SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(21)

 歌が聞こえた。
 ちょうど俺が、ガラス戸越しの中庭に、朧月おぼろづきのかかるヴィラ北野のロビーを、ふらふら通りかかった時やった。
 ひとりで歩いてた。亨も水煙も、勝呂瑞希も、部屋に置いてきたから。
 そういや、おぼろと呼んでたと、そう言うてたなあと、俺はぼんやり思い出していた。その歌声を聞きながら、綺麗な声やと思えて、うっとり酔うような、その声の醸し出す、甘く優しい罠の中に、自分から飛び込んで食われたいような、そんな気分になりながら。
 実際、その声には、ちょっとばかし呪力めいたもんが、あったんかもしれへん。美しい声や。声だけ聞いてると、まるで湊川怜司は優しい神のようにも思える。大人びて静かで、気品があって、それでいて優しい、耳心地のええ声やねん。
 それはまるで、うちのおかんの声みたい。声の質やら話口調は、別に全然似てへんわ。そらそうや、おかんは女で、湊川は男やし、顔かて全然似ても似つかん。おかんは可愛いような顔やけど、湊川はキツかったし、怒っていると目付きも悪い。じろっと見るような睨む目で、その時も俺を見た。
 ロビーに出来上がった、床より一段高いだけの収録スタジオで、座り心地の良さそうな深い革張りのチェアに沈み込み、疲れたわという顔をして、湊川は靴履いたままの両脚を組み、でかい机くらいある機材の上に、お行儀悪く足を乗せていた。
 それでも何か、品良く見える奴や。たぶん長くて真っ直ぐな足が、綺麗やからやろ。亨も行儀は最悪な面があるけども、それをやってる見た目が綺麗なもんやから、大して下品に見えへんし、むしろ、いいポーズやなあみたいな所があるしな。それと同じやろ。
 それに、一仕事終わった後の休憩か、湊川はホテルが出してやったらしい、シンプルやけど、いかにも趣味のいいガラスのタンブラーに、濃い琥珀色の酒を飲んでいた。たぶん、グラスはバカラやろう。中西さんの趣味やんか。それで品良く、しかし行儀は悪く、やけ酒めいたスコッチを食らい、暢気みたいに歌歌うてる湊川は、どっちかいうたら隙だらけで、どっちかいうたら可愛いみたいに見えた。
 収録マイクに向けて遠慮無く歌うてる声は、どことなく優しく人を撫でるようや。それが何とはなしに、おかんに似てる。ひたりと心に寄り添うような美声やねん。
 そんなことを思うてる、俺は完全に素面やった。せやけど頭クラクラやってん。むしろ、べろんべろんになるまで酔いたい気持ちでいっぱいやった。せやけど一人で飲みたない。なのに一緒に飲むような相手が、そん時はおらへんかったんや。
 現れた俺を見て、湊川はじろりと睨み、そして、歌うのを止めた。せっかく綺麗に響いてた声が途絶え、ロビーで聞いていたらしい幾つかの耳が、がっかりしたような気配をさせた。俺のせいかと思え、俺は悲しく湊川の青白いような顔を見下ろした。
「なんやねん、先生。俺にまだ何か用ですか」
 酔ってるせいやないやろう。俺が嫌いやからや。湊川は怖い声やった。なんでこいつまで俺に、怖い顔するんやろう。俺がお前に何かしたか。まだ何もしてへんやないか。これから何か、するかもしれへんけども、それはしゃあない。血筋の定めやねん。
 俺はそういう覚悟を決めて、一息吸い込み、湊川の質問に答えた。
「湊川、今夜暇やったら、俺と寝えへんか」
 灰皿にあった吸いかけの煙草をとろうとした手つきのまま、湊川は、はぁ? みたいな顔をして、非難がましく呆気にとられて、俺を見た。
「何、言ってんの? 先生、酔ってんの?」
「いいや、酔うてへん。でも、酔っててかまへんのやったら、二、三杯飲んでからでもええか。素面やったら無理やと思うねん……」
 つまり、そういう気にならへん。いろいろ考えてもうて。俺にも一応、貞操観念というのはあるんやで。確かにちょっと、浮気者かもしれへんけども、それは俺の意志とは違う。本来俺は、お堅いほうやねん。あっちこっちに手出して、あれもええなあ、こっちもええなあ、みたいな、そんな遊び人とは違うんや。誰か一人、こいつと決めた相手と、一途に愛し合いたい。そういう主義やねん。
 そのはずや。そして、実際そうや。そうやというのを今夜確かめた。せやからな、もしも俺がこの何やよう分からん男と、一晩限りの関係を持とうというんやったら、意識ないくらい酔うとか、それくらいはせなあかん。理性がぶっとんで前後不覚になるくらい。
「どういう意味?」
 なんとか手に取った煙草を口に持っていき、湊川は気持ち悪そうに俺を見て、綺麗な顔をしかめていた。
 そら、そうやろ。意味わからんやろ。
 でもな、俺は一応、お前を口説いてるんや。言うたとおりの意味やねん。今夜一晩、俺とやらへんか。そして俺の式神になって、死んでくれへんか。あと二日して、なまずが目を醒まし、なんや腹減ってもうたなあ、何か無いかと俺に問うたら、これでも食うとけと差し出す生け贄として、お前が行ってくれへんか。
 俺は死んだらあかんらしい。秋津の当主として、せめて跡取りを残すまで、生きて働かなあかんのやって。水煙が、そう言うてた。それに亨も、俺がおらんと死ぬらしい。だから自分が行くなんてのは、もってのほかで、俺は代々のご先祖様たちが、いつもやってきたように、げきとしてしきを使役して、そいつを犠牲にしてみせなあかん。そんなこと、朝飯前やって思うようでないと、秋津の当主は勤まらんのやって。
 しんどい仕事や。すまんけど、死んでくれって、しきに頼むのは。ほんまに、しんどい。そんな無茶なこと頼むくらいやったら、潔く自分が死ぬほうが、まだしも精神的にはラクに思える。ずるいなあ俺は、悪い男やという自己嫌悪に押しつぶされながら、とぼとぼ生きていくよりは、ずっと。
しきが要るんや。なまずに食われて死んでくれる奴が。お前、それをやってくれって頼まれたら、嫌か?」
 俺はストレートに訊いた。直球勝負やった。
 湊川は一応、それは聞こえたようやったけど、さらに唖然としてた。
 そらそうやろな。俺かて自分に唖然としてたわ。もうな、どうでもええわって気分やったんや。素面やけどな、ある意味、脳みそ沸いてたで。理由は後で話すけど、その話は重いから、先にこっちの話をしよか。俺の気合いが乗ってくるまでの間。
「嫌か、って……普通、嫌やろ。俺は先生のしきやないし、そんな義理はないんやで」
 もっともな事を、湊川は言うてた。俺はそれに、暗く頷いた。
「そうや。せやから、今から俺のしきになってくれへんか」
なまずのエサにするために?」
 アホかと、怒るのを通り越して、俺を哀れむような目で、湊川はじっと見つめてきた。
「そうや……」
 他に何も付け加える話がなくて、俺は素直に頷いた。それを見て、湊川はちょっと、気まずそうに鼻を擦った。
「先生……ほんまに暁彦様の息子?」
 うつむいて、俺から目をそらし、湊川はやむにやまれぬように訊いてきた。
「知らん。そうらしいけどな……何でそんなこと、俺に訊くんや」
「似てへん。暁彦様はもっと、口説くの上手かった。というか、先生、普通以下やで。げきとして、というより、人として?」
 湊川はきっぱりと、そう批判したけども、俺は黙って聞いていた。腹も立たへん。言われた通りのような気がした。思い返してみたところ、俺は人を口説いたことがない。いっぺんもない。
 恋愛相手というのは常に向こうから自動的に来るもんで、俺はそれに、いいよとか、いややとか、思いついた返事をするだけやった。
 自発的に口説いた相手といえば、実は亨が初めてなんやろうけど、それも怪しい。俺はべろんべろんに酔うてたし、何を話したんやら憶えてへん。あいつは俺が口説いたんやと言うてるけども、憶えてへんねん。
 聞けば、俺はあいつに、ひとりにせんといてくれと頼んだだけらしい。それで口説いたことになるんやったら、世の中に恋愛のマニュアルや口説きのテクニックなんてものは存在せえへんやろう。直球だけで試合になるんやったら、カーブやシュートや消える魔球は、必要がない。
 とにかく俺は湊川に、あいつが、ええ? と混乱するようなヘロヘロ球を投げていた。それで落ちたらアホやった。呆れられて当然やった。俺はたぶん、口説くつもりはなかったんや。ただ誰かと、話していたかっただけで。
 だって、もしこいつが俺の口説きに落ちて、俺の式神になったら、俺はこいつを殺すことになる。殺すつもりで声かけた。通り魔殺人みたいなもんやで。そんな悪どいこと、俺にはとてもやないけど、やってのけられへん。もしも万が一、こいつがそれで俺が好きになり、悪い俺に騙されて、健気にも喜んで死のうというんやったら、耐えられへん。その罪の重みで、俺はきっと一生押しつぶされてるままになる。
 おとんは確かに、凄かったんやろなと、俺は初めて素直にそれを実感してた。
 おとんが死ぬ時、俺と同い年やった。せやのに式神を沢山引き連れて、戦争行って、そいつらを全部使い潰したらしい。その両手の指に余る数の式神たちは、どいつもこいつも強いやつらで、みんな、おとんに惚れていた。水煙がそう言うてたやんか。まさに、おとんのハーレムや。
 せやのに、おとんはその誰にも、惚れてへんかった。だって、おかんが好きやったんやから。そういうことやろ。
 そんな、一途に想う相手のある身で、死ぬほど好きやと言うてくれる神々を、よくも手玉にとったもんや。俺と同い年で。
 俺にはできへん。とても無理。相手が可哀想すぎて。申し訳ない気持ちでいっぱいになってもうて、嘘がつけへん。ほんまは俺は亨が好きで、他の奴には、あいつに囁くような気持ちでは、好きやとは言うてやられへん。嘘でも言えと、勝呂瑞希は言うけども、それは不実や。嘘つくなんて。
 せやけど俺のために死のうという奴を前にして、お前が好きというわけやないと、そんなことを平気で言うほうも、いっそ不実や。俺はあいつが嫌いなわけやない。むしろ好きや。すごく好きやけど、でも、死んでもええわという愛情に、応えてやれるほどの気持ちなんか、それは。
 俺は全然、自信がない。自分がそんなに沢山、愛を持ってるか。全く自信がないねん。亨を食わしていくだけで、実は精一杯で、おとんがやってたというように、沢山の相手を前にして、お前も愛しい、お前も好きやと言うてやるなんて、そんな甲斐性はない。そこまで鬼畜やないねん。
 せやけど、それをやるのが秋津の当主の甲斐性なんやと言われたら、俺はいったい、どないしたらええねん。悪い男になれっていうのか。いったいどういう家やねん、うちは。
 おとんは一体、どんな男やったんや。
 俺はたぶん、それを訊きたくて、こいつを探していた。湊川怜司。元は俺のおとんの式神で、水煙と反りが合わず、秋津の本家を出されたという、生きてた頃のおとんを知ってる、水煙ではない、もうひとりの神や。
「なあ……先生。どういう風の吹き回しや。前に誘った時は、俺は嫌やと言うてたやんか。そんな顔、せんといてくれませんか。俺の夢が壊れるわ」
 苦笑して言い、湊川は途中まで吸った煙草を灰皿で揉み消した。
 なんの夢やろうと、俺はぼんやり考えた。そう思い巡らす頭の中に、その答えはもうあったんやけど、何となくそれを、認めたくなかったんや。
 湊川がさっきまで、歌っていた歌を俺は知っている。おかんが時々、好きで歌っていた歌や。月がとっても青いから、遠回りして帰ろう、っていう歌詞で、古い古い昭和の頃に流行った歌謡曲らしい。
 昔は歌なんてバリエーションがなくて、一曲流行れば、皆がそれを好んで歌っていた。ラジオもそれを流す。今みたいに、皆が違う曲聴いてるような時代やなかったらしい。時代の歌というのが強くあって、同じ時代を生きた奴なら、みんなその歌を知っている。
 特に湊川はずっとラジオの妖怪やったんやから、その電波の運ぶ時々の流行歌を、知らんはずはなかった。実際こいつは無数の歌を知っている。歌詞もフルコーラス全部きっちり知っている。
 そんな、いくらでもあるレパートリーの中から、わざわざ古い昭和の歌歌う。それには理由があるような気がして、俺は落ち込んだ。
 一体、どういう時に人は歌を歌うんやろう。俺はあんまりやった記憶ないけど、一般的には、楽しい気分の時とか、逆にクサクサした気分の時とか、自分を励ましたい時とか、思い出に浸りたいときに、歌うんやないか。
 他にもあるかもしれへんけど、とにかくその歌、『月がとっても青いから』という曲は、なんかこう、湊川にとっては心の琴線に触れるような歌やったんやろう。奴にも心があるとしてやけど。実際あるんやけど。見かけほど冷たい奴でも、薄情でも、悪魔的でもない。
 だって最初に船で見た時も、どうでもええ何の縁もない人間たちを、こいつは助けたやんか。わざわざ電話して、助けを呼びもした。それは自分では助けてやられへんかったからや。湊川には、戦う能力はないねん。こいつの武器はただ、情報に通じているということだけやねん。それが大きな力か、それとも無力かは、時代ごと、あるいは、使う巫覡ふげきの考え方しだいなんやろうけどな。
 おとんは、こいつは要らんと思ったらしい。水煙と、仲良うでけへんし、戦う力もないし、もう要らん、出ていけと、湊川を放り出した。それはなぜか。単に気が合わんかったからやろうと、俺は初めは思ってたけど、どうも、そうではなかったらしい。
 俺はその夜、ヴィラ北野のロビーで何となく、それを感じ取ってもうた。歌う妖怪の、朧月おぼろづきに浮かぶ顔を見て、それが懐かしそうに、どことなく切なそうに歌うのを見て、俺はピンと来てもうた。鈍いくせに、そういう要らんことはピンと来たりする。
 その『月がとっても青いから』という歌に、歌詞が三番まであったなんてことも、俺はその時初めて知った。おかんは一番のエンドレスループの人やったもんで、一番しかないんやと思ってたんや。有名なのも一番だけやしな。大体そうやんか、歌なんて。
 でも湊川怜司は、ちゃんと三番まで全部歌詞を知っていた。俺はちょうど、奴がそのへんを歌っている時に、ロビーにやってきたんや。だから聞こえた。甘い美声が歌う、不思議な哀愁のあるその歌が。

 月もあんなにうるむから 遠廻りして帰ろう
 もう今日かぎり逢えぬとも 想い出は捨てずに
 君と誓った並木みち 二人っきりで サ帰ろう
"月がとっても青いから"(1955年/歌:菅原都々子/作詞:清水みのる/作曲:陸奥明)より引用

 うちのおとんは、もう死んでいる。けど、消えてなくなった訳やない。相変わらず居る。会おうと思えば会えたやろ。せやのに、おとんはこいつは放っておいた。どうせ、その程度の思い入れなんやと、そう思うことはできるけど。世の中もうちょっと複雑や。
 湊川はだるそうに椅子から立って、チカチカ光る小さなライトが幾つも灯った操作盤の、電源らしきものを、ぷちぷち切った。
「しゃあないなあ、もう……とりあえず飲むか。俺の部屋でいいですか」
 難しい顔をして、湊川は自分が許せんというふうに俺に訊いた。ぽかんとして立っている俺を眺め、湊川は月明かりの照らす白い顔で、ふうっと重いため息ついてた。
「なあ。先生。信太の代打やろ。話くらい聞くわ。それに俺は、その顔には弱いんや」
 半分ほど残ってたグラスから、残りを一気にあおって、湊川はグラスをそこに残していくようやった。眠そうに目頭を押さえ、そのまま壇上から降りてきた。
「先生はほんまに、暁彦様にそっくりやなあ。まるで本人みたい。それで絵まで描くなんて、ようできた息子やで。クローン人間や」
 苦笑して言い、湊川は俺を差し招いた。
 まさか手を握るわけでなし。肩を抱くのも変やし。一応はモノにしようという意気で来たはずの相手にとっとと先を歩かれて、俺はやむなくそれに付いていくだけやった。
 夜の静かな廊下には、大きな窓から差し込んでくる月明かりが、煌々こうこうと明るかった。遅れてとぼとぼついてくる俺を、湊川はちらりと不思議そうに振り返って見て、頭の先から爪先まで、じいっと嘗めるように眺めた。
「先生、なんで裸足はだしなんや」
 言われて俺は、初めてそれに気がついた。
 超絶かっこ悪い。俺は部屋からロビーまで、ずっと裸足で歩いて来ていたらしい。ヴィラ北野の廊下やロビーには、だいたい綺麗な絨毯が敷いてあるし、それで足が痛いということはなかった。でも、気がついてもよさそうなもんやった。確かに部屋では裸足でうろうろしてるけど、靴を履くのも忘れてもうて、そのままヨロヨロ出てきたなんて、俺はどんだけ参ってるんや。まるで必死で逃げてきたみたいやないか。
 まあ、なんというか。実際そうやったんや。俺は必死で逃げてきた。何から、って。それは、亨からや。水煙から。勝呂瑞希から。あるいは自分を縛る、秋津の当主やという宿命からや。
 俺は、嫌やった。俺を好きやという神が、三人も居る。正式には三柱さんはしらと数えるらしいけど。神さんて、そういう単位らしいで。柱やねん。なんで柱なんやろ。まあでも見た目には三人や。
 そいつらが揃いも揃って、俺を心底愛してるという目で見てる。俺はそれを、三人とも好き。もちろん亨が一番やけど、でもそれとは別の次元で、俺は水煙も愛してる。たぶん勝呂もや。
 いや、もう、あいつのことを、勝呂と呼ぶのは止そう。あれは俺の式神で、俺はあいつを瑞希みずきと呼んでやるべきや。俺のものにしてくれって、あいつはそういう目で見てる。俺はせめて、その目には答えてやらんとあかん。
 でもな、つらいねん。俺には亨が居るんやんか。俺は亨の見ている前では、瑞希お前は可愛いなあって、言うてやられへん。亨もつらいやろうし、ほんま言うたら俺もつらいねん。俺は亨を傷つけている。そう思うと、俺も痛い。ものすごく、胸が痛いんや。
「逃げてきてん、部屋から。怖くなって。それで靴はくの忘れてもうた」
 俺は立ち止まって待っている、窓からの月明かりの中に立つ男に、もう格好に構う気もなくて、素直に本当のことを話した。
 そうして、どことなく呆然としたまま黙り込む俺を、湊川は淡くしかめたような顔をして、じいっと見つめていた。
「そうなん。怖いって、何が。水煙か。そうなんやろ、先生」
 淡い苦笑を、表情に混じらせて、湊川は意地悪そうに訊いてきた。
 水煙か。そうなんやろか。俺は怖い、三人が三人とも。
「しょうがない。血筋の定めや、アキちゃん」
 いかにも京都弁の、まるで水煙みたいな口調を作り、湊川は俺に言った。薄い笑いを浮かべたまま、どこかちょっと、俺を哀れむように。
 水煙がそう言うのを、湊川はほんまに聞いたことがあるんやないかと思った。一瞬俺は、目の前にいるのが湊川怜司という別の神やのうて、水煙が化けてる別の姿なんやないかと思え、背筋がぞっとしていた。
 逃れられへん、俺は。どこまで逃げても秋津の跡取りや。水煙は俺を、逃がさへんやろ。たった一人残った、秋津の直系の血を引く子やし、それはあいつにとって、残りカスというよりは、さんざん煮詰めた挙げ句にできた、結晶のようなもんに見えるらしい。
 あいつは俺を、高く買っている。俺をもう自分にとって最後のげきと、思い定めているようや。俺が死んだら自分も死ぬと、思っているような目や。亨が俺をそうかき口説いた時と同じ目をして、いつも俺を見ている。
 俺はそれにずっと、気がつかへんかった。水煙は剣やったし、人型になった時でも異形の神やった。つるりと黒いガラス玉みたいな目で、そこには感情があるのか無いのか、ぱっと見には分からへん。
 水煙にも心があると、頭では理解していても、目の前にある顔が、不思議な美しい作り物のような異形の無表情でいると、誤解してまう。水煙は大して何も感じていない。俺が好きやは、ちょっとだけ。亨が俺を、切なそうに見る時みたいに、苦しい心の震えのようなモンは、水煙にはないんや。だって水煙は神なんやし、人間みたいな心はないやろうって、俺は自分に都合よく、そう誤解してきた。
 でもな、もう、そういう逃げ場はないわ。後で詳しく話すけど、俺は水煙の姿を、もっと人間みたいに作り替えたんや。そんなん、したらあかんかった。水煙は、俺が描いてやった絵とそっくり同じ、人間みたいな顔をして、アキちゃんと、俺のことを呼んだ。そして、俺のことが好きでたまらん。そんな俺が、自分ではない他の誰かと抱き合うているのに、いつも心底傷ついているという、そんなこらえる顔をした。
 そんな顔と向き合うて、俺は気が狂いそうやと思った。水煙、俺はお前が好きや。お前を愛してる。お前と抱き合いたい。でもそれは、亨の次でええか、俺はあいつが一番好きやねん。今日も明日も抱き合って寝たい。せやからお前の順番は、いったいいつ巡ってくるんやろ。そう思う自分の心が、人の心と思われへん。鬼や。鬼そのもの。
 でも俺は、一人しかおらへんねん。三人やない。三つに分けて、亨と水煙と瑞希と、それぞれに一個ずつやるわけにいかへん。ほな、しゃあないから三人といっぺんに寝ようかって、そんなこと、俺にはとてもやないけど耐えられへんのや。
 弱い子やって?
 違うやん。俺は誠実やねん。マトモなんや。ここ笑うとこちゃうで。真面目に言うてんねん。この時も俺はほんまに、死にそうやったんやから。ほんまに思い詰めてた。
 だって夜になって、部屋に三人おるんや。瑞希は俺と寝たいと言うた。ただ寝るんやないで。抱いてくれっていう話やで。亨はそれに、耐え難いという目をした。
「行こうか、先生。そういう時、暁彦様も俺んとこに来た。家から逃げたい時。有り難い水煙様から、逃げ隠れしたくなった時にはな」
 にやりとして戻り、湊川はだらりと垂れていた俺の手を、やんわり握ってきた。温かい手やった。でもどこか冷たいようでもある。異界の神たちの、燃えるような凍るような肌の感触やった。それはきっと、俺の心の顕れやろう。触れられて、燃え上がるような気がするし、それと同時に、凍り付くほど恐ろしい。
 おそれを感じる。俺は人ではないものと、愛し合おうとしてる。それは人の身で踏み込むには、険しい道や。一目見て、ぼうっとするような美しい顔を、いつも見慣れたもののように相手にしていくのは、普通やない。
 でもそれに、耐えなあかん。魅入られないように。使うのは俺のほう。自分がご主人様やって、そんな意識をしっかり保ってなあかん。魅入られたらつらい。あれも愛しい、これも心底死ぬほど愛しいやと、命がいくつあっても足りんようになる。
「行こう」
 ちょっと可愛いような囁く声で誘い、湊川は俺の手を引いた。それに連れられ、俺はおとなしく付いていった。
 振り返りもせず、後ろ手に俺の手を引っ張って、湊川はすたすたと、華麗なストロークで廊下を行った。まるでその絵は芸術のように、ただ歩いてるだけやのに、痺れるような美しさやった。まさに理想の身のこなし。すらりと綺麗な体やし、手足も長くて細い。かといって女みたいに華奢なわけではない。それこそ古代の神の彫像のようや。男なんやけど、それでも何か、抱きつきたいみたいな、完璧に均整のとれた体やった。
 おとんもこれに、抱きついたんか。抱きつくほど好きやったんか。俺はぼんやりそれを思った。抱きつきたいような綺麗な背中を、じっと見て歩かされながら。
 湊川の部屋は、一階の奥やった。扉を開くと、俺がもらった部屋みたいに、超豪華で広々としたインペリアル・スイートとはいかなかったけども、狭いという感じはしない、こぢんまりと落ち着いた部屋で、そこにもダブルベッドがあった。浴室とソファセット。気の張らない、ちょっと休憩みたいなノリで泊まるには、理想的な広さと狭さ。ほどほどの豪華さ。これも中西さんの計算なんやろうけど、あの人ほんまに趣味がええんやわ。
 俺はほっと、くつろいだ息をついた。ここで眠りたいって、そんな気がして。
「先生、なに飲む。俺はスコッチ派やけど、なんでもあるよ。酒が好きやねん。ホテルの人に頼んで、ずらっと酒瓶揃えてもらった」
 面白そうにそう話し、指さす白い手の先には、窓辺のカウンターに並んだ酒の瓶や伏せたグラスが、月明かりにキラキラして見えた。綺麗やなあと、俺はそれにもなぜか、静かに感動していた。まるで、一流のバーみたいやった。小さいけど、そこで飲んだら日々の疲れも悩みも、ぜんぶアルコールに溶ける。
「スコッチ飲む?」
 黙っている憂鬱そうな俺に、湊川は笑って聞いた。それは質問というより、付き合って飲めという命令みたいに聞こえた。
 小さく頷いて、俺は座れと促されるまま、窓辺にあったソファに座った。ちょっとへたり込むみたいで、俺は情けないなと思ったけども、でも、ほっとした。窓から見える中庭の朧月おぼろづきも、今はまあ休めと、優しく許してくれているようで。
 カウンターで無造作に注いだ琥珀色の酒を、湊川は俺に差し出した。それもロビーで見たのと同じ、シンプルなバカラのタンブラーやった。
 にっこり笑うと、湊川の冷たいような美貌も、まるで鋭い月みたいで、優しいように見えた。俺は黙って酒をもらい、それを一口飲んだ。喉が灼けるような、それでも深く熟したまろやかな味がした。スコッチって、普段飲まへんけど、こんな美味い酒やったっけ。
 俺にグラスを渡すと、湊川は手でも洗うんか、浴室のほうに消えた。そこには白い洗面台がある。さっき、細く開いた浴室のある小部屋のドアごしに見えた。
 そこで水を使っている音がして、また戻ってきた時に、湊川は手に何かを持っていた。白い。絞ってあるタオルやった。
「足出し、先生。汚れてるやん」
 こともなげにそう言い、湊川は床についた膝の上に俺の足を取り、拭いてくれた。熱い湯で絞ったタオルで。
 気持ちよかった。ただそれだけの事なんやけど。俺はめちゃくちゃほだされた。
 足は弱いねんていう、亨の性癖が、その時俺はちょっと理解できた。普通、足に触るやつはおらへん。他人の足なんか触らへんやろ。そういうとこに触るのは、特別な関係の相手だけやねん。足マッサージ屋さんでもなければな。
 湊川怜司はもちろん、足マッサージ屋さんではない。ラジオのDJや。それにちょっとお高いような美貌で、つんけんしてるし、他人の足拭いてやるようなキャラやと思ってへんかった。そんな奴が、にこにこ愛想よく俺の足を両方とも、丁寧に拭いてくれるのを眺め、俺はその出来事と感触に、泣きそうやった。
 そんなこと、せんでええやん。お前は俺の何やねん。赤の他人やし、それにお前も一応、神さんなんやろ。ただの人間の小僧の足なんか拭いてやって、嫌やないんか。
「帰り、どうすんの。先生、足のサイズ何センチ? 俺の靴貸してやろか」
 本気で世話焼いてるような口調で、それでも素っ気なく訊いて、湊川はまるで俺の友達みたいやった。そうでなければ深い仲の、何年も付き合うてる相手みたい。
 俺はこいつと、初めてや。ほぼ初対面も同然やった。
 せやのに、月明かりでさえ眩しいみたいに、暗い部屋の中で俺を見上げる湊川の目は、まるで懐かしい相手を見ているようやった。
 信太がこいつのことを、暁彦様に惚れている、自分には惚れてないと言うて、ある一線を越えて深い仲にはならへんかったというのも、納得がいくと、俺はその時思った。なんか腹立つ。妬けるというか。
 それは俺がいつも、心の中で自分のおとんと張り合っていて、俺のことをジュニアと呼ぶ水煙にイライラ来ていたように、湊川が俺を見る目にも、まるでおとんの身代わりみたいで嫌やって、ひがんでもうてたからかもしれへん。
 俺を見てくれ。誰かの代用やのうて。二番や代打では嫌やねん。それが人の心の、本音のところやろ。人ではない虎でもそうやったんや。神でもそうや。湊川は信太のことが、本当に好きやったんかもしれへんけど、でもまだ心の中のどこか特別なところに、俺のおとんを棲まわせていた。奴の知ってる暁彦様を。
 それでも虎が、お前が好きやと本気でかかれば、湊川はその部屋に、鍵をかけたんかもしれへん。もう暁彦様が、ふらふら出歩かんように。虎が好きやって夢中になって溺れるような心になれるように。
 でもその鍵のかかった部屋の中にいる、過去の想い出の形見のようなもんは、殺されるわけではない。そういうもんなんやないか。
 俺も今は亨、亨で頭がいっぱいやけど、それでも亜里砂のことを完全に失念したわけやない。亜里砂やない。トミ子。いや、聖スザンナやった。まったくあいつは、何やねん、ころころ名前変えるのやめろ。何て呼んでええか混乱するやんか。亜里砂やったんや、俺があいつに惚れていたころ、あの女は亜里砂という名前やった。
 そのころ自分が彼女を好きやった気持ちは、たぶん今も心の中のどっかに仕舞い込んである。そういうものやねん、過去の恋愛というのは。だって、好きやった気持ちに罪があるわけやないやろ。それを殺してもうたら、相手に失礼やないかと、俺はそういう気がするんや。
 確かに過去形の愛や。それでも愛は愛やろ。殺さなあかんような、悪いもんではないわ。
 そんな封印された小部屋が、心にいっぱいある奴も居るんかもしれへん。
 湊川はそういう手合いやったけど、暁彦様の居る部屋には、まだ鍵をかけるかどうか、腹が決まってないようなところがあったわ。それの代わりに夢中になれる相手が、居るような、居らんようなで、きっと寂しかったんやろ。
 だって信太にふられたし。鳥さんにもふられたしな。
 寂しいなあ、って、誰でも惚れる。皆に本気。誰でもええねん。そういう感じのする奴やねん。きっと信太と出会う前も、ずっとそうやったんやろ。基本ずっと、そういう奴や。冷たく人を拒むようでいて、どこか人恋しそうな。夢中のようでいて、いつも一歩引いたところから、傍観してる。どっちつかずで優しく冷たい、おぼろなる者や。それがメディアというもんですやろと居直ったような、スレてんのか奥手なんか、はっきりせんような顔してな。
 おとんと出会う前にも、こいつはそうやったんかなあ。それとも、おとんには、にこにこしたんか。夢中になって、亨が俺にするみたいに、デレっと惚れたような、甘い甘い顔して見てたんやろか。
 俺は悔しい。それを思うと、なぜか。湊川がまだまだ余裕綽々よゆうしゃくしゃくの、優しいような目で、俺を見上げているのが。
「おとんとも、寝たことあるんか」
 いきなりすぎる話やけども、俺の辞書にはどうせ、デリカシーの文字はない。真顔で訊いてる俺を見て、湊川はかすかに笑うように、意地悪く眉をひそめた。
「何度もあるよ。内緒やけども」
「なんで内緒なんや」
「水煙に、ぶっ殺されるって、先生のおとんはビビってた。俺は秋津の家風に合わへんて、水煙様は俺がお嫌いやったんや。暁彦様のお母上やら叔母様がたや、大叔母様がたやらも、どうも俺にはええ顔せえへんかったしな」
 にやにや笑って、湊川はゆっくりと俺の足を床に返し、それが当たり前みたいに、ソファの俺の隣の席に座った。触れようと思えば、触れる近さやった。そやのに、触れようとしなければ、触れない遠さやった。その絶妙の距離感が、思えば意地の悪い、控えめというか品がいいというか、それでいて、触れてごらんと甘く誘うような、月明かりの中のヤバい雰囲気やった。
「叔母さんなんか、おらへんで、うちには」
「昔の話や。もう皆、くたばってもうたわ。秋津家には、なかなか子供ができへんかったらしい。先生の家の人らみたいに、仙か人かていうレベルになってくると、身ごもるにも通力つうりきが必要になってくるらしい。それでまあ、前の奥様も、やっとの思いで暁彦様と登与様と、ふたり産んだら一杯一杯やったようや。せやから暁彦坊ちゃまは、大事な大事な跡取り息子でな、怖いオバハン連中に見張られ閉じこめられで、嫌も応もなく、押しも押されぬ秋津の頭領や」
 煙草吸ってええかと、湊川は目で訊いた。サイドテーブルに元々あった箱にある一本を、どうせ吸う気で口元にもっていき、もうライターも持ってるしやで、俺が嫌やて言うたかて、やめるつもりはないんやろ。そう思って俺は、微かに頷き、喫煙を許した。
 煙の匂いは嫌やけど、俺はこいつが煙を吐く時の、何とも言えずしどけないような表情が好き。ふはあと吐き出された煙が、蜘蛛の糸か、妖しい異国の文様かのように、複雑にたなびいて絡み合うのを見るのが好きや。
 俺が期待して見つめる横で、湊川は俺が見たい通りのものを見せた。長い足を組み、こころもち顎を上げて、青白い闇に白い煙の文様を描きだす有様と、その時の、どこか恍惚とした顔を。
「おとんは嫌やったんか、家を継ぐのが」
 俺は訊ねた。そんなこと今まで、考えたこともない。
「嫌やった訳やないやろ。ただ、しんどかったんや。家を継いだら、でけへんことがある。絵描きにもなりたいし、それに、洋行ようこうもしてみたかった」
 洋行ようこうって、わかるかと、湊川はふと気付いたように、俺に訊ねた。俺の歳を思い出したらしい。
 洋行ようこうというのは、海外旅行のことや。今やったらすごく簡単で、パスポートとって、航空券買えば飛行機乗せてもらえるし、思い切りとちょっとの金さえあれば、あっという間に外国や。でも、おとんが生きてた頃には、外国行くのは今よりもっと、大層なことやった。
 金はあったやろ。行こうと思えば行けた。せやけど俺と同じで、おとんは家から出たことがなかった。二十一になるまでいっぺんも、京都から出たことがない。おとんが初めて京都を出たのは、従軍して死ぬためやった。軍艦乗って遠い海で見たのが、生まれて初めて眺めた外国で、つらい戦いの航海やったけど、それでも胸躍る洋行ようこうでもあったわけ。
上海シャンハイ見たいて言うてたわ。それに巴里パリ倫敦ロンドンか。舞鶴まいづるから船乗って、日本海越えて釜山プサンやろ。そこから京城ソウル、鉄道乗って、上海シャンハイ北京ペキン。モスクワやベルリンも見たい。美しき青きドナウも見たい。ローマも見たい。あれも見たい、これも見たい。そこへ行って絵描きたい。そやのにオバハンどもに囲われて、京都盆地を出られへんのやで。恨みもするわ」
 くすくす笑って、湊川はおとんが、面白いようやった。今はもう、ここには居ない、死んだ人間が逝く位相にいてる魂のことを、懐かしそうに笑っていた。
「蹴散らしていったらええねん。行きたいんやったら、おかんやババアが結界切られて死のうが生きようが、知ったことかやで。それくらいの力はあったんやないんか。でも先生のおとんは、イイ子やったしな。我慢していた。俺から外国の話聞くので、満足してたわ」
「お前は洋行したことあったんか」
「あったよ。あっちフラフラ、こっちフラフラや。ラジオやからな。電波飛んでりゃ、どこへでも行く。言葉も不自由せえへん。何カ国語でも話せるで」
 淡い笑みで教えて、湊川は間近に俺を見つめ、煙草を挟んだままの指をのばして、見ている俺のこめかみあたりの髪に触れてきた。
 たぶんそれが、何かの切っ掛けやったやろ。触れられて、俺は我慢できんようになった。欲情していた、平たく言うと。そんな、あからさまに涎出そうみたいな程ではないけど、内心奥深くで、この神が欲しい、我がものにしたいと、鎌首をもたげる蛇のような欲が、不意に強く湧いた。
 その目で見つめる俺に、湊川は淡く微笑んだままやった。やりたいんやったら、やってええよと、あっけなく受け入れてるような目で。
「暁彦様にとっては、俺はまあ、一種の見果てぬ夢みたいなもんやったやろなあ。最初に会った時には、まだ十六やったし。自分はもう一人前やって、血気盛んやったけど、それでもまだまだ可愛いもんやったわ。いくさの機運もあって、もっとしき欲しいって、必死やったしな。肝心の時に、さきの当主がくたばってもうて、焦ってたんやろ。お家を背負って頑張らなあかんしな」
 くすくす皮肉に笑う湊川が、なにが可笑しいんか、俺にはよう分からんかった。おとんも必死やったんや。俺が今、必死なように。なんでそれが可笑しいねん。腹立つわ。それに何やろ。なんか切ない。
「それで、おとんの式神になってやったんか」
 むかっとしたような、すねた声のまま、俺は訊ねた。湊川は、それに頷いていた。
「そうや。可哀想やったからな」
 お前も可哀想やわって、俺を哀れむような優しい目つきで、湊川は静かに答えた。
 二人きりの、こういう優しい時間やと、こいつもこんな穏やかな顔してるんや。
 見つめられると、なんや胸苦しかった。
 美しい。なんか、痺れる。どうしようか。ほんまにヤバい。俺は無節操。ほんまに誰でもええんや、顔さえ好きなら、誰でもかまへん。それが本音で、不実なのは嫌やなんて、そんなもん、ただの、ええ格好したいだけの見栄なんとちゃうか。
「先生、キスしてやろか?」
 淡い苦笑で、湊川はまるで、俺がそうしてほしいのに、付き合ってやろかみたいな訊き方をした。
 してほしくなかったかって?
 してほしかったわ!
 悪いか。それが?
