SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

神戸編(25)

 アキちゃん、水煙のこと、許してやったらどうやと、亨は俺と並んで歩きつつ、のんびりとした声で、そう取りなしてきた。
 なんでこいつが水煙を庇うのか、俺にはよう分からん。理解を超えた心理や。
 神やからかな。亨はすごい焼き餅焼きやのに、時々ものすごく心が広い。
 ほんまに酷い状況やなあと、俺はヴィラ北野のうねうねした廊下を歩きながら思っていた。
 俺は左手で亨の手を引いて、右手には抜き身の太刀を握っている。そしてその後を、哀れっぽい犬がとぼとぼついてくる。
 それでも亨は平気そうに、にこにこ笑って、俺を見ていた。なんでこいつは、それが平気なんやろか。
 俺はほんまに、亨には、済まないことをしている。瑞希にもそうやろう。水煙にも、そうやったんかもしれへん。
 慣れてるとはいえ水煙も、つらいもんは、つらいんやろう。太刀に戻って押し黙る姿は、全力で俺を拒んでるようやった。
 一時は人のような姿になって、俺に微笑みかけていた水煙も、また冷たい刃に戻ってしまった。
 それも無理はない。俺はこいつのことを、鬼やと罵ってしもたしな。水煙は、それでも平気でにこにこしてられるような、図太い性格ではないんや。
 水煙は繊細やと言うていた、蔦子さんの話には、俺にはなんとなく納得がいく。こいつの想いは、いつも研ぎ澄まされた刃のように、鋭く思い詰めていて、触れれば切れそうな一徹さやった。硬いはずの鋼鉄の刃が、ほんのちょっとの技の狂いで、ばきっと折れてしまうことがあるけど、水煙にもたぶん、そういう恐れは常にある。
 きっと、俺のためを考えて、必死になってくれたんやろう。それで竜太郎を犠牲にしてでも、俺を助けようとした。俺が本家のぼんで、秋津の跡取り、今では当主として立つ、たった一人だけの直系の男子やからや。
 そうでなければ水煙は、俺に必死にはならへんやろう。俺を選んだ訳やない。血筋を受け継ぐ男やから選んだだけや。
 俺にもし、兄貴でも居って、それが当主やということになってれば、水煙はそっちを選んだ。俺が好きなわけやない。水煙は、秋津の当主が好きなだけ。今は俺がそれやから、俺のことが好きなんや。
 俺にはそれが、何とも言えず、切なかった。
 亨は俺がげきではなくて、秋津の跡取りやのうても、俺のことを好きでいてくれたんかもしれへん。亨にはむしろ、そんなんは、面倒くさいばっかりで、何のええところもない、俺の欠点みたいなもんやったんかもな。
 せやけど水煙には、それが一番重要な点で、俺が秋津の血を継ぐげきでなければ、手も触れさせへんかったんやろう。水煙が俺を気に入った理由は、ただひとつだけ。血筋や。初めはそれだけ。それが切っ掛けで、その後のことは別にしても、俺と水煙との縁の、スタート地点はそこにある。俺が亨を顔で選んだと、いつまでたっても愚痴愚痴言われるみたいに、俺は水煙が自分を、血筋だけで選んだというのが、いつも、どうも気に食わへん。いくら好きやと言われても、心のどこかに、素直に受け入れられへん何かが残る。
 でも俺も、そうやったかもしれへん。水煙が欲しいと思うのは、こいつが祖先伝来のご神刀で、秋津の当主になるために、こいつに選ばれる必要があるからやないか。秋津の跡取りになりたいために、俺は水煙に執着してんのやないか。
 せやし水煙は俺にとって、道具みたいなもんやったんかもしれへん。実際、太刀やし、道具なんやで。それにしきやし、道具のように使役するもんなんかもしれへん。
 それでは嫌や。ちゃんと心のあるもんを相手に、それではあまりに鬼畜みたいやろ。
 俺は水煙を、人のような姿にさせて、それできちんと、ひとつの人格を持った相手として、扱おうというつもりで居った。
 でも、それ自体、結局は俺の我が儘やったんやろう。好みの形に水煙を、作り替えたかっただけ。素直にそれに従って、俺の好む形に変転した水煙に、深く満たされていた。
 それは愛やない。ただの欲やろう。
 それでも俺には水煙を、愛しく思う気持ちはあったんやけど、それと向き合うていくのが、嫌やった。水煙との恋愛に溺れるための、深い水底に引き込まれていく、その一歩手前で抵抗していた。青く光る海の底へ、今にも落ちようとする自分の心を、必死で引き留めていた。
 これは打算や。真の愛ではない。水煙のも違う。あいつは俺の血に惚れてるだけで、俺が好きなんやない。俺も水煙が、家督の象徴やから欲しいだけ。家を継ぎたい一心や。そやからこれは、愛とは違う。これは嘘や。偽物の愛や。行ったらあかん道なんやと、それが俺の言い訳で、奔流に呑まれようとする自分の心を、ギリギリつなぎ留めておくための、命綱みたいなもん。
 だって俺は、ひとりしか居らんのやしな。もしも俺が水煙と、本気で愛し合うとしたら、それは俺が、亨を捨てるということや。
 俺はそんなに、器用なほうやない。二人や三人と、いっぺんに愛し合うなんて、そんな高度な技は持ってない。おとんはそれを、やってのけてたようやけど、でも結局は、どないなったんや。
 おとんに捨てられて、おぼろは気の毒やった。あいつは可哀想やと俺には思える。
 湊川怜司は、あんな性格の神や。もともと大して本気でなければ、普通に遊びで付き合うて、別れた後には、何の後腐れもない。きっと、そんな間柄でやっていけた。
 そんな相手に、わざわざ本気で惚れさすやなんて、おとんはなんで、そんな無茶なことしたんやろか。可哀想やと、思わへんかったんか。
 もしかしたら、自分もそうやったんやないか。おとんも、どこか本気で惚れていた。荒れ狂う恋情に、自分もどっぷり溺れてた。俺みたいに、なんとか踏みとどまろうと、足掻いたりはせずに。そうでなければ、あの鬼を、ほんまに調伏することなんか、できへんかったんやろう。
 おとんはある意味、おぼろだました。悪い男やった。嘘やと見抜かれへんように、本気で愛してやった。そんなひどいペテン師やった。
 俺もそんなふうに、水煙を、甘い嘘で騙してやったらよかったんやろか。お前が好きで堪らへん、愛してるって、俺が亨に囁くように、水煙にも、言うてやったら良かったか。
 言うてやりたい、自分の心の赴くままに、口から出任せ、我慢はせずに、その場の勢い。恋する心の激情に溺れ、鬼みたいな嘘ついて、ほんの一時、お前が好きやて抱いてやったらよかったんか。
 でも。それは。
 嘘やない。
 どこかで俺の本心ではある。
 俺を深く愛しているような、じっと見つめる水煙の目から、必死で目を逸らす。魅入られてもうたら終わりやと、そういう予感がして、俺はいつも、水煙と真正面から深く見つめ合うのを避けていた。
 瑞希のこともそうや。なるべく目を逸らして。相手の本気に、自分も本気で答えへんようにして、いつも誤魔化している。ひとたび応えて、その道を行けば、そこからはもう引き返して来られへんような怖さがあって、のめりこむのを避けている。
 行き着くとこまで行ってもうたら、俺はいったい、どうなるんやろう。きっと心がバラバラになる。とうとう強い神の手で、心を引き裂かれてもうて、頭が変になる。
 運命の恋人なんて、一生にひとり居ればいい。それがどんなに長い、永遠に続くような生涯であっても、永遠の愛を誓える相手はひとりきり。俺にはもう、亨が居るんやし、それで満足している。そこに二人目三人目と、入り込むような余地はもうない。
 俺はたぶん、諦めるべきなんや。元通り、亨ひとりに絞るべき。あれも好き、これも好きなんて異常やし、たとえそれが血筋の勤めやと言われても、できへんもんはできへん。
 俺は水煙に、主人面して命令すべきなんかもしれへん。お前はもう、俺のことを愛するのはやめろ。俺にはもう、亨が居るから、諦めてくれ。俺のことは忘れて、お前はお前で幸せになってくれ。誰か、他の相手を好きになれ。これは本気や。俺はお前に命令してるんやって、ほんまの本気で言うてやるべきか。
 そんなことが、もし本当に可能なんやったらな。
 俺が幸せにしてやりたいけど、それは無理やねん、水煙。許してくれ。そんな不甲斐ない奴のことなんか、とっとと捨てていってくれ。それでも俺は秋津の跡取りや。血筋のすえや。死ぬ時も、秋津の当主として死にたいんや。
 今夜一晩、俺は習わしどおり、お前を抱いて寝るから。どうか俺のことを、当主に選んでくれ。
 そして明後日、俺が龍と出会い、助かろうが駄目やろうが、お前は俺のことは、もう死んだもんやと思うてくれ。忘れてくれていい。秋津という家はもうない。俺の代で終わったんや。
 俺はお前を縛り付けてる、呪縛を解こう。お前を秋津の式神として、長年縛り付けてきた、げきしきとの契約を解く。そしたらきっとお前は、悪い夢から醒めたみたいに自由になって、俺のことがどうでもよくなる。きっとそうなる。
 そして俺のことで苦しい思いをするのも、終わりにできる。そうさせてくれ。
 俺には無理や。亨が一番、お前は二番で、二人を比べて、二股かけて、いつも亨のほうを選ぶ。そうしてお前をずっと虐げていくのは、俺にはもう、つらいんや。愛してるから、つらい。
 亨と見つめ合う一時、他の誰にも興味ない。夢中で愛し合っている。そういう俺を、つらいと思って見ているお前が、俺はほんまに心底つらい。そうやった、水煙も居るんやって、ふと我に返る瞬間に、俺はいつも、自分のことが呪わしい。
 俺は水煙を、愛してやるべきやった。亨やのうて、水煙を、自分の唯一無二の相手として、選んでやるべきやった。それが俺の勤めやった。そういう気がして胸苦しい。自分がまるで、逃げてるようで。
 逃げている。血筋の勤めから。自分の中にいる何者かが、俺をそう詰るんや。お前は勤めを放り出していると、俺を責めてる。
 水煙を、袖にするなんて。鬼やと罵るなんて。そういうお前が鬼や。気位のある神が、恥も忘れ、お前が好きやと身を投げ出してるのに、お前はそれを拒むんか。たかが人の子の、小僧の分際で。
 何という不遜やと、激しく責める声がして、胸が苦しく、猛烈に頭が痛む。
 俺はつらい。引き裂かれそうや。引き裂かれそう。
 分かってくれ、水煙。分かってくれるやろ。お前は俺のつらい気持ちを、ちゃんと分かってくれてるんやろう。俺の心が見えてるんやったら、お前はそれを、分かってくれるはず。
 そうでないなら俺は、一体どうしたらええんや。どうやってお前の愛に、応えてやればええんや。
 ただの剣と、その使い手という間柄を越えて、俺はお前に惚れてるんやないか。そんなことが、あってええのか。
 ふたりの神を、人の身で、上手くだまして手玉にとるようなこと。お前に心底惚れてると、ふたりを相手に囁くような、そんなのが誠実やとは、俺には思えへん。どっちかが嘘になってしまう。おとんが結局、おぼろを捨てたように、俺も水煙か亨を、捨てることになるんやないか。泥沼の果てに。
 突き詰めてもうたら、そこへ行き着くに決まってる。
 俺は亨を捨てる気はないで。それは毛頭ない。想像するだけでも怖い。水地亨のいない世界で、生きていく自分のことが、怖ろしくてたまらへん。
 せやし、きっと、選べと求められたら、俺は選ぶんやろう。水煙を捨てるほうを。
 その後、水煙はどうなるんや。誰か新しい使い手に、巡り会えるのか。
 でも、それはただ、問題を先送りして、誰か別の奴に、押しつけようというだけやないんか。
 水煙は、永遠に生きる。神やしな、太刀やから。そう簡単に滅びるもんやない。誰と愛し合おうと、その相手はいずれ死ぬ。不死でなければ、人はいつか必ず死ぬようにできているんや。
 水煙は、秋津の家で繰り返したのと同じように、また誰か、次へ次へと手渡されていく相手と愛し合うより他はない。
 水煙は何よりそれに、疲れてるように見える。
 俺は死なへん。不死人になった。せやし俺と愛し合えば、水煙はもう、永遠に俺のもの。死に別れて手渡されるようなことはない。ずうっと俺だけを、愛してればええねん。
 それは水煙にとって、深い安らぎのあることらしい。なぜなら水煙は、そういう相手と巡り会うのを、ずっと待っていた。そのために秋津の家に、取り憑いていた神や。
 俺はそのことを、まだ知らなかった。考えてみたことがなかった。なんで水煙がうちの血筋に取り憑いているのかなんて。
「怒ってんのか、アキちゃん。暗い顔して……」
 困ったような笑みで、亨が俺に訊いてきた。
「そんなに速う、歩かんといてくれ。ついていくのも大変なんやで」
 苦笑する亨を見つめ、俺はふと、立ち止まっていた。
 そして俺はまた内心、鋭い痛みを覚えた。
 俺は今、亨のことを想っていない。お前のことだけ想っていたいのに、別の相手に気をとられてる。苦悩している。
 そんな俺に、ついてくるのは、確かに大変なことに違いない。
「亨……俺はいったい、どないしたらええんやろ」
 それはこいつに、訊くようなことか。俺かて自分でも、そう思ったよ。
 せやけどいったい、他の誰に相談すんねん。自分ひとりで考えろか。確かにそうや。それが常識。
 分かってるけど、それでも俺は弱い男で、誰かにお縋りしたい気持ちやった。他にいったい、誰が居るやろ、水地亨大明神のほかに、俺が心底甘えてもいいような、そんな有り難い神さんが。
「どないしたらって、何のことやねん」
 ますます苦い笑みになり、亨は何となく察しはついてるという顔やった。
「何のことって……またやってもうた。水煙に、言うたらあかんことを、言うた気がする。まさか、また、前の時みたいになってるんやないか」
「前の時って、お黙り言うてやったときに、首絞まってもうてたみたいな?」
 痛いなあという苦笑いで、亨は自分の細首に触れ、締め上げているような仕草をした。
「……そうや。また、そないな事になってるんやないか。どう思う。お前は。俺はまた、水煙に、呪いをかけたんやと思うか」
「かけまくりやろ」
 あっさり断言してくる亨の答えには、ぐっと来た。元々わかってるけど、人の口から言われてみて、やっと本格的に慌ててくることってあるな。
「もう許してくれへんのやないやろか」
 毒を飲み干すような気持ちで、俺はその懸念を話した。
「許してくれへんて、水煙が? そんなアホな」
 ふんっ、て鼻で笑って、亨はほんまに、そんなアホなという顔をした。
「何でも許すで、水煙は。アキちゃんにやったら、なんでもな。ジュニア可愛い可愛いで、夢中なんやし、必死なんやで。そんなん、見とって分からへんのか?」
 俺もそこまで自惚れてへん。甘えたい、欲はあるけど、確信はない。俺はそこまで偉いような、ご立派なご主人様か。そうやない。
 まだ水煙の正式なあるじではないと、蔦子さんも言うてたやんか。
 なんでか俺には、それはものすごショックなことやった。
 水煙がまだ、俺のモンやなかったなんて。
 ほんなら、こいつはまだ、俺やのうて、おとんのモンなんか。お前のモンにしてくれって、そんな目で俺を見ていた水煙が、実はまだ、おとんのモンやったなんて。
 耐えがたい。なんでそれが、つらいんやろか。自分でも、よう分からん。俺は水煙を、おとんから借りてる訳やない。俺が当主や。ご神刀を受け継いだ。
 いいや。当主かどうかなんて、この際どうでもええわ。水煙は俺のモンやったやないか。俺の剣。俺の太刀やで。水煙は、俺を守護する神さんで、そして、俺のもの。
 なんか、頭の芯からクラクラするような、そんな強い欲が湧いてきて、果たしてそれは物欲か、それとも愛欲か。自分でも区別がつかへん。
 おかしい。俺は、おかしい。こんなの普通やない。考えたらあかんような事やで、普通。愛しい亨を目の前にして、なんでそんな事、考えてんのやろ。早う忘れなあかん。忘れなあかん。
 そんな葛藤のせいで、俺はつらい顔やったんやろう。亨は首を傾げて俺を見上げて、困ったなあとにやにやしていた。
「アキちゃん。つらいんか。我慢せんでもええんやで。我慢して、ずっと悶々としてんの。知らんうちに水煙が、ほんまもんの鬼になってて、それが自分のせいやと思えても、アキちゃんは平気なん? 平気で笑って、生きていけるか。俺は鬼やって、隠れて泣いたりせえへんか」
「俺は鬼か」
「そらそうやろう。ほんまにもう、殺さなあかんレベルやで。瑞希ちゃん見てみ、傷ついてるわ。傷だらけやで。俺もそうやし、水煙かてそうやろう。そんなお前が鬼やのうて、いったい誰が鬼やねん?」
 亨の話は俺を詰るようやったけど、その表情は、淡く微笑んでいて、ほんまにもう、しゃあない奴やなあという目が、面白そうに俺を見ていた。
「俺もつらいわ、アキちゃん。お前が俺に一途やないのも、つらいけど、嘘で一途なふりをして、内心ずっと泣いているのも、俺にはつらい。お前にはいつも、にこにこしといてほしいねん。のんきに笑って、好きな絵描いといてほしい。最初にバーで、七面鳥の絵描いてた時みたいにさ」
 そんなん憶えてへん。全く記憶にございません。七面鳥の絵って、なんのことや。何か言うてたか、亨。後で訊いても、恥ずかしい言うて、詳しく教えてくれへんねん。初めて会うた時の、酔うて脳みそぶっ飛んでいた俺とのことは、亨はあんまり話したがらへん。恥ずかしいんやって。何が恥ずかしいねん。
 とにかく俺は、亨と初めて会うた夜、泥酔して絵を描いていたらしい。その、絵を描いてる様子が、幸せそうで、亨には印象深かったらしい。
 絵さえ描いてりゃアキちゃんは幸せなんやと、亨は思うてる。それはあながち間違いやない。そやから亨は、そんな、のんびり絵を描いている時の、最高に幸せな俺を、守ってやりたいと思うんやって。
「水煙を描きたきゃ、描けばええやん。俺に遠慮することはない。どうしようもないやろ、お前はそういう男や。好きなモンは好き……それを我慢しても、しょうがないやろ」
 いかにも罵るように、亨は笑ってそう話し、ふと一瞬、つらいという、切なそうな顔をした。でも、それはすぐに、苦み走った笑みに溶かされて、消えてもうてた。
 亨は自嘲したらしい。なんでそんなことする必要があんのか。焼き餅焼くのは当然やろう。お前は俺のツレなんやしな、それの不実を咎める気持ちのどこに、自嘲せなあかんような要素があるんや。
 これきりやと、俺には思えた。もうこれで、終わりにせなあかん。俺は何かの決着を、この鬼みたいな状況を終わらせるための方法を、見つけ出さなあかん。
 俺が鬼になればええんや。亨は悲しんでる。それでも俺のために我慢してやろうと言うてくれてる。それに甘えて、それでええわというんでは、俺は自分で自分が嫌になる。
 どっちがマシかという、問題があるだけや。おとんのように、あれも愛しい、これも愛しいで、二股三つ股かけて、まんべんなく全員を切り刻む鬼なるのか。それとも亨の他の全員を切り捨てて、亨と笑って生きていく、そういう鬼になるのか。
 どっちへ行こうが鬼の道やで。迷うことはない。どっちも外道や。人でなし。
 俺は自分が愛する誰も彼もを幸せにしたいけど、それで亨が悲しいんやったら、迷う余地はない。俺は自分が鬼やということを、受け入れればいいだけのこと。
 それでも俺にはまだまだ無理やったんか。自ら進んで鬼になるのは。どうにも詰めが甘かった。
 ほうっておかれへんかった。自分の吐いた言霊に、傷ついてるはずの水煙のことを。もしもまた白い血を流し、苦しんでるようやったら、せめてその傷くらい、治しといてやらな、あまりにも可哀想やし、無責任やと思えたんや。
「いっぺんだけや、亨。俺のわがまま聞いてくれ。水煙にかけた呪いを、解いてやりたいねん。夢の中やったら、水煙はいつも、人の姿をしてた。こいつが剣なのは、人界でだけなんやないか」
 せやしそこまで追っていけば、水煙も、拒みようがないやろう。怪我をしてれば、それが見える。傷ひとつ無い鋼鉄の白刃ではない、青白い神の姿で、俺の前に顕れる。
 亨は俺に頷いていた。同じ読みらしい。
「そうかもしれへんなあ、アキちゃん。そんなん俺に訊かんでも、さっきから、別にええよって言うてるやん。俺も水煙のことは心配なんやで。もはや家族みたいなもんやないか。許してやれ、水煙のこと。許してくれって、追いかけてって謝ってきたらええよ。呪いもちゃんと解いてやれ」
 まだまだ子供の寝るような時間やけど、もう寝るかって、亨は苦笑して訊いた。まだ晩飯も食うてへん。今時、子供でも寝てないような時間やったんやけどな。
「眠れるもんやろか」
「気合いしだいやろ。俺が眠らせたろか?」
 けろりと言うてる亨の話に、どういう意味かと、俺は内心ぎょっとした。何か気まずいような話か。
 そうやない。亨には、人に催眠をかける力があるらしい。蛇の毒牙で、ちょこっと噛んでやって、ことりと眠らせる。そういう技があるんやって。
 そういえば、前に亨が死にかけて、人界と冥界の合間を彷徨うてるような時、ベッドで抱き合うてた俺を、亨はちくりと噛んできた。その次の瞬間、俺は泥のように深い眠りに落ちていた。あれは亨の仕業やったんや。
「頼んでもええか」
 遠慮の塊みたいな小声で、俺は頼んだ。亨はますます苦み走った顔をした。
「ええよ。ほんなら部屋戻ろうか。アキちゃんおねんねやしな。俺と犬とは、遠慮しようか。瑞希ちゃん、腹減ってんのやったら、俺が飯でも食いに連れ出してやってもええし……」
 ちらりと背後に立つ、じっとうつむく姿の瑞希を見やって、亨は少しの間、考えているような沈黙をした。
「なあ、噛まれるついでやし、アキちゃん、犬にも餌やれば? ラジオにも吸わせたんやし、犬があかんということはないやろ。ワンワン、飢え死にしてまうで。せめて血ぐらい、くれてやらな」
 亨の話に、ぎょっとしたんは、俺やのうて、瑞希の方やった。青い顔して、瑞希は慌てて、悲壮な目を上げた。
「いらへん、俺は。血なんか吸わへん。飯食えば腹ふくれるよ」
 着ていたシャツの裾を握って、瑞希は亨に言い訳していた。ふふんと意地悪そうに、亨は小さくそれを笑い飛ばしていた。
「嘘やん。俺はどんだけ飯食うても飢えてるまんまやで。ちょっとの足しにはなるかもしれへんけど、そんなん焼け石に水やろ。お前も犬人間やった三万年前とはちがうんや。霊位も上がって、ビッグな神様になったんやしな、生身の時代はもう終了や。普通の飯とかそういうような、みみっちい補給やと足りへんのやで。もっと精のつくもんを食え。また犬死にしたくないんやったらな」
 呆れたように言うて、亨は瑞希を振り返っていた。俺の手を握りしめたまま。
 その指はぎゅっと強く、俺の手を握っていたけど、温かかった。冷たく震えてはいなかった。それでも、永遠に離さへんみたいな、強い手やった。
「あのなあ、瑞希ちゃん。吸血は基本やねん。確かに外道くささは満点やけど、しゃあないやろう、ほんまに外道なんやから。ドッグフード食うてりゃ満腹やった、ワン公の頃とは違うんやって。逃げてもしゃあない。ラジオも言うてたやろ、我慢しすぎて狂ったら、元も子もないし。人を襲って食うわけやないんや。罪にはならへん」
 亨にそう言われても、瑞希はじっとうつむいて、目をそらしていた。ホテルの廊下に敷かれた赤い絨毯の、織り目を数えているような、真剣な目やった。
 それをしばらく眺めていても、返事がないのを確信すると、亨はやれやれみたいな深いため息をついていた。
「あのなあ! 犬! 聞いとんのかコラ。何遍おんなじ話させんのや? 合意の上なんやしな、それに、アキちゃんがお前に血をやるのは、お前のことが好きやからや。愛やねん。それも見たやろ、ついさっき。アキちゃん本人がそう言うてたやろ。愛してるから吸血を許すんや。おとなしゅう食わせてもらって、その愛によって生きたらええやん。それならお前も嬉しいやろ。大好きな本間先輩は、お前が好きでたまらへんから、腹減ってんのやったらいくらでも、血吸うてええって言うてんのやで」
 俺、まだそこまでは言うてへん。
 でも、亨は、そうやろアキちゃんと訊ねるような、ジトッと怖い念押しの目を俺に向けてきた。
 ええ。えええええ。俺、それに、頷けばええのか。それとも否定すんのが正解なんか。どっちがアキちゃんもう殺さなあかんコースなんや。わからへん!
「なにアワアワしとんねん、アキちゃん。鈍っい男やのう、お前はいつも。そうやで、って、優しゅう言うてやるとこやろ、ここは。せっかく人が滑走路敷いてやってんねんから、素直に飛び立たなあかんやないか?」
 わかってへんなあ、このボケがみたいな目で、亨に見られた。なんでなんや、なんでそうなる。俺はお前に気を遣ってんのやで。お前のことをやな……。思ってるわけですよ、一応な。
「いや、でもな……亨」
 俺は蒼白顔で言い訳しようとした。何言うんか決めもせずに。とにかく何か言うといたほうがええんやないかと思って。
「でももヘチマもない!」
 しかし亨は若干キレたように怒鳴った。
 うわっ、出たよ。ヘチマが。なんで、でもとヘチマがセットなんや。どういう組み合わせや。どこからヘチマ出てくるんや。でももうヘチマが出たら終わりやで。お前とうだうだ話す気はないという意味や。
「餌もやらんと犬が飼えるか! アキちゃん、この犬が死んでもうたら気ぃ悪いんやろ。またウジウジウジウジすんのやろ。もうええねん。二回もするな! 血なら腹もちええねんから、我慢強い犬なら、いっぺん給餌してやれば、十日や二十日は我慢しよるわ。まして今やお前の血は、なんでか知らん、栄養満点、霊力てんこもりみたいになってるで? 俺もいまだに腹いっぱいやもん。鳥さん、あんなに食うて大丈夫やったんか。今ごろ腹痛くなってたりせえへんかな?」
 それも気まずい話題やった。力が湧き出て、熱くなりすぎ、朦朧となってきて、ふと気がついたら、なんでか鳥さんとお膝抱っこでディープキスやってん。俺、いったい何してたんやろ。
 最後のほうは、さすがに意識あったんや。熱くて死にそうやったのが、段々楽になってきて、誰かとキスしてる。喉の奥というか、体の中にある、霊的などこかから、とろっとした水飴みたいなもんを舐めとられてる。
 現実の位相ではキスしてるだけやけど、また別の霊的な世界では、でっかい赤い火の鳥が、俺の湧き出る泉から、がぶがぶ水を飲んでいた。こんこんと湧く霊水や。甘い甘いって、鳥は夢中で食らってた。そしてどんどん熱くなり、白熱するような光を全身から発していた。
 俺はそれを、泉のほとりで眺めていた。
 なんという、美しい鳥や。霊威がみなぎっている。善か悪か、それは分からんけども、これはきっと、ただではすまん何かに育つ。水煙や亨や、おぼろにもあるような、高い霊位を感じる。きっと、神と崇められるに値するモノになるやろう。
 美しい鳥やなあ、お前は。寛太。俺のところで、神様になるか。
 俺はたぶん、そう誘った。悪い子やわ。血筋の悪い癖。イケてる神威を見つけたら、放っておかれへん。それが鬼にはならぬように、人に害を成さぬように、家に囲って、お前は神やと崇めて言祝ぎ、可愛がってやりたくなる。
 赤い鳥は泉のほとりで舌なめずりをして、煙るような目で、じいっと俺を見た。そのときはもう、不死鳥の姿やのうて、いつもの寛太の姿になってた。ただし服着てなかったけど。全裸やったけど。それについて俺のせいやと言わんといてくれ。不可抗力や。自然現象や。とにかく着てへんかったんやから、どうしようもない。
 虎がええわと寛太は答えた。
 先生も、確かに魅力的やけど、でも俺には兄貴がいちばん。先生がくれる愛も甘いやろうし、霊威もあるやろ。それでも俺は、信太の兄貴を放っておかれへん。自分が死んだら、アホの寛太はどないなるねんて心配やから、兄貴は今日も明日も生きてられるんや。
 俺は兄貴の心の支えやねん。
 俺を立派な不死鳥に育てて、神戸の恩に報いることだけが、自分にできる全てやと、信太の兄貴は信じてる。この街が、自分を虚無から救ったと、兄貴は思ってる。東海の果ての、この島が、どんな神でも受け入れる、神の戸がなければ、きっと兄貴は消え失せていた。そんな街がまた、なまずや龍に食われようとしていて、黙って見ている訳にはいかへん。
 兄貴がそう思うんやったら、俺はそれについていくし、兄貴がそうしたいんやったら、それでいい。だって俺も、信太の兄貴がおらんかったら、きっと消え失せていた。
 東の果ての島から、不死鳥を喚ぶ声がして、西方より飛来した。それは兄貴が言うように、神戸の人らの喚ぶ声やったんかもしれへんけども、俺には違うもんに聞こえてた。この街を、見捨てる神さんばっかりか。神戸を救う、フェニックスはおらんのかと、虎の叫ぶ喚び声がして、それに応えたまでや。兄貴の霊威が、虚無から俺を生み出したんや。
 もともと俺は、信太の兄貴と結びついている。せやし先生、誘っても無駄や。
 くつくつと、淫靡に笑って断る鳥は、俺から飲んだ霊水に、酔っぱらっているようやった。それでも甘い陶酔を感じられるのは、俺やのうて、虎と抱き合う時だけらしい。
 食い逃げされたわ。
 でもまあ、俺もそれで助かったらしいけど。鳥さん居らんかったら、どないなってたことか、想像するだに怖いというか、グロいけど。
 寛太が俺の身の内の、霊的な位相から、人界である現世のある位相へ、霊水を引き出す実地訓練をしてくれたお陰で、俺もその後、時の流れに溺れてもうて、死にかけていた竜太郎を、なんとか助けられたんやしな。必死やったし、意図的にやった訳ではないけども、そのコツみたいなのは、寛太とのディープキスで掴んでたわけ。気まずい気まずい。でも勉強になりました。これで俺のげきとしての技能の幅も、また一段と拡がったわけ。
「思うねんけどな……亨。別に血やのうても、ええんやないか。要するに、霊力が補給できればええんやろ?」
 瑞希に言うのは気まずすぎたので、俺は逃げてた。亨に訊いた。亨は微かに顔をしかめて、何を言い出す気なんやと、身構えているふうやった。
「そうやで……エロでもええけど、血でもいい。エロはあかんから、血にしとけいう話なんやで、わかってるか、ジュニア」
 亨はすでに喧嘩腰で、俺に凄んで見せた。凄む時にジュニアって呼ぶのやめろ。誰の真似やねん。真似すんな、水煙の! 俺が水煙の言うことやったら何でもハイハイ聞くのが、お前はそんなにムカついてたんか。
 しかしここで逆ギレするわけにはいかへん。俺は立場が悪すぎる。謙虚に謙虚に。
「いやいや、そやから……鳥さんが飲んでたヤツやったら、あかんのかと思って」
 俺はできるかぎり控え目に提案したが、亨はさらにムカッときた顔になっていた。
「お前は犬とチューしたいがためにそれを思いついたんやな!!」
 違う。違います。結局ギャアギャア喚いている水地亨に手を握りしめられたまま、俺はひいっとビビって目を閉じていた。睨み付けてくる亨様の熱視線を避けたかったけど、避けようがなかった。目をつぶってても感じるくらいに、視線が痛い。目からビーム出てる。アキちゃんもう殺さなあかん光線が。
「いやいや、チューやのうてな。ちょっと待ってくれ……」
 冷や汗だらだら。
 ぶっつけ本番やのに、上手くいくんかなあと冷や冷やしつつ、俺は試した。ちょっと思いついていた事を。亨と握り合わせてるほうの手を、俺はさらに強く握り返し、そこに何というか……念力をこめた。霊力をこめたというのか。うまく説明でけへん。
 俺もさすがに、この辺まで来ると、自分の持ってる霊力の使い方が、なんとなく呑み込めてきていた。自分の中にある、深い霊的な位相と、現世とを繋ぐ方法みたいなのが、とっさのマグレだけでなく、意図してでも、操れるようになってきていた。
 亨は握り返してきた俺の手に、びっくりしたように、ぴくりと指を震わせていた。そして、そのまま、気持ち悪いみたいな変な表情で、柳眉を歪め、俺を見上げた。
「なに、これ……? 熱いねんけど」
「手、開けてみてくれ」
「開けてって……ほんなら手、離してくれよ。熱いで……なんか、熱ッ……!」
 灼けたもんでも握らされたように、亨はとっさに俺の手を、振り払っていた。その手と手の合間から、ざらあっと何かが廊下にこぼれ落ちた。二つの手の平の間にあったとは思えへんような、大量の光る粒が廊下にぶちまけられて、瑞希もびっくりしたように、とっさに一歩飛び退いて、赤い絨毯の上に散らばった、百個か二百個はあるやろうという、潰れたビー玉みたいな、透明な光る粒を見渡した。
 ぷうんと甘い、桃みたいな香りがした。それは神仙の位相の香りらしい。霊的な。しかし、ただの人でも感じることができる。もちろん鼻の利く犬になら、くらっと来るほど濃厚な、甘い香りに思えたやろう。
「なにこれ!?」
 亨は気持ち悪いもんでも見たように、俺に寄り添い、その粒々を避けていた。
あめや」
 そのつもり。俺は自分の手の中に辛うじて残っていた五、六粒を、指を拡げて亨に見せてやった。怖々覗き込むように、それを見下ろしてきて、亨はそれから、俺の顔をじっと見上げた。
「なに……これ?」
「だから、飴やって。霊水の」
 それ以上、うまい説明を思いつかなくて、俺はちょっと怒った口調で答えた。
「はあ」
 亨は呆れたように俺を見た。
「水飴みたいやったやろ。鳥が食うとった時。せやし、もっと固めたら、飴みたいになるかなあ、と、思って」
「なったみたいなやあ」
 つんつん指先で、俺の手の平の上の飴玉をつついてきて、亨はそれが灼熱してないか、確かめたみたいやった。
「食うてみていい?」
「腹一杯なんやったんやないんか」
「スイーツ別腹」
 無限の胃袋を誇る水地亨が、アキちゃん特製・霊水飴の第一作目を味見してくれた。
 それでも亨は、指先でつまんだ一個を、怖々みたいに舌に乗せ、緊迫した顔で、その飴を舐めていた。こんなにシリアスな顔して飴玉食うてる奴、いまだかつて見たことない。
「美味いで……普通に。というか、相当美味いで」
 大きな目で、じっと上目遣いに俺を見上げて、亨は用心深く言った。
「そうか。お前も食うか」
 これならええやろと思って、俺は瑞希に手の平に載せた飴玉を差し出してやった。
 飴玉食うのが罪やなんて、いくらなんでも思うまい。
 せやのに瑞希は青い顔をしていた。そしてすぐには、手を出さへんかった。ごくりと唾を飲み込む仕草をしたところを見る限り、瑞希が飢えてんのは間違いないような気がした。甘く香る霊力の補給源を見せられて、ほんまはそれに飛びつきたいくらい。バケツ一杯でも食いたいぐらい。そんなふうに見えたけど、でも、躊躇っている。
「飴玉で、俺を飼おうっていうんか、先輩……」
 悲しいほど情けない。そういう声して、俺は瑞希に問われた。
 そういうことやな。結論として。そういうことになってしまうな。
 でも、俺は、心配やったんや。
 俺はお前を抱いてはやられへん。血を吸うのも嫌やと言うてる。そんなやせ我慢させてるうちに、お前が飢え死にしてもうたら、俺はいったいどうすりゃええんや。
 それに、こういう形やったら、俺が死んでも後に残せる。霊力缶詰みたいなもんやないか。ていうか、見た目の通りの飴玉やけど。これも俺の死とともに、溶けて消えてまうようなもんやろか。
 そうではない。これは純粋の霊力の結晶や。俺に由来するもんではない。確かに俺を通じて現世に取り出されたもんやけど、元をただせば天地あめつちの垂れるお恵みや。これをもとに人が生き、種が芽吹き、犬も飢えを満たせる。そういうもんや。
 現世のどこにでも、まんべんなくある力やけども、それが特に凝縮されている。それをやれるのはげきとしての俺の技やけども、飴を作った職人さんがたとえ死んでもうても、もう作ってある飴は後にも残る。それとおんなじ。
「これでも嫌か。飴が嫌なんか。なんやったらええねん。何でもええから食うてくれ。何でも出すから。精力尽きて消えてもうたら、どないするんや、瑞希」
 俺は頼み込む口調で訊いてた。ご注文はなんですか。この際、神通力でなんでも出します。出せるような気がします。ハンバーグ出てこい言うたら出てくるような気がします。ただの肉やない、霊力増強ハンバーグ。俺はそれくらいには天地あめつちに愛されています。今やもう、不可能はないような大盤振る舞いで。
「アキちゃん……見るに見かねて一応言うけどな……ワンワンは、メニューに文句言うてるわけやないで」
 飴玉食いながら、亨は情けなそうに忠告してきた。
 えっ。そうなんか。メニューのせいやないんか。甘いモンは嫌いとか、そういう理由やないか。そういえば瑞希、アイスは美味そうに食うてたもんな。甘いモンも食えるはずやで。
「飴玉やるから我慢せえて、それはちょっと鬼チックやない?」
 ひそひそ亨に忠告されて、俺は微かにブルブル来てる瑞希のほうを、焦って見つめた。
「いや、そういう意味やないよ。飯は食わなあかんやないか、瑞希。これは練習やから飴みたいな形やねん。一回目やしな。もっと修練すれば、違うもんも出せると思うで。お前が食いたいような何かをな。何がええんや。肉食いたいんか?」
「せやしメニューのせいやないて言うてんのに、アキちゃん……」
 俺も焦っていたけど、亨も焦っていた。瑞希はものすご静かに怒ってるみたいやった。わなわな来てた。なんでそんなに怒らせてんのか、実はアキちゃん、ちょっぴり分かっていません。飴、あかん? 不味そうやった? でも、亨は美味いて言うてんのやけど。飴は嫌いか、瑞希。
「飴でいいです!」
 むっちゃ怒鳴られた。一瞬ガラスがびりびり来るほどの強い霊波が走り抜け、俺も亨も、髪の毛びゅうってなびいてた。瑞希はぷんぷん怒りながら、俺のところに飴玉一個とりにきて、鷲づかむような手でそれをとり、ムカついてますという、眉根を寄せた伏し目がちな顔で、それを口に放り込んだ。
 舐めんのかと思ってたら、がりがり噛んでた。噛み砕く音が猛烈に怖い。歯が強いんやなあ、瑞希は。骨まで食われそう。
「もう一個食うか……?」
「この際、百個でも二百個でも食います。腹減ってんのやから!」
 ギャオーンみたいに叫ばれた。俺と亨はこくこく頷くのが限界やった。怖いなあ、案外怖い、瑞希ちゃん。服のせいもあるかもやけど、ちょっと神楽さんチックやないか。キレたらこんなんなんや、瑞希。キレてるときのほうが、ちょっぴりツボに来る俺は、そのことを誰にも秘密にしておくべきか。
「落ちてんの食えって言いませんよね。俺はほんまもんの犬のときでも、そんなことしたことないですから! 大事にされてたんやから。新しいの作ってくださいね」
 ガン見で言われ、俺はこくこくと、瑞希様に頷いていた。
 やっぱりお前、俺の前ではキャラ作ってたんやな。ほんまはこういう奴やったんや。わがまま犬やったんや。甘やかされたボンボンやったんや。それで俺もお前とは何となく、波長が合うというか、似たもんどうしやという気がしててん。可愛い、甘えたの弟みたい。可愛い可愛いって甘やかしてやって、ご機嫌とって、懐いてくれたら嬉しいなあというような。
 あかん! それはアキちゃんもう殺さなあかんコース。即刻、思考停止!
