの半袖から出して、ボトムはブラックジーンズで、足元には黒いスニーカーを履いていた。
 なんや随分、さっぱりしたなあ。まるでイイ子みたいやんか。それとも、娑婆《しゃば》に出たての、これでも着とけって与えられた服を、しゃあないから、とりあえず着てますっていう奴みたい。
「違いましたっけ。トンボのMONO100の6Bやろう。先輩いつもそれで絵描いてましたよね」
 黒と見まごう深い濃紺の鉛筆に、白い塗料の刻印で、蜻蛉《とんぼ》のマークが入ってる。
 別にこれは、おかん特製の秋津家グッズやないで。せやけどアキちゃんが小学校はいる時、おかんが蜻蛉《とんぼ》の絵がついてるしと言って、このトンボ鉛筆にアキちゃんの名前を金文字で刻印させて、学校に持たせてやってたんやって。
 せやからアキちゃんにとって鉛筆いうたら、この、TOMBOというメーカーのやつしかありえへんらしい。出町の家にある鉛筆も、全部これやで。名前はさすがにもう、入ってへんけどな。
「三ダースくらいで、足りますか?」
 勝呂瑞希は素っ気なく、でも、褒めて欲しそうな声で訊いてきた。もちろん俺にやのうて、アキちゃんにやで。
 アキちゃんはその声につられ、やっとで振り向いたようやった。
「……戻ってきたんか」
 じっと見つめて訊く、アキちゃんの声は暗かった。
「お邪魔でしたか」
 それでももう、食らいついたら離さへん、強い意志を秘めた目で、勝呂はアキちゃんをじっと見つめ返していた。澄んだ目やった。まっすぐで、フラフラせえへん。こいつは一途で、ちょっと怖いくらいや。いつ見ても、いっつもそうやった。
「なんで戻ってきたんや……」
 戻ってきたら、お前をなまずに食わせる羽目になる。アキちゃんはそれを思って、つらかったんやろう。苦い顔をしていた。
 それが犬には、お前は邪魔やという意味に、見えたらしい。つまりこいつは、実はなんも知らんかった。これから何が起きるのか。
 天使として、ずっと先まで知っているような、不吉なお告げを運んで来た割に、勝呂はただのパシリやったんや。ヤハウェのしもべしもべの、一番下っ端のメッセンジャー・ボーイやった。手紙持って走ってきただけの犬で、自分が伝えた予言の意味までは、知らされていない。
「なんでって……そういう約束やったでしょう。戻ってきたら俺を、先輩のところで飼うてくれるって、そう言うてたやんか。面倒見たるって、あの青い人も言うてた。あの人、どこいったんや、先輩。蛇が食うてもうたんか?」
 勝呂は皮肉な笑みで言い、俺でなくアキちゃんだけを、まっすぐ見ていた。
 黙り込んでるアキちゃんの代わりに、俺が優しく言うてやった。
「水煙やったら、ホテルに居るで。俺とアキちゃんは、画材の買い出しに来ただけ。これと、後、定着液フィキサチーフ買うたら戻るわ。お前も一緒に来るか?」
 こいつを連れて帰ろう、ヴィラ北野に。一度は殺し合った仲やけど、今じゃ可愛い弟分やろ。それにお前が戻ってきてくれて、俺は嬉しい。これで信太も秋尾も死なんで済むわ。アキちゃんも秋津の当主として、三都の巫覡《ふげき》の宗主としての、面目を果たせる。
 死んでくれ、アキちゃんのために。できるやろ、それくらい。心底惚れてんのやったら。もういっぺん死んでやるくらい、訳もないやろ。
定着液フィキサチーフか。それは気が利かへんかった。さっきあったから、取ってくるわ。一本でええんやろ」
 勝呂瑞希は向こうの棚に戻るそぶりで、俺に訊ねた。
「いや、何や知らんけど、アホほど絵描くらしい。多めに取ってきてくれ」
 俺がそう命令すると、犬は意外なまでに素直に言うことを聞いた。
 そのままふらっと棚の向こうに歩いていって、言われた通りにお遣いを、してくるつもりらしかった。
「亨……」
 アキちゃんが呆然と、俺の背中に呼びかけていた。
「俺には、無理や。やっぱり、どう考えても無理やと思う。あいつに何て言って、説明するんや。生け贄の事を」
 犬に聞かせたら鬼やと思うんやろう、俺にそう言うアキちゃんは、囁くような小声やった。それに俺は、聞くんやったら聞けばええよと、普通の声で答えてやった。
「俺のために死んでくれって言えばええねん。あいつがアキちゃんのしきなんやったら、きっと喜んで死ぬわ」
 俺は逃げ腰のアキちゃんに、退路は与えへんかった。俺が背中を押さなければ、アキちゃんには到底、そんな惨いことはやってのけられへん。自分が死ぬほうがマシやって思うやろう。可哀想な犬が、やっと戻ってきたのに、あと三日で死ねなんて、とても言われへん。
「そんなこと……」
「でけへんか? ほんなら俺が代わりに死んどこうか」
 拒む口調で呟くアキちゃんのほうを見ないまま、俺は試して言うた。
 俺か勝呂か、どっちか選べ、アキちゃん。前には俺のほうを選んだ、その苦しい選択を、もう一度やればええんや。そして今回も、アキちゃんは俺を選ぶ。自惚れやなく、俺にはそういう実感があった。
 俺がおらんと、生きていかれへんて、俺にそう囁いたアキちゃんの言葉に、嘘はなかった。本気で言うてた。俺はそれに、賭けるしかない。
「可哀想やと、思わへんのか、お前は」
 そうなんやないかと、恐れてるような声で、アキちゃんは訊いていた。俺が勝呂のこと、死ねばええわと思ってるんやって、アキちゃんは怖いんか?