 俺も男の子なんやしや、時には上の人と下の人の意見が激しく違う時はある。ああもうあかん、下の人が超優勢みたいな時もあるわ。
 ほんま言うたら俺は別に、湊川とキスしたかったわけやない。縋り付きたかった。誰でもええねん、優しくしてくれる奴やったら。ほんのちょっと抱き合うて、何もかも忘れて、そしてそれに後腐れがない。気持ちよかったわ、またおいでって、にこにこ愛想よくしてくれる、自分に都合のいい奴やったら、誰でも良かった。
 でもやっぱり、言うに言われへん。お前やったら、愛してなくても、怒らへんやろ、平気やろ、俺にうだうだ考えさせず、あっさり一発やらせてくれるやろって、そんな事とても言われへんやんか。
 練れたもんやで、湊川。そんなこと、一言も訊かへんかった。どうせそうやろって、嫌みも言わへんねん。ただ俺の顎を引き寄せて、唇を重ねた。
 まだくゆるままの煙草の匂いか、それとも奴の息にある残り香か、香炉から立ち上る薫香のような匂いを、俺は感じた。それは、ふわっと酔うような、不思議な匂いやった。
 やんわりと責めてくる舌が、ものすご上手くて、めちゃくちゃ気持ちいい。一瞬くらっと来て、何もかも忘れる。
 亨も確かに上手いけど、俺はあいつが好きやから、好きや好きやで必死になってる。気持ちええけど、それだけに集中してるわけやない。亨の事を考えてる。亨もちゃんと、気持ちええんかな。俺だけ独り善がりになってへんかなって、いつも心配してる。
 俺はあいつを愉しくさせてやりたいねん。アキちゃん気持ちええわって、あいつが悶えるのが心地いい。せやから自分のことは割と二の次。気がつくと気持ちいい。その程度のもんやねん。
 でも、この時は、なんというか。すごくかった。責められてる感じ。幻惑されてる。俺は湊川に踊らされてる。人がメディアの舌先三寸に、あっけなく踊り、翻弄されるみたいに。
 最後に唇を小さく一舐めして、湊川はキスをやめた。その時になってやっと、スコッチの味がした。たぶん俺は、我に返ったんやろ。
「気持ちいい……」
 でもそんな感想コメントを思わず述べる程度にはアホのままやった。にやりと目を細めて、湊川は声もなく笑った。
「そうやろ。俺の舌技には定評がある。もっと色々試そうか。寛太も虎も、先生のおとんも悶絶したような、夢のショータイムやで?」
 言いながら何か思い出すんか、湊川は煙草をまた口に持っていきつつ、くつくつ喉を鳴らして笑った。
 俺はもちろん、やってみて欲しかった。でも我慢の子で睨み付けてたわ。だって恥ずかしいやんか。相手はぜんぜん平気の顔で、俺だけ玩具にされるやなんて、俺のプライドが許さへん。
「い……嫌や」
 声上ずってる、俺。きっぱりしてへん。しかも噛んでる。格好悪い。
 笑いながら、湊川は煙草をサイドテーブルのガラスの灰皿に起き、燻るまま放置の構えやった。そしてグラスから酒を飲んで、ごくりと白い喉を鳴らした。
「嫌か。そうか。ほんまかな。とりあえず、シャワー浴びる? それとも、このままベッド行く? ちょっと話そうか。まだまだ月も出たばかりやし、そう急いでやることない。話しながらちょっと、気持ちようなって、それから本番でも、時間はあるやろ」
 酒のグラスを取り上げられた俺の手を引き、湊川すぐ隣にあったベッドに連れていこうとした。俺は焦った。まだまだ素面や。ぜんぜん酔うてない。そやのに、いきなり布団に連れ込まれて、なんやかんやするというのは、あまりにも意識がはっきりしすぎてる。
 ああ、どうしよう。亨に悪い。すまない水煙。許してくれ瑞希って、そういう気まずい事がずらずら頭に出てくるねんで。
 でも、そんなもん、ラジオは頓着せえへんかった。ラジオというのは亨が湊川につけたあだ名みたいなもんで、いつも亨はそう呼ぶ。あいつは口が悪いねん。瑞希のことは犬とかワンワンやしな、湊川のことはラジオやで。ほんでトミ子に至っては、ブスって言うやろ。いくらブスやからっていうても、その呼び名はどうなんや。死んでも腐っても女の子なんやで。可哀想やと思わへんのか。
 そんな話、今はどうでもええか。俺は逃げてるか。話、戻さなあかんか。
 そうやな。戻そか。それからどうなったか。
 湊川はベッドで俺にキスをした。もう一回。抱き合って足をからめて、もう一回や。しかも、あいつは俺のベルトを外した。なんで外すんや。外す必要あんのか。
 あるわな。もちろん。脱ぐんやったらベルト外さなあかんよな。それは常識や。着たままやったらあかんか。あかんことはないけど、まあ、脱いだほうが開放感あるよな。窮屈やから。その日は俺は、ジーンズやったし。いろんな事情で窮屈なときがある、男の子やから。
 でも湊川は、脱がせてはくれへんかった。ただベルト外して、前開けて、指入れただけ。むしろもっと窮屈やで。勘弁してくれ。いきなり触ってくるのは。
「やめて」
 俺は本気で頼んだ。お願いします。人間には我慢できることと、我慢でけへんことがある。特に男の子には。
「やめんの。なんで。どないしたん先生、こんなに腫らして」
 くすくす笑って、湊川は俺の耳を舐めていた。それも、やめといてくれ。ヤバいから。マジでヤバいから。後戻りできんようになるから。
「話して。何があったんや先生。なんで急に、俺を口説こうなんて思ったん? 生け贄にする式神欲しいんやったら、俺が船で誘った時に、さっさと食うといたらよかったのに……」
 まさに口八丁手八丁というやつかな。舌技に定評があるらしいけど、たぶん手技にもあるな。あるに違いない。俺は悶絶したいのを堪えていた。
 あかんあかん、集中したらあかん。気を遠くに持て俺。ああもうイキそうみたいになるから。感度良好すぎやから。
「あかん、湊川。もうちょっと……ゆるく」
 やめてくれとは、もう頼めへん俺に、湊川はくすくす笑った。
 月もそれに相和して、笑っているような気がした。
 きっと笑っているんやろ、月読命つくよみのみことも。お前はなんて不実な餓鬼や、つい昨日、永遠の愛なるもんを、可愛い可愛い蛇を相手に誓ったばっかりやのに、今夜にはもう、得体の知れんおぼろなる者と、抱き合うて喘ぐ。そういう奴なんやなあって、からから笑われているみたいな気がする。
「気持ちええやろ、先生。弱いとこ、暁彦様と同じやなぁ」
 まさにそこ、という所を責められて、俺は内心、ひいひい言うてた。それでも我慢してるのは、悔しいからや。俺は確かに、おとんと生き写しやけど、そんなとこまで似てんのか。ツボも同じか。綺麗な白い指で責められると、泣きそうになるところまで、同じなんか。
「濡れてる。なんで濡れてんの」
 また底意地悪く、湊川は俺に訊いた。なんでかなんか知るか。俺は知らん。知ってても答えへん。質問に答えなあかん義理はないやろ。まったくマスコミの連中ときたら、えげつないねん。俺には知る権利があるって、ずけずけ何でも訊いてきやがって。俺にも言いたくないことは多々あるんや。プライバシーなんや。恥ずかしすぎて言われへん。
「我慢せんでええねんで、先生。何回でもいかしたるし、またたしたる。できるやろ、まだ若いんやし……それに、絶倫やからな、げきなんてもんは大体において。先生みたいに、力のみなぎってる人は、こっちもみなぎってんのやろ?」
 要らん事訊くな、湊川。下の人にも訊くのはやめろ。ぎゅうっと握られて、俺は目の前真っ白なったわ。我慢すんのってつらい。
「嫌や……俺は、そんな。まだ始まって五分くらいやで」
 俺には変な癖がついてる。亨が最近、タイムを計ってるもんやから、それをめっちゃ気にしてるんや。あいつ変なんとちゃうか。終わった後ににっこりして、満足したわって可愛い顔で、アキちゃん、十五分二十二秒、とか言うねんで。秒まで見るな。愛してへんかったら殺してる。
「時間関係ないよ、先生。かったらそれで。出したかったら出せばええねん、声でもなんでも。面子なんか関係ないよ。しがらみは捨てて……」
 捨ててどうするのか、湊川は言葉では教えへんかったけど、俺の体には教えた。巧みで意地悪い指が、おとんと同じやという、俺の弱いところを情け容赦なく責めた。
 ああもう堪忍してくれ。ぎゃあって叫びたいぐらい、つらい。叫びはせえへんかったけど、無口な俺もさすがに喘いだ。ため息のような感嘆のうめきが漏れた。苦しいみたいな声やった。だって我慢してんのやもん。悲鳴やで。
「つらい。ほんまに手加減してくれ……」
 半分マジで涙目や。俺は気がつくと湊川の白いシャツ着た体に抱きついてて、拝み倒す口調で言ってた。我慢すんので精一杯で、俺も相手を責めようかなんて、そんな事、ちらっとも念頭になかった。
 でも触りたい。白い肌や。だんだん俺の理性も危うくなってた。言い訳やけど、しゃあないねん。ほんまに上手いで、湊川。足震えてくるんやから。亨にだって、そこまでされることは滅多にない。恥ずかしいもん。俺は責められるよりは、あいつを責めたい。気持ちようなってきたら、あいつは堪え性がないから、もっとして、もっとしてくれって、すぐに夢中になってきて、おとなしく俺に責められててくれる。そこがええねん亨は。可愛いんやないか。たとえウン千歳でも、俺の腕にすっぽり収まってくれて、可愛い可愛いって思わせてくれる。
 でも湊川はぜんぜん可愛くない。確かに年増やで、こいつは。意地悪い。俺がひいひい言うのが、こいつは面白いらしい。さんざんやられた。搾り取ろうという指で、さんざんなぶられた。
 あかんあかん、俺がくなっている場合やないねん。たらし込みに来たんやから。いきなり返り討ちにあってどないすんねん。
「話そう、話、聞いてくれ……」
 フラフラなって、俺は頼んだ。何話すんやっけって、本気で忘れてたけど、とにかく逃げたい。ちょっと休憩させてくれ。本間先生、前戯でいってもうたって、お前に言われたくない。俺の人生にそんな汚点を、残させんといてくれ。
「ほんなら聞こうか。どしたん、えらい、青い顔して、靴も履かんと逃げてきて。水煙様に、なに言われたんや?」
「子供おらんうちは、死んだらあかんて……」
 喘ぎ喘ぎ、俺は教えた。ていうか、なんで手やめてくれへんのや。むしろ、さっきよりつらい。
「ああ、まぁな。先生、一人っ子やしな。直系の血筋が途絶えてしまうやろ。竜太郎おるけど、あの子は水煙の好みやないやろ。水煙も強面こわもてのようでいて、案外、初心うぶやから。暁彦様みたいな、黙って俺に付いて来いみたいなのが好きなんや。あいつ、そういうのにメロメロなるんやで。変やわ、剣やのに……」
 ぶつぶつ言うて、湊川は俺の服の中でごそごそし、あろうことか俺のケツに触ろうとした。
「やめろ! どこ触っとんねん!」
 俺はマジもんの悲鳴で拒んだ。もちろん暴れた。
 湊川は俺と鼻先を付き合わせ、可笑しそうに歯を見せた。
「あれ。やっぱ、あかんの。それも暁彦様と同じなんや。やるだけ? やらせへんの?」
「やらせへん、やらせへん、やらせへん!」
 俺は血相変えて三回も言うた。まるでこれから犯される婦女子のようやった。
 やめてくれ俺の聖域に押し入ろうとするのは。亨でもそれはやったことない。それは、あいつがそっちに興味ないからやけど。もし興味あったら、きっと出会って三日もせんうちに犯されてたやろうけど。嫌やそれは。俺は嫌やねん。嫌なはずや。勘弁してくれ。そんなつもりなしで来たんや。想像してへんかった。そういうコースもありやということを。
「嫌なんやったら、せえへんよ。やりたいことだけ、やったらええねんで、先生」
 にっこり言われて、俺はへろへろになった。湊川。お前は怖い。でも何か、危険な優しさがある。包容力というか、なんでも来いみたいで、何をしようが受け止めてくれる、そういう感じがする。
 見栄張らんでええねん、だらんとしてて、休んだらええねんて、そういう感じ。
 おとんは本当に、こいつが要らんと思って捨てたんか。
 ほんまは泣く泣く別れたんとちゃうか。
 虎もほんまは、意地張って捨てた。俺に惚れてへんやつは好かんて、男の意地でよそへ行った。お前より、不死鳥好きやって、メロメロなって見せて、それに寂しい顔してる湊川に、ほんまはちょっと満たされている。
 俺はそんな想像をした。だってこいつは、ずるいんや。夢中にはならへん。好きやっていう顔はせえへん。愛なんて、自分にはないって、ひとりだけそんな、高見の見物の顔してる。
 見ようとしても、はっきりせえん朧月おぼろづき。好きやなあって、そんな、頬染めた顔して見つめてる、そういうのを期待してんのに、青白く、ぼんやりぼやけて、よう見えへん。
「おとんはお前のこと、好きやったんか?」
 目の前にある肩に額を擦り寄せ、じっと我慢の子で俺は訊ねた。なんでもいい、俺の気の散る話題やったら。
「さあ。どうやろ。そこそこ好きは好きやったんやないか。でも、あの人、惚れた相手は絵に描くらしいで。けど俺の絵は、描いたことない。俺に絵を描いたことは、何遍もあるけど」
 けらけら笑って、湊川は話した。暴露話の類やった。
「俺に絵、って……?」
 意味が分からず、俺は汗だくの顔で悩んだ。
「胸とか腹とか、背中とか、脚とかに描くんや。絵を。やる前にふざけて描くんやろけど、本気で描いてる時もあったで」
 絵を描くって、人の肌のうえに絵を描くんか。俺はそんなん、やってみようと思ったこともない。異常やで、それは。だって変やんか。変やない?
 布団の上で裸にして、それに絵描くのか。筆で? まさか鉛筆では描かれへんもんな。おとんは日本画やったんやし、墨か朱墨しゅぼくで描くんか。色も塗んのか。入れ墨みたいやで。
 でも確かに、目の前にあるシャツから覗く肌は、練り絹のように白くきめ細かくて、絹に描くこともある日本画の画布としては、まあ、描けんこともないやろうという妄想を誘った。
 知りたくなかった、そんなこと。知らんかったら思いつかへん程度には、俺はマトモやったのに。おとんのせいや、おとんが変態やったから、俺までそんな新しい世界に。
 描いてみたい。なに描くんか知らんけど。おとんがどこに何を描いたんか、知りたくないけど。知りたいような。その時、こいつがどんな顔してたんか、見たいような、見たくないような、見てもうたらもう、ほんまにヤバいようなや。
「気持ちええで。けっこう感じる。場所によっては下手に愛撫されるより、むらむら来るわ。特に暁彦様が、絵のほうに集中してくると、もう絵はええから、やろか、とは言いにくくなってな。あれも一種の我慢プレイ?」
「そんなん言わんでええねん!」
 俺は顔面蒼白になってきてた。ヤバいから言うな。俺が変態なったらどないすんねん。
「あれ。なんで? 先生も、やってみる?」
「嫌や、そんなんせえへん。大体、筆も墨もない!」
 筆があったらするんかと、俺は自分に問いたい。せえへん、そんなん、亨にもしたことない。したいなんて、よう言われへん。恥ずかしいもん。
 そんなん照れずに、なんでも言うてくれって、亨はいつもせがむけど、でも恥ずかしいんや。しょうがない。お前が嫌やって思うことを、もし俺がしたかったらどないしよかって、俺は怖いねん。そんなもん、たぶん無いやろけど。あいつ変態やから、なんでも嬉しいんやろうけど。でも、砂漠に落ちた一本の針を、うっかり踏み抜くような事が、ないとは言えへんやんか。俺はあいつに、幻滅されたくないねん。傷つく。
 だったら、湊川とここで、いちゃつくのを止めるべきや。そうやな。俺もそう思う。亨が知ったら、なんて思うやろ。きっと泣くわ。それか暴れる。俺を食う。ホテルを壊す。湊川をぶち殺す。大爆発。大洪水。なんかそういう事をやる。
 でも、もしかしたらあいつは、何もせえへんかもしれへん。ただ我慢してるかもしれへん。こいつを口説けと、そもそも俺に教えたんも、あいつやし。水煙に我慢できたことが、自分に我慢できへんわけはないと、本人がそう言うてた。メリケン波止場で、パイ食いながら。
 けど、俺はつらい。あいつに我慢させるのは。我慢してる亨の、顔を見るのは。
 あいつの辞書に我慢の文字はない。それが亨の、あっけらかんとして、可愛いところや。それが無くなってもうたら、俺はつらい。
「なんで、おとんはお前に、そんなことしたんや。おかんが好きやったのに、なんでお前と抱き合うたりしたんやろ。そんなん、ひどいやないか?」
 泣きそうな情けない声で、俺は訊ね、湊川はそれを、困ったような苦笑で見つめた。そして、よしよしみたいに、俺の頭をやんわり抱いた。
「ひどいて言うても、それは暁彦様が、登与様となんかある前の話やで? 登与様が先生を身ごもったんは、出征の直前なんやろ。俺が暁彦様となんかあったのは、それよりも前なんや。暁彦様に誰か想い人がいるのは、何となく気づいて知ってたけども、俺はそれが水煙なんやと思ってたわ。せやけど剣やし、犯られへんから、悔しいて他のとやりまくってんのかと……」
「うるさい、そんなん言うな!」
 おとんは水煙のこと、やっぱり好きやったんや。それでも、おかんが本命で、それでも、他のとやりまくってたんや。どうせそういう男なんや、暁彦様は。
 俺もきっと、ほんまはそういう男やねん。
 そう言われてる気がしてもうて、俺は喚いた。餓鬼のように。それに湊川はちょっとびっくりしたんか、きょとんとして俺を見た。
「どしたんや、先生。なにキレてんの。ほんまに何があったんや?」
 俺はたぶん、一気に萎えてた。湊川はもう、俺を責めようという気はないみたいやった。ただやんわりと、抱いてくれてた。
 それは俺の欲しいもんやった。逃げ込ませてくれる、甘い匂いのする肌と、温かい腕。いつもやったら亨がそれで、おかんの代わりの、俺の避難所。だけど今夜は、そうは行かへん。俺はあいつからも、逃げてきた。
 そろそろ本題の件。話さんとあかんやろ。なんのこっちゃと思うやろ。
 湊川もそういう顔やった。俺に話せと、促す顔をしていた。
 俺はこいつに、なにもかも話そうと思った。誰かに相談したい。答えは要らんねん。ただ聞いてくれるだけでいい。俺はつらいんや、悩んでる。結論は自分で出すけど、でも一人で悩むのが、つらいねん。抱いてくれ俺を、可哀想やって言うてくれ。そんな弱い俺でも、別にかまへんて、優しい目で見つめてくれ。まるで俺が好きみたいに。愛してなくていい、愛はときどき、重たいねん。
 話す俺の早口を、湊川は長いまつげの煙る、朧月おぼろづきのような目を伏し目にさせて、静かに聞いた。
 その話はまた少々、時を遡る。
 そこは一つの分岐点やった。俺の未来を決定する、些細なような、ひどく重いような、運命の突き進む先を切り替える、ルート切り替えスイッチのあるところ。
 俺は亨と、瑞希を連れて、ヴィラ北野に戻ってきた。絵を描くためや。
 何から描こうか。
 まずは腕ならしから。
 戻ってきた瑞希を見て、水煙は我が意を得たりと、したり顔やった。いかにも満足そうやった。いつの間にやら水煙も、部屋に戻ってきてたんや。
 竜太郎が、ぶっ倒れたらしい。倒れた言うても、眠いだけ。不眠不休で予知をしていて、さすがに限界が来たとかで、ぐうぐう眠っているらしい。
 せやから水煙は、することもないし、海道家の連中と居ってもしょうがないとかで、虎に頼んで、部屋に戻させたらしい。まあ、確かに、虎と鳥さんがいちゃついてるのを見てても、しゃあないからな。微妙すぎやろ、水煙にとっては。
 水煙が居ってくれてよかった。
 亨と瑞希と俺と、その三名様やったら、たぶん相当に気まずかった。
 それに瑞希は、自分がここに居れるのは、水煙が許したからやと思うてるらしい。そもそも水煙は、瑞希が大阪で荒れて鬼と化した時にも、こいつの想いに情けを示した。それを恩義に思うてるらしい。義理堅い犬や。
 それで水煙が部屋にちゃんと居ったのを見て、瑞希はほっとしたらしい。
 俺が頼まれて、水煙を青い人型の姿にしてやっても、その異形の神に恐れはなさず、瑞希は居間のソファの、水煙のすぐ隣に、ちんまり座って大人しくしていた。そうしてるとまるで、俺のではなく、水煙の犬みたいやった。
 新入りを水煙に押しつけて、亨もほっとしたらしい。やっぱり窮屈やったやろ。それで当然や。キスしてくれと俺にせがみ、亨は俺をバスルームに引っ張り込むと、そこでしばらく抱き合って、唇を重ねてた。
 その息があんまり必死なようで、俺は困った。こんなん、続けていけるんか。俺はそれで、平気なんやろかと、すごく気が咎めて。
 鉛筆削れと、亨は瑞希に命令してた。あれは一種の命令やったと思う。瑞希はそれに嫌な顔もせず、大人しく鉛筆削ってた。亨もそれに張り合うように、鉛筆削る専用の小刀で、器用に黒い鉛筆を、鋭く尖らせていた。
 俺のほうが上手いとか言って、犬と蛇とが競い合う様子は、まるで和やかなようにも見えたけど、俺は不安やった。きっと一触即発なんや。俺はたぶん、現在進行形で鬼みたいなことをしてる。一度は殺し合うた間柄のふたりを、同じ部屋に侍らせて、自分が絵を描く鉛筆を、ひたすら削らせている。
 そしてそれを黙って見てるのがつらくて、誤魔化すように絵を描き始めた。
 何を描くかも思いついてへん。頭の中の画布キャンバスは真っ白やのに。とにかく何か描きたいと、絵の中に逃げようとしてた。
 そうして描きあぐねてる俺を、水煙はどことなく、うっとり褒めるような目で、じっと静かに見つめていた。
 こいつは鉛筆なんか削らへんねん。神様やしな。俺より偉いんや、水煙は、たぶん。削れと命令すれば、きっと平気で削ったんやろう。水煙はもともと刃物や。鉛筆くらい余裕で削れるやろうけど、でも、あんな綺麗に鍛え上げられた芸術的な白刃を、鉛筆削るのに使おうというアホが居るやろか。俺はそんなこと、到底できへん。
 水煙は美しい神や。優雅に鎮座し、淡い笑みのような表情でいると、特に美しかった。俺を頼もしいもののように、うっとり眺めている顔をしていた。俺を愛してるという顔。亨とはまた違うけど、俺を信じてる目やった。お前はやれると、俺を励ました時と同じ。秋津の跡取りとして、三都の王として、俺より相応しい者はいないと、深く満足してるような目や。
 その目で見られて、俺はつらく、切なかった。水煙は俺を愛してんのやろ。俺が生け贄にするために、瑞希を連れて戻ってきたと思ってて、それが頼もしいわと、喜んでいる。亨が言うてたみたいに、俺に惚れ直してる。そういう顔やったんや、あれは。
 その顔が、綺麗に見えへん訳があるやろか。でも俺は、水煙が怖かった。めちゃめちゃ怖い。もし俺が、秋津の跡取りとして、ふさわしくない行いに出たら、こいつはもう、俺を愛してくれへんのやろか。アキちゃん好きやと、震えながら俺に抱きついていた水煙が、俺をどうでもええ奴のように見る。そういう時も、もしかしたら、あるんかもしれへん。
 別にええやん、それでも。俺には亨がおるし。敢えて言うなら、瑞希も居てる。俺を愛してくれる神は、水煙のほかにも居てる。
 なのになんで、それが怖いんや。水煙が心変わりする。俺に幻滅するかもしれへんという想像が、俺にはなんで怖いんか。
 愛してるからや。どうせ、そうなんや。俺は多情で不実な男で、エロで外道の鬼や。水煙が愛しい。今この瞬間の俺を、何もかも肯定的に見てくれてるんは、こいつだけ。亨も瑞希もつらいやろ。俺もつらい。でも水煙は、深く満足していた。お前はそれでええんやと、言うてくれるのは、水煙だけや。だから俺は、水煙に逃げたかったんやろ。
 卑怯な男や、俺は。
 気がつくともう、亨が削った鉛筆で、水煙の絵を描いていた。
 目に見える、そのままの姿やのうて、自分の心の中にある、もしも人間やったら、きっと水煙はこんな姿やったやろうという、俺の幻想。ただの願望。俺の勝手なファンタジーで、俺はお前をこういうふうに変えたいと、俺が望んでる、そんなひどい絵や。
 でも水煙はそれに、文句を言う奴ではない。亨と違うて、それに傷つかへん。そういう奴やねん、水煙は。おとんがこいつを、太刀からサーベルに打ち直させた時にも、何の文句もなかったらしいで。可笑しいなあって、笑いはするけど、それでもおとんや俺が、もっと燃えるような姿になるのには、こいつは快感があるらしい。そうすればもう少し、愛してもらえるんやないかと、嬉しいらしい。
 健気や。そんなんせんでも、むちゃくちゃ愛してんのに。
 だったらなんで、姿を変えさせようとするんや、俺は。おかしい、おかしい、辻褄が合うてへん。
 亨には、いつも亨の好き勝手な姿でいてくれればええわと思う。ありのままの。できれば最初に会うた時のまま、お前が気に入って、長くその姿で過ごしてきたという、今の格好のまま。俺が一目で惚れてもうた、今の顔、今の体のままでいてほしいんや。
 でも、なんでやろ。水煙には、自分が好き勝手したい。お人形さんみたいに。こうすればもっと俺には愛しいていう、そういう幻想があって、その色に塗り替えたくなる。それを黙って受け入れて、喜んでいるあいつが、可愛いと思う。ほんまにお人形さん遊びやで。我ながら、気色悪い。
 でもそれに、俺は確実に、快楽を覚えてる。逃げようがない、自分の性癖やから。
 できあがった絵を、俺はまず亨に見せた。検閲みたいなもんか。別に見せろとせがまれた訳やない。そうせなあかんような気がして。
 亨はじっと、俺が素描クロッキー帳に描いた、鉛筆画の人物を見つめた。
 その絵は、車椅子に座っている、亨や俺と同い年か、ちょっと年上くらいの、若い男の姿やった。俺は水煙は男やと思うんや。その辺、はっきりせえへんけど、話す口調も男みたいやし、声も柔らかい低い声やし、女みたいとは思うたことない。
 そやけど絵の男は、女の子みたいな長い髪やった。なんでか訊かれても困る。フィーリングやから。水煙は長い髪なんやって、俺は思うただけ。長いて言うても肩にかかる程度。そう。言いたくはないが、赤い鳥さん程度。
 長い髪もええなあって、きっと俺は思うてたんやろ。それに青い姿の時の水煙は、ちょっと長い髪みたいなイメージなんやって。決して俺がそれに萌えすぎていたからではない。
 でもちょっと、萌えたかも。黒くて艶々した長い髪が綺麗で、大きな黒目がちの目をした、静かに頑固そうな品のいい美貌が、じっと何かを見ている口元の、ごく淡い笑みの気配を見ると、自分の描いた絵やのに、なんでか平伏したくなる。ご奉仕したくなる。
 そういう、高貴のお方みたいな雰囲気のある人物として描いたんやけど、実際それを見て、あなたの下僕みたいな気持ちになるとは、俺の絵も怖い。
 髪の毛といてやったり、爪磨いてやったりしたい。俺は変態や。もうそれでいいです。それを認めさえすれば、心おきなく水煙様グルーミングの愉悦に浸れるんやったら、もうそれで行こか。なんかそういう引力感じたで。自分の描いた絵姿に。
 もちろん着衣の絵やで。ヌードやないで。俺もそこまでは描かれへん。恥ずかしいもん。想像でけへんもん。想像してもうたら、恥ずかしさで悶絶してもうて、おちおち絵なんか描かれへん。絵の男は飾り気のないシャツに、ズボンをはいていた。でも裸足。靴が思いつかなくて。というか、正直に言え俺。足の指を描きたかったからや。すみません、ほんまに、煩悩の塊で。絵では嘘がつかれへんねん。
「この服ちょっと、ようちゃんみたいやない?」
 亨はまず、そのことを指摘した。俺はぐっと来た。
 そうかもしれへん。気付いてへんかったけど。なんとなく神楽さんエッセンスが入っているかもしれへん。
「それに髪の毛、不死鳥系やない?」
 容赦ない批評に、俺は内心ぐふってなってた。でも頑張って無表情でいた。だってもう瑞希も居るしな、恥ずかしいやろ、ええ格好せえへんかったら。
「そうやろか……」
 俺は明らかなボディーブローを受けた声で、絵を見る亨にうめいた。
「アキちゃんの萌え萌えNOWナウみたいな、破廉恥な絵やな……」
 ひどすぎる評価や。でも亨のレビューは的確すぎた。俺はなんかショックすぎて腰が痛いような気までした。寝ようかな、俺。なんか逃げたいわ。
 絵をもう、返してくれって、俺は手を出したが、亨は容赦なくそれを、水煙と瑞希に見せてやっていた。
 亨から手渡されたそれを、水煙は不思議そうに見た。
 水煙は日頃、絵にはぜんぜん興味がないようで、俺が描く絵を見ても、上手いなあと言いはするけど、ふうん、みたいな軽いリアクションやった。こいつは人間やないしな、地球産ですらないし、感性違うんかもしれへん。アートなんか興味ないねん。きっとそうや。俺の絵があかんからやない。俺はいつも、そう言い聞かせて自分を慰めてきた。
 水煙が感動するような絵なんて、俺は描かれへんて、卑屈にそう決め込んでいた。せやから進んで水煙に、描いた絵を見せようとしたことはない。
 じっと小首を傾げて絵を見る水煙に、その時も俺は、じりじり焦ってた。恥ずかしいのもあって、早う返してもらいたかった。
「それ、お前やで、水煙」
 街で朝飯のついでに買うてたマカロン食いつつ、亨が教えた。
 なんでそんなこと言うんや、アホ! お前にもその件については、まだ言うてへんやないか。なんで分かるんや、そんな穿うがったことまで。見えてんのか、俺の心の煩悩が!
 俺は驚きと、極端な気まずさと、そしてええ格好したい都合とで、ただ固まっていた。
 水煙は亨に言われ、今度は反対のほうへ、ゆっくりと小首をかしげて、じいっと絵を見た。
「なんでこれが、俺なんや。ちっとも似てへん」
 やっぱり水煙には、アートが分からへんのや。賢くて物知りやのに、人間やったら分かることが、こいつには分からへん場合がよくある。そこがまた初心うぶでええんやけどって、そんなモノローグを俺にさせるな。
「似てへんか。似てるような気がするけどな。アキちゃんは、これを、お前やと思うて描いてると思うで?」
 ほんまにもう、しゃあないわって、クサクサしたような言い方で言い、亨はがつがつマカロン食うてた。なんで一人で食うんやお前は。人にもすすめろ。食わせたくないやつと、食わへんような奴しかおらんのやろけど、俺はどっちや。食わせたくないほうなんとちゃうか、今は。
「……そうなんか、アキちゃん。これは俺を描いてくれたんか?」
 水煙はちょっと白っぽい顔で、俺にそう訊いた。
 ジュニアやろ、水煙。ジュニア。今はジュニアでええから、そんな顔すんな。バレたらどうするんや、それがお前の赤い顔やってことが。亨に殺される。もしかしたら今回は犬も参戦してくるかもしれへん。瑞希にも殺されて当然の傾向が出てきた。
「そうや、そうや。愛しの水煙様や。こんなんに変転してやり。水かけたろか。塩いるか。バンケットいって塩もろてきたろか」
 マカロン噛みながら、亨は勝手に答え、棒読みみたいに訊いた。なんで塩がいるんやって、俺には意味わからへんかったけど、それは亨の冗談やった。
 水煙はそれを、全く聞いてへんかった。ますます白い顔をして、絵を抱きしめていた。
「ありがとう。嬉しいわ。アキちゃんに絵に描いてもろたの、俺は初めてや」
 誰のこと言うてんのや、そのアキちゃんは。絶対に、おとんと俺が混ざってる。ちゃんと区別してくれてんのか、水煙。俺はそれに切なくなってきて、苦い顔になった。
 俺が絵に描いたっていう、水煙がなんでそれを、そんなに喜んだのかは、湊川の話を思い出せば分かる。うちのおとんは、惚れた相手を絵に描く癖があった。俺にもある。水煙はそれを知ってたんやろう。描いてほしかったんやったら、言えばええのに。そんなん、描いてええんやったら、なんぼでも描いたのに。剣の時でも、青い時でも、それ以外でも。描いたら嫌かな、って、勝手に遠慮してたんや。だって水煙は、ありがたい神さんやから。
「こんな姿に、なれたらええのに」
 めちゃめちゃ素直に、水煙は俺が萌えすぎる感想をくれた。もじもじ絵を見る水煙を、その隣に座る瑞希が、ぽかんと見ていた。
 すまん。許してくれ。お前がおらん、ちょっと間に、俺はもう前の俺とは別人みたいになってる。激しく自分を解放しまくり。お前は男やないかって言うて、ずっとお前の気持ちを無視してた、そんな俺しか知らんのに、大丈夫か瑞希。お前ちょっと、早まったんとちゃうか。あともうしばらく、黙って俺を泳がせておいたら、なんもせんでもエサに食いつくようになってたかもしれへんで。お前もあんな疫神にさえ、憑かれたりせえへんかったら、今も平和に大学で、学生やってたかもしれへんのに。何もかも俺のせいや。
「先輩……この人、男やで?」
 激しく迷った気配のあと、瑞希は小声で俺に訊いた。もしかして、気付いてへんのやったら、こっそり教えといてやらなあかんて、そんな気遣いさえ感じるような言い方やった。
「そ、そうやろか……」
 俺はずっと、真正面には訊いたことがない問題について、水煙の目の前で質問されてた。勝呂瑞希に。
 なんやろ、なんか、すごく横っ腹が痛い。病気かな。また疫病?
「男なぐらい何でもない。宇宙人なんやから! 愛があれば種族も越える、アキちゃんはそういう無茶な男なんや」
 ホテルの部屋にあるエヴィアンのキャップをねじ切りつつ、亨は俺の首をねじ切りたいみたいな憎い口調で瑞希に教えてた。瑞希はそれを、ぽかんと遠い目で見てた。
 水をごくごく飲んでから、亨はまだ袋に残っていたマカロンを、どうしてくれようかなみたいな顔で睨んだ。甘かったんやろ。さすがに。全部ドカ食いしたいが甘い。なんか塩辛いもんでもないか、みたいな顔や。無理して全部食うことないやんか。そんなに腹立ってんのか。ごめん。俺が悪い。でももう、どうしようもない。
 水煙のことも、瑞希のことも、今さらどうしようもない。だって、出て行けっていうんか。それとも俺がお前とふたりで、出て行くんか。どうしたらええんや俺は。
 瑞希は困ったような、悲しいみたいな顔をして、怖ず怖ずと俺を見た。水煙のこと、俺がそういうふうに思うてるとは、想像してへんかったんやろ。ただの仲間か式神と思うてた。水煙が俺を好きなのに気がついてたとしても、俺が水煙を好きやとは、思ってなかったんやろ。まあ、普通そうやわな。俺はそんなキャラの男やなかったよな。ちょっと前までな。
 変わるもんやで、人間て。たったの一ヶ月やそこらで。あるいは、三万年やそこらで。
 瑞希はずいぶん長いこと、俺と会ってなかったという顔をした。それは、つらそうな顔で、しょんぼりした犬みたいやった。実際、しょんぼりしてたんやろ。
 そのまま何も言わんと、また鉛筆削ってる瑞希に、追い打ちでもかけたいんか、亨は水のボトルを舐めながら、ぶつぶつ言った。
「アホやなあ、犬。俺はお前が可哀想やわ。今となってはアキちゃんは、顔さえ好きなら皆好きみたいな、むしろ男のほうがええみたいな、そんな外道になってもうたんや。俺と水煙だけやないで。不死鳥とかな、破戒神父とかもおるねん。ここのホテルの支配人にすら萌え萌えしとんねん。俺が前に付き合うてたオッサンなんやで? それが俺の血を吸うて、今や吸血鬼ヴァンパイアやねん。そんなんでもええんや。なんでもありやで、今のアキちゃんは。確かにお前にも、チャンスあるかもしれへんわ。戻ってきたんや、元気出せ」
 はあ、ってため息ついて、亨は自分のほうがよっぽど元気ないみたいやった。
「湿っぽい顔すんな。ウザい」
 湿っぽい顔して瑞希を罵り、亨は自分の顔をごしごしした。まさか泣きそうなんやないよな。亨は涙もろいねん。それでも泣くのを我慢してるところなんか、見たことない。
 たぶん、そんなん見られたくないんやろ。瑞希には。なんでか知らん、もはや三万十八歳くらいになってるはずの瑞希は、今でも弟みたいやった。年下に見えた。体もどことなく華奢やし、亨よりも少し背もちっさい。亨は見た目の歳が気になる質らしくて、どう見ても年下みたいな瑞希の前で、めそめそ泣きたくないという意地があるらしい。
「どうやったら変転すんのかな、水煙」
 突然、わざとらしすぎる切り替え方で話題を変えて、亨はまだ絵を見てる、一人の世界の水煙に向かって言うた。でもそれは、どうも俺に訊いているようやった。
「どう、って……わからへん。お前はどうやって変転してんのや」
 気まずく俺は、その無理矢理話題を変えるための話題に答えた。
「イメージや。俺はこんな姿やねんて、強く思い描いて、それを信じればええねん」
 まだ、むすっと暗い顔をしたまま、亨は俺の隣で、自分の髪をいじっていた。
「そんなヒーローごっこみたいなので変転できんのか?」
 俺は動揺して訊いた。そんなんで変転するんやったら、誰しも小学校低学年までに、仮面ライダーとかプロ野球選手とかになれてる。
「知らんけど、俺はそれで変転できてる。瑞希ちゃんはどうや。お前は今でも犬になれんのか?」
 鉛筆削ってた瑞希は、まさか亨に話を振られるとは思ってなかったらしい。びっくりしていた。少しぽかんとしてから、瑞希は答えた。
「なれる」
「どうやってなるんや」
「……俺は犬やと思って」
 畳みかけるような亨の質問に、目を瞬きながら、瑞希は答えた。
 そんなアホなと俺は思ったけど、とりあえずツッコミ入れるのはやめた。
 俺は実は、瑞希とどうやって話せばええか、未だにわからへん。学生やってた時のこいつと話すのも、よくドギマギしてたけど、今でもちょっとそれを引っ張っている。
「ほら見ろ。同じやないか。水煙も、思えばええねん。俺は実はこんな姿なんや、こうなりたい、こうなりたいって」
「そんなもんか」
 変転のコツが、いまいち飲み込めてないという顔で、水煙は悩んでた。変やなあ、俺が命令したら、あっというまに剣になるし、人型から剣に戻るのには、何の苦労もしてへんようやのに。
「なりたないんやったら、別にええで。完全無穴のままで居ればええよ、穴無し宇宙人。そのほうが俺も安心やからな」
 せせら笑って言う亨に、水煙はむっとした白い顔をした。瑞希は相当遠い目をした。たぶん、あまりに遠くて地球外に出てた。
 なに、その話。なんでそんな話なんや。何を話してんねん、お前らは。俺のおらへんところで。
「頑張るわ」
「おう、頑張れ」
 むっとしたまま宣言した水煙に、亨は、できるわけないという顔で言うてた。
 その会話を聞き、俺は複雑な気分やった。なんか、ずいぶん気安く聞こえたからやった。
 水煙と亨が、争わへんのは、ええことやねんけど。俺はそのほうが助かる。いつもギスギスやりあってばかりじゃ、毎日つらいしな。
 だけど何や、仲良さそうやと、妙に妬けた。何にかは自分でも分からへん。水煙と亨は、俺に隠れて共謀している。こそこそ話している。瑞希を生け贄に差しだそうという話も、こいつらは勝手に相談をして、勝手に決めていた。俺は蚊帳の外。
 その話を、俺はまだ瑞希には話していない。話せるわけない。どうしようかと、俺は心の片隅で、それについて考えてた。そんなことするつもりが無い自分を、どうしようかと悩みながら。
 俺がもう一度こいつを、殺せるわけがない。一度だけでも、すごくつらかった。許してくれって、ずっと悶絶していた。勝呂瑞希はもう死んだ。二度ともう、こいつに会うことはないって、それを思うと悲しかったんや。
 それがまた、こうして目の前にいて、俺はたぶん、嬉しいんやと思う。生きてて良かったっていうには、普通でない状態かもしれへんけど、とにかく居てる。動いて喋ってる。幽霊みたいなもんかもしれへん。前に天使やったときには、俺はこいつに触れたけども、今はどうか分からへん。触れなければいいと思う。そのほうが、無難やから。
 お前が元気で、また楽しいこともあって、好きな映画も見られて、ちょっとは幸せになれたらええなあって、俺はそれで満足してる。
 だからそれに、もう一度死ねなんて言われへん。俺の口からは。
 俺は恐れて、惑う目やった。その目で水煙を見た。
 それに絵を抱いた水煙は、つるりと黒い目を細め、白い歯のある薄青い唇で、にこりと笑った。いや、にやりと笑ったんかもしれへん。おかんのようや。どっちなんか、よう分からへん。
「大丈夫や、アキちゃん。心配せんでええ。俺が話す」
 なんも言うてへんのに、水煙はそう、俺をなだめた。可愛い可愛いて、抱っこして撫でるような声やった。
 俺はそれに、甘えてええんやろうか。小さい子が、おかんにべったり甘えるみたいに。水煙の言うなりになって、言いにくいことは全部、こいつ任せでやっていくんか。
「いや、ええんや。俺が自分で話す」
 言いにくい。逃げたいせいか、眠いような気のする目元を擦って、俺は水煙を拒んだ。それに水煙は、微笑んだような顔のまま、ただ黙っているだけやった。
「なんの話やねん。内緒話はやめてくれへんか。チームワーク乱れるわ」
 ぶうぶう口尖らせて、亨が文句を言うていた。
 何も話してへん。水煙が俺の心を読めるだけや。まるで、昔話の妖怪みたい。なんでも悟る神さん相手に、どうやって内緒話をやめるんや。好きや好きやも、口に出して言わんでも、思うただけで筒抜けや。俺はもっと精神修養でもして、無心にならなあかん。水煙の前では。
「話すけど、今やないとあかんか」
 俺は渋り、水煙はまた、にやりとした。
「早いほうがええわ、アキちゃん。引っ張ったところで、楽にはならへんのやから。ええ夢見たあとの地獄はつらい」
 横に座る大人しい犬を見て、水煙は淡く、にこやかなままやった。
 可哀想やと、思わへんのかな。水煙は。こいつには、心がないんか。無いわけやないやろ、俺が好きやって言うんやから。人並みの心はあるんやろ。
 ほな、たぶん、人並みの心というのにも、鬼は居るんや。
「瑞希」
 俺が声をかけると、ぴくりと弾かれたように震えて、瑞希は俺を見た。じっと見つめる真顔やった。前となんも変わらんような、可愛げのある顔や。
「あのな、お前は何をどこまで知ってんのや。なまずのことも知ってるんやろ。予言を運んできたくらいなんやから」
 俺が死ぬという、予言までしたんやで。せやから龍のことも、知ってたんんやないか。
 俺はそう思ってた。せやのに瑞希は、めちゃめちゃ意外なことを言うた。
なまずって、魚のなまずですか? 白身の。ヒゲがある?」
 ヒゲがあるかどうかなんて、俺は知らん。白身かどうかなんて知らん。魚かどうかなんて、知らんで。そういや、なまずはどんな姿の神なんや。ほんまにナマズみたいな格好なんか。間抜けや、そんなもんに殺されるなんて。
「知らんのか、お前。死の舞踏が現れるって、俺に予言したくせに」
「何やったんですか、あれは」
 けろっと真顔で訊く瑞希に、今度は俺があんぐりする番やった。
 知らんかったんか、お前。実はなんにも知らんと、言われたことを伝言しにきてただけ?