 飴作ろう。俺は今、飴職人。飴職人やから!
「アキちゃん、ネジネジのとか作れんの?」
 緊張感はないアホの水地亨が、まだ緊張してるような顔で、俺にそんなことを訊いてくれた。場を弁えろ、亨。ネジネジのなんか作れるわけない。そんな細部《ディティール》に凝らんでもええねん。
 でも、俺って、いっぺん凝りだすと、止まらんほうやねん。
 とぼとぼ部屋まで歩きながら、亨のリクエストに従って、赤と白のネジネジとか、ドラえもんの顔になってるやつとか、真ん中に穴が開いてて笛みたいに鳴らせるやつとか、いろいろ作らさせられた。
 それで分かったことやけど、俺は空想できるもんは、何でも作れるらしい。言うなれば、絵に描けるもんは、なんでも作れる。手から出すわけやから、富士山とかは無理っぽいけど、今のところ、飴細工の京都タワーまでは出せた。もちろん手の平に乗るサイズやで。問題はそれを、どないして食うかということや。食わへんかったら、有り難い天地《あめつち》の霊力を、無駄遣いしたことになってまうやろ。
 床にぶちまけてもうた飴も、どうしようかなと困っていたら、廊下のどこかから、カサカサと黒いダスキンみたいなのが、いっぱい現れた。それは掃除をしている式神らしかった。
 客が捨てたゴミやら何やらを、掃除して回っているらしい。小型犬くらいの大きさで、よく見れば、ふさふさの太い毛の奥に、一対のぎょろ目が隠れていたけども、形はただの毛玉で、手も足もない。転がるように現れて、美味そうにむしゃむしゃ飴を喰らいはじめ、美味いのあるでと仲間を呼んで、見る間に三十匹もいたやろうか。
 餌やっちゃった。別にええんかな。これってホテルの備品かな。まさかそんなわけないな。中西支配人がこんなの飼うてる訳ないもん。だって、どう見てもちょっと、漫画キャラっぽいというか、邪悪でフサフサのバーバ・モジャみたいやったもん。
 知らんか、バーバ・モジャ。
 バーバ・パパの子供で、黒いやつやで。俺、チビの頃、好きやってん。バーバ・パパの子供はいろいろ居るねんけど、黒いバーバ・モジャは、絵を描く子やねん。それで親近感があったんやろな。
 可愛いなあ、この黒いのも。ちょっと目付き悪いけど。半眼で、いつも恨んでるような目やけど、キモ可愛い。一匹もらってったらあかんかな。
 俺は拾い癖もあるんや。今ここで言うと気まずいから、言わへんかったけど、小学生ぐらいまでは、通学路に落ちてる犬とか猫とか蛙とか、欲しいねん飼いたいねんて連れて帰ってきては、戻してきなさいとおかんに怒られていた。生き物をそんな勝手に連れて来たらあきません言うて。好きが嵩じて化け猫みたいに化けてしもたらどないしますのんや、あんたは子供で、まだ自分では面倒みられまへんやろと、おかんは説教してたけど、それも今にして思えば、うちならではの普通でない説教やったな。
 でも結局、蛇と犬とは拾ってもうたわ、おかん……。もう、大人やし、ええか?
 ちゃんと自分で面倒見るから。
 ぷんぷん怒って、ねじねじの丸い棒付きキャンディーをぺろぺろ舐めてる瑞希と、笛飴吹いてる亨を連れて、部屋まで戻っていきながら、俺はうっすら反省していた。おかんの言うこと、もっと真面目に聞いといたらよかったな。そしたらイイ子になれてたかもしれへんのに。こんなダメな大人になっていくことも、なかったかもしれへんのに。
 俺はほんまに、もっと小さいうちから、秋津の家業に興味を持って、ちゃんと鬼道の勉強しといたらよかった。そしたら今、もうちょっとマシに働けたかもしれへんのにな。
 次に会うたら、大崎先生にも、ちゃんと挨拶して頼もう。おとんが四条河原で全裸《マッパ》に剥いてもうて済みませんでした。息子は真面目です。いろいろ教えてください、って。
 ばたんとドア開けて、部屋に戻ると、まるで平和なような夜やった。
 食いあぐねた京都タワーを、居間のコーヒーテーブルの上に建て、俺は風呂に入ることにした。禊《みそぎ》やで。だって、ほら。
 一応。初夜やから。
 考えんようにしていた件について、俺は嫌でも考えた。
 もしかして、水に浸ければ人型に戻るかと期待して、貝殻のバスタブにぬるま湯を張り、そこに浸からせた水煙を、じっと見つめてシャワー浴びてる間じゅう、なんか悶々とした。
 水煙は、ぴくりとも動かず、泡ひとつ吐かず、太刀のまんまやった。
 意地でも変転するもんかと、気合い入れてるようやった。
 レストランで亨にピッチャーの水かけられた時は、そのショックで簡単に人型に戻ってたくせに、変転せえへんと決めたら、水煙は変転しないらしい。
 入浴作戦は完全なる失敗に終わった。
 もしかして人型になるかと思って、一緒にバスタブに浸かるかどうか、ちょっと迷った挙げ句に、恥ずかしいからシャワーを選んだ俺やったのに。
 もしかして、一緒に浸かれば良かったか。それやったら何か、別のコースへ進めたやろか。
 でもやっぱ、水煙と同じ風呂に浸かるというのは、恥ずかしい。なんでやろ。朧《おぼろ》様との泡風呂を、思い出してまうからかな。
 ほんま言うたら一緒に寝るって、同じ布団に入るのも、わざわざやるとなると、俺は恥ずかしい。変やないかと思えてもうて。
 それにもし、水煙が布団の中で、急にまた人型に戻る気になったら、どうしようか。恥ずかしい。なんでやろ。俺は一体何を、意識してんのか。
 何もせえへんで。ただ抱っこして寝るだけや。それでええんやと思うんやで。
 だって水煙はずっと、太刀の姿やったんや。おとんと過ごした期間、ずうっとそうやったはず。おとんは剣の形の水煙を、ただ抱いて寝ただけや。剣とは、それ以上のことはでけへんはずやろ。せいぜいが冷たい刃と、肌を合わせて寝るだけや。
 俺もそれをやるだけ。ただの儀式や。形式的なもの。先祖代々、それをやったというんやったら、俺がやるのも、形だけの初夜の共寝や。
 たぶん、そんな真似事で、家の守護神である神と、ちぎりを交わしたということになるんやろう。儀式や。ただの儀式。
 儀式やからと、俺は自分に言い聞かせていた。
 今夜は、寝るだけ。
 ほどほどに、鳥さんに抜いてもろた後やしな。それに亨も瑞希も、飴食うて満腹なってきてるらしい。人間やったら飴玉くらいで、腹は膨れへんけども、相手は式神なんやし、霊水でできた飴やから、それで満たされる。
 今晩はお預けでも、我慢できるやろと、亨に訊くと、それでもぶうぶう言われた。
 腹は満ちても、胸は切ない。そういうことらしい。
 そう言われると弱い。可愛い奴やと思うてしまう。アキちゃん病気なんやから。お前らは腹いっぱいでも、俺は違うから。基本、みなぎってもうてんのやから。亨と昼エッチしたきりなんやから。したい言われたら、したいねんて。
 アホか。一日一回すればええやろ、俺。ほんま変やから。蛇の毒がどんどん回ってきてる。元はそんな、毎日何度もせなつらいというような、無茶苦茶な男やなかったんやで。それはほんまにそうやで。自己弁護やけども。
 だけど、もうだめ。完全にアウト。やりたいというより、寂しい。亨と抱き合ってから眠るんでないと。物足りない。暇さえあれば、いちゃついてたい。絡み合う、二匹の蛇のように。
 しかし今夜は我慢やで。禁欲。近頃、俺の辞書から消えていた、この慎み深い単語を、再び取り戻さんとあかん。
 犬にも餌やって、もうすることないし、早寝しよかと、亨は俺といっしょに寝るつもりらしかった。添い寝やで。なんでそんな生殺しみたいなことをするねん。
 見張るんやって。俺が水煙と妙なことをしないか。信用でけへんから傍で見張るんやって。ありがとう、なんて強い信頼関係で結ばれた二人や。
 瑞希ももう寝ると言っていた。疲れたし、久々で腹も満ちたし。眠りたいと言って、犬はどことなく暗く、もじもじしていた。どこで寝たらええか、分からんかったからやろ。
「ほんなら俺が右で、犬は左な。ただしアキちゃんに抱きついたら殺すからな」
 パジャマ着ている水地亨を、俺は初めて見た。ホテルのやけど。だってそんなん、持ってきてるわけない。こいつ、持ってへんのやから、パジャマなんか。
 ヴィラ北野の備え付けのパジャマは、もちろん趣味のいい、地模様のあるオフホワイトで、下は普通のパジャマのズボンやけど、上は着物みたいな前合わせになっていて、細い布の帯を結ぶ様式やった。着物でなく、ローブやからと、亨には訂正された。
 着心地のいい、てろんとした木綿で、よく眠れそうやった。俺は相当背が高い部類やと思うけど、ちゃんとサイズの合うのが用意されていた。日本人でない客も泊まるんやから、でかいサイズもあるってことやろう。
 種明かしをすると、それをチェックインのときにフロントのお姉さんが確認して、客を部屋に案内する前に、ハウスキーピングの担当者にサイズを伝えるらしい。小柄な人なら、Sサイズ。でかい奴ならLサイズ。例え、めちゃめちゃ太ってても、泊まった客がパジャマ着るとき、すんませんけどサイズ合わへんて、わざわざ電話せんでもええように、ぴったり来るサイズを揃えてあるらしい。
 いつの間に見抜かれたんか、部屋のクロゼットの引き出しには、四人分の寝間着が用意されていた。二人で宿泊してる建前やのに、そこに実は四人いるなんて、なんでバレてんのやろ。お見通しなんや、何もかも。
 せやからシャワー浴びてきた瑞希も、ちゃんとパジャマ着てたよ。三人お揃いなんやで。客観的に見てアホみたい。正直恥ずかしい。良かった、この際、水煙が太刀のままで。四人目がいたら恥ずかしすぎた。どんなパジャマパーティーやねん。しかもその全員と一緒にベッドに入るやなんて。
「ぜんぜん眠くない……」
 ふとん入って、俺はぼやいた。天蓋に鏡までついていた。緊張で青ざめた自分の顔が、そこから俺を見下ろしていた。
 眠いどころか、むしろギンギンに目が冴えている。この物凄い状況で、しかも素面なんやから。
 俺は自分の胸の上に、水煙を抱いて寝ていた。もちろん抜き身や、鞘がない。危ないから、なんか巻いたらと、亨には忠告されたけど、何とはなしに、刀身が素肌に触れてないとあかんような気がして、結局そのまま。まさか水煙が、俺を斬ったりはせえへんやろう。そういう期待と、信頼で。
 そして、その右隣に亨がごそごそしていて、瑞希は反対の端っこで俺に背を向け、小さくなっていた。こいつも緊張してるらしかった。変な感じがするんやろ。
 変な感じなら、俺もする。どうしてええやら、わからへん。恥ずかしいような、胃が痛いような。
 いつもやったら、さあ寝よかという時には、やんわり亨と抱き合うて、何かぶつぶつ話しているうちに、俺はことんと寝てしまう。大体疲れてるし、甘く暴れた後やから、くつろいでいる。こんなにギンギンに緊張していることはない。
 朝になったら、肩凝ってるんやないか。それどころか全身が筋肉痛で痛いとか。それくらいのことは確実と想定される。
 今からでも遅くない。浴びるほど酒飲んでこようかな。ぐでんぐでんになるまで、酔ってこようかな。それは失礼なのか。祖先伝来のご神刀と初夜を過ごすのに。
 失礼というなら、今のこの状況かて、十二分に失礼やろう。だって右に蛇、左に犬で、それと一緒に初夜の儀式やで。二人っきりやないんやで。四人なんやで……。
 俺は後悔した。変に気兼ねせんと、フロントに頼んで、あと二室とってもらって、今夜だけはと、亨と瑞希には、よそで寝てもらえばよかった。どうせ怪しい神通力で、部屋数はいくらでも増やせているらしいヴィラ北野やった。今から突然でも、きっと空き部屋はあったんやろうに。
 でも、もう、言いにくい。今さら出ていけとは。パジャマやねんし。
 寝よう、寝ようって、俺は自分に必死で暗示をかけつつ、目を閉じて、羊の数を数えてみていた。そうすれば眠れるって言うやんか。
 脳裏の暗闇を、もこもこした白い、顔は黒い羊さんたちが、めええ、と鳴きながら、ぴょんぴょん放物線を描いて跳んでは消えた。跳んでも跳んでも、一向に眠くなる気配はなかった。
 それどころか、めええ、言うてる声が、ものすごリアルに耳につく。なんでや。俺ちょっと、想像しすぎやないか。
「うるさいで……アキちゃん。羊数えんの、やめといてくれへんか」
 うんざりしたような、笑いを堪えた声で言い、亨は俺から離れた俯せのまま、枕を抱きしめていた。
「口に出して数えてたか?」
 そんなつもりはなくて、俺はびっくりした。
「いや。窓の外を、羊が跳んでるのが見えてる」
 さらにびっくりして、俺が身を起こすと、寝室の窓から見える神戸の夜に、確かに俺が想い描いたとおりの、もこもこで白い、顔は黒い羊が、めええと鳴きながら、ぴょんぴょん跳んでは消えていた。
 ……やばい。俺は。前にも増して注意が必要になった。
 あかんあかん、消えてくれと、羊さんたちに祈ると、それはふっと終わった。窓の外にはもう、羊は跳んでない。三階やのに。どんな凄い跳躍やったのか。もし誰か見てたら、きっと大騒ぎになっている。もう、なってるのかもしれへんし、それとも今ここに泊まっている客は、みんな普通ではないんやから、誰か眠れへんのやなと、ただそう思っただけやろか。
 ぼふっと枕に戻った俺に、亨はくすくす笑っていた。
「噛んどこか、アキちゃん。緊張して寝られへんのやろ」
 ちくっとするけど、すぐ眠れるでと、亨は勧める口調やった。
 俺はそれに、頷いた。
 もう、それしかないわ。そうやって眠ろう。明日は可哀想やけど、瑞希には別の部屋をとってやろう。こいつもそのほうが、きっとくつろげるやろう。こんなふうに眠らされるよりは、いっそそのほうがええわ。
「堪忍してくれ、瑞希。いろいろ想像力が足らんかった。明日はお前の部屋を別にとるしな。今夜だけ、辛抱してくれ」
 蛇の鋭い毒牙を受ける、その前に、俺は瑞希にそう詫びた。
 瑞希はすぐには、何も答えへんかった。まさかもう、寝てもうたんかな。しんどいみたいやったし、やっと飢えも満たされて、案外ほっとして、もう眠りに落ちたんやろか。
 そんなわけはない。俺と違うて、瑞希はそんな鈍い奴やない。こいつはこいつで、繊細なところもある犬や。
 しばしの沈黙の後、堪えられんかったように、瑞希はこちらに背を向けたまま、ぽつりと呟いていた。
「辛抱できへん、先輩」
 それが痛恨の極みというように、絞り出された小声やった。
 俺の首筋に牙を突き立てようとしていた亨が、ふとそれを止めるのが感じられた。代わりに温かい息遣いが、首筋に触れて、俺はそこはかとなく、悶えたいような心地がした。
「血が欲しいんです、先輩の。大阪で、ひとくちだけ、舐めたやろう。あれの味が、忘れられへん。三万年経っても。俺は結局……外道やねん」
 こっちに向けられた背が、苦しそうに丸くなっていた。俺は横目に、それを眺めた。小さい背中に見えた。まだうっすら濡れたままの髪が、ちょっと巻いてて、ふにゃっとしてて、洗ったばかりの、可愛い小さい犬みたい。
「我慢できると思ったんやけど……我慢でけへん」
 震える声でそう言って、瑞希はほんまに震えているようやった。
「出ていっていいですか、今すぐに。部屋なんか要らんしな。明日にはまた戻ります。戻ってきても、いいんですよね?」
 出ていったらもう、自分の居場所なんか無くなるんやないかと、震えてるような声で、瑞希はぼそぼそ訊ね、こっちを見ようとはせえへんかった。見たくなかっただけかもしれへん。亨と俺が、寄り添っている気配が、背中越しにも分かるんやろう。
「血、吸えば、ワンワン。それは我慢はでけへんで。お前、天使やめようと思って、アキちゃんに血を吸わせたんやろ。せやし、感染してもうてんのや。吸血したい、蛇の血に」
 苦笑して、亨は俺の肩に寄り添い、瑞希の背中に話しかけていた。
「大したもんやないで。アキちゃんかて吸うんやで。ラジオも吸うしな。水煙も吸うの?」
 確信はなかったけど、疑ってはいたという顔で、亨は俺に意地悪く訊ねた。
 そうかと訊かれれば、嘘をつく訳にもいかへん。しょうがなくて、俺は小さく頷いた。
 俺は水煙に血を吸われた。みんな吸うらしいで、大概の外道は吸うんかもしれへん。人の血は美味いらしい。まして巫覡ふげきの血となると、それは契約の代償でもある。給料みたいなもん。みんなそれが楽しみで、仕えてるんやって。ご主人様の血を貰うのが。大食らいなのと、小食なのと、そんな違いはあるやろうけど、とにかく人の血肉は、外道の好物や。
「やっぱそうか。俺に隠れて吸うてやがったな。この野郎」
 こんこんと水煙ののある刀身を拳で叩いて、亨は怒ってんのか、冷やかしてんのか、よう分からんような言葉を浴びせた。それでも水煙は、しいんと静まりかえってた。
「みんなそうや、瑞希ちゃん。お高いような水煙様でも、アキちゃんの血は吸うんや。それは雇用条件に含まれてる。福利厚生やで。出ていきたいんやったら、出ていけばええけど、吸いたいんやったら、吸うていけば?」
 亨はもう、毒食えば皿までみたいな気分やったんかな。ヤケクソみたいな大盤振る舞いやった。
 それでも渋ってる、ちっさい犬の背中を見て、亨はふふんと、小さく嘲笑っていた。
「あかんの。ほんで、どないすんのや。よそ行って、誰か他のを探すんか。さそうな男見つけて、一晩抱いてもろて、血もくれって強請るんか。やめろ。お前にやらせたら、あっというまに吸血鬼ヴァンパイアだらけなってまうから。また狂犬病んときみたいな社会問題になるで」
「そんなんせえへんわ!」
 血相変えて、瑞希が寝返りを打った。
「そんなんしません。ほんまです。……俺をなんやと思うとんのや!」
 悲壮なふうに俺に言い訳をしてから、瑞希は亨に怒鳴ってた。それでも亨は、犬が吠えかかったくらいでは、怖くもなんともないらしい。にやにや笑ったままやった。
「なんやって、ケツに締まりのない牝犬ビッチかと。だってこいつな、やらせろいう男なら、誰でも突っ込ませてやってたらしいで、アキちゃん」
「アホ! そんな話すんな!」
 真っ青になって、瑞希は亨を黙らせようと、さらに怒鳴ったけど、蛇は知らん顔してた。
「可愛いふりすんな、牝犬ビッチめ」
「うるさい、俺はおすや!」
 悔しいみたいに瑞希は反論してたけど、それは全然、反論になってない。俺は頭上を飛び交う話に、ますます胃が痛くなってきていた。やめてくれ、寝入りばなにケンカすんのは。寝られへん。
「雌でも雄でも同じようなもんや、瑞希ちゃん。この犬畜生が。お前の素行の悪さは、もうバレとんねん。大阪の事件のときに調べはついてる。アキちゃんも俺も、水煙も、どうせ皆もう知ってんねんで? 今さら何を、可愛い子のふりしようというんや」
 ねっとり嫌みったらしい口調で言うて、亨はにやにやしていた。お前もな……何も今、言わんでええやん。瑞希、泣きそうなってるやんか。可哀想やと思わへんのか。
「そんなんしません。ほんまにもう俺は、悔い改めた。罪の報いも受けました。前とおんなじやと思わんといてください」
 俺に縋ってええんやったら、縋り付きたいみたいな顔をして、瑞希は身を寄せ、そう訴えかけてきてから、ふと、ものすご遠い目をした。暗い目やった。俺を見つめる大きな目が、灯りを消した部屋の中でも、爛々と光って見えた。金色がかって。
 白い喉が、ごくりと留飲するのが見えた。
 瑞希の目は、亨がすでに縋るように、寄り添っている俺の、首筋のあたりを見ていた。
 そこに脈打つ血の流れが、耳のいい犬には聞こえたやろか。それとも、亨が赤い唇で、俺の首筋をなぞり、ちろりと濡れた舌を出して、そこを舐めるのが、辛抱たまらん光景やったんか。
 瑞希はきつく目を閉じて、顔を背けた。
「どこか変わったんか、瑞希ちゃん。相変わらず欲しそうな目えして。前にも増してよだれ出そうな顔してるで。欲しいんやろう、分かるよ。俺もしばらくは我慢したんやけどな、アキちゃん、ええ匂いがしすぎやねん。血が匂う。美味そうやねんなあ……」
 くんくんするように、俺の首筋に鼻先を擦り寄せて、亨は首を巡らした俺と、上目遣いに見つめ合った。
「アキちゃん……俺も欲しい」
「またか……? 昼間も吸うてたやろ。どんだけ吸うねん」
 照れて、俺は小声で囁いてきた亨に、慌てたような小声で囁き返した。それでも無意味や、しっかり聞こえてる。瑞希も耳はいいほうや。
「寂しいねん。ちょっとだけやし、吸うてもええか。寝酒代わりに、酔いたいねん。我慢するしな、今夜は、アレのほうは。せやし代わりに、血吸わせてえな」
 血の道をなぞる、亨の指先の、いかにも誘うような感触に、俺は全身粟立っていた。誘惑せんといてくれ。どっちが我慢させられてんのか分からへん。基本、エロやねんから、水地亨は。むらむら来るんやから。そういう妖怪なんやから。ほんまは隣で寝てるだけでも、大我慢大会なんやからな。
 つらいつらい。何も無しじゃつらい。
「吸いたきゃ吸え!」
 照れ隠しに怒鳴り、俺はやんわりと寄り添ってくる亨に、顎を逸らして自分の頸動脈を見せた。本日二回目やで。みなぎってるからええようなもんの。俺はお前らの血液バンクか。血を作るために飼われてんのか。どっちがご主人様かわからへん。ほとんど家畜みたいなもんなんとちゃうか。
 そう思うのは、昼間は昼間で、おぼろ様に美味い美味いと血を吸われたからやし、夜は夜で、亨はもちろんやけど、瑞希も我慢でけへんらしかったからや。
 ぺろりと冷たい感触のする舌で、俺の首筋を舐めてから、亨はざっくりと無遠慮に、牙を突き立ててきた。ちくりで眠れる言うてたくせに、それはがっつり本気で吸血するつもりの、牙の入れ方やった。
 我慢できずに、俺は呻いた。低く喘ぐような声やったかもしれません。我慢できへんねんて、気持ちええねんから。なんか毒がついてるんやで、きっと。亨の牙には。気持ちよくなるような麻薬が出てる。俺のにもあるんかもしれへん。だって亨が気持ちええらしいから、俺に血を吸われると。
 甘い陶酔がある。
 背けた顔が、瑞希のほうを向いてることは、一応、意識はしてた。我慢はした。堪《たま》らんという顔をするのは。我慢したつもり。それとも、できてなかったか。
 ぺろぺろ舐めてる舌が、首筋に触れるのが、つらい。自分も襲いかかりたくなる。亨を押し倒して、滅茶苦茶やりたい。
 畜生。わざとやで。絶対、亨はわざとやってる。人を幻惑する術が、こいつの得意技なんや。エロくさく淫靡に誘って、死にかけ男でもたせてみせるって、それがこいつの生き甲斐なんやないか。
 亨の手が、布団の中で、俺の太腿を撫でていた。我慢できるか、そんなもん。
「もう……もう、ええやろ、亨。味見程度で……」
 もう、つらいって、俺は亨を押しのけようとした。それに、くすくす笑って、亨は珍しく諦め良く、牙を抜き取った。もともと腹も減ってへん。今夜は余裕があるらしい。そらそうや。昼間に一度だけとはいえ、ちゃんと抱き合うたし、血も吸うたし、そのうえ飴まで喰らうてんのやで。それで腹減ってたら変やで。
 それでもまだまだ吸いたいみたいに、亨は俺の首筋の傷が塞がるまでの一瞬に流れ出た血を、美味そうにぺろりと舐めとっていた。
「こうやって吸うんやで、瑞希ちゃん。牙無いか。あるやろ、ワンワンやねんから。お前ももうちょっと練れてたらなあ。吸うてる間、アキちゃんを、気持ちようしてやれんのやけど?」
 血の付いた唇を舐めとりながら、亨はくすくす笑っていた。悪魔サタンみたいに。血を吸う悪魔やで、こいつは。確かにそうやわ。今まで気がついてなかったけど、考えてみれば実に悪魔的や。
 ただそれが、俺にとっては辛抱たまらん、愛しい悪魔やというだけで。
 抱き合って吸血している姿を眺め、瑞希の呼吸はひどく乱れて見えた。
 うちでは吸血は、ゴハンやし。性行為ではない。飯食うてるとこ見られても、恥ずかしくないはず。
 せやのに俺は恥ずかしかった。昼間に二人がかりで吸われた時も、実はけっこう恥ずかしかった。恥ずかしいような快感やった。
 瑞希に見られて、恥ずかしかった。穴があったら入りたい。お前に偉そうなこと言うたところで、俺もそうやで。外道やねん。蛇で悪魔サタンの水地亨に、吸血されて、堪えきれずに喘ぐ。そういう、ダメ男やねん。
 お前のこと、罵ったりせえへん。血を吸うぐらいでは。
 誰でも彼でも吸うのはまずい。確かに亨の言うとおりやわ。これって感染するんや。
 そうやな、吸血鬼ヴァンパイアってそういうもんやったよな。血を吸うと、その相手にも、血を吸う属性がうつる。一回二回吸うたぐらいで、あっというまに吸血鬼って訳ではないらしいけど、何らかの人でなしの傾向は現れる。なんせ外道に噛まれるんやからな。少なくとも、その味を、忘れられへんようにはなるやろ。亨みたいな奴が来て、がぶっと噛んでいったら。もう一度と、その相手を求めるようになる。この美しい白い顔の、とりこにされてしまう。
 また瑞希がハーレム作ってたらどないしよ。それは自由やけども。そこからネズミ算式に吸血鬼ヴァンパイアだらけになったりしたら、俺のせいなんや。我慢させなあかん。
「作法があんねん、瑞希ちゃん。外道として生きていくにも。人間様と仲良う、当たり障りなくやっていきたいんやったらな」
 まだまだ俺に絡みついたままの、どこか淫靡な媚態のままで、亨は瑞希を見やり、教えてやっていた。
「どうしても血が欲しいてたまらんのやったら、アキちゃんのにしとき。こいつなら、吸いすぎて死ぬってことはない。ダムみたいなもんや。今や、お前ひとりでは吸い尽くせへんぐらいの霊力は持ってる。でも、普通の人間から夢中で吸うたら、失血死させてまうかもしれへんで。急にいっぱい血をなくすと、人間てショック死することもあるねん。それやのうても、外道に血を吸われるなんて、ショックやねんからな?」
「そんなんしたくないんや、俺は……」
 すでにもう、あからさまに諭す口調になっている、亨の話を聞きながら、瑞希は悲しい顔やった。その顔を見られんのもつらいみたいに、瑞希は横たわったまま頭を抱えていた。
 やれやれと、亨はまたため息ついてた。
「ほんなら天使のままで居ったらよかったのに。お前の大好きな本間先輩は、とっくの昔に俺のしもべで、血を吸う外道に堕ちてもうてんのや。穢れんのが嫌やて言うてたら、付き合うていかれへん。どうしても嫌なんやったら、愛想つかして出ていけばええよ」
 いかにも面倒くさそうに、亨はぶちぶち言うていた。
 それにも瑞希は嫌やって、小さく首を振って拒んだ。出ていきたくはないんやろ。
 でも、それなら、どないしたらええんやろ。血は吸わんでも、食う宛はできたから、ええようなものの、ずっと血吸いたいの我慢しとくのか。我慢できるもんなんかなあ。
 俺はできへん。我慢強さには自信あるけど、それでも無理やった。我慢も限界になってくると、気が狂いそうになる。血が吸いたくて。
 亨が言うには、そのうち慣れて、そこまでがっつかへんようになるらしいけど、俺はまだまだこの道に堕ちて日が浅いんで。まだまだお盛んなんやって。
 けど、それを言うなら瑞希も同じやろ。
「なんで嫌なんや……瑞希」
 訊いてええんか遠慮しつつ、俺は訊ねた。
「嫌われたくないねん、先輩に。お前は鬼やって、また思われたくない」
 俺はお前にそんなこと言うたっけ。大阪で、そう言うてたか。お前もそれに傷ついてたんか。水煙みたいに。
 それは確かに、まずかったかもしれへん。たとえそれが事実でも、口に出したらあかんかったのかもな。しかしそれは、鬼斬りをするげきの、最後通告や。そうでなければ神を斬るのは畏れ多い。鬼になってる、もう助けられへん。だから斬るんや、分かってくれという意味や。
 お前が憎いという意味やない。泣いて斬るんや。おとんもそう言うてたやろ。せやけど瑞希は、そんなこと知らんのやもんな。俺が自分のことを嫌いやから、そう言うてんのやと思ってたんやろ。
「お前を嫌いになんかならへん。それくらいでは」
 血を吸うぐらいでは。
 ほんま言うたら、あの時も。夏にお前が病気になって、苦しい言うてた時も、疫神を祓ってやって、俺の血をやって、精力つけさせて、元気な体に戻してやれるんやったら、俺はそうすれば良かった。そんなことになってると、そんな方法があると、全然知らんかったから、あんなことになってもうたんや。
 言うなれば俺が未熟やったせいで、お前は死ぬ目にあった。他にも大勢死んだ。お前は人を、餌として、殺す羽目になった。俺がもっとしっかりしてれば、何てことない、無難なコースに行けたのに。
 その悲劇の起点は、俺が鬼道の家の子でありながら、それは嫌やと拒んできた、そんな甲斐性の無さにあったんや。もっと小さい頃から、おかんに学んで、あるいは大崎先生につんけんしたりせず、ちゃんと師事して、自分の歩むべき道を歩いてきてたら、簡単に防げた事やったかもしれへん。そもそも下手に疫神の絵なんか、描いたりせえへんかったやろ。
 今こうして、お前が血を吸う外道に堕ちたというんやったら、それは全部、俺のせいなんやで。なんで俺がそれを理由に、お前を嫌いになれるんや。
 そういうつもりで、俺は瑞希に言うた。
「俺の血を吸うて、お前がそれで、いくらか満足するんやったら、俺も嬉しい。他にしてやれることが何もないしな」
 何もない。そう言われて、瑞希は濃い睫毛のある目蓋を、微かに震わせていた。
 そうやで。何もない。俺はもう、お前を抱いてやられへん。そんなつもりない。俺はもう、亨をつらい目には遭わせたくない。
 自然に妥協でけへんのやったら、お前にも、主人として命令せなあかんやろうか。俺のことは、ただの主人やと思え。恋愛対象にするな。忘れてしまえと、力づくでも命じるか。
 もう、そういう覚悟を決めなあかん。
 だって俺は、もうすぐ死ぬかもしれへんのやから。
 想いのあるまま、後に遺されたら、しんどいでと、おぼろ様も言うていた。確かにあいつは苦しんだやろ。おとんは酷い鬼やった。
 捨てていくなら、俺を忘れろと、命じていけばよかったんや。そしたらおぼろも苦しまへんかった。もうちょっと楽に生きていたやろう。おとんを追って、広島行ったりせえへんかった。それで助けられることになった人らが、助からんことになってたかもしれへんけども、それでもおぼろは気にせえへんかったやろ。
 いいや、そのコースではもう、あいつはおぼろではない。湊川怜司や。もう、お月さんのことは忘れた。月に寄り添う龍ではない。ただの、酷薄な、噂をさえずる雀に戻る。あるいは、血も涙もない鬼に。
 そう思うと、俺の目は泳いだ。
 結局、どっちが幸せなコースやったやろ。湊川怜司にとって。人界にとって。
 俺がもし死んだら、亨はどんな神になるんやろ。水煙は。瑞希は。俺を忘れた後、どうやって生きていくんやろ。
 まるでそんな男なんか、はじめから、居らんかったみたいに?