「思うよ。可哀想やなあ、あの犬も。せやけど信太や秋尾が死ぬ方が、もっと可哀想やわ、俺にとっては。水煙も俺と同じ意見とちゃうか。そのために、あいつがしきになるよう、引き留めて諭したんやろ。怖い奴やで水煙は。アキちゃんになんの相談もせんと、勝手にそんなことしてさ。それで助かったけど、でも、どっちがご主人様か、わからへんよな」
「あいつがご主人様なんやろう、俺の」
 アキちゃんは暗く、静かな声で、それを認めた。どうも、そういう事らしい。俺はアキちゃんの、ご主人様で下僕。でもそんな関係は何も、俺だけやなかったんや。水煙も、そうやったんや。不実やなあ、アキちゃん。油断も隙もない。因業な血筋や。
 そこへ戻ってきた犬は、言われた通りのスプレー缶を三つ抱えてた。
 よしよし瑞希ちゃん、ようやったと、褒めてやらなあかんとこやった。犬やねんから。犬が命令きくのは、褒めて欲しいからや。エサが欲しいから。肉でもええけど、ただ褒めるだけでもいい。それが犬という生き物の、可愛くて悲しいとこらしい。
 ありがとうと、アキちゃんは気まずく言うた。犬はそれだけで、満足したらしかった。
「会計行きますか、先輩。でも俺、金は持ってへんで。気がついたらここに居ったんです。どうも天界から追放されたらしい」
「退職金も出さへんのか。ケチな神やなあ」
 俺が真面目に批判すると、犬はちょっと苦笑した。
「うん。まあ。そうやけど……世話んなったし、まあ、ええわ。でなきゃ俺はここに居らへんのやから」
 ちらりと不安そうな上目遣いで、犬はアキちゃんを見た。
「先輩。ついていってええんですよね。そういう約束やろ?」
 それともまさか、付いてくるなって、追い払うつもりなんやろかって、犬は哀れな目をした。アキちゃんはそれから、目を逸らし、歩き始める背を向けながら言った。
「よう戻ったな、瑞希。無事でよかったわ……」
 それがアキちゃんがこの時、犬に言うてやれる、ギリギリいっぱいやったやろう。瑞希ちゃんはそれを聞き、ほんまに嬉しそうに、うつむいて照れたような笑いを堪えていた。俺がおらへんかったら、実はもっと可愛く笑ってたんかもしれへん。すまんことやなあ、お邪魔な蛇で。
 アキちゃんは黙々と会計を済まし、もちろん現金で払った。けっこうな額やったけど、アキちゃんカードは信用してへんから、暗くボケッとしたまま大枚入った財布を見せて、店員の女の子の度肝を抜いてた。
 そんなアキちゃんの傍に立ち、トンボの鉛筆削るの、犬ににも手伝わしてやろうかなと、俺はちょっと思った。もしかしたら、それは、こいつには嬉しい仕事かもしれへん。アキちゃんが絵を描くときに使う鉛筆を、いつも使いやすい鋭さに、削っておいてやるのは。
 絵に惚れたんやと言うてた。俺がアキちゃんと出会うよりも、ずっと前に。
 せやけど犬は俺より前は歩かへんかった。俺がアキちゃんと並んで歩いても、文句も言わず、少し後をついてきた。ほんまの犬みたいに。
 それは瑞希ちゃんが、俺に敗北したことを認めているということやった。犬の習性みたいなもんか。自分より序列が上やと認めた俺に、とりあえずは逆らわへん。
 でも、分かる。俺かてアキちゃんに惚れてる身やから。
 きっと犬は、ほんまやったらアキちゃんに、ぎゅうっと抱きつきたいくらいやったやろ。やっと戻れて嬉しいって、アキちゃんに飛びつきたかった。
 せやけど相変わらず、我慢強い犬や。その健気な我慢に免じて、俺はアキちゃんと手を繋ぐのは自重した。荷物も持ってたし、それにワンワンは残り少ない命やった。邪魔なこいつが、いなくなってから、アキちゃんとゆっくり心ゆくまでいちゃつけばいい。それまでの、ほんの三日くらいは、敢えてこいつをなぶるのはよそう。俺ももう、悪魔サタンやないんや。
 そう思った俺は、ちょっと甘かったかな。またもや犬を舐めていた。しぶとい奴や、諦めてへん。水煙もそうやろうけど、アキちゃん恋しい病は不治の病や。隙あらば食おうと、いつも付け狙っている。俺はそれをようく、理解しとかなあかん。
 俺らは車に戻り、来る時にはふたりっきりのドライブやった、アキちゃんの黒ベンツに、帰りには大量の画材と、新しく増えたチーム秋津の新メンバーを乗せて帰ることになった。
 俺は助手席、犬は後部座席うしろ。当たり前やろ。
 せやけど俺はふと、疑問に思った。今夜この犬は、どこで寝るんやろうか、って。
 それは、いい質問やった。重要な問題や。俺はこの後、その事で、死ぬような目に遭う羽目になる。怖いわあ、瑞希ちゃん。ほんまに怖い。
 皆も、可愛い犬には気つけや。可愛いなあと思って舐めてたら、突然、がぶっと手を噛まれるで。それが案外致命傷なんてこともある。せやから信用したらあかん。特に、堕天使なってるような犬には、要注意。
 詳しい話はまた今度、俺のツレから聞いてくれ。アキちゃん、俺は信じてる。お前が犬より、蛇が好きやということを。今、言えることは、それだけや。


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