「何やったんですか、って、まだ過去形やない。お前が持ってきた予言は、まだどれも成就していない」
 水煙がやんわりと、瑞希に教えた。
 死の舞踏のほうも、まだなんか。俺はもう成就したんやと思うてた。教会や船に現れた骨がそうなのかと思ってた。
「神の戸の岩戸って、どこのことや。お前がそれを知ってたら、なまずを出迎えられるんやけどなあ」
 神の戸の、岩戸に、死の舞踏が現れると、天使だった瑞希は予言を伝えた。そういえば、岩戸って、なに。神の戸って、神戸のことやろ。神戸の岩戸って、どこのことや。そういう地名があんのか。
「知りません」
 困ったような顔をして、瑞希は俺と水煙を、交互にちらちら眺めた。
 知らんて。知らんのか。
「何も知らんと予言だけ伝えてたんか」
「そうです。そしたら先輩に会えるっていうから」
 俺はちょっと、くらっと来た。お前、けっこう、直情的なんやな。もうちょっと、賢いんかと思うてた。幻想やったんか、俺の。実はお前も、ちょっとアホか、瑞希。
「必死すぎやで、犬」
 呆れたんか、亨はものすご馬鹿にしたような声で、瑞希にそう言うた。
「まあ、そう言うな、亨。お前もそれにかけては他人をとやかく言えんようなアホや」
 さらりと水煙は罵っていた。涼しい顔で。
 亨はそれが何か痛かったんか、くっと呻いて眉間を押さえていた。
「アホや言うてる。俺のこと、アホや言うてますよ、この青い人。お前も大概アホや言うねん。アキちゃん好きすぎるチーム全員アホやから」
 何言うてんのやろ、水地亨。俺、理解したくないわ。お前がアホでも、もう、しょうがない。それでも愛してるからええわ。せやけど水煙や瑞希には、俺はまだ幻想あんのに。アホ呼ばわりせんといてくれへんか。特に水煙。
「なんとも思わへんかったんか、犬。アキちゃんが、水底で死ぬなんていう予言を運んできながら、お前はなんも感じへんかったんか」
 黒い目でじっと瑞希を見つめて、水煙は興味深そうに訊いた。瑞希はじっと、それを見つめ返していた。なんとなく、恐ろしいように。
「感じた。先輩、死ぬんやろかって、心配はしてた」
「その程度か。アホやな、お前も。今となっては蛇の方がマシや」
 水煙にかかれば、誰でもこんなもん。めちゃめちゃ冷たかった。あっさり言われて、瑞希はちょっと、ぐっと来たようやった。でも、水煙が自分から目を逸らすのを、驚いたような顔で、ただ見送っただけやった。
「役に立たん犬や。どうせ戻るんやったら、天界からなんか、耳寄りな話のふたつみっつ、盗んできたらええのに」
「すみません」
 にこやかなような無表情で、水煙は軽やかに話し、瑞希はそれに大人しく謝っていた。俺はそれを眺め、可哀想になった。もちろん、犬がやで。 
「水煙……」
 俺は慌てて、水煙様にお縋りしていた。
「何や、アキちゃん」
 めっちゃ優しく、水煙は俺に答えた。確かにちょっと、水煙はえげつない。
「瑞希にも、優しくしてやってくれ。やっと戻ってきたとこやねん。いじめる必要ないやろ……?」
 そんな必要、あるんかもしれへん。だって水煙は俺の事が好きで、瑞希は恋敵と言えなくもない。せやけど亨と仲良うできるんやったら、瑞希とも仲良うできるやろ。同じやろ。何が違うんや。
「そうか。ほんなら、優しゅうするわ。こいつには役に立ってもらわなあかんのやからなあ」
 にっこり答える水煙が、俺はやっぱり怖かった。
 優しい神ではない。厳しい、恐ろしい、血筋の守り神や。俺はそれを知ってたつもりやったけど、この時それを深く実感した。
 水煙も、俺のおかんみたいや。
 いや、おかんが水煙に、似てんのかもしれへん。
 水煙はうちの血筋に憑いている神や。秋津のご神刀。家のためなら、犬でも殺すし、俺のためなら、何でもする。それは俺が可愛いジュニアで、秋津の直系の血を引く、跡取りやからや。
 そうでなければ、ただの餓鬼。きっとそうなんやろ、水煙にとっては。
 まさか、おかんにとっても、そうやったやろか。血筋にふさわしい力がなければ、おかんの籍には入れへんと、俺に秋津暁彦ではなく、本間暁彦という名を与えた。仮の名や。でもそれが、俺の一生の名前になるかもしれへん。もし俺が、本間暁彦のまま死ねば、それが俺の、本当の名になる。
「優しゅう言うても、おんなじやけどな、犬。お前には、死んでもらうことになってる。なまずというのは、地震を起こす神や。そいつが目覚めると、アキちゃんは式神を、生け贄として捧げなあかん。秋津の当主としての、名誉がかかっている。もちろん人命もかかっている。上手くなまずなだめへんかったら、神戸はもとより、三都一円に甚大な被害が出ることもありうる。それを最小限に食い止められるかどうかに、秋津家の面子がかかってんのや」
 水煙は俺が頼んだとおり、優しい声で話してた。
 でも、確かに、同じや。優しく言おうが、冷たく言おうが、言うてることは酷い。
 やっぱり俺が、話すべきやった。でもそれを、水煙がすでに話しているところで、思っても無駄や。卑怯な自己弁護やわ。後悔したかて、自分で話さへんかった事にはなんも変わりはないからな。
「だからって……なんで俺なんや」
 瑞希は話を理解したんか、呆然とした、引きつるような固い顔やった。俺はもう、話しはええやんかと、止めたくなった。その先の話を、瑞希に聞かせたくなくて。
「なんで、って。お前しかおらん。うちには式神が、俺とお前しかおらんのや。俺は剣の精やし、鉄やからな。なまずは食わへん。肉気のもんでないとあかんのや」
「蛇がおるやろ」
 亨からも俺からも、目を背けるように、瑞希は水煙を食い入る目で見てた。亨はそれを、まるで映画でも見るように、じいっと無表情に眺めていたわ。
「亨はもう、アキちゃんの式神やないんや。たとえそうでも、にえには出されへん。お前にはつらいやろうけど、アキちゃんは亨に惚れてんのや。亨が死んだら、生きていかれへん。アキちゃん死んだら、お前もつらいやろ?」
 簡単明瞭な三段論法や。すでに自分は割り切っている。そういうさばけた顔で、水煙は犬に教えてやっていた。確かにちょっと哀愁はあったけど、水煙はもう、諦めているらしい。亨に負けたと、道を譲ってる。亨はそれをじっと、真剣な目で見つめていた。まるで水煙がいつ抜くか、自分に襲いかかる剣に化けるか、警戒しているみたいな、用心深い目で。
 だけど今、お前が警戒したほうがええのは、瑞希のほうやないか。こいつはいっぺん、疫神にイカレたとはいえ、お前を殺そうとした。ほとんど殺してた。それをまた、もういっぺん、ここで再現するかもしれへんのやで。
 そうなったら俺はきっと、また亨を助けるんやろ。今度こそ体を張って助けると思う。俺もちょっとは使うようになったんやで、瑞希。自重してくれ。俺がお前を、傷つけへんように。
「つらい……でも、俺はもう、死ぬのは怖くないです。死ねっていうなら、何遍でも死ぬ。でももう、離れてるのはつらいんや。死んだら先輩と一緒に居られへん。やっと戻ってきたのに……また戻れるかどうか、わからへんのやもん」
 瑞希は嘆く口調で、水煙に話していた。キレて襲いかかってくる奴のようには、見えへんかった。
「そうやな。魂が強靭であれば、肉体や命を失っても、また舞い戻ることもあるやろ。まあ、簡単ではないけど。普通は無理やけどな。いっぺんやれたんや。普通でない力を振り絞れ。また奇蹟が起きるかもしれへん」
「簡単に言うよなあ、お前は。他人事やと思うて……ほんなら誰が死のうがええやんか。アキちゃん死んだかて、奇蹟が起きて、戻れるかもしれへんのやし、ええやんか」
 水煙の素っ気なさに、亨は呆れたんやろうか。まるで情け深いようなイヤミを、水煙に言うてた。水煙はそれに、くすくすと笑い声をあげ、苦笑したような顔をしていた。
「何を言うてんのや、アホ。戻ってこられへんかったらどないすんねん。普通は戻られへん。この子のおとんかて、俺がおったから何とか戻れたんや。人間や犬畜生が、そう簡単に冥界の神から逃れられるもんか。死んだらそれで最後なんや」
「死んだら冥界へ行くんか」
 亨は恐ろしそうに、水煙に訊ねた。
「そうや。そして冥界を支配する神々に囲われるんや。死後に行く位相やな。鯰《なまず》のように、命を食らう神もおるけど、魂のほうを食う神もおる。肉体を食う鬼もおる。人間というのは、美味いもんなんや」
「お前はなんでも食うけどな……肉も命も、魂も」
 亨はうつむき、訳知り顔でぽつりと言うた。それに笑った水煙の顔が、俺はほんまに怖かった。にやりという笑みやった。小さく並んだ行儀のよい歯が、ずらりと白く鮮やかに見え、水煙は白い舌で、乾いたらしい自分の唇を舐めた。それがあたかも、飢えて舌なめずりする鬼のようやった。美しいけど、禍々しい、そういう神や、水煙様は。
「アキちゃんは死なせへん。そんなん論外や。まだ跡取りもおらへんのやし」
 けろっと言われた水煙の話に、俺は瞬間、愕然としてた。
 やっぱりそうなんや。水煙にとって俺は、過去にいっぱい居った秋津の当主のうちの一人で、最初でもなけりゃ、最後でもない。途中の一人や。そんな子おったなあ、って、いつか忘れてまうような、そんな子のひとりやねん。
 次の子ができて、そいつが役に立つようになれば、水煙はそいつのほうが好きになる。おとんより俺が好きなように、こいつは俺の息子に惚れるんや。
 無茶苦茶な話や。そんなんアリか。
 もしも俺が普通の体で、普通に年老いて死ぬ身やったら、いずれそんな日は来た。水煙が、俺でなく、よりにもよって俺の血を引く息子に恋をする。そして、お前はもう過去やって、俺を捨てていくんや。
 そういうもんなんやろ。神とげきとの関係なんて。
 おとんは水煙を俺にくれてやるとき、どんな気分やったんやろ。悲しかったか。そんなふうには見えへんかったけど。むしろ水煙のほうが、置いてけぼりにされて、切ないみたいやったけど。
 きっと、いい気味やと思うてたんやろ、おとん大明神。捨てられる前に、捨ててやったわ、って。そして、おかんとハネムーン。六十年遅れの。その旅先から送られてくる手紙の、いちゃいちゃ甘い旅日記みたいなのに、ゆっくり幻滅してたんは、なんも俺だけやない。水煙がなんで、おとんを忘れて、俺に惚れたか、俺は考えてみたことがなかった。
 俺は、おかんを盗られた悔しさで頭がいっぱいで、俺はつらいと、そればっかり思うてたけど、ほんまは水煙かてつらかったんやないか。こいつはこいつで、おとんをとられた。もう忘れなあかんて、そう思ってたんやないか。忘れへんかったら、つらいやんか。
 おとんも水煙に、ひどいことをした。俺が水煙に、ひどいことをしたように。
 でもそれは、水煙がおとんに、ひどいことをしてたからやないか。いくら好きやと燃えてくれても、そのオチにあるのは冷たい心変わりやって、おとんは知っていたやろ。自分も自分の先代から、水煙をぶんどって当主になった。その神剣が鮮やかなまでに自分に心を移すのを、おとんは実際見たわけやから。
 たった一度だけ、俺が亨にふられたつもりで抱いた時、水煙は、なんで俺では駄目なんやと、傷ついたような目で俺を見てたが、なぜかの理由はそこらへんにあったかもしれへん。お前は薄情な神や。いくらその時、情熱的でも、忘れる時はあっさりしてる。
 愛されたければ、お前は神剣やめなあかん。次から次へ、親から子へ、手から手へと身を任せるような、そんな不実な奴を愛されへんねん。何もかも捨てて、俺と一緒に死んでくれるっていう亨を、好きになるみたいには。
「跡取りおったら、死んでもええんか」
 皮肉な笑みで、亨が訊いた。それに水煙は、むっと険しい顔をした。
「なんや蛇。俺とまた喧嘩すんのか」
「いいや。そうやないけど。お前もけっこう手ぬるいとこあるんやなあと思って。そんなん言うてるから、アキちゃんにモテへんのやで。そやからお前はあかんねん。穴の有る無し関係ないねん」
 言いにくそうに言う亨の話に、水煙はむっとしたままの顔で、唖然としていた。そらまあ、唖然とするよな。亨の話って、俺もときどき頭真っ白になるくらい、唖然とするわ。
 亨は水煙がそんな顔してんのも、全然気にせず話を続けた。
「もう、次の当主に相続されんのは、嫌なんやろ。そう言うてたやん、ほら……水族館で。竜太郎と話してる時。ほら、あの。言うたらあかん感じのお姿で。憶えてへんのか?」
「そんなん言うてたか?」
 憶えてへんらしい顔で、水煙はきょろりと目を泳がせていた。
「憶えてへんのか……。ほんならあれが、お前の本音なんやで」
 あーあ、みたいなため息をついて、亨は俺の隣で、ぐったりソファに沈み込んでた。そして俺の手を探すようにして、指を絡めてきて、亨はじっと俺を見上げた。顔色をうかがうように。ちょっと慰めるような目で。
「アキちゃん、こいつな、嫌やて言うてたで。アキちゃんはもう、俺の眷属なったせいで、永遠に生きるんや。そやからな、もう代替わりせえへんでもええやんか。水煙はずっと、アキちゃんの剣で居れるやん。それが嬉しいらしいで、水煙様はな」
 したり顔で言う亨に、俺はなんか返事しようかと、唇は開いたものの、淡いため息みたいなのしか、出てけえへんかった。
 こいつは何を、言うてんのやろ。焼き餅焼きのくせに、一体俺に、何を言いたいんや。
「そんな顔せんでええやん。水煙様はアキちゃんが好きなんやで。あのアキちゃんやのうて、このアキちゃんや。次のでもない。ずっとこのアキちゃんらしいで」
 俺の胸をずしずし指で突いて、亨は冷やかす見たいな、やけくその口調で言うてた。
 俺はそれを、ぽかんと口あけたまま聞いた。
 亨もどこか、俺の心を知っているようなところがある。水煙ほどではないけども、最初からずっと、なんも言わんでも俺の気持ちを理解してくれてた。
 でも、お前、そんなことまで理解するんか。理解してもうて、ええんか。
 俺は動揺して、他に見るもんがなく、向き合って座っている水煙の、困ったような険しい顔を見た。表情は乏しいけども、水煙は確かに、眉間に皺を寄せてたし、どうしてええかわからんて、そういう悲しい目をしてた。
 俺と目が合うと、水煙は微かに視線を震わせ、目を逸らした。恥ずかしいって、俺に抱かれて震えてた、そういう感じの態度やった。
「アホやからな……」
 ぽつりと言うてた水煙が、誰のことを罵ってんのか、俺にはわからへん。亨のことのように思えた。それとも、自分自身のことやろか。
「そんな話……どうでもええやろ。びっくりして何の話やったか、忘れてもうたやないか」
「年増やからボケてんねん」
 亨は水煙に文句を言われ、俺の手を握って、だるそうにもたれかかってきながら、ソファのうえに、だらしなく脚あげて寝そべる構えやった。
 それを瑞希が、どことなく光るような目で見てた。俺はそのことに気がついて、緊張していた。こいつは嫉妬深い犬や。人に惚れればそれで普通かもしれへんけど、一月ばかり前に瑞希は、俺にべたべたするからというだけの理由で、女の子をひとり殺した。それは疫病による狂気のせいか。それともこいつは、そういう性格なんか。
「あのなあ瑞希ちゃん、ほんまに死ぬの怖くないんやったら、死んでやってくれへんか。アキちゃんのために。それで助かるんや。男になれる。お前に一生感謝すると思うわ。一生って、アキちゃんの場合、永遠にやで。それだけやったら、足りへんか?」
 ごろりと寝たまま、亨は天井を見上げて、瑞希を口説いた。
 面と向かっては、言いにくいんか。そう思う俺は、亨を美化しすぎか。俺にはこいつは、優しいように思えるんやけど、惚れてもうた脳みそで考える、蕩けたみたいな惚気やろうか。
「……いつやねん、それは」
 瑞希は悩んだような、苦しそうな声で訊ねた。
明明後日しあさってや」
 亨の返事を聞いて、瑞希はやっと、俺を見た。じっと思い詰めたような、縋り付くような、助けを求めてる目で、俺を眺め、その視線はちらちらと、惑うように揺れた。
「あと、二日?」
「今日入れたら三日やんか」
 それで何かマシになるんか。俺にはそう思えることを、亨は、良かったなぁ一日増えて、みたいに言うてやってた。
「もう昼過ぎてるで……」
 耐えてるように、自分の膝を掴んで教える瑞希の声に、亨はやっと気付いたみたいに、俺の手をとって腕時計を見た。
 亨は時計はせえへんらしい。興味ないんやって。時間知る必要があれば、携帯もあるし。それに俺の腕時計もある。いつも俺と一緒に居れば、自分の腕に時計がなくても、別に困らへんやろ。
「ほんまや、飯時やんか。アキちゃん、腹へったやろ。パスタ食いに行く約束やったやんか。行こか」
 がばっと起きて、亨はソファの上で四つん這いになって、俺に顔を近づけた。近いねんて。もうちょっとで、ほっぺたにキスしそうやろ。それを気にするのは久しぶりや。まるで夏に大学で、祇園祭のCG作ってた頃みたい。
「肝心な話やのに。しゃあない。行っておいで」
 ぷんぷんしたふうに、水煙はそっぽを向いて、俺と亨を送り出すような構えやった。ふたりで行けと、水煙は言うてんのやろ。最近ずっと、そんなふうに気を遣うてたようやったから。
「何言うてんの。お前も来たほうがええで。ワンワンと二人で部屋に残って、何されるかわからんやないか。この際、チーム秋津はグループ交際やから」
 素足でぺたぺたクロゼットに靴を取りにいき、亨は水煙を心配してるような口ぶりやった。
 確かにそうやな。瑞希を信用していいか、俺にはまだ分からへん。虎に水煙を預けたくないって、それを渋った時のようには、警戒してへんかったけど、言われてみれば確かにそうや。こいつはほんまに、信用してええ奴なんか。
「ティラミス食え。アイス食えたんやから。ティラミス食うとけ。まじで美味いから」
 わざわざ指差して、水煙に話しかけ、亨は部屋の電話の受話器を耳に当てていた。どこに電話するつもりなんや。
 相手はすぐに出たようで、ホテルのルームサービスの人らしい声がした。
「車椅子、貸してください。ホテルの備品であるやろ?」
 電話の相手に話す亨は、勝手知ったるもんやった。あって当然と思うてるらしい。
 まあ。知ってんのかもな。勝手を。こいつは俺と住む前は、ホテルに住んでいたらしい。俺と出会った東山のホテルや。最上階のインペリアル・スイート。中西さんが、まだ藤堂さんやった頃に作った部屋にやで。その同じ人が、支配人をやってるホテルなんやしな、まるで自分の家みたいでも、まあ、しゃあない。
 俺はもう、それにいちいちムカッとできるような、ご立派な立場やないわ。正直しょんぼり。亨に言わんといてくれ。格好悪いから。
 果たして備品の車椅子は、部屋の外でスタンバイして待ってたんちゃうかと思うほどの迅速さで、俺らの部屋に届けられた。マシーンかみたいな、完璧な接客のホテルマンによって。
「水煙、押してやるから乗っていき。そういつまでも、アキちゃんのお姫様抱っこをせしめさせへん」
 ホテルマンの置いていった車椅子を、水煙の座るソファの隣に横付けし、亨は、さあ乗れと迫るように言った。車椅子のハンドル握って自分を見下ろす亨を、水煙は少々たじろいで見上げていた。
「ケチやな、亨」
「そらケチにもなるわ。チームメンバー増える一方で、俺のとり分は減る一方やねんから。そうそう、いつまでも、お前だけに、ええ思いはさせへんで」
 真面目に言って、亨はじっと、水煙の足を見た。ひょろっとしていて、華奢やねんけど、その足で立たれへんほど萎え萎えやというほど、アンバランスな貧弱さではない。美脚やで。ちょっと、リカちゃん人形系やけど。
「お前、ほんまに立たれへんのか」
 亨に訊かれて、水煙は難しい顔で、一応真面目に考えているようやった。
「立つくらいは、できるかもしれへん。ちょっとの間やったら」
「ほな自分で立ち。何事も努力や。いつまでも、そんなんやったら、アキちゃんの足手まといやんか。ずっと人型してたいんやったら、努力せえ。できへんと思うてるから、できへんようになるねん。自分で立って歩き回れたら、行きたいとこにも自由に行けるんやで」
「別にないけどなぁ、行きたいところなんて……」
 根っからのインドア派。引き籠もりのお姫様。そんな感じのする、意欲なさそうな口調で、水煙は答えたが、でも自分で立つつもりらしかった。絵を大事そうに脇に置き、そして、ソファの肘掛けに手をかけた。
 よいしょ、と渾身の力で踏ん張っているらしい、必死の顔を見て、俺はにわかに慌てた。そんなんせんでええねん、水煙。コケたらどないすんねん。お姫様抱っこはあかん、車椅子に乗れっていうんやったら、乗るときぐらい俺が抱っこして乗せたるやん。
 抱き上げればめちゃめちゃ軽い、そんな体でも、水煙には重いらしかった。ううん、みたいに呻いて立ち上がり、そして一瞬でコケてた。
 ひいい、うちの神さまやのに!
 と思った俺の動きは、ちょっと自分でも寒いほど素早かったな。ソファの間に置いてある、趣味のいいコーヒーテーブルを、靴脱いだ素足とはいえ、足蹴にして踏み越えてまで、倒れ込む水煙を抱き留めていた。
 うわあって、びっくりした顔で、亨は倒れる水煙をあんぐり見ていただけやった。
 お前、助けへんのやったら、無茶させんのやめてくれ。怪我でもしたらどないすんねん。綺麗な顔にあざでもできたら。ご神刀に傷でもついたら、どないしてくれるんや!
 俺はとっさに、そんな必死顔やったんか。亨はあんぐりしたまま、俺と向き合っていた。
「必死やな、アキちゃん……」
 ぽかんとした亨に言われ、俺は正直気まずかった。これがもし水煙やのうて俺やったら、そこまでするかと、亨に責められてるような気がして。
 そこまでは、せえへんかもしれへんな。だってお前は強いやん。水煙はへなへなやけど。本能やねん。俺の。弱けりゃ弱いほど、守ってやりたい欲求がより強く働くんやんか。お前かて死にかけて寝込んでた時には、ずっと抱いといたやないか。
「立たれへんみたいやわ」
 俺の胸に抱かれたまま、じっと見上げて、水煙が俺に教えた。可愛いような気がした。
 見たらあかん。ぎゅっと目を閉じて、俺はうんうんと頷いた。
「無理せんでええねん。剣なんやから、一人で立ってうろうろしたらおかしい。足手まといってことはないから……気にせんでええねん」
「そうやろか……」
 まさか気にしてんのか。亨が変なこと言うからや。
 水煙は、俺の胸に頬を乗せ、小さくぎゅっと俺を抱いたが、それは傍目に分かるほどではなかった。単に体が重いから、ぐったりと、もたれかかっているだけみたいに見えたやろ。
 でも何となく、水煙に抱きつかれたような気がした。心臓が、どきどきしているのが伝わってきたんや。心臓、あるんや、水煙にも。すごく小さな鼓動やったけど、脈打つ何かが胸に感じられた。
 たぶん、怖かったんやないか。立ったことないし、転んだこともない。この体にまだ慣れてないんやし。努力せえと亨は言うけど、水煙にとっては実は、この体で人界にいること自体が、けっこう大変なんやないのかな。
 ああもうほんまに無理せんといてほしい。別に剣のままでもええんやから。
「アキちゃん、座らせて。車椅子」
 いつまでも、抱っこしている俺に、水煙が小声で頼んだ。
 ちょっと長かったか。水煙の抱き心地は気持ちがいい。だから未練がましかったか。俺も変やわ。よくもまあ、亨や瑞希の見ている前で、水煙様といちゃつくもんやで。
 俺のもんやっていう意識が相当強くて、ちょっと執念入ってる。これは一種の、血筋の呪いやないやろか。ほんまに水煙は、うちの血筋に呪いをかけているような気がする。その血に連なる者が、自分に執着するように。
 水煙を、折りたたみ式の車椅子の、偽物の革のシートに座らせると、なんでか俺の気は物凄く咎めた。借り物やしな。それに合皮というのか、いかがなものか。冷たいやろう。冷たくたって、水煙は平気なんやろけど、でも俺が気になる。
 もし、ずっと車椅子乗るんやったら、どっかに依頼して作ってもらわなあかん。特注か、やはり。水煙様専用車椅子。どんなんがええかな。もちろん革は本物で。仔牛革カーフか、いっそ仔山羊革キッドかな。手袋とかに使う、柔らかいやつやで。
 そんなん考えてる俺はアホ。車椅子のデザインする気か。する気まんまんやったけど、そんな暢気なこと考えてる場合でもないのにな。伸るか反るかの、正念場やのに。
「なんか膝にかけるもんあったほうが良くないか?」
 脚をそろえてやりつつ、俺が訊くと、水煙は不思議そうな顔をした。
「あったほうがええんか?」
「いや……寒いかなと思って。何か買おうか、ホテルの店で」
 嘘です。服着てないのに、裸身丸見えやと大サービスすぎかと思うただけです。
「ええやん別に。寒いわけない。いつも裸やねんから。さっさと行こうよ、アキちゃん」
 ぷんぷんしてきたらしい亨が、ガミガミ俺を急かした。
 すみません。ガミガミ言われて当然です。
「犬も行くで。ぼけっとしとらんと靴はけよ」
 ぽかんと見ていた瑞希に、亨はだるそうに声かけた。ほんまは誘いたくないけど、しゃあないから誘うと言わんばかりの声やった。
「え……俺も行くの?」
「そらそうやろ。お前も今や家族なんやから。チーム秋津のメンバーなんやろ。それともお前はもう飯食われへんのか?」
 天使経験者やしな。もはや俗界の飯など食わんのかと、亨はそう思ったらしい。
 瑞希はぽかんと考えて、自分の腹具合を探ったらしい。
「食えるとは思うけど……」
 遠慮してるらしい。それでも、腹減ったみたいな顔で、瑞希はしょんぼりしていた。亨はそれに知らん顔して、とっとと水煙の車椅子を押していった。
「先行ってるからな、アキちゃん。ぐずぐずしてへんと来るんやで!」
 とっとと出ていく亨は、たぶん俺に気を遣っている。あいつはそういう、変なとこある。
 瑞希と俺を、ふたりっきりにして、サシで話をさせてやろうという事やったんやろ。なんであいつがそんな気を遣うんか、俺にはよう分からん。あと二日三日で生け贄になる犬が、可哀想やとでも思ってたんか。
 たぶん、そんなところなんやろうけど、そんなこと思えるあいつが、長らく悪魔サタンとして狩られていたというのは、納得のいかん話や。人間ていうのは、勝手な思いこみで神を悪魔とすり替えて、殺したりする。そういう、愚かな生き物なんやろな。
「ジェットコースターしよか、水煙。超特急でいこか」
 そんな話をしている亨の声が廊下に消えて、やめてくれと血相変えてるらしい水煙の悲鳴がしたが、俺はそれをすぐには追いかけられへんかった。
 瑞希がまだしょんぼりと、ソファに座ったままやったからや。
「どしたんや。行こか。腹減ってんのやろ?」
 肩を落として絵を見てる、瑞希の痩せた顔に、俺は気まずく声をかけた。痩せたなあと思って。やつれたというか、最後に見た時よりも、なんか、へこたれている。堕天使なるのって、どれくらいしんどいもんなんか。全く見当もつかへんわ。
「腹減ってるような気はするんですけど、でも、たぶん、飯食うても治りません」
「具合悪いんか?」
 俺は何の気なしに、それを訊いた。身内やしな、なんでもないような質問や。具合悪そうやったら心配するし、どないしたんやって訊くぐらい、普通やろ。
 でも、それは俺と瑞希にとっては、普通でなかった。それを訊くのに三万年かかった。俺がもっと早くに、それを瑞希に訊いてやってれば、そもそも起きなかった問題や、死なんで済んだ人らがいてる。
 瑞希はちょっと切なそうに俺を見た。
「具合、悪くはないです。疲れただけです。休めば治ると思う……」
 じっと俺を見て、瑞希は顔をしかめた。何かつらくて、我慢できへんというような顔をして、すぐに目を逸らした。
「ゆっくり休めば、治ると思います。でも、ほんまの話なんですか。さっきの」
 暗い声で話す、その話口調には、耳に覚えがあって、俺は身構えた。何度かこいつに聞かされた。爆発寸前みたいな、押し殺した声や。悲痛に俺をかき口説く前の、いつもの、悲しそうな犬の声。
「あと三日しかないんですか。でも、俺が死んだら、先輩の役に立つんですか。そうなんやったら、死んでもええねん。死んでこいって、命令してくれたら、いつでも行くわ。でも……」
 ぶつりと途切れたように、瑞希の話は途中で止まった。
 なぜ黙るのか、俺はどうしても気になって、いつのまにか逸らしていた目を、俺はまた座る瑞希に向けていた。瑞希はじっと、ソファの上に残されていた、水煙の絵を見てた。微かに胸を喘がせて、今まさに覚悟を決めてるような横顔やった。
「でもな……先輩。そしたら俺のことも、愛してくれる? 抱いてくれますか。あと二日。それでもええねん。そのために、死んでもええわって思うくらいや。いつも言うてたでしょ」
 燃えるようやった。まだ天使やった時の、こいつを抱きしめた時、まるで火でできてるような、熱い体やった。その火がまだ瑞希の身の内や、目の奥に、残っているように思え、きっと抱いたら燃えるようなんやろうなと思えた。
 俺は呆然として、そのことを思い、なんも答えられずに、瑞希とただ睨み合っていた。
 こいつは、どうせえ言うてんのやろ。考えんでも分かるような、自分が求められていることが、俺にはそのとき、頭がめちゃくちゃ混乱していて、よう分からんかった。たぶん、心底ビビってたんや。
 何にって。
 何にか分からん。
 たぶん、自分が亨にこう言う。悪いんやけど、今夜は瑞希と寝るわ。お前はどこか、よそへ行け。
 その時、水地亨がどんな顔をするか。アホか食うてまうぞと俺に怒鳴るか。それとも、ああ、そうなんやと言うて、寂しそうに去る。その背中を見るときの、自分が怖い。
 そんなこと、俺はしたくない。亨をそんな目に遭わせたくない。
 だって、出会ってからずっと、毎晩抱き合って寝た。この八ヶ月、あいつと抱き合って寝てない日はない。離れているのが、怖いねん。アホみたいかもしれへんけど、亨の手を離すのが怖い。そしたらもう、あいつは俺のもんではなくなる。誰かに遠く連れ去られて、もう二度と、会えないような気がして、そんな自分の漠然とした妄想にも、耐えられへん。
「嫌ですか。それも嫌なんか。ただで死ねっていうんか、先輩」
 何か支払えというように、瑞希はどこか醒めた声して、俺に訊ねた。ずいぶん返事を待ったけど、もう待たへんて、そんな感じの、かすかな脅迫めいた響きのある声やった。
 確かに、お前の言うとおりやな。なんで俺のために、ただで死んでくれなんて、頼めるやろか。何を積んだら納得いくんや。そんな代償はありえへん。そのために、死んでもええわっていうようなモンが、この世にどれだけあるやろ。
 でも確かに、瑞希はいつも、そう言うてた。抱いてくれたら死んでもいいって。
 けど、それは、ものの例えやろ。ほんまに死んでもええわけやないやろ。それが、ほんまになるなんて、無茶苦茶やないか。
 迂闊なこと、口に出すもんやない。言葉にしたら、ほんまになってまう。言葉にも、力があるんや。
 うちのおかんが、そう言うてた。
 言霊というんえ。天地あめつちが、人の話を聞いてはる。そう言うんやったら、その通りしたろうかって、動かはる。せやから、不吉なことや、よこしまなこと、心にもない嘘は、口に出したらあかんえと、おかんは口酸っぱくして言うて、俺を躾けた。俺は子供のころからずっと、口が悪かったからなあ。
 そのせいか、土壇場なると、口をきくのが怖いような気がする時がある。迂闊なことを言うてもうて、えらいことなったらどうしようかって。
 この時も、俺の舌は凍り付いたように、ものを言わへんかった。
 なんて言えばええねん。
 そうや。ただで死ね。お前は俺の式神なんやから。主人が死ねというんや、大人しく命令に従えばええんやと、そう言うんか。
 それとも、お前は可哀想なやつやと。この二日と半日をかけて、ゆっくり可愛がってやるから、それで満足して死ねと。そう言えばええんか。
 どっちも無理や。俺にはとても、言われへん。どっちも本心ではない。心にもないことや。自分の心に添うてない感じがする。嘘をついているような気が。
 瑞希は黙っている俺を見て、またキレんのかと思った。
 だけど短く、ため息みたいな息をつき、目を泳がせただけやった。
 それから静かに、瑞希は立ち上がった。もう俺の傍には、寄って来なかった。
「すみません。我が儘言うて。もう、行きましょうか。待たせたら、悪いから」
 もう俺は、諦めた。我が儘言わへん。大人しく、付き従うって、そういう距離感で、瑞希は俺の横に来て、部屋から出て行くドアを眺め、それから行こうと促すように、立ちん坊してる俺の顔色をうかがっていた。
 そうやな。さっさと行かんと、亨も怒るやろ。要らん勘ぐりされても困る。何をしてたんやって、うるさく訊かれても、答えようがない。ただ話してただけやって、そんなんで納得するような奴やあらへん。
 でも何か、俺は微かに身震いが来てた。怖くて。俺はいったい、どうするつもりなんやろう。これから先、どうやって生きていくつもりなんや。道がぜんぜん見えへんねん。どっちに進んだらええか、真っ暗闇の中で立ち往生してて、行き先が決まらんような不安があった。
「二日やで。今日を入れて三日や。たったそれだけで、お前はほんまに納得できるんか」
 顔を見るのも怖かったけど、目も合わせずにそんなこと訊くのは卑怯やわ。それで俺は、恐る恐る瑞希の顔を見た。無表情に凍りついたような痩せた顔が、ほんの一歩の先にあり、じっと見開いた目で、俺を見つめ返してきた。
 やっぱりその目の中には、何か燃えているような気がする。それは怨念かもしれへん。俺への、恋情とか、執着とか、怒りとか、そういうもんかもしれへん。
 薄く開いた瑞希の唇が、喘ぐような息をするのを、俺は見た。
「納得は、できません。俺がどんだけ、この日を待ったか、先輩にはわからへんのやろう。長かったです。せやのに、たったの三日って……。一日付き合うのに、一万年? ずいぶん、高いんやな、先輩は。ぜんぜん、採算合わへんわ」
 泣きそうに言って、瑞希は皮肉めいた笑みやった。確かに、長いよな。これっぽっちも想像つかへん。
 ためらったような、ゆっくりとした動きで近づき、瑞希はまるでスローモーションの絵のように、腕を伸ばして俺のシャツの胸を掴んだ。
 いつもと同じ、思い詰めたような目で、瑞希は間近に迫って俺を見上げた。
「キスしてください。それくらいして。やっと戻ってきたんやで、先輩」
 切なそうな、苦しい顔やった。
 笑ったらきっと、可愛い顔なんやろうけど、俺は瑞希が心から笑っているところを、あんまり見たことがない。それはたぶん、俺が悪いんやろう。
 亨はいつも、にこにこしていて、それが好き。お前ももっと、笑えばええのに。でも、そんなこと、とてもやないけど命令できへん。俺がお前のあるじやと、そういう態度で命じれば、たぶん、にっこり笑うんやろうけど、それはお前の心とは違う。嘘やから。
 待ってる体を抱き寄せて、俺は瑞希の華奢な顎を掴み、覚悟を決めてキスをした。だってそれくらい、してやらなあかんのと違うか。こいつは俺のせいで、どんだけつらい目に遭ってきたやろ。それがこいつの自業自得やとは、俺はどうしても思えへん。何もかも、俺のせいやって思ってる。
 唇が触れると、瑞希はもう我慢できへんように、俺に縋り付いてきた。熱い抱擁やった。実体のない、幽霊ではない。やっぱり燃えるような体で、それでも凍えているように震えてる。がたがた震えてる体を強く抱きしめて、俺は貪るようなキスをしたけど、それに応えてくる唇のほうが、もっと激しかった。
 あと三日や。あと三日だけやから。
 俺は誰にともなく、心の中でそんな言い訳をして、長すぎるように思えたキスを振りほどいた。
 唇が離れると、瑞希はすぐに抱擁を逃れ、顔を覆って身を捩り、はあはあ荒い息をしていた。なんだか泣いてるみたいやった。苦しげに、呻いているような、小さな声が聞こえた。
「あんまりや。三日だけなんて。先輩はいつも、無茶苦茶やねん。俺はもう、ほんまにつらい。先輩になんか、惚れへんかったらよかった」
「逃げてもええんやで。嫌なんやったら。俺の式神なんかやめて、どこかへ逃げろ。そしたら死なんで済むんやで」
 それは無意識に言うた話やったけど、絆を断ち切る言葉やったかもしれへん。
 瑞希は激しく首を振り、拒む目をして俺を見上げた。
「嫌や! そんなこと、言わんといてください。どこへ行くんや。先輩にまた会いたくて、なんでも耐えたのに。何で今さら、よそへ行かなあかんのや。ひどいと思わへんのですか。ひどいねん、先輩は!」
 そうやな。俺は非道やわ。お前を二度も殺して、その後、どうやって生きていくんやろう。亨と水煙、両手に花で、幸せに生きていくんかな。そんなハッピーエンド?