 それなら、それでもいい。俺はつらいけど。お前がつらくないんやったら、そのほうがええやん。俺は鬼やし、瑞希には、つらい思いばかりさせてきた。そんなんは、もう、終わりにせなあかん。
 でも、お前はまた、血に飢えた外道に、戻るのか。人を喰らって、生きていくのか。それはまさに、鬼やないのか。俺はまた、お前を鬼に戻しただけか。
 もう耐えるのがつらいという顔で、瑞希はゆっくりと俺のほうに、腕を伸ばしてきた。たぶん、血を吸いたいんやろ。
 吸うてええよと許すように、俺は自分の首筋を見せてやった。亨が吸うた傷痕は、もうとっくに塞がっていて、痛みもしない。
 瑞希が躊躇う乱れた息で、牙のある唇を開くのが分かった。亨は俺の肩に自分の額を擦り寄せて、じっと静かに抱きついていた。たぶんそうして、堪えてんのやろ。何かを。
 亨は俺が、自分の胸の上で、ほとんど重さのないような太刀を抱いている手に、自分の手を重ねてきた。手を繋ぎたかったんやろう。いつもやったら俺が包んでやっている手を、この夜ばかりは亨のほうが、やんわりと包んでくれた。
 ずきっとするような、身の引きつる痛みが、首筋に湧いた。瑞希が噛んだらしい。俺は呻くのを堪え、目を閉じていた。
 痛いと言うたら、瑞希はびっくりして、やめようと思うやろ。牙やいうても、こいつは犬神なんやしな。犬は本来、血なんか吸わへん。肉は食うかもしれへんけどな。せやし犬歯は、肉を引き裂くための牙やで。蛇の眷属が持っているような、細く鋭い牙やない。
 水煙やおぼろに吸われても、大して痛いと思わへんかった。むしろ心地よいような。
 それはあいつらが、みんな蛇の眷属やからやねん。ここまでの話を聞いてきてたら、分かるやろ。みんな蛇やで、水と関わりのある神や。それが秋津の家風やねん。水ものと相性がいい。
 そやのに瑞希は燃えるような犬で、ほんまに貪るようやった。血の味が舌に触れると、ほんまに辛抱たまらんかったらしい。俺を食ってた。肉こそ貪らんかったけど、傷口に触れる舌には容赦がなかった。
 こいつに貪り食われた人たちは、きっと痛かったやろう。生きるためやし、仕方がない。そうしないと死んでまうから、瑞希は人を食うてたらしい。
 人間にはもう、天敵と言えるような捕食者はいない。それでも熊とか、虎とか豹とか、狼とか、山犬とかな、人食うモンはちょっと前まで、いくらでもいた。それを神と畏れつつ、人は生きてきたんや。時には生け贄を捧げ、時にはそれを鬼として、戦いを挑んだ。その歴史が今も、様々な神の姿に遺されている。虎の信太が霊獣やというのも、その一種やろう。怖ろしく強い、人でも喰うようなけだものやから、虎は神なんや。
 人間もちょっと前までは、自然の一部やった。食うたり食われたりしていた。
 それがこんな時代になってもうて、人食うやつらは鬼やと、返り討ちにあう。神やと崇めてもらうこともない。ただの鬼畜生。ぶっ殺されて終わり。そんなふうになってもうて、神さんたちも弱ったやろ。
 俺はそういう時代の神官や。弱りゆく神々を、お守りせなあかん。それが全部死に絶えてもうたら、人の世も終わりやないかという気がするねん。不思議なことが何もなくなってもうたら、つまらへんやろ、世の中は。
 信じようが信じまいが、人界に神はいる。皆の隣にいつもいる、ぱっとせえへんオッチャンも、実は神かもしれへんで。動物園にいるライオンやキリンが、実は獅子ししとか麒麟きりんのような、霊獣なんかもしれへん。
 隠してるだけや、神として、鬼としての正体を。現代人の受け入れやすい形に、変転しているだけやねん。形を変えても神は神、鬼は鬼やで。昔と変わらず、すぐそこにいる。
 せやけど俺は生憎、耽美派でなあ。美形が専門やねん。お前は美しい神やと、うっとり来るようなのしか、愛されへんねん。虫とかは勘弁。ヴィラ北野の廊下で、蟷螂かまきり連れてる巫女さんは見たけど、ああいうのは俺にはついていかれへん世界すぎ。虫はあかんねん昔から。キッチンの隅に現れるジーとかな。黒とか茶羽根のあいつ。見かけたら本気の殺意で戦いを挑んでしまう。名前を言うのも穢らわしいわ。あかんあかん、呼んだら出てくるやないか。言霊や。
 せやけど心配いらへんで。霊振会には、いっぱい巫覡ふげきが居るんやから。どんな神さんでも、誰かがちゃんとお祀りできる。皆が皆、面食いというわけやないんやで。俺が特に、ひどいだけ。それが秋津の家風やねん。
 美しい犬やと、必死で血を舐めている、瑞希の汗ばんだ顔を見て、俺は思った。お前が戻ってきてくれて、嬉しかったわ、俺は。
 それが自分の死ぬ直前の、最後の最後だったとしても、少しは罪滅ぼしができればええのにと、俺も願ってた。もっと本格的に罪を滅ぼせたら良かってんけどな、それをやると、新しい罪が芽生えるから。たとえば今、俺に縋り付いている亨が、ひっそり妬いてるようなのも、ほんま言うたら可哀想。黙り込んでる水煙が、もしかすると今も、苦痛に耐えてるかもしれへんことも、あまりに哀れや。
「亨……眠らせてくれ。瑞希はほっといてやって。吸いたいだけ、吸えばええから」
「死にそうなったら止めとくわ」
 俺の胸に、強く頬を擦り寄せて、亨は嫌みったらしく、そう言うた。でもその声にある強い愛情の気配が、可愛げのない囁き声も、可愛いように響かせた。
「なあ……アキちゃん」
 ちくりとやるため、身を起こし、亨は犬にじゃれつかれている俺を、じっと澄んだ目で見つめた。
「水煙のこと、好きか」
 切なそうに、亨は俺にそう訊いた。訊かなくても、知ってんのやないかと思えた。
 でも訊ねられたら、俺は答えなあかん。俺の神さんが、そう訊いてんのやし、嘘はつかれへん。
「好きや」
 痛いなあって、少し朦朧とした。自分も痛いけど、瑞希に食われんのもけっこう痛い。
「俺より、好きか」
「……いいや。お前のほうが好きや」
 少し考えてから、俺は心に湧いたとおりの答えを返した。
 亨はそれに、やんわり微笑んでいた。
「それでも好きなんか。水煙とか、この犬が?」
「そうや」
 俺はぼんやりと、そう答えた。そこが難問やねん。
「それは……困ったなあ……」
 苦笑して、亨はそう、感想を述べた。俺は視線だけで、それに頷いた。
 困ったなあ。俺はいったい、どないしたらええんやろ。
 どないしたらええか、お前も一緒に考えてくれ。俺にはもう、どうすりゃええのか、わからへん。
 亨は犬に貪られている俺の首の、反対側を、ちくりと噛んだ。
 それは麻酔のように、よく効いた。
 ことりと俺は眠った。貪られる痛みも、すっとどこかへ消え去った。
 ほんまやったら、もうしばらく、食われる痛みに耐えるべきやったか。俺はその程度では購えないような苦痛を、勝呂瑞希に与えてきたか。因果応報というには、これでは不足か。
 では、それは、またの機会に。俺にまだ、機会があれば。何度でもお前に、食い殺されてやろう。それでお前の気が済むようならな。
 でも今夜は、ほんまやったら水煙のための夜や。
 待たせて済まん。いつもそうやな、水煙すまない、水煙すまないで、甘えてばかりで、俺はちっとも、進歩せえへん。
 その深い眠りの底で、俺は夢を見た。
 深く深く眠り、深く深く沈みゆく、青ざめた無意識の、底の底で見る、夢の世界。
 ふっと現実が遠ざかり、音も色も、感じへんようになる。天蓋の鏡にうつる、青ざめた自分の顔も、枕を染める、真っ赤な血の色も、そして俺の手を握る、水地亨の肌の温もりも、全て遠ざかって消えてゆく。
 そして俺は深い水底へ落ちていく、無防備な魂だけの、存在になる。肉体を離れ、異界へと旅をする、理屈もしがらみもない、剥き出しの魂に。
 普段なら、俺は滅多に夢は見ない。おかんに、そう躾けられた。うっかり怖い夢など見てもうて、そんな夢の怪物を、俺が現世に連れてこないように。深い眠りの国の迷路にはまりこんで、目覚めんようにならへんように、俺は夢も見ず、朝までぐっすり眠って起きる。毎晩ずっと、その繰り返し。
 でも、たまには見ることがある。その夢は、ただの夢やない。何かの予兆であるとか、現世と異界の端境はざかいにある、別の世界での出来事を、俺が夢やと思うてるだけのこと。
 それは確かに夢やけど、夢とうつつの違いというのは、なんなんやろ。夜見る夢って、一体、なんなんやろうなあ。
 魂が、体から抜け出して、どこか違う世界へと、旅しているんやという人もいてる。それは死と似てる。あるいは死が、眠りに似ているのかもしれへんなあ。
 ギリシア神話の死の神さんは、タナトスというらしい。そして眠りの神はヒュプノスという。その二人は兄弟で、だから死と眠りとは、兄弟のごとくによく似てる。目覚めるか、二度と目覚めへんかの、差があるだけで。
 それは肉体にとっては、大きな差やけども、魂にとっては、どうやろか。実は大した違いは、ないのかもしれへんで。
 せやし夢の世界というのは、もしかすると、死後にいくところと、どこかで通じているのかもしれへん。言わば地獄の一丁目。もしくは天国の門前町か。それとも賽の河原で、三途の川を渡る船を待つ、そういう場所に近いのかもな。
 そう思うと怖いけど、要するに、夢は異界や。誰でも入れる、一番簡単な、別位相への入り口で、人は眠りによって、その位相へ入り込み、そしてまた戻ってくることを、毎晩繰り返している。
 そういう意味では誰にでも、位相の行き来は可能やねん。別に何も、特殊なことではない。誰にでもできる、普通のことや。憶えてる、忘れてる、カラーやったり、白黒やったり、個人差あるけど、夢を見たことのない人って、そうそう居らんやろう?
 科学的にも、人は毎晩、夢見てるらしい。憶えて無くても、一晩に三、四回、人は夢の世界へと旅をしている。人界に体を残し、魂だけが自由になって、三千世界を駆けめぐっているわけや。すごいやろ。知らんかったやろ。実はそうやねん。これも豆知識。
 夢に見る、別の位相がどんなところか、それは時々による。
 すでに死んでもうてる人が出てくるような夢もあるやろう。死んだ親類や友達が、夢枕に立ったとかさ。それはどこかで冥界と、繋がっている位相かもしれへんなあ。
 何か用事があって、あるいは、ただ懐かしなって、死んだお婆ちゃんとかが、ちょっと顔見に来たんやろ。別に怖がることはない。だってただの、夢やしな。生きてた時と同じように、楽しく話して、ほなまたねと笑って別れ、目覚めればええねん。
 あるいは未来に起きる出来事を、先んじて夢に見るような、いわゆる予知夢というのもある。それは蔦子さんや竜太郎が視るような、時流の先の世界と、繋がっている夢かもしれへん。
 人には少々、誰にでも、予知能力があるもんらしい。普段はその使い方を、忘れてもうてるような人でも、眠って肉体から離れた時には、いろんなしがらみや固定概念から、自由になっていることがある。そういう時に案外、自分が持ってる本来の力が、発揮されたりするわけやな。
 訳のわからん平行世界パラレルワールドへ繋がってもうて、現実にはありえへんような出来事が、起きる場合もあるやろう。それこそ夢のような、楽しい世界であることもあるし、怖い化けモンに追いかけられる、夢見の悪い世界のこともある。
 何かの縁があって、同じ世界に何遍も、行ってしまう人もいてる。同じ夢を二度三度、見てまうことってないやろか。それが、そうやで。どこか別の位相にある、同じ世界へ行っている。それを夢やと思うてるだけやねん。まあ、実際、夢なんやけどな。
 それがまさしく夢の正体や。魂だけの、位相間移動。いっちゃってるわけやで。えらいこっちゃなあ。
 しかし人はいつでも、その夢の世界から、当たり前の人界へと、戻ることができる。ただ目を醒ませばええだけやから、何も心配することはない。体を抜け出た魂は、一瞬にして現世へと帰る。そしてまた、続きの人生を、生きていくことができるんや。
 夢で起きた出来事は、現実ではない。一般的にはそうや。それが常識。夢と現実には、しっかり区別つけとかなあかん。
 当たり前やけど、これはとても、重要なことなんやで。少なくとも、俺にとってはそうや。
 なんでそんなことを言うかについて、これから話そう。
 その夜の夢で、俺は砂浜にいた。
 早朝なのか、これから昇ろうとしている明るい朝日が、遠く静かな水平線に見え始め、有り明けの月が、ぼんやりと白く、薄青くなりはじめた空に、まん丸い形をして、ゆったり優雅に見えていた。
 あれが、そう。暁月ぎょうげつや。
 俺の雅号で、大崎先生が名付け、それが俺によう合うてると、亨が決めた、俺の新しい、もうひとつの名前。
 白い砂の輝くような浜辺で、水煙は月を見ていた。浜にはそれのほかに、人っ子ひとり、居らんかった。
 これはどこやと、俺は不思議な気がして、静かに波の打ち寄せる、その穏やかな、そしてとても古いらしい、箱庭のような小さな異世界を見ていた。
 その世界がずいぶんと、狭いらしいということは、感覚的に理解できた。説明しにくいんやけど、何というかな、絵はがきみたいな世界やったで。元々ほんまにあった世界から、小さく切り取ってきて、大事な想い出として、古いアルバムに貼ってある。時々出してきて、それを眺める。そして懐かしく思うためにある、そんなちゃっちゃな記念品で、ほんまの世界に比べたら、手の平に乗るくらいの、狭い狭い世界なんやと、俺には思えた。
 それでも突き抜けるような空の高さと、遠く煌めく水平線が見える。打ち寄せる波も、はるか遠い海底からの、海の鳴動を受けて、ゆったり波打つようやった。
 水煙は、波打ち寄せる白砂の上に座り、まるでたった今、打ち上げられてきた、人魚かなにかのように見えた。ただし、ちゃんと二本の足のある、人のような姿はしてた。
 せやし、言うなればそれは、人魚姫みたいなもんか。海の魔性と取引きをして、尾鰭おひれの代わりに、足を貰うた。それで人のような姿にはなったものの、その足で立つと、刃を踏むような痛みが走る。そんな不良品の足で、人魚姫はさぞかし不自由したやろう。痛みに耐えて、姫は人間の王子と踊ったり、散歩したりと、頑張ったけども、その男は結局、他の相手に惚れてもうて、人魚姫は哀れ、海の泡と消えた。そういう契約やったからや。恋愛が成就しなければ死ぬ。それが人魚姫の伝説やろう?
 俺はその話を、ただの哀れっぽいお伽話と思っていたけど、ぼけっと座って月を見ている水煙の、青白い姿を眺めると、あながち作り話でも、ないんやないかと思えたわ。だって何となく、その話の哀しさには、現実味がある。
 水煙も、もともとは海底にいて、人間の男に惚れてもうて、その男の血筋のために尽くしてやったんやけども、いろんな苦痛を堪えて耐えたのも全て虚しく、最後の最後で生まれた俺は、水煙様を裏切った。他のにぞっこん惚れ込んでもうて、水煙を自分の連れ合いには選ばへんかった。
 一体その物語のオチには、何があるんやろう。水煙も海の泡になって、消えてもうたりするんやろうか。
 そんな不吉な符合を感じて、俺は嫌な気分やった。
 俺が眺める水煙の姿が、痛々しかったせいもある。
 俺はまた、やってもうたわ。おんなじ事を。水煙にまた、呪いをかけた。やったらあかんて、おかんにも、水煙にも言われ、自分の言葉には呪力があると、よう分かっているつもりやったのに、また言うた。呪いを含んだ不吉な言葉を吐いて、水煙を傷つけてもうてた。
 その新しい呪いはまるで、真っ黒い網のように見えた。絡みつく黒い、呪われた網の目が、水煙の青い肌に張り付いて、食い込むように締まり、ところどころで白い血を流させていた。
 水煙はその暗い影のような網目の呪いから、逃れようとはしてへんかった。ただぼんやり月を見て、波打ち際に背を向けて、懐かしいという、悲しそうな目をしてた。
「堪忍してくれ、水煙……」
 俺はいつの間にか水煙の傍にいて、月を見ている顔を見ていた。
 これは夢なんやと、その時思った。歩いたような気がせえへん。いつのまにか居て、白い砂を張り付かせた青い裸体の肌が、ようく見えるような近さになってた。
 砂浜に座り込んで、手を見ると、水煙の小さく華奢やったはずの手が、赤黒く焼け焦げ錆び付いたような、かぎ爪のある荒れた手へと変わってた。それがまるで鬼の手のようで、水煙には似合わへん。なんでこんな風になってもうたんやろうと、俺は後悔して、その手を握った。なんとか元に戻せへんもんかと、自分の手の中に包みこんで、冷え切った鉄のような、波に濡れている水煙の指を、俺はゆっくり温めようとした。
「なんで来たんや、アキちゃん」
 黒い目で、俺の目を見て、水煙は不思議そうに訊いた。お前がここに来るはずはないというふうに、俺には聞こえた。
 両方の手を一緒に包んでも、すっぽり手の中に収まるぐらい、水煙の手は小さい。体も小さいし、この青い人型でいる時の水煙は、ずいぶん華奢で、そして小柄やった。抱き上げると軽くて、ぐんにゃりしてて、力無い。守ってやらんと生きてられへん、そういうモンに見えるけど、それでも霊威がみなぎっていて、近寄りがたい。そういう相手に見えていた。
「お前を抱いて寝たからやろう。これは夢やと思うんやけど……」
「夢やろう。アキちゃん。しかしこれは、お前のではない。俺の夢やで」
 俺は水煙の夢に、勝手に押し入っていたらしい。
 肌を合わせて寝たせいか。水煙が俺を、喚んだんか。それとも俺が、押し入ったんか。俺にはそういう力があるようなんや。自由に位相を行き来する力。他人の夢に、入る力や。それも異界で、別の位相やというんやったら、こちらからあちらへ、渡る力のあるげきである俺にとって、行き来可能な場所やったんや。
 皆も気をつけて。俺に侵入されへんように。夢には鍵は、かけられへんのやしな。うっかり心を許したら、アキちゃん夢に、出てくるかもやで?
 それはまあ、冗談。冗談やって。プライバシーやろ。普通はやらへんよ。意味なく他人様の夢に、押し入ったりはせえへん。この時かて無意識や。わざとやない。たまたま行けた。ビギナーズラックやで。それとも、これは、太刀と当主の間にある縁が、お互いを呼び合うせいやったんか。あるいは、想い合う同志の絆の糸が、お互いの魂を、夢の異界で、引き寄せ合うのか。
 俺は水煙に会いたかったんや。剣でなく、太刀でもない、人のような姿をしていた水煙に、もういっぺん会うて、謝りたかった。
 俺はちょっと、言いすぎた。あの時言うたことは、嘘やない。ほんまにそう思うしな、このままでは水煙は、ほんまに鬼になってしまう。俺はそれが怖い。
 お前はそんな、忌まわしい神ではないやないか。誰の目で見ても、有り難いような、神々しい神さんでいてほしい。俺がお前を愛するように、皆もお前を愛して崇めるような、そんな神でいてほしいんやと、俺は言いたかったんやけど。
 それなら、そう言えばよかった。なにも他にも大勢見ている前で、お前は鬼やと罵るようなこと、する必要はなかった。
 水煙は誇り高い神で、つらかったやろう。つらいという顔をしていた。俺にもそれは、見えていた。分かっていたんやけど、水煙が竜太郎を見殺しにしたなんて、俺には受け入れがたかった。水煙は心優しい神さんやと、俺は思いたかったんやろう。
 腹が立っていた。いろいろと、ままならない現状に。水煙を、そこまで思い詰めさせる自分のことや、そういう想いに応えてやられへん不甲斐なさで、また人が死ぬ。それがしんどい。こんなのはもう、終わりにしたいって、ほとほと疲れて、悲しくなってた。
 俺のために、誰か死ぬのはもう沢山や。俺はほんまは、人を救うために生まれてきたんやで。我が身を犠牲にしてでも、人々の幸福のために尽くす、そういう血筋の者として、生まれてきたんや。それが俺の本性で、血筋の定め。
 確かに秋津は、呪われた血筋なんや。それでも俺は、自分がこの血を受けて生まれたことを、悔やんではいない。むしろ誇りに思ってる。俺はせめて、それだけは水煙に、はっきりと伝えておかんとあかんのやないかと思うてた。
 俺は自分の血筋から、逃れはしない。たとえ俺がほんまに、秋津の最後のひとりやったとしても、誇りある、巫覡ふげきの王のすえとして生きて、死ななあかんような時が来たとしたら、それらしく死ぬ覚悟やで。最後の当主として。そして神剣・水煙の、最後の使い手として、ふさわしい男でいたい。
 俺はそれを水煙に、ちゃんと言うたことがあるやろか。俺はお前を、拒んではいない。ただそれに、迷いがあるだけで、お前の主になることに、異存はないんや。
 水煙は、俺の剣。ずうっとそう思うてきたけど、実はまだ、そうやなかったなんて。確かに俺は、水煙には、まだ言うてなかった。言霊に乗せて、お前を愛しているとは。
「ここは、どこなんや」
 まだ手を握っているままで、俺が訊ねると、水煙は自分の手を包んでいる俺の手を、じっと見下ろしてきた。表情のない、黒く澄んでる大きな目やった。
「ここは伊勢や。もう、随分昔のな。俺が初めて海から上がってきた時の、昔の砂浜や」
「ここで最初の男と会うたわけ?」
 そう話してた。刀鍛冶やった。水煙を伊勢の海から拾い上げた男は、伊勢の刀師とじで、それが秋津家の血筋の始めにいる男やと。そして水煙の最初のげきは、その男やったんや。
 つっけんどんに訊いている俺の声を聞いて、水煙は少し、困ったような淡い笑みになっていた。
「そうや」
「好きやったんか」
 訊いてどうすんのやろ。自分でも、そう思えたけども、俺はほとんど発作的に、水煙にそう訊ねてた。それにも水煙は、さらに困ってもうたような、淡い苦笑を見せた。
「好きやった」
「俺より好きやったか。そいつの子を産んでやろうというぐらい、好きやったんやろ」
 なんや切なくなって、思わず強く、ぎゅうっと握ると、水煙の手を覆っていた錆びたような肌が、殻でも剥けるように、ぱらりと砕け、その中には元の通りの、青い小さな手が仕舞い込まれていた。
 それを見て、俺はほっとした。ほんまに化けてもうたわけやない。俺に押しつけられた、ただの呪いで、それを解けばきっと、元通りになる。元の通りの美しい、穢れていない姿に戻る。
「別に俺が産んだわけではないんやで。月読つくよみに祈り、あいつと俺との血を混ぜて、伊勢の海原に捧げただけで。偉大にして寛大な自然神の、格別のお計らいや。あいつはそんなことで、子供なんかできるわけがないと思うていたようやけど」
「そら、まあ、そうやろなあ……」
 そんなことで子供できてたら、うっかり血も流されへんやんか。普通やないよ。
 水煙は、俺が包んだ手を元に戻していくのを、青白い唇で、淡く笑って眺めていた。頼もしいなという目で見られ、俺はちょっと、気まずく、気恥ずかしいような気がした。
「そうやろか。お前たち人間は皆、海から生まれたんやないか? 憶えていないというのが不思議やわ。人間の女が子供を産めるのも、はらの中に海を持っているからやろう?」
 水煙は首を傾げて、それが普通やというふうに、不思議そうに言うていた。俺はそれには、敢えて反論せえへんかった。そういうものかなあという気もして。
 水煙が、そう言うんやったら、そうなんやろう。俺はいつでも、この神さんの言うことは、鵜呑みやからな。そんなアホなと思うようなことでも、水煙やったら、ああそうなんやで済んでしまう。
「その子、どうしたんや」
「どうしたって……しょうがないから、俺が育てた。血をやって。そのうち、ひとかどのげきにはなったが、死んでしもたわ。人の子やから」
 水煙は、表情の乏しい顔でそう言うて、じっと俺の顔を見た。その目が懐かしそうで、俺はちょっと、嫌な予感はしていたんや。
「なんて名前やったんや、その子」
「暁彦や。明け方、海から流れてきたんで、それでよかろうということで」
 さらりと答える水煙の言葉尻から、俺はその名をつけたのが、水煙ではないらしいことは嗅ぎ取っていた。あかつきの子やから、暁彦で、それでええやろと名付けた、その人物は、たぶん伊勢の刀師とじやった男で、難儀な話や、まさか子供ができるとは、思うてなかったんやって。
 それで、しょうがないから水煙は、ひとりで育てた。刀師とじの家でではなく、どこか他所で、新たに別の家系の祖として。それが秋津の最初の当主になったんや。そういう話やで、たぶんやけどな。
 悪い男やで、その刀師とじもやけど、人魚姫に出てくる人間の王子も。結局、海から来た恋人は、ふられるようにできている。人魚姫は泣いて海の泡になったけど、水煙はそこまで弱くはなかったんやろう。鉄やしな。芯は強いねん。この子どないすんねんと、赤ん坊やった暁彦のために、おかに留まることにした。
 そして、それから千年、二千年。いろいろあって、年号も次々に改まり、とうとう平成の御代になっていたんや。水煙はすっかり、秋津家のご神刀になっていて、海の底から上がって来た頃のことは、はるか過去の時代になっていた。今さらどこへ、帰れるというんや。秋津の家が、水煙のうちで、他に帰れるところなんか、あるわけがない。
「そうか……暁彦か。それで系図の中に、ときどきその名前の男がおるんや」
 俺は皮肉に納得をして、水煙の手を撫でた。その手はほとんど、元通りやった。未だかつて、ここまで水煙の手を撫でさすったことがあるやろか。もちろん手を元に戻すためやし、他意はないはずなんやけど、変なもんやった。二人して向き合うて、手をにぎにぎしてんのは。
「誰にでも許したわけではないで。見込みのありそうな子にだけや」
「おとんは見込みのある子やったんや」
 俺が訊くと、水煙は、淡くにっこりとして頷いた。その頬に黒く染み付いた、網目の傷があるのがなければ、水煙は幸せそうにも見えた。
 不思議や、水煙は、俺のおとんが産声を上げた日にも、今と変わらん姿でうちにいた。それどころか、血筋の始めにいてる男が、海から流れ着いた時にさえ、今俺とこうして波打ち寄せる浜辺にいるように、砂浜に佇み、岸辺に流れ着いたその子を、助け上げていた。
 それからずっと、その子の子孫に取り憑いている。守っているのか、守られているのか、よう分からんような形で。
「そんないわくのある大事な名前やのに、俺はお前がおらん間に生まれてて、勝手にその名を名乗ってたやなんて、えらい図々しい話やったなあ」
 俺は苦笑して、水煙に詫びた。いくぶん自嘲に傾いている。もしも俺が産まれたときに、水煙もうちにいて、名前を授けていたとしたら、いったい何と名付けたんやろう。暁彦やったか。それとも、全然別の名前やったんか。
「気にすることはない。今にして思えば、お前ほど、その名に相応しい者も居らんやろう」
 元通りになった手を逃がしてやると、水煙はためつすがめつ、少しも昇ってこないあかつきの陽に透かして、自分の手を見た。満足そうな顔をしていた。自分の手が元に戻ったことにではなく、俺がそれをやってのけられるだけの通力を備えたことが、嬉しいみたいやった。
 頼もしそうに、また俺を見つめ、水煙は微笑んでるようやったけど、なんでか少し、寂しそうに見えた。すぐ目の前にいてるのに、遠い気がした。夢の中やからやろか。
 もう一度水煙の手を握りたい気がして、俺は堪えた。そんなことする理由がなかった。
「アキちゃん、最初の暁彦は、三百年ほど生きた。俺の血を受けたせいかもしれへんし、実はなんの血縁もなく、海神わだつみの生み出した子やったからかもしれへん。俺はその子が自分の子なんやと思うていたけど、向こうはそうは思うてへんかった。刀師《とじ》には似ていなかったし、俺にも似ていなかった。親のない異形の子を、俺が拾って育てただけやと思うていたらしい」
 水煙が回想している、遠い昔の男は、俺の空想する脳裏では、なぜか俺とそっくりな姿をしていた。あるいは俺のおとんに似ている。ほとんど同一人物のように。それは考えすぎやろか。
 しかし血筋の祖にいる男で、うちの親類はみんなどこかしら、似た面差しをしてる。おかんも、蔦子さんも、双子のようにではないけど、よう似てる。おとんが俺と、瓜二つのように、時にはそっくり似たようなのが、生まれてくることがあったんやないか。水煙はそれに、暁彦という名をくれてやってたんやないかと、俺にはそんな気がした。
「あいつは自分も神やと思うていた。でも、そうやない。限りある命やと悟った時に、いつか自分も神のような、不死の肉体になって、血筋のすえ黄泉よみがえると言い残していた。そしてまた、俺の前に現れるやろうと」
 そんな話もあったなあと、水煙は、どこでもない砂浜を見つめて、可笑しいみたいに皮肉に笑った。
「それがお前ではないかと、実は思わんでもない。お前が自分を、秋津家の、最後の当主やと思うんやったらな。でも、どうも、違うのかもしれへん。お前はお前や。お前の父親とも、祖父とも違う、お前にしかない個性があるわ。あいつはたぶん、黄泉がえりなどはせず、どこかへ散ってしまうのやろうな。俺はずっと、決して戻りはせん者を、待つともなく待ち受けていた。この子がそうではないかと、代々のげきを見て、それが不死ではなく、結局老いて死ぬことに、失望していたんかもしれへんな。秋津の者たちは、そんな俺の気分に、察しをつけていたんやろう。アキちゃんも……お前の父や、そのまた父も、その父も、皆、老いることを怖れてた。衰えて死ぬ時には、済まない済まないと言うていた。不死人でなくて……面目ないと」
 笑うている水煙の顔は、途方もなく暗い。傷があるせいだけやない。何かもう、疲れ果ててもうて、座りこんでる。そういう感じのする姿でいた。
「でもなあ、アキちゃん。それは普通や。人は皆、年老いて死ぬ。そういうふうにできている。なんでそれを、済まなく思う必要があったやろ。確かに俺は、お前の言うように、秋津の血筋に取り憑いた呪いのようなものや。ありもせんような、見果てぬ夢を求めさせる、悪い神で、鬼やった」
 砂に浅く埋もれた、自分の青い体を眺め、水煙は、ぼんやりとそう言うていた。
「俺はもっと早くに、解放してやるべきやった。そんな古い呪いから、解きはなってやって、自由にさせてやればよかった。げきや巫女などやらせずに、なりたいもんにならせてやれば良かったし、血が絶えるなら、それも運命として、流れに任せておけばよかった。お前の言うとおり、俺は秋津家に取り憑いている悪鬼のようなもんやったんやろうな」
 自分は鬼やと、受け入れているような目で、水煙は静かにそう結論をつけた。
 俺はそれに焦った。すぐには言葉が出て来えへんで、しばらく内心激しく慌て、俺はやっと声を絞り出した。上ずったような声やった。
「せやけど結果的には、不死人は生まれたやろう。俺がそうやということでは、あかんのか?」
 悲願は達成された。蔦子さんもそう言うてたで。
 しかし水煙は、やんわり首を横に振り、それではあかんという顔やった。
「お前が不死になったのは、亨のせいやろう。俺の霊威ではない。血筋の力でもない。秋津の家とは、関係ない。偶然なんや。お前がもし、どこの馬の骨とも知れん男でも、水地亨とデキてしまえば、不死人になっていた。秋津のげきでなくても。ただの絵描きでも……」
 そういうものやろうか。俺が亨と和合して、不死の肉体を得たのは、秋津の血による素地があってのことではなくて、単にあいつが不死を授ける神やったからというだけのことか。関係ないのか、俺のほうの力は。
「系譜に連なる、大勢の者たちを、俺は苦しめてきた。自分自身もそれに絡め取られて、随分苦しんだ時もあったけど、それは自業自得というものや。今こうして、予言されていた血筋のすえに現れた不死人のお前が、俺のことを愛していないのも、そんな罪の報いやろう。これもひとつの、ばちなんやろうと思う」
 そう言うて身を捩る、水煙の華奢な背にも首筋にも、くっきり深い、黒い網目の傷があった。それは焼け付く呪いのような傷で、水煙はそこから白い血を、滴らせていた。
 怖ろしい姿やった。暗く悲しい、異形の神で、訳を知らずに見る者が見れば、水煙は鬼のように見えたかもしれへん。美しい、禍々しさで、苦痛に耐えている。
「アキちゃん……俺はずっと、同じことを繰り返している。なぜかは知らん、いつの間にやら、無限の地獄に堕ちているらしい」
 顔を覆ってうつむいている水煙は、涙は流していなかったが、嘆いているようやった。表情のない仮面を着けた舞を舞う、神秘的な踊り手のような、とても優美な所作やった。
「最初の男は、俺を選ばなかった。あの刀師とじは、人間の女と添うて、人界で生きることを選んだんや。その血筋の者は今でも伊勢に居て、神刀を打っている。でも不思議や。俺はあの血筋の者にはなんの執着も覚えない。自分をこの世に生み出した手を持つ一族のはずやのに、忘れてしまった。あの男が、どんな名前だったかも、どんな声だったかも」
 そうして話しながら、水煙は始め、じっと砂の上にある俺の手を、見つめていた。やがて言葉が途切れてもうて、水煙は少し、躊躇ためらったようやった。それでも、ふと、意を決したふうに、青い手をのばしてきて、水煙はやんわりと、俺の手に触れた。柔らかな、温かい手やった。
「暁彦は……秋津の初代は、俺に懸想けそうしていた。今ではなんと言うんやろ。惚れていたんや、俺に。それで頑として、俺が親とは認めへんかった。何ら血縁はない、赤の他人やし、交わったとしても、何の障りがあろうかと、いつも言うていたけども、俺には確信がなかった。お前が我が子ではないかと思う。……いや、そうではない、お前ではなく、最初の子のほうや。暁彦は……結局、何者やったんやろう」
 俺でもない、おとんでもない誰か、もっとずっと昔にいた男を見つめて、水煙は俺に訊ねた。
 そんなこと訊かれても、俺は知らん。答えようがない。最初の男もそうやったやろう。育ての親には間違いがない、そんな相手に惚れていて、三百年も生きていたという、海から来た男。うちの血筋の開祖で、その末裔の肉体に宿り、必ず黄泉がえると言い残して死んだ、執念深い奴も。
「俺はずっと、拒んだつもりや。もしも我が子やったら、それはお前を穢すことになりはしないか、心配で。愛しているかどうか、そういう問題ではない。でも、もしお前がほんまに、なんの関係もない、赤の他人なんやったら」
 声を盗られたように、水煙は急に、押し黙った。潮騒が聞こえていた。無限に寄せては繰り返す波の音。海のざわめき。
 水煙がじいっと俺を見つめ、俺はそれを見つめた。黒く澄んだ目の中に、俺が映っていて、食い入るような、魅入られた顔をしていた。
 いつもは表情の無い顔に、水煙は深い憂いのある表情を浮かべ、切なそうに俺を見た。
 俺はやっぱり、似てるのか。その男に。神刀・水煙を、刀師《とじ》である父親から受け継いで、秋津の家を興した、海から来た男とも。
 そやからお前は俺が好きなのか。おとんの身代わりとしてではなく。おとんも身代わりやった。俺もそう。とっくの昔に死んで骨になった、俺と同じ名を名乗っていた奴の代わりに、俺のことが好きなんか。
 それを思うと、俺の胸は灼けていた。心臓が燃えおちそうな、熱い火やった。
 俺を見てくれ、水煙。誰かの身代わりにではなく、俺を見てくれ。比べんといてくれ、お前の前の相手やった男と。俺を見てくれ。今、お前の目の前で生きている、この俺を。
 それは俺の心の火やろうけど、血の中に流れている火やった。俺がその、最初の暁彦の血を引いていることは、間違いがない。何百、何千という世代を遡った、遠い祖先ではあるけども、そいつは俺の祖父さんの祖父さんの祖父さんの……とにかく、血筋の祖なんや。