 そんな自分が、俺はほんまに好きやろか。そんな心で、いい絵が描けるか。
 俺はほんまに、絵描きになりたかったんや。絵が好きやしな、それより他に能があるとは思えへん。賢い子やし、アキちゃんなんにでもなれるわって、おかんは俺を自慢に思うてくれてたようやったけど、俺が一生かけて身を捧げてもいいと思える道は、ふたつしかなかった。秋津の家を継ぐことと、それから絵を描くことだけや。
 そのほかの道で、自分が幸せになれるわけない気がするねん。
 絵が描けんようになったといって、俺の前の彼女は自殺したらしい。聖トミ子のほうやのうて、そのガワのほう。可愛いやったで。俺にとっては、ほとんど知らん女なんやろうけど。
 絵が描けへんようになったといって、気が滅入り、果ては死んでもうたという話を聞いて、俺は、なんて可哀想なやと思った。惨めやわ、そんな死は。絵を描くことが自分の存在意義やと思うてる人間にとって、絵が描けんようになるのは、死ぬよりつらいやろ。
 それが俺への片想いに悩んだせいやと言われても、俺にはどうしようもない。知らへんかった。何のアプローチもなかったし。言い寄ってきた時にはもう、聖トミ子のほうやったんやからな。
 でも、彼女のことを考えると、罪悪感を覚える。俺が殺した。俺のせいで死んだ。大勢いてる、彼女もそんな人らのうちの一人や。
 そんな死体を踏み越えて、俺はどんな絵を描こうというんやろう。
 一度ならず二度までも、瑞希を殺して、それでもまだ描ける絵があるんか。俺は卑怯や。卑怯やと思う。それがげきの普通の姿やと言われても、うちの先祖代々が、そうやって生きてきたと言われても、俺は自分が卑怯に思えてならへんのや。
 若いから、ええ格好してたんやろか。
 いいや。それは俺の性格やねん。自分が行かな気がすまへん。お前行ってこいでは納得いかへん。最前線に突撃や。そこで自分の式神たちと、生死をともにするんでないと、男が廃ると思えてしょうがない。
 それはな、おとんの血やで。おとんもそうやって死んだ。第二次世界大戦に従軍したげきが、みんな死んだわけやないで。しっかり生きてる奴もおる。立ち回りの上手い奴っていうのは、いつの世も、どんな世界にも居るんや。居るやろ、そういう奴ら。
 そういう意味では、俺のおとんはアホやった。真面目で若い、青二才やった。なんも自分が死なんでもええやんて、思う向きもあったやろ。
 でも、俺はここだけの話、自分も死んでもうたおとん大明神を誇りに思う。
 おとんが何で死んだか、そういえば具体的には語っていなかった。
 軍艦に乗ってたんや。実はその艦は轟沈したわけではない。激闘を生き抜き、終戦の報を太平洋上で、無念の涙にむせび泣きつつ聞いた。終わったんや、戦争は。負けたけど、それでも生きて帰れる人たちやった。
 そこへ台風が来たらしい。猛烈な嵐やった。戦争のあとでボコボコなってる船やしな、あっけなく沈みそうになったらしい。それも普通の嵐ではなかったんやないか。日ノ本の軍艦がげきを乗せてんのやったら、向こうも何か乗せてるわ。こっちに式神がいてるんやったら、向こうにも何かいてる。
 牧師が乗ってんねん、清教徒ピューリタンの神の尖兵や。アメリカってもともと清教徒ピューリタンが作った国や。宗教国やねんで。宗派ちゃうけど、イイ子やった時のようちゃん軍団みたいなもんやんか。話通じる相手やないわ。異教徒め、言うて、ぶちかまして来はるわ。
 もう戦争は終わったんや。戦う必要はないんやでと言うたところで、襲ってくるもんは仕方がない。こっちはこっちで向こうのことを、鬼畜やしぶっ殺す言うて、特攻までして争ってたんや。
 どっちも鬼やで。鬼になってる。正気やないねん。身内もいっぱい殺されたしな、脳天に来てんねん。戦争終わりやでえ、はい終了、って連絡一本で、仲良しこよしのお友達には、すぐにはなられへん。向こうが殺る気で来るかぎり、戦わへんかったら、殺される。
 でも、おとんにはもう、戦わせるしきはおらへんかった。皆もう散り散りや。水煙と、自分だけ。そこで異国の海神わだつみに、援助を求めることにした。自分自身を生け贄にして。
 海神わだつみは、その捧げものを受け入れた。艦を守ってくれはったんや。
 やがて嵐は静まり、げきは死んだが、そのお陰で艦はなんとか無事に帰航した。凱旋とはいかへんけども、命あっての物種や。生きてればまた、咲く花もある。お帰りなさいと泣いて喜ぶ家族や恋人もいてるんや。
 おとんも生きて帰りたかったやろ。一度はこれで帰れると、ぬか喜びしたんやから。愛しい登与ちゃんの顔が、頭にちらついたやろ。
 それでもおとんは、死ぬことにしたんや。なんでって。分からへん。
 自分が死ねば、みんな助かるかもしれへん。生け贄ならへんでも、艦が沈めば、どうせ死ぬんかもしれへん。ほんなら行こかって、それだけのことやろ。
 簡単に言うと、うちのおとんは、英雄やったんや。認めたくはないが、そういうことや。
 おとんに勝とうと思ったら、俺も英雄にならなあかん。普通のげきではダメなんや。
 勝ち負けは抜きにしても、俺は結局そういう性格やった。おとんの血が濃くて。アホやねん。どないしたら俺は格好ええんやろうって、そんなことばっかり気になってまう。
 その観点から見て、俺は格好悪かった。ものすご格好悪い。
 瑞希が可哀想や。俺みたいな、甲斐性無しのアホに惚れてもうたばっかりに、さんざん酷い目に遭うて。千尋の谷に突き落とされ、這い上がってきたと思ったら、また突き落とされる。それも、ライオンの親子やったらええで。そこに愛があれば。
 でも、ただの、赤の他人やからな。通りすがりに絵見て、その絵がツボやったっていうだけの相手やからな。それで二回も殺されてたら、割に合わへんわ。
「ほんまに殺されるんやで。このまま俺のとこにいたら」
 どっかへ逃げろ、俺から逃げろって、俺は瑞希を説得していた。
 その話を、聞きたくないというふうに、瑞希はまた首を振って拒んでいた。
「嫌や。逃げへん。先輩のとこに置いてください。好きやねん。ものすごく。死んでもええねん」
「それはお前が俺の式神やからやで。そういうもんらしい。思い切って契約切ってみろ。そしたら我に返れるかもしれへん」
「嫌や。それしか繋がりないのに。それも俺から取り上げるんか……」
 離さんといてくれって、縋り付くみたいに、瑞希は俺の腕にしがみついてきた。その腕の、左手の薬指にある白金プラチナの輪っかを見て、瑞希はぎくりとしたように、身を固くした。
 悲壮な顔して、指輪を睨む瑞希を、俺はもう、どないしたらええねんて悶えたいような気分で見つめた。
 結婚指輪って、うまいことできてる。服着てようが仕事してようが、指輪やったら見えるしな、この人既婚です、相方いてますって、言われへんでも分かるようになっている。
「先輩、なんでこんなんしてんの。指輪嫌いなんやろ」
 ぎゅうっと腕を絡めてきて、瑞希は俺の左腕を引きちぎりそうやった。力強い。お前、力強すぎる。痛い痛い。でもそんな、文句も言われへん。そんなん言える空気やない。
「蛇とお揃いや。そうなんやろ。憎いわ!」
「亨と喧嘩すんな。あいつにまた何かするんやったら、お前を置いてやられへんで」
 鬼やなあ。そういうことは考えんでも口を衝いて出るんや、俺は。
 瑞希はたぶん、つらかったんやろ。悶絶していた。俺と腕を組んだまま、がっくり身を折って、まるで腹でも痛いみたいやった。
「そんなん、わかってます。蛇が好きなんやろ……。でも、俺も先輩のこと好きやねん。俺にもなんか、買うてください」
 瑞希は身を起こし、覚悟を決めたみたいに、爛々と光る目で、俺に強請った。別に何か欲しいわけやないようや。亨と張り合うてるだけ。
 でも、それくらいやったら、してやれるやんか。もの買うてやるくらいやったら。ものにもよるけど、簡単なんやで。
「な……何が欲しいんや」
 スペースシャトルとか言うなよ。それは無理やから。せめて指輪とか、そういう、気まずくても実現できるものにしてくれよ。
「首輪でいいです」
 きっぱり真面目な顔をして、瑞希は断言した。
 首輪……? 犬、やから?
 俺は蒼白な顔で目を瞬いて、瑞希の真面目な顔と向き合った。
「首輪って、首輪? 犬の首輪?」
「猫の首輪だと、小さすぎて息できないです」
「……そうやな。犬の首輪のほうがええな。大型犬やったら人間並みやもんな」
 俺はやむをえず同意した。何かで決着を見られれば、それで何とかこの場は凌げるという気がして。
 でも、そんなもんで誤魔化されてええんか。お前は。いくら健気や言うたかて、首輪一本で引き下がるやなんて、アホみたいやで。
 何でも良かったんやろ。俺が我が儘聞いてくれれば。それで我慢しようって、そういうことやったんやろうけど。でも、ちょっと、惨めすぎへんか。いくら犬でも、心があるんや。今日拾ってきて、三日後には殺す。その三日間、繋いでおくための首輪なんやで。
「腕組んで歩いていいですか、先輩。俺はそうしたい。いいですよね、たったの三日間くらい」
 完璧に、弱み握られてる。じっと睨む目で訊く、蛇と張り合う顔の犬に、あかん、お座り、って言えるか。
 俺は言われへん。
 そういうわけで、二階のレストランに現れた時、俺は瑞希と腕を組んでいた。俺の気分的には、これから肉屋のおいちゃんにやっつけられるドナドナの牛みたいなもんやった。
 亨は顎ガクンみたいな顔してた。それでも怒らんかった。目は泳いでたけど、蛇やのうて自分の隣に座れと我が儘を言う瑞希にも、なんにもツッコミ入れへんかった。
 頭真っ白すぎて何も言えへんだけみたいやった。あわあわしてた。
 車椅子の水煙は、それを面白そうに見ていた。実は、いい気味やと思うてたんかもしれへん。今までさんざん見せつけられてきた。それが今度は亨の番なんやから、いかにも面白そうな苦笑いでいたわ。
 瑞希の機嫌は、悪くなかった。むしろ良かった。にこにこしていた。まるでその嘘のような作り笑顔で、亨に勝てるみたいに。どうでもええような事を、愛想よく俺に話し、にこにこパスタ食うてた。
 大学にいた頃と、なんも変わってへんみたいやった。
 天使のときにあったような白い翼とか、頭の輪っかもないし、見た感じ、京都の大学で見た勝呂瑞希そのまんまやった。
 瑞希は別に、暗い性格の奴ではない。誰とでも平気で喋るし、にこにこ愛想ええ時もある。冗談も言うし、歌も歌うし、酒も飲む。学生時代は、友達付き合いも幅広かったようやし、狭っくるしいCG科の作業室に籠もっていると、通りすがりに瑞希に挨拶していく学生は幾らでもおった。
 こう言うたら何やけど、瑞希はモテるタイプや。人をたてるし、にこにこしてりゃ可愛いし、頭の回転も速くて、よう気がつく。俺のグラスが空っぽになれば水を注ぐ。言われへんでも食後のコーヒーを注文する。砂糖は一個。ミルクも入れる。そうやって甲斐甲斐しく気の利く可愛い後輩で、俺が喋らへんでも、ただ相づちを打つだけでええような話をする。そして、黙っていてくれと思う時には、ちゃんと黙っている。次はいつ、構ってもらえるんやろうかと、じっと待つ目で俺を見つめて。
「アキちゃん、今日これから、どないすんの。絵描くんやろ。鳥さんとこ行くの……?」
 先輩先輩と、やたら甲斐甲斐しかった犬に、呆然の顔をして、亨が俺に訊いた。瑞希はおとなしく押し黙り、自分もコーヒーを飲んでいた。
「うん……どないしよかな」
 相当ヘナヘナな声で、俺は亨に返事をしていた。正直、重かった。瑞希が。
「電話してみたら?」
 そういえば、そういう手もある。俺は寛太の電話番号は知らんけど、虎のほうのを知っていた。電話を受けたことがあるし、その時の着信番号が残っていたからや。
 他にすることもなく、気分も変えたかった。昼時を外した店はちょうど空いていたので、俺はその場で電話をかけた。
 虎はすぐに出た。そして愛想よく俺に返事して、暇やし中庭ででも落ち合うかという事になった。すっかり雨も上がったし、中庭のガーデンレストランの椅子やテーブルは、あっと言う間にぴかぴかに拭われていて、そろそろアフタヌーン・ティーの時刻やという話やった。
 虎が茶を飲むとは、俺は想像もしてへんかったけど、なんとあいつは紅茶党らしい。信じられへん。アロハで紅茶やで。アロハでやで。アロハで……って、もうええか。
 本日ももちろん、虎はアロハやった。真っ黄色やった。それに白抜きで、古代壁画みたいな原始的プリミティブな虎さんの絵が描いてあり、版ズレのある緑色の印刷で、竹らしいストライプが入っている。それが優雅なヴィラ北野の中庭の昼下がりに、めちゃめちゃ眩しい。お前はほんまに彩度が高すぎる。目が痛い。しかもそれが連れている鳥さんが、今日は目の醒めるようなアクアブルーに赤と紫の花柄のアロハやから、相乗効果で、眩しさ、さらに倍。
「眩しい……補色対照表みたいや」
 びっくりした声で、瑞希は初対面の虎と鳥を見た。虎と鳥も、嬉しそうに肩を組んだまま、物珍しいもんを見る顔で、俺と腕を組んでいる瑞希を見下ろしていた。
「なにこのワンワン。先生、亨と離婚したん?」
 にっこり笑って、鳥さんがまた言わんでええことを言うた。
「離婚してへん。犬飼うただけや」
 ものすご苦い顔で、亨が寛太に答えてやっていた。
「天使やめたん?」
 にこにこ何の警戒色もなく、寛太は瑞希の顔を覗き込んで訊いた。瑞希はそれに、微かに身を引いただけで、何も答えへんかった。
「あかんで、ワンワン。人のモン盗ろうとしたら。本間先生は亨のモンやしな。亨の言うこと聞かなあかんのやで。しきには序列があんのやし、亨は先生のツレやねんから、お前にとっては主人も同然や」
 信太にしなだれかかりながら、寛太はにこやかに式神の作法を説いた。俺は鳥さんがそんなマトモなことを言うなんて、想像もしてへんかったんで、あんぐりしていた。
「そうやで。寛太。お前、なんや急に賢くなってきたやんか。どないなっとうのや」
 にこにこしながら、信太は寛太の赤い髪に頬ずりして訊ねてた。満面の笑みやった。それをビビったように見上げて、瑞希はちょっと羨ましそうやった。
 まあ、確かに。ラブラブの見本みたいな奴らや。「ラブラブ」と札つけて、博物館に展示してもいいくらいや。肩を抱き、手を繋ぎ、頬を寄せる虎と鳥は、引き離されたら死ぬんやないかというぐらい、べたべたしていた。
「エッチしすぎかな」
 むっちゃ爽やかに、信太にもたれて、鳥さんは答えた。誰もそれにコメントできへんかった。その首筋はもちろん愛噛だらけやった。痛そうやのに治さへんのか。怖いくらい愛しちゃってるらしい。
「何でエッチしたら賢くなるねん。そんな話、聞いたことないで。それやったら俺なんか今ごろ大天才やで?」
 亨はもちろん真面目に返事してんねんで。アホみたいやけど。
「寛太の場合は、一理ありかなあ。不死鳥は高い知性のある鳥やから。精力つけて成長すれば、賢くなってくんのかもしれへん。お前も大人になってきてんのかもしれへんなあ」
 そう言い、でもまだまだ赤ちゃんですよみたいなノリで、信太は人目もはばからず、鳥さんにちゅうちゅうキスをした。エサやってんのやろ。いや、キスしてんのか。どっちも兼ねてんのか。照れるとかないんか。何かもう突き抜けてもうてんのか。遠慮無く舌からめてる補色カップルを、瑞希も唖然として見てた。
「こ……こんなんしてええんですか、先輩」
 していいんやったら、したいんか、お前は。
「したらあかん。犯罪や。こいつらは頭がおかしいねん」
 俺は目を背けて言うといた。同じことしてくれって強請られたら、俺も困るしな。
 もっとエサくれって強請る鳥さんの唇を逃れて、信太はにこにこ俺を見た。
「絵描いてやってください、先生。不死鳥の」
「兄貴、やめんといて。もっとして……」
 お前ら、ここ、外やから。俺は思わずそう教えたくなった。鳥さんは目映い虎の黄色いアロハの裾から、しっかり手を入れ、ガタイがええらしい腹筋のあたりを、物欲しそうに撫でていた。
 どうしたんや鳥。おかしいで。水地亨みたいになってる。それを越えてる。亨でも、さすがにここまではせえへんで。最近は。
「あかんあかん、寛太。お前はほんまに、どないしたんや。エロなってもうて。そんなに沢山したら、どんどん賢くなってまうやんか」
 いや、むしろどんどんアホになっているように見えるけど。
 あかんと言いつつ、虎はデレデレしていた。とろんと物欲しそうな目をした鳥の手をにぎにぎしつつ、愛しそうに顔を見ていた。
「不死鳥になるとこ、俺に見せてくれ。教えたやろう、どうやって変転するか。俺が虎になるとこ見たやろ、おんなじようにすればええねんで」
「虎最高」
 なんの話や鳥さん。うっとり首に抱きついてくる、話聞いてない引っ付き虫みたいな赤毛の体を、よいしょと引き剥がして、信太は俺に押しつけてきた。鳥さんは残念そうやった。よっぽど虎が好きらしい。
「おかしいなあ。昨夜きのう、焼き肉食わしたんが悪かったんか……」
 切なそうにしている鳥を見て、信太は首を傾げていた。そんなもん食わしたんか、お前。精進料理しかあかんて言うてたくせに。
「どうしても肉食いたいて、ハアハアするもんやから。可哀想になって食わしたんです」
 苦笑いして、虎は俺に言い訳をしていた。
「ほんまにおかしいねん。上の店でジェラート食うてから」
 嬉しいけど、ちょっと困ってるっていう顔を、信太はしていた。なんでこんなに愛されちゃってるのか、自分でも分かれへんて、そんな戸惑い顔やった。
「肉気のもん食うたからやろ。あのアイス、タマゴが入っていた。それで穢れたんや」
 車椅子に座った水煙が、けろりとして教えてた。
「えっ、マジ?」
 車椅子のハンドルにもたれていた亨が、本気でびっくりしたように、水煙の顔を見下ろし、水煙は顎を上げて、それを見上げた。
「知らんと食わせてたんか、亨」
「知らんかったよ……やってもうたわ、亨ちゃん。どないなんの、あんなエロエロなるんか、お前もか、水煙?」
 結局また信太のところに戻っていってる鳥をびしびし指さして、亨は血相変えていた。
「ならへん。お子様やあるまいし。血肉を食うたぐらいで、酔っぱらったりせえへんわ。俺はもともと人やら鬼やら食う神や。卵くらい何でもない」
 にっこりとして、水煙は安心しろみたいに言うたが、そのほうが怖い。人食うんや、水煙。確かに、剣の時には鬼斬りするんやから、そう言われればそうか。俺はちょっと水煙にドリーム抱きすぎか。
「あの鳥はまだ若いから、性質が変わりやすいんや。このまま行くと、人食いになるかもしれへんな」
「えっ、マジで?」
 今度は虎が驚いていた。
「そんな……不死鳥はええモンやのに?」
「悪いのも居るんや。まあ、こいつがどっちなのかは、絵を見ればわかる」
 水煙は俺を見て、励ますような目やった。
「絵を描いてやり、アキちゃん。お前にはげきとしての心眼があるはずや。この鳥の本性が見えるはず。それを絵に描いてやればええんや」
 心に思い描けたものを、そのまま紙に写し取ればいい。水煙はそれが簡単なことのように、言うていた。実際それは俺にとっては、簡単なことなのかもしれへんかった。いつもやっていることや。
 昔、子供のころに俺は、小学校の授業で桂川に写生に連れて行かれ、川の絵でなく龍の絵を描いた。俺には川は、そう見えたんや。見たまんまを描けばええんやと、先生がそう言うたんで、まだ素直やった俺は、言われたとおりにした。
 その龍の絵を見て、おかんは顔をしかめたけども、その先生は褒めてくれたんやで。思えば、ええ先生やったんかもしれへん。綺麗な若い女の先生やったけど、本間くんは将来、画家さんになるかもしれへんわねえと、その先生は言った。寿退職で、翌年にはもう居らんようになってたけどな。
 とにかく絵を描く人間には、特殊な目がある。それは一種の神通力や。
 そうして見たものを、そのまま描けるかは、人によるらしいけど、俺には描ける。おかんが踊りを踊るのは、息をするようなもんらしい。ひとりでに体が動く。絵を描く時の、俺の手もそう。ひとりでに、手が絵を描く。どう描こうって、考えたことがない。
 その時も俺は、中庭の椅子の、虎の膝のうえに座って抱きつく、しどけない鳥の絵を、難なく描いた。嫌な絵やった。なんでそんなもん俺が描かされるんや。
 喘ぐように、大きく首を反らせた、真っ赤に燃えている炎でできた鳥やった。赤い鳥や。すらりと細い首をした、まろやかな体つきで、金色のウロコのある長い足がある。飾り羽根のような長い尾も、赤に混じってところどころ金色で、それはちょうど、人間達の暮らす位相で、目の前にいる寛太が、ほどいた赤い髪のまま虎に甘えて、髪の間にところどころ金髪が混じって見えてるのに、よう似てた。そして絵の不死鳥の胸にも、誇らしげに晒す愛噛の痕のような、黄金の斑点がある。
 虎を食いたいみたいに、寛太はべたべた甘え、時々甘く、信太の耳を噛んでいた。よっぽど切ないらしい。さっさと帰って、もっと本格的に仲良うしたらどうや。
 亨は完全に魂脱けたみたいにあんぐりとし、瑞希もぽかんとしていた。平気そうに苦笑で見てるのは、水煙だけや。それでも皆、羨ましいらしい。羨ましがるな。俺の居心地がどんどん悪くなっていくから。こんなん人前でするほうが異常やねんから。俺はせえへん。絶対せえへんで。
「兄貴。早う帰ろ。俺また腹減ってきてもうた……」
 飯食いたいわけやない。抱いてくれって、そう強請るような甘い声色で、寛太は虎に囁いていた。
 ほんまにヤバい。俺までちょっと泣きそうや。こなエロくさい奴やったっけ。手前てめえがムラムラするのは勝手やけども、寛太は周囲にも濃厚なお色気ムードを放っていた。蛇はもちろんムラムラするが、瑞希もちょっとクラクラ来るらしかった。水煙さえも、ちょっと顔が白っぽい。興奮するらしい。
 気づけばガーデンテラスにいる客のほとんどが、なんやラブラブムードやった。人がしてると、羨ましい。これはまあ、誰しもある心理やけども。なまじ巫覡ふげきしきばかり。誰はばからぬ連中や。いちゃいちゃいちゃいちゃしてる。
 してない俺がおかしいみたいな世界になってる。
 常識というのは、多数決やというのを、実地に体感できる学習エリアみたいになってた。
「絵、できたで。ラフやけど。これでええやろ!」
 もう、さっさと帰してやろうと思って、俺はざっくり描いてパステルで色つけた不死鳥の絵を、引っ繰り返して寛太に見せてやった。
 虎のお膝で首に抱きついたまま、寛太はやらしいような上気した顔で、とろんと流し目に俺の絵を見た。長い睫毛の陰が、白い頬に落ちていて、口元は、キスに濡れた淡い半開きや。なまめかしかった。正直言って、押し倒したいくらいやった。
 これが亨で、ここが家やったら、たぶんもう十五分前くらいに押し倒した後や。見過ごしにできないレベルのエロくささや。
「不死鳥……」
 微かに呟いて、寛太は虎の膝に跨ったまま、身を捩って振り向いていた。じっと絵を見る目付きは案外鋭く、真剣そのもので、どことなく猛禽の鳥を思わせた。
「変転したい。どうやってするんや……」
 向き直って、寛太は虎に訊いていた。虎は眩しそうに、自分を見下ろす赤い鳥を見ていた。
「思い描くんや、あの絵の姿になった自分を」
「あれになったら、もっと好きになってくれるか」
「なるやろなあ。お前が俺の不死鳥やったら」
 頷いて見上げ、虎はそう請け合った。それ以上、好きになる余地なんかあるんかと、疑わしいような顔やった。たぶん、その約束は呼び水で、そう言うてやれば、寛太もやる気が出るやろうと、そんな虎の策略やったんやろう。
 果たしてその罠は見事に鳥を捕らえ、寛太は目を閉じ、絵の鳥のようなポーズになった。背をのけぞらせ、虎の膝の上で、淡く苦悶するような表情になり、小さく鳥のような声で鳴いた。
 まるで、イってるみたいな感極まった表情や。お前、エロすぎ。衆人環視の中庭で、白昼堂々それはどうか。
 俺がそう焦る目の前で、汗まで浮かべた信太の背が、突然ぼうっと燃えた。
 火事や。
 俺はびっくりして、思わず立ち上がっていた。
 うっとり見上げる虎の上で、寛太はどんどん、燃え上がっていった。全然、熱くないらしい。ほんまは熱いのかもしれへんけども、跨られている虎も、突き詰めれば霊獣やった。メラメラ燃えてる恋人を、愛おしそうに見るだけで、その火に焼かれたりはせえへんらしい。
 はあはあ悶えて、全身を猛火に包まれた寛太は、やがてただの火の玉になり、信太の膝から浮き上がっていった。そして、そこから唐突に、真っ赤な一対の翼が現れた。ばさっと羽ばたくように、俺が思っていたよりもずっと大きな赤い翼が生まれ出て、火の玉だったものが、次第に鳥の姿になった。
 それは俺がついさっき、描いて与えた絵の鳥や。
 金色の飾り羽根を織り交ぜた長い尾が、ずるりと引き出されるように現れて、目には見えへん卵から、羽化するみたいに、不死鳥は宙に生まれ出た。
 ばさりと大きな羽根が羽ばたくと、頬が焦げそうな熱い風が、吹き付けてきた。
 きい、と甲高い、けど美しい声で鳥は鳴き、羽ばたくたびにふわふわ宙を漂ったけども、飛び立ちはせえへんかった。そんな気がないらしい。
 細い金細工のような脚で、中庭に舞い降りて、石畳をかちかち鳴らす鋭い爪で得意げに、信太のそばをうろうろ歩いた。
 それを楽しそうに、虎は見ていた。ほんまに満足そうな顔やった。もう思い残すことはなんもないって、そんなふうな。
「やっぱり不死鳥やったやろ。俺が最初に見た時と、おんなじ姿や。あの時よりも、大きくなってる」
 うっとり見つめて、信太は自分の胸に頭を擦り寄せてくる、炎の塊みたいな鳥にも、気にせず胸を焦がさせていた。信太が喉をくすぐると、赤い炎の鳥は、本当に気持ちよさそうに、しどけなく首をそらせた。くうくうと、甘く喘ぐような声で鳴いて。
「俺のフェニックスやで……」
 虎は燃える鳥にキスしてやってた。小作りな頭の、金色の優美なくちばしの終わる、付け根のあたりに。
「それは、フェニックスやない。フェネクスや」
 熱いなあって、手でぱたぱた扇ぎながら、水煙が突然、そう断言した。
「フェネクス?」
「フェネクス?」
 俺も訊いたし、虎も訊いた。たぶん全員がそう、水煙に訊いてた。
 そうやでって、あっさりと、水煙は頷いていた。とりあえず俺の顔を見てな。
「フェニックスの、悪いほうや。能力的には、ほとんど同じやで。ただ、地獄の眷属やというだけで。悪魔やけども、不死鳥は不死鳥や」
「な、なに!?」
 信太はまじで椅子からコケそうになっていた。そんな姿も格好ええわみたいに、赤い鳥はうっとり信太を見下ろしていた。デカいねん。実は。見上げるようなデカさやねん。しかも熱い。燃えているんやから。テーブルクロスを焼いたりはせえへんみたいやけど、熱いことは熱い。まるで中庭でキャンプ・ファイヤーしてるみたいや。
「火の神や。神々の位相の、かまどの火から生まれた。まあ、出生はいろいろあるけど。おしなべて、火の属性で、不死で、人にも不死と再生を与える性質がある。あと、叡智えいちも与える。火というのは、人類にとっては叡智えいちの象徴やからな」
「ギリシア神話で、プロメテウスが人類に火をくれたとかいうのと、似たノリ?」
 ぽかんと聞いてきた瑞希に、水煙は不思議そうな顔をした。そして小首をかしげて、微笑んだ。
「そうや。お前、賢い犬みたいやな。飲み込みがええわ。こっちにしといたらええのに……」
「うっ……何言うとんのや、水煙!」
 焦った顔して言い寄る亨に、水煙はけらけら笑っていた。
 でも、それは、笑い事では全然ないで。笑って話すようなことでは、ぜんぜんない。
「熱いわあ。渇いてきてまう。元に戻ってくれへんか、炎の鳥」
 水煙に頼まれて、鳥は焦ったように、足早にうろうろしていた。元に戻る方法が、わからへんらしい。
 それを苦笑して眺め、信太は、さあ抱いてやろうというふうに、鳥に両腕を拡げて差し招いてやっていた。
「いつもの格好に戻れ、寛太。そんな姿してたら、抱いてやられへん」
 さあ、おいで、みたいな虎に、寛太は抱きつきたくなったらしい。燃える両翼やったもんから、吹き消すように炎が絶えて、真っ白い腕が顕れ、それがまず信太の首に抱きついていた。
 そして幻のような姿が火の中からよろめき出てきて、ちょっと焼けこげたアクアブルーのアロハ着て、汗だくなった額に赤い髪を張り付かせた寛太が、また虎のお膝にふわりと座った。
「抱いて……」
「上手にできたな、寛太」
 汗の流れる高揚した顔で、寛太は虎に抱きつき、信太はそれを抱きしめてやっていた。虎に頬ずりされながら、寛太はどこか爛々としたような光る猛禽の目で、じっと俺を振り向いていた。
「先生、ありがとう。俺もほんまに不死鳥やったわ」
「悪魔らしいで、お前」
 俺は他に言えることがなく、軽い嫌みのつもりで、それを教えた。
 そしたら寛太は、にやあっと笑った。今までは、そのぽかんとした美貌にあるのを見たことないような、よこしまな笑みやった。
「何か、あかんの。悪魔やったら。不死鳥は、不死鳥やんか」
 あかんことないけど。
 でも、どうせ、鳥は俺の返事なんか、待ってはいなかった。
 ああもう辛抱たまらんみたいな激しさで、虎に抱きつき、椅子ごと押し倒していた。痛そう。石畳やのに。ゴツン言うてた。人間やったら気絶してる。強い強いタイガーでも、気絶しそうやった。あんまり愛されちゃいすぎて。
「兄貴、抱いて。めちゃめちゃ犯して。もう我慢できへん……虎でして、虎で。食いたい、というか、食われたい……好きや、好き……」
 虎さん鳥に襲われている。がっつんがっつんチュウされてる。激しくついばままれてる。
 やめろ、外やでって、虎は一応、怒ってはみせていたけど、もし本格的に成長したら、果たしてどっちが強大なんか、分からんような感じやった。
 虎は鳥さんを拾ってきて、エサやって育ててたけど、それはカッコウが託卵たくらんするみたいなもんで、育て上げた暁には、ひなやったもんが親よりでっかくなってもうてる。そんなオチなんやないか。
 しかも激しく刷り込みインプリンティングされてんのか、寛太は自分を最初に見つけた虎が、好きで好きでたまらんみたいやった。食うてええなら食うてまいそうやった。誰はばからずハアハアしていた。
 早う、部屋帰れ……。
「すげえ。これぞまさしく燃え燃えや……」
 亨は感動したように言うてた。よかったな、お前が仲人したカップル、幸せそうで。
 虎が死んだら、どうなってまうんやろ。この鳥は。
 それを思うと改めて気が滅入り、信太生け贄説はありえへん。俺の中では少なくとも、そのコースは封印されようとしていた。可哀想や、せっかく幸せそうやのに。
 汗ばんだ顔の潤む目で、うっとり信太を見つめる鳥の顔は、まさに愛の絶頂の表情やった。その顔が、綺麗やなあと俺は思った。変な下心は抜きで、美しいもんは、美しい。それが悲しみに歪むのは、見たくないんや、俺も耽美派やから。
 でも、それやったら俺は、どうすればええんやろ。秋尾さんに泣きつこうか。信太も無理や。瑞希は可哀想やから、秋尾さん、死んでくれませんか、って。
 ああ、ええよ、って、あの人は言いそう。スポーツ・バーで話してた時も、そんなノリやった。だからあの人は、別に平気なんやって、俺は思ってええんやろうか。大崎先生に、頼もうか。うちは無理やし、お宅の狐、ちょっと貸してもらえへんやろうか。返すアテはないけども、って。
 俺はそれには、抵抗があった。老い先短い爺さんから、式神取ったら気の毒やって、そんな可愛げのない事も思ったけども、秋津にはもうそんな力はないと、俺をヘタレ呼ばわりした爺に、俺は意地を張っていたと思う。おのれ海原遊山。俺はまだしも、うちの家を馬鹿にしやがって。そんな奴の情けに縋ってもうたら、ご先祖様に申し訳が立たへん。
「行こうか、アキちゃん。お邪魔のようやし。一仕事終えたなあ」
 俺が頼もしいと微笑む顔で、水煙が撤退を促した。虎と鳥さんいちゃついてるし、それを皆で眺めていても仕方ない。むしろ目の毒。どっか行こうかって、水煙は思ったらしい。
 どうも恥ずかしいらしいねん、水煙は。初心うぶやしな。照れた顔をしていた。亨は羨ましそうにガン見していたが、切なくなっても、まだ昼や。家でふたりっきりやったら、急いで戻って、抱き合おうかというのも、アリやろうけど、今はそれは無理やった。
 亨も切なそうな顔をするだけで、誘いはせえへんかった。出会ったばかりの頃やったら、そんなん我慢もせえへんと、アキちゃん、やりたいってゴネてたくせに。こいつも大人しなったなあ。元に戻ると困るけど、ちょっと懐かしいわ。亨がさっきの、鳥さんみたいやった頃が。
「俺もアキちゃんが手伝ってくれたら、絵の姿に変転できるかも」
 にこにこしながら、亨の押す車椅子に座り、水煙が言うた。俺に言うてんのか、それとも亨に言うてんのか、はっきりせんような口ぶりやった。
「何を油断も隙もないこと言うとんのや、宇宙人。俺を舐めんな」
 中庭を出ていく俺の隣で、水煙を運んでやりながら、亨はぼやいた。水煙は、くすくす笑っていた。亨をからかっているだけのようやった。
 それを聞いて歩きつつ、瑞希は相変わらず、俺の左腕に張り付いていた。でも、その顔は、なんとなく暗かった。思い詰めたような無表情をしていた。
 急に俺の手を握ってきた瑞希の指が、薬指にある指輪を探っているのが感じられた。そこに指輪があるのを、確かめているような手つきやった。これは何やろうって、意外なもんをいぶかしむように。
 もう時間がないんやと、俺は不意に思った。あと三日なんやし、今日はもう夕方になろうとしている。首輪買えって言うてたし、そんなもん、いつ、どこで買うんや。
 ロビーを通ったついでやし、俺はホテルのコンシェルジュの人に、どこか近所で、犬の首輪を買える店はないですか、と聞いた。そしたら意外な話や。ホテルのショップにございますと、教えてくれた。
 なんでも売ってるな、このホテル。結婚指輪もあるし、犬の首輪まである。なんでも出てくるんやないか。
 そういえば、瑞希は着の身着のままや。着替えとか無いし、それもどうするんやろう。
 しかしそれも心配ご無用やった。なんでも売ってる。服も売ってるからな、ホテルのショップで。下着やら靴下やら、ジーンズもあるし、結婚式に出るような礼服やら、フォーマルまであるわ。
 発作的に泊まる客というのが、ホテルにはいてるらしい。後で中西さんに聞いた話やけども。発作的に泊まって、連泊する客もおれば、結婚する客もいる。犬の首輪が切れる客もいる。ヴィラ北野は、ペット同伴OKなんやで。そうでないと式神連れて泊まられへんやんか。皆が皆、人型してるわけやない。でっかい蟷螂かまきり蜥蜴とかげを連れて歩いてるオバチャン見たわ。ワニぐらいあるんやで。ホラーやで、夜中に廊下で会ったりしたら。怪物そのものやから。
 まあ、そんなんでも泊めてくれる中西さんやから、犬ぐらい余裕や。ルームサービスに犬猫用のメニューもある。誰でもウェルカム。お客様は神様やから。どんな客でももてなしてみせるって、そういうのが、あの人の美学らしいわ。
 そんな美学が徹頭徹尾、すみからすみまで行き渡っている。
 ホテルのショップかてそうや。そこで売られている若い男向けの服には、なんとはなしにようちゃんくさい気配がした。それが神楽さんの趣味ということではない。あの人もたぶん、とりあえずここにある服を着ていたんやろ。ほんで、それは、中西さんの趣味やねん。神戸の、ええとこの子みたいな、こざっぱりした洋装で、ちょっと王子様っぽい。
 しかし、そんなもんを瑞希に着せるのかと、俺は若干引いたんやけど、サイズ確認のために入った試着室から出てきたのを見てみたら、別の意味で引いた。
 似合ってたからや。
 俺は学校来る時の、これといって目立たへん、ありきたりの大学生みたいな格好しているところか、大阪で見た悪い子服しか知らん。まさか王子様服が似合うとは。
 でも、思い返してみたら、大阪のこいつの実家に行った時、部屋に飾ってあった子供の頃の写真とか、そう言えば、ひらひらやった。ひらひらのブラウスとひらひらのスカート着てるお母さんの横で、フリルのついたブラウス着てた。似合わんけども、似合うてる。見た目には。
「……こんなん、嫌や」
 自分の服見て、瑞希は鏡に文句言うてた。
「そんなことない。笑けるほど似合うてる。エナメルの靴とかはいとけ。ピアノの発表会みたいなやつ」
 半笑いで亨がコメントし、それに瑞希はギロッと恨む目をしてた。
「まあまあ、そんな顔すんなって。アキちゃん案外、それ系も好きらしいで。ようちゃん路線やないか」
「誰やねんようちゃん」
 早口に毒づいて、瑞希は服脱ぎたそうやった。とっとと試着室に戻り、元の、何の個性もない格好に着替えているようやった。
「神父や。ガイジンやで。金髪碧眼の。六甲育ちで、お坊ちゃまやで」
「俺かてお坊ちゃまや!」
 試着室のカーテンの向こう側から、瑞希が亨に叫んでいた。
 その張り合う口調に、俺はちょっと、びっくりしていた。瑞希、お前、それがお坊ちゃまの口調か。はしたないって、中西さんやったら言うわ。
「あかんあかん。ようちゃん見てみ。ほんまもんやから。あいつたぶん、元をたどれば貴族の血筋やで。ノーブルな血の臭いがするわ」
「俺かて血統書付きや!」
「犬やろ。ようちゃん人間様やで? リアル人類。嘘もんの犬人間とちがう」
 笑ってからかう亨の言葉に、もう返事はなくて、代わりに瑞希は、じゃらっと乱暴に試着室のカーテンを開けて出てきた。その目はもろに怒ってて、もろに亨を睨んでた。
 めちゃめちゃ気まずくて、俺はとっとと水煙に逃げていた。いや、逃げてた訳やないねん。夏やというのに、店には綺麗な淡いブルーのカシミヤのショールがあって、女物やろうけど、シンプルな飾り気のない品物やったんで、水煙の膝掛けにどうかなあ、って。
 それが逃避か。逃避そのものか。
 でも、試しに膝にかけてやったら、気持ちええなあって、水煙は喜んでいた。色も良う似合うてた。青系やしな。
「アキちゃん。俺もお前が描いてくれた絵のような姿になってみたいわ。気合いが足らんのやろうか」
 水煙は、それを気に病んでいるように、小声で俺に訊いた。
 不死鳥も変転したし、亨も瑞希も変転できる。みんな簡単にやってんのに、自分はできへんというのが、気になるんやろう。
「あんな姿でええんか」
「何があかんの。お前が好きなら何でもええよ」
 手を握ってくれと求められている気がして、俺はショールをかけた膝の上にある、水煙の小さな青い手を見つめた。でも、なんでかそれを、握る勇気が湧かへんかった。
「みんなが見て、綺麗やなあって言うような、姿をしていてほしいんやろ?」
 微笑んで、水煙は俺にそう確かめた。俺は頷きもせず、否定もせえへんかった。
「お前は今でも綺麗やで」
「いいや。俺は化け物みたいや」
 にっこり笑って、水煙はそう言うた。その顔は、俺には綺麗に見えたけど、もう分からへん。そう思うんやったら、別に今の姿のままでもええはずや。なんで俺は、その姿のほうを、絵に描いてやらへんかったんやろう。
「水煙……」
 何か疲れて、へたってきてもうて、俺は車椅子の車輪の横に、ぐったりしゃがみ込み、車椅子の肘掛けにもたれ掛かっていた。自分では、意識してへんかったけど、俺はたぶん水煙に、縋り付きたかったんやと思う。うちの神様、俺の守り神に、お縋りしたい気持ちやった。
「どうしたんや、アキちゃん」
 どこか怖ず怖ずしたような、控え目な仕草で、水煙は俺の髪を撫でた。その淡い感触に、俺は目を閉じていた。
「瑞希が俺に抱いてほしいらしい。あと三日やから」
「あの犬か。抱いてやったらええやんか」
「嫌や。そんなん。亨はどうなるんや」
 笑う気配で答える水煙に、俺はゴネる口調で返事をしていた。
 傍目には、相当変やろう。車椅子にぶつぶつ言うてる男なんて。異常やで。
 俺がつらいのは、そのことやねん。水煙が俺にしか見えてへんことや。うちの蔵におる、からんころんて歌う妖怪や、庭で遊んでくれる舞ちゃんが、友達には見えてへんことや。美醜は関係ない。俺に見えているものが、皆にも見えててほしいねん。そうでないと、分かってもらえへんやんか。
「それは亨と相談したらどうや」
 俺の髪を撫でながら、水煙はとんでもない意見やった。
 俺はほんまにびっくりして、がばっと起きてた。
「な……なんやそれ。本気で言うてんのか?」
「相談してみ。なんと返事するかは知らんけど、あいつも神や。お縋りしてみ。俺にそうするより、きっと頼れる相手やろう」
「嫌み言うてんのか……」
 そうに違いない。俺はそう思って、さっさと傷ついていた。水煙が俺を、突き放すなんて、そんなことありえへん。そんなん、嫌やって、そういう傷つき方で。
 しかし水煙は、ちょっと寂しそうに笑っていた。
「そういう訳やない。でもお前は、あの蛇と結婚したんやろ。あれがお前の相方で、俺やない。お前を助けてやれるのは、俺やないんやで」
 嘘や。信じられへん。水煙は、自分は知らんと言うていた。俺にはそう聞こえた。
 今まで何でも指図してきて、俺が困ればアドバイスしてたやんか。ある意味、俺は、それを鵜呑みにやってきた。困った時の神頼み。水煙様を拝んだら、ご神託が下るんや。それに素直に従っといたらええんやって、そんな気分がどこかにあって、水煙を頼っていた。
 俺は元から、そういうたちの、情けない男やったんやろなあ。子供のころから、おかんの下僕。それを過ぎたら、次は水煙。誰かそういう、畏れて崇め奉る相手が欲しいんや。まあ、それも、血筋のせいと言えなくもないが、情けないことには変わりない。
「無理や。ありえへん。そんな話、とても亨には言われへん」
「そうか……ほんなら俺が言うてやろうか?」
 つるりと黒い目で、水煙は俺を見下ろしていた。
 べったり俺を甘やかしてきた、おかんと同じ目やった。愛おしいお前が、つらいんやったら、それから守ってやりたいと、水煙の愛情というのは、そういう類のもんや。
 俺はまた疲れて、首を横に振った。
 やめてくれ、そんなの。言わんといてくれ。俺が話す。
 いいや。そうやのうて。俺は亨には言われへん。断るしかない。瑞希に。拒むほかに、思いつく手がない。また同じや。夏に大学で、延々とあいつを無視していたのと同じ。俺はお前に応えてやられへん。そんなこと、俺に求めんといてくれと、知らん顔して逃げるつもりや、俺は。
 あの時は、最悪それでも良かったかもしれへん。俺はあいつに責任がなかった。赤の他人やった。
 けど、今はどうやろ。瑞希は俺のために死んでくれるんやって。それが赤の他人で通るやろうか。
「アキちゃん。苦しむことはない。流れに身を任せろ」
 俺の手に触れて、水煙はじっと、俺を見つめた。その黒い目の放つ、まっすぐな視線には、何か幻惑するような魔法が、あるんかもしれへん。俺はそれと見つめ合い、何となく頭がぼうっとした。
 きっと平気や。水煙様が居るから。きっと何とかなるわ。身を任せればええねん。流れに。
 術にかかったらしい俺を、水煙は、ほっとしたように見ていた。
「たったの三日や。お前も亨も、永遠に生きるんやろう。たったの三日、もう死ぬという奴に、情けをかけてはやれんのか。あいつはお前が、恋しいだけや。好きでたまらへんのや。お前のものにしてやったらええやないか」
 俺の手を握り、水煙はそうかき口説いたが、俺にはその話が、瑞希のことではないように聞こえた。水煙は切なげに、俺を見ていたし、微笑んでいても、悲しそうやった。
「それで亨が、お前を許せへんというんやったら、その程度のもんやろう。アキちゃんはそれこそ、手当たり次第に寝てたけど、それでも俺はあいつを許してた。げきの甲斐性や。お前のことも、許せると思う。何人と寝ようと、気持ちは変わらへん」
 そうは言いつつ、水煙はますます、悲しそうに見えた。おとんはお前を蔵に片付けて、いったい何をしていたんやろうな。そうやって、悪い子してきたアキちゃんを、お前は褒めてやってたんか。
 ようやった、って。それでこそ秋津の当主や。巫覡ふげきの王や。頼もしい、愛しい相方やって。
 それは、おとんも微妙やったやろ。どうしていいか、わからへん。どういう愛で、愛されているのか、分からなくなる。
「嫉妬はないんか、お前には」
 訊かんでええのに、俺は訊いた。餓鬼やから。
 水煙は俺を、じいっと見つめた。微笑みもしない、無表情な顔で。
「あるよ。あるから、こんなに醜い姿なんやろ。妙なこと、訊くもんやない。藪をつついて、蛇を出す羽目になるで」
 叱る口調で言われ、俺は内心、うろたえた。
 水煙は、平気なんやと、この期に及んでも、俺は思うてる。平気そうな顔をしている。鈍いような、冷たいような、人でなしみたいな。それは、こいつが、そうでありたいと願っているからか。それとも、俺がお前に、そうでいてくれと、願っているからか。
「買いました」
 ぷんぷん怒って、瑞希が亨と戻ってきた。亨は気味が良さそうに、にこにこしていた。
 瑞希はまだ無一文やったんで、亨が会計してやったらしい。おかんが亨に、クレジットカードを与えていたし、俺の口座のキャッシュカードも持っている。最初に持って現れた、無限に使える魔法のカードは、最近さっぱりお目にかからへんから、封印してあるんやろうけど、亨がなんか買うのに不自由はさせてへん。
「王子様ルックにしといてやったわ」
 亨はしてやったりというふうに、荷物抱えて痛恨の顔をしている瑞希を眺め、にやにやしていた。俺はそれに、作り笑いで応えた。別に何着てもええけど、本人が嫌なもん着せるのは、どうやろ。
「それ買うの? 綺麗な色やん。払ってきたるわ」
 水煙の膝にあるショールを褒めて、亨はそれに付いていた値段のタグをむしり取ると、それだけ持って、またレジに行っていた。
 瑞希は鬱々と押し黙り、水煙は淡い笑みで、亨の背を眺めていた。
「アキちゃん。あいつは、ええ奴や。やっていけるよ、あれと上手いこと」
 水煙が、亨を褒めてた。いったい何があったんやろう。俺が知らん間に。
「俺がおらんでも、平気なんとちがうか。神はほかにもいる。太刀やら剣の時代ではない」
「なんでそんなこと言うんや」
 水煙は俺を、捨てようとしてるんやないやろか。俺だけやのうて、秋津の家を。そんな気がして、俺は怖かった。
「俺は長く、生きすぎた。もう、潮時やないやろか。消えるか、よそへ行くかするべき頃合いなんやないやろか。人恋しくて、ずっとこの世界にいたけど、古い神々はもう居らん。皆、どこか別の位相へ旅立った後や。そんな世やのに、ええ歳した大年増が、いまだにこんなことしてんのは、恥ずかしいなあと思えてきた」
 水煙様は、現場が大好き。でも、水煙並みの神様は、普通やったら式神になんかならへん。だって、こいつ、ほんまやったら神社に祀られて、大明神してるような歳なんやで。それがふらふら最前線で、燃えているのははしたないって、そういう考え方もあるわな。
「捨てんといてくれ」
 何も考えず、俺はぼけっと頼んだ。
 後で考えてみると、そんなこと人に言うたのは、俺は生まれて初めてや。おかんにすら言うたことない。亨にもない。他の誰にも言うたことない。水煙だけや。
 そうやって頼まないと、どっか行ってまうんやないかという気が、本気でしたし、そうなると俺は我が儘坊主やった。そして、ノー・デリカシーやった。
 瑞希はあぜんと聞いていたけど、なんも言わへんかった。たぶん、言える空気やなかったし、開いた口がふさがらんだけで、言えることも無かったんやろ。
「何を言うてんのや、急に。そんなこと、するわけないやろ。行くとしても、お前に俺が必要なくなった後や」
「そんな時は来ない。俺はアホやし、永遠に成長せえへんから」
 そこまで断言せなあかんほど、俺はアホか。
 けっこう長いこと、俺は自分が賢いつもりで生きてきた。でも最近すごく思うねん。途方もなくアホ。何も知らんし、何一つ自分では決められへん。すぐに逃げるし、すぐに頼るし、そのくせ自意識過剰やねん。それがアホでなくて何や。
 俺はひとりでは生きていかれへん。亨がおらんと生きていかれへん。それもそうやし、亨だけでも生きていかれへん。おかんも好きやし、水煙も好きや。悔しいけども、あいつもこいつも好きで、みんな居らんと生きていかれへん。それは俺が多情なアホやから?