 それに間違いないということを、水煙はこの黒い目で、ずっと見守ってきた。子が生まれ、それがまた子を成して、神刀である自分を受け継がせ、あえなく老いて死んでゆくのを、こいつは見てきた。
 皆、同じ嫉妬に灼かれてきたんや。父は息子に、息子は父に、嫉妬してきた。それも秋津の血の呪いやで。おとんは祖父さんに嫉妬していた。そしてきっと、俺にも嫉妬していたやろう。俺がおとんに妬いてるように。
 俺はお前より相応しい、水煙の使い手なんやと、皆、その火を燃やして、剣術に打ち込んだ。皆、そうしてご神刀を握り、代々の当主もその跡取りも、人並み外れた剣豪やったんや。
 水煙は剣やから、研ぎ澄まされた剣士の技に、身を任せて悦ぶ。そういう神や。水煙を愛してやるには、そして、こいつの愛を得るには、剣豪になるしかなかったんや。
 刀師とじが水煙を、そんな業のある神にした。ただの隕鉄、星の欠片やった水煙を、神聖な火の燃える炉で、熱く燃やして煮溶かして、お前は武器やと叩き上げ、切れ味鋭い白刃へと、作り上げたんやから。
 そんなご神刀を巡り、父と息子が斬り結ぶ、そういう呪いがかかってる。そんなことを続けるうちに、秋津の血筋の中には、この熱い嫉妬の火が、すっかり染み付いてもうたんやろなあ。燃えている。めらめらと。熱くて、時には焼け死にそうになる。
 愛おしく、熱い執念をもって、俺は水煙を見つめていた。
 お前が欲しい。お前が欲しい。
 水煙、お前を俺のものにしたい。おとんではない、他の誰でもない、俺のものにして、俺を愛してる目で、お前に見つめられたい。俺が胸を灼かれるように、お前の胸が熱い火で、灼かれるのを見たい。そしてお前が苦しむのを。抱いて欲しいと、お前のほうから、俺にひれ伏すのを見たい。
 そしたらどんなに心地よいやろう。俺を愛していながら、頑なに拒み続けた、冷たく硬いはがねでできたお前の体を、とうとう俺にも熱く蕩かすことができる。あの刀師とじが、お前にしてやったように。熱く燃やして、俺の望む形に打ち直す。それができたら、その時こそ本当に、お前は俺の剣になるやろう。
 そうしてやりたい。そうしてやりたい。
 それも怨念やったやろう。水煙に焦がれたけども、心のどこかではずっとかたくなに、拒まれ続けた男たちの、暗く切ない妄執や。それが俺の身の内に宿り、怨霊のように、うごめいていた。それは蜷局とぐろを巻く蛇のようでもあった。
 とうとう、その呪いの、成就する時は来た。積年待ち望んだ瞬間や。
 水煙は切なく燃えている目で、俺を見つめ、やっと意を決したような声で、俺を口説いた。
「暁彦……俺もほんまは、お前に抱かれたかった。それを望んでいた。ただそれが、罪に思えて、つらかっただけで。でも、本心では、俺が欲しいというお前の気持ちに、悦んでいた。躊躇わず、応えてやればよかった。いつか死ぬ身なんやったら、お前が生きているうちに。俺も好きやと言うてやればよかった。抱いてもらえて、嬉しかったと」
 水煙は俺を見つめて、その罪に打ち震えながら、百年、千年の時を越えて、ずうっと押し黙っていたそのことを、俺に話した。
 俺の血の中でも、何かが打ち震えていた。それは俺ではない、最初の早暁に、この浜で水煙に拾われた、誰かの血であり、魂やったかもしれへん。
 水煙、と、その声が、自分の身の内で呼ぶのが聞こえた。それも俺の声か。水煙。水煙。俺はお前を愛してた。愛してたんやと、ただそれだけの話を、その声は繰り返していた。
 関係ない。俺が何者で、お前が何者でも。ただ愛していただけや。それに応えてほしかっただけ。
 たぶん、それは、それを伝えるために、秋津の血筋に取り憑いていた霊やったろう。
 冥界の神に抗うて、時の流れに洗われた、砂浜の古びた貝殻か、ガラスの破片のような、小さく砕けた欠片になって、血筋の者たちの魂に、いつまでもしがみついていた、ひとりの半神半人の男の怨霊やった。
 俺もきっと、こいつに憑かれているんやろう。おとんもそうやった。俺が見たことのない、祖父さんもそうやった。血筋の者たちを苦しめてきたのは、水煙ではない。この男のほうやねん。
 可哀想になあと、俺はそいつを哀れんだ。可哀想に。お前はもう、鬼になっている。血筋に取り憑く悪鬼でしかない。お前のことを、水煙はもう、愛してはいない。愛しているわけがない。
 だってもう、死んだ男なんやしな。愛してるわけがない。鬼なんやから。愛しているわけがない。鬼斬る太刀が、悪鬼と化した昔の男を、愛しているわけがない。
 だって水煙は今では、俺のことを愛してんのやからな。お前ではない。この俺を。俺を愛してるんや。
 そうやろう、水煙。お前は俺の剣で、俺を選んだ。たまたま同じ名前やっただけで、俺はその、古代に生きていた男とは違う。全然別の人間で、その身代わりやない。
 そうやろう、水煙。そうやと言え。お前が俺の剣で、俺のしきやというんやったら、お前はそう言うべきや。俺への愛だけに熱く燃え、その他の奴への想いなど、朽ちた炉辺の古びた燃えくずの中へ、とっとと捨てて忘れるべきや。忘れてしまえ。俺だけを見て。
 そう呼びかける目で見てる、水煙の黒い瞳に映った俺は、まるで別人みたいやった。俺の知ってる俺ではない。俺はこんな、醜い男やったか。俺を選べと、力づくでも求めるような、そんな男やったんか。
 水煙はどことなく、怯えたような顔をして、俺を見ていた。
 問うべきではないと、躊躇うような顔をして、それでも水煙は結局俺に、それを訊ねた。恐る恐る、俺に寄り添いたいような、優しい声で。
「アキちゃん……お前はその、最初の暁彦の、生まれ変わりではないのか。お前が本気で自分の代で、家を滅ぼすというのなら、お前こそが、血筋のすえや。予言されていた子のはずや。お前の中には、あいつはもう、居らんのやろか。そんなもん居らんと、お前の父は言うていた。でも、ほんまにそうやろか。ほんまにそうなら、なんであいつは、暁彦にそっくりなんや。泣くな、忘れてしまえと俺に命じて、お前の父親は何遍も、俺とちぎった。最初に一度きりやと、そういう決まりやったのに……欲しいと言うて、俺を抱いた」
 この砂浜で。
 水煙はそうまで言わへんかったけど、苦しげに、顔を歪めて白い砂を撫でる、水煙の指の甘さは、そこが逢瀬の寝床やと言うてるみたいに見えた。
 おとんは時々、神刀・水煙を抱いて寝た。それは何のためやったんや。
 言うまでもない。るためや。
 抱いて眠れば、水煙と同じ夢を見られる。夢やと思える、別の位相では、水煙は剣でなく、人のような姿をしていた。それを、おとんは知っていたんや。なぜなら神剣を継ぐ時、当主になる男は水煙と、同衾するのが習わしやったから。
 初夜の新床で水煙を抱き、おとんは味をしめたんやろう。自分の親やし、悪く言いたくはないけども、神刀を抱いて寝る、そんな夜の夢の中でなら、水煙を抱ける。それを知っているからには、辛抱堪らん夜もあったと、そういうことなんやろう。
「嫌やったんか、それが」
 複雑な気分で、俺は訊ねた。嫌やったと、言うてほしいような気もしたし、水煙の話は、そんなふうな意味にも聞こえた。躊躇うような、後ろめたい響きがあった。
 せやけど、それではあまりに、おとんが哀れな気もしたわ。愛してなかったんか、水煙は、おとんのことを。他に選べる跡取りが、一人もおらんということで、仕方なく選んだだけやったんか。
「……嫌ではない」
 重し苦しく沈み込む声で、水煙は答えた。
「嫌ではないが……あいつは、父殺しや。時局もあって、先代は老いた身を焦り、自決による代替わりを申し出たが、あいつは拒むべきやった。自分の親やないか。鬼の所行や。俺を使って、介錯するなど……」
「お前がやらせたんやないか。嫌なんやったら、なんで斬ったんや。祖父さんを」
 お前は斬りたいもんしか斬れへんはずやろ。そうやないんか。
 俺はそういう冷たい目をして、水煙を見つめたかもしれへん。お前はそういう奴なんや。どんだけ愛しく身をよじっても、最後の最後は裏切って、若い方に気を移す。どうしようもない神や。これこそ血筋のすえかと、そのことばかりに熱心で、息子ができたら気もそぞろ。これが俺の暁彦かと、胸を騒がせている。それが分からんアホやと、俺を舐めている。
 激怒したような、低く唸る怨念の声が、身の内で熱い蜷局とぐろを巻いて、火を吹いていた。俺はその呪詛を、黙って聞いた。
 そうか。水煙はお前らにとって、つれない神さんやったか。初めは期待をこめて見つめ、やがて落胆する。お前も違うと、目を逸らす。そういう薄情な太刀や。
 復讐してやる。お前が俺に惚れたら、その時こそ袖にしてやる。血筋のすえに現れるという、初代の男の、思うつぼにはさせへんで。水煙は俺のものや。遠の昔に死んだ男に、盗られてなるものか。
 自分も遠に死んだ者たちが、冥界で騒ぐようやった。その中に、おとんの霊もいるのか、俺は心配になった。おとんもこんな、血筋の怨念に呑まれたのか。この暗い大蛇おろちの一部になって、水煙を呪い、血筋を呪ってるんか。
 いや。それはない。俺のおとんは英霊や。今もどこかで、おかんと居るわ。踊る巫女さんに言祝いでもろて、おもしろおかしく世界旅行やで。俺のおとんは、怨霊なんかになったりせえへん。あの人、ああ見えて、英雄なんやから。
 俺もならへん。怨霊の手先なんかには。
 鬼退治するげきの血筋やねん。ええモンやねんで。どうしてそんな血筋の男どもが、自分も鬼になったりするんや。ミイラ取りがミイラになったってやつか。
 たとえそれが偉大な祖霊でも、泣いて斬る。それしかないやん。鬼になってる。
 水煙は、俺のものやと願う、俺のその気持ちは、怨念やない。ただの恋愛感情や。俺の気持ちであって、血筋の呪いではない。そんなもんでは嫌なんや。
 もしもこの怨念の蛇を鬼として、心の中で斬り捨ててもうたら、俺はもう、水煙のことを愛してへんようになるのか。どうでもええガラクタとして、ご神刀にはなんの興味もなくなるか。
 そうやって打ち捨てていくには、水煙はまるで、俺を愛してるような目をしてた。身代わりとしてではない。俺を見ている。おとんの複製品やない。初代の男とも違う。今この平成の御代に生きている、この俺のことを、水煙は愛してる。
 そして、それは罪やと思うてた。かつて想いを交わしたことのある相手に、すまないと。先代を捨てて、その実の子とちぎるのは、ひどい罪やと思うてた。いつの代でもそうやった。
 いつの世でも激情をこらえ、胸に秘めてるだけで、水煙は、愛しい愛しいと、睦み合ったりはせえへんねん。ただ剣とその使い手として、剣士が研ぎ澄まされた技を震う一瞬にだけ、震い付くような愉悦があるだけで、水煙はこの千年、二千年という間、誰ひとりとも、愛を交わしたことはない。一心同体に抱き合うて、身も心も蕩けるような熱を感じたことがない。熱い炉の中で煮溶かされ、新しい形に生まれ変わる、そんな鍛冶場の時以外には。
 そして、血筋のすえに現れた、不死人の剣士を除いては。
 水煙が、神業の刀師とじの手によって鍛え上げられた神剣やとして、その使い手である俺も、ある意味、幾世代をかけて打ち上げ、練り上げ鍛え上げられてきた完成品や。通力つうりきの点において、神剣・水煙の力を引き出すのに、俺ほどふさわしい使い手はいない。
 おとんも鬼気迫るような、手練れやったやろう。しかし俺は、それを凌げる。
「斬りたくて斬ったんやない、アキちゃん。俺はただの、刃物やで。自分を支配した使い手が、斬ろうとしたもんは、嫌が応にも斬ってしまう。お前の父は、手練れやった。げきとしても、俺を支配するに足る通力つうりきを持っていた。その手に俺は、逆らいようがなかっただけなんや。惚れてた、あいつに……好きやったんや」
 それが手痛い敗北と、嘆くみたいに水煙は、俺に告白していた。おとんのことを愛してたと。
 俺はその話に、たぶん内心深くで、激怒していた。許せへん、水煙が、俺ではない別の男を、愛してたなんて。たとえ俺が生まれる前の、過去でもつらい。
「嫌やと言うたんか」
 責めてるみたいな口調やった。そんなふうに責める権利は、あるわけないのに。それでも水煙は、怯えたような顔やった。たぶん俺が自分の祖父を、斬られた恨みで怒ってると、水煙は思うたんやろう。そんな祖父さん孝行な孫やと。
 答える水煙の声は、微かに震えて聞こえたわ。
「嫌やと叫んだ。それでもあいつは、斬ったんや。父親を憎んでた。鬼のようやった」
 打ちひしがれた様子で、水煙はその話をしたが、おとんを罵っている訳やない。そんな修羅場になだれこんでもうたのは、自分のせいやと、水煙は思うてるらしかった。
「そんなことをせんでも、俺はお前の父を愛してた。その時はそうやったんや。ただそれが、先代も存命のうちでは、あんまり不実に思えて、隠していただけなんや。それがまさか……あんな結果になるとは、思うてへんかったんや」
 水煙がその忌まわしい出来事を、嘆いているようやったんで、俺は頷きつつ、その話を聞いた。握り合わせた水煙の指が、小さく震えていた。その震えは、俺には愛おしく思えた。守ってやりたい神のようやった。もう大丈夫やと抱いて、お慰めしたいような。
 しかしそれを、俺はやってもええんやろうか。俺にはもう、そういう神がすでにいる。亨が居るやろ。俺は水煙に、お前とはもう無理やと、伝えるために来たんやなかったか。
「アキちゃん。お前の言うとおりやで。俺はお前の血筋を呪うている鬼や。もう、終わりにせなあかん。でもお前にはまだ、剣が必要やろう。足もと見るようやけど、まだなまずも龍も、片付いていない。お前は死の舞踏と、戦わなあかんのや。剣が要る。せめてそれくらいは、俺に手伝わせてくれ。捨てるのは、その後にして……」
 水煙は俺をじっと見上げて、そう頼んできた。必死のような顔やった。その頬に、黒く烙印を押されたような網目の傷があるのが、痛々しく思えて、俺は我慢ができへんかった。
 やんわり弱々しく、それでもたぶん、強く握ってるつもりなんやろう。水煙のそんなやわな手を逃れ、俺は自由になった指で、血に濡れた、青白い神の頬を撫でた。痛いという表情を、水煙は微かに、青い美貌にぎらせた。咄嗟に逃れようとする仕草を、華奢な顎を捕まえて防ぎ、俺は水煙の頬にキスをした。舐めたんやけど。傷を治そうと思って。でも、キスしたんかもしれへん。わからへん。
 夢やしな。そのへん、大目に見といてくれへんか。
 我慢ならへん。水煙、可愛い。それに愛しい、美しい神や。もう、痛い思いさせときたくない。治してやりたい。俺がかけた呪いなんやしな、俺が解いてやりたい。
「何するんや……アキちゃん」
 頬から首筋に続く網目の模様を、ぺろぺろ舐めてる俺に戸惑ったんか、水煙は慌てたような小声やった。慣れてない。そんなん、されたことないらしかった。優しく抱いて、愛撫されたり、キスしたり、そういうのは。誰ともしてない。俺の他には。
 なんでやろう。数知れず、代々の当主とちぎったんやろう。誰もお前にこんなんせえへんかったんか。誰にとってもお前が、畏れ多い、有り難い神さんやったからか。
 俺にもそうやけど。でも、しょうがない。怪我してんのやから。
「アキちゃん……やめて。気持ちいい」
 つらいという顔で、水煙は頬を白熱させていた。拒もうという体を抱き寄せて、傷を舐めとると、ほろ苦い呪いの味と、甘いミルクみたいな血の味がした。
 水煙は初代の男を、自分の血で養ったらしい。きっとそれで、水煙の血は、ミルクみたいな味がするんやで。そのほうが口当たりええやろうということで、こいつは自分の血をそんなふうに作り替えたんやろう。
 水煙も昔は臨機応変やったんや。自分の都合で自分の肉体を変転させることができた。それができへんようになったのは、初代の男が死んだ後になってからのことらしい。
「やめて……辛抱できんようになる」
 大きな目を伏せて、水煙は恥ずかしいてたまらんふうに、囁く声で頼んできた。
「怪我、治させて。俺が解かんと、ずっとこのままなんやないか?」
「それでもええねん。これも報いや……ずっと耐えていくから」
 首筋についた深い傷痕を、そうっと舐めると、水煙はびくりとしたふうに身を固くして、小さく呻いた。痛そうなような、それとは違うような、こらえた甘い声やった。
「耐えんでええねん。お前が悪いんやないよ。お前だけが鬼やったわけやない。なんでかそういうふうに、なってもうたんやろ。うちの連中は皆、お前が好きやったんや」
 俺も好き。
 でも、それを、言うわけにはいかないような気の咎めがあって、俺は言葉で言う代わりに、水煙の青い胸のうえの、呪いのかかった網目を舐めとった。水煙はその感触に、小さく身を捩って呻いた。喘いだんかもしれへん。微かやけど、俺の耳には、蕩けそうな甘い声やった。
 舌に感じる、ミルクみたいな味が、なんでかすごく懐かしい。たぶん、血筋の中に、その記憶があるんやろう。この血で養われた男の、この神への強い執念や、憧れが。愛してたんやろう、そいつも、水煙のことを。俺が水煙を、愛してるみたいに。
「つらい……アキちゃん。お前は俺を捨てようと思って、ここへ来たんやろう。なんでこんなことをするんや」
 水煙様は、お見通し。俺の心が分かるんやから、俺がどんなつもりで会いに来たか、知ってたんやろう。これが最初で最後と、そういうつもりなのも。
「呪いを解いてからにしたいねん」
 言い訳めいて聞こえる理由わけを、俺は教えた。
 ふらふらしている水煙の体を、ゆっくり砂浜に横たえてやると、まさに打ち上げられたもののように、水煙はぐったりとした。呪いの網目は全身にあったし、えらいことやと俺は思った。これを全部舐めるとなると。えらいことになりそうな予感。
「やめてくれ……アキちゃん。もう、ええよ。お前の気持ちは有り難いけど……」
 へその辺りを舐めると、水煙はまたびくりとした。ちなみに水煙にはへそはない。鳩尾みぞおちらしい、まろやかなくぼみはあるけど、中に骨が入ってるのかどうかも、よう分からん。大の男がのしかかったら、重くて潰れてまうんやないかというような、頼りない、ふにゃっとした体や。
「アキちゃん……変になる」
 白くなった顔を覆って、水煙は呟いた。燃えてるような、熱い体やった。
 心配いらへん。俺なんかもうすでに少々変になってきてる。
 頭がぼやっとする。水煙の押し殺したような、喘ぐ息を聞くと。自分のほうがよっぽど辛抱たまらんような気がする。熱く燃える。自分もまるで、炉の火で焼かれた、熱い鉄の塊みたいに。
 おとんは前戯無しでやったんかな。それって、あまりにも、性急すぎやないか。どんだけ必死やねん、おとん。痛いやないか、いきなりやったら。
 痛い。そんな急に、押し入ったら。
 ぼんやりした頭でそう考えつつ、はあはあ喘ぐ水煙の細いももを開かせて、膝のあたりを舐めながら、俺は思いだした。
 そうやった。押し入るとこ、無いんやった。
 どないして、やるんやろ。
 いや、俺には関係ないけど。やらへんのやから。傷治すために舐めてるだけで、前戯やないから。前戯やない。まるで、それっぽいけど、でも違う。
 だって水煙とやってもうたら、何しに来てんのか、わからへんやんか。たとえ、ただの夢とは言うてもや。ただの夢。どうせ夢やし。しかもこれ、俺のやのうて、水煙の夢なんやって。水煙のやで。
 水煙は、どうしたいんやろ。どんな夢を見たいのか。
 俺とやるのは嫌か。おとんとやるのは、嫌やったんやろ。気が咎めてもうて、嫌やったんや。
 それでも、初夜の一度きりではない、何度もやりたいというおとんに、共寝を許した。拒みようがなかっただけかもしれへんけど。なんせ剣やし、抱いて寝られたら、ひとりで勝手に布団から這い出せるわけやない。嫌が応にも夢に押し入られるのかもしれへんのやけどな。
 それとも、まさか、嬉しかったのか。おとんに抱かれて、よろこんだんか。そんなの絶対、許せへん。
「アキちゃん、もう、いやや。辛抱でけへん。そこはやめといて」
 内腿の、足の付け根あたりを舐めてると、水煙が鋭い悲鳴で、そう言うた。わなわな脚が震えてた。感じるところらしかった。そしてそこに、傷はなかった。なんで俺、ここを舐めてんのやろ。変やない? 変やねん……。俺はもう、頭が変になってきてる。
 抱きたい、水煙。
 たった一度きりでも、当主になれば、皆それを許されたんやろう。なんで俺はあかんの。おとんなんか何回もやったんやろう。なんで俺はゼロ回なんや。
 そんなの、不公平やないか。
 朦朧としてきた頭で、俺はそう思っていた。
 何か変やで。自分が誰なのか、よう分からんみたいになってきた。水煙が好き。その気分に乗っ取られてて、何も考えられへん。
 夢中になりそう。溺れそうやねん。
 真っ青な、泡立つ白い海の波濤に揉まれ、不安でたまらへん。助けて。誰か助けてくれへんかったら、俺は波に呑まれてしまう。また、あの暗い、深い海の底に消える、ちっぽけな泡のようなもの。
 たまたま海神わだつみの、ちょっとした気まぐれに、月読つくよみが力を貸してやり、願いを聞き届けた。今ではもう、地球の海へと降ってもうた、かつての月の眷属の、たっての切ない願いやったから。
 波間から、青白い手に拾い上げられる幻覚が、俺の頭の奥深くに蘇り、その腕で抱き留められる安堵感で、俺は深いため息をついていた。
 水煙。
 今は俺の腕に抱かれ、守られてるようにすっぽり収まってしまう華奢な体やけど、かつて、それは俺を守ってくれる、世界の全てやった。腹が減ったら血をくれる。それには甘い、乳と密の味がする。
 怪異と連れ立ち、海から生まれ出た俺を、人ではない鬼やと畏れ、誰も彼も遠巻きに、崇めるやら嫌うやらで、何の含みもなしに、親しく付き合うてくれる者は誰もおらへん。幼い子供の時ですらそうやった。幼い子供らやからこそ、理屈ではなく心のどこかで、俺の普通でなさを察知していた。まともな子やない。神の類や。人でなし。近づいたらたたるかもと、囁かれて終わり。いつも独りぼっちや。
 それでもかまへん。
 俺には水煙が居るからな。愛してくれる。お前は愛しい子やと言うて、抱きしめてくれる。
 でも俺が欲しいのは、その愛やないねん。お前が鍛冶場の男を見る時の、その愛やねん。抱き合うて喘ぐ、その愛やねん。火のように燃える、その愛やねん。熱く蕩けて一体になる、その愛やねん。
 けど水煙は、その愛ではないと言うてた。
 嘘や。嘘をついてる。悦んでたはずや。無理矢理やったが、それでも悦んでたはずや。
 嫌なら逃げられたやろう。逃げようとした。
 それも嘘。まさか本心やない。
 だって、お前が好きや、抱きたいと言うたら、水煙は震えた。それはきっと、悦びの震えや。そうに違いない。そうでなきゃ、なんで力ある神が、たかが人の子の呪いにかかる。俺のほうが強いとでもいうんか。月から落ちてきた神よりも、たかが半神半人の、海の泡から生まれ出た俺のほうが、通力つうりきがあると?
 お前はほんまに、俺を拒んでるのか。俺が嫌いか。愛せへんのか。俺に抱かれるのが、そんなに嫌か。
 逃がさへん。
 逃げるために生えてる足なら、萎えてしまえとしゅを放ったら、水煙は歩けへんようになった。あらがうための腕なら、萎えてしまえと呪ったら、水煙は非力になった。そうなりゃ、もう、赤子の手を捻るようなもん。水煙が、俺のおとんやと思うてる男と契った砂浜で、滅茶苦茶に犯してやった。それでも文句は言わへんかったで。おとんのことなんか、忘れてしまえと命じたら、あっさり忘れた。
 それからずっと、俺のもんやねん。俺は水煙と、永遠に生きていく。神やから。俺も神やから、老いぼれて死ぬわけがない。何かの間違いや、俺が死ぬなんて。ずっと若いままで、三百年も生きていたのに。そんな一生に、まさか、終わりがあるとは……。
 身内で語る声が、深い無念の息をつき、俺はそれに耳を傾けていた。これが鬼や。うちの家に、俺の血の中にずっといた、鬼の正体で、こいつが全ての元凶やったんや。
 俺を乗っ取ろうとしている。俺が血筋のすえに生まれた不死人で、げきとしても、申し分がない。水煙と、永遠に生きていける。愛してもらって。ずっと抱き合うて。俺がお前を愛してるって言っても、水煙はもう拒みはせえへんやろう。俺のことが、こいつは好きでたまらへんのや。
 抱いてほしいって、悶えてる。たった今この腕の中にある青い体が、もどかしそうに悶えてる。俺と抱き合いたくて。熱く深く入り交じる、神とげきとの和合。とうとう何のわだかまりもなく、心底から求めてくれるやろ。抱いてくれって。
「アキちゃん……」
 愛撫に潤んだ黒い目で、水煙は俺を見つめていた。その瞳のない黒い目を、覗き込んでる俺の姿が、夜の水鏡に写るような、ぼんやり暗い男のように見えていた。これは誰やろう。ほんまに俺か。まるで飢えてる鬼みたい。水煙食いたい。水煙食いたい。そう吠えて、のたうち回る蛇みたい。
 もともと俺は、人の子やなかったんやな。血筋の始めにいた奴は、人でなしやった。その血が薄まらんように、血の近い者どうしで血を撚り合わせ、何百年と生きてきた、怨霊を運ぶための血筋やったんや。少なくとも、秋津の開祖であった男にとってはそうや。
 もともと蛇やったんや。亨のせいやない。
 なんで蛇なんや。
 それは最初の男が、ほかならぬ、水煙の子やったからや。そうに違いない。月読つくよみから落ちてきて、海神わだつみに身を任せたが、結局人の子に惚れて、その男は刀鍛冶やった。冥界の火に、仕えている男やねん。
 その火に焼かれ、水煙は隕鉄から太刀に、作り替えられた。冷たい月と海に連なる身の上でありながら、時には熱く燃える。二股かけてる。そういう不実な神で、結局今まで、誰のもんでもなかった。誰にも自分の愛を、永遠には独占させへんかった。満ちては欠ける月のように。一時熱く燃えあがっても、やがては痩せゆく愛や。
 それでもいい。寄せては返す波のように。引いては満ちる潮のように。揺らめくような愛でも、満ちる毎にまた俺を、愛してくれれば、それでいいんや。
 愛し合いたい。水煙と。
 お前の体を、俺に寄越せ。お前はもう、充分に生きたやろ。お前の父も、二十一には死んだ。親と同じだけ生きられれば、それで充分やろう。お前にも猶予は与えた。人生を楽しむだけの時間は、くれてやったはずや。
 もう、ええやろう。そろそろ、ぼんくらのふりはやめて、天地あめつちの力に満ちて、自在に通力つうりきを操れる、神のごとき体を寄越せ。お前は俺の作品なんや。幾世代を経て織り上げた、血筋の末裔で、俺の第二の肉体として、予言された子やねん。
 お前の運命はもう、とっくの昔に決まってた。俺がもらう。太刀も。この肉体も。そしてまた、この島の、鬼道の王になろう。この島だけやない。東海の果ても。さらに遠い西方の国々も。凍るような海も。熱く乾いた砂の海も。全て支配して、そして永遠に生きるんや。俺の愛しい水煙と。
 そうしたらきっと、こいつもとうとう認めてくれるやろう。自分の相手に、俺より他にふさわしい男はいない。
 伊勢の刀鍛冶やと。そんなもん、屁でもない。たかが人間やないか。
 炉に燃える炎にだけ魅入られて、すでに打ち終えたお前には、もう見向きもせんような薄情者や。神のごとき太刀でも、打ち終えてしまえば興味がない。それを振るうのは刀師とじやない。太刀を求める男どもに、いくらかの金銀と引き替えにして、お前を売ろうという男なんやで。
 愛しているとお前が惚れても、その瞳から目を逸らした。そんな不甲斐ない男や。
 そんな男の、どこがええんや。俺のほうがいい。俺のほうが、お前を愛してる。お前を幸せにしてやれる。幸せに、してやりたいんや。
 哀しそうに笑う目は、もうやめてくれ。にっこり笑ってみせてくれ。幸せそうな顔で、俺を見てくれ。愛しい、頼もしい連れ合いを見る、俺に恋をしてる目で。
 ちょうどお前がこの、血筋のすえに現れた、ぼんくらの小僧を見るような、そんな目をして俺を見てくれ。俺を見てくれ水煙。お前はもう、俺を見てない。俺を待ってはいない。あろうことか、この小僧に惚れている。俺を黄泉がえらせるための、永遠に若い肉体を与えるだけの、ただの小僧や。お前はそれに、懸想けそうしている。
 なんでそんなことができるんや。破廉恥な淫売め。誰でもええのかお前は、俺でなければ、誰でもええんや。それとも俺の番は、もう終わったとでも言うんか。
 死にたくない。お前をずっと、俺のものにしておきたい。我がものとして、いつまでもお前と、一心同体でいたい。ただ俺は、お前のことが、好きやっただけやねん。褒めてもらいたかっただけ。愛しい子や、ようやったと、お前に認めてもらいたかっただけやねん。
 そやのに、なんでや。お前はこんな小僧が好きなんか。俺よりも、こいつに身を任せようというのか。お前には、恥はないのか、水煙。俺を見てくれ。俺だけを、愛していてくれ。俺に抱かれて悦べないというんやったら、他の誰ともその悦びを、分かち合え無い体にしてやる。お前のことを、呪ってやる。ずっと永遠に、お前を愛してやるのと同じだけ、呪い続けてやるからな。
 苦しめ、水煙。お前を想って、俺が苦しんだように。お前も永遠に、苦しむがいい。全霊をかけて、呪ってやる。この愛と怨念を、呪詛にかえて。
 結局、お前にとって俺は、何者やったんや。教えてくれ。教えて。水煙。もう俺のことは、忘れてもうたんか……。もう一度だけ、抱き合いたい。もう一度だけでもええんや。お前に触れたい。もう一度。もう一度だけ。俺の水煙……。
「どうしたんや、アキちゃん」
 呪詛の男が言うてたような、哀しい目をして、水煙は俺を見つめていた。それをじっと、並んで浜に横たわり、抱き寄せて見ていると、俺も哀しいような気がした。
「お前を抱きたい」
 朦朧パワーかなあ。よう言うよ、俺も。おかしいなあ、最初の決意はどないなったんやろ。真逆のこと言うてる気がするねんけどなあ。きっと怨霊のせいや。そうに違いない。怨霊って怖いなあ。全て怨霊がやったことです。俺は取り憑かれてただけ。
 水煙は一瞬、ぽかんとしていた。唐突すぎたかな。そうでもないよな、状況的に。
「え……?」
 すごい遠い目で、聞き返された。それでちょっと、俺も我に返ってきたよ。俺、今、何言うた? 何かすごく、とんでもなくまずいことを、言うた気がするなあ。
「抱きたいって……あれのことか?」
 大きな目で瞬いて、水煙は戸惑い声やった。
 あれって何やろ。
 俺はふるふる首を振って否定した。あれのことではないです。あれのことやけど。恥ずかしい。水煙にそんなこと頼むのは。
 第一、どないしてやるねん。そんなことに対応できる体してへんのに。
 でも、きっと何か、やりようがあるんやで。でなきゃ、おとんと何度も寝られるわけないやん。ちぎった言うてたやん。ちぎるって何。具体的に何すんの。俺の乏しい認識によれば、それは古めかしい日本語で言うところの、つまり、その、性交渉のことを意味してるはずやで。それとも違うのか。俺の超恥ずかしい事実誤認か。
「ほんまにそんなこと、思ってるんか?」
 水煙は震えた声で、俺に訊ねた。嫌なんかな。嫌?
 でも、この前は、抱いてほしいって言うてたやんか。あれはもう無効? それとも、まだ、有効? 無効? 有効?
「ごめん……嘘。そんなん思ってへんから……怒らんといて」
 恥ずかしなってきて、俺は目を逸らし、嘘をついていた。せやけど俺は嘘が下手。顔見ればわかる。増して水煙は俺の心を読めるはずやしな。バレバレやんか。
 それでも水煙は、ビビったらしい。俺の読心をするのを、躊躇ったようやった。ナイーブな話題やからな。読んでもうて、もし、どえらく傷つくようなことを俺が思っていたら、痛い思いをするやろう。俺が水煙には全然欲情せえへんなんて、そんなことがもし分かったら、凹むよな。水煙は俺のこと、好きなんやから。
 しかし読めば良かったというかな。読まれへんで俺も助かった。恥ずかしいやろ。ムラムラ来てるのがバレバレやったら。いくら俺でも恥ずかしい。
「思ってても……怒ったりせえへんよ。そうやったら、嬉しいくらいや。俺もアキちゃんと……その。したいから」
 えっ、なに? 最後んとこ聞こえへん。ものすご小さい声やった。ほとんど息だけやで。
「したいって、できるのか!?」
 アキちゃん思わず叫んじゃったよ。だって、びっくりしたんやもん。これまでの常識が覆された瞬間やで。俺は水煙はそういうの不可能なんやと思うてた。だって。ほら。無いから。入りたくても、入り口がね。
 叫んで問われ、水煙は真っ赤になっていた。つまり、真っ白に。それでも歯を食いしばったような、難しい顔を作っていた。面子があんのやろ。お高い神さんやから。
「で……できるよ。ただ、お前はあんまり、好きやないかもしれへんども……アキちゃんは、まあ……嫌いということも、なかったような」
 おとんの話をせんといてくれ! 萎えるから! いや、それでええねんけど。むしろ萎えといたほうが無難なんやけど。せやしもっと聞くか、おとんの話を。アキちゃん灼けて泣きそうなるけど、しゃあない。聞いとくか。
「やってみるか……お前も。曲がりなりにも、当主なんやし。ただの儀式や……そんなんせんでも、俺はお前の太刀やけど……もし、お前がしたいんやったら」
 何をするのか分からんもんやから、したいかどうか分からへん。そのはずやのに、したいしたい、したいです、みたいなのは、何なんやろなあ。男の性か。
「どうせ夢やし……ジュニア。目が醒めたら、忘れてる」
 俺の腕に、怖ず怖ず手を絡めてきて、水煙はそれで、誘っているつもりのようやった。水地亨の強いお誘いに比べたら、呆気にとられるほど、奥ゆかしい。
ちぎらなあかんねん……正式には。でも、お前は嫌なんやろうと思って。俺とするのは、気持ち悪いやろ。亨みたいには、いかへんのやし」
 何が起きんの。俺の体に。くよくよ言うてる水煙に、俺は少々、恐怖を覚えた。外道やねんしな、どんな怖い目に遭わされるか、それは覚悟しといたほうがええか。ここはイイ子で、指一本触れず、形式だけで初夜を終えるべきか。元々はそのつもりやったんやしな。
 呪いを解いて、怪我を治してやるために来たんやで。俺、それを忘れてる。水煙の体にはまだ、俺が食い残した傷があった。まだまだ半分くらいやで。
「地球のやつらは、不思議なことをするねんなあ。なんで愛し合うのに、体を繋げなあかんのや? そんなの変やと思うんやけど……でも、気持ちのええもんらしいしなあ」
 らしいしなあ、って……。お答えしにくい。ていうか、とぼけんといてくれ。お前もいっぺん味見したやないか。俺とキスして、それがどんな感じか、初体験してたやないか。むちゃくちゃ凄いて言うてたやん。気持ちよかったんやないんか、あれは。蕩けそうな可愛い声出して喘いでたやん。思い出すにつけムラムラするわ。
 俺がとっさにそう思うと、水煙はさらに、じわりと白い顔になった。今度は心を読んでたらしい。
 どこから読んでたんや……。それに俺は頭がくらくらした。一瞬でいろいろ考えすぎた。反省。
「ああいう悦《よ》さなんか……ここも」
 ここも、って。それはどこやねん。そんなん、俺の急所に決まってるやないか! いきなりすぎる! 何か前触れとかないんか、水煙。いきなり急所攻撃か! さすがは居合いの達人たちと連れ添った剣や! 避ける間もない!