 そうやないやろ。俺だけやない。人間なんて、みんなそんなもん。多神教やねん。頼っている神さんが、いっぱい居るねん。まあ、俺の主神は水地亨大明神やけども、水煙様も有り難い。居ってもらわんと困るんや。
「永遠に成長せえへんの……?」
 呆れたように、水煙は俺に訊いた。
「せえへん」
 俺はきっぱり断言した。断固として餓鬼のまま。
 それに水煙は珍しく、声を上げて笑っていた。水煙の笑い声を、剣でない時に聞くのって、滅多にないことやった。
 神様が笑うのって、ええもんや。なんか幸せな気持ちになれる。
「そうなんか。それは困ったなあ。いったいいつまで面倒見ればええんや、ジュニア」
「永遠にやな、その論法でいくと」
 俺はまた、堂々と恥ずかしげもなくそう頼んだが、水煙はただ、気恥ずかしそうに微笑むだけやった。ずっといるとも、いないとも、答えへんかった。それはもう、雲隠れする気は失せたと、そういう意味やと俺は信じた。だってなんで水煙が、秋津の家を捨てていく理由があるんや。俺がもう、神に愛されるに値しない当主やというんやったら、それは理由になるやろうけど、微笑む水煙の目はその時も、俺が愛しそうやった。
「戻ろうか。どないする。晩飯には早いし。おやつ食う?」
 会計済ませた亨がすたすた戻ってきて、誰にともなくそう訊いた。
「お前は食うことばっかりやな」
 俺は呆れて亨を眺めた。細身やのに、よう食うわ。飯も呆れるほど食うし、その上、おやつまで食うとは。その分のカロリーはどこへ消えてんのやろ。腹、ぺったんこやのにな。
「いやあ、暇やし。このホテル、テレビもないし。阪神戦も見られへんし。そういや瑞希ちゃん、阪神ファン?」
 一応訊こかと、亨は荷物を抱えてうつむいていた瑞希に顔を向けていた。何となく、はっとしたように、瑞希は顔を上げていた。もしかして、疲れてんのかなと、俺は心配になってた。しんどい言うてた。そういえば。
「俺は野球は、興味ないから……人に付き合うて、観ることは、観るけど」
「しょうもない。付き合いナイターなんて。白けるだけやで。まったくうちは、野球を理解しないアホばっかりや」
 水煙も、野球は観ない。ぶつぶつ言いつつ、また車椅子を押す亨に、水煙は苦笑していた。気の毒やなあと思うのか。亨はあいにく、仲間外れや。
「映画観に行きたかったんやろう。明日行くか?」
 具合悪くないようやったら。俺が訊くと、瑞希はなんか、怯えたような顔をして、小さく首を横に振ってた。どうしたんやろう。元気ないしな。
「首輪買うたんか」
 思わず苦笑して、俺が並んで歩くと、瑞希はもう、腕組んで来なかった。なんでやろう。もう、満足したんやろうか。別にええねんけど、それが変な気がして、俺は暗い顔して歩いてる瑞希の横顔を、じっと眺めた。
 綺麗な子やった。でっかい目して。なんとなくキツいようなところもあるけど、基本可愛い。色も白くて、髪も巻いてて、ほんまに愛玩用って感じ。それでもこいつの魂は、野生の狼犬みたいに荒いんやろうけど、見た目には可愛いばっかりやった。
「買うてないです。なんでそんなの、自分で選ばなあかんのですか。普通は主人が選ぶもんやろ」
「俺が選ばなあかんかったんか?」
 どうも、すねてるんやろうと思って、俺は困った笑みやった。難しいなあ。こんな我が儘な奴やったっけ。付き合うてみたら、案外こんな奴やったんかもしれへんな。甘えかかる、ちっさい犬みたいな。
「あかんかったんか、って……そら、そうやろ。先輩が俺のご主人様で、俺は犬なんやから」
「なんで、すねてんのや」
 面白そうに車椅子を押して、ロビーを突っ走っている亨を見ながら、俺はあいつはこの話をまさか聞いてへんやろうなと思った。
 水煙、可哀想や。亨はけらけら笑って押しているけど、水煙は車椅子の肘掛けに、しがみついている。怖いんやないんか。俺が押してやればよかった。
「先輩、あの人のことも好きやったんや。なんで俺やと、あかんのですか」
 あの人って、誰やとは、さすがの俺も訊かへんかった。水煙のことやろう。亨でなければ、他におらへん。
「いっそ、ほんまに犬やったら良かったな。そしたら俺も、自分の分をわきまえられたやろ。俺は、先輩の犬になりたいわけやないんです。それでもええけど。でも、恋人になりたいねん。二番でも、三番でもええから……」
 じっと思い詰めた目で話し、瑞希はもう遠くに見える、水煙と亨を苦しそうに見ていた。そして、ため息みたいな長い息を吐いた。
「嘘やねん……先輩。ほんまは一番になりたい。俺だけ見てもらえませんか。たったの三日や。それが贅沢やっていうんやったら、今夜だけでもええねん。ちょっとの間だけでも……」
 言い募る口調になりはじめる瑞希に焦って、俺はとっさに、その手を握っていた。びっくりした顔で、瑞希は俺を見た。なんで手なんか握ってもうたんやろ。俺は慌ててきたけど、もうやってもうた後や。
「思い詰めるな。お前の悪い癖や」
 どの面提げてか、説教くさい俺に、瑞希は大人しく、頷いていた。それが自分の悪い癖やって、本人も思うてんのやろ。
「でも、好きやねん。先輩のこと、すごく、好き。どうしていいか、わからへんのです。俺も、応えてほしい。あの人らみたいに、愛されたい」
 瑞希は俺に、恋をしている。俺はそれに、どぎまぎする。それは何となく、俺を好きやと言う竜太郎に、俺が慌てるのと似ていた。こいつらの愛情は、どことなく一方的で、壊れ物みたいや。理想化した俺を見ていて、好きや好きやで押してきて、俺に考える間を、与えてくれへん。
 幼いんやろう。瑞希は。
 三万十八歳に向かって、たったの二十一の俺が、幼いというのは失礼やけども、瑞希は大学にいた頃と、何も変わってへんように見えた。言うてることも同じようなもんやし、俺を見る目も、必死な素振りも、全然変わらん性急さで、責め立てるように俺を口説く。
 俺もたぶん、まだ幼かったんやろう。そういうのを受け入れてやるには。ビビってもうて、考える間もなく逃げを打ってる。たぶん、求められてる理想と、自分が持ってる現実の、ギャップが怖くて。
「お前のこと、愛してないわけやない」
 俺は観念して話し、瑞希の手を引いてやった。連れて歩くと、ほんまに犬みたいやった。引っ張られて、とぼとぼ付いてくる。
「ほんまですか……」
「嘘ではこんなん言われへん。お前が死んでもうた後、俺はお前の絵を描いた。犬の絵やけど、お前やと思って描いてたと思う」
「嬉しいです」
 ほんまに嬉しそうに、瑞希は照れていた。その静かな笑みは、作り笑いやない、ほんまの笑みに見えた。
 可愛い奴やと、俺は振り返ってそれを見た。貪りたいような可愛さや。だけどそれは、支配したいだけで、俺はほんまにこいつを、愛してやれるんやろうか。亨のようには無理でも、せめて水煙を愛するように。
「水煙は、うちのご神刀や。あいつに認められるのが、家督を継ぐのに必要やねん。神々と愛し合うのが、げきになるということらしい」
げき……?」
 そんなんも、知らんのかという事に、瑞希は首を傾げていた。
 ほんならこいつは、ほとんど何も訳わからずに、ただもう俺と一緒にいたくて、巻き込まれてきたんや。
「巫女さんの男版みたいなもんや。うちは、拝み屋やねん。式神と契約をして、それを従わせたりする。鬼道きどうの家柄や。豊作なるように祈ったり、雨乞いしたり……鬼をやっつけたりする」
「そうか。それで先輩、俺をやっつけにきたんや」
 そんなことも、お前は知らんかったんや。ほんなら何で俺が、お前を殺しに来たんやと思うたんや。
「そんだけ憎いんやと思ってた。俺のこと。俺があの人を、傷つけたから……?」
 亨のことやろう。
 振り返って見ると、瑞希はもう俺の顔色をうかがうような、緊張した作り笑いで、俺に取り入りたい、愛してもらいたいという顔をしていた。
「お前のこと、憎いから殺したんやない。鬼になってたからや。けど、もしまた亨になんかしたら、許さへん。それだけは、よく分かっといてくれ」
 話す俺を見つめて、瑞希はどこか、絶望的な笑みやった。小さく頷いて、それにも逆らわへんかった。
「何もしません。俺は負けたんや。でも、今日だけや、先輩。今日だけでもええんです。俺が一番でも、今日だけやったら、別にかまへんやろ。もう、半日もない。それっぽっちも、俺にはくれへんの」
「亨はちゃんと、お前に譲ってくれてるやないか」
 そんなこと、お前にできるかと、俺は挑むような口調やったかもしれへん。
 俺はちょっと、怒ってた。怒れる義理ではないんやけど。
 瑞希は、俺が俺がって、自分のことばかり言うてる。それも仕方ない。そうでも言わへんかったら、俺は知らん顔や。瑞希も切ないやろう。そんなこと、言わんでええなら言いたくないのかもしれへん。
 可哀想や。俺が分かっておいてやらへんかったら、あかんのやって、頭では分かるけど、俺は亨のほうがもっと可哀想に思えた。あいつは、どこへ行くにも俺とべたべた手を繋ぎたがったし、ひどい焼き餅焼きや。それがずっと、我慢してんのやで。
 俺もずっと、我慢してる。何でやろう。学校行ったり、用事があったりで、しばらく離れていることは、別に珍しくはないのに、こうして引き離されているようやと、俺は亨を抱きしめたかった。お前は俺のもんで、俺はお前のもんなんやろう、って、強く抱いて確かめたい。あいつが、うっとり笑って、アキちゃん好きやって言うてくれるのを、見たかったんや。
 でも、俺も、それを我慢している。我慢もせずに、そんなことしてたら、あまりにも瑞希に悪い気がして。
 あちらを立てれば、こちらが立たずやな。
 けど俺の、あっちフラフラ、こっちフラフラも、亨が居ればこそで、あいつがいないと、それはまさにゴハンのないカレーライスみたいなもん。絶対的になにか足りない。ライスがない。それやとカレーライスにならへん。食えんことはないけど、不味いわけではないけど、うわあどうしようって思うで。俺、ゴハンないと飯食われへん子やから。
 夜んなったら亨と寝られると思うから、鳥さんええなあとか、神楽さんフラフラとかなんやんか。おかずやねん、おかず。そんなん言うたら悪いけど、でも、そうやねん。基本、ゴハンがええけど、たまには饂飩うどんもええなあとかいうのが、水煙あたりやないか。饂飩うどんなかったら死ぬんやで、関西人。
 瑞希はたぶん、パスタかサンドイッチ?
 ちょっと摘みたいみたいな可愛い犬を見て、俺はもちろん、そんなアホみたいな話はせえへんかった。隠し通さな可哀想やないか。アホに惚れてて、そいつのために死んだんやと分かったら、こいつの嘆きは深いで。ええ格好してやらなあかん。
 アホや俺。ほんまに、自分で自分が情けない。血筋の定めとはいえ、なんでこんなに浮気者やねん。亨一本に絞りたい。あいつだけを愛して、脇目も振らずに生きていきたかった。
 でも無理や。
 瑞希はしょんぼりとうつむき、可哀想やった。俺に怒られ、もうあかんと思ったらしい。死んだような顔してた。
 俺はそれを黙々と連れて帰り、部屋に戻って絵を描いた。
 亨と水煙は、先に戻ってきていて、何事かひそひそ話していたけども、俺には教えてくれへん内緒の話やった。
 お絵かきしよかって、亨はにこにこ愛想がよく、自分も宿題あるからと、またソファの俺の傍で、ヴァチカンにくれてやる少女漫画みたいな絵を描いた。聖トミ子光臨図やんか。
 よう憶えてるなあと思うほど、良く似た顔で描かれている、その天使の顔は、まぎれもなく亜里砂やった。髪の毛、縦ロールでぐるぐる巻きやけどな。
 こんなんやったやろう、って、亨は可笑しそうにその絵を俺に見せ、笑ってた。
 そういえば亨は、トミ子とも喧嘩せえへんかった。いや、毎日してたけど、でも、そもそもあの黒猫を拾ってきたのは亨や。恋敵やのに、亨はそんな奴にも、場所をゆずってやっている。黒猫が俺の膝でゴロゴロ喉を鳴らしていても、嫌み言うだけで、怒りもせず、そんな夜でもアキちゃん好きやて言うて、俺に抱かれてくれた。
 俺はずうっと、それに甘えて生きてんのやで。
 あっちに甘え、こっちに甘えで、我が儘放題のボンボンやんか。相手が人間やったら許してくれへんで。みんな神さんやから何とかなってんねん。キャパが違うてる。
 でも、ごめんな、って、俺は惨めな気持ちで、絵を描いている亨の絵を描いていた。
 水煙は、よっぽど退屈やったんやろう。出窓になってる午後の白い窓辺で、車椅子に座り、初めは中庭の景色を見ていたが、いつのまにか自分の腕を枕にうたた寝をしていた。亨はわざわざそれに、バスルームからとってきた、ふかふかの白いタオルをかけてやってた。やっぱり優しいような気がするで、亨は。
 そうやって、新婚さんスイートの、白い世界に埋もれて、真っ白い画布キャンバスに落ちた青い絵の具みたいに見える水煙の、午睡の情景を、俺はこっそり絵に描いた。もちろん自分の目に見える、そのまんまの青い姿で。その絵は俺には美しい絵に見えた。
 瑞希にも、なんか描くかと紙をやったけど、俺から離れた壁にじっと背をつけて、床に座り込んだまま、瑞希は膝に乗せた紙に何かを描こうという気配もなかった。ただじっと、大人しい犬のように、憂鬱そうに黙り込み、ひとつのソファに座って黙々と絵を描いている、俺と亨を眺めていた。
 そんな暗い顔した瑞希の姿も、俺は絵に描いた。手が早いねん。俺は。浮気の話やないで。絵を描くのが早いっていう事やで。短い時間でも、描こうと思えば沢山描けるんや。
 とにかく沢山描いて残しておきたい気分やった。美しいもんにしか、絵を描く食指の動かへん、耽美派の俺でも、今のヴィラ北野やったら、題材には事欠かへん。何もかも美しいような気がしてた。それは、ひとつにはこのホテルが、中西さんのアートやったからやろう。元々なにもかも、美しく調和するように計算され、配置されていた。
 でも、その美しさというのは、言うなればうつわの美で、そこに盛りつけられるものを引き立てるための美でしかない。ホテルの主役は、お客さんやろ。そこに客がいて初めて、しっくりくる情景や。しかも今はその客が、どいつもこいつも美形か異形、もしくは両方みたいな、そんな妖しい異界やからな。まるで生きて動いてる、お伽話の世界やった。
 夜見た綺麗な夢の絵を描くように、俺は脳裏に描き留めていた、このホテルで見た美しい情景を、ざくざく書き散らしていた。色も塗ったり塗らへんかったり。塗りたいとこだけ塗っといたり。水彩やったりパステルやったり。色鉛筆で塗るだけやったり。それを描けたそばから、そこらへんの床に散らしておいた。
 亨は自分の絵をだらだら描きつつ、面白そうに時々それを眺めた。床に散らばる無造作なヴィラ北野ギャラリーみたいなやつを。
「アキちゃん、この絵、どないすんの?」
「どないすんのって、どうもせえへん。落書きやもん」
 いつか廊下で見た、でかい蟷螂と蜥蜴の赤い血のような目を思い出しつつ、俺はその巨大な二匹の怪物と、それを連れてるオバチャンの絵を描いていた。ともすれば醜悪なそれも、みなぎる霊威を思い返すと、俺の目にはやっぱり美しいような気がしてた。
 そうやって、手当たり次第に描いていると、時々ふと気づくけど、俺はそう面食いでもないで。この世にある物は、たぶんみんな、どこかしら美しい。絵を描く者の目が、それを見つけられるかどうかの問題があるだけや。見ようによっては、金属ゴミの日に出されてる、電柱に群れるガラクタやって、ちょっとしたアートやからな。
「藤堂さんにくれてやったら? 絶対喜ぶで、あのオッサン」
「なんで?」
 こんな落書き。もらっても困るやろうって、俺は不思議に思い、にやにやトミ子を飾る薔薇を描いている亨を眺めた。
「なんでって、あの人、この世で一番、自分のホテルを愛してんのやで。オッサンの作品やんか。泊まる客までそうなんやで。うるさいねんから。レストランでは襟のあるシャツを着ろとか、絨毯敷いてないとこ歩かんといてくれとかさ。うるさいねん。まるでここが劇場で、泊まってる客は俳優みたい。ほんであのオッサンが、美術兼舞台監督なんや」
 はあ。まあ。言われてみれば、そうかも。廊下で煙草吸ってた湊川に、ここで吸うなって言いに来た時の中西さんて、怖い演出家みたいやったもんな。
「ここまで俳優の粒が揃うてることは、滅多にないやろ。しかも基本、オッサンのアートは記録に残らへん。刹那の芸術やからな。それがもし、絵になって残れば、きっと幸せなんやで」
 それがアホみたいというように、亨は微かに、罵る口調やった。
 そうして、にやにや悪そうに笑い、裸足の脚をお行儀悪くソファの肘掛けに上げて、うだうだダルそうに絵を描いている亨を見ると、なんて絵になる奴やと俺は思った。まるで絵のようや。それは亨が綺麗やからというだけやない。座っているソファのデザインも、それを置く部屋の内装も、悪い冗談みたいにロマンティックなんやけど、それでも亨の軽やかなような美貌には、よう似合うてた。キャラには合うてへんのやけど、トラッキーとか無いし、『ごっつええ感じ』観るためのテレビもないしな、漫画全巻セットもない。でも、この部屋はたぶん、水地亨を飼うための綺麗な箱庭みたいなもんや。
 俺はふと、そんな気がして、この部屋を作った男の思い入れを鑑み、切ないような気持ちになった。
 やっぱり中西さんは、亨のことが好きやったんやろ。亨を俺から奪い返そうと思ってた。どこかでそう思ってたんや。そうでなきゃ、あいつのための部屋なんか、わざわざ作っとかへん。
 でも、それやったら何で、俺に譲ってくれたんや。それは単に、亨が俺を選び、俺が勝ったというだけのことなんやろか。
 頭の芯までぶち切れて、抜刀した水煙を持って踏み込んできた俺を見た時の、中西支配人は、完全に呆気にとられていた。呆れ果てたような顔をして、驚いていた。
 なんでこんな餓鬼に、俺は負けたんやろうかって、中西さんは意味分からへんかったんやないか。必死の俺を見て、可哀想になったんや、きっと。
 このアホみたいな子は、水地亨がおらんかったら生きていかれへん。捨てられたら格好悪すぎる。そんな惨めで醜いもんが、俺の目の前にあるのは許せへんて、あの時ちょっと思われたんやないか。
 中西さんは、亨にふられても、ぜんぜん格好悪くはなかった。むしろ格好よかった。俺やったら、ああはいかへん。酔いつぶれて泣いて、グデングデンやねんで、絶対。ヘタレ男の代表例みたいになってたに違いないんや。
 せやのに中西さんときたら、けろっと平気みたいな爽やかな顔して、ふられた翌日にはもう、綺麗でノーブルな小悪魔のようちゃんとデキていた。めちゃめちゃ絵になる。二人で並んで立ってると、完璧に仕上げたお人形さんと、それの人形遣いみたい。このホテルは神楽さんにも、よう似合うてる。ふたりで地下室暮らしというのでは、ちょっと暗すぎるかなとは思うけど、それはそれで、妖しい美しい陰影や。
 そっちの作品でも幸せになれるから、亨は気の毒なお前にやるわと、熨斗のしつけて渡されたような気がする。俺はきっと、武士の情けをかけられたんや。
 それはまあ、例のあの絵の、返礼と言えなくもない。せやけど倍返し、三倍返し。いや、もっと莫大な差があるやろ。絵と本物とやったら。
 俺も中西さんに、またその返礼をせなあかん。借りっぱなしやと、格好つかへんからな。
「こんな落書きみたいな絵でええんかなあ……」
 俺が自信なくぼやくと、亨はにこにこしていた。
「上手に描けてるやんか。見せてみて、欲しいて言うたら、やればええねん。でも、俺の勘では、たぶん欲しいて言うわ。あのオッサン、アキちゃんのこと好きやねん。ええとこの子みたいなのが好きなんやもん」
「それと絵と何の関係があんねん」
 確かに俺はええとこの子や。一応そうやで。秋津家は古い名門なんやで。代々、素行は悪いけどな。
「絵はアキちゃんやんか。アキちゃんの人柄が出てんねん。たとえ落書きでもさ。トミ子もアキちゃんの絵欲しいて言うてたわ。聖トミ子になるずっと前にやで」
「そういえばお前も言うてたな。会うたばっかりの頃」
 今ではその絵に自分が描いてある、川辺の風景だけやった俺の油絵を見て、亨はその絵をくれと言っていた。もし別れろというんやったら、せめて絵をくれって。
 変やなあ。今はもう、これから永遠に一緒にいようかなんて話になってんのに、別れる切れるなんて話を本気でしてた時も、前にはあったんや。それもそんなに、遠い昔のことやない。まだ一年経ってへんのやもん。
 亨は俺を気恥ずかしそうに見て、少し目を細めて笑った。それは俺の好きな、亨が俺を好きやと思ってる時の顔やった。
「そんなん、あったなあ。でももう、ええねん。アキちゃんの絵は、こうして、いつでも見れるしな」
 そうや。お前は絵なんかもらわんでも、俺本体を手に入れたんやから。絵なんか、欲しいんやったら、いくらでも描いてやる。
「アキちゃん……」
 切なすぎて、苦しいみたいな目をして、亨はじっと俺を見た。そして、吐息のまじる声で、ひそやかに訊いた。
「晩飯どうする」
「お前ほんまに飯の話ばっかりやな!」
 ぶち壊しすぎ。俺は震えた声で罵っていたが、でも確かに、そろそろ晩飯時にさしかかろうとしていた。
「しゃあないなあ……何食いたいねん」
「何でもええわあ。食欲ないねん。……というか、瑞希ちゃんと飯行ってくれば。今夜、可愛い可愛いしてやんのやろ」
 寝ぼけたような声で亨に言われ、俺は心底びっくりしてもうて、紙の上で新しい鉛筆の先を、ぼきっと折ってもうてた。亨はそれを、じっと伏し目がちに眺め、俺が顔を見ても、目を合わせてくれへんかった。
「なに……? なに言うてんのや、お前」
「水煙がそう言うてたわ。今夜は身を引けって。せやから、あいつを散歩に連れてってやる約束やねん。もう、起こしてやらなあかん」
「どういうつもりや」
「どうっ、て……言うたとおりやで。それが筆頭のしきの、勤めらしい。俺はもう、アキちゃんのしきやないけど。でも、お前がやれって、水煙が」
「やれって、何をやるんや」
「アキちゃんが、寝る相手の采配をすんのは、筆頭のしきの仕事らしいで。アキちゃんのおとんには、水煙が選んでやってたんやろ。その日に寝る相手」
 そんなアホな。そんなことまでやらされてたんか、水煙。よう平気やったわ。
 平気やないか。平気ではないと、本人がそう言うてた。だからあんな姿になったんやって。醜い。怪物みたいな姿やと、あいつは自分のことを思うてる。それは一つの物の見方や。そうかもしれへん。でも、その、怪物的なところを含めても、水煙は美しい。せやけど亨もそんなふうになるのは、俺は嫌や。
「基本、月の満ち欠けで決めてたらしいで。ルールがないと、喧嘩になるから、みんなで順番や。シフトに従い、ローテーションやな」
 ふっ、と面白そうに小さく吹き出して笑い、亨は悲しいんか、腹が立つんか、よう分からんような顔やった。
「俺は、そんなんせえへんからな。今回だけや、アキちゃん。今回だけにして」
 できあがったんかどうか、鉛筆だけで描いた絵をテーブルに置いて、亨はそう念押しすると、けだるそうに裸足で立った。そして、そのまま絵をよけて床を歩き、壁際に小さくなって膝を抱えていた瑞希のところへ行った。
「ワンワン、お前はもうすぐ死ぬんやし、可哀想やからアキちゃん貸してやるわ。イイ子にして、せいぜい可愛がってもらえ。お前のもんやないからな。俺のやし。貸すだけや。わかってるやろうな」
 そんな話をしてる亨の顔は、俺には見えへんかった。座る瑞希を見下ろして、首を垂れた背中が見えるだけ。そしてその声が、すごく冷たいようなのが、聞こえてただけやった。
 俺はなんか、ものすご惨めな気分やったわ。
 俺は、貸したり貸されたりするような、物やない。俺にも心はあるんやで。お前らの考えで、食いモンでも分けるみたいに、取り分を決めて、誰が最初に食うかで争うとかな、そういう事されて、俺も平気やないねん。
 でも、それに耐えるのが、秋津の当主というものか。おとんもこれに、二十一までは耐えた。俺はこれから永遠に、耐えなあかんのかもしれへん。今回だけやと言い訳をして、実はずっとこんなことばかり、続いていくのかもしれへんのやで。
 瑞希は何となく怯えた顔をして、亨を見上げていた。きっと亨は、怖い顔をしていたんやろ。
 しかしその睨み合いは、大して長くは続かへんかった。亨はふいっと目を逸らし、水煙を起こしに行ってもうたからやった。
 窓辺で寝ている青い神さんを、やんわり揺すって亨は起こした。水煙はほんまに寝ていたらしく、とろんと眠そうに起きた。
「行こか。どこ行くんか、知らんけど……」
 水煙の顔を見て、亨はふてくされたように皮肉を言った。水煙はそれに、微かに笑った。
「話つけたんか?」
「知らん。話もなにも。お邪魔な蛇やから出ていくだけや。本日ワンワン感謝デーやろ。あとはアキちゃんが好きにすりゃええよ。ウロコ系は一回休みや。お前と仲良く傷でも舐め合うか。クルフィ味なんやろ。美味そうやなあ」
 笑いながら、よいしょと車椅子の向きを変えさせて、亨はそのまま水煙を連れて出るような気配やった。
「亨……」
 俺は焦って、通り過ぎようとする二人を呼び止めた。せやけど亨は止まりはせえへんかった。そのまままっすぐドアまでいって、そこらへんに脱ぎ散らかしてあった自分の靴をごそごそ履いてた。
「声かけんといて。キレるしな」
 あてつけみたいに、俺に怒鳴って、亨はとっとと出ていった。俺は呆然と立って、それを見送っただけやった。
 そして部屋には、石のように押し黙る犬と、うち捨てられた俺だけが、息もできんような重い空気の中に残された。
 俺はへたりこむように、またソファに戻った。
 床にはたくさんの絵が散らばっていた。それを描いたのは俺やけど、眺めてみても、自分がどうやってそれを描いたんか、思い出されへん。
 絵でも描いて、気まずい時間を紛らわせたいと、俺は思っていたけど、そこへ逃避しようにも、絵の世界は俺を拒んだ。描きたいもんが何も無くて、何をどう描いてええやら、さっぱり思いつかへんねん。鉛筆握る勇気も湧いて来ない。持ったところで、白い紙の上に、自分がなんにも描かれへんことを、俺はなんとなく予感していた。
 不思議やわ。俺はそんなふうになったことはない。子供の頃から、何も考えんでも絵は描けた。息するようなもんやった。それが描かれへんのやから、俺は息の仕方を忘れたようなもんやった。
 まるで亨が俺の絵心の神で、それが、ふいっと去ってもうたら、俺にはもう絵が描かれへんみたいやった。座敷童に捨てられた家が、あっというまに没落するみたいに。描きたい絵でいっぱいで、どうしていいかわからんくらいやった俺の心の絵の蔵は、その一瞬でからっぽの、暗いがらんどうの部屋になっていた。
 おれはそれが、ほんまに怖い。そんな目に遭うたら、生きていかれへんて、時々思って怖かったことが、自分にも起きたんや。いわゆるスランプというやつか。俺はそれに、なったことがない。
 こんなに怖いもんやったなんて。そら死ぬわ。半年も一年もこれが続いたら、死んだほうがましやと思い詰めもする。
 絵を描くことのない人には、そんなんアホやと思えるのかもしれへんけど、絵を描くことは俺の魂やねん。それを失ってもうたら、もう生きている意味がない。亨のおらへん俺の人生には、なんの意味もないって、そういう気持ちに似てんのかもしれへん。
 俺はマジで、それが苦しかった。思わずうめくぐらい、苦しかったんや。