「あ……っ」
 俺は呻いた。くらっと来た。ぎゅうっと握られて、一瞬息止まるくらいかった。もともと欲情してたんや。隠し切れへん。
 知らん奴とは怖ろしいもんや。普通、多少の遠慮があるやろ。手を握るのとは訳が違うんやから。なんや。その。感度において。
 良かったわ。水煙に非力の呪いがかかってて。これがもし、普通の力か、神様級の怪力で、力一杯握られてたら、夢でもショック死してたかもしれへんで。そんな死にオチ嫌すぎる。
 しかしな、ご先祖様とは有り難いもんや。初代の男がかけた呪いのせいで、水煙には大した握力はない。それに力一杯握ったわけでもない。ただ遠慮無く触っただけ。手を握る程度。せやから痛いわけやない。痛くはない程度。だから極めてヤバい。脳天ガツンて来る程度。しかも興味でもあんのか、普通にさわさわされた。穢れないような、つるんとした黒い目で、じっと見つめて。
 見るな。超恥ずかしい。
「あ……あかんて……水煙。何をするんや急に……」
 若干、息も絶え絶えな俺なんやけど、勘弁してくれ。しょうがない。夢の中やで。服着てんのやら、裸なんやら、よう分からん感じやし、なんかこう、着衣の上からという感じではなかった。生々しかった。水煙の指の感触が、かなりダイレクトやった。
 冷や汗出てきた俺を眺めて、水煙は、気まずそうに言うた。
くないか。亨が、地球では欲しいとき、こうやって誘うんやって、言うてたんやけど?」
 そんなん、いつの間に聞いたんや。あいつはお前に、何をレクチャーしてたんや。
「道場から帰るとき、車の中でそう言うてたで。口で言うたわけやないけど。でも、あいつもこうしてたやろ。気持ちええから、するんやろ?」
 さらに、ぎゅうっとやられて、俺は堪らんかった。若干、痛い。痛いような気持ちいいような。水煙に、こんなことされてるなんて、気持ちいいような。やったらあかんような。手の感触が、冷たくて、すごくやわい。震えそう。
「あのな……触ったことないんか。もっと、そうっとやらなあかんで……敏感、なんやし」
 俺がくよくよそう言うと、水煙はびっくりしたような、照れたような顔をして、指を緩めた。ほんまに初めてやったらしい。
 手でも握ってるようなつもりやったらしいで。ほんまに知らんのや。びっくり。マグロやったらしいで、代々の初夜の新床では。
 それにしたって……ほんまに男か、水煙。わかりそうなもんやろ、自分も男なんやったら。
 きっとこいつには、性別がないんや。男でもないし、女でもない。鉄やねんしな、考えてみれば。武器やし、話す口調も男っぽいから、なんとなく男かなと、そう思えていただけで、実は男の子の気持ちなんか、ちっとも分かってへんのや。
 ひどすぎる、宇宙系。
 きっと初代の男も、ぜんぜん分かってもらえへんかったんや。何で抱きたいか、共感を得られてへんかった。
 まさかと思うが、水煙は処女受胎か。いや、受胎したわけやない、めすやないんやしな。けど、秋津の当主を世に生み出した時、ほんまにその刀師とじとセックスしたのか。実はプラトニック・ラブやないのか。そんな予感がうっすらします。肉体関係がなかったんやないかと。
 それは、俺の子やないと思われるわけやで。だって、することしてへんのに、子供だけできちゃったって、それはあまりに、当時の地球の常識を外れてる。今ならあるかもしれへんで、知らんうちに体外受精とかな。気つけなあかん。もはやSFが現実になっている時代なんやから。せやけど古代やしな、そんなこと、ピンと来えへんかったやろ。
 つまり最初の秋津暁彦君は、SF小説ふうに言うと、宇宙人と地球人を両親として、体外受精によって生まれた子やったんや。月がそれに命を与え、海が代理母。そんな非常識すぎる家系やったんや、うちは。
 そんなもんやから、水煙はびっくりしたんやろう。最初の暁彦君に、俺とやろうと求められ、何をすんのか分からんかったんかもしれへん。何でそんなことせなあかんのかも、実を言うたら今イチ分かってなかったんかもしれへんわ。きっと戸惑って、パニくっていた。
 好きやとするねん、地球人は。性交渉を。昔風に言うと、ちぎるんや。共寝する。エッチするんや。それは通常、地球人の恋愛の基本やねん。もちろん手も触れぬ愛もあるやろけどな、大体の場合において、恋愛感情を突き詰めていくと、そこへ行き着く。性欲と連動してんのや、地球人の恋愛は。
 俺のも連動してる。ものすご連動してる。だから触らんといて。もうええやん。なんでいつまでも触ってんのや。珍しいんか、水煙。UFOに攫われて身体検査されてる地球人の男か俺は。
「アキちゃん、やりかた、教えて……」
 上目遣いに、そんなお強請りされて、俺がもしまだ中学生ぐらいやったら、鼻血吹いてる。よかった大学生で。あかんあかん無理やからって、小さく首振るだけで堪えた。水煙はそれに、極めて残念そうな顔はしたけど、触るのやめてはくれへんかった。
「なんでこんなふうになるの?」
「そんなこと俺に訊くな。近所の中学で保健体育の授業でも受けてきてくれ」
 俺は泣いて頼んだ。水地亨とは逆の意味でものすごい。何でも知ってる凄さには、亨やおぼろ様で、なんとなく耐性がついていた恥知らずの俺も、水煙のこの、なんも知らん凄さには、かなりお手上げやった。
「触ると気持ちええのか?」
「ほんまに知らんで訊いてんのやろな。俺をからかってんのか!?」
 いろいろ検分しようという手つきの水煙の指を、俺は慌てて退けさせた。ほんま勘弁してくれ。指や手が、異様に柔らかいねんから。何か別のもんに包まれてるような感触がする。我慢できへんようになる。ものすごやりたい。
「皆、はあはあ苦しんで、しんどそうやったから、もしや痛いのかと思うてた」
 それは喘いでんのや! マジボケも大概にしてくれ。
「お前にとっても、えものか? 交わって睦み合うのは。俺には、わからへん……俺もしてみたい。亨みたいに。お前ので突いてもらって、喘ぎたい。溺れたい、お前との和合に。痛いやろうか、お前が好きでも。すごく好きでも、痛いもんは、痛いやろうか……俺はいつも、痛いんや。そういう呪いが、かかってるんや。でも、痛くてもええから、お前としたい。愛し合いたい。貪られたいんや、お前に……」
 照れくさそうに、水煙が頬染めて言うもんやから、俺はくらくらした。
 やりたい。手を退けさせた後の、放置されてる感覚も、恥ずかしいぐらい、もどかしい。ムラムラしてる。我慢している自分を感じる。
 でも、水煙は、痛いらしい。地球人とちぎるのが。
 秋津の代々の当主は、儀式というか、単に水煙としたいから、ご神刀をモノにした男の権利として、水煙と共寝していたわけやけど、それをやっても、てめえはいかもしれへんけども、水煙は痛い。せやし、それは初夜の一回だけにしとけという習わしなんや。あとは我慢。やりたきゃ他のしきとやれと、そういうルールになっていったわけやな。
 水煙にとっての愉悦は長年、剣士と太刀との一体感の中にだけあるもんで、布団の中には無いモンやった。ことさらそれを求めもせえへんかった。必要な時だけ目をさまし、あとは蔵で眠っていた。目覚めていても、ろくなことない。自分の連れ合いが、他のと睦み合うのを見るのは耐え難かったし、そんなもんをあえて見せる当主もおらへんかった。
 漠然と、それは穢らわしい行為やと、水煙は思うていたらしい。抱き合うて喘ぐなんて破廉恥や。アホのすること。何の意味もない。自分はそんなこと、しとうないと、ずっとそう、自分に言い聞かせてきた。そうして我慢してきたんや。抱き合うて、甘く酔えない、我が身の切なさを。
 その水煙様を開眼に導いてもうたのは、誰あろう、水地亨や。もしくは俺かもしれへん。水煙居るわって、うっかり忘れ、夢中でちぎる有様を、つぶさにお目にかけちゃったから。それまで他人のは見たことなかった、極めて初心うぶな神さんに、アキちゃんすぎる、もっと突いてとか、あからさまによろこんで、ひいひい言うてる蛇を見せちゃった……。
 水煙は、それが、羨ましかったらしい。あっけらかんとたのしんでいる水地亨が。そんなにえのかと、自分もやってみたかった。我慢でけへんようになった。その、抱き合うて喘ぐ喜悦の世界を、自分でも堪能してみたくなってもうたわけ。目覚めたんやな、いろいろ。地球型の恋愛に。
 水煙もな、不感症ではない。むしろ、どっちかいうたら敏感なほうやないか。だってキスだけで、イってまうくらいなんやしな。ものすご可愛い。それは余談や、すみません。
 ゆっくり愛撫して、キスしてやれば、水煙だって心地よくなる。でも、それをやってやった相手が、過去に一人もおらんかったわけや。おとんですら、ビビってせえへんかった。水煙様にキスするなんて、畏れ多いことやったんや。
 なんせ一生に一度、一晩の夢ん中だけで、一度抱き合うだけの逢瀬やで。しかも先祖代々の言い伝えで聞かされている。水煙は、エッチは嫌い。めちゃくちゃ痛いんやと。悦んでんのは、お前だけ。せやしお前は神を苦しめないように、極力さっさと済ませろ。最速記録更新くらいのノリで。あっというまに終わらせろ。それが作法やと。
 もしやと思うが、俺は水煙にディープ・キスした最初の男か。ぼんくらやったお陰やな、それは。作法やなんて、なぁんも知らんかったからこそ、常識を覆すことができたわけやな。
 でも、そんなん基本やろ。普通するやろ、キスくらい。燃えてきたら舌入れるやろ。俺が変態なんか。そんなことはない! 皆やってる。絶対やってる。絶対普通や、地球では。
 だいたい、前戯もなしで、いきなり突っ込む奴が居るか。そのほうが変やねん。変やと思わへんかったんか、おとん。したくなかったんか、キスぐらい。したいけど我慢したんか、皆さん。変やねん、うちの先祖は。必死すぎ。
「アキちゃん……今夜のこれは、初夜の儀式やろ。抱いてくれるんやろ」
 もじもじ嬉しそうに、水煙は俺に訊ねた。それは誤解やとは、言いにくかった。確かに初夜の儀式のつもりではあったけど、ほんまにやるとは思ってなかった。眠るだけかと。
「蔦子か茂にでも、不作法を咎められたんか。嫌なんやったら、別にええねんで。ほんまにただの、形式なんやしな」
 どきどきしたふうに訊いてくる水煙は、ほんなら止そうかと俺が言えば、傷つきそうな顔してた。抱いて貰えるんやと、信じ込んでるようやったんで。
「痛いのに、したいんか?」
「お前は気持ちええんやろ。俺もお前を、くしてやりたい。亨みたいに」
「キスするだけやったら、あかんか」
 気合いの出ない逃げ腰で、俺は訊ねた。水煙はちょっと憂いのある笑みで、それに答えた。
「キスしてくれるんか」
 それが嬉しいみたいやった。まるで、そんなこともう一生ないわと思うてたみたいに、水煙は意外そうやった。
 その、待ってる吐息の唇を見つめ、俺は慌てた。
 やばい。なんかキスすることになってきた。それに俺はキスしたい。水煙と。なんでしたいんや、俺。というか、何で今までの当主は我慢できたんや。その極意を今すぐ知りたい。
 してもええんかな。
 もちろん、あかん。あかんような気がする。
 でも、おぼろ様とも、いっぱいキスした。瑞希ともした。キスしてくれって強請られて。せやのに水煙とはあかんのか。なんであかんの。なんであかんのやったっけ。
 水煙の、うっすら開かれた唇の奥にある、綺麗に並んだ白い歯を眺め、悶々と自問自答している俺に、水煙はそうっと寄り添ってきて、自分から唇を合わせた。
 びっくりした。だって水煙が自分からそんなことすると思うてへんのやもん。
 けど、考えてみれば、初めてやない。京都のマンションで、初めて水煙が人型に化けた時にも、水煙にキスされた。
 柔らかな唇が触れ、ぺろりと小さい舌先が、俺の唇を舐めて、すぐに離れた。
 水煙はちょっと、照れくさいらしかった。
「口付けするのは、お前が初めてではないで。すまんけど。もっと軽いやつなら、俺を太刀に打った男とも、したことがある。一度だけ。してほしいって、何度も頼んだら、してくれたんや。それから誰にも許していない。不実に思えて……それだけは、守り通してきたんやで」
 間近に見つめ合い、驚いた顔をしている俺に、水煙は気まずそうに、苦笑を向けた。照れくさそうな顔やった。
「でも、お前とはしたい。なんでやろうな……お前とキスして、気持ちよかった。天にも昇る心地やで」
 恥ずかしそうに、俺に囁き、水煙は俺の手の、指先だけを握り、じっと求める目をした。抱いてくれって、その目が言うてた。
 お願いや、アキちゃん。俺をもう一度、天に昇らせて。
 胸に頬ずりしてくる水煙の声が、くぐもって聞こえた。声ではない、胸の内に響くような声で。
「夢やろう、アキちゃん。一晩だけや。それで一生、堪えるしな。たとえそれが永遠でもいい。いっぺんだけ、夢見せて」
 囁く声でそう言うて、俺を見上げる水煙は、答えを待ってへんかった。心も読もうとしていない。
 これは儀式や。それに夢やし。水煙は俺に頼んでる訳やない。水煙と一夜、共寝するのは、当主になった男の権利やったけど、逆に見れば、それは水煙の権利でもあった。一度だけちぎる。
 そして、それは、夢や。
 現実の位相から眺めて、現実ではない。夢の中の出来事でしかない。
「アキちゃん、お前が好きや。俺を抱いて、お前の形をつけてくれ」
 甘くのしかかってきて、水煙は俺をやんわり砂に押し倒し、腰のあたりに跨ってきた。ほとんど重さを感じへん。もともと軽いけど、ここはほんまに夢の中や。水煙の、ほの青い姿を見上げると、それはほんまに夢の中に現れた、謎めく神か妖精か、そんなもんに見えた。
「ちゃんと、最後までするって、約束してくれるか。俺に恥をかかせんといて」
 俺の胸に両手をついて、水煙はまた唇を寄せてきた。ミルクみたいな息が匂った。跨った内腿の、柔らかな肌を、愛撫するように押し当てられて、俺は呻いた。信じられへん。水煙が、こんなことするなんて。亨やったら、普通にするけど、水煙がやると、なんか途方もない。これは実は、俺の夢なんやないか。ただの淫夢で、俺の煩悩の顕れなんやないかと、気が咎めてしょうがない。
「アキちゃん……嫌かもしれへんけど、我慢してくれ。一度だけや。堪忍して……」
 水煙は、切なそうに頼み、俺とまた、唇を合わせた。
 早うせんと、俺が逃げると思うてるらしかった。静かな焦りの気配をさせて、前戯もなしで、入れる気らしい。
 だって前戯なんかしてもろたこといなんやもんな。皆、いきなり突っ込む男ばっかりやった。最低や、地球の男はみんな。というか、うちの先祖はみんな。
 初代からして強姦男なんやしな。絶対そうやで、そんな話や。逃げる水煙を呪力で縛って、全身萎え萎えにさせたところで、いきなり突っ込む野郎やったんや。焦ってたんやろ。拒まれるから。
 そら拒む。意味わからへんのやし。痛いんやから。
 そんな酷い目に遭わされて、よくも百年千年と秋津に仕えたもんやで、水煙は。他にも気持ちええようなやり方があるって知らんかったからやな。そういうもんやと思うてたんやろ。
 皆、俺のことは愛していない。気持ち悪いんやと、水煙は誤解していた。
 だから、代々の男も皆、さっさと済ませようとする。他のとやってるように、長々と睦み合うたりはせず、なるべく早く、早く終えようと、焦っている。嫌ならしなくていいと、止めはするけど、でもなんでか皆する。
 きっと嫌々、それでも神さんやから、しょうがないと思って抱いてんのやと、水煙は思うてたらしい。俺もそうなんやろうと。
 それでもしたいと、水煙は思うてたらしい。代々の当主にも、そう思うてた。惚れてたんやろう。義務やからでもいい。仕方なしにでも、一度だけでもいい、抱いて欲しいと。
 ただ剣と剣士の間柄。それでも一心同体となって戦うと、熱く燃える。そんな日には、それきり蔵に仕舞われるのが、切ないような気がしてた。もっと一緒に熱く燃えたい。でも、どうしたらええか、わからへんかったんやろう。
 誰もそれを水煙に、与えへんかった。ただ苦痛のある、一夜限りの交合だけしか。それでもないよりマシやったんや。水煙にとっては。それが実は、本音のところやった。口には出さない、胸に秘めてる、そういう想いの、一夜限りの結実や。
 この時も水煙は、いきなり俺のを呑んだ。
 跨ってる華奢な両脚の間の、何もない滑らかな肌に、残念なくらい激しく興奮している俺のを押し当て、ぎりぎり呑んだんや。
 びっくりした。入り口なんかないんやで。それ用の穴はなし。それでも水煙の体はふにゃっとしてて柔らかい。それに、ちょうどそこらへんに、特にヤワな部分があるらしい。
 名前の由来にもなっている、白い靄をかすかに発して、水煙は苦しそうやった。うんうん呻いていた。気持ちええんやない。痛いんや。俺に跨り、身を揉んで、歯を食いしばる様子は、どう見ても苦悶の顔やった。喘いでへん。耐えてるだけや。
「やめよう、痛いんやったら……」
 俺はドン引きしてた。だって苦手なんやもん。こういうの。萎えるんやもん、正直言って。
「やめんといて……お願いやから。逃げんといてくれ」
 汗の浮く顔の涙目で、俺は水煙に見つめられた。何かそれに、どきっとした。泣いてるみたいに見えたんや。痛くて泣いてんのかと思って、正直焦った。
 入るわけない。入るとこないんやもん。もうやめよう。別にただ、抱き合うて一晩過ごすだけやったらあかんのか。それでもええよ俺は。それでいい。もう、そうしようかって、口に出しかけた時に、水煙の喉が、くっ、と短い苦痛の声をあげた。
 ゆるゆる呑んでた腰つきが、急に覚悟を決めたみたいに、本気を帯びたように思えた。
 ぷつりと弾けるような感触がした。その、呑み込まれようとする接点で。そしてその次の瞬間、急激に、俺は呑まれた。ものすごく熱い、吸い付くような、激しい愉悦の隘路あいろの中へ。
 思わず悲鳴が漏れるようなさやった。咄嗟すぎて我慢もきかへん。でもその声は、自分の耳にも聞こえはせえへんかった。それより鋭い苦痛の声を、水煙が上げたので。
「ああ……っ!」
 喉からほとばしるような悲鳴やった。どこか裂けてる。そんな感触やったで。
 それでも堪えるふうな表情で、水煙は俺の肩を掴んでいた。逃がさへんというように。まるでこっちが襲われてるみたい。苦痛を堪えてんのは水煙のほうで、俺はめちゃめちゃ気持ちいいのに。その逆みたい。
 正直、かった。じいんと痺れてくるくらい。病みつきなりそう。ひたりと吸い付くような、熱い感触やった。形が合うてるとか、そういうレベルの話やないから。たぶん、今まさに開けてる穴なんやから。穿孔式ですよ。アキちゃん専用ですよ。そんなんが気持ちよくないわけがない。気まずいくらい、い。こんなん初めて。もう漏れそう。理性が吹っ飛びそう。ほぼ吹っ飛んでる。水煙が、痛いんでなければ、たぶんもうとっくに吹き飛んでいる。
「嬉しい……気持ちええか、アキちゃん」
 はあはあ苦しそうな涙目で、水煙は俺を見て、淡く笑った。
いけど……あかん、やめよう。血が出てる」
 滑りのある熱い血が、だらだら流れ出てるのが、見なくても分かった。見ようという勇気も出えへん。無茶苦茶すぎて怖い。
 萎えそうやった。精神的には。でも肉感的には、ものすごくい。欲と理性の鬩ぎ合いやで。でも、負けたくない。情欲に負けて、このまま蹂躙するというのは、俺にはちょっと、無理やねん。勘弁して。
「俺ではだめか、アキちゃん。燃えへんか……?」
 頭上から、泣きそうな声で言われて、俺は動揺した。
 水煙はほんまに泣いてた。大きな黒い目から、ぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちてた。痛いから、泣いてんのかと、そう思いかけ、水煙があんまり哀しそうな顔をしているのに気がついて、どうしてええか分からんようになった。
 俺はやめたい。このままやりたくない。でも、やめてもうたら、傷つくんやないか、水煙は。どっちの傷のほうが痛いんやろ。今、耐えてるほうの痛みと、お前とは、俺はやれへんて、俺が萎え萎えなって逃げてもうたら、水煙はそっちのほうが、痛いんやろか。
「ほんなら燃えへんでもええねん。最後までして。できるやろ」
 皆、したんやで。当主の義務や。ご神刀とちぎる。熱い精を与えられて、もう一度灼熱し、新しい当主の太刀として、打ち直されるんや。そういう儀式なんやで。それによって前の相手を、忘れられる。今はこれが自分のあるじやと、思えるようになる。これは、そういうまじないや。
 お前のものにしてくれ。心だけでなく、鋼でできてる、この肉体も。
 泣いてる目をして、水煙は、俺にそう言うた。それは懇願でもあるし、命令でもあった。俺を支配している神の声。俺に支配されようとしている神の声。
 涙の雫が、はらはらと胸に降り懸かってきた。熱い涙やった。
「……キスしよか、水煙」
 俺が誘うと、水煙はまだ、ぽろぽろ泣いてる顔のまま、ゆっくり頷いて答えた。
 そのまま、がっくり項垂れるようにして、胸に抱きついてきた青い体を、俺は砂地に横たえて、求めるように開かれた水煙の唇に、身を屈めてキスをした。
 必死やったで。キスなら気持ちよくなるんやって、それを信じて必死でやった。前もそうやった、水煙は。舌を絡めて、熱い口腔を撫でるうちに、だんだん悶えて、切ないみたいに喘いでた。
 この時も、そうやった。水煙は、触れあう唇の合間から、切なげに甘く喘ぎ、俺が逃げへんように、華奢な青い両脚を、俺の体を抱くように絡みつかせていた。それを抱き返してやって、強く抱いたら壊れそうな、ぐんにゃりしてる水煙の体にも、俺は愛撫の指を這わせた。
 だけど、困った体やで。だって地球人の掟を守ってへんのやもん。わからへん、宇宙人の性感帯なんて。わかるわけない。レベル高すぎ。
 それでも効いてる。水煙の体はどんどん熱く燃え、どんどん甘く高まって喘ぐ息も、のぼせたように朦朧として、熱を帯びていた。
「アキちゃんもして。気持ちよくなって。いつも亨にやってるみたいに」
 キスを振りほどいて、俺の首を抱き、水煙は懇願するような口調になった。
「つ……突けってことか? それは、無理やで……」
 痛々しすぎて、できるわけない。
「なんで無理なんや。亨はくても、俺やとあかんか。そんな気にならへんか?」
「違う。そうやない。俺はお前をもう、痛い目に遭わせたくないんや」
「痛くない……俺も気持ちええんやで」
 見るからに嘘みたいな事を言い、水煙は青い顔やった。それは文字通りの青い顔やったやろ。血の気がないんや。青ざめている。
「嘘やない。体は痛いけど、心はよろこんでいる。嬉しい、お前と一体になれて」
 俺の首を抱いている細い腕が、かたかた震えてた。それが快感の震えだけやとは、俺には思えへんかった。あまりの痛さに震えてるように見えて。
「お願いや、アキちゃん。この一度だけ。捨てる前に一度だけ。愛してくれ。それで、ちゃんと、諦めるから。お前を困らせへん。お前が祭主として、勤めを果たし終えたら、どこへなりと、消えるから、アキちゃん。一度だけ……我慢して」
 できへん、俺には。
 そんな顔した甲斐性無しに、水煙は業を煮やしたんか。換われというように、力のない手で促してきて、俺と上を換わらせた。そしてまた、俺に跨り、腰を使う水煙の動きは拙くて、亨の意地悪さとは比べモンにはならへん。でもまた別の、切なさがある。
 歯を食いしばって喘ぐ、その表情に、愉悦があるとは、とても思われへんかった。それでも隘路あいろに責め立てられた俺が、やむなく喘ぐと、水煙は、嬉しそうな淡い笑みを見せてた。
 水煙が、俺と抱き合う亨を眺めて、羨ましいと思ったのは、気持ちよさそうやったからだけやないらしい。俺のことを、歓ばしてやりたかったんやって。
 なんということや。恥ずかしい。こいつは俺を見てたんや。辛抱堪らん、好きや好きやて夢中になって、亨を責めてる、溺れた俺の激しさを見て、それほど好きかと切なく、胸苦しかった。それが抱くのが、亨やのうて、自分やったら良かったのにと、水煙は哀しかったんや。
 それが愛してるってことなんやと、水煙は思ってた。我慢できへん、抱きたいって、自分を犯した昔の男が、なにを思ってたか、今さらやっと水煙には分かった。あいつは自分を愛してただけやって。それで哀しくなってもうたんやろう。もう、何もかも手遅れすぎて、今さら言うてやられへん。自分もお前が好きやった。抱かれてよろこんでやりたかった。でも、その当時には、それが無理やった。今ももう、それは無理。
 水煙は、その男のことはもう、忘れてもうてた。昔の恋やった。
 訳も分からず通り過ぎてもうた、過去のルートで、今さらもう、巻き戻されへん。時は前に前に、未来へ未来へとしか、流れていかへん。遠い昔に流れ去った、遠い浜辺で起きた出来事は、ただの過去。それに追い縋る怨霊がいることを、水煙は知らん。
 なんで知らんのかって。
 知らんはず。知る必要ない。そんな奴おらん、もう消えたと、思っていてほしい。
 おとんは教えへんかったらしいで。自分の身の内に、怨霊がいるらしいことは。
 俺も、教えへんかった。
 なんで教えへんかったのかって?
 そんなん訊かれてもなあ。そうやなあ。なんでやろ。
 妬けたからやないか。
 俺は焼き餅焼きやねん。おとんもそうやろ。おんなじ性格なんやから。しもかしたら代々の当主も、似たようなもんやったんかもしれへんな。
 許せへんねん。水煙が、自分ではない誰かのことを、想うてるなんて。許せへん。お前は俺の剣。俺だけ見てればええねん。許せへん、ちょっとだけでも、他のを見るのは。
 初代の男は海から生まれ、確かに月と海との眷属で、冷たい水の属性を持っていたかもしれへんけども、それは秋津の性質の、半分でしかない。もう半分の秘められた属性として、俺には火のように、熱く燃えてるところがあるんや。めらめら燃えてる。鉄も煮溶かすような、灼熱の鍛冶場の炉の火やで。
 怨霊の独白するのを聞いて、なんやとこの野郎と思ったんや、俺は。正直言うてな。
 よくも俺の大事な水煙様を、浜辺で強姦とかしやがったな。痛い言うてるやろ。やめてやれ。人でなし。俺も若干痛いことをしたんかもしれへんけど、それはいい。だって合意の上やしな、抱いてほしいて言うてんのやから。それに水煙は、俺の剣や。俺の神。俺のもんやねん。それが名実ともになっただけ。
 結局そこやねんなあ。諦めきれへん。
 もう捨てなあかんて、決心をして、そうするつもりで行ったのになあ。全然あかん。結論から言うて、この、一夜かぎりで諦める作戦も、百パーセント失敗に終わった。
 苦痛をこらえて、俺を愛撫する水煙の、泣いてる顔が愛しくてたまらへん。なんかもう胸がぎゅうぎゅう締め付けられてる。他のところも締め付けられてるけど。それが相まって、もうたまらん。あまりの切なさで、気が狂う。
 可愛いすぎるねん、水煙。無理やから。どないして諦めんのか、さっぱり見当つかへんのやから。困ったなあって思うけど、どう考えても愛してんのやから。亨の次やで。亨の次。それは確実にそうなんやけど。ほんまに次かな。並列? 俺ってちょっと、人格が分裂してんのやないか。
 神さんの手で引き裂かれてるような苦痛があってな、いつも、しんどいしんどいって思うてたんや。痛い痛い。心が二つに、三つに、四つに、五つに……それは多すぎか。とにかく、引き裂かれそう。そう思えて、死にそうにつらいねんけども。
 ほんまに裂けてきてるんとちがうか?
 この夜、初めてそう思うたわ。分身しかけてんのやない? 俺って。
 だってな。世界一好きやと思った。水煙のこと。宇宙いち好き。愛してる。ずっと俺のものでいてくれ。永遠に離さへん。離したくない。誰にも渡したくない。ずっと一心同体でいたい。俺の神様!
 畜生、なにが怨霊や。向こうは海から生まれた半神半人かもしれへんけどな、こっちも外道や。なんやら、とんでもない規模の力に目覚めてもうた。今は蛇口閉めてあるけどな、水煙が閉めてくれたんやけど、やろうと思えば、大開放にもできるんやで。アキちゃん最大出力も、ありなんやで。
 負けへん。俺のほうが強い。何が初代・暁彦や。こっちは末代や! 俺の後にはもうアキちゃんおらへん。三百年も水煙を独占しとったくせに、何が不満なんや。俺なんかまだ一年経ってへん。そやのに俺は水煙をちょっとは幸せにした。キスして愉悦のお味見をさせた。それで終わりと思うなよ。まだまだ行ける。三百年かけても進歩なかったお前とは、俺は出だしからして違うんや。
 水煙様に呪いなんかかけやがって。俺も二回かけたけど。ちゃんと解いといた! ごめんて言うといた。水煙、かまへんて言うてくれてた。
 俺のことを愛してんのや。初代やない。末代のほう! 引っ込め初代。俺のほうがいい。意地でも。俺のほうがふさわしい、水煙様には。
 俺がずっと、幸せにしてやりたい。水煙のことを。
 確かに俺も切ない。水煙がいつも、哀しいような微笑みで、俺を見るのがつらいんや。
 にっこり幸せそうに、笑っていてほしい。たとえ異形の神やと、人が畏れ、忌み嫌っても、そんなんかまへん。俺は愛してる。わからへん奴がアホなんや。目が腐ってる。
 水煙のことは、俺に任せろ、ご先祖様。成仏しろ。もう帰れ。すでに死人の分際で、生きてる俺からしきを盗ろうやなんて、甘いんや。
 お前はエッチが下手。それだけでもダメ。おぼろ様にボロクソ言うてもらうぞ。めちゃめちゃ傷つくぞ。俺なんか、あと一歩で再起不能やった。傷つかんうちに去れ。
 リベンジ来るなら迎え撃つ。確かに水煙様は、執着するに足る神や。優しいし。健気やし。そして可愛い。俺の神様。好きや。めちゃめちゃ愛してる。ほんま言うたら俺は嬉しい。お前が俺のことを、愛してくれてて。ずっとそのままでいてほしいんや。ずっと永遠に、そのままでいて。俺の水煙様でいて。愛してる。愛してる。お前が好きやねん。ずっと好きやった。我慢して、堪えてただけ。その想いに、溺れへんように。
 でももう無理や。我慢でけへん。我慢、したくない。もう、無理や。お前を激しく愛したい。溺れたいねん、お前の中で。
「いきそうや……」
 もうくずおれそうな水煙の、震える青い柳腰を抱いて、俺はそれを教えた。こっちも少々、震えが来てた。極まり切れへん、つらさもあって。
 あかんわ、もう、体のほうが正直で。めちゃくちゃ気持ちいい。この締め具合。普通でない。魂吸われてるような感じがする。じっとしてられへん。我慢できへん。理性がブチブチ途切れてきてる。まさに夢中や。頭真っ白なってきてる。
「突いてもええか。急いでやるから」
 そんなんしたらあかんて言うてる理性の声が、頭の片隅で聞こえたけども、俺は夢中でそう頼んでた。あかんあかん、理性の声が消音モードに。
「好きにしてええよ。愉しんで……中に出してな、アキちゃん……そういう、儀式なんやしな」
 熱を持った手で、頷く俺の頬に触れてきて、水煙は嬉しそうに笑い、それでもぐったりとして、俺に押し倒されていた。
「キスしよか……俺は一緒にいきたいんや」
 せめてお前も気持ちよくなってくれ。自分だけければいいというもんではないねん。愛やから。
 きっとお前は代々の男にとって、確かに鬼みたいな神やったやろ。くしてやりたい、よろこばせてやりたいというのが、愛ある地球人の本能で、だから抱きたいと思うのに、お前にはそれはずっと、無理やったんやしな。結果、虚しい独り善がりや。それでも抱きたい。抱いても切ない。痛い言うてるお前を抱いて、俺も泣きそう。そんな思いをさせられて、皆、つらかったやろ。
 水煙。お前はつれないねん。すぐ諦めるし。お高いし。もっと我が儘言うてくれたらええんやで。亨とか、瑞希みたいに。もっと甘えて、俺に頼ってくれてええねん。確かにちょっと頼りない。お前みたいな年食った神さんから見て、俺はちょっと情けないんやろうけど、でも、もっと、俺にデレデレしといてほしいねん。信じてほしいねん。俺がお前を、幸せにしてやれるってことを。
 無理やろか、それは。自惚れ過ぎか、俺は。
 確かに、ノー・プランやで。長期的には。でも今この瞬間に、お前に天にも昇るような愉悦を、与えてやることぐらいなら、俺にもできる。せめてそれぐらいさせて。
 頬を包んで、キスをして、水煙の、感じるところに舌を絡めて、甘く喘ぐ唇を責めてると、青い美貌の眉間に淡く、切なげな皺が刻まれて、それがだんだん、深い陰影になった。
 喉を喘がす小さな呻き声が、苦痛ではない何かにすり替わり、なるべく痛めつけへんように、でももう堪える余地もなく、華奢な体を責めてる俺の背に、水煙の指が焼け付くような熱さで縋った。灼熱している、熱く燃えてる、神の手や。背を焦がす、それは心地良いような痛みやった。
「アキちゃん……アキちゃん……凄くいい。こんな気持ちになったの、初めてや」
 息継ぎしてる俺に、水煙は、ぶるぶる震えて、またキスを求めた。もっとしてと、甘く強請る唇に捕らえられて、俺は満足やった。そして最後の坂を追い上げる、そんな激しいキスの後、水煙は俺の背をいて、不思議な甘い悲鳴とともに絶頂を極めた。
 神様の、この時の声って、ええなあ。ほんまに痺れる。
 こんなん聴いたら、俺はもう、我慢でけへん。
 長らく堪えた想いを遂げて、俺も水煙様の、中で果ててた。ああ、好きや水煙、たまらへん、俺のもんやって、思えたし。もしかするとそれに類する言葉を、口走ってたかもしれへんな。わからへん。夢中すぎて。必死やねん。
 まあ。ほら。夢やしな。夢やから。堪忍してくれ。
 でも、それを聞き、水煙は肉体の絶頂よりもなお、感極まったような声で答えた。
「アキちゃん……好きや。好きや。……好きや。俺のこと、忘れんといて。時々でええしな、思い出してくれ。お前の望むような姿でええねん。それが俺の、ほんまの姿やで」
 じゃあ、今の、この姿かなあと、俺は他意なく言うた。
 俺って、自分で言うのも何やけど、ちょっと天然やねん。無心のときが最強やねん。なんでかなあ。おとんの血かなあ。狙ってない時にこそ、時々名台詞を吐くらしいねん。
 この時もそうやったらしい。
 まさかと思うが、いつもお高い水煙様が、俺の胸に取りすがり、まるで狂ったように情熱的やった。熱く燃えてた。アキちゃん、好きや好きやと言うて。
 俺はそれを抱きしめた。偉大な神でも、この時ばかりは、腕にすっぽり収まるような、小さな愛しい肉体やった。
 その肌にまだ残る、暗い呪いの痕を、俺はたっぷり時間をかけて、喰らいつくした。水煙がもう、どんな痛みも感じないように。
 それから、どれくらい過ぎたか。絡み合って無限にキスして。何度もいかせて。水煙がもう、快楽の声を堪えるのを、忘れるようになるまで。白い砂にまみれて、波打ち寄せる浜辺で、果てしなく睦み合っていた。
 やがて、ぴくりとも動かんかったはずの暁月ぎょうげつが、不意に薄まり、何とはなしに、笑ったようやった。
 そして目映いような朝日の閃光が、豊かに波立つ海の向こうから、鮮やかに射してきた。
 夜が明けるらしい。
 ずっと止まっていた時が、この小さな世界でも、流れ始める。ここでの出来事を、過去のこととして、また時が進み始めた。
 水煙にとっては、ほんの千年、二千年なんて、ちょっと昨日か一昨日の出来事みたいなもんなんかもしれへん。忘れがたい恋があり、忘れがたい顔があり、その恨む視線を感じてもうて、新しい恋に気が咎めたり。
 でももう、過去やねん。人の身にとっては。二千年前は超過去や。もう、昔の話やと、古い古い想い出の部屋の戸にかかる錠前に、そっと鍵をかけても、誰もそれを咎めはせえへん。しょうがない。水煙は、俺のことが好きすぎるんやから。
 名残惜しげに頬を擦り寄せた、俺の胸から顔を上げて、水煙はじっと、愛しそうに俺を見た。けだるく疲れたような、それでも満たされた表情やった。
 その顔には表情があったんや。いつも違う。水煙は俺の知らん顔つきをしていた。いつの間に、そうなってたんやろ。いつの間に、呪いが解けたんやろう。
 だんだん明るくなっていく、朝日の照らす砂浜で、俺はじっと、水煙を見つめた。
 それは相変わらず異形の神ではあった。青白い肌はそのまま。ほっそりした体つきも、華奢な手足もそのままで、黒目がちな大きな目も、そのままやった。
 でも、その目には、きらめく銀河のような星が映りこんでいるようやった。そんな、キラキラ潤んで、憂いを帯びた目やったし、名人の筆で描いたような、優美な新月の形の眉があり、華奢な顎した顔立ちは、人間味を帯びていた。それに長い黒髪が、腰まで届くような豊かさで、水煙の痩せた背を覆っていた。濡れて砂まみれで、寝乱れてはいたけども、それは美しい髪やった。
 その中に、研ぎ出されたばかりの白刃のような色合いの、白とも銀ともつかない一房、二房が、闇のような色の黒髪と絡み、入り交じっていた。それもまるで、夜の空にある天の川のようや。
 月から来たんやと、水煙は言うていた。きっとそれは本当やろう。こいつは天人なんや。とてもこの世のものとは思えへん。ちょっと物見遊山のつもりで地上に降りてきて、そこで出会った男に羽衣とられて、天に帰られへんようになってもうた、気の毒な天女の話みたい。きっとそれも、どこかにあった、ほんまの話に違いない。こんな美しい天人が、うようよいてるような世界が、宇宙のどこかにあるんやったら。
 俺がそう思って、うっとり眺めていると、水煙は恥ずかしそうな、妙な顔をした。その顔も、めちゃくちゃ可愛かった。
「なんやねん、じっと見たりして」
「可愛い顔になってる」
 俺が言うと、水煙はぎょっとして、自分の顔に触れてみていた。触ったぐらいで、どんな顔なのかは、分からんかったやろけど、とにかく長い髪が触れ、水煙はまたぎょっとしていた。
まじないが、解けている」
 水煙は相当に、びっくりしたらしい。鏡見たいって、おろおろしていた。でも生憎と、鏡なんてどこにもあらへん。
「どんな顔や」
「どんなって……だから、可愛い顔になってる」
 水煙はめちゃめちゃ若いように見えた。そうやなあ。人間やったら、十五、六歳くらいか。男でも女でもない、ほんまに中性的な美貌やった。ますますわからん、水煙が男なのか女なのか。
 あかんで、なんか、あかん感じやで。
 俺はずっと、水煙のこと、誰が見ても美しいとひれ伏すような、オーソドックスな美貌になればええなあと、そんな甘いこと考えてたんやけども、これが、そうや。今、まさにそう。俺の妄想絵を、はるかに凌駕している。
 なんかな……お人形さんみたいやねん。薄青いねんけど、お肌ぽやぽややしな、髪の毛さらさらやしな、睫毛びっしりやし、お目々キラキラやねんで。なんかヤバイ、女装させたい、というか女の子なのか、これは。レースとかフリルとかの世界やで。
 そんなんに目覚めてもうたら俺どうしよう。今までにないツボを突かれている気がする。しかもそれが猛烈に効いている。行ったらあかん世界に入り込んでしまいそう。お人形さん遊びの世界やで。そんなニュアンスを元々水煙から感じ取ってはいたけど、はじめ分厚くオブラートに包まれていたそれが、今じゃもう全開なってる。
 こんな天人が浜で水遊びしてたら、ひっつかまえて閉じこめとこうなんて血迷う地球人が居っても無理はない。支配欲を刺激しまくる危険な魅力があるから!!
「な……なに? 変か? 変な顔なんか?」
 恥ずかしいのか、ぼうっと白んだ顔になり、水煙はおろおろしていた。そして自分の長い髪に混じる、白い一房に気付き、また、猛烈にぎょっとしていた。
「あっ……白髪が」
 水煙はそれに傷ついたらしかった。見られてもうたと俺を見上げ、じわっと恥じ入るような涙目になった。
「昔はこんなん、なかったんやけど。俺も気苦労したからやろか」
「気にするな! それも含めて綺麗やから」
 俺は慌てて、おたおた止めた。水煙が何か、別の姿に変転しようとしている気がして。たぶん太刀やろう。それが水煙の本性で、長らくその姿で過ごしてきた。美醜を云々せんでもいい、無難な格好やったんやろう。
 あれも美しい姿とは思うけど、でも今は、この姿のままでいてほしい。もっと眺めていたい。手を握って見つめ合える、そんな姿でいてほしいねん。
 そんな欲求に逆らわず、俺はほとんど無意識に、水煙の小さい青い手を、ぎゅっと握りしめていた。それを拒まず、恥ずかしそうな顔のまま、水煙は俺から目を背けていた。
「嫌や、銀髪なんて。俺はくろがねやのに。黒い髪がいい」
「いやいや、大丈夫や。かなりイケてる。全部銀でも平気なくらいやから」
 どっちがいいか決めがたいくらいや、カラーリング的には。間をとって両方。ところどころ銀。それでええやん。何があかんの。
「す……好きか、アキちゃん。俺の、この姿は」
 それが最も重要みたいに、水煙は怖ず怖ず見上げてきて、俺にそう訊いてくれた。うんうんうん、て、思わず必死で頷いていた。必死すぎや、俺。
「そうか……そんなら、ええねんけど。月から落ちてきた時には、こんな姿やってん。でも、これはちょっと……その……地上の男の劣情を煽るようやったんで」
 煽られてる、俺も。今、静かに深く煽られている気がする。
「恥ずかしいと思って、もっと怖ろしげな姿に化けて、拒もうかと、海神わだつみに祈ったんや。海の眷属らしい姿をくれと。できるだけ怪物っぽいのをな。そしたら暁彦も幻滅して、諦めるかと。あいつは面食いやったしな。きっと俺の、この顔が好きなだけやと思うたんや」
 よう聞く話である。ギリシア神話とかで、お前可愛いなあって、レイプされそうになった精霊ニンフとかが、樹木に化けたり、もっと偉い神様にとっさに祈って泣きついて、獣とか、化けモンみたいな姿に変えてもらう。そうして難を逃れるという話。
 水煙も、その手で行こうと思ったらしいが。初代はメゲへんかった。海の生き物バージョンでも普通に萌えた。水煙やったらなんでも良かった。それくらい水煙様が好きすぎたらしい。そして、性別ないのに無理矢理レイプか。ひどすぎる。
「性別、ないことないで。俺は、男やで、アキちゃん」
 それやと、あかんかと、水煙は、俺の顔色をうかがう青い顔して、うつむきがちにそう告白してくれた。
おすやねん。乳がないやろ。昔はちゃんと、その、あるもんはあった。清童せいどうやったけど。元は天人やしな」
 清童せいどうって、なんや。
 それは、精通してない男子のことらしい。つまり、性的な絶頂感をまだ味わったことのない、穢れない清い体やったという話やで。天人は、穢れない身やから飛べるんや。穢れると天を舞えんようになる。
 初代の男がなんで水煙を犯したか。水煙を地上に引き留めるためや。もう二度と天には舞えんように、月に帰ってもうたりせえへんように、水煙を清童せいどうではなくそうとした。肉欲を覚えさせ、穢そうという魂胆や。鬼やな。しかしこの場合、最も効果的とも言える手や。穢れないがゆえに、愉悦には弱い、天人やら精霊やらを地上に繋いでおくにはな。
 それってつまり……。それって……。なんやろ、声が上ずる。それって、つまり、水煙は、かったんか。浜辺で犯された時。気持ちよかったの?