 ソファで頭を抱えてうめいてる俺を見て、瑞希はびっくりしたらしかった。血相変えて立ち上がっていた。どっか具合悪いとでも思ったんやろ。慌てて駆け寄ってきて、あいつは俺の絵を踏んだ。
 何をすんねん瑞希。俺の遺作になるかもしれへん絵やで。もう描かれへんのやで。落書きやけど、俺の最後の作品なんやで。頼むし踏まんといてくれ。
「どしたんや、先輩。どっか痛いんですか」
「なんでもない、絵が描かれへんだけや」
 肩を掴んで顔を覗き込んでくる瑞希に、俺は頭を抱えたまま答えた。それにも瑞希は、びくっとしていた。
「え。なんで。さっきまで描いてたやんか」
「もう思いつかへん。頭真っ白なってもうたわ」
 瑞希は俺の話を聞いて、ビビったらしかった。慌てたふうに、振り返り、床にたくさん散っている、俺の絵を見た。
「そんな……なんでやねん。大丈夫ですよ。スランプくらい誰でもなるから」
「俺はなったことない。お前はあるんか」
 こういう時、どうすりゃええねんて、俺は瑞希に答えを求めた。でも、瑞希は気まずそうに、眉根を寄せて答えた。
「俺もないです」
 ぽつりと答えて、瑞希は押し黙った。俺は朦朧とした気分で、それを見た。
 そりゃそうやろな。そんな感じするわ。
 絵も一種の神通力やで。天地あめつちとの交感や。俺はそれに不自由したことはない。瑞希も人ではない身で、ただの犬やったのに、人間に化身するほどの力を持ってたんや。神通力で保ってるやつが、それを発揮できんようになったら、犬に戻ってまうやんか。霊力が強いから化身できてんねん。常に絶好調やったんや。スランプなんかならへん。
 神様は、スランプなんかならへんねん。神やねんから。
 そんなやつらに、俺の今の苦しい気持ちが分かるわけあらへん。
 でも、亨が帰ってきてくれれば、何とかなるかも。何の根拠もないのに、俺はその思いつきに縋り付いてた。あいつが戻ってきて、また俺に微笑みかければ、俺はまた蘇る。きっとそうや。あいつに捨てていかれたショックで、こんなんなってんのやから。亨が戻れば元に戻るんや。
 ひどい話や。俺になんの相談もせえへんと。犬と寝ろって、どういうことやねん。
 その犬は、また頭抱えがちの俺を見て、不安そうな切ない目やった。
「先輩……嫌なんですか。俺と寝るの」
 つまり、そういう事やねんなあ。瑞希は頭の回転が早いやつで、いきなり核心を突いてきた。
 お前、自分の話するときは、しどろもどろやのに、人のことはよう分かってんのやな。大学でもずけずけ悪気無くもの言うて、痛い冗談を言うやつと思われていた。
 苑先生の絵が全然売れへんことも、よりによって本人に、それは先生がホモやからやないですかって、真顔で言うてた。つまり教授は隠れホモやねん。絵を描くときにも、そんな自分を隠してる。せやから何や、気色悪い、魂脱けたみたいな絵になるしな、嘘で作って描いたかて、誰が共感してくれるんやと、瑞希は思うたらしい。ホモならホモくさい絵を描けばええんですよと、爽やかに断言し、それで悪気もないねんなあ。苑先生、がっつり悩んでたよ。
 お前は全然、恥ずかしくなかったんかもしれへんよ。恥ずかしがりのくせに、なんでかそこは恥ずかしくなかったらしくて、男らしくカミングアウトしていたしな。こいつが男しか好きでないことは、皆知ってたらしい。それでも友達いっぱい居ったけど、親友ゆうたら女友達やろ。ほんで寄ってくる男は、どことなく下心ありげな、犬にトキメいてるような奴らばっかりや。
 大学にはいつも早朝出勤やったのに、いっぺん遅刻してきたことがあって、どないしたんやって聞いたら、大阪から来る京阪電車で痴漢にあって、ハゲのオッサンの股間を二度と勃たないくらい踏みにじってきてやったと、教務課のおばちゃんの前で話され、俺の目がどんだけ泳いだか。
 もっともそのオッサンは、混んでるのをええことに、瑞希のケツを相当熱心に触ったらしいから、今にして思えば、血が出るくらい踏んどいてやって良かったと俺は思うけど、当時はそんなん、脳の回路焼き切れるような話やったんやから。可哀想やったで俺は。
 だいたい男が男のケツを撫でるなんて、そんなことあってええんか。俺は亨のケツを撫でまくりやけど。やるときはやるけどな。それについては、すみません。結婚してるからええわって事にして。
 話、逸れてる? そうやねん。また逃げてる。俺は一、二秒、もっとかな、気を失ってたと思うわ。
 はっと我に返った時には、ものすご悲しそうな顔してる瑞希と、真正面から目が合うた。
「嫌なんですね」
「嫌やない」
 泣きそうな気配で言われ、俺は慌てて正直に答えてた。
 嫌やないねん。それも、すみません。男の子やから。好みのタイプなんやから、もともと瑞希は。可愛いねんから。食べちゃいたいぐらいやねんから。やってええならやりたいよ。
 でもな、できへんねん。だって亨にバレるんやんか。バレバレすぎやろ。今日は犬とやれって言われて放置されてんねんから。バレすぎや。ああ、やっといたわ、気持ちよかったわあ、みたいな話やないやろ。いくら俺でも、そこまで無茶苦茶やないよ。まだまだ初心うぶやで。
 そんなことして、亨がどんだけ傷つくか、それを思うと、心底ビビった。なんでバラすねん、水煙。浮気やねんから、そんなん隠れてするもんやろう。せめて、バレてへんという免罪符が欲しいところやで。バレてなくても罪悪感はある。せやけどこれは俺の仕事やねん。瑞希かて可哀想やろ。そんな大義名分で相殺できたかもしれへんのに、バレてもうたらもうお手上げや。
 しかもスランプやしな。萎え萎えや。やろうという気が全く湧かへん。
 たぶん、やったらあかんと思うから萌えんねん、浮気なんてもんは。やってええよ、はいどうぞなんて、ツレにすすめられても、それで素直にやる気が湧くのは、よっぽどの熟練者だけや。
 大崎先生とかな。あの人、奥さん居るのに、お妾さんもいっぱい居るし、その上芸者遊びもするし、せやのに秋尾さんのことも何か妖しいんやで。ええやんそんだけ女侍らしてんのやったら、狐に手出しせえへんでも。男やで、秋尾さん。美少年キャラまでレパートリーあるけど、いろいろ化けられるらしいけど、爺さんエロ爺すぎやねん。白髪キャラの分際で、尻尾と耳ある男の子とやろうなんて。犯罪やでそれは。
 あかんあかん、話逸らすのやめられへん。覚悟決めろ俺。話どんどん長なるから。
 つらい。喉痛い。こんな話で声枯れるまで話したくない。なんか飲みたい。俺は喉がからからやった。瑞希とふたりきりで居ると、だいたいそんな感じになる。喉渇いてきて、どぎまぎしてもうて、どうしてええやら頭真っ白になる。
 そういう俺に、慣れてんのやろ。犬は鋭く気がついて、甲斐甲斐しくも俺に水を取ってきてくれた。グラスにミネラルウォーターを注いで、それをソファまで持ってくると、飲んでくださいと差し出してきた。
 俺はそれを、仕方なく、瑞希と見つめ合いながら飲んだ。もちろん内心、冷や汗だらだらや。なんて言おう。何て言って断れば、こいつは傷つかへんのやろ。緊張する。ものすごく、ビビる。
 俺は瑞希のことは好きや。可愛いと思うてる。せやから傷つけたくはないねん。こいつが泣きそうな顔するの、もう見たくない。幸せにしてやりたいねん、こいつはこいつで。でも俺には、そんな甲斐性がない。
「飯、食います? 腹減るんですか、先輩はまだ」
 俺がまるでもう人間やないみたいに、瑞希は訊いた。失礼なこと訊く奴や。俺はまだ腹減る。ちゃんと人間やで。血は吸うけど、ほとんどの場合、人間や。
「ほな、どっか食いに出ます? それとも、ルームサービスでも、頼みましょうか」
 部屋にいたいって、そんな気配のする誘導的な訊き方で、瑞希は俺に意向を訊いた。
「なんでもええわ……俺も、食欲のうなってきた」
「じゃあ、酒でも飲みますか。先輩、好きでしょ。何か適当に注文しますし」
 言い終える間もなく、瑞希はとっとと電話のところに行った。その仕草が焦っているようなのが見て取れて、なんで焦ってんのやろうかと、俺はソファでぐったりしていた。
 瑞希は俺の気が変わり、どこかに逃げてまうんやないかと、思っていたらしい。それに、時間もあんまりない。今夜限りやからと、焦ってた。
 素直なやつや。今夜限りと言われれば、それで満足しようとしていた。もっとよこせと、欲張ったりはせえへんのやな。たった一夜で死ぬつもりというのが、俺には少し、怖く思えた。
 一体、俺のどこに、そんな価値があるんやろ。ただちょっと抱いてやって、気持ちよくなって、それだけのことに何の意味がある。もちろん意味はあるやろうけど、そのために死ぬようなもんか。なんでそんな必死やねん。
 せっかく戻ってこられたんや。俺のことなんか忘れて、もっと幸せにしてくれそうな相手を、探せばええやん。世の中に男もげきも、俺ひとりやないし、お前はけっこう、モテんのやから。
 瑞希はバンケットに、ローストビーフとチーズと赤ワインを注文していた。肉食いたかったらしい。それに神戸といえば神戸牛やし。六甲山には牧場があって、地元でチーズも作っているし、ワイナリーもある。せやから神戸グルメやな。
 瑞希にはまだ食欲があるらしい。三万十八歳にもなって。まだまだ食欲旺盛で、性欲もある。可愛いような顔してるけど、亨がそうなように、こいつも結局、エロエロの外道なんやで。
 亨と違って、我慢強いだけで、我慢せんでもええときには、我慢でけへんらしい。
 もう我慢せえへんて、その夜は決めていた。我慢してもしゃあない。たった一度のチャンスやと、あいつは思ってたんやからな。
 ルームサービスはこの時も、迅速に仕事をした。新装開店祝いのヴィラ北野のラベルを貼った、ホテルおすすめの赤ワインと、美味そうに盛りつけられた肉とチーズを乗せたワゴンが運び込まれ、それをどこに置くかと訊いたホテルマンに、瑞希はベッドの横に置けと頼んだ。
 なんでそんなとこに置くんや。でも、それを置く場所はちゃんとあった。
 新婚さんて、ベッドで飲み食いするもんなんか。そんなん、お行儀悪いやんか。俺はそんなん、やったことない。亨も、やろうと言うたことはない。あいつもあれで、俺にいろいろ遠慮してたんやろうな。
 せやけど瑞希は知ったこっちゃない。俺と寝たことないんや。付き合うたこともない。大学で、先輩と後輩やっただけで、俺がベッドでどんな嗜好かなんて、あいつは知らん。
 案外、お行儀悪い犬やったんや。付き合うてみいへんかったら、分からん事っていっぱいあるな。
 たじろぐ俺の手を引いて、瑞希はいきなりベッドに連れていった。早く早くや。こいつはいつも焦ってて、早くしてくれって俺を急かす。
 風呂にも入ってへんのに、部屋を仕切った目隠し壁に隠れると、瑞希はもう本性を隠しはせえへんかった。俺を仰向けにベッドに押し倒し、その腰に跨って、もう待ちはせず、自分から俺にキスをした。
 それでも探るような、目を閉じて控え目なキスやった。触れるだけの。
「ローストビーフ美味そうですよ。肉食べさせて、先輩」
 めちゃめちゃ恥ずかしそうに、瑞希は俺にそう頼んだ。口移しで、食わしてくれって。
 ワンワン肉食えプレイや。そんなアホみたいなことすんの、水地亨だけやなかったんや。瑞希がそんなんしてほしいなんて、俺には驚愕の極致やった。
「アホみたいやで……瑞希」
「アホなんです俺は」
 つらいという顔はしてたものの、瑞希は断言していた。
 ア、アホなんや。本人がそう言うんやから、そうなんやろうな。
 瑞希はベッドに横付けされた、白いテーブルクロスがけのワゴンから、銀皿に盛られたローストビーフをくわえて戻り、また俺に跨って、口移しにそれを食わせた。全部やない。半分だけ。残りは白く犬歯の目立つ歯が、食いちぎっていき、舌なめずりする唇で、瑞希は美味そうにそれを食っていた。
 食いながら俺のシャツのボタンをはずしてきて、胸だけはだけさせると、自分ももどかしそうに、真っ白なだけのTシャツを脱ぎ捨てた。
 そのまま抱きついてくる、いかにも年下という感じの胸の素肌と、ひやりとしたベルトのバックルが腹に触れたのに、俺はひっと喉が喘ぐような感覚を受けた。
 裸の瑞希を抱いたことない。これが初めてやった。並んで横たわり、ぎゅっと抱きついてきて、瑞希は肌の匂いを嗅ぐみたいに、俺の首筋に鼻先をこすりつけていた。その息が、何とはなしにはあはあ甘いのが、俺には気まずかった。
 どうしていいかわからへん。何をどうしていいか。
 亨やったら何も悩まんでも、勝手に手が動く。絵を描くのと同じようなもんで。あいつがどうしてほしいか、悩むまでもなく、もう分かる。それと同じようにすることに、俺は抵抗があった。
 いつもそうやって蛇とやってるんですかと、犬が言いそうな気がしたからや。
「脱がして。先輩。酒飲みますか」
 裸にしろって、言うてんのやろうけど、俺はなかなか手が出えへんかった。緊張しすぎる。だって、したことないんやで。俺は。瑞希とは初めてやというだけでなく、他のとやったことない。亨としか、したことないんや。女の子とは、したことあるよ。でも男は亨しか知らんのやで。
 普通どうやってやるもんなのか、全然知らん。実はものすご異常なやりかたで憶えさせられてたらどうしよう。なんせ水地亨プレゼンツやからな、俺の作法は。あいつがどこまで変なんか知らん。
 それでも瑞希が、俺が初めてやというような、初心うぶなやつなら、もうちょっとビビらへんわ。でもこいつ、俺の知るかぎりでは、百戦錬磨やで。少なくとも大阪で死んだ時点で、五十人も彼氏がおったんやで。二股三ツ股の世界やない。まとめて五十人と付き合うてたんや。
「いつも、どうやってやるんや」
 もう、訊くしかないと思って、俺は気まずく訊いた。それに瑞希は、顔をしかめた。傷ついたらしかった。俺にスレてると思われてるって、嫌やったんやろう。でもお前、ほんまにそうやんか。俺はそれが、あかんとは思ってない。ただ、お前の理想とか俺へのドリームを、なるべく壊したくなかっただけやねん。
「先輩の、やりたいようにでええんです。抱いてくれたらそれで」
 ゆっくりでも、早くでも、何回でもいいって、瑞希は俺の耳に切なそうに囁いてきた。それってつまり、何回もやれって事やんな。そういうふうに解釈すべきところか。でも一回やんのでも、一杯一杯やないかという気持ちやった。そもそも、できるのか、俺は。
「酔ってるほうがよければ、それでもええんですよ。酔った勢いでも」
 とろんとした目で、赤い顔をして、瑞希は俺に訊いた。ワイン飲めって言うてんのやろ。でもたぶん、酔わへんで、俺。ビビりすぎてて、ワインのワンボトルくらいでは、普通に正気やで。焼け石に水。
「魅力ないですか、俺……」
 可愛い顔して、瑞希は悲しそうに訊いた。俺はそれに、苦しい顔で目を閉じて、首を横に振って見せるのが、精一杯やった。
 口に出したらあかんという気がする。お前は可愛い。俺はお前の顔が好き。
 顔だけやのうて。実は俺。言いたくないけど。言わんと話が進まへん。皆も薄々、言葉の端々から感知してくれているとは思うけど。そう思いたくはないけど、この際むしろ察してくれたほうが、言わんでええからラクやけど。言わんとわからへん人も居るかもしれへんから、しゃあないし言うわ。
 俺はケツフェチやねん。たぶんそうやねん。亨がそうやって言うねん。俺があいつのケツに執着していると。やるとき、やたら撫でると。そんなん認めたくない。俺が神楽さんのケツを物欲しそうに見ているなんて。水煙のケツに触れると、嬉しいなんて。虎に跨る鳥さんのケツを見て、脳天ガツンやったなんて。そんなこと名誉に賭けて認めたくない。
 でもそうらしいで。やりたいようにやってくれ、好きにしてくれという瑞希を抱いて、俺はとりあえず普通にキスしたが、そのまま覚悟を決めて、着衣のままとはいえ、あいつのケツを撫でていた。
 気の毒やったな京阪の痴漢。でも分かるわ、こいつのケツが可愛いというのは。触ってみたいというのはな。せやけど赤の他人がやったら、犯罪なんやで。合意の上でないと。
 瑞希は見た目は可愛いけども、中身は狂犬やから、そんなんしたら股間蹴られる。死ぬほど殴ったらしいで、そのオッサンのこと。補導されかけてたから遅刻したんや。無軌道でキレやすい大学生が、オッサンにイチャモンつけたんやと思われたんやな。まあ、普通はまずそう思うわ。駅員さんや、お巡りさんかて、まさか男が男に痴漢したに違いないとは、第一候補では思わへんよな。犯人のオッサンかて否定するわ。認めてもうたら犯罪者なんやから。
 でも、なんでか瑞希は被害者として、無罪放免された。どうやって、お巡りさんに理解してもらったか。俺は訊いてへんのに、瑞希は教えてくれたで。天然やねん、こいつ。無防備というかな。
 俺はこういうふうにして触られたんや。混んでて動かれへんのをええことに、オッサン股割ってきやがったんやと、こうですこう、みたいに、お巡りさんに実演させてやったらしい。
 魅惑の現場検証やったな。その若いお巡りさんが、今ごろどうなってはるか、俺は心配や。真っ赤になって、わかったわかったと言わはったらしい。被害届書くから、住所と電話番号を教えろと言うその人に、瑞希は親にバレんのが嫌やったもんで、なんで知りたいんや、そんなことと、身構えて訊いたらしい。それが性犯罪で傷ついた美少年の神経過敏に見えて、被害者にトキメいている下心がバレたんかとお巡りさんはビビり、ほなもうええわと、さらに赤くなったらしい。
 その制服が、紺色やしな。それで顔赤いから。赤と青と両方ついてる半分ずつの色鉛筆みたい。なんであの赤と青のやつ、絶対青が最後に余るんやろう。不条理やわ。先輩は、なんで一本に二色入ってる必要あるんやと思いますかと、それが瑞希の話のオチで、ネタやない。マジで言うてた。俺は最高に気まずかった。要点、そこやないやろ。教務課のオバチャンも、絶対に心の中で力一杯、お前にツッコミ入れてはったで。
 しゃあないから、俺は教えてやった。携帯性やないか。事務作業でよく使う二色が、一本にまとまっていたら、携帯性が高いし、それに、引っ繰り返したら反対側の色が使えるんやし、機能的やから。
 ああ、そうか、って、ものすご感心してたわ。さすが先輩、頭ええわって。それを真面目に言うてるところが、こいつのアホみたいで、可愛いところやねんけど。でも、えげつないところでもある。
 俺はそんなことを回想しつつ、なるべく気を遠くに持って、瑞希の体を愛撫してやっていた。服の上からでも、俺の手が形のいい小作りなケツを撫でると、もどかしいみたいに瑞希は喘いだ。ヤバいヤバい、声が可愛いから!
 俺はなんか汗かいてきた。額にじっとり汗が浮くのを、険しい顔で感じとってた。あかん、なんかもう、一瞬でも乱れてもうたら、何するかわからへん。俺も大概亨とは、いろんなことしてる。それが普通になってる。でも、それが瑞希にとって、気持ちいいかはわからへん。
 もう脱がせたほうがええのかなとか、まだ早いかなとか、そんなことを必死で考えていた。
 まるで懐かしい童貞の昔に戻ったみたいやで。嫌われたらどうしようかなって、ビビりながら抱いている。必死すぎてな、自分が興奮してんのかどうかも、よう分からんくらいやねん。
 まさか自分がそんなセカンド・バージンみたいな男やとはなあ。余裕やろうと思ってたんやけど。経験値には自信があるつもりやった。だって蛇とは連日連夜、腰くだけるほどやってるんやから。
「先輩……焦らさんといて」
 俺の胸に縋って、瑞希は泣きそうな声やった。ちょっと遅すぎやったか。
 俺はなんとなく真っ白なってる頭のままで、慌てて瑞希のベルトに手をかけた。脱がせようとする俺を、瑞希はじっと不安そうに見つめていた。まるでこっちも初体験みたいやった。
 ある意味そうかもしれへんわ。俺とするのは初めてやから。どこまでやってええのかなみたいな。嫌われたらどうしようって、そんな腹の探り合い。俺がそのあと探ったのは、腹ではないけど。
「あ……っ、ヤバい」
 脱がして触れると、瑞希は俺の腕の中でじたばたしていた。ぎゅうっと閉じられた赤い目元が、喘ぐ唇が、悶える体の感じてるもんが、苦痛ではないことを物語ってる。
「めちゃめちゃ感じる……先輩、どうしよ……」
 どうしよ言われても。俺も今、ノー・アイデアやから。頭真っ白続行中やから。
 びくびく引きつる生白い体を片腕に抱いて、俺は一生懸命やった。気持ちよくしてやらあかんし、やるんやったら、体も開いてやらなあかんし。それに、そっちにばっかりに集中したらあかんらしい。キスしてくれって、強請られるんで、上の空で唇を重ねながら、開かせた脚の、ずっと奥のほうの熱い感触を、指先で確かめながら、ゆっくり責めた。
 固いなあと、俺は思った。ええと。中の感触がやで。亨はもっと、柔らかいというか、こんなに緊張してへんしな。まあ、慣れてるんやから、当然やけど。
 でも、瑞希はめちゃめちゃ固かった。全身緊張してた。このまま入れたら、絶対痛いんやろうなと、俺はぼんやり考えて、そんなん、したくないなあと思った。
 嫌やねん。そういうの。ぎゃあ痛い、みたいなの。苦手やねん。女の子でも、相手が処女やと萎えんねん。そんなん責任とられへんて思って。やめといたほうが無難やわって、逃げに入るんや。
 でも、もう瑞希は、やっぱやめようかって言うてええような雰囲気やなかったし。何とはなしに涙ぐんで、赤い顔して俺に抱きついていた。されるがままで、一種のマグロやった。犬やけど。
 たぶん、そういう心得がないわけやないけど、変なことして、俺がぎょっとしたら怖いって、固くなってたんやないか。スレてへんて、思われたいんや。でもちょっと、遠慮しすぎやで。軽く生殺しやから、俺は。
 でも、まあ、ええかって、そんな気もした。ここから先に、進みたくない。抱いてやったら、瑞希はきっと喜ぶんやろ。痛いかもしれへんけど、それでもこいつは泣いて喜ぶ。そんな気がした。そのうち慣れて、気持ちええわって泣くかもしれへん。そしたら俺は、それに夢中になるかもしれへん。
 そうなりたくない。俺にとって、水地亨は特別や。夢中になるのは、あいつだけ。それが犬でもええなんて、そんな自分に出会いたくない。愛なんて、俺の妄想やった。誰でもええんやって分かってもうたら怖い。自分がもしも、そんな男やったら。おとんのような。代々の、秋津の当主のような。
「瑞希……」
 悶える体を指で責めながら、俺は可愛い犬の名を呼んでやった。
 それにくんくん泣くような、甘い喘ぎで瑞希は答え、背後から抱いている俺の顔を見上げてきた。
「俺の血をやる。それだけやったら、あかんか。このまま、いかせてやるしな。抱くのは勘弁してくれ」
「い……嫌や。嫌です」
 ぎょっとしたふうに、瑞希は鋭く拒んできたけど、愛撫を激しくしてやると、苦しそうに身をよじらせて、抵抗できんようになっていた。手応えからして、相当気持ちええらしい。肩を抱き寄せて顔を覗き込むと、恍惚とした濃いめの睫毛が、しっとり涙に濡れていた。
「嫌や……いきそう……」
「中も感じるんか、お前」
 いっぱい男が居った割には、ずいぶんお堅いみたいなそこを弄る指に、熱を籠めると、瑞希は苦しいんか気持ちええんか謎なふうな、荒い息やった。
 もしかして、いつも痛かったんやないか。人恋しくて、やらせろ言う奴にやらせてやってただけで、自分は気持ちよくなかったんとちゃうかな。だって慣れる間もない。五十人もとっかえひっかえやと。
「感じる時もある。ちゃんとできます。入れてほしい、先輩」
 必死に身を擦り寄せてくる瑞希に、俺は正直トキメいた。まさかそんなとこから、やらなあかんなんて。経験豊富なんやしと、入れれば喘ぐようなのを想像してたんやけど、まさか練習からなんて。
 無理無理無理。できへんできへん、俺にはとても無理。そんなん恥ずかしすぎて、できへんから。意気地無しやねん、アキちゃんは。水煙が初めてやったというのにも、どんだけ萌えたか。それでハートを鷲づかみされてんのやから。これ以上、鷲づかまれたら胸が張り裂けそう。というか、引きちぎられそう。
 俺は亨が好きやねん。あいつとだけ愛し合いたいねん。フラフラさせんといてくれ。確かに皆、魅力的やわ。神さんやから。亨だけが神というわけではないんやし。それでも俺は、あいつだけを見つめていたいねん。目を逸らしたくない。あの、甘く優しい美貌から。
「あっ……あかん、先輩。早く、して。早う入れてください。ちゃんと、気持ちええから……すごく、すごくいい……中も感じる、中のほうがえねん、ほんまです!」
 ああ、だめ、やめて、みたいなふうに、身を捩らせて、瑞希は俺の手から何とか逃げようと藻掻いてた。じっとり汗かいた体が熱くて、真っ白やった肌が薄赤く上気してる。
「いきそうやねん! もうやめて!」
 怒ったようなわめき方で、瑞希は俺をぐいぐい押し返してきた。でも、それが本気の力とは、あんまり思えへん。もっと強いもんなんとちゃうか。本気で逃げたければ。だって京阪のオッサンは半殺しにされたんやしな。
 でも、その時の腕は、やんわり甘い強さやった。たぶん逃げたくても逃げられへんかったんやろ。久しぶりやし、気持ちよくて。
「ああ、もう……いく。もう、やめて……やめてください。嫌やぁ……」
 細く引き絞られた悲鳴をあげて、瑞希は体を強ばらせ、俺の手の中で達してた。元々狭いような中の感触が、ぎゅうっと強く指を締め付けてきて、この中にいたらどんだけ悶絶させられたやろと思えた。
 でも、そんなんせんといて良かった。お陰で、震えながら感極まっている、可愛いワンワンの顔がじっくり見られた。
 いってる体の、中も責めてやると、瑞希の絶頂はものすごく長く続いた。どっと吹き出るような汗を背中に光らせ、とろとろ漏らし続けてる。それが恥ずかしいんか、赤い顔を俺から背けて、瑞希は泣いてるみたいやった。啜り泣くような悲しい声が、ずっと喉から漏れていて、俺はそれに、うっとり聞き入っていたけども、瑞希は気持ちよくて泣いてわけやない。悲しかったらしいわ。体はくても、心はしんどかったらしい。俺に抱いてもらわれへんで、結局それかって、瑞希は泣いてた。
 よっぽど情けなかったらしい。亨はすぐにメソメソするけど、こいつはそう簡単に泣く奴やなかった。それでも俺は、瑞希が泣くのを見たことあるけど、それは俺がよっぽど鬼畜やったという事らしい。
 ぽろぽろ泣いてる犬を見て、かったのかと、俺は訊いた。熱く汗ばむ体を、まだ背中から抱いたまま。俺は服も脱いでへんかった。そういえば、そんなん忘れてた。
かったです……でも、何で」
 背を丸めたまま、瑞希は顔を隠して呻いてた。
「恥ずかしいです、こんなん。俺は嫌や」
「でも、つらいやろ。途中でやめたら」
「最後までやってくれたらええやん。普通に抱いてくれたら!」
 噛みつくみたいに振り向いて言われ、俺はびくっとした。それに瑞希は、また哀れっぽい悲しい顔をして、目を背けていた。
「血なんか、要らへん……他で食うから」
「浮気すんのか」
 俺は何の気なしにそう訊いたけど、ギロッと睨まれた。ええと。まあ。当然です。
「なにが浮気なんや。先輩、俺の彼氏やないやんか。俺が誰と寝ようが、どうでもええでしょ」
「うん。まあ……そうやけど」
 俺がそう、淡い苦笑で答えると、それを睨んでいた瑞希のでっかい目に、みるみる涙が溢れてきてた。まるで、大洪水みたいやった。そのまま流れ落ちる涙をこらえる気配ももうなくて、瑞希は俺の胸にすがり、おいおい泣いていた。
 なんで?
 なんで、って思う、俺がアホ?
 でもその時は、何で泣いてんのやろって、ほんまに分からんかったんや。
「どうしたんや、瑞希。なんで泣いてんのや」
「アホか先輩。ほんまに分からんのですか。鬼や、ほんまもんの鬼……好きやのに。ずっと言うてんのに。好きやねん! なんで分かってくれへんのや!」
 泣きじゃくるような歳ではもうないはずの、三万十八歳にもなった犬が、わんわん泣いてるのを、俺はしょうがなく抱っこしていた。
「分かってるよ。お前が俺を好きでいてくれてんのは」
「嘘や。わかってへんのや、先輩は。わかってくれてへん。わからへんのや……永遠に」
「そんなことない。お前のことも、愛してる。ほんまやで。でも、お前が欲しいのは、そういう愛やないんやろ。一番でないと、あかんのやろ。それは無理やねん。俺の一番は……」
 水地亨です。
 ふとそれを思うと、俺はめちゃくちゃ寂しくなってた。
 申し訳ない。瑞希と抱き合うてても、俺は寂しい。俺のことが、ずっと好きやったこいつが、たとえ彼氏が五十人いようが、お巡りさんにモテようが、ちっとも満たされへんかったのも、なんとなく分かる。こいつでないとあかんという相手が、なんでか知らん、世の中にはいるらしい。
 亨がおらんと、俺は寂しい。亨と寝たい。亨と寝たい。ただ抱き合って、ごろごろしてるだけでもいい。俺はあいつに触れていたい。アキちゃん好きやって、囁かれたい。それでしか満たされへんモンが、俺の心にはあって、そこを満たしてくれる亨のことが、俺は大好き。
 せやから無理やねん。一時の情欲で、他のと寝ることはできるやろうけど、でも、そんなんで抱いたら瑞希は傷つく。今も傷ついてる。どうやったって、こいつは傷つくようにできている。愛してるって、お前だけが好きやって、言うてやらんとあかんのや。こいつが求めてるのは、俺が亨に与えている愛情やねん。それを寄越せって言うてんのや。やるわけにいかへん。
「許してくれ。どうしてやったらええか、わからへん」
「抱いて……ただ抱くだけでええねん。抱きしめて……」
 涙の声で求める瑞希を、他にしてやれることもないし、俺は切なく抱きしめた。ぎゅうっと、肋骨折れるんやないかっていうほど。それが苦しいんか、気持ちええのか、わからんような甘い切ない声をして、瑞希は呻いていた。
「好きやぁ……つらいよう、先輩。ほんまに助けて……」
 俺も切ない。そんな悲しそうに言われると。
 それでもとにかく、ぎゅうっと抱いといてやると、瑞希は俺に縋り、長いこと、めそめそ泣いていた。それでも疲れてもうたんか。いつの間にか、眠ってた。
 惨めそうな寝顔やった。くたびれ果ててる。泣き寝入りやしな。
 そう言えば元々、疲れてるって言うてた。
 眠ってくれて、良かったと、俺は心底ほっとしていた。こっちもぐったり疲れていたし、それに正直、むらむらしたわ。欲求不満やったよ。俺も木石ではないということは、もう、言うまでもないやろ。やりたいもんはやりたいねん。特にぐったり眠ってる、素っ裸の瑞希のケツ見たら、入れときゃよかったと思うよ。それが男ってもんのさがやねん。
 でも、我慢しといて良かったなって、それが当座の結論で、俺はそれには満足していた。
 その場の欲で、やりたい入れたいって、とにかく抱いてまえみたいな、そんな扱い方していいと思うほどに、俺にとって勝呂瑞希はどうでもええような奴ではない。弟みたいやねん。それは未だにそう思う。守ってやりたいねん。そうは言いつつ、いつも傷つけてばっかりやけど、もしかしたら俺は、自分が傷つきたくないだけかもしれへん。また、こいつと亨が、俺が先やと醜く争うような、そんな姿を見たくないんや。勝負はもうついた。あれで終わりにしてほしい。また同じ泥沼に、ハマりたくないねん。
 どうしたら俺はこいつを、幸せにしてやれるんやろうって、俺は眠る犬の頭を撫でてやりつつ、そんなことを考えていた。
 そして気づいた。
 俺は、アホや。
 こいつを殺すということで、抱いてくれみたいな話になってんのに、それをどうやって幸せにしてやるんや。ほんの僅かの幸せのためやって、それで俺に抱いてほしかったんやろ、瑞希は。それで満足して死のうって、そういう事やったんや。
 でも俺は、それを拒んだし。抱いてやらへんかった。
 俺はもう、その時すでに決めてたんやと思う。瑞希を生け贄になんかせえへん。
 俺の犬やで。なんでなまずなんかに食わせなあかんねん。しんどい目にあって、やっと戻ってきたのに、可哀想やないか。可愛い俺のしきやのに。
 そう思うと、どうしてええかわからんような、強い愛情が胸に湧いてきて、俺は焦った。なんやろうこれは。瑞希をめちゃめちゃ愛してる。俺のもんやと思う。めちゃめちゃ抱いて喘がせたかった。どうせ泣くなら、幸せすぎやって泣かせたい。
 何で今さらそんなこと。遅いねん俺。恐竜か。遅れて脳に達しすぎ。
 でも、それはきっと、俺が上手く逃れたからやった。もしもまた土壇場なって、抱いてくれみたいな話になったら、俺はまたビビる。
 瑞希は式神としてでなく、恋人として抱いてくれみたいな話やったやろ。それは無理やねん。でもしきとして、俺に仕えて俺と愛し合う霊としてなら、俺はたぶん、こいつを深く愛してやれる。俺が水煙を、めちゃくちゃ好きみたいに。
 でも、そんなこと、してええんやろか。瑞希は犬の化身したもんとは言え、元々は本物の人間みたいなつもりで暮らしてた。それが俺の奴隷みたいに、主人に仕えて生きる立場に落とされて、それでほんまにかまへんか。俺の命令に縛られて、俺が死ねと言えば喜んで死ぬ。そんな哀れな存在なんやで。
 そうは言え、どうせ瑞希はもともと哀れなやつや。どうせ犬。可哀想やけど、俺はそう割り切るしかない。割り切って、こいつに首輪を買うてやらなあかん。お前は俺の犬やで、それで我慢せえって、命令してやらなあかん。もしも瑞希が俺の式神なんやったら、それで満足するはずや。
 そしてもう、俺の弟ではない。ただの下僕や。俺は瑞希を踏みにじって生きていく。そんな、ほんまもんの鬼になる。
 俺が今いるのは、そんなコースなんやろか。
 汗、かいたなあと、俺は疲れて思った。シャワー浴びたい。気持ち悪いわ。みそぎをしたい。たぶん俺はそういう性癖がある。やたらと風呂入りたくなるんやけど。身に付いたけがれを祓いたいという欲求があって、一日に二回も三回も風呂入ってもうたりする。
 その時も、なんの気なしにバスルームへ行った。そこには誰もいないんやと思ってたし。涙ぐんで寝てる瑞希をいつまでも見てたら、俺も急にまた変な気なってまうかもしれへんしな。
 それでバスルームのドア開けて、俺はその場に凍り付いていた。
 だってな。中に亨と水煙がいたんや。
 水煙は、びしょ濡れやった。風呂に浸かったんやろう。貝殻のバスタブに、浅く水が張られていた。
 でも、水煙はいつもみたいに、裸ではなかった。服、着てた。俺が絵に描いたのと、寸分違わぬ、シンプルなシャツとズボン。それに、まぶしいような白い肌と、暗い夜の淵のような、黒目がちなアーモンド型の目をしていた。肩にかかる黒髪が、艶やかな濡れ髪で、俺はその美しい姿に、ぞくっと来た。じっと上目遣いに見る水煙の顔の、いつもとは違う、表情の豊かさに。
 水煙は赤みのある薄い唇で、にやりとしたような薄笑いやった。そして、バスタブに座って組んだ長い足の上に、ぐったり死んだみたいな亨を、縋り付かせていた。
 水煙は、労るような柔らかな仕草で亨を抱き寄せて、その両耳を塞いでやってた。目に鮮やかな、白い手で。それは亨の白い肌よりも、さらにいっそう白い、純白の紙のような色やった。
「水煙か……?」
「そうや。お前が描いたんやろ」
 声だけは、前と変わらへん。穏やかな品のいい美声で、水煙は俺に応えた。でも、俺は知らんかった。水煙がこんな、どこか邪悪なような笑みをする奴やったなんて。
「どうしたんや、亨は」
「可哀想になあ。根性無しやねん。お前が可愛がってる犬が、喘いでる声聞いて、こんなんなってもうたんや」
「いつ戻ってきたんや」
「割とすぐやで。散歩してたら、ふと思い出したんや。アキちゃんが、錦鯉に人型をくれてやるとき、描いてやった絵を水に浮かべて、その中に飛び込ませていた」
 嬉しそうに言う水煙の顔は、なんともいえず淫靡やった。その記憶にあるとおりのことを、試してみるため、戻ってきたんやろう。バスタブには散り散りになった紙の切れ端のようなもんが、浮かんでいた。それはたぶん、俺が描いてやった絵や。絵をとりに、水煙は戻ってきたんやろう。亨に車椅子を押させて。
 何でそんなところに、戻ってきてもうたんや。俺は誰もおらんつもりやった。気がつかへんかった。すぐ隣に、亨と水煙が居るなんて。
 平静なつもりでも、それに気がつかん程度に、俺はハマってたんや。夢中でやってたんや。
 その事実は、俺に猛烈な自己嫌悪を与えた。
「どうや、アキちゃん。犬とは上首尾やったか。終わったんやったら、次は俺とやってみるか」
 笑ってそう言う水煙の顔は、冗談言うてるようには見えへんかった。しかし皮肉な笑みやった。やるにせよ、やらんにせよ、どっちにしてもお前は鬼やと、言われてるようや。
 笑う水煙の口元に、赤い舌が現れて、乾いたらしい唇を舐め、それがまるで、俺を食いたいみたいやった。その顔で、もしも抱いたら水煙が、どんなふうに喘ぐか、俺にはきっと想像がつくやろう。俺が描いた絵なんやから。俺が望むとおりに、どんな顔にでもなる。
「冗談でも言うな……そんなこと。二連戦は無理や……」
 気絶してんのかと思えた亨が、床にへたったまま低く呻いて、縋り付いてた水煙のシャツの裾をつかみ、真新しい美貌の白い肌を見上げていた。
「今度こそ俺は死ぬ」
 震える声で、亨はそう嘆いた。
「死なへん。悋気りんきくらいで死んでたら、俺なんかもう何万回と死んでる。苦しいだけや」
「我慢でけへん……自分の男がほかのと寝てんのを、指銜えて見てんのが、こんなにつらいもんやとは」
「思い知ったか、水地亨」
 気味良さそうに言い、水煙は喉をそらして、うっふっふと笑った。それはいつもの淡い笑いではなく、喉から振り絞られるような哄笑やった。
 よっぽど可笑しいんか、水煙は身悶えるほど笑ってた。
 亨はその膝にぐったり顔を埋めていたが、なんでか知らん、水煙はずっと、亨の頭を撫でてやってた。まるで自分のもんみたいに。
「効いたわあ……ほんまに。堪忍してくれ、水煙。お前に見せつけてきた、因果がとうとう巡ってきたわ……」
 わなわな震えるふうな背を捩り、亨は俺を振り向いた。
 泣き濡れた頬が疲れたふうにやつれていて、見開いた目が金色の蛇のようやった。耳を塞いで身悶えたせいか、亨の頬には細かいひっかき傷みたいなのがたくさんできて、そこに張り付く後れ毛が、赤く汚れて見えた。
 噛みしめてたらしい唇も、異様なほどの血の赤やった。
 傷口からこぼれる血のような、ぼたぼたあふれる涙を流して、亨は腰が抜けてんのか、がくりと床に両手をついて這った。
「アキちゃん……まさか、明日もやんの。あと、三日やろ。俺、もう、我慢できへんしな……もう、やめて。お願いやから。生け贄やったら、俺が行くから。もうやめて……」
 床をつかむ亨の指が、引きつるように強ばった、金色のかぎ爪のある、鬼みたいな指やった。かたかた震えているそれを、俺はじっと見つめた。目を逸らしたくても、逸らされへんねん。怖すぎて。
「畜生……あの犬め。ぶっ殺したる。よくも俺の目の前で……俺の男といちゃつきやがって……」
 むらむら霞む亨の姿が、白いウロコのある何かのようやった。変転しかけのその姿に、俺の喉は喘いだ。まさか鬼かと、怖ろしかったんや。
「許せへん! 勝呂瑞希! 今度こそ俺の手で、八つ裂きにしたる」
 ぽたぽた滴り落ちてくる水滴が、涙か汗か、よう分からへん。とにかく亨は何か怖いもんに、変転しようとしてた。俺はそれを、見たらあかんのやないか。俺のせいでも、俺はそんな亨の姿は、見たらあかん。
「落ち着け、亨。お前を斬らなあかんようになる」
 けだものみたいな四つん這いの姿の亨の背中を、水煙が手を伸ばして、ぽんぽん叩いた。そしたら、もやのようなもんに包まれて変転しかけていた亨の体が、またじわりと元の人の姿に戻っていくようやった。
「悔しいんや、俺は、水煙。あんな餓鬼にアキちゃんとられて……悔しいんや!」
「とられてへん。お前がうちのジュニアの連れ合いや。安心おし」
 ううう、と亨は、人とも怪物ともつかんような怖ろしい声で呻いた。しばらく、のたうつように身悶えた後、亨は唐突に抱きついた。俺にやのうて、水煙に。
 とにかく何かに絡みつきたかったんやろう。蛇みたいに。亨はぎゅうっと水煙の首を抱き、痛恨の表情で、濡れた艶髪に唇を寄せていた。
「あかんのか水煙。あいつをぶっ殺してやったら……」
「あかんに決まってるやろ。死んでもうたら生け贄にでけへん。なまずは生き餌でないと食わへんのやから」
 うめいて答える亨は痛恨の表情やった。堪えている青い顔をしてた。
 自分に縋る亨の腕を、水煙は優しく撫でてやっていた。お縋りすれば守ってくれる。そういう神なんかもしれへんな、水煙様は。
「心配するな。あと、ほんの三日や。犬がなまずに喰われる悲鳴を聞けば、お前の悋気りんきも晴れるやろ」
 よしよしと、水煙は亨の頭を撫でてやっていた。俺の頭を撫でてくれた時と、大して変わらん優しさやった。
 もしかしたら水煙は、おとんが飼ってた多頭飼いの連中が、焼き餅焼いて悶えてる時には、こんな感じで慰めてやってたんかもしれへんな。こんなのが十も二十もおるんやからな。きっと日常茶飯事やったんやろう。
 なんて、怖い世界やろ。鬼ばっかりで、まるで地獄や。
「堪えなあかんのやで。それがアキちゃんのためなんやから」
 亨の耳に優しく言うてやってる水煙に、俺はぐっと来た。
「俺のため……?」
「そうや。他に誰のためなんや」
 訊ねた俺に向き直り、水煙はじっと見つめてきた。それに縋り付いている亨が、水煙を頼っているように、俺には見えた。
「これがアキちゃんのためやなかったら、なんでこんなん我慢せなあかんねん。犬は俺より可愛かったか、アキちゃん……俺が平気と思うなよ。俺は水煙みたいに、できたツレやないんやからな! お前が犬をぶっ殺せ。そしたら許してやる。そうやないなら、許さへん! 許さへんからな!!」
 涙ぐんで、亨は俺が憎いみたいに、悲しそうに怒鳴っていた。
 ごめんなと、言うてやらなあかんと思ったけど、俺は声が出えへんかった。
 水煙は、平気やないんやで。こいつも平気ではない。ただ、平気そうにしてるだけ。
 めそめそ言うてる苦しそうな亨を、水煙は黙って目を伏せ、抱いて背を撫でてやってたが、ほんまは亨が憎いんかもしれへんかった。
 瑞希のことも、水煙は憎いんかもしれへん。死ねばええわと思ってる。
 おとんが飼うてた式神たちも、みんな憎かったんか。そうやって、押し隠した心の奥底で、憎い憎いて思うてるうちに、化けモンみたいになってもうたんか。
 いつか亨も、そういうふうになるのか。美しいようでいて、心の中に鬼を飼うてる。そういう怖い化けモンに。
 しかも、それが、俺のせいなんや。俺のせい。俺は鬼を作ってる。
 お前にも、水煙にも、いつもにこにこしてて欲しいのに、何でそういうふうにいかへんのやろ。もとは綺麗な神やのに、それを悪魔に変えている。
 俺にもっと皆を、幸せにしてやれるくらいの、でかい力があったらええのに。
 そんなもん、あるはずもない夢やろか。
 重い。なんか責任重くて、俺は押しつぶされそうや。まるでもう地獄に来てるみたい。知らんうちに俺は死んでて、実はここが地獄なんやないか。亨と水煙と瑞希と、三人がかりで締め上げられて、俺は苦しい。
 結局また、瑞希を殺さなあかんのか、俺は。そうでないと亨は満足せえへんのやろか。
 可哀想や。今もすぐそこで疲れて眠ってる、涙の残る目を思い出すと、可哀想で仕方ない。あいつの気持ちに応えてやられへんだけでなく、また俺があいつを殺すんか。
 助けてくれって、あいつは言うてたで。そういう意味やなく、俺を想うのがつらいから、助けてくれという意味やろうけども。でも、助けてくれって言うてた声が、耳について離れへん。
 俺には無理や。しきを生け贄に捧げて、それでハッピーエンドというのは。お前らにも心もあれば、苦痛も感じるということを、俺はよく知っている。死にたくはないのが本音やろ。どこの世界に喜んで死ぬやつが居るんや。
 守ってやるのが俺の仕事やろ。自分が愛しいと思うものを、守ってやったらあかんのか。
 俺のおとんも日ノ本や、俺やおかんを守ろうとして死んだ。俺もそういう男でありたいねん。お前は俺のそういう気持ちを、分かってくれへんのか。水煙。
「アキちゃんには、お前という跡取りがいた。お前にはまだいない。今死ぬのは無責任すぎる。それにアキちゃんはしきを愛してなどいなかった。俺のことも、愛してはいなかった。お登与が無事ならそれでいい。あいつはそういう男やった。俺や他の式神たちが、自分を愛してるのを手玉にとって、使うだけ使うて捨てたんや。俺もそうして捨てた。お前もそういう男の息子やろ。何でできないわけがある」
 水煙がおとんを罵っていた。俺はそのことに、けっこうショックを受けた。
 水煙はおとんを恨んでんのや。愛してたけど、愛してればこそか。自分を捨てていったおとんを恨んでた。
 なぜそういうことになったのか、深く理解はしていたけども、でも、心があれば水煙も、つらいもんはつらいやろ。なんで俺を選んでくれへんかったんやと、水煙も思う。
 水煙はおとんを選んだんやろうけど、向こうはそうではなかった。寛大な心でそれを許して、理解を示してやってたが、水煙も、外へは漏れへん本音ではいつも、叫んでいたんやろう。瑞希のように。亨のように。俺を愛してくれ。捨てんといてくれ。お前が愛してくれへんせいで、俺はつらい。お前になんか、惚れへんかったらよかった。助けてくれと、ほんまはいつも嘆いていたんや。
 おとんはそれを、知らんかったんやろうか。俺が初め、気づかんかったように、死ぬまで鈍いままやったんか。
 俺もずっと、鈍いままで居ればよかった。水煙の気持ちを知ると、その哀れさは白刃のごとき鋭さで、俺の心をざくざく切り刻んでた。
「仕方がないんや、アキちゃん。それが血筋の定めや。そうなるように教えたんは、他でもないこの俺や。それを恨んでどうするんや。あいつは気の多い男やったわ。でも、そのお陰で家の面目は保たれた。当主としての勤めを果たした。お前もそのように生きるしかない。当主として、俺に選ばれて生きていきたいんやったら、他に道はない。あの犬を生け贄に捧げて、三都を救え。犬が嫌なら、亨を喰わせろ。それも嫌やというんやったら、誰か別のを連れてこい。今すぐ行って、死んでもええとお前が思えるようなのを、一晩かけて可愛がってやって、たらし込んでこい。それもげきの甲斐性や」
 水煙は暗く険しい顔をして、俺に厳しくそう教えた。
 いつもやったら、つるんとした無表情でいて、まるで心がないように見えていた水煙も、俺の画風におさまると、悲しいような思い詰めた顔をしていた。鬼気迫るような。あたかも美貌の鬼のようやった。
 水煙はうちの家に取り憑いている、守り神やけど、呪いでもある。その呪いで血筋の者たちを縛り、水煙はたぶん、自分自身をも縛っていた。俺にも覚えがあるけども、自分がかけた呪縛といのうは、案外逃れがたいものなんや。そこから抜け出すには、誰か愛してくれる者の、手助けがいる。亨がそこから俺を、無理矢理引っ張り出して、ジェットコースターみたいな別のコースに乗っけたみたいに。水煙も、誰かがそこから引きずり出してやらなあかん。
 そうせんかったら、こいつは、うちの血筋に取り憑く鬼になる。ほんまもんの鬼に。たぶん水煙はもう、鬼なんや。俺がそれにずっと、気がついてへんかっただけで。おとんもそれを、知らんかったんやろうか。
 俺は水煙をいつか、泣いて斬らなあかんのやろうか。他には何も、道はないんか。幸せに至る道は。
 でもまだこの時、俺にはそんな道を見つける力はなかった。水煙に叱責されて、俺はぐうの音も出なくなっていた。亨は俺を拒むように、悲しそうに背を向けて、水煙に抱かれていたし、まるで俺が嫌いのようやった。俺のほうを見るのもつらい、耐え難いというふうに、震えて聞いてるだけやった。
 俺は、折れた。根負けしていた。自分を責め立てる、美しい鬼さんたちに。
「わかった。他のを探す。亨と瑞希を頼む。喧嘩せんように……」
 とにかく誰か他のを。このホテルにはしきはうようよいてる。皆、誰かの愛しい神さんやろうけど、瑞希の代わりに俺の式として、生け贄になって死んでくれるような奴を、探してこなあかん。そいつが死んで泣く奴を、俺が知らんような神を。
「任せておけ。必ず戻って来るんやで。必ず……」
 水煙は顔をしかめて、俺にそう命令していた。俺を信じてる目で。お前は秋津の当主やろう、俺を愛してるんやろと、縋り付くような信じている目で。
 一体俺がお前らをおいて、どこへ行けるっていうんや。
 俺は瑞希に開かれた、シャツのボタンを留めながら、逃げるように部屋を出た。それで靴も履いてへんかったんや。
 ほんまに必死で、行く宛もない。一足ごとに、だんだん頭フラフラになってきて、絶望的な気分やった。誰か他のを見つけへんかったら、俺は瑞希か亨を殺す羽目になる。そんなの無理やって、誰か他の、俺が縋れる神さんを、見つけようとしてた。
 ホテルの廊下のガラス戸から見える月は、ぼんやりおぼろな白いもやがかかっていた。それで思い出したんか。それとも、ロビーから聞こえた歌声が、あんまり綺麗やったから、それに誘われていくうちに、心に湧いてきた考えか。
 湊川怜司。そういえばそんな奴もいた。抱いてくれたら式になってやってもええと、俺にそんなこと言うてたわ。亨も、まだ瑞希が戻らへんかった時、あいつをたらし込んで、生け贄にすればええんやと言うていた。
 だったらこれから、あいつを抱いて、瑞希の身代わりに仕立ててやればええわと、俺は思ったんや。それでも脳裏にはちらちらと、信太と同じ指輪はめてる白く長い指が、ぎっては消えていた。
 あいつも木石ではない。おぼろなる怪異かもしれへんけども、心があるわ。死にたくないと話してた。おとんに使い潰されて、死なんで良かったと、信太に話していた。
 それが果たして、俺ごときに惚れて、死んでやってもええわと言うやろか。たった一晩、抱き合うて寝たくらいのことで。
 長い話をくよくよ話した俺を、おぼろなる男はじっと、俺を抱いて聞いていた。口寂しいんか、長い指を口元にやり、自分の唇に触れていたけど、その薄赤い唇で、湊川は突然にやりと笑った。
 それが長い笑いの始まりで、湊川は俺を抱いたまま、可笑しそうにからから笑った。始め小さく喉を震わせるだけやった笑い声が、だんだん身を捩って笑うほどの、苦しそうな爆笑になり、俺の体に触れている腹を引きつらせて、湊川はひいひい笑った。
 なんで笑われてんのやろ。それでも抱いてくれている腕に、おとなしく抱いてもらったまま、俺はむすっとして、その笑い声を聞いていた。
なまず様に突撃取材のご依頼か。それはまた、ダイナミックな企画やで」
 喘ぎ喘ぎ言って、湊川はまだまだ笑うつもりらしかった。
 一体何が可笑しかったんやろう。俺の話、なんか笑えるようなとこ、あったか。
「必死やな、水煙。あいつ、そんな奴やと思うてへんかった。けっこう可愛いとこあるやんか」
 可愛い。水煙がか。
 まあ、そりゃあ、確かに可愛いよ。でも、めちゃめちゃ怖いで。亨も怖いし、瑞希も俺をめちゃめちゃ責めてくる。逃げ場無しやで、俺は。ものすご追いつめられている。三人がかりで押しまくられて、もう虫の息みたいなんやで。あとは鬼にばりばり食われるだけや。
「まあまあ、まだ、たったの三人やないか、先生。暁彦様なんか、何人おったやろ。十五、六……もっとかな。腰痛い言うてたで」
 笑って言われ、俺は失笑を堪えた苦い顔やった。アホか、おとん。やりすぎて腰痛か。よう耐えたな。
「俺が腰揉んでやったんやで? 先生もやったろか」
 にこにこして、湊川は俺の横に寝転がっていた。頬にかかる細く淡い髪の毛が、柔らかそうな、蜘蛛の糸のようやった。鬼みたいな怖いのから、命からがら逃げてきた俺には、奴は優しい菩薩ぼさつのように見えた。まさに地獄に仏。
「そんなん、していらん。俺はそこまでやない」
 俺はくよくよ辞退した。どうせ俺は、おとんの五分の一スケールの地獄でチビりそうになってる、ぼんくら息子やねん。
「ほんなら、他の気持ちええことしよか。溜まってんのやろ、お預け食って」
 自分の顔に乱れかかっていた髪を、ゆっくり掻き上げてけて、湊川は俺の顔を覗き込み、そのままやんわりとキスをした。避けようかと、もう思わへん。なんでやろ。慣れか。居直りか。俺はこいつをたらし込まなあかんのやから、避けてる場合やないって思ったんか。
 どっちか言うたら、たらされてんのは俺のほうやったんやないか。キスが上手い。もういっぺんしてほしいって、どこかで思っていたんやないか。
 ちゅうちゅう甘く吸われると、気持ちよかった。エロくさいというよりも、なんや、くつろぐようなキスやった。舌技もいろいろありますよ、って、教えるようなキスをしながら、湊川はまた俺の体に触れてきた。やんわり握られて、思わず脚がもじつくようないい気持ち。強すぎず弱すぎずで撫でられて、あっと言う間にたされてる。
「元気出てきたやん、先生」
「いちいち言わんといてくれ」
 優しくなぶられつつ、俺は文句を言っていた。照れたんや。
 気持ちいい。なんて上手い奴や。気持ちええなあって、すぐにそのことしか考えてへんようになる。ああもうほんまに、めちゃくちゃやりたい。何も考えんと、ぼけっと酔っていたい。朧月夜おぼろづきよに。
「風呂行こか、先生。俺は風呂ですんのが好きやねん」
 にっこりと、照れもせず言われ、俺はますます照れていた。ほんまにやるんか。俺と寝ようというのか、こいつ。
 でも、手を引いてバスルームに連れていかれ、そこはまあ、普通の広さの風呂やったけども、でもゆったりしたジャクジーがあって、シャワーブースもあった。それはこのホテルの基本仕様らしい。ただしバスタブはアホみたいな貝殻の形ではない。ふつうの楕円形の風呂や。あれは新婚さん仕様の部屋だけらしい。
 こっちのバスタブは、床より一段高くなったところに縁まで埋め込まれていて、バスタブの周りにも座れる程度の余白があった。湊川はそこに俺を座らせ、バスタブに湯を張る間に、酒瓶を山ほど持ってきた。
 めちゃめちゃ飲むつもりらしい。
 タンブラーにつがれたスコッチの匂いがして、ジャクジーには泡立つバブル・バスの匂いがしていた。苔むした森みたいな匂い。花のような匂いもしてる。エロくさい匂いやった。
「信太はなあ、先生。可哀想な奴やった。初めは相当荒れていて、やべえ人食い虎やった」
 もわもわ淡い蒸気の湧く中で、座る俺の前に立ち、湊川は指にめていた銀の髑髏どくろを抜き取ろうと、ぐいぐい引っ張っていた。それがずっと抜かれていなかった証拠みたいに、指輪はなかなか抜けへんで、やっと脱けたら、その、ごろんとした指輪のあとが、湊川の白い指に薄く形を残していた。
 それを、スコッチの入ったタンブラーに、ぽちゃんと入れて、湊川はにこにこしながら、その酒を飲んだ。指輪を飲み込みはせえへんかったけど、そのうち髑髏が溶けてもうて、白い喉に流し込まれるんやないかという妄想が、俺の脳裏に湧いた。
 ごくごく飲み干し、からんと指輪が氷のように残ったタンブラーをバスタブの縁に置き、湊川は俺のすぐ横に腰掛けた。そして、おもむろに俺のシャツのボタンを外して、服を脱がし始めた。
「あいつが俺と付き合うてたんは、中国語で話せる相手が良かったからや。懐かしかったんや、古巣の言葉が。それだけなんやで。音楽聴く?」
 脱がせた俺のシャツを、ぽいっとバスルームの床に放って、湊川は訊いた。
 音楽って、どうやって訊くのか、俺は部屋を見回したけど、そんなオーディオ機器のようなもんは見あたらへん。スイートにも、そんなん無かったし、自前に持ち込まれたもんがあるようにも見えへんかった。
 それでも、湊川がぱちっと軽快に指を鳴らすと、突然、演奏が始まった。魔法みたいやった。目には見えへん生バンドが、同じ部屋にいてるような音や。
「ジャズ」
 びっくりしている俺に、にっこりして湊川は言った。
 神戸といえば、ジャズの街である。なぜなら日本で最初にジャズが演奏されたのは、一説によると、この神戸やったらしい。せやから、日本のジャズの発祥地のひとつなんや。
 流れている曲は、歌のない演奏だけのもので、『What a Wonderful World(この素晴らしき世界)』という曲やった。歌もちゃんとある。それは見事な発音の英語で、湊川が歌っていた。鼻歌みたいやったけど、いい声やった。ゆったり流れる穏やかな感じの歌で、曲のタイトルそのまんまの、暢気で明るい感じの曲調やった。
 俺はなんとなく、のんびりとした。それは、溜まった泡だらけの白い湯をかき混ぜながら歌う、のんびりした歌声のせいやったやろう。のんびりしてるような状況ではないんやけど、ここでは時間までゆっくり流れているみたいやった。
「先生のおとんは遊び人で、歌が好きな人やった。特にジャズが好きで、戦争始まってからも、俺のところでこっそり隠れて聴いていた。ほんまは、あかんのやで。敵の曲やし、聴いたら怖いオッサンどもに、怒られるんや」
 にやにや苦笑して、湊川は湯をまぜた手についた、ひとかたまりの泡を、俺の胸に塗りつけた。なんでそんなことすんのか、俺にはよう分からんかったけど、それはたぶん、ただの愛撫や。ふざけてるだけ。白く長い指が、泡で滑る感触とともに、のんびり胸を撫でていくのを感じながら、淡い笑みで話す顔を眺め、俺は不思議な気持ちになった。
 おとんはこいつと、どんなふうに付き合うてたんやろう。体に絵描いたりして、エロくさいことして遊んで、一緒にジャズ聴いて、歌歌わせて、異国の想い出話を聞いて。それは、式神とげきか。まるで、恋人同士みたいやけど。
「ありとあらゆる悪いことをしたな。暁彦様は、俺んとこに来て。祇園の花街かがいのそばに家借りて、俺は一時期そこにいたんや。仕事があって……」
 花街かがいで仕事。それは、どんな仕事やねんて、俺は身構える顔やったんやろか。気づいて湊川は、ふふんと笑った。
「エロやないで。まあ、似たようなモンではあるけど。俺は情報将校で、平たく言うと諜報員スパイやったんや」
諜報員スパイ
 俺はびっくりして繰り返していた。
 そんなもんが現実に居ると、思ってもみなかった。いるとは知ってたけど、ほんまもんと会うことはない。そんなもんは俺と関係ない異世界の存在で、『007ダブルオーセブン』とかの映画に出てくるだけの、ファンタジーやと思ってた。
「おもろいやろ。軍服のオッサン連中と仲良うしてたんや。当時はそれに、旨味があったんや。皆さん後々、腹斬ったり首吊られたりで、おらんようになってもうたけど。暁彦様も死んだしな……」
 ふっと笑って、湊川はその話を、可笑しいみたいに言うていた。
「まあ、でも、一時期はお盛んやったで、皆さん。暁彦様とは、祇園の宴席で会うたんや。鬼道きどうの筋の若当主や言うて。風采も良かったし。仲良うしといたら美味いかなあと」
 ずるそうに言う湊川に、俺はちょっとむかっとして、傷ついた顔をしたかもしれへん。
「美味かったんか」
「まあまあね。せやけど、持ちつ持たれつやんか。向こうも俺んちを花街かがいの別宅みたいにして、ときどきフラッと遊びにきて、羽根のばしていってたんやから。ていのいいめかけみたいなもんやで」
 うっふっふと笑い、湊川は苦笑の顔やった。
「いっぺん怖いオバハン来はって、暁彦様隠してるやろって、えらい脅された。先生のおとん、嫌んなると家出してたみたいやで。俺がたぶらかしてるって、不評やったわ」
「濡れ衣やったんか」
「いいや。たぶらかしてた」
 しれっと言うて、湊川は煙草に火をつけていた。たぶらかしてたんやないか。
「旧家のボンボン生活に、嫌気がさすし、洋行してみたいって言うから、連れていってやろかって誘ってただけや。どっか遠い遠いとこへ行って。ブラジルとか。モロッコとか。別にどこでもええけど、そこで二人で、面白可笑しく暮らそうか、って」
 ふはあと煙を吐いて、湊川はにこにこしていたが、俺にはその話はどうも、駆け落ちのお誘いのように聞こえた。お前はおとんを誘拐しようとしてたんか。それは水煙と仲良うできへんわけやわ。あいつは何かというたら、家が大事、家が大事で、しきと駆け落ちなんて、とんでもない。そんなん許さへんと言うやろう。突き詰めれば、こいつを捨てるか、水煙を捨てるかや。
 それでおとんは、湊川のほうを捨てたらしい。おとんは秋津の当主なんやし、論外や。駆け落ちなんて。悩みもせんと決めたやろう。そうなんやないかと、俺は思うけど。でも、ほんまのところは分からへん。おとんにしか、分からんことや。
「お前、おとんのこと好きやったんか」
 俺はまた、びっくりして訊いていた。
 湊川はいかにも面白そうに、俺を見ないでくすくす笑った。
「そうや。意外な新事実か。ずっとそう言うてるやんか」
「それで家捨てろって言うたんか。自分と一緒に逃げろって? そこまで深い仲やったんか?」
 俺がめちゃめちゃ驚いているのが、よっぽど可笑しかったんか、それとも照れでもしたんか、湊川はあっはっはと声あげて笑っていた。
「そうやないよ。試しに言うてみただけ。しんどそうやったから。ほんならボンボンやめたらって、言うてみただけやんか。難しゅう考えすぎやねん。暁彦様も。水煙も。オバハン連中も。必死すぎなんや、秋津の衆は。可哀想やんか、寄って集っていじめて、息もでけへんわ。何が血筋の定めやねん。そんなもんクソ食らえやで」
 あんぐりとして、俺は湊川の横顔を見た。
 こいつは、おとんの式神ではなかったんやないか。ただの恋人というか、浮気の相手で、人ではなくて神やったけど、でも、こいつの前では、うちのおとんは、げきやのうて、ただの十六とか二十一の、家出してきたボンボンやった。
 俺も、そうかも。今まさにそうかもしれへん。家出はしてへんけど。俺は今、帰ろうという気がぜんぜんしてへん。いつまでここに居るか、決めてへん。居ってせいぜい、明日の朝までやろうけど。でもまだ夜は長い。あと何時間で朝か、考えんようにしようと思っている自分がいてる。
「先生もなあ、あんまり真面目に考えることないで。げきとかしきとかなあ。なまず様とか。自然現象なんやから。先生のせいとちゃうで。失敗しても、あれえ失敗してもうたわあゴメンなあ、って言うといたらええねん。知るかやで、そんなこと」
 無責任やなあ。ようそんなこと言うわ。失敗したら、人いっぱい死ぬらしいのに。それは俺のせいやないんか。俺がしくじったから、皆が酷い目に遭う。そんなの俺には耐えられへんねん。
「助けられそうやったら、助けたらええねん。ありがとうって皆言うわ」
 ぷかぷか煙を吐いて、湊川は牧歌的に話していた。お伽話の筋書きみたいやった。なまず様出た。なんとかした。めでたしめでたし。終わり。
「先生のおとんも、泣きそうなってたわ。いくさに負けたらどうしようって。負けたけど」
 けろっと言われるおとんが気の毒やった。
 それに、おとんも泣きそうやったんや。そんな弱っちいエピソードを聞かされ、俺もちょっぴり気の毒やった。おとんはもっと、格好つけてたんやと思ってた。またひとつ夢が壊れた。
「泣いたらええねん。人生劇場、笑いあり涙ありやろ。そのほうが盛り上がるから」
「フィクションちゃうねんで、ほんまの人生なんやで」
 悲しくなってきて、俺はしょんぼり指摘した。リセットきかへんねんで。他人事やと思て、適当なこと言うてんのやろうけど。俺にはマジな問題なんやで。おとんにとっても、そうやったんやで。超シリアスや。笑ってる場合とちがう。
「似たようなもんやって先生。事実は小説よりも奇なりって言うやん。思い切ってページめくってみたら、凄いどんでん返しがあるかもしれへんよ。やってみるまで分からへん。続きどうなんのかなあって、適当にやっといたらええねん」
 亨って案外真面目なんやと、この時俺は初めて思った。こいつの無軌道さに比べたら、チーム秋津は気の毒なほど真面目ちゃんばっかりや。水煙はもちろんやけど、亨も必死やし、瑞希に至ってはほとんど発狂してる。そういうのに囲まれて、俺も相当思い詰めてる。そういう世界になってもうてる。
 湊川、お前みたいな奴がいて、まあええやんて言うてたらええのに。そしたらチーム秋津のシリアス度も、一気にダルダルなってくるかもしれへんのに。煮詰まった空気も、変わるかもしれへん。
 俺は自分も大概真面目と思うけど、でもちょっと、それに疲れた。必死で頑張るのに、なんか疲れた。頑張ってみても、出口のない迷路に入っているような気がする。
 亨を生け贄にはできへん。だから瑞希を連れてくる。けど、瑞希も殺したくない。しゃあないから湊川を連れてくる。でも、俺はこいつも殺したくない。誰も殺したくなんかないねん。そんなこと頼めへん。自分が死んだほうがましや。
「どしたんや、先生。シケた顔して。お喋りしすぎたか。酒飲んでセックスしよか。気持ちええよ、突っ込んで暴れたら」
 滅茶苦茶言うてる。俺、すごく真面目にモノローグしてんのに。
 飲んでた酒を飲み干して、吸い終わりそうな煙草をふかし、香炉のような匂いを漂わせつつ、湊川は灰皿で念入りにげしげしと火を消していた。
「愛なんてね、俺も考えたけど、結局わからへん。俺は好きなんですよ、エロが。信太も、先生のおとんもね、セックス上手いから好きやったんですよ。それだけやねん」
 それだけなんや……。身も蓋もない。そして分かりやすい理由や。エッチ上手けりゃ愛しちゃうんや。それっぽっちの理由なんや。ほんなら俺もすごく頑張って上手いことやれば、愛してもらえんのかな。
「寛太もね、中が気持ちええんですよ。名器やねん、あいつは。もう、ほんま堪らんというか。絶妙の締まり具合」
 言わんといてくれ。いろいろ想像してまうから。
「でも俺も、けっこうええらしいよ。皆そう言う。入れてみるか、先生も」
 にっこりとして、湊川はそう訊いた。誘ってるような淫靡さではなかった。やりたかったら、やったらええよみたいな、事務的なまでの爽やかさ。たぶんどっちでもええんやろ。俺みたいな若造なんて、どうでもええわみたいな態度で言われた。
 けど、それこそ百戦錬磨の手練手管というやつか。俺はもちろん、むかっと来たし、どうでもええやと、なにを言うねん、めちゃめちゃよがらせて悶絶させてやるみたいな気になっていた。一瞬で乗せられている。そのへんが若造なんやけど、若造やから気がつかへん。
 むっとして見る俺を眺め、湊川は自分の指を舐めていた。酒でもついてるらしい。しかしそれは蠱惑的やった。
「やるんやったら、脱がせてくれ。俺は自分じゃ脱がへんねん。面倒くさいから」
 そんなんも面倒くさいんか。なんというやつや。亨なんか自分で脱ぐけどな。俺の服まで脱がせるけども。そう言うお前も、俺のシャツは脱がせたやんか。絶対嘘なんや。絶対作戦。しかし引っかかってもうたもんは、もうしょうがない。
 俺は言われるまま湊川のシャツのボタンを外してた。どういう意地悪か、やたら沢山ボタンのあるデザインのシャツやった。無限にあるみたいな気がする。しかもボタンホールが固い。綺麗な服やけど今はウザい。誰やこんな服作った奴は。鬼や。鬼ばっかりや世の中は。橋田壽賀子はしだすがこさんの言う通りやで。
 必死でぷちぷちボタン外してる俺を見物し、湊川は組んだ脚をゆらゆら揺らしてた。
「先生のおとんも好きやったわ。服脱がせるの。俺、当時は軍服やったしな。ええよぉ、軍服プレイ。はあはあ言うてたで、暁彦様」
 はあはあするな、おとん。俺も今、若干してるような気がするけど。我慢しろ。イメージ壊れる。
「先生も軍服萌えアリの人?」
「そんなん無いわっ」
 やっと全部ボタン外し終わったシャツを剥いで、俺は怒鳴っていた。えりの内側にブランドのタグがあった。おのれジャンフランコ・フェレ。お前のせいで必死なったわ!