 俺がそうついつい思い、聞きあぐねていると、水煙はますます白い顔をした。情けないみたいやった。
「そ……そうやで。あかんか。でも、そんなんあかんと思ってな、それで夢中になったら、破廉恥やろ。だから拒まなあかんと思って、体を閉じたんや。そしたら暁彦が激怒して、俺とやられへんのやったら、誰ともやるなと、俺に呪いをかけたんや。だから結局、いつも痛かったんやけど」
 それで穴なし……? いつもいつも強姦系?
 そんな、アホな。えげつない。
 それに痴話ゲンカやないか。痴話ゲンカやろ、それ。気持ちよすぎて恥ずかしいから、自戒して、エッチでけへんようにしたんやろ。そしたら相手がキレて、ずっとそのままでいとけって、呪ったんや。そして二千年後、みたいな?
 けど、初回はかったって……水煙、俺が、初めてじゃ……なかったんか?
「そんなことない。アキちゃんが初めてや。最後までいったのは。これに比べたら、あれは、なんというか……もっと、ほのかなもんやったな。ちょっとだけ触られた、だけやもん」
 真っ白けみたいな顔をして、水煙はそう保証した。ほな、初代の頃は、前戯でちょっと気持ちよくなっちゃっただけでも、もうあかん、いけないわって思うたんや。清らかやったんやねえ。ほんまにね……。
 なんかちょっと、俺は遠い目になった。
 ある意味、俺のほうが、よっぽど穢しちゃってない?
 水煙、この一晩で、何回ぐらい絶頂いったやろ。少なくとも、五回はいってた。気絶しそうになっていた。よっぽど敏感なんやろ。それがまたいい。そんなふうに萌えちゃって、めちゃめちゃ喘がせたけど、そんなふうに気持ちええことに目覚めさせちゃって、良かったのか。水煙、もう二度と飛ばれへんぐらいに、穢れちゃってるんやないか。
「月へはもう、戻れそうもない……」
 実家では合わせる顔がない。そんな口調で言うて、水煙は恥ずかしそうに、身を捩っていた。
 そうやなあ。清童バージンばっかりの国へは、帰りづらいよなあ。
 ふっ。どうしよ。俺はどないしてこの責任をとるつもりなんや。この、女顔美少年みたになっちゃった水煙様を、今後どうやってお祀りしていったらええんやろ。
 亨になんて言い訳しよう。説明のしようがない。
 こんなキラキラになった水煙が、普通に立って走り回ったり、怪力なったりしていたら、何があったんやって、絶対聞かれる。呪いが解けるような、何をしたんやって、きっと訊かれるやろう。何をしたんや、俺は。ただ抱いただけ。めちゃめちゃくしてやっただけのはず。
 それが効果的やったんか、呪いを解くのに。エロが有効?
「違う……愛やないか。ひどいこと言うなあ、お前は。好きになった相手と、心底ほんまに愛し合えたから、呪いが解けたんや。お前の愛が、暁彦の呪詛に、打ち勝ったんやで?」
 恥ずかしいやら情けないやら。水煙に泣きそうな声して言われ、俺は打ちのめされた。
 そうやな。それも、よう聞く話や。お伽話で。呪いでカエルになった王子様がお姫様のキスで人間に戻るとか。野獣が王子にとか。とにかく真の愛には、呪いを解く力があるらしい。
 真の愛か……。気まずすぎて亨には説明でけへん。
「それに、まだ……歩かれへん。顔のほうはな、俺が自分にかけてた呪いや。長年かけて、あんまり強くかけすぎて、自分でも解かれへんようになっていたんや。歩かれへんのとか、非力なのとか……あるもんが無いのとかはな、俺の呪いではない。暁彦がやったんや。あいつが俺を呪い続けている限りは、そう簡単には解けへん」
 解けてへんのや! 微妙!
 嬉しいような、哀しいようなやで。だって、お姫様抱っこはいまだにできるが、穴無し続投。そ、そうか……そうなんやな。世の中にそんなウマい話はないということや。
「ごめんな……足手まといで。俺に、あいつの呪詛を振り払うだけの力があればええんやけど、哀れでできへん。あいつは、いずれ月へ帰ろうとする俺が、恨めしかったんやろう。捕らえておこうと必死でいた。それも無理ない、あの子には、親しく頼れる相手は俺しかおらんかったんや」
 俺が痛恨の表情やったのが、水煙には、歩かれへんのが迷惑やからやと思えたらしい。なんという誤解。読み筋に穢れがなさすぎ。さすがは月から来た、もと清童や。なんか根が清い。
 それに水煙はあの怨霊のことを、憎んではいないようやった。むしろ今でも愛しく思うてやっている。守ってやってた我が子やと、今でも思うてる。燃え上がるような激しい恋愛は消えても、その温かい情愛は、胸の奥の埋み火のように、今でも燃えてる。
 ほんま言うたら水煙が、結局、月へは帰らずに、ずっと地上に留まっていたのは、そのせいやないか。可愛い我が子と、その血に連なる秋津の子らが、心配でたまらず、血筋に取り憑く神として、ずっと居残っていた。ありがたいご神刀として崇められつつ、それでも秋津に仕える式神やった。それは水煙が、うちの血筋の始祖やったからなんや。
 初代の男はたぶん、無理矢理犯すやなんて、そんな荒事に及ばなくても、ただ頼めばよかった。ずっと居てくれと、水煙様に、お縋りして頼めば良かっただけなんや。そしたら水煙はきっと、いつまでも傍に居てくれたやろう。そういう、情け深い神さんやから。
「呪いなんて、かまへん。そんなの。それもいつかは解けるんかもしれへんし。お前が、解きたいんやったら」
 受けた呪いもひとつの縁やと、それを拒まず受け入れてきた、水煙の情愛が分かる気がして、俺もその怨霊を、力業ではね除けようとは、思わへんかった。
「穏便に、解けるもんなら、解きたいな……。解いて、アキちゃんと、もっと気持ちええことしたい」
 うっとり恥ずかしそうに、水煙は好色そうなことを言うた。ほんまにもと清童か。好きなんか、水煙。そんなにかったか。エッチが。どないしよ。
 俺が青ざめてると、水煙はくすりと、皮肉なような、自嘲したような笑い方をした。
「俺も亨と大差なしやな? したいしたいで、なりふり構わずや。お前が好きで、たまらへんのや……恥ずかしい」
 顔を隠すためやろう。水煙はいかにも恥ずかしいふうな、なよやかな仕草で、俺の胸にまた、やんわりと抱きついてきた。その柔肌の抱き心地は、まさしく天にも昇るような、ふわりとした甘さ。
 どうしよう。ほんまに大差なしやったら。二匹の蛇さんに欲しい欲しいて迫られたら、俺、生きていけるやろか。大丈夫かな、俺は。大丈夫か。これを拒めるのか……。それとも、拒めるわけもなく、二股かけようとでもいうんか。まさか。
 そんな心配、生きてられた場合だけにしろやな。これから戻って、水地亨にぎったんぎったんにされて、二度と悪さでけへんような呪いを、下の人にかけられるかもしれへんのやしな。あいつも神やで。やるときゃやるかもしれへんで。
 もう、いっそ、そんなんでもいい。それで俺の、バカになってる貞操観念が蘇るんやったら。そんな呪いにでもかかりたい。
 でも、どうしよう。今、俺の心の中にある、この気持ちのやり場は。
 海辺の朝日を浴びて、気恥ずかしげに微笑んでいる、水煙は美しかった。俺にはその姿は、ひどく愛しい、後朝きぬぎぬの別れを惜しむ、愛しい恋人の姿やった。
「もうすぐ朝や。長い夢やった。お前はそろそろ、戻ったほうがいい」
 そうは言いつつ、水煙はまだ、俺の胸に頬を押し当てていた。長い髪の絡む感触がした。その柔らかな体を抱いてると、いつまでもそうしていたいような気がする。
 別れが切ないねん。決然として、別れを告げる水煙様の、愁いを帯びた笑みが切ない。
「どないして戻るんか、わからへん」
 未練の残る声をして、俺はそう、答えてた。実は、どうやって来たのかも、わかってへんかった。
 ここからちゃんと訓練したら、自由に他人の夢やら、自分の夢やらを、行ったり来たりできるようになるんやけどな、これが初回や。俺も困った。
「大丈夫や。そのうち慣れる。でも、あんまり遊び歩いたら、あかんのやで」
 にっこり呆れたように言い、水煙は起きあがらせた俺の頬を、自分も砂浜に座って、やんわりと撫でた。
 その手がゆっくり俺の胸まで降りていき、その奥に眠る魂を、じっと見つめているような目で、水煙は押し黙っていた。
「アキちゃん。ありがとう。お前のような子が、血筋のすえにいて、良かったな。絵描きになりたいやなんて……お前はほんまに、欲のない。きっと、刀師とじの血やなあ」
 うふっ、と思い出したように笑い、水煙はなんか、惚気たらしかった。俺はそれに、正直あんぐりしてた。信じられへん、なんて気の多い神や。まだ好きなんか、その刀鍛冶。ほんまにもう、しょうがない。俺や俺のご先祖様たちが、どんな想いでお前を見てたか、知らんのか。
「妬かんでええよ。お前が好きや。今はお前が好き。アキちゃん……暁彦……俺を、許してくれ。俺はこの子が、好きでたまらへん。もう我慢ができへんのや。俺にも恋をさせて。溺れたいんや。もう二度と、冷めない恋に……不実な俺を、許してくれ」
 俺の胸に、耳を押し当てて、水煙はそう詫びた。俺に言うてる訳やない。たぶん、別の誰かにやろう。
 それに怨念の蛇が、ゆっくり身悶えるようなのが、俺には分かった。水煙の、神の目には、それがちゃんと見えていたんやろうか。なんや。バレバレやったんか。俺もおとんも、たぶんその先代も先代も、水煙には意地でも秘密にしとったのに、ほんまはバレバレやったんや。なんや。そうか。俺もおとんも、かっこわる!
 水煙は、突然のように、掴む仕草をした青い手を、俺の胸の中に突っ込んできた。まるで俺が透けてる幽霊で、手がつきぬけてまうみたいに、水煙の腕は肘のあたりまで、俺の胸の中に入り込んでる。
 そして、それがまた抜き取られた時には、水煙はその手に、一匹の蛇を掴んでた。小さい蛇やった。激しくのたうち、首根っこを押さえている青い神の手に、食らいつこうと暴れ回った。
「悪い蛇やし、殺してしまおう」
 水煙はそう、暗い目で、俺に念押しをして、そのまま自分の手で、蛇をひねるつもりのようやった。
 俺はなんでか、それに慌てた。
 その蛇の正体は、あの怨霊やないか。俺の中で、ぶつくさ言うて、哀れっぽく怒っていた怨霊や。あれが初代の男。あるいは、それに連なる代々の男の呪詛が凝り固まった蛇やねん。
 うちの血筋が生んだ鬼やろう。
 泣いて斬るべしと、水煙はそう思ったんかもしれへんのやけどな。でもそれは、ちょっと可哀想やないか。悪気があるわけやない。お前のことが、好きで好きでたまらんだけの、哀れな蛇さんなんやで? 他人と思えへん。ていうか他人やない。うちの初代や。ご先祖様!
「そんなんせんと、逃がしてやったら? 可哀想やで。一寸の虫にも五分の魂って言うやんか。せやし、無駄な殺生したらあかんのやって、おかんがそう言うてたで」
「登与ちゃんが?」
 顔をしかめて、水煙は自分の腕に巻き付いている、赤と黒の入り交じる、白い腹した蛇の体を眺めていた。
「しかし、これはお前に害を成すかもしれへん、毒のある蛇なんやで? それでもええのか?」
「やっつけるのは、いよいよほんまに害を成されそうになってからにするわ。そうしよう? な?」
 俺が笑って取りなすと、水煙はしばらく、困ったような顔をして、うつむきがちに蛇を捕らえていたが、やがて深いため息をつき、蛇の首を押さえていた指を緩めてやっていた。
 それはするすると水煙の腕を這いのぼっていき、愛しげに、未練を残した腕のする、愛撫か抱擁か、そんな巻き付き方をして、反対側の腕へと這っていき、差し上げられた水煙の指先から、薄い灰色の靄になって消え、朝の海風に乗っていった。
「偉大な者になれ、暁彦。人がお前を愛するような。生まれ変わって、やり直すんや。それが人の道なんやで」
 囁くような声になり、水煙は去りゆく霊に、そう祈ってやっていた。
 俺はそれを聞いて、えらいことやなあと思った。
「偉大な者か……俺もなれるかな、そんなものに」
 俺も暁彦やしなあと、俺がプレッシャーを感じていると、水煙はくすくす笑った。
「ならんでいい。偉大には。お前はある意味もう偉大やから。後はただ、幸せになればええよ。ずっと今みたいなアホのままで、お幸せに生きていけ。好きな絵でも描いて、好きな蛇と仲良くな」
 なんか、別れの言葉みたい。なんか、アホや言われてる。
 なんでやねんて、戸惑っている俺の胸を、水煙はまだくすくす笑うてる顔のまま、どんと両手で押してきた。
 それが夢落ちやった。
 がばっと夢から醒めて、なんや夢か、もう朝か、変な夢見たわあ、っていう、そういう瞬間に続く、夢という異界から、現実の位相へと立ち返る、そんな帰り道。
 優しい波の寄せる砂浜が、見る間に暗闇の向こうの光る点になって、俺から遠ざかっていった。その暗闇の中を、何かに引き戻されるように、後ろ向きに飛び抜けながら、俺は遠ざかっていく水煙の青い姿を眺めた。ただじっと、手も振らず見てる。その座る姿が手の平に乗るくらいになり、指先に乗るくらいになり、やがて見えなくなるのを眺め、俺は後悔した。
 あの蛇。あれがもし、ほんまに水煙を呪っていた初代の男なんやったら、トンズラこかせる前に、頼んどいたら良かった。
 水煙の呪いを解いてやってくれへんか。歩けないのも不便やろうし、それに非力もお前のせいやろ。お前が怨念として生きてる限り、その呪いは解けへんのやないか。
 悪い蛇やし、やっぱひねっといたらよかったか。変に情けなんかかけず。
 でもなあ。あんまり悲惨すぎるやろ。自分がめちゃめちゃ愛してた水煙の手で、悪い蛇やと殺されるというのは。イイ子やイイ子やって、可愛がってもらいたかった奴なんやしな。水煙も、平気そうなようには見えたけど、嫌やったはずやで。自分が殺るのは。
 別にかまへん。歩けなくても。俺が面倒みるしな。非力でも別に困ってるように見えへん。もう慣れてんのやろ。それに水煙が非力で、いつ困るんや。ペットボトルの蓋開ける時とかか。そんなん俺が開ける。他に何で困るんや。買い物しすぎて荷物重いとかか。そんなん俺が持つ。案外いらんで、腕力なんて。下僕さえいれば。
 あれ。俺って、水煙様の下僕?
 そうかなあ。それってちょっと、まずいんやないの。その結論やと。それが結論なんか、俺。そういう予定やったか?
 違うやろ。アホやでほんま。アキちゃん、またやっちゃったよ。水煙とやっちゃった。
 完璧、素面しらふやで。言い訳の余地なんか皆無やで。嘘でも寝酒喰らっとけばよかったよ。そしたら酒の神のせいにできたのになあ。
 でもな、別にもう、言い訳要らんねん。俺も別に今、何もかも終わってもうた事後になって、その罪にはっと気付いた訳ではないんや。やってる最中から分かってた。
 俺は今、水地亨を裏切っている。夢中になってる。水煙様に。その他の神のことなんて、なんも考えてない。それが怖いと、どこかで思ってはいても、俺は水煙が好きや。見捨てられへん。愛してるという目で、俺を見つめてくれてるその神と、和合するのに、夢中にならずにはいられへんねん。
 水煙も自分の神官として、俺を選んだ神や。それを振るのは畏れ多い。だって神様なんやで。無礼やないか。お前のことは愛してないと、嘘なんかつかれへん。神様に、嘘なんかついたらあかんねんで。正直でないとあかん。それは礼儀や。
 でも、どうしよ。水地亨に殺される。俺の主神。あれも一柱の有り難い神や。俺の配偶者。俺のツレ。
 こんなんバレたら、アキちゃん死刑って言われる。言われて当然や。むしろ大人しく、甘んじて死刑を受けるしかない。言い訳の余地がない。こんな状況で、お前が好きや、一番好きやて言うたところで、嘘にしか聞こえへん。そうか、二番は誰やって、嫌みたっぷりの顔して訊かれるだけや。
 ごめん……二番は……水煙かな?
 ひとり青ざめて、そう思った時、俺はどしんと何か、力強いものに背中からぶつかっていた。
 ぎゃあっ、と内心悲鳴をあげた。それが背に当たる感触だけでも、でかい大蛇おろちやと分かったからやった。
 お許しください、水地亨大明神。殺すんやったら、殺してくれてええけど、あんまり苦しめんといてくれ。悪いと思ってます、悪いと思うてる。荒ぶる神にならんといてくれ。土下座でもなんでもする。なんでもするから!
 そんな平謝りの気分で、半ば土下座ムードに突入しつつ、がばっと振り返った俺が見たものは。
 確かに、大蛇おろちやったわ。
 でも、亨ではない。あの白い蛇体の、金の目をした、美しい蛇やない。
 黒と赤。その対比が禍々しいような、まだら模様の鱗を鈍く光らせた、白い腹した蛇やった。見上げるような大蛇や。俺をひと呑み。それも可能なぐらいのでかさ。
 その目は爛々と光る、血のような赤やった。鋭い針のような、細く黒い蛇の瞳が、じっと俺を睨み付けていた。
 俺は呆然として、それを見上げた。ちらちら見える赤く細い舌出した、蛇の口には、鋭い一対の牙が生えていて、そこからは毒液らしい滴りが、ちらりと漏れ出て見えた。
 絶体絶命。なんかそんな予感。
 そして俺には、武器はない。むしろ裸に近い。夢の中やし、ほんまに無防備やってん。
 俺が対峙した大蛇おろちが、俺を殺そうと思えば、きっと一瞬で勝負は決まる。勝負どころか、戦いにもならへん。相手は神や。善い神さんやない。荒ぶる神やけど、それでも神は神。人の子である俺には、勝ち目がない。向こうが俺を殺るというなら、おとなしく、殺されるより他にない。
 そんな気がして、俺はただ黙って、その怖ろしい蛇と睨み合っていた。
「二番なのか」
 蛇が突然、口きいた。人間みたいな声やった。蛇の喉で喋っている声やない。念話ねんわや。そう言うらしいで、巫覡ふげきの世界の専門用語では。SF風に言うならテレパシーかな。心の声や。
 その声は、まるで自分の声みたいやった。あるいは、俺のおとんの声みたい。そして、俺が自分の身内に聞いた、古い怨念の恨みの声にも、そっくりやった。
 でも、まるで自問自答のようや。自分の声に訊ねられてるみたい。
「二番か。お前にとって、水煙は、二番なのか」
 そう訊かれた気がする。
 実は、何言うてんのか、喋ってる言葉そのものは、分からんかってん。古代語や。現代語と違う。まるで外国語みたい。自分の中にこの怨霊が居る時には、こいつは俺の言葉を借りて話してたんやろう。だって京都弁やったもん。
 でももう、水煙様に引っつかまれて、引きずり出されてもうたしな。自分の言葉で勝負。そしたら言葉が通じへんのやんか。不思議やなあ。二千年前の人とは、言葉通じへんのや。同じ日本語やのにな。
 せやけど念話や。言語を越えて、意味だけ分かる。便利やなあ。よかった、げきとしての能力に目覚めてて。そうでなけりゃ、字幕のない外国語の映画を観てる時みたいな状態で、何言うてんのかさっぱりわからへんかったやろ。
「俺にとっては、いつも一番だった。後のは皆、ただの道具で、式神にすぎない。俺にとって、神だったのは、水煙だけだ。その俺が、お前に負けるとは」
 もうリベンジ? 早ッ。
 ちょっと待ってください。普通もうちょっと休憩してからリターンマッチやないですか。直後に二回戦があるって分かってたら、俺も、もうちょっと違う行動とってたかもしれません。悪い蛇やし殺そうかて言うてた水煙を、止めへんかったかもしれん。
 死んでる場合やないしな、俺も。不死人やて言うたかて、こんな夢か現かわからんような、謎の位相で霊的に死んで、それでも無事でいる自信はないで。不死やというのは、肉体の死には強なったということやろ。肉体が丈夫やねん。霊体の方は普通やで。自分より強い神さんに、えいやってブチ殺されたら、たぶん死ぬで、俺。
 助けて水煙。守ってやるって思うてたけど、とりあえず今はお前が俺を守ってくれへんか。こんなエグい大蛇おろちと、どないして戦うのか全然知らん。教えてくれ!
「そんなことも知らんのか」
 罵る言うより呆れるみたいな声で、大蛇おろちは俺に訊いた。何言うてるか分からなくても、とにかく呆れたことだけは、ものすご分かるイントネーションやったわ。言語を越えたモンて、あるなあ。
 するすると、大蛇おろちは急激に輪郭線を変え、CG画像がモーフィングするみたいに、人型に変転していった。見る間に蛇はひとりの男に姿を変えて、俺の顔を覗き込むような、間近のところにすうっと、空中を滑るようにして、近づいてきた。
 俺そっくり。鏡見てるみたい。
 おとんと向き合うたときにも、変な感じがしたけども、今回も変や。双子の人が兄弟で睨めっこしたら、たぶんこんな感じかな。なんて気まずい睨めっこやろ。笑うとこあらへん。
 しかもこの兄弟、長髪やったんや。乱れたような角髪みずらを結ってた。どうしよう、古代日本コスプレの俺や。おとんの海軍コスにも困ったもんやったけど、このご先祖様の古代日本コスにも困る。けっこう似合うてるというか、たぶん古代では相当イケてたんやろけど、でも現代人の俺から見たら、ただのコスプレの人やから。
呪法じゅほうが使えないのか」
 九九もまだ憶えてないのかって、訊かれてるような口調やったわ。
「使うたことないですね……」
 正直に、俺は答えた。何か、それっぽい力をマグレで振るえることはあったかもしれへんけど、どれも火事場の馬鹿力やったりとか、天地あめつちが俺に共感してくれて、うんうん哀しいなあて一緒に泣いたりとかして、甘やかしてるだけやったりとかね。
 せやし自分の意志で、意図して神通力を使ったことなんて、あんまりない。練習中です。修行中の身です。
「何をしていた、二十一やろ。それで、どないして水煙を守ろうというんや」
 ほんまにそうです。
 ていうか、ご先祖様ちょっと京都弁うつってます。まあ、長いからね、京都に住んでね。
呪法じゅほうを学べ。俺が教えてやる」
 直伝や。どうしよう。初代直伝やで。まさかまた中入られるんか。犯される! そうやこの人、強姦男なんやった。怖いいっ。身構えとかなあかん。ガードせなあかん。おとん直伝の二の舞なってまう!
「普通に教えるだけや……」
 ものすご脱力。情けないわあみたいな目で見られた。トホホ顔の古代人やった。
 すんません、こんな子孫で。がっかりでしたよね。初代はマジもんの巫覡ふげきの王やったのに、末代はアホの画学生で、まだ進路もいまいち決心ついてないような、フラッフラのぼんくらなんやもん。
「手を出せ」
 ため息そのものの声で、俺はそう命じられ、嫌やったけど左手を差し出した。逆らいようがない。なんせ相手は半神半人で、今や怨霊やねん。でかい通力があるんやからな。そして祖霊として、子孫である俺を使役することができる。
 けど何とかそれと争って、利き手の右はやめといた。だって、これで何かされて、もしも絵が描けんようになったら困るしな。
 怨霊は俺の手にれた。ちゃんとさわれた。ひやりと冷たい手やった。たぶん死人やからや。そしてまだ、神ではない。ただの悪霊やから。
 初代の男は真面目な顔して、俺の左手の手の平を自分の左手で掴み、その上に、右手の人差し指で、さらさらと何かを書いていた。この人も、右利きやったらしい。そして、たぶん、絵も上手そうや。
 筆も何もない、ただ指先で書いてるだけやのに、俺の手の平の上には、金色に光る軌跡が残って見えた。それは丸く囲われた枠の中に、俺が今まで見たこともないような、不思議な文字で書かれた何かの文様やった。呪方陣じゅほうじんとかいうらしい。呪文やな。呪力を持った図形やねん。
 書かれていた文字は、ホツマ文字という神代かみよの文字で、日本のモンやった。日本語が今の形に統一されるまで、昔はいろんな文字があったらしい。大変やな、そんなにいろいろ文字があったら、憶えきれへん。
「お前も憶えろ」
 嘘ぉ!!
 俺は愕然として、間近に見ている初代のジト目と、また向き合った。
「どうせ読まれへんのやろ? ぼんくらの末代め」
「……読めません」
 読めるわけない。古代の文字やで。エジプトの神聖文字ヒエログリフとか、メソポタミア文明の楔形くさびがた文字とか、皆は読めるか? 読めるわけないやん。ホツマ文字なんて、そんなんが存在すること自体、今知ったばっかりや。読めて当然みたいな空気にせんといてくれ。
「読めて当然や。お前は秋津の末裔なんやろ。ちゃんと学んで、古今東西の呪法に精通していて当然なんやぞ、まったく……」
 そうですけど……。読めて、当然?
 そう、言われても、しゃあない。アキちゃん、なんも知らん、ぼんくらやから。学校でホツマ文字なんか習わへんかった。英語なら読めますけど。ドイツ語も第二外語でやったから、ちょっとは分かるよ。でも、ホツマ文字はちょっと……。
「ほんまにアホやな。あの父母で、なんでこんなアホな子ができてしもたんや」
 初代、もう隠しようもなく京都弁なってはる。納得いかへんトップブリーダーみたいな顔になってはる。ほんまに、まるで、馬やら犬やらを掛け合わせて繁殖させて、育ててるみたいやで。むかつくわ。
 しかも京都弁で言われると、嫌み度さらに倍。イケズっぽいわあ、この人も。上から目線や。
 ご先祖様やから無理もないのか。俺は子孫も子孫、一番の新参者で、しかもアホなんやから、この人から見てゴミみたいなもんか。駄犬か駄馬か。まるでそういうもんを見るみたいな目付きやったわ。
 でも俺にだけやないねん。こいつは自分以外の全ての人間を、見下して生きてきた男なんやで。
 後に水煙に聞いた話では、初代は性格が悪かった。俺は神の子やというノリやった。自分は人間やないと思うていたし、実際違った。人ならぬ者だけが振るえるような、ものすごい神通力を持っていた。せやし傲慢やったんや。優しさの欠片もない。弱いモンは蹴散らして、強いモンは叩きつぶす。そして自分が天下とる。そういう性格やったんや。
 そして、その性格、水煙にはウケてへんかったらしい。お前は鬼やと度々ケンカしていた。水煙はああ見えて、けっこう情け深い神さんやしな。怖いし、えげつないけど、善悪のバランス感覚はあるタイプやで。そうでなきゃ、秋津の家がええモンの側にいる訳がない。この荒ぶる血筋の手綱をとってきたんは、水煙なんやしな。秋津の子らが、自分の血に備わった神通力を、世の人々を救うために用いるよう勧めてきたんは、水煙なんやんか。
 そんな水煙から見て、初代は悪い子やった。古代のいくさに明け暮れる暁彦を、いつもため息ついて眺めてた。隣り合う国々を討ち滅ぼして、金銀財宝積んだところで、水煙様は愉しまなかった。お前は鬼やと言うだけや。
 いくさがあかんという事ではない。水煙もぶっちゃけ好戦的なタイプや。太刀やしな。戦いを好む。
 けど、殺戮を好むわけではない。田畑を焼き払い、女子供や老人までもぶっ殺すような、そういう戦は好きやない。人を愛し、人に愛されてこその神や。相思相愛でないとあかんのや。それが水煙様の神としての道。人生哲学。戦う時には高潔に、正々堂々と。勝って留めをさす時でも、泣いて斬るのが武士道や。弱きを助け、悪しきをくじく。それでこそ神であり、英雄や。そうやなかったら、自分も鬼になってまうやんか。
 その、初代から見れば微妙でしかない差が、水煙から見ると大きな溝やったらしい。いわゆるひとつの性格の不一致や。
 水煙から見て俺は、大人しすぎる逃げ腰の、戦いを避ける男やで。剣を振るうよりも、作るほうが好き。それはそれで、性格の不一致やけど、でも、好ましいらしい。理由は言うまでもない。そして言いたくない。しかし敢えて言おう。初恋の男に似ているからや。その血を留める俺が、愛しいからや。
 確かに俺は、絵を描き始めると無心やねん。それに夢中になっている。俺が一番愛してるのは絵や。もしかすると、水地亨ではないのかも。そうかもしれへん。どんな時でも俺は、絵さえ描いてりゃお幸せ。そんなアホやし、それでも好きやていうてくれるマニアでなければ付き合っていかれへん。
 亨は絵描いてる時の俺が好きらしい。トミ子もそうやった。勝呂瑞希もそうや。俺の絵が好き。そして水煙もそうやねん。絵を描いている時の俺が好き。心ここにあらずの顔で、自分の作品に打ちこんでいる。その姿が好きなんやって。
 昔の男を思い出すからや。畜生! もう死んでる奴とは張り合われへん。そいつはどこかに生まれ変わってきてるんか。近寄らんようにせなあかん。絶対に水煙と引き合わせへんようにせなあかん。だって、そっちにいってまうかもしれへんやんか。また心変わりして。なんせ多情な神さんなんやで。今は俺が好きやて言うてる。そのままキープしとかなあかんねん。これを永遠に。静かに満ちて、もう二度と痩せない月のように。時の静止した世界に、ずっと閉じこめておかなあかん。
「水煙はなあ、移り気や。熱しやすく冷めやすい。くろがねやからな、それはしょうがない、あいつの性癖や。たとえ今はお前に熱く燃えてても、またいつか、気が変わる」
 呪方陣を仕上げつつ、初代はにやにや言うていた。
「この熱が冷めたら、次はきっと、思い出す。俺のほうが良かったと」
 そう信じてる。そんな粘着なこと言うて、初代の男は俺の手を返してきた。むっとしながら、俺はそこに描かれていた呪方陣を眺めた。
「呪いをかけた」
 あっさり言われて、俺はぎょっとしていた。
「な……なんやと!? そんなん、かける前に、かけていいか訊け!」
 手をぶんぶん振ってみたけど、描かれたもんが落ちるわけない。染みこむように、金色の文字が俺の肌に吸われて消えていくのが見えた。もうあかん! 染みこんじゃった。呪われたあ!
「心配いらへん。大した害はない。お前が水煙を不幸にするか、守りきれへん時が来たら、冥界から俺が召喚される。そしてお前の体をもらう。それだけのことやから」
 なんや、それだけかあ……。泣きそうや。
「そのためのしゅやから、俺と繋がっている。呪法じゅほうのことで、何か訊きたいことがあったら、自分の左手に訊け。気が向いたら、答えてやる」
 便利やあ。今後アキちゃん、自分の手に教えを乞う人になるんやなあ。ますます変な子や。自分の手と話してるなんて。有り難すぎて泣きそうや。せめて携帯電話とかに描いてもらえませんか、さっきの冥界通信用の呪方陣。
「もう行く。もう、日輪にちりんの昇る時やから。月の時間はお終いや」
 俺の顔を見つめて、初代の男はそう教えた。
「ここしばらく、ろくでもない日々やったか、ヘタレ末代の、ぼんくらのぼんよ。月が痩せていたからな。しかしもう、新しい月が満ち始めている。これからは良くなるやろう。憶えておけ、お前の霊力ちからは、満月の夜が最高潮や。大事な呪法は、その日に行え。いくらアホでも、しくじる率が低いやろう」
 にっこり笑って、ご先祖様講座の第一回目やった。口が悪い、口が悪い……。
「それにしても、思いつかんかった。絵を描いて変転させるなんて。アホしか思いつかんことはあるんやな。そんなの気付いてれば、二千年前に終わった話やったのに。畜生。呪いを解こうとするからあかんかったんや、上書きすればええだけの話やったんやなあ」
 にっこり笑ったままの顔で、暁彦様はそう言うた。軽く捨て台詞やった。
 俺が水煙に、人間らしい姿を与えたことを言うてんのやろう。確かにあの姿の時やったら、あんな痛々しいのやのうて、普通にお互い気持ちええような、ステキな和合やったかもしれへんな。惜しい。そうやった。そうや。それに気付いてれば、変転してもらえば済む話やったんや。でももう手遅れ。なんでそれに気付かへんかったんや俺。アホすぎる!
 どっか抜けてんねん。必死すぎて。あの青白い、神の姿に萌えすぎて、それを別のに変転なんて、ちょっとも思いつかんかった。
 後悔している俺を見て、初代はふんと鼻で笑った。
 笑うな、お前もそうやろ。どっか抜けてたんや! 必死のあまり、やったらあかんコースをとった。それで修羅場に行き着いたんやないか、この鬼! 強姦魔! お前がやろうったって無理や。水煙は、それが俺の望みやったから、新しい姿を受け入れたんやで。基本的に拒まれてるお前が、どんな絵描こうが無駄! 無駄! 無駄やねん! 体は力ずくで犯せてもな、嫌や嫌やを無理矢理にでは、心までは手に入らへんのや、鬼畜生!
「うるさい餓鬼やなあ。そういうのも味のうちなんや。子孫のくせに偉そうに……」
 ご先祖様風がびゅうびゅう吹いてた。こんなんも崇めなあかんのか!
 崇めなあかん。祖霊やねんから。先祖崇拝の土地柄やで、日本は。
 それに怨霊というのも、神の一種や。強い霊力を持っていて、怖ろしい害や祟りを成すけども、巫覡ふげきが拝んでうまく和んでもらえれば、それはなんと神になるんや。御霊みたま信仰っていうねん。知らん? 菅原道真さんとか。太宰府の神さんやんか。俺も受験の時におかんから、太宰府のお守りもろたで。受験の神さんやねん。
 でもあの道真様、もとは怨霊やねんで。さらに前には人間で、えらい秀才の貴族のぼんやったけど、政治的な抗争に負けて左遷され、そのまま恨んで死んだせいで怨霊になり、当時の都やった京都に、疫病やら何やらを流行らせたらしい。
 それでヤバいということで、なんとか怨霊にお鎮まりいただこうと、巫覡ふげきを動員して神としてまつったら、なんとか落ち着きを取り戻しはって、学問好きやしって、学問の神さんになりはったんやんか。
 せやし怨霊というのは、神になる可能性のある怪異やねん。
 もちろん神様目指してるんやで、うちの初代。生まれ変わる気なんか、全然ないで。
 だって元々、俺は神って思ってたような人なんやんか。あれっ、違った、ってショックすぎて、未練たらたら、怨霊になってもうたけど、それもまあ、今ならまだ修正可能なコース。それもご先祖様への供養やろうか。この人が偉大な神になれるよう、お祀りすんのも、子孫の勤め?
「よろしゅう頼むわ、そしたら水煙も、俺に惚れ直すかもしれへん」
 惚れなおさへん。もう惚れてへんのやから。往生際悪い。なんでうちのおとんといい、初代といい、うっかり神様なって居残ってまうような親類ばっかりやねん? 成仏をしろ、成仏を。まあ、往生際の悪さでは、俺もふたりを罵れんような面はあるが。なんせ死なんのやからな。殺しても死なん。
「俺はお前と違うて、水煙のことを世界一好きや。宇宙いち好き。諦めへんで。虎視眈々と隙を狙ってやる。蛇のように、しつこく……火のように、熱く」
 にやにや言うて、ご先祖様は額がくっつきそうな近さで、俺の目を見て、こっちの首根っこを、ぐいっと掴んできた。
 な、なに? 何すんの? 怖い怖い。
「お前、道に迷っているぞ。帰る方向は、あっちやで。ほんまに世話の焼ける子や。アホやしなあ。アホな子ほど可愛いということなんか? 俺も今から、どないしてアホになろうかなあ。賢すぎてわからへん」
 にやにやと、賢いらしい初代の男はそう言い残し、俺を投げた。
 投げてん。ブーン、て。どこへとも知れない暗闇のほうへ。ものすごい怪力やった。俺はまるで消える魔球かなんかのように、風がぎゅんぎゅん唸る速さで、錐揉み状態になって異界を飛んだ。
 死ぬう! 容赦がない。絶対恨んでる。恨んでいる奴にしかできないくらいの仕打ちや。このままどっか、果てしなく飛んでいくんやないか。俺、抹殺されてもうたんやないか。呪われたしな。ぶっ殺されたんや、絶対そうや。
 ひどい。なんてことするんや、可愛い子孫やのに! 守ってくれてもええやんか、ご先祖様なんやったら。普通の家のご先祖様はそうやで。子孫を守ってくれるから有り難いんやで。全然守ってくれへんで、ただ祟るだけなんやったら、なんで有り難いことあるねん。詐欺や! 今まで盆とか正月とかに、お前のために祈ったり、御神酒おみき捧げたり、墓の掃除したり、たびたび神社で祈祷してもろたりしてたんやないか! それがなんやねん、ぶん投げるやなんて!