 おとんが画布にしていたという、白い体が現れて、うわあもうどないしようかと俺は思った。これにお絵かきしようという、おとんの発想が尋常ではない。
 でもここでメゲてたら、風呂に浸かられへん。下も脱がさなあかん。こういうのは勢いや。一気にやっとかんと機会を失う。
 どことなく、おたおたしてる俺を立たせて、湊川は俺の服を脱がせてくれた。人のを脱がせんのは面倒くさくないらしい。宇宙の神秘やな。
 元気やなあって遠慮なく手を出されて、俺はつらかった。早くやりたい。今日はめちゃめちゃ我慢してる。ほんまにもうつらい。そんなに虐めんといてくれ。頭真っ白なってくる。
 それでも、もうちょっと躊躇いがあっても良さそうなもんやのに、相手があっけらかんとしてるもんやから、まあええかみたいな気がしてきてる。瑞希のときには、あんなに怖いと思ってたのに。
「お風呂お風呂。先生、お風呂でせな意味ない」
 せっかく風呂に湯をためたのに、という事なんやろう。湊川は俺を泡立つ湯に浸からせて、その上に跨るようにして、脚にのしかかってきた。
 ある意味、怖いわあ。頼むから犯さんといてくれ。
「俺のも、して。先生、けっこう来てるし、早う入れな」
 泡で見えへん手探りで、俺の体を確かめつつ、湊川は愛撫を求めてきた。俺は必死で頷いていた。気持ちよかったんや。このまま搾り取られそう。
 触れてええんか躊躇いのあった肌に、触れていいと求められて、手を触れた内腿の、吸い付くみたいな感触に、俺はますますクラッと来てた。
「敏感やな、先生。今また固くなってた」
 にやにや笑って、俺にキスして、触られながらでも、湊川は余裕で俺を責めてた。気持ちよかった。ほんまに良かった。うっかり集中してもうたら、このままいきそう。愛されてるというよりも、玩具おもちゃにされてる。悪い猫が鼠を嬲るような、そんな意地悪な手で、生かさず殺さず生殺し。
「先生先生言わんといてくれ。オッサンみたいやんか」
 つらくなってきて、思わず目を閉じ、バスタブの縁に乗せた頭を仰け反らせながら、俺は文句を言った。ゴネてるみたいな口調が我ながら、ボンボンくさかった。
「じゃあ、なんて呼ぶの。暁彦様?」
 それもどうかと、目を開けて、俺の鼻に鼻先を寄せている湊川の目の奥を見て、俺は気が変わった。暁彦様と呼ぶときの、こいつの目は、なんだか淫靡や。
「俺はおとんと違うんやで」
「ええやん、そんなん。似たようなもんや。同じ顔やし」
 体を開かせようとする俺の指に、湊川は微笑して、気持ちよさそうに白い喉をそらせて震えた。綺麗な神やと俺は思った。よろこぶ様子が、可愛いというか、いかにも楽しんでいるようで嬉しい。
「ああ、そこ、気持ちいい」
 肩を掴んで教えられ、俺はその瞬間、頭の奥のほうで静かにぶっ飛んでいた。小さく身悶える白い体が目の前にあり、泡と湯に濡れて、うっすら上気し始めていた。その上におとんはどんな絵を描いたんやろう。自分やったら、どんな絵を描くんやろうかと、もやもや頭の中に、不鮮明な絵が浮かぶ。しかしそれを描く筆は今ここになくて、俺の頭の中にいる絵を描く男が悶絶していた。
 描きたい描きたい。スランプ治ってきた。
 ショックで萎えてた創作意欲みたいなもんが、頭の奥で再起動する音がして、俺はうんうん呻いた。
「どうしよ。絵描きたいわ……」
「セックスやめて絵描くか?」
「いや……それもしたい」
 悶える仕草で首を振り、俺は駄々をこねた。この正直者。俺やけど。すみません。
 ところで創作意欲というのは、性衝動に似たとこがある。突然むらむらして、結局、描くまで収まらへん。出すしかないねん、湧いたもんは。溜めても欲求不満になるだけや。
「ほんなら、やりながら描いたらええねん。先生のおとんはそうしたで」
「嘘や。そんなことできるわけない」
「できるできる。体に描くんや」
 湯の中にあった俺の手をとり、湊川はその指を自分の濡れた胸に触れさせた。指が滑ったあとに、妖しい虹色のような跡が残された。変な体や。お絵かきできるようになっている。
 それが面白くなって、俺は指先で湊川の胸に、小さな鳥の絵を描いた。枝に止まって、さえずっているような。花も咲いてるほうがいい。そう思って鳥のいる枝に、何の花ということもない、香炉の香りの立つような、優美な花を描いといた。俺の頭の中にしかない花や。しかし、咲けと願えばその花も、この世のどこかに生まれ出てくるんかもしれへん。天地あめつちの神が俺の絵を、気に入ってくれさえすれば。
 くすぐったいんか、湊川はそれを、くすくす笑って見下ろしていた。
「巧いやん、先生。さすがは暁彦様の息子やわ。お絵かき上手やね」
 湯の中に消えるへそのあたりまで、曲がりくねる枝振りの、鳥の群れ遊ぶ花木かぼくを描いて、俺はちょっと満足し、また湯の中で愛撫する手に戻った。
 それにおぼろの鳥は甘く喘いでくれた。肌の上に描いた絵は、溶けるように消えはじめてたけど、俺はそれを惜しいとは思わへんかった。消えてもうたら、また描ける。描いては消え、描いては消えで、ずっと描き続けていられたら、それはそれで幸せや。
「入れたい。愛してへんけど。それでもええか……」
 よくもそんなことを言う。自分でもそう思う事を、俺は呟き、もはや我慢の限界で、目の前にある匂い立つような色香のある体を抱き寄せていた。絵の消えた、白い胸を舐めると、甘い味がした。たぶん泡になんか入ってるんや。甘いもんが。泡が長持ちするように。
「ええよ……愛なんかウザい。気持ちよければ、俺はそれでええねん」
 そうか。そんなら気が楽や。俺はそう思った。おとんもそう思ったやろう。愛してくれって強請られる。それに疲れて逃げてきた夜には。
「合体合体」
 子供みたいに笑って言って、湊川は自分から俺を呑んだ。あんまりくて、俺は喘いだ。いつもやったら我慢するけど、我慢すんのもアホみたいな気がして、甘く喉を引き絞るような漏れるうめき声を、敢えて止めはせえへんかった。
「気持ちええわ。合体最高。なにが愛やねん。畜生、信太の野郎。てめえが寒い時、誰がやらせてやったと思うとんのや。恩知らずな虎やでほんまに……」
 愚痴愚痴甘く口説くような口調でぼやき、湊川はすっかり呑んだ俺の首を抱いた。別に妬けへんかった。抱き合いながら他の奴の話をされても。だって別に愛してへんし。気持ちええけど、それだけやから。
 愛してなくても、気持ちええもんは気持ちええんや。うっとりしながら、俺はその新事実に驚いていた。俺は今まで、一応のところ、愛してないやつとはやったことがない。付き合うてるつもりの女しか抱いたことない。亨に至っては死ぬほど好きで、結婚までしてもうたしな。愛してないのにセックスしたらあかんと思ってた。
 まあ、基本はそうなんやろうけどな。湊川はそんなん全然気にせえへん男。こいつにとって、エロは温泉に浸かるようなもん。うわあ気持ちええなあ、極楽極楽。この温泉もいい、あの温泉もいい、みたいな感じらしい。
 見た目若いのに、趣味が案外爺むさいねん。世界の温泉めぐりやで。秘湯みたいなの見つけると幸せやねんて。
 それをテレビでやったらええねん。怜ちゃんの温泉巡り。絶対、変なファンつくで。オッサンとかな。案外、虎も見るかもしれへんで。しみじみしょんぼりしながら。鳥さんに隠れて。怜ちゃん綺麗やったなあ、って。切なくこの肌を思い出す。
「あいつ、仲ええみたいやな、寛太と。可哀想やし、しゃあない。俺が逝っとこか」
 苦笑して、俺の頬に口付けて、湊川はそう言った。俺を抱き、初めて交わる体の具合にじっと折り合いをつけるような、もどかしい静止の時間の間に。
 湊川怜司は愛情深くはないが、情け深い神である。ものの哀れを理解する。人の生死にさえ酷薄なようなところもあるけど、道ばたの花の美しさに涙をこぼすこともある。愛してくれと求めたところで、なんのこっちゃという奴やけど、それでも独特の愛で愛してくれることはある。
 湊川はいつも、気に入った奴をただじっと見つめる。抱くこともあるけども、ただじっと傍観するだけ。生きようが死のうが、その生き様を、あるいは死に様を、かくのごとくであったと見るだけで、それに関与しない。
 なんでそうやねんと、手応えのないそんな性質に、文句言うてもしょうがない。アテにはならん。こいつは人の噂なんやし、今で言うならマスメディアや。テレビやインターネットが愛してくれるか。疲れて倒れた時でも、立って走るか、それともそのまま挫折するのか、ただじっと見るだけで、何もしてくれへん。
 でも湊川も神や。優しい時もある。綺麗な声で歌歌って、のんびりさせてくれる。美しい姿で、心を癒やすちょっといい話して、先生は絵が上手やなあと褒めてくれる。それだけ。
 でも俺はいつもそれに癒やされる。疲れてもうてストレスたまった時には、俺はぼけっとテレビで映画のDVDを見る。いつ見ても同じ話の『スター・トレック』とか。あるいは意味なくネット見る。
 あるいは湊川怜司と浮気をするんかもしれへん。おとんはそうした。そうしてガス抜きをして、結局は湊川でなく水煙様のほうを選んだ。
 遊びやった訳では。好きは好きやったろうけど。でもこの鳥は、捕まえて自分のもんにしようとすると、さっと逃げる。飼われるのを良しとしない。自由でいたい奴やねん。
 もしかすると、俺のおとんはこいつの、自由気ままなところを愛してたんかもしれへんわ。捕らえてもうたら消える、そんな一瞬の光のようなもんを。実は俺も、それが好きやった。庭に来る、野生の鳥やから美しい。飼われへんからこそ可愛い、そういうのが居るねん。
「なんてことないよ、先生。死んだことないけど、それもいい経験かもしれへん。あの世ってどうなってんのやろ。戻ってこられへんから、先生にはどんなんか教えてやられへんけど、俺もいっぺん閻魔様と会うてみようか」
 自分を抱いてくれてる神様の体にお縋りして、俺はつらい顔やった。そろそろつらい。動いてくれへんかったら、焦らされてつらい。それに、こいつを生け贄にして、もう二度とこの世のどこでも会えない、そういうことになるのが、つらい気がして、俺は悶絶してた。
「動いてええか」
 苦悶の顔で訊ねると、優美に笑って、湊川はゆっくり大きく頷いた。
 お許し出たわと思って、俺はほっとして、バスタブの反対側にほっそりバランスのいい湊川の体を押し倒して、長い足を開かせて抱いた。泡で滑るし、熱くて気持ちいい。それに、やっと、好きに暴れさせてもらえるし。
 ゆっくり突くと、湊川は眉間に皺を寄せ、もどかしそうな淡い愉悦の顔をした。濡れた髪が頬に張り付いていて、それがちょっとやつれたような儚さで、何か胸がもやもやする。いや。萌え萌えする。たぶんそうなんやろうけど。俺は当座、それを深く考える余裕もない。
「気持ちいい……」
 困ったなあって思って、俺は振り絞る小声で言った。温かく浸されるような快感が、ひと突きごとに湧いていた。
 こんなん、いけない遊びすぎやないか。指には結婚指輪やし。罰当たる。水地亨大明神の神罰が。ばれたら、ぎったんぎったんにされる。されて当然みたいな気もする。でもな、しゃあないねん、これも血筋の定めやし、これが俺の仕事やろ。しょうがないよな。しょうがないってお前も言うてたやん。お前がやれって言うたんやで。お前が湊川を誑し込めって提案したんやしな、俺はそれを実行してるだけや。
 そんなん言い訳になるかって、きっと亨はマジギレするんやろうな。あいつ、キレるとなったら自分の言うたこととか棚上げやしな。きっと俺、三回くらい殺されるんやで。白い大蛇おろちの尻尾攻撃でピシャーンピシャーンとかな。鋭い牙で骨まで食われる。許さへんアキちゃん、許さへんからな、って、俺が瑞希を抱いて可愛がっただけでも怒ってた。抱いたけど入れてへんのやで。それでも許さへんのやで。ほんなら今のこれ、どうなるねん。たぶん死刑や。どうせ死刑やったら、やっといたらよかったか、瑞希とも。それはあんまり無茶苦茶か。
 ああ、ごめんなさい、水地亨様。お許し下さいって思うけど、気持ちよすぎてやめられへん。ほんまにすいません。やめなあかんと思うと余計に気持ちいいような気がする。でも、どうしようかって俺が微かに躊躇う頃に、湊川が俺が心底ぎょっとするような事を言った。
「下手やなあ……先生」
 顔をしかめて、湊川は苦しそうやった。というか、苛立っているようやった。
「へ、下手!?」
 俺はあまりのショックにまた萎え萎えなりそうやった。俺に組み敷かれたまま、湊川は眉間に皺を寄せ、うんうん、そうや、って頷いていた。
「なんか違うねん。ええとこ当たってへんで。ちゃんとそういうの考えてやってるか」
「か……考えてへん」
 考えるわけない。だって亨は、ただ入れるだけで、気持ちええわってめちゃめちゃ悶えるもん。演技やないで。ほんまにえらしいで。それが体の相性がいいという事らしい。
 俺はそんなの分からんけども。だって入れるほうは入れられるほうと違って、とりあえず入ればそれで気持ちええんやもん。それでもかなりクオリティ高いような気はするけど、他の男とやったことないしな。それが普通か、飛び抜けて気持ちええのか、比較対象できる例がないから、わからへん。
 今も気持ちええよ。すごくええけど、確かに亨ほどではない。気が狂いそうというほどではない。でもそれは愛してないからやないの。愛なき性交渉やしな、めちゃめちゃくても、せいぜいが肉体の快感やろ。愛してる愛してるみたいな陶酔的なもんはないわ。
「あのなあ、先生。入れて突いたらええってもんやないねん。こういうのにもテクはあるんや。知らんのか。いつも何やってんの」
 何やってんのやろ、俺はいつも。真正面から聞かれると、どう答えていいかわからへん。もう、やめようかな。悔しいけど。いやあ、どうやろ。こんなん言われて引き下がられへん。男の子の面子がかかってる。
「体は人それぞれ違うんや。蛇としかやってへんから、そんなんなるねん。やらんで良かったで、可愛い瑞希ちゃんと。下手やなあ言われたら、先生、ショックで永遠にたんようになるんちゃうか」
 今でもすでにそうなりそうな危険性が大やで。悪い子せんと、亨大明神とだけやっといたら良かった。悪い子やから罰が当たってるんや。今まさに当たってる。
「気合い入れて突いて」
 俺のケツを抱いて、湊川は励ました。ありがとう、励ましてくれて。
「今、最高に悲しい気持ちなんやけど、こんなんでほんまに最後までやれるんやろか」
 もう、やめようか。欲求不満になるけど。ハートが砕け散るより傷は浅い。俺はそう思いかけていた。
「萎えそうなん? 別にええよ。俺が先生のケツに突っ込むから」
 むっちゃ真顔で言われたで。本気やったで、湊川怜司。俺はその、淡く笑った美貌と見つめ合い、いきなりどっと冷や汗出てきてた。
 犯される。ちゃんとご奉仕せえへんかったら。アキちゃんバージンやなくなってしまう。それは、無いわ。俺はそれは想定してへん。それは俺の人生設計の中にはないコースや。亨もどんな微妙顔するやろ。死刑にはされへん気がするけど、それで、ああ良かった、という問題ではない。
「頑張るからやめて」
 俺が真剣にお願いすると、湊川は片眉をあげて、非難がましい顔をした。
「よっぽど嫌なんやなあ。なんでや、人のケツには突っ込むくせに」
 すみません。我が儘で。意気地無しなんです。甘やかされて育ったボンボンやから。
「ほな、教えるから頑張って、気持ちよくして」
 ありがとうございます。ご指導ご鞭撻してくれるらしい湊川に、俺は黙って頷いていた。
 こんな屈辱を味わったのは、生まれてこのかた滅多にないわ。
 動いて突けば気持ちいい。それは生理現象やから、しょうがない。でも、下手やなあって言われるねん。あかんあかん、違うわ、それやない。そこも違うてる。ずれてる惜しい、もうちょっと頭使うてやらなあかん。いきそうなってるやろ。ヘタレやでえ先生。独り善がりかと、さんざん言われて泣きそうなってきて、もうぶっ殺したろうかなと、悔しくて、切なく憎くなってきた頃合いやった。
「あ……っ」
 ふてぶてしかった相手が、突然甘く鳴いた。俺はその声にびっくりして、思わず動きを止めていた。
 今の、なに。
「気持ちいい。そこや、先生……」
 ストライクやった。湊川怜司は、ものすごくストライクゾーンの狭い奴やってん。気は多くて惚れっぽいけど、体はわがまま。ここでないとあかんというピンポイントがある。
 そこに至ると、ヤバかった。むちゃくちゃ甘い声で喘いだ。
「あ……、先生、やめんといて。もっと、もっとして……」
 首を反らせて悶えているのを見て、俺は慌てて続けた。
 さっきまで、あかんあかんて言うて憎かっただけに、急にはあはあ悶えられると、なんかもう、あかん。脳天に来た。やりました、おめでとう、とうとう免許皆伝ですみたいなファンファーレが頭の奥で鳴っていて、ものすごい達成感がある。
 悶えて閉じそうになる脚を開かせて、いっぱい突いてやると、湊川はむちゃくちゃ乱れた。赤く上気した胸が仰け反っている。白かった肌がまだらに赤いのが、まるで絵のようで、そこにまた絵を描きたくなる。でももうそんな余裕はない。一生懸命やから。
 俺も気持ちいい。ずっと我慢してる。いきそうなるのを。
 早く。早く言うてくれ。早く。もうだめって言うてくれ。ゴールまであと何キロあんの。
「ああ、いきそう。いかせて、先生」
 必死で汗かく俺に、湊川はやっと言うてくれた。愛しそうになった。
「先生言うのやめてくれ」
 別にそう呼ばれるのが嫌やったわけやないのかもしれへん。俺はちょっと変やねん。変な気分になっていた。とうとうお前を支配した。そういう気分やったんや。満たされまくり。あともうちょっとでゴール。
 だから、それやないやろ。先生やない。
「暁彦様」
 悲鳴みたいな喘ぐ声して、湊川は俺を呼んだ。俺なんかどうか分からへんけど。
 でも、それ。
 従順なように響く、その呼び声が、むちゃくちゃ甘く脳に沁みてくる。
「抱いて」
 激しい声で求められて、俺は身悶える体と胸を合わせてやった。すぐに長い腕が背に巻き付けられて、喘ぐ息の音が耳元で聞こえた。
「ああ……っ、気持ちいい……めちゃめちゃえわ、暁彦様と、おんなじ……」
 今は俺が暁彦様やって。俺はそんな無粋なことを言うのは止した。
 いっぺん火がつくと、切ないような悶え方やった。つらそうに眉根を寄せて、快楽に浸っている顔はどことなく悲痛なようで、可哀想やと俺は思った。
「し、死ぬ」
 のけぞって俺を抱く、白い首筋に、噛みつきたいような気がして、俺はそれを堪え、ただキスをした。すぐに甘い悲鳴が聞こえた。極楽いったらしい。
 ああ、よかった。これで面目躍如。これで俺もやっと、成仏できるって、とうとう自分の快楽に没頭できる時がきた。長かった。お預けばっかりやった。この瞬間がいちばん幸せ。亨やったらもっと幸せやったけど、でもまあ、これはこれで。なんというか。まあまあ幸せ。
 ごめん。そんな男で。でも正直言って、相当気持ちよかったです。魂抜けそうやった。腰も抜けそう。
 堪えず喘いで、俺はまだ震えているような、白い体の中に出してた。小さく呻いて湊川はそれを受け入れていた。中出ししていいかって、訊くべきやったか。でももうやってもうた後やしな。
 はあはあ荒い息で、ぐったりしている朧月夜おぼろづきよを、俺は自分も終わった後の乱れた息を整えながら、じっくり眺めた。綺麗やなあと思いつつ。
 けだるそうに目を開き、湊川は汗と湯気に濡れた顔に、はりつく髪をゆっくりと取り除けた。ぼんやりと虚脱したような顔やった。どこも見てない、くつろいだ顔。この時のこいつの顔は独特で、他で見たことがない。満足そうで、無防備やった。そうしている時が、一番美しい。でもこれを見ることができるのは、限られた者の目だけで、頑張ってご奉仕をしたご褒美みたいなもんやった。
「気持ちよかった」
 わかりやすい感想で、ぼんやりと言われ、俺は褒められた。
「もう抜いて。脚が疲れた」
 余韻もなんもない口調で言うてきて、解放されると湊川は、ずるずる湯の中に沈み込んでいった。そしてぬるい湯につかり、湯縁を枕に、はあと深いため息をついて、至福のような表情をした。
「気に入ったわ、本間先生。しきになったろう。なまずの生け贄にも、他におらんのやったら、俺がなってやろう。水煙様に、そう言うといてくれ」
 煙草をよこせという仕草で俺に差し招いて、湊川はどっちがご主人様かわからんような横柄さで、俺に一本とらせ、火までつけさせた。なんで俺がそんなことせなあかんねん。でも嫌な顔もせずやってもうたわ。なんでやろ。操られている。
「しかし、憶えておいてくれ、先生。業務上の都合や、お前の式神になるのは。惚れたわけやない。俺を水煙や、蛇やワンワンと同じやと思うたらあかん。行動は共にはせえへん。俺が誰と寝ようと文句は言うな。それに、あんまり慣れ慣れしゅうせんといてくれ。好きやないねん、ベタベタされるのは」
 素っ気なかった。ものすごく。
 くそう。言われんでもお前にベタベタなんかせえへん。俺も命が惜しい。ぎったんぎったんにされる。
「用事があったら電話しろ。電話番号は、先生の携帯に入れとくしな」
 バスルームの床に転がっている俺のジーンズの、ヒップポケットに入っていた電話を、湊川が長い睫毛の流し目で、ちらりと見ると、急に着信音が鳴った。そしてそれが、すぐに切れた。
 いったいどないして、そんなことができるのか、謎やけども、こいつも人やない。人やメディアの網の目の、隙間に棲んでいる神や。そういうこともできるんやろう。
「それから、俺のことは、おぼろと呼んでくれ。二人きりの時は」
 じっと見つめて、湊川は俺に趣向を教えた。
 暁彦様とおぼろ。こいつは俺の式神になったわけやない。別れて六十年以上過ぎたけど、今でも実は、俺のおとんに仕えてる。
「どうして、おとんと別れたんや。暁彦様と。なんで一緒に、ついていってやらへんかったんや」
 戦で死ぬのが、嫌やったんか。薄情そうな奴やしな。命あっての物種やと言うてた。そこまでおとんが好きではなかったんか。他のがみんな、命がけでのご奉公やったのに、お前だけが逃げたのか。
 うっふっふと面白そうに、おぼろは笑った。煙るような目を細め、淫靡な微笑やった。
「ついてくるなと言われたんや。そういう命令やった。俺は捨てられたんやで、ぼん。生きて戦後の世の中を見ろと言われた。ずっと、その時々の好みの歌でも歌うて、自由気ままに面白可笑しく生きていけと。あいつが死んでも、知らん顔して……」
 そして湊川怜司はずっと、そのおとんの命令を守って生きてきた。好き勝手に、自由気ままに、知らん顔して。それでも、うちのおとんが好みそうな。時代時代の歌を歌って。冗談交じりに言われたように、ずっとラジオの精として。じっと世の中を見つめ、結局、誰のものにもならへんかった。
 たぶんずっと、うちのおとんのしきやったからやろう。
 それを、おとん大明神が知っているのかどうか。気になるところやけども、ある意味それは、どうでもええことなんやろう。おぼろなる男にとっては。
 相手が自分を好きかどうか、それは自分の心と関係がない。愛情とか絆というのは、自分の心に誓うもんであって、たとえ相手が薄情でも、尽くすまことには関わりがない。そういう心意気のやつらしい。
 そういうおぼろが、果たして愛を理解しない心の神か、俺は実は疑っている。ほんまはすごく愛情深い、そしてそれを誰にも見せんようにしている、奥ゆかしい神さんではないか。
 水煙といい、おぼろといい、おとんはそういうしきを侍らせて、ほんまに冥利に尽きる男やったやろう。過ぎ去った時代のことや。今ではもうその二柱ふたはしらの神も、俺のもんやし。俺はおとん大明神を越える男になれたやろうか。
 まだまだや。そういう気がする。朧月夜おぼろづきよに抱く白い体が、暁彦様と鳴くうちは。俺はまだまだ、大明神には及ばない、本間先生、秋津のぼんで、もしかするとずっと一生そのまんまかもしれへん。
 それでもええねん。おぼろなる月に求めても無駄や。愛してくれとは。
 淡い雲間に隠れて想う、愛しい男を忘れろと、無理強いに命じるのは無粋というもの。いくら若造やいうても、それくらいは分かる。いつか変わりやすい月の心が、いつのまにか俺に向くまで、雲間の月がにっこり微笑むような時まで、ただ待つだけや。
 蛇に噛まれる。朧月おぼろづき見て、綺麗やなあって、あんまり口開けてると。アキちゃんアホか、死刑やって言われる。せやから浮気は浮気。ちょっと人生勉強に、ひと揉みしてもろただけやねん。
 ところでその夜、チーム秋津はどうなっていたか。そちらにもカメラを戻してみましょう。
 現場の本間暁彦さん。その後もちゃんと生きてましたか。
 もちろん俺は殺されはせえへんかった。良かったなあ。主人公死んだら、話終わってまうもん。
 おぼろは風呂で一発やった後、シャワーブースで一緒に湯を浴びて、俺の体も洗ってくれた。ついでに凄いという噂やった舌技の凄さも、披露してくれた。ほんまに凄かった。ほんまに凄い。俺は亨を世界一愛してるけど、公正を期し、愛のバイアス無しに評価するなら、それについてはおぼろのほうが凄い。絶対秘密にしてくれ。俺がそう言うてたということは。亨には当然やけど、水煙にも言わんといてくれ。怖いから。
 あまりのさに病みつきで、さらにベッドでいちゃつこうかというおぼろ様のお誘いに、もう帰りますとは言われへんかった。許してくれ弱い俺を。ベッドでルームサービスのナイトフードを食らいつつ、もう一発くらい抜いといてもらった。美味かった、神戸ビーフのコールドミート・サンドイッチ。腹減っててん。いっぱい抜いたしな。酒も飲んだし、べろんべろんやったんや。
 歌歌うてくれって強請って、『月がとっても青いから』もフルコーラス歌うてもろた。ええ声やわあ。美しすぎる。俺ちょっと酒飲み過ぎか。
 そして、月もすっかり沈む頃。さあ寝るし、先生帰れと冷たく言う湊川怜司に、俺はとっとと追い出され、ふわふわ浮き立つ足取りで、俺はフラフラ部屋に戻った。
 裸足でではない。冷たい言い方する割に、湊川は自分の靴を貸してくれた。俺とおぼろは、足のサイズが同じやったんや。おとんとも同じやったらしい。そんな話ええねん。なぜか腹立つ。なぜだろう。不思議やな。宇宙の神秘や。
 そして奴は靴フェチらしい。たった三泊の滞在やのに、クロゼットにはいっぱい靴持ってた。買いたての新品やという紐靴を、俺に似合いそうやと言うて恵んでくれて、お膝に足抱いて靴紐まで結んでくれた。優しい。おかんみたいや。その靴が新品やのうておぼろ様のお古でも、俺は別に全然気にせえへんかったやろ。もう終わりや。
 にこにこ上機嫌に帰り、酔った勢いで、バーンて部屋のドアを開くと、ものすご暗い顔の人々が待っていた。いや、人々やのうて神々。柱やで。俺の愛しい三柱の神さんや。
 車椅子に乗せられた水煙は、窓辺で夜を眺めていたけど、何も見てへんような横顔やった。俺が戻ると振り向いて、俺が描いてやった絵の顔で、ほっとしたようにアキちゃんと俺を呼んだ。
 水煙は、俺があんまり遅いんで、このまま帰ってこないんやないかと不安に思うてたらしい。まさか俺がほんまに式探しに行くと思ってへんかったんやって。売り言葉に買い言葉やったんやな。水煙ちょっと、怒ってただけらしい。なんやそうやったんか。俺、ほんまに死にそうなったわ。あっはっは。やめといて。俺に怖い顔すんの。ビビりやねんから。
 そして水地亨はソファで燃え尽きていた。いろいろ考えて疲れたんやろう。寝てはいなかったけど、燃え尽きた灰みたいになって、ぐんにゃり横たわっていた。
 そして勝呂瑞希は、犬になっていた。ほんまもんの犬や。艶やかな黒い毛の、大きな犬やった。どことなく猟犬ハウンドを思わせる、すらりとした体つきで、じっと見つめる憂鬱そうな黒い目の、美しい犬やった。元は確か愛玩用のマルチーズで、もっと可愛い犬やったんやないのかと思うけど、可愛いのはもうやめたんや。なんでやめんねん、お前は可愛いほうがええのに。
 それでも、じっと大人しく、力無く怯えて部屋のすみにいるのを見ると、可愛いような気がした。可哀想なような。ものも言わんと座っている忠実そうな犬の姿でいて、瑞希はもう人間やめたと言うてるようやった。
 よっぽど傷ついたんやろう。そんな姿になってしまうとは。俺が話しかけても、なんにも答えへんかった。
「眠りながらこの格好になっていた。目を醒ましても元に戻らんようや」
 車椅子で俺に付き従って、水煙は経緯を話した。瑞希はそれをじっと見つめて聞いていた。
「霊力がなくなってもうたんか?」
「いいや、違うやろ。この姿でいようと思ってるだけや」
 いっそほんまに犬やったらよかったのに、か。思い詰めがちやからな。変なこと言うからやで、瑞希。迂闊なこと言うたらあかん。ほんまに犬になってもうたやんか。
「犬がええんか、瑞希」
 傍にしゃがんで、頭を撫でてやると、黒い猟犬はしょんぼりとしたふうに、大人しく撫でられていた。細身の体を抱き上げてやると、犬は一瞬、びくりとしたけど、それでも逃れはせえへんかった。
 ぎゅうっと強く抱く俺に、心地よさそうに抱かれていた。
 俺はそのまま犬を抱っこして、灰になっている亨のところへ行った。
 亨はソファに俯せに倒れ、半分ずり落ちたみたいな大の字になっていた。なんという、品のかけらもない姿やろか。頭はぐちゃぐちゃやし。泣きはらしたような潤んだ目をして、ぼんやり顔で生彩がない。でも可愛い、そんな姿してても、美しい神さんや、俺のツレは。
「どこ行ってたんや、アキちゃん……探したんやで……」
 水地亨が落ちている、ソファの隣に割り込んで座り、ぐいぐい頭に脚を押しつけてやると、亨は渋々のように、俺の膝に頭を乗せてきた。
「新しいしきを探しに行ってたんやないか。お前らが行けっていうから」
「この浮気者ぉ……ほんまに行く奴があるかあ」
 恨みがましい涙声で、亨は俺にぶつぶつ言うてた。
「見つかったんか、それで。瑞希ちゃんの代打は」
「見つかったことは見つかった。湊川怜司」
 それに亨は、やっぱりそうか畜生ブッコロスぅ〜、とフラフラの声で言い、水煙はぎょっとした。
おぼろか」
「そうとも言うらしいな」
 犬の首を撫でてやりつつ、俺は亨の首も撫でてやった。これで瑞希が人型やったらヤバいけど、犬型やったら何ともないことってあるな。可愛かったから、ついでにチュウもしといた。俺はなんか、突き抜けてもうたんと違う? 酔うてるだけ? 酔った勢い? いつもそれやな。ありがとう酒の神。
「あかんで、アキちゃん、あいつはあかん! もう放逐したしきや。今は蔦子の所有のはずや」
 水煙は、キッと厳しい目をして、怒ったように言うていた。やっぱり嫌いなんや、おぼろ。水煙はめちゃめちゃ怒ってた。怖い。でも、怒った顔も綺麗や。もう、鬼みたいとは思わへんかった。
「蔦子さんには明日話す」
 瑞希の耳を撫でてやりつつ、その体を抱いて、俺は水煙に答えた。
「掟破りやで。他人の式をぶんどるのは。欲しいんやったら、きちんと譲渡を願い出て……」
「おとんも大崎先生から秋尾さんをぶんどろうとしてたんちゃうの」
 話の腰を折るようで悪いけど、俺がそう訊くと、水煙はムッとしたように言葉を呑んでた。
「それは……ヘタレの茂が時局をわきまえず、自分は虚弱で従軍できへんくせに、アキちゃんにしきを譲ろうとせんかったからや。秋尾は伏見の稲荷神に仕える白狐びゃっこで、霊威が高かった。死蔵してたら勿体ない」
「だからって、ぶんどってええのか」
 俺は別に批判したかったわけやない。そのへん、どういう流儀になってんのかなって、教えてもらいたかっただけで。だって知らんのやもん。水煙は俺の教育係なんやんか。だから訊いただけやで。
「……事情によりけりや。お国のためやないか」
「ルールは目安なんや」
 映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』で、船長キャプテンバルボッサがそう言うてた。海賊みたいな世界なんや。鬼道きどうも。
 水煙はしてやられたような、気まずく苦い伏し目になっていた。表情見えると、分かりやすい。前は何考えてんのか、いまいち分かりにくかったけど、これなら、感情が顔に出るのも人間並みやから。
「とにかく、おぼろは難物や。性悪やし。俺は嫌いや……」
 つんとして、水煙は言うてた。そうして拗ねてる顔も、案外可愛いなあと俺は思った。もう止まりませんわ。悪い子エナジー全開なってた。
「そう言わんと仲良うしてくれ」
 俺が頼むと、水煙は盛大に顔をしかめていた。
 でも、仕方ないと思うらしかった。俺がそう言うんやったら。
「わかった。まあええやろ。どうせあと二日や。かどわかされんようにしろ。あいつは昔、アキちゃんを神隠しにしようとした」
「神隠し」
 俺が訊くと、水煙は忌々しそうに頷いていた。
「位相があるやろ。同じ人界でも、見る者が見れば、薄紙を重ねたように、いくつかの位相に別れているんや。その隙間に落とし込めば、人やら物やら隠すことができる。位相をめくるんや」
 そんな無茶なことができるんか。ほんまに、ドラえもんの四次元ポケットやな。ドラえもんやったんや、湊川怜司。なんとかしてよドラえもんや。俺はのび太くんか。エロいドラえもんやったなあ。夜七時には放送できへん。というかテレビやと無理。
「神にはそういうのができる奴が居るんや。げきにも居るで。ヘタレの茂もそうや」
 ヘタレの茂もそうやったんや。いったい大崎先生はいつまでヘタレの茂と呼ばれるんやろうか。少々気の毒になってくる。真面目に言うてる水煙の話を真面目なふりした顔で聞きながら、俺はそう思うてた。
「そうやって、あいつはこのホテルに空間を増やしているんや。あいつは絵の中に入ったりもできる。入るための、位相のほころびが見えるらしい。器用やけども、でも、そんな力なんぞあったかて、いくさでは何の役にも立たん」
 でも、めちゃめちゃすごい力やで。絵に入れるんやで。どないして入るんや。俺も入ってみたい。
 え。でも。じゃあ、ちょっと待て。ほんなら大崎先生に、迂闊に亨の絵なんか売ってもうたら、あかんやないか。あの絵の中に入ると、どないなんの。絵の中の亨が居るんやろか。それって、どうなんの。
 あかんあかん。考えたらあかんような気がするわ。売らんでよかった。中西さんに感謝せなあかん。
 油断も隙もない、せやからあのエロ爺、俺に舞妓さんの絵描けなんて言うたんや。ようやるわ、何も知らん俺にそんな、エロの片棒担がせやがって。もう爺には風景画か静物画しか描いてやらんようにせなあかん。犯される。
「絵って、中身あるんや」
 なんでか意味なく楽しくなってきて、俺はにっこにこして言うてた。ほんまに酔うてるわ。俺、めちゃめちゃ酔うてるわ。ものすご酔うてるわあ。
「それ相応の、霊威のある絵やったらな。あくまで、閉じられた小部屋のようなもんやけど。霊力しだいや。この世界かて、神が描いた絵のようなもんやろ」
 水煙はそれを、むちゃくちゃ当たり前のことのように言うてたけど、俺はすごく感動して訊いていた。
 ええ話やなあ。絵描きのツボに来る話や。水煙はそんなつもりで言うたわけではないやろうけど。
「絵ってすごいんやなあ」
 たぶん俺の目はキラキラしてた。
「今さら何を言うてんのや、お前は……」
 大丈夫かなあと不安そうな顔をして俺を見て、水煙はしおしおになっていた。そこまで心配そうな顔されてたんや、今までずっと。知らんかった。知らんまま行きたかったような気がちょっとする。
おぼろは調子がええからな、お前には気楽で、ええように思えるんかもしれへんけども、ああいうのについていったら、家など守っていかれへんのやで、アキちゃん」
 くどくど説教を垂れている、切ない真顔の水煙を見て、俺はますます、にこにこしていた。
 口うるさくて、おかんか小姑みたいやなあ、水煙。でも、ほんまは焦っていたんやないか。おぼろにアキちゃん盗られてもうたら、どうしようと思って。可愛いなあお前、ほんまに可愛い。食べちゃいたい。
「お前のおとんもな、結局はあいつを捨てたんや。秋津のしきとして、戦列に加わるには値しない奴なんや。今は非常時やから仕方がないけども、家格というのも意識しろ。アホみたいなのばっかり増やしても、しょうがないんやで」
「誰がアホみたいなのばっかりや……」
 俺の膝で、亨が呻いていた。誰もお前のことやて言うてへん。アホやけど。お前はそこがええんやないか、亨。ほんまに可愛い奴や。愛してる。
「おとんは、しきが死ぬのが嫌やっただけやで、水煙。あいつに生きといて欲しくて、捨てていったんやないか。おぼろを愛してたんや」
 俺がぼんやり感じ取っていたことを、口に出して言うと、水煙はぐっと堪える顔をした。
「そんなことはない」
 水煙、むっちゃ断言してる。でも、どう見ても悋気りんきの顔やった。焼き餅焼いてたんや、水煙も。別に普通に。可愛いなあ。ほんまに可愛い。可愛いわあ水煙。もう言わんでええか。
「妬かんでええやん。おとんは結局お前を選んだんやし、最後までお前と一緒に居ったんやから。お前のことも愛してたんや」
 にこにこして言う俺の話に、水煙はムッとした顔で、ほっぺた真っ赤になってた。やっぱり赤い方が可愛いなあ。白くなんのも、あれはあれで可愛かったけどな!
「……そういう問題ではないんや。なんでそういう話なんや。妬いた妬かんの話ではない。あいつはアキちゃんをたぶらかす、下品な物の怪もののけやったんや。そやから追放しただけや」
 ぷんぷん怒って、水煙は俺に説明してくれた。そうかそうかと頷いて、俺は大人しく拝聴した。水煙様に逆らってもしょうがない。
 それにもう、六十年以上昔の話なんやしな。初心うぶな水煙が、朧月夜おぼろづきよにエロエロお絵かきしてるおとん大明神を絶対許せへんと思い、それをやっつけんのにちょうどいい大義名分があったから、やっつけといたという事でもな、まあ、それは、恋の鞘当てや。しょうがない。
 それにしても、あいつ、水煙には出し抜かれ、鳥さんみたいなアホにさえ出し抜かれて、賢そうでいて、実はちょっと抜けてんのとちゃうか。天然というかな。ツンツン意地張って、がっちり鷲づかみせえへんからあかんのとちゃうか。奥ゆかしすぎやねん。
 まあ。なんというか。そこがいい。
 そう思う俺は、だんだん秋津暁彦っぽくなってきた。もうあかんようになってきた。
 よしよしと抱きしめてやっていると、黒い猟犬はだんだん解けたようにくつろいできて、俺の腕の中でゆらゆらと揺らめきながら、ぎゅうっと抱きついている人の姿になった。しかし全裸やった。そのへん、どないなってんのか。
「うわあっ、なんやこれ。足や!」
 ふと目を巡らせて、瑞希の生足を見た亨は、びくっり仰天していた。
「なんやこれ! 素っ裸やないか、瑞希ちゃん。どないなっとんねんテメエ!」
 血相変えて飛び起きた亨が、まだ俺に抱きついている瑞希をどしどし蹴っ飛ばして押し返そうとしていた。それでも、じとっとした涙目で耐えて、瑞希は俺の腕にしがみついていた。
「仲良うせなあかん、亨。仲良うせな……」
 もう家族やねんから。お前には悪いけど、もうそういう事になってもうたんやから。
「畜生、ふざけんなアキちゃん。俺も脱ぐ」
 なんで脱ぐんかな。トホホやけども。脱いだらあかん理由もあるような、ないような。
 でも、とにかく脱ぐもんは脱ぐんやから。俺は素っ裸の美少年と、素っ裸の美青年と抱いて、ソファに寛ぐ羽目に。なんという不道徳インモラルな情景やろうか。まさか自分がそんな絵の中にいる事があろうとは。一年前には想像だにしなかった大どんでん返し。確かに人生、生きてみな分からん続きがあるわという実例やな。
「アキちゃん、俺もアキちゃんと一緒に寝たい」
 亨は悲しそうな潤んだ目で擦り寄ってきて、俺の頬に額を擦り寄せた。
 そんなん俺もやで。俺もお前と寝たい。
 俺は亨の白い綺麗な背中を片腕で抱き寄せた。両手に花やから。片腕でごめん。でもほっぺた擦り擦りはした。気持ちいい。やっぱり亨が一番好きや。
「一緒に寝よか」
 微笑んで誘うと、亨は潤んだ目をしたが、目付きはジトッと俺を恨んでた。
「犬はどないすんねん、この全裸の美少年は」
「そうやなあ、瑞希も一緒に寝よか」
 亨ににっこりして、俺は一応言うてみた。だってそれしかないやんか。ベッドひとつしかないし。可哀想やんか、ソファで寝ろって言うのは。
「ぶっ殺す、アキちゃん」
 そうは言うけど、亨は俺にキスしただけやった。我慢はしたけどもう無理です。そんな感じで抱きついてきたまま、俺を自分に向かせて唇を重ねさせた。
 なんという不道徳インモラルな。
 瑞希はビビったようやったけど、もう、どうにもしょうがない。俺は元々ノー・デリカシー男やし。これには慣れなしょうがないんやないか。いちいち殺し合ってたら、一歩も前に進まれへん。
「しょうがない……新しい世界に行こか」
 それはどういう世界やろう。亨は俺の舌を吸いながら、舌っ足らずにそう言うた。そして、名残惜しげに唇を貪ってから離れ、またかと難しい嫌気のさした顔でいる水煙に、向き直って言うた。
「お前も脱げ」
「な……なにを言うんや」
 水煙は、今度は真っ青になっていた。比喩的な意味で。もう宇宙人ちゃうからな。実際には白い顔のままや。ビビった表情になっただけで。
「穴無し治ったか俺が見てやる」
「余計なお世話や、そんなん見んでええわ!」
 水煙は必死で叫んでいた。亨が本気やと思うてんのやろ。俺にも本気みたいに見える。まさかと思うけど、まさか本気なんやろうか。なんでお前が俺より前に見るねん。
「なんやと、俺やったら何が不満や。アキちゃんに確かめてもらおうというんか。許さへん。俺が見て解説しといてやるから、それで我慢しろ」
 地獄や、それは。見たらあかんのやったら、解説するのもやめてくれ。なんでお前のエロエロ実況中継を訊かなあかんのや。そんなん聞いてムラムラしたらどないすんねん。水煙は俺にとって永遠の清純派やのに。お前にかかるとどうなるか怖すぎて無理や。
「もう寝る。俺もう眠いから。眠らせてくれ……」
 ほんまに眠いし、俺は酔いつぶれかけていた。クラクラした。
「あかんあかん、何言うてんのや、アキちゃん。朝エッチも昼エッチもしてへんのに。夜エッチ休んだら、まる一日ゴハン抜きなんやで。そんなん常識で考えてありえへんやろ」
 常識について説かれ、俺は両手で顔を覆って仕方なく頷いていた。そうやな。お前の言うとおりや。
 俺はこれから一体、どうなったんやろ。
 それはあまりに不道徳インモラルやしな。解説を避けよう。
 避けるなアホ! って、飛んでくる座布団が今見えた。幻覚やろか。こっちとそっちでは位相が違うんやろか。それとも同じひとつの世界なんやろか。
 同じやといい。そのほうが皆と会える機会もあるやろうから。せやけど一つに繋ぐのは、できれば、座布団飛んでこんようになってからにさせてくれ。
 それでは、お休みなさい。ぐっすり夢も見ずに朝まで。残り少ない夜明けまでの時間やけど。腰痛なったらどうしよう。
 あはは。平気平気。腰揉んでもらいつつ、惚気たらええねん。朧月夜おぼろづきよに。
 あいつらほんまにどうしようもない。寝る間もないわ。腰痛いわあ、って。
 きっと笑って聞くやろう。おぼろなる者は。そして優しく癒やしてくれるやろう。ジャズと。スコッチと。甘くくゆる優美な煙のある部屋で。
 俺はその部屋が、永遠にあればええのにと願っていた。
 それが新たな問題で、それをどうやって解決するのか、俺はもう何も考えていなかった。
 考えなくても、結論は出ていたからや。おぼろの部屋からの帰り道、上機嫌で鼻歌の『月がとっても青いから』を歌いながら、もう考えたんや。結論が出た。
 おとんはしきを愛してたんや。俺はアホで、水煙は賢者かもしれへんけども、俺のほうが正しいことはある。アホでも俺も考えてんのや。俺なりに。
 おとんもしきも木石ではない。それにも命があって、心もある。それを愛しく思うなら、生きろと命じる他はない。それが秋津暁彦の、結論やった。六十有余年前も。そして平成の今もや。
 だって考えてもみよ。今夜のおぼろは美しい神やった。俺はしびれた。あんなのを俺のおとんが愛さへんかった訳があるやろか。俺が愛してんのに。気高く可愛い水煙様を、愛さへん訳あるか。それは無理。絶対に無理や。みんな愛しい。麗しい愛しい神さんたちや。俺はそれに仕える神官で、神々を愛して崇め奉る。それがげきとしての、俺の本性や。
 それが自分や。どうして自分に嘘ついて、生きていけるねん。そんなもん間違っている。俺は俺の描きたい絵しか描かれへんねん。そうでないと、俺はなんのために俺として、この世に生まれてきたんやろ。
 ありのままでええねん。俺のままで。常識や前例なんて、クソ食らえやで。俺のやりたいようにやる。
 そう結論がつくと、むちゃくちゃ気が楽やった。無限の力が湧いてきた。
 そうして俺は、心の底から祈ってた。
 生きてくれ。俺の愛しい者たちよ。俺が死んでも、平気で生きていってくれ。それが一番、俺は幸せや。お前らの幸せのために死ぬんやったら、俺はそれで本望やねん。
 どうか、心あるなら天地あめつちよ、俺の祈りを聞いてくれ、って。
 ほんまにつくづく、俺はおとんの息子やわ。
 悔しいけども、俺はそれを誇りに思う。せやからな、おとんと同じ道を行くことにする。それでええかなあ、どう思う?
 それでは、またそろそろ、次号に続く。どうも、長い話を、ご静聴ありがとう。皆さん、どうぞ今夜もいい夢を。その眠りが安らかなように、俺が祈っておくからな。
 今夜の語り部は、酔っぱらいのぼん、悪いボンボン平成版、秋津の暁彦様でした。おやすみ。愛してるよ、みんな。


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