 俺、もう吐きそう!!
 ものすごい重力加速度や。地球に突っ込んでくる隕石に、心があったらこんな感じか。行きすぎる風が、燃えるように熱い。摩擦熱やろう。燃えそう。きっと水煙も、地球に落ちてくる時には、こんな気分やったんやろなあ。
 びっくりしたやろ。月とはあまりに違う世界や。月がどんなか、俺は知らんのやけども、それでも絶対、地球とは全然違う世界やで。海もないしな、空気もないんや。重力かて地球の六分の一しかない。ふわふわ軽い世界なんやで。
 宇宙から見た真っ青な海が綺麗やなあって、飛び込んでみたのはええけども、男に惚れるわ、それには振られるわ、子供はできるわ、それが不良やわ、しかも近親相姦の強姦男やし、子々孫々にまで祟るし、その子々孫々はアホやし、跡取り作る気もなしで男と結婚するしやな、お前は二番でええかって言うし、そんな子に惚れてもうたし、水煙も散々や。地球なんか来るんやなかったって、思ってんのちゃうか。
 後悔してるか。お月さんのとこ帰りたいかな。それやと竹取物語やで? ストーリー変わってもうてる。人魚姫やったのに。月の都に帰りたいのは、竹取物語のかぐや姫やもん。
 でも、そのお伽話かて、あながち作り話では、なかったんかもしれへんな。昔そういうお姫様が、ほんまに居ったんかもしれへん。月から地球にやってきて、ちょっとだけ居るつもりが、男に次々惚れられて、帰るに帰られへん。ああどうしようみたいな。
 それでも結局、かぐや姫は月へと帰る。地球に順応でけへんかったんやな。まさかエッチが痛かったんか。そんな理由、恥ずかしすぎて後世に語られていないだけで、実はそうやったんか?
 俺も黙っていよう。皆もここだけの話にしてくれ。秘密やで。秘密やで。
 俺も無事に目がさめたら、全て忘れてしまうことにしよか。そんなことが、できるもんなら、忘れよか。
 水煙様との、たった一度きりの逢瀬や。そんなもん、憶えてない。全く記憶にございませんと、素知らぬ顔して生きていこうか?
 しかし、そんな薄情な俺を見て、水煙は哀しくならへんやろか。憶えてないんかアキちゃんと、陰でため息つかへんか。
 それやと、あまりに、可哀想やないか。
 何や知らん、訳も分からん憶えてへんうちに、左手の、水煙泣かせたセンサーが警報を発して、冥界から初代の人が駆けつけてきたりせえへんか?
 ヤバい、それは。意味わからへんから。いきなり大蛇おろち出てきたら大騒動やから。俺、今度こそ乗っ取られてまうで。そん時、亨がほんまに俺を守ってくれればええけど。大蛇おろちVS大蛇おろちやで。まさに妖怪大戦やないか。
 神通力を磨いておかなあかん。いろいろ学んでおかなあかん。そう易々と体盗られてたまるか。角髪男みずらおとこには負けへんで俺は。
 無事に帰れたら、頑張ろう。無事に帰れたら、って、祈る気持ちでブッ飛びつつ、俺は到着した。現世に。
 がばあって、ベッドから飛び起きていた。ものすご大汗かいていた。
 変な夢見た! エロかったり怖かったり! 夢がかなったり、悪夢のようやったり。でも全部夢やった。俺は眠りに落ちた時と同じ、ヴィラ北野のインペリアル・スイートの、白い新婚さんベッドの上にいた。シーツには、ぎょっとするほどの血の染みが、俺が寝ていた枕のあたりから、かなりの広さで染み付いていた。
 うわっ、なんやねん、これ!
 そうやった、俺の血や。寝る前、瑞希にがつがつ食われた。
 そういや瑞希はどこ行ったんや。腹いっぱいなって、散歩でもしに行ったんか。
 亨もどこ行ったんや。水煙は。
 俺はひとりでベッドに寝ていた。ぐちゃぐちゃに寝乱れてるけど、でも一応ちゃんと着ている、パジャマのままで。
 窓の外にはさんさんと、神戸の朝の日が照っていた。朝というか、もうすぐ昼みたいやった。
 寝坊したんや、俺は。寝坊なんかしたことないのに。いつも早朝に目が醒めるタイプやのに。調子狂った。夢見のせいや。
 気持ち悪い。吐きそうや。ご先祖様にぶん投げられて、えらいめに遭うたからや。まじで吐きそう。まるで猛烈にひどい二日酔いの朝か、船酔いでもしてるみたいや。
 でもたぶん、俺は自分に反吐が出そうやっただけ。
 亨はどこへ行ったんやろう。いつもいるのに。朝起きた時にはいつも、俺の隣で寝てたのに。なんで今朝はいないんやろう。
 きっと俺に愛想が尽きたんや。俺も尽きるもん。あいつが尽きないはずがない。
 俺は何か、言うたらあかんような寝言でも口走っていたんやないか。あいつはそれを聞いてもうたんか。あれは夢やと割り切って、平気で居直ってられたんは、夢の中にいる間だけやった。夢から醒めたら、まさに現実。それに直面してもうて、脳みそフラフラ。
 また引き裂かれそうになっている。誰の手でもない、たぶん自分自身の手で、俺は自分を引き裂いてんのやないかな。
 だって、おかしい。ほんまに頭が三つも四つもあるような、化けモンみたいな大蛇おろちでもなきゃ、同じ一つの体の中に、あれもええなあ、これもええなあって、誰も彼もが世界一好きなような、そんな多情な愛があるわけがない。誰かひとりにお前が誰より好きやと囁けば、他のは二番か三番で、それを必死で愛そうったって、結局は嘘やないか。騙してるだけやねん。都合のいい、嘘やねん。
 俺は水煙に、嘘をついたんやろか。
 そんなこと、したくないのに。好きやったのは、ほんまやねんけど、でも亨を捨てて、お前を選べる訳やないんや。そんなことするつもり無い。
 俺はたぶん、臆病やねん。また傷ついた水煙を見るのが怖い。可哀想でしょうがない。それが自分のせいやと思うのがつらい。
 昔、別れを告げた女の子たちが、哀れっぽく泣き崩れて可哀想やった。俺も一応それのことは、可哀想やと感じてた。でも、どないもしようがない。もう愛してない。それを何とかできへんかった。もしかしたら俺は、初めから、そのうちの誰も愛してなかったんかもしれへん。
 ずっと誰かを探してた。こいつでもない、この子でもない、俺が探している魂を持っているのは、この相手ではないと、いつも不満で、がっかりしていた。
 なんでやろう。俺はきっと、おかんを探してるんやろうなと、ずっとそう思ってきたけど、ほんまにそうやろうか。
 亜里砂はおかんみたいな女やったで。俺はほんまにあのが好きやった。でも、何とはなしに遠慮があった。
 このでもない。俺が探してんのは、このではない。すごくいいで、申し分ない。俺を幸せにしてくれるやろうと思えた。それでもあかんねん。何であかんかったんやろ。
 俺はずっと探してた。自分の連れ合いになってくれる、魂の片割れを。
 この世に生まれてきた時からずっと。もしかしたら、その前からずっと。
 誰と居っても寂しかった。おかんと居っても寂しかったんや。一番大事な、誰かがおらへん。それが誰なのか、俺にはずっと疑問やったんやけど、もしかしたら、おとんやないかと、子供の頃は思ってた。
 おかん大好き。世界一愛してんのやけど、でもそれは、俺がおかんの息子やからやろ。自分の母親やから愛しいねん。それ以上の理由はなにもない。俺にとっては申し分のない親やった。ちょっと変でも、優しかったし、俺をこの世にまた生み出してくれた女や。
 でも、それだけじゃ、足りへんねん。きっと、俺にはおとんが居らんからやろ。他の子にはみんな、おとんが居るのに、俺には居らへん。それで寂しいんやと、俺は自分を納得させていたけども、でも、実際のところ、どうやった。
 確かに、おとんが戻ってきてくれて、俺は嬉しいわ。内心深く喜んでいる。相当変でも、あれはあれで、俺を見守ってくれる、心強い父親や。迷惑やけども、腹も立つけど、それでもただ居てくれるだけでも有り難い。神さんやからかな。英霊なってもうてるからか。何か有り難みがある。
 それでも足りへん。おとんが居って、おかんが居っても、亨が居らんと世界が完結せえへんねん。
 なんでか知らん。クリスマス・イブの夜、バーに立ってたあいつを見つけて、俺は心底満たされた。やっと見つけた。ずうっと探していた魂の片割れを。もう離さへん。これでやっと俺も、心底和める。もう寂しい寂しいと、嘆きながら彷徨う必要がない。
 それで生まれて初めて、俺はにこにこ幸せやった。七面鳥の絵描いてたからやないよ。なんでそんな絵描いたくらいで、幸せになれるねん。意味わからへんやないか。
 俺は絵が好き、描いてりゃ幸せ、それはほんまや。嘘やない。でもその時に幸せやったのは、俺が描いてる落書きを見て、亨が楽しそうやったからやろう。にこにこ笑って、俺を見ている、あいつの顔を覚えてる。綺麗な顔や。俺を見ている。一体お前は今まで、どこをほっつき歩いてたんやろう。ずっと探してたのに。なんで見つからへんかったんや。不思議なもんやなあ、世間というのは。狭いようで広い。お互い探してたはずやのに、見つけるまでに随分かかった。
 でももう、やっと見つけたし。もう離さへん。離れられへん。俺をもう、一人にせんといてくれ。お前が居らんと寂しいねん。寂しい寂しい、寂しくてたまらへん。俺の愛しい蛇神様は、いったいどこへ行ったんや。お前は俺の運命の恋人なんやろう。俺を置いて、どこか遠くへ行ったりせんといてくれ。やっとお前とずっと永遠に、抱き合ってられる身の上になったんやで。俺はもうお前と離れたくない。永遠にずっと。
 でも何やろう、運命の赤い糸というのが、ほんまにあるんやとしたら、それが無茶苦茶絡み合っていた。
 人間て、生まれ変わる時、いろんな人と混ぜ合わされるらしい。普通、前世のことは忘れている。リセットされてる。新しい人生を生きていくため、全く新しい人間として生まれ出てくる。新品やねん。
 でも時には執念深く、前に生きてた時のことを、憶えてる奴が居る。よっぽど何か思い残すことや、因縁があったんやろう。冥界の火で焼かれ、天界の光に溶かされて、神々の手による臼でかれて、粉々に砕かれ、再び霊水でねて再生された新品の魂となっても、その中に消え残る前世の魂の欠片が、俺はまだ忘れてへんでと往生際が悪い、そんな奴も稀には居てる。
 それが俺やなあ、たぶん。
 憶えてはいない。思い出すことはできへんのやけど、漠然と感じる。
 水地亨を知っている。クリスマス・イブの夜に、初めて会うた訳ではない。ずっと前から知っていた。お前は俺のもんで、俺はお前のもんやった。でも、前の時には、うっかり死んでもうたんや。人間やったから。
 そして転生を繰り返し、俺の魂は何度かリサイクルされた。元は一人分の魂やったもんが、幾つかの欠片に分かれ、何人かの人間へと生まれ変わった。そんな運命の恋人候補が、世の中には何人も居てるということやろなあ。
 油断でけへん。俺だけやない。俺にとって運命的な相手らしいのが、亨の他にも居るように、亨にもいる。中西さんもたぶんそうやろ。俺があの人のこと好きなのは、もしかしたら一種のナルシズムやないか。
 おとんを好きなのも、そうかもしれへん。自分とよく似た人間が、この世には五人いてるらしい。そういう言い伝えがある。そいつはもしかしたら、同じ魂に由来する欠片を持っている人間なのかもしれへん。
 しかし、何より大事なのは、今生を生きることや。前世がどうやとか、そういうことに、過剰に拘ってもしょうがない。なんと言うても、それはもう、終わってもうた一生なんやからな。今を生きなあかんのや。
 俺は亨を愛してる。なんでそうなったのかには、何か理由があるんかもしれへん。せやけど俺はそれについて、憶えていない。ここで重要なのは、俺がただ、あいつを好きやということや。
 なんで好きかは一目惚れ。理由なんて、それでええやん。アキちゃんどうせ面食いやねんから。あの顔が好きやったんやということで、誰しも納得できる話やろ。なんせ美貌や、水地亨は。そんなあいつが、アキちゃん好きやて言うてくれて、惚れへんほうが異常やねん。俺は普通や、覡《げき》として、人としてもやで、麗しい神さんの霊威に満ちた求愛に、正常な反応をしただけや。
 踏ん張りどころはここからやねん。亨が好きやに理由は要らん。運命なんて関係あらへん。前世でどうやったかなんて、もう関係がない。ただ好きやねん。それだけなんや。
 クリスマス・イブの夜に出会って、始まった恋や。まだ一年経ってない。俺は亨のことを、まだ八ヶ月分しか知らん。それで永遠に続く一生を共有しようなんて、早まった決断やったやろか。もっとよく考えて、他にも運命的っぽい相手が居らんかどうか、ようく確認してから決めるべきやったか。
 そうかもしれへん。運命の相手が何人もいてる、そういう可能性はあるからな。実際、俺には居たわけやから。
 たぶん、俺にとっては水煙も、前世に深い因縁のある魂を持った間柄やった。俺の中にいた怨霊が、その証拠と言えるやろうし、もしかしたら俺はどこかの平行宇宙パラレルワールドでは、自分に巣くっていた初代の男の魂の欠片に乗っ取られ、再び出会った愛おしい天人に、やっとお前に追いついた、俺はもう不死人になった、お前に相応しい相手として、黄泉から舞い戻ったと、愛し愛され、比翼の鳥か、連理の枝で、古い予言を見事に成就させていたんかもしれへん。
 でもそれは、選択されなかったコースや。
 俺の中にはもう、怨霊はいない。それはもう話したやろう。他ならぬ水煙が、俺の魂の中から、自分と呼応するはずの魂の欠片を、抜き取ってしもたんや。怨霊の蛇を引きずり出した。
 それによって、水煙と俺はもう、運命の恋人どうしではない。それでも俺は水煙が好きや。それは怨念ではない。今生で出会った後からこっち、ほんの一ヶ月ばかりの間に眺めた分だけをとっても、水煙様は麗しい神さんやった。俺はその神威に惚れていた。それは、後遺症みたいなもん。怨霊に憑かれていた傷痕が疼く。水煙欲しい、水煙欲しいで、いてもたってもいられへん。
 それでも俺は水地亨を選んだ。あいつと誓った。永遠に俺はお前のもんやって。運命の恋人やからと理屈をつければ、他にもいてる運命の相手に、それを論破される。せやし運命ではまずい。
 理由はない恋愛でも、俺は亨に永遠を誓った。言霊に乗せて。誓いますアイ・ドゥと。月に誓った。月読命つくよみのみことに。偶然とは怖ろしいもんで、その偶然こそ運命か。俺の血のなせる技やったんか。月は俺にとっては祖先神にあたる。俺を愛でてる天地あめつちの、神の中でも、もっとも結びつきの強い神さんや。それへの誓約は神聖や。必ず果たされなくてはならない。
 亨にしときますと、俺は月に誓ったのやしな、それ以外の相手とやってもうたら浮気やで。それについては言い訳しない。
 俺は浮気な男やねん。それについても言い訳しない。それはもう、おとんの血やわ。秋津の血筋や。多情やねん。人間をやめることはできても、おとんの息子をやめる方法はない。親子はどこまでいっても親子なんやし、おとんに似てるのだけは、どうしようもない。
 しかし同じ怨霊に憑かれているはずの、うちのおとんは一体どうやって、水煙様を諦めたのか。あっさり俺にご神刀を譲って、涼しい顔をしていたけども、それでよう平気やったな。その極意を知りたい、俺は。
 なぜなら俺も水煙様を、諦めることにしたからや。
 愛していないはずがない。おとんも水煙を、愛してたはずや。なんでって。無理やろ。麗しの水煙様を愛さずに生きていくのは。無理やから。げきで剣士の、俺のおとんやったら、絶対に惚れているはず。そうでなきゃ、何度も犯ったりするわけないやん。
 俺もそうして生きていくのか。もしも生きながらえたら。何度もやるのか、これを。辛抱たまらん言うて、何度も亨を裏切っていくのか。そしてそれを我慢してくれ、これも血筋の定めやと、ずっと言うんか。
 そんなこと続けていたら、亨はほんまもんの鬼になってしまうやろう。そんな気がする。これはその地獄に続くコースの、最初の一歩やったんや。
 でもまだ今のうちなら、慌てて戻ることもできる。慌ててバックして、別のコースに戻る。そうやって、やり直せるかもしれへん。もしも亨が、俺を許すっていうんやったらな。
 それとも俺はもう、許してもらわれへんのかな。亨に見捨てられたんか。やめてくれ。死んでまうから。お前が居らんと俺は死ぬ。生きていかれへんねん。寂しすぎて無理。きっと俺も、発狂するで。朧様が変になってるみたいに。生ける屍、亨が居らん、その現実を受け入れがたくて、いつも妄想のお前と二人連れ。きっとそうなる。自分の心の中にある、亨と過ごした時の甘い想い出や、忘れがたい記憶の欠片に寄り縋って生きていく。死んだほうがましやって嘆きつつ。それでもお前が生きているこの世から、立ち去りがたい未練の糸で、がっちり絡め取られてる。
 他の誰かと新しい恋なんて、できるわけない。お前あっての世の中や。ライスあってのカレーライスや。ゴハンくださいって惨めに待ってる、それしかできることはない。
 朧様、なんて気の毒な神や。なんとかしたらなあかん。俺もそんな、気の毒なアキちゃんになりたくない。今ならまだ間に合うねん。亨に謝ろう。ごめんなさい、もう二度としません。許してください。なんでもします! 浮気しません。ほんまにしません。水煙にもちゃんと、もう無理やって言います。どんなに好きでも、頑張って忘れます。ちゃんと鬼になるしな、頼むわ亨、今回だけは見逃してくれ。拝みます!
 吐きそう死にそうって、目の前ぼんやり霞んでもうて、足もとフラフラ。そんな惨めなざまで、よろめきながら、俺はベッドを這い出して、バスルームへ行った。
 汚い話で恐縮ですが、俺はトイレに行きたかったんや。吐きそうやってん。ほんまに吐いたんや。何か、よう分からんもんを、げろげろ吐いた。食いモンやなかった。何か黒い、虫みたいなもん。
 物言わねば腹が膨れるという、腹を膨らすアレやろう。何か溜まっとったんや。腹ん中にな、山ほど溜めてた。俺は相当、我慢しとったんや。実は時々そういうことはあった。子供のころから、限界越えてストレスたまると、吐きそうになったんやけど、ほんまに吐いてもうたら、こういうのが湧いて出た。腹に溜めてた暗い情念のようなもの。それが百足むかで長虫ながむしか、もやっとしてて得体の知れん、禍々しい物の怪の形になっている。俺はそれだけ、自分を呪っていたんやろう。内から自分を蝕んでいた、自分が生んだ怪物や。
 それを、げえげえ吐いてもうて、しょうがないから、水に流した。とりあえず水に流せば何とかなるよ。水流には神聖な力があるから。それがトイレの水でもやで。というか、水洗トイレって元々そういうもんやんか。不浄のもんを、水に流して浄めるという、そんな便利機能やで。火でもええけどな、火はヤバいやろ。火炎式トイレは怖いやろ? せやし水やん。水洗のほうが体に優しいよ。
 不浄のもんを処分するには、燃やしてからトイレに流せば通常は完璧やねん。皆も憶えといたら何かの役には立つかもしれへんよ。振り込め詐欺の偽の督促ハガキとか、別れた彼氏に昔もらったラブレターとかいった、因縁めいたもんを捨てる際のお手軽な方法としてさ。
 そして腹蔵虫ふくぞうむしを流すのにもいい。ゲロって忘れてしまうのも、踏ん切りつける一つの手やわ。
 俺はしんどい。もう限界。こんなのは、もう続けていかれへん。鬼になればと思うけど、どうも俺にはそんな甲斐性はない。気が弱すぎて、亨に悪いとは思いつつ、水煙や瑞希も可哀想。どないしたらええか分からへん。追いつめられてアウト。そしてそのまま激流に、ずるずる呑まれるばかり。そして苦しむばかり。相手もそうやし、自分もそうや。誰ひとりとして幸せになられへん。
 なんでやろ。なんでこんなことになんの。人は幸せになるために人を愛するんやないんか。神様は違うんか。神かて似たようなもんなんとちがうんか。亨は幸せになりたくて、俺と一緒に生きている。俺と居ったら幸せやねんて。せやのに俺はあいつを全然幸せにしてやれてない。中西さんとも約束したのに、亨をしんどい目にばかり遭わせてるんや。
 瑞希も惨めそうな顔してるしな、水煙かて哀しい顔ばっかりしてるで。俺かてつらい。一体誰がそれで幸せになってんのや。どこかに、どこかにこの迷宮の、出口はないんか。幸せへと続くゴール。これより先は極楽でございますみたいな、光り輝くゲートがないか。俺はそれを、どこかで見落としてんのやないやろか。コース間違えてんのやないか? どこかに全員でハッピーエンドになれる、そんな奇跡のコースはないのか。
「吐くほど嫌な夢見やったか、アキちゃん」
 げえげえ吐いてた俺の背後から、しみじみ皮肉っぽい声がした。
 俺は半分涙目で、口を拭って、その声がしたほうを振り返っていた。
 バスタブのあるほうや。貝殻みたいな白いバスタブの中に、水煙様が鎮座していた。剣やない。青い人型のほう。それの浸かる風呂に注ぐ水の栓を、ひねって止めてやっている途中の姿のままで、亨がぽかんと俺を見ていた。あんぐりしていた。口開いていた。
 水煙はいつも通り、素っ裸やったけど、亨はまだパジャマを着てた。頭ぐちゃぐちゃやった。ついさっきまで寝てたらしい。実はちょっと前まで俺の隣にいたんや。たまたまちょっと、風呂にいただけで。
「なに、吐いてんの……?」
 ものすご気色悪そうに、亨は俺がトイレに吐いたもんを見ていた。それはキイキイ呻きつつ、蠢く暗い影やった。
「とりあえず流せ、アキちゃん。その腹蔵虫を」
 こともなげに言うて、水煙は、俺に吐いたもんを始末する方法を教えた。流せばええのか、これ。そんなんで解決つくような化けモンなんか。
 でも、俺は敢えてうだうだ言わず、言われたとおりに水を流した。ざああっと普通に水は流れ、その渦巻きに揉まれるように、黒いモヤモヤは、ああーっ、と可哀想な悲鳴をあげつつ、水の流れに崩れるようにして消えていった。
 案外、大したことない奴らしい。腹に溜めてると、えらい目にあうけど、思い切ってゲロってしまえば大したもんやない。
「夢にお前が出てきたんや、水煙」
 あれは夢やったんやと、俺は思っていた。
 何でか言うたら、バスタブに浸かっている水煙は、別にキラキラの天人ではなかった。元の通りの、青白い海の眷属で、怖ろしげな姿をしていた。
 あの可愛いような姿を拝んだ後で見ると、確かにこれは怖ろしい海の怪異の姿やった。それでも禍々しい美しさではあるけども、魔性のものや。水煙は確かに、穢れてもうてるんやろう。代々の当主を翻弄してきて、代々の男を狂わせていた。それもこいつの本性なんやで。穢れない天人やったのは、もう二千年ほども前の話や。すっかり地上に染まってもうてる。
 いかにも魔性と思える、妖艶な笑みを浮かべて、水煙はにやりと唇を開いた。そこに白い歯列と舌が潜んでいた。それを貪った時のことが、ふと思い出されて、俺はぞくっとした。笑っている水煙は、美しく見えた。魅入られるに足る神さんやった。
「出てきたか? 俺は何も憶えていないけどなあ」
 しれっと平気そうな声で、水煙はそう言うていた。まるで、ほんまに何も憶えていないようやった。
 それならそれでいいのか。本来、こういうもんか。水煙は憶えていないんやろか。当主と過ごした初夜の出来事は、翌朝には忘れているもんなんか。
 それともあれは俺の馬鹿げた妄想で、水煙はただ、一晩たって機嫌を直し、風呂に入ってるだけなのか。
みそぎしろ、アキちゃん。また神事がある。秋尾が呼びに来た。籤取くじとりをやるらしい。水占みずうらや」
 心地よさそうに水に浸かって、水煙は優雅に足を組み替えていた。その足にはひれがあり、海の眷属と思えるような姿形を、水煙はしていた。あの夢がもしも本当なんやったら、それは伊勢の海神わだつみが水煙に与えた姿や。水煙はきっと、海の神にも愛されていたんやろう。そもそもこいつは地球の海が美しいからという理由で、月から落っこちてきたんやしな、その時々の、馴染んだ相手の好む姿に変転しながら生きてきた。始めは月の眷属で、その時は天人やったしな、鍛冶屋に惚れたら剣になる。俺に惚れたら俺の描く、好き勝手な妄想の姿に変転し、それでかまへんという性格なんや。
 きっとまた、心変わりできるやろう。誰か他の、俺ではない誰か、そいつの好む姿になって、きっと幸せになってくれるやろ。
 そうやと信じたい。俺はそう祈りたい気分やった。しかし気がついてもいた。水煙て、幸せやったこと、あんのか。夢とはいえ、俺と抱き合うて喘ぎ、こんな気分になったのは、初めてやと言うていた。
 それって、どんな気分。
 まさか、幸せな気分のことか。
 そうかもしれへん。月や海に惚れたところで、独占はできへん。なんというても自然神や。皆のもんやで。それはしょうがない。そして刀鍛冶も無理やった。炉の火に魅入られていた。つちふいごが生きる全ての、そんなオタク男やった。それもしょうがない。そんな奴から好きな技芸を奪ってもうたら、生きてる意味がないからな。そして、それを諦め次にいった連中なんて、秋津の代々の当主であり、式神を従えて戦おうというげきばっかりなんや。無理無理。基本、多頭飼いなんやて言うてたやんか。そうでなければ勤まらぬ。それは水煙本人がそう、俺に教えた話なんやで。しょうがない。血筋の定め、それが家業や、うだうだ言うてもしょうがない。
 しょうがない、しょうがないで諦めて、はっと気付けば二千年経ってたということなんやろ。自分の幸せ二の次で、相手に尽くしてやってるうちに、ふと気付けば、幸せってなに。そんなん感じたことないわという、そういう事なんや。
 うわ。気付かんかったらよかった。また気まずい。せっかく今朝は微笑んでいる、なんともいえず満足したふうの、水煙様に顔向けでけへん。俺はお前を振るつもり。もう今すぐにでも言わなあかん。お前とは無理や。俺は亨と生きていくんや。済まない水煙、俺のことは、忘れてくれって。
 けど、あれが夢なら、ちょっとだけ気も楽や。あれは夢で、現実やない。俺の勝手な妄想なんや。俺は水煙とは寝ていない。怨霊もいない。ただの怖い夢。
 そう自分に言い聞かせ、俺は怨霊が描いていた呪方陣のあるはずの、左手の手の平を見た。鈍く痺れる痛みのようなもんがあって、手の平にはまた金色の線が、妖しい文様を浮き上がらせていた。
 警報鳴ってる。水煙泣かせたセンサーが、もう作動しかけてる。
 夢やない。ほんまにいたんや、あの怨霊は。俺のご先祖様。顔そっくりの角髪みずら男で、水煙泣かせたら俺を乗っ取りに来ると、そう言い残していた。
 さっき別れたとこやのに、またまたリターンマッチ?
 すみません、初代。あー、しんど、って、やっと冥界帰ったら、警報鳴ってる、また出動や、みたいな。そんなノリやで。信用でけへん子孫すぎ。ヘタレですみません。
 でももう、無理やしな。言わなあかん、水煙に。俺もお前を忘れることにする。お前への愛は、もう捨てる。水に流して、無かったことにする。忘れなあかん。亨のために。
 水煙。お前を幸せにしてやられへん、俺を許してくれ。許せへんなら、呪ってくれてもいい。それで俺が鬼みたいな化けモンになってもうても、自業自得や。多情な俺が悪いねん。俺が好きやという神の気持ちに、中途半端に応えたりする、そういう優柔不断が悪いねん。俺が悪い。
 ほんまはお前が俺の主神で、お前を崇めて生きていくのが、秋津の当主としての俺の勤めやったのに、よそで別の神さんなんか拾ってきてもうて、それが好きやて我が儘言うて、堪忍してくれ。亨を恨まんといてくれ。祟るんやったら俺だけにして。亨には、頼むから、何もせえへんといてくれ。
 ご先祖様も、お願いします。もしも俺をほんまに乗っ取ろうというんやったら、俺は自分を守って戦うけども、それでも負けてもうて、体盗られてしまった時には、どうか亨は見逃してやってください。また自由にしてやって。きっと俺の他にも、こいつを幸せにしてくれる運命の恋人はいてる。そこで幸せになってもらいたいねん。秋津の式として、ずっと飼われていくのやのうて、どこか遠くで幸せになって、自由に生きててもらいたいんや。
 もともと秋津とは、何の関わり合いもない神や。メソポタミア産らしいですよ。えらい遠いとこから来てる。アホやし。大した役に立ちませんし。可愛いけども、それだけやから、見逃してやって。
 まさか俺の体を乗っ取って、水煙様と永遠にラブラブ、それを永遠に亨に、見せつけたりはせえへんやろな。もしもそうでも、何が起きてんのかの事情説明くらいは、してくれるんですよね。まさかアキちゃんは亨をポイして、水煙様に乗り換えたって、そういう誤解は生じませんよね。ご先祖様、ほんまに頼む。頼むしな。いくら鬼でも、それくらいの情けは、可愛い子孫にかけてくれ。
 俺はこれでも亨のことは、ほんまに愛してる。ほんまに好きやねん。そんな、しんどい思い、させたくないんやで。
 水煙にはさせた。せやしその報いやなんて、思わんといてくれ。それは俺が悪かったんや。俺のせいやで水煙。お前はそれを、分かってくれてんのやろ。俺のことはお前はなんでも、分かってくれてんのやしな。そんな俺の気持ちも、分かってくれ。亨につらい目見せんといて。自由にさせてやってくれ。捕まえた蝶を、ふたたび空に放つみたいに。傷つけたり、閉じこめたりはせず、また放してやってくれ。
「アキちゃん……お前はほんまに、あの父の息子やなあ」
 俺の内心の声を聞いていたらしい、水煙は、バスタブにくつろいで、くすくすと笑っていた。困ったような笑い方やった。亨はその横で、ぽかんと俺を眺めて、まだ突っ立っていた。
「なあ、水煙。俺は全然入っていかれへん、この話の展開は、今どないなってんのや? 声に出して話してくれへんか。お前らが目と目でツーカーなんは、わかるけどやな、俺かて一応いてんのやから……」
「なんでもない。お前ちょっと、向こう行っとけ。俺はアキちゃんに話があるから」
 目が泳いでる亨は、水煙にきっぱりそう命令されて、微かにムカッと来てる顔をした。怒っているというよりも、俺だけ仲間はずれにしやがってみたいな、複雑そうな顔やった。
「なんやねん。新婚さんの内緒話か。蛇は邪魔やし向こう行っとけか?」
ひがむな。神事の話や。お家の秘密やし、お前は遠慮しろ。今はもう、秋津のしきやないやろ、よそモンなんやから、教えてやられへん事もあるんや」
 くどくど説教するような口調になって、水煙は亨を諭した。
 それにぶうぶう言いつつも、亨は納得したらしい。
 素足のままで、ぺたぺたバスルームを横切っていき、ばたんと腹いせみたいに乱暴に、白い扉を閉じていった。
 家のためやと言われれば、亨は遠慮するらしい。あいつはあいつなりに、気を遣っている。俺んちの家業のことを、ないがしろにはしていない。神事やら何やらについては、自分よりも水煙のほうが詳しいと、そう認めていて、道を譲る。
 あれで案外、亨は控え目な性格なんやで。口は悪うて、えげつないけど、でも健気。いつも待ってる、俺がひと仕事終えて、秋津の暁彦様から、ただの絵描きのアキちゃんに戻る時まで、いつもおとなしく俺の家業に付き合うてくれている。そんな優しい蛇さんや。
 そんな遠い異国の蛇が、出ていった扉を横目に見つめ、水煙はしばらく待っていた。亨が聞こえへんようになるまで、話すのは待とうと思ったんやろう。
 ひたひた静かに絨毯を踏む、人の耳では聞こえへんような音が、そっと遠ざかっていき、亨はまたフテ寝したようやった。ごそごそベッドに潜る音がしていた。
「アキちゃん、あいつは、性悪な蛇や。油断していたら、痛い目に遭う。そういうこともあるやろう」
 聞こうと思えば、亨には聞こえているんかもしれへん。それでも水煙は声をひそめる気配はなく、音を漏らさぬ結界を、張り巡らせもせえへんかった。それは気まずい話やないのかと、俺だけが、ぼんやりどこかで焦ってた。
「かつておぼろもそうやった。お前の父はあれにうつつを抜かし、肝心な時に祇園の家へ逃げ込んで、ふらふら遊んでみせたりしていたんで、俺もどうにも腹が立ってな、おぼろを捨てろと文句を言うたが、もっともらしい理由をつけて、お前の父は知らん顔をしてばかりいた」
 思い出すのか、水煙は、苦み走ったような笑みやった。おとんも悪い子やったらしいわ。言うこときかへん。水煙様が怒っても、知らん顔してどこ吹く風や。
「捨てたら鬼になってしまうとか何とか、そんなことを抜かしてな。そうなったらそうなったで、斬って捨てりゃええんや。そういうものや、鬼斬りをするげきというのは。可哀想やで躊躇っていては、その鬼に、食われて泣いてる人間どもが哀れやろ。それを救うてやるのが、げきの勤めや。鬼と戯れるのが仕事ではない」
 とりつく島もない硬質さで、水煙は俺にそう諭し、それから淡いため息をついていた。
「俺はそう思うていたんやけどな、でも、それも少々、頭が硬かったんかもしれへんな。アキちゃんは……お前の父や、あいつは変な男やったわ。悪さすんのやけども、なぜか憎めへん。俺の話も、ちっとも聞いてへんのやで。こっちが本気で怒っていても、まあまあ水煙、そんな怖い声出さんといてくれ。鬼かと思うわと言うて、へらへら笑うばかりやねん。そのくせ俺が気弱になっていると、夜中に蔵まで出張ってきて、朝まで一緒にいたりする。餓鬼の頃からそうやった。寂しがりやで、めちゃくちゃで、言うこときかへん、悪い子ぉやし、これが末代、初めの暁彦の生まれ変わりではないかと、思うていた時もあったんや」
 水煙の話す声を聞き、俺は自分も子供の頃に、何かあったら蔵にしけ込む餓鬼やったことを思い出していた。あそこは何か特別な部屋やねん。現実から離れ、祖先伝来の想いが染み付いた、古道具類に囲まれていると、なぜかホッとする。怖い現実から離れ、自分が守られているような気がして和む。
 学校とかで、それとなく、ひとりぽつんと浮いている自分を実感すると、俺は走って家まで帰り、そのまま蔵に籠もっていたりした。古びた蔵の鍵がかかっている高さに、自分の手が届くようになってからのことや。
 その鍵は、ずうっと昔からそこにあり、俺が勝手に使うても、おかんは文句言わへんかった。鍵を引っつかんで逃げていく俺を、ただ呆れ、懐かしそうに見るだけで、いつも大目に見てくれていた。
 たぶん、おとんのことを思い出していたんやろう。
 蔵には水煙様が居るんやし、昔は今よりさらに特別の場所やったやろう。
 小学生やった俺が、ひとり生きてる寂しさに負けて、隠れて泣きべそかいてると、何や知らん、古い声が蔵のそこかしこから、俺を慰めていた。しょうがない、アキちゃん。お前はそういう家の子や。ひとりやないで。俺が憑いている。みんなも居てる。寂しかったら、ここに居ればええよと、古い木魂こだまが声真似してるような口振りで、いつも決まったお定まり、しょうがないよと俺を諭した。
 俺はそんな古道具類が化けた、九十九神つくもがみやら、蔵に仕舞われている怪異のたぐいと戯れて、他とは違う変な自分を、しばし慰めていたんやと思う。皆が嘘やと、ありえへんと思っているものが、蔵の中では現実やった。紛れもない現実。紛れもない異界がそこにあり、それが嘘ではないことに、俺は深く安堵していた。
 おとんの頃には、木魂こだまの声真似ではない、ほんまもんの神さんが、そこにいたんやろう。ほんまもんの、喋る剣。隕鉄いんてつから打ち出されたというご神刀が、ひっそり片付けられていて、問えば語る。家に伝わる古い古い物語。寂しい寂しい、皆と違うのがつらいねん、なんで俺は普通の子のように生きていかれへんのやと、俺やおとんがただ捏ねて問えば、その神はこう答えたやろう。しょうがないアキちゃん、それが血筋の定めやと。
 嫌なら普通の子になるか。神通力など持っていない。風の囁く声も、物陰の怪異が語る、不思議な声も、月読つくよみの笑う、妖しくも神々しい声も、なにも聞こえへん耳をした、なんでもない普通の子になって、絵を描く腕も折られてもうて、将来、鬼斬るげきとして、ご神刀を振るい、人々を救うこともない。そんなふうに生きていくのかと、その神は問い返してきたやろう。
 おとんも俺も、結局ずっと絵筆は捨てられへんかった。結局、ご神刀を握る男になった。人と違うふうに生きていくのは、時々つらい。それでも俺もおとんも、結局選んだ。あの薄暗く古い、蔵の中で、秋津の子として生きていく人生を選択した。優しく守ってくれる、おかんの胎内のような、古い蔵からは出て、鬼の蠢く修羅場のような現実の世界で、戦っていくことにした。
 俺も時々聞いたことがある。蔵の中とか、あるいは古びた母屋の梁のどこかから、俺を励ます声が言うのを。
 アキちゃん、泣くことはない。お前は天地あめつちに愛された子や。人はみんなそうや。哀しいんやったら泣いてもええけど、いつかは立ち上がって戦わなあかん。人のために戦ってこそ、お前は大人になれる。そして人が愛するような、偉大な者にもなれる。めそめそ泣いてる弱虫は、誰にも愛してもらわれへんで。
 そう言うお堅い声に、そうか、俺はやっぱり誰にも愛してもらわれへんのやと、俺がぽろぽろ涙をこぼすと、声は慌てて、そんなことはない、そんなことはない、お前は可愛い秋津のぼんで、俺は愛してる。皆、お前のことを愛してんのやで、めそめそするな。ほんまにもう、しょうがない、と、ビビッたようにぶつぶつ言うてた。
 あれは水煙の声やったんやないか。
 うちの実家には、いろんなもんが憑いてんねん。怪異が棲んでる。そういや水煙も、俺が子供のころからずっと、実は嵐山の家に居ったんやで。せやしあの声が、実は水煙やったというのでも、納得はいく。だって、考えてみれば、あれは水煙そっくりやもん。
 水煙も、おとんと同じで、俺の部屋の天井裏からずっと、俺が育っていくのを見守ってたんやないか。俺は困ると、その声に、べったり頼って生きてきた。愚痴愚痴言うたり、俺は一体どないしたらええねんて、くよくよ相談したりした。口には出せへん色んな悩みとか、成長過程の懊悩とかを、全部洗いざらいぶちまけていたわ。
 だって自問自答のつもりやったんやもん。誰が思う、天井裏に、おとんとご神刀が棲んでいて、それが天の声。時々言い争いながら、片方はテキトーで、片方はお堅い。ボケとツッコミみたいな、そんな話口調で、自分も含めた三者対談なんやとは、想像してへん。俺の自問自答、よう喋るなあとは、思うてたんや。思ってもいないような凄いことまで言うもんやから、俺って変すぎへんかと、時々怖くなったくらいやったけど、実は他人やったんや。そら想像を絶するような事かて言うわ。
 そうやって、俺も最初の当主と同じ、水煙様に育ててもらったげきのひとりや。ただ遠巻きに見守るだけで、あれせえこれせえと煩く指導はされへんかったけど、それは何でやろう。跡取りらしい息子として育つように、なんで厳しくされへんかったんか。
「アキちゃんは、いろんな理由でお前をげきにはしとうなかったんや。結局のところ、蛙の子は蛙やし、こういう事になってもうたけど、アキちゃんはお前には、自由に生きていってほしかったらしい。絵描きになりたいんやったら、絵描きになればええし、他の奴らがするように、勤め人になってもええし。なんでもええわと思うてたらしい。とにかく幸せになってくれれば、家や血筋やと煩いようなのとは、無縁のままでええんやと、俺のことは煙たく思うてたようやで」
「お前を俺にくれてやるのが、嫌やっただけやないか」
「それもあるやろう」
 にやりとして、水煙は黒い、つるりとしたガラス玉のような目で、俺を眺めていた。
「あれも秋津の子やしな。祖先伝来のご神刀には、妄執があった。げきとしての式神欲しさも、身内が恋しい劣情も、血筋の定めや。あれにもあったわ。お前より強いくらいやった。しかしアキちゃんは、そういう自分が、好きではなかったようや。いつも苦しんでいた。俺の顔なんぞ見たくもなかったやろう。憎い憎いで、捨ててええもんやったら、どこかへぽいっと捨てていきたかったんやないか。それでも俺のことは神として、大事に崇めてくれてたわ。結局それが、血筋に宿った妄執で、あいつもそれからは逃れられへんかった。呪いをかけてた男のほうが、通力つうりきがあったんや」
 水煙が言うているのは、初代の当主のことやろう。あれは半神半人やった。それより血の薄まっている、俺のおとんにしたら、通力つうりきでは敵わん相手やったということやろう。
「それでも、ええ線はいってたんやで。なんせ散々に血を撚り合わせた血筋のすえや。お前の父もただの男ではない。それでも呪いを振り切ったのは、死後になってからやった」
 絡みつく蛇のような怨念が、首根っこを締め付けている。それが苦しいて息もでけへん。そういう感じがする時があった。おとんもそれを感じていたんか。
「もっと早くに振り切っていれば、俺はどこか、太平洋のど真ん中にでも、捨てられてたんやないかなあ。ジュニアのために持って帰ろうなんて、思うわけない。お前には、覡《げき》にはなってもらいたくなかったんやしな」
 苦笑して、水煙はそれをほんまに信じているような口調で言うてた。おとんは自分を愛してなかったと、水煙はほんまに思うてるらしい。ただ祟られていただけで、抱きたい抱きたいも本心やなかった。全ては怨霊のせいやと、思っていたらしい。
「そんなことないやろう。おとんは俺に、自分の続きを生きてくれって、言うてたで」
「それは絵の話や、アキちゃん。お前の父は、絵描きになりたかったんや。そんなもん、あかんて、俺が止めた。秋津の一人子や。あいつは当主になる義務があったしな、絵を描くなら描けばええけど、それが本業というんでは、まずかったんや。ふらふら旅して、あちらこちらで絵描いて、それが全てというのでは、家も一族も、守られへんどころか、我が身ひとつも養うていかれへんかもしれんやろ。お国のために尽くすことかて、できへんのやしな。そんな根のない流れ藻のような生き様では、あかんのやと、俺は思うてた」
 でも水煙は俺に、絵描きになりたきゃなればええよと許してた。なんで、おとんはダメで、俺はええんや。その心境の変化が、よう分からへん。
 俺がそう心で問うと、水煙はちょっと、疲れたように微笑んでいた。
「可哀想になったんや。お前の父が死ぬのを眺めてな。まだ若かったし、心残りが多すぎた。お前のこともそうや。これから生まれてくるはずの、我が子の顔も見ていない。お登与のことも心配や。絵描きにもなられへんかった。おぼろにも済まんことをした。しきたちのことにしても、あれも死んでもうた、これも死んだで嘆かれる。それでも家のため、お国のためや、後悔はないけども、でもな……」
 ぽつりと言うて、水煙は押し黙り、その時のおとんのことを、思い出しているようやった。そんな遠い目をしてた。どこか深い海の底で、死にゆく男の顔を見つめているような、遠い目やった。
「でも、お前の父は無念やったんや。不幸ふしあわせやった。生きて、やりたいことが沢山あった。でも全部、我慢したんや。諦めた。それは、俺のせいやったかもしれへん」
 思えば俺に、我慢せえ、我慢せえよと言われるばかりの二十一年で、お前の父はしんどかったんやろなあと、水煙は、ぽかんとしたような、気怠い声して言うていた。貝殻のようなバスタブにぐったり凭れ、そうしていると、寛いでいるようやったけど、それでも水煙はなんか、いつもよりずっと、小さいような気がした。
「アキちゃん、あいつはおぼろと行きたかったやろ。何のしがらみもなければ、行きたかったんやと思う。それでも登与ちゃんにも、ええ格好したいし、俺も怖いし、なんというてもお国のためや。しょうがない。しょうがないんやって、諦めたんやろう」
 それは立派な決断や。大人なんやしな、駄々をこねてもしょうがない。おとんは俺と同じ二十一歳で、早々と大人になっていた。自分の人生の喜びを、全て犠牲にしてでも、救いたいモンがあり、尽くしたいモンがあったんや。大義のためや。それしか選べるもんがなかった。おとんが生きていた時代には。それ以外は全部、負け犬のコースで、おとんはそれは嫌やったんや。勝利したかった。自分の人生に。
「それは、俺のせいやないやろか、アキちゃん。俺はお前の父が小さい時分からずっと、しょうがない、諦めろと、ことある毎に諭してきたような気がする。つらくても、しょうがない、それが血筋の定めやし、そういう時代やったんや。でもな、でも、もし俺が、諦めるなと諭すような、強い神やったら、あいつは生きて戻ったんやないやろか。そして、ほんまに生きたまま、自分の人生の続きを生きたんやないか。なりたい絵描きにもなれたやろうし、可愛い息子も抱っこしてやれた。お前がげきになるならなるで、剣をとるならとるで、全て自分で養育してやれたんや。お前もそのほうが、嬉しかったやろう?」
 そうかもしれへん。あんな変なおとんやけども、居ないよりは、居てくれたほうがいい。毎日どつき合うような、ライバル意識丸出しの、エグい親子やったかもしれへんけども、それはそれで、楽しかったやろう。おとんと競い合うように、絵を描いて、それで親子二代の絵師として、生きていくのはな。
 俺はこの時まだ、おとんの描いた絵を見たことなかった。一枚もない。見とうないねん。うっかり見てもうて、それが俺の絵より格段に上手かったら、なんでか凹む。おとんを一生越えられへんて、そんなふうに思えてもうたら、俺は怖くて絵筆を握られへんようになりそうで、ビビるねん。
 でも、それと相反する気持ちもあった。俺はなんで、おとんの絵の一枚も、見せてもらえへんのやろ。そんなん、冷たいやないか。俺も見てみたい。
 俺のおとんは強いげきやったんや。すごい英雄やったんやというのでも、それは嬉しい。息子として、何かこそばゆいような嬉しさがある。でも、俺はそれより、おとんがすごい絵師やったというほうが、たぶん嬉しい。もしも絵を見て、それが俺の描くのより、下手くそやったらどうしようという、怖さも感じる。おとんが絵師として、どうってことない凡人やったら、どないしよ。
 俺は無意識に、いつも期待していた。おとんは俺より前を歩いてる。俺はその背中を、コノヤロウと思って追いかけていく。そういう相手であって欲しい。
「俺は絵のことは、さっぱりわからへんのや。お前の父の描いたもんは、見たことあるけど、それが良いやら悪いやら、よう分からへん。そんな奴に絵を描いてやっても、しょうもないわと思われたんかなあ」
 にこりと少々、寂しそうに笑って水煙は自嘲していた。
 そういえば、おとんに絵に描いてもろたことないと言うていた。水煙はそのことを、実はけっこう気にしていたんやないか。おとんは惚れた相手のことは、絵に描いていたらしい。俺と同じ性癖やったんやろう。好きや好きやで、描かずにおれへん。そういうところがあると分かってんのに、自分を描いてくれた絵がなかったら、水煙も切なかったんやろう。
「でも……上手やったで。たぶん某かの才能はあったんやろう。俺に摘まれてなければ、ちゃんとその芽が育って、ひとかどの絵描きになったんかもしれへん。それも、無念やったやろう。あいつは筆を折ってもうたんや。従軍してから、一度も絵を描いていない」
 つまり六十年以上やで。すでに死んでる男なんやし、絵なんか描かへんのかもしれんけども、でも、トミ子は描いてる言うてたやん。死んでも絵描きは絵描くんやで。それが自然や。死んでもうたらもう描かないなんて、俺にはそうは思えへん。
「折れてもうたんやろう。絵筆だけやのうて、いろいろな。自分を歪めて、自分が本来望んでいたのとは、違うほうへ進んだ。それが随分、堪えたんやろう。お前を見てたら、そう思えてきた。絵さえ描いてりゃ幸せやった。あれも、そういう子やったのになあ……」
 悔やむ目をする水煙は、俺の背後に、俺やない、生きていた頃のおとんを見ていた。俺の知らん、生身の男やった、秋津暁彦を。
「アキちゃん、俺は、守り神失格なんや。秋津の子らは、ちっとも幸せでなかった。つらい目にばかり遭わされた。俺がたとえば、水地亨のような神やったら、皆、幸せになれたかもしれへん。今、お前があいつのお陰で、幸せになれたようにな」
 水煙は、いかにも情けないふうに、バスタブの水面を見つめて笑い、そこに映っている自分の顔を、眺めているようやった。
「あのな。お前が起きる前に、おぼろが来たんや。激怒していた。昨夜、寝ようとしたら、ヘタレの茂に捕まってもうて、お前がずらした位相を直すの手伝ってくれと頼まれたもんで、断ろうとしたけど、お前がそれをやるよう命じていたもんやから、それに縛られていて、断らへんかったんやって。まだ終わらんから、誰か手を貸せというので、犬を貸してやったわ。お前の血肉を喰らうて、随分、力も湧いたようやしな。もう大丈夫やろう。あいつもそれが心配で、様子見に来たようやった」
「あいつって、おぼろのことか」
 俺が訊ねると、水煙は、うんうんと小さく頷いていた。
「あれも実は、ええ奴かもしれへんな。少なくとも、邪悪な物の怪という訳ではない。お前の父の、言うとおりやった。斬るしかないような、鬼ではない。俺はただ妬けて、見極めそこなったんやろう。無様やな。あれがお前の父に愛されているのが、憎たらしいて、我慢ならんかったんや」
 うっふっふと、つらそうに笑い、水煙は苦痛のあるような顔をしいてた。幸せそうでは全然なかった。ただただ慚愧ざんきの表情や。
「アキちゃん……お前はもう、一人前になった。まだまだ学ぶべきことはあるやろうけど、それは茂や蔦子や、他でもない、お前の父母に教えを乞えばいい。亨がお前を支えてくれるやろう。式もまあまあ使えるようなのが手に入ったしな。犬とおぼろと、それだけ居れば当座はええやろ。おぼろに面倒みさせたらええわ。あいつはあれで、案外世話焼きらしいから、きっと何とでもなる。龍には俺を、供物に差し出せばいい。衰えたとはいえな、これでも俺は、海神わだつみにはモテるんや。なまずは駄目でも、海の龍やったらな、俺を気に入るかもしれへん」
 水煙は、いったい何の話をしてたのか。
 俺はぽかんと聞いていた。
 これは、別れ話やないか。水煙は俺に、さよならと言うている。自分はもう行くと。
「苦しむことはない、アキちゃん。俺は身を引く。それに秋津の子らを守るのが、神としての、俺の勤めや。龍は任せろ。それを最後に、そろそろ引退させてもらうわ」
 元気でなと、水煙はそう言うて、話はそれきりやった。
 水煙はもう、話すことはなにもないという顔をしていた。まるでそれが、最終決定みたいやった。
 俺はそんな話、今はじめて聞いた。いつ決まったんや、それ。なんで勝手に決めてんの。俺があるじで、お前は俺の太刀なんやろ。
 確かにお前は有り難い神さんで、俺は正直、崇めたいくらいやけども、でも、俺らはチームなんやろ。家族やろ?
 なんで一人で勝手に決めたりできんの。
 それええな、さすが水煙、ナイス・アイデア。ほな、それで行っとこかなんて、俺があっさり言うと思うてんのか。馬鹿にせんといてくれ。俺は悔しい。
「お前となあ、やってみたはええけど、正直痛かったわ。亨にはああ言うたけど、実は逐一覚えてるんや。もう二度と、やりたくないわ。海神わだつみのほうがいい。お前より、格段に強いし、それになんというても俺にとっては、同じ海の眷属で、慕わしいしな。きっとそこで、幸せになれるよ。心配いらへん」
「嘘や、そんなん。口から出任せや!」
 にこにこ言うてる水煙に、俺は思わず怒鳴っていた。
 正直、傷ついていた。俺は今、水煙に、振られようとしている。
 元々こっちが別れを告げて、済まんけど俺のことは諦めてくれと、平身低頭、お頼み申すはずやったのに、なんでそうなる。
 水煙や瑞希が俺ではない誰か他のと、幸せになってくれたら、そのほうがええわと言うてたくせに、なんで、そうか行くのか、ほんなら好都合やなあって、ホッとできへんのか、俺は。
 ほんまは別れるつもりなんかなかったんやないのか。嫌で嫌でたまらへん。水煙を捨てるなんて、ほんまは嫌やった。そんなことしたくないって、それが本音のところやったんや。
 それでも向こう側からあっさり引導渡されて、俺は内心、ぶるぶる震えそうなくらい衝撃受けてた。冷や汗出るわ、胃は痛いわで、内心ボロボロ。容赦のないかぎ爪のある手で、魂を引きむしられるようや。自分の心の中にある、大事なもんが、無理矢理引きちぎられて、盗られるような恐ろしさがある。
 お前はもう、俺を忘れろと、水煙が言うている。さよならアキちゃん。さよなら、って。
「俺のこと好きやって言うてたやないか。ただの夢か。あっちが嘘やったんか。それとももう、心変わりしたんか。それがお前か、結局そういう奴なんか。移り気で……なんて不実な神や!」
 俺はグダグダ言うていた。かなり情けない状態やった。
 聞いたことある、俺も。その類の恨み言なら、過去に振ったことある女の子から、さんざん聞いた。この鬼、人でなし、やり逃げか、人の純情踏みにじりやがって。許せへん。ウチのこと、もう愛してへんの。もう飽きてしもたん? そんなん嫌や。お願い捨てないで。捨てんといてと、泣いて縋り付く。
 そういう光景、頭にいっぱいあったからやろか。そんなん無様や、あまりにも惨めったらしくて、とてもできへん。俺の格好悪いとこ、これ以上見せたら、ますます見込みなくなる。心が離れてしまうやろう。アキちゃん好きやて、もう思ってもらわれへんようになる。せやし我慢や、男の子なんやから。男が泣くもんやおへんえって、うちのおかんも言うていた。
 餓鬼のように駄々こねて、泣き喚きたい。正直そう思うねんけど、もちろん俺は我慢はしたよ。もうお子ちゃまやないから。しかし内実、大差なしやで。心の中では、なんでやねんて、地団駄踏んで泣いていた。
「アキちゃん……俺がそういう神やということは、最初から知っていたやろう。お前には亨が居るやないか。亨に慰めてもらえ。今はつらくても、俺が居らんようになれば、お前はきっと、ほっとする。結局それが結論なんやろ。お前は俺より亨がええんや。あの子と行きたい。行ったらええよ、好きにすればいい。お前が幸せやったら、俺はそれでええんやしな」
 ああ、また吐きたい。何か溜まってきた。腹ん中に、もの言わぬ俺が作ったモヤモヤが。もっと何か叫びたい。去ろうとしているこの神に、いろいろ叫んで、言うてやりたいことがある。でも、それが全部、なんでか言葉にならへんねん。なんて言うてええか、さっぱりわからん。
 ただじっと、暗い顔して押し黙り、俺は吐き気を堪えてた。
「嘘やったんか、ほんまに。夢ん中で言うてたことは、全部、嘘? 俺はちょっとだけでもお前のことを、幸せにしてやれたんやと思うてた」
 でも、それも嘘か。もう覚えてないのか。そういうことにするって、決めてもうたんか。あれは夢。現実には起きてへん。どこかの異界の出来事で、お互い忘れてしまおうって、そういう事になったんか。
「ええ夢見たよ。幸せやった。でも夢は夢。それが現実になることはない。それでも良かったんや、お前の父の代までは。俺もそれで満足していた。でももう無理や、アキちゃん。俺もつらい。堪えきれへん。お前が好きで、たまらんようになって、堪えきれへんようになる。亨とお前を、醜く争うようになるかもしれへん。そんなことは、したくないんや。あいつと居る時、お前はほんまに幸せそうに見える。それを壊したくない。お前の父から、おぼろを取り上げたように、お前から亨を取り上げたくはないんや」
 醜いと、水煙は自分を恥じていたようやった。
 だけどそれは、誰でもそうや。恋してんのやから。誰でも醜い。好きや好きやで必死になったら、誰でも醜い鬼みたいになる。それは恥か。確かに格好良くはないやろう。誰もが目を覆うような修羅場やろう。まして、ほんまもんの神、ほんまもんの鬼やねんからな。怖さ爆発。ただの修羅場じゃ済まへんで。水蛇VS海蛇や。怪獣やで、怪獣。
 しかし、それは何という醜い、そして哀しい戦いやろか。確かに醜い。俺は愛しい二柱の神さんを、そんな憂き目に遭わせるべきやない。黙って身を引く他はない。撤退しろと、水煙様が言うてんのやから、おとなしくそれに従うて、無駄な足掻きをするべきやない。
 でも、つらい。無理やて分かっていても、駄々こねたい。それが我が儘坊主ってもんやんか。
「お前はいつも、正しいんやな。そうやって逃げていく。堪えきれへんようには、なってくれへんのやな。他のアホとは違うんや。有り難い、お高い水煙様なんやもんな」
「おかしいか。それくらいの気位は、最後に保ちたいって、思うたらあかんか」
 哀しい顔して、水煙は微笑んでいた。それは美しい表情やった。哀しいまでに、美しい。そして独特の皮肉めいた、ほろ苦い毒がある。それがあんまり板についてて、それ以外の顔をしている水煙なんて、想像つかへん。
「あかんことない。ただ……俺は」
 美しいなあって、俺は思わずひれ伏したいような、有り難いうちの神さんを、ぼんやり無心に眺めていた。そうして、ぼんやりと浮き上がってきた、己の心の本音のところと、向き合うていた。
「俺は、お前が狂うような相手でいたかったんや。でも、そんなん、俺の愚かな自惚れで、餓鬼臭い我が儘やったな」
 俺がそう、自嘲して結論すると、水煙は切なそうな、愛しいという笑みをして、俺を見つめた。
「そうやろか。俺は充分、お前に狂っていたよ。アキちゃん、お前は俺の、最後のあるじで、俺の使い手、俺を祀る最後のげきや。お前のことを、ずっと想うてる。それだけは、許してくれ」
 海に消え入る泡になる。人魚は恋に破れると、海の泡になって、消えてしまうんや。そんな哀しい昔話を、俺はまた、ふと脳裏に思い出していた。
 それは呪いのようや。まるで。
 それがお決まりのコース。そうなっても、しょうがない。哀しくも、美しい、海から来た者たちの、お定まりの末路やねん。
 そんなん嫌やと、駄々こねたところで、俺も結局そうやったやないか。水煙を抱いてやられへん。夢ではない現世うつしよでは、結ばれることはない。水煙を捨てようとしてたやないか。今もしている。生け贄になるげきの身代わりに、自分を海に捨ててしまえと、水煙は俺に言うている。そうしようかと、俺が決めれば、そうなってしまうんや。そうやって我が身を救い、水煙は哀れ海の藻屑に。そして俺は亨と、ずっと幸せに生きていこうかな。それでハッピーエンドやって、そんなオチやで。
 そうして、俺はいつまでもいつまでも幸せに暮らせるのか。ほんまにそうか。水煙を手放す、こいつを海に投げ捨てる、その瞬間を、いつまでも永遠に覚えていて、激痛とともに思い出してるんやないか。
 勝呂瑞希を斬ってもうた、その瞬間を、いつまでも白昼の悪夢として、繰り返し思い返していたように。そしてそれが、亨と過ごす幸せすぎる毎日の中で、深く刺さった鋭いとげのように、俺の心のどこかを腐らせていた。
 それと同じ呪われた傷を、俺はまた、自分に与えようというのか。二度目のそれは、耐えられるやろか。瑞希は戻ってきてくれたけど、水煙はもう二度と、戻って来ないんやろ。
「どうしたらええか、わからへん」
 途方に暮れて、俺は水煙にそう、泣きついた。ぼんやりしたような、ゆらめく声やった。今にも気絶しそうな、ぼけっとした声や。
「悩む必要はない。他に手はないんや。龍に祈れ。太刀をやるから、神戸は諦め、引き返してくれと」
「嫌や……俺はそんなん、したない」
「駄々をこねるな。それはお前の義務なんや。血筋の務めなんやで。お前の父も祖父も、そうやって生きて死んだ。そうして人を救うから、お前もこの世に生きることを許されている。化けモンやない、人の子で、巫覡ふげきの王として、崇められる存在になれるんや」
 やんわり俺をたしなめる、水煙の声は、柔らかな美声やったけども、それでもどこか、きっぱり拒むような、強い芯を持っていた。鉄でできてる。水煙は、結局そういう奴や。俺を頼って、甘えてはくれへん。我が儘言うてはくれへんねん。アキちゃん好きや、ずっと俺を、離さんといてと、亨のようには、俺に縋ったりせえへんねん。
「偉大なものになれ、か? 俺はもう、そんなん考えんでええんやって、言うてたやんか。俺はなりたくない。偉大な者なんて、ならんでええねん。普通でええんや。普通に絵描いて、お前とも、亨とも、おかんやおとんや、他にも自分の大事な人らと、普通に幸せに暮らしていたいんや。なんであかんの。その絵の中に、お前も居ったら、なんであかんのや。それやと嫌やで、俺は。それやと絵が完成せえへん。その絵には、お前も居らんと、俺は幸せにはなられへんのやで」
 くどくど言うて、縋り付くのは俺のほう。それが痛恨の極み。心の奥の深いところに、まるで切り刻まれるような痛みがあって、助けてくれって思うけど、水煙様はそれから俺を救ってくれる神さんやない。ずうっとそうやった。二千年前、哀れな怨念の蛇が、苦く切なく見つめていた頃から、この青白い神さんは、冷たい鉄でできていたんや。
「アキちゃん……諦めろ。そういう運命さだめや。お前はもう、選んだんや。俺ではなく、水地亨を。もはや流れは定まった。それに逆らえる者はおらへんのやで。太刀の一本ごときを惜しんで、お前は三都を滅ぼそうというのか。情けない……巫覡ふげきの王の名が泣くわ!」
 静かでも、斬りつけるような強さで怒鳴られて、俺は内心、ほんまに震え上がった。全身の肌が粟立つような、強い霊威を感じ、震えながら、思い焦がれている。
 水煙、お前は、美しい神や。なんとしても我がものに。
 そやのに、なんでか、手が届かへん。もう一度、強く抱きしめたいような切なさが、胸にあるのに、満たされへん。引いていく潮を、岸に留め置く手だてが何もないように、ただそれを、見送るしかない。
「強い男になれ、アキちゃん。俺は強いのんが好きなんや。負け犬のはく太刀には、なりとうない。俺の主になりたいんやったら、誰より強い男になって、見事にこの街を救ってみせろ。そしたら生涯、永久に、お前に惚れ抜いてやる。たとえ彼岸と此岸に別れても、お前のことをずっと愛してる。それ以外の道などないんや。覚悟を決めろ。お前も神の血を引く、血筋のすえやろ。己は泣いても、人界に尽くして、生きていけ」
 厳しい神やねん、水煙は。
 大人って、なんで、泣いたらあかんのやろ。餓鬼のころには俺も惰弱で、なにかといえば、隠れて泣きべそ。そんな情けない餓鬼やったんやけどな。いつしか涙を堪える技能を、身につけていた。
 泣きたいような気がしたんやけど、ほんまには泣かれへん。どないして泣くんやったか、もう、思い出せへんねん。
 それは俺がよっぽど、鬼やという事なんやろか。鬼かて泣くらしいのに。鬼の目にも涙って、ことわざにもあるやんか。どんな鬼のような奴にかて、涙する心はあるんやという意味の、ことわざやで。昔の人は、ええこと言うてる。
 俺は鬼以下や。
 もう行くという水煙に、涙を流して取り縋りたかったけども、どうやってそれをやればええのか、俺はもう、分からんかった。せやし、どうにもしょうがない。ただ呆然として、神の言葉に撲たれ、内心でだけ、のたうち回る断末魔の蛇のように、悶え苦しんでいた。
「お前が……好きやねん。ずっといてほしい」
 そこにいた蛇が死に、抜け殻だけになったような心で、俺はやっと、それだけ言うてた。
「そうか。ありがとう、アキちゃん。お前がそう言うてくれただけでも、俺は満足や」
 まるで俺がもう、龍退治の手はずに同意したかのように言うて、水煙は静かに微笑んでいた。それは人の身では、到底動かしがたいような、神の結論やった。
なまずの生け贄に誰をやるか、ヘタレの茂はどうあっても、籤取りをしたいらしい。本家だけに大役を押しつけるのが、どうにも嫌やと、あれは言うてる。好きにさせてやれ。籤をとろうが、何をしようが、一度定まった運命は変わりはせえへん。水占みずうらに訊けば、天地あめつちは、虎をやれと答えるやろう。龍には俺をやれ。それでこの難局は乗り切れる。お前もとうとう、一人前や」
 頼もしい俺を、言祝ぐような誇らしさで言うて、水煙はいかにも、満足げやった。長い年月をかけて練り上げた、秋津の血筋のすえに、とうとう生まれた不死人に、心底満足しているようやった。
 それと連れ添うご神刀や、水煙は。
 それは決して、甘いような関係やない。切れ味鋭い白刃を振るう、その技の極みに一瞬だけ現れる、愉悦に満ちた和合。その一時ひとときだけが、俺とお前の逢瀬やと、じっと見つめる水煙の、強い目が語りかけていた。
 それはもう、定まった道や。水煙はそう、覚悟を決めている。俺がどう泣きつこうが、揺らぐような弱い決意ではない。
 惚れた腫れたと醜く争い、身悶えるような無様を、水煙はもう晒したくないんやって。そんなんするくらいなら、潔く身を引くわと、水煙様はそう言うていた。
 それに俺が、どう逆らえるやろ。畏れ入って、従うしかない。自分も無様を晒したくないならば。一夜限りの夢やったと、全て堪えて引き下がるしかないわ。
「水浴びて、汗を流していけ、ジュニア。それは水占みずうらに顕れる、姿なき天地あめつちの神への礼儀や。みそぎして、浄めた体で運命の声を聴け」
 導く師匠の声で言う水煙の指図に、俺は黙って頷いた。他になんも、することないしな。確かに大汗かいていた。シャワーでも、浴びようか。まさか有り難い水煙様のいる風呂に、俺もいれてと言う訳いかへん。
 俺は拒まれた。代々の当主がそうやったように、俺も水煙に、拒否されていた。そやのに慣れ慣れしくするわけには、いかへんやろ。
 それで大人しく服脱いで、俺は頭から冷や水を浴びた。冷たい水やった。灘《なだ》の宮水みやみずや。怖ろしく清い。
 今さら水煙に、裸見られて恥ずかしいとは、ちっとも思えへんかった。何もかも晒してもうた後や。全て今さら。隠しても無駄やもん。
 ただ、ものすごく、肩口にある傷に、水が染みた。灼けた鉄でも押しつけられたような、燃えた指で縋り付かれたような、そんなひりつく傷痕やった。
 おかしいなあと、俺はぼんやり思っていた。あれは夢やろ。夢のはずや。俺に抱かれて水煙が、必死で縋り付いてた、あれは夢なんやろう。そやのになんで、現世にある俺の背に、その時食い込むようやった、水煙の指の痕が残っているんやろう。
 確かにあれは夢やけど、俺は忘れたくない。あの時の抱擁の、痛いほどの強さを。きっとそれを、一生覚えてる。呪われた、深い傷痕のように、ずっとこの身に覚えているままやろう。
 水煙はその傷を、見ているようやった。それでも何も言うてはくれへんかった。ただじっと、何考えてんのか分からん、心も感情もないような目で、俺を見ているだけで。
 そして水垢離《みずごり》を終えた俺が、体拭きつつ突っ立っているのを眺め、水煙は言うた。
「いよいよやなあ。また二人で、熱く燃えようか。死の舞踏が始まれば、斬らなあかん鬼は、掃いて捨てるほどいる。こないだの船の比やないで。斬って斬って斬りまくれ」
 淡い微笑の浮かぶ、青白い顔で、水煙はバスタブから俺を見上げていた。美しい神やと俺には思えた。湯縁ゆべりにくつろぎ、戦意に燃えてる淡い水煙をまとった姿は、とても美しい。
「どないなるか、わからへん。準備は万端、整えたけども、運命とは気まぐれなもんや。何かのちょっとした手違いで、突然、流れが変わることもある。気をつけなあかん。死の舞踏と戦う者の中には、死者も出る。お前がそうならんとも限らへん。油断はするな。生きて祭壇まで辿り着け」
「一緒に行くんやろう、お前も」
 まさかそれも反故やないやろ。夢の中では、お前が俺にそう頼んでたんやないか。自分も連れて行ってくれ。捨てるのは、その戦いが終わった後にしてと、お前が俺に懇願していた。なんで逆になってんの。俺はいかにも気弱みたいな、お縋りモードやったわ。
「一緒に行く。それとももう、他の武器でも調達したんか」
 意地悪そうな口調で、水煙は訊ねてきた。そんなもん、あるわけないと知ってるふうな口振りやった。
「俺に使われるのは、もう嫌か?」
 そうやって言われたらどうしよう。俺は相当、惨めっぽい顔でもしてたんか。水煙は困ったような顔で微笑んでいた。
「そんなわけないやろう。どうしたんやジュニア。俺はお前の剣なんやろう。お前が当主で、俺はその守り刀や。何に替えてもお前の身を、守ってやる」
「俺はお前に守られたかった訳やないねん。お前のことを、守ってやりたかったんや」
 おかしいなあ。なんで過去形なんやろ。
 俺がしょんぼりそう言うと、水煙はほんまに、困ったような、哀しいような顔をして、俺から目を逸らした。
「そうか。ありがとう。でも俺は、守ってもらわんでも平気や。亨を守っておやり。あの神と、手を携えて生きていけ。俺と居るかぎり、お前は戦い続けることになる。そんな一生、お前は嫌なんやろう」
 嫌や。俺は、争いごとは嫌いやし。喧嘩するより、我慢している。その方が性に合ってる。戦って、どうなんの。そこから何か、生まれんのか。しょうもない。そんなことしてる暇があるなら、俺は好きな絵描いてたい。
 平和主義とか、そういうのじゃないねん。俺はただ、怖いだけ。戦いの空気に呑まれて、自分までそれに染まる。そういうのが、怖いんや。
 自分の中に、熱く燃えてる火がある気がする。今は抑え込まれた熾火おきびになって、それは眠っているけども、ひとたび何かで掻き立てられれば、もう抑えきれへんような強い火になる。何もかも焼き尽くすような業火になって、暴れ出す。そんな予感がして、怖いねん。自分が平和なぼんくらのぼんでは、居られんようになるのが怖い。
 俺はたぶん、ずうっと知っていたんやろう。自分の中に怨霊がいることを。子供のころから、ずっと知ってた。ひとたびたがが外れると、俺は鬼になる。初代の男がそうやったような、血も涙もない男に化けて、弱い者を顧みず、強い者でも叩きつぶそうとするかもしれへん。戦いと、血を求める、悪鬼と化すかもしれへんわ。
 それが怖くて、戦うのが嫌やねん。餓鬼の頃かて、他愛もないチビの喧嘩で、ぶん殴られてムカついても、殴り返されへんかった。怖いねん。俺はもしかしたら、相手が死ぬまで殴るかもしれへん。たとえ体は子供でも、俺には通力があるんやから。
 怒ったらあかんえと、おかんは強く俺を諭していた。あんたは怒ったらあきません。腹の立つこともあるやろうけど、それを堪えて、我慢せなあかん。あんたは普通の家の子とは違うんえ。天狗さんの子や。あんたが怒れば嵐が吹き荒れ、雷鳴が轟く。そういう力を持った子なんえ。お友達と喧嘩して、殺したいほど憎いんか。人殺しになりたいんどすか。そうでないなら、怒ったらあかんえと、おかんは真面目な暗い顔をして、俺を叱った。その時のおかんの綺麗な顔の怖さが、いつも脳裏に焼き付いていて、その話が脅しではない、もしもほんまに激怒して、相手を睨めば現実になる、そういうもんやという確信があった。
 剣とは殺しやと、新開師匠は言うていた。そうかもしれへん。俺は剣道は好きなんやけど、それも血を好む我が身の業な気がするわ。その道を行けば、いずれ修羅の道へと辿り着く。そういう気がして怖く、どうも上達せえへん。
 しかしそれは、相手が人間やからやろう。罪もない人を殺してもうたら、俺が鬼や。せやけど相手が鬼なんやったら、それを斬る俺は何。ヒーローか?
 そういう事やねん、結局な。自分も鬼や、人ではない。そもそもご先祖様からして、人でなし。神か鬼かというような、妖しい出自の生まれやねん。そんな不気味なやつが、人の世で、人に愛されようと思ったら、ヒーローになるしかない。正義の味方や。そのための通力や。人を救うために、振るう力や。せやし俺を、許してくれ。人の世の一員として、受け入れてくれ。そしたら俺は皆のために、身を賭して働くから。どうか俺のことを鬼や悪魔やと、嫌わんといてくれ。俺は寂しい、愛しいこの世に、受け入れられたいねん。俺もここで幸せに、生きていきたい。当たり前に家族を養い、それを守って、生きていきたいねん。
 結局それがずっと、秋津の家の者たちの、もうひとつの悲願やった。そして水煙が教えた、究極の奥義やった。
 人に愛されたければ、神になるしかないんや。そうでなければ、鬼なる。
 何を斬るのか決めるのは、水煙ではない。そのつかを握ることを、許された男が決める。いくつもの位相を渡れる力を持った、神の剣を振るって、鬼も斬れるが、人でも斬れる。神も悪魔も斬れるやろう。幽霊だって斬れる。俺が何を斬る、何者になるのかは、他の誰でもない、俺自身が決めるんや。
 せやから恐れることはない。自分が鬼になるかなんて、恐れる必要はない。そうはならへん、俺は正義の味方やし、巫覡ふげきの王や。ええモンなんやで。皆を守って戦っている。そうして世間の役に立つ。有り難いお方と畏れられ、崇められる、お屋敷の暁彦様や。それが俺やと、自分を戒め、強く暗示をかけてる限り、俺は俺を、恐れる必要はない。自分を縛る呪縛の力で、自分の中にいる鬼を、封殺していられるうちは。
「水煙。俺は、戦うのが嫌なんやないねん。怖いんや。俺も鬼になってしまうんやないか。お前に泣いて斬られるような、そんな悪いモンに、なってまうんやないかって、怖くてたまらへん」
「お前がそんなモンに、なるわけないよ。優しい子やねんから」
 驚いたような淡い苦笑で、水煙は悩みもせずに否定した。
「でも亨は、俺が鬼みたいやと言うていた」
 けっこう傷ついたんやで。亨に言われたその悪口を、水煙様にチクると、有り難い青い守護神は、くつくつと面白そうに喉を鳴らして、静かに笑った。
「そうやろうかなあ。今まで数知れぬ鬼を見てきた俺の見解では、お前はそれとはほど遠い。お前は鬼なんやない。優しいだけや。ただその優しいのんが、人の心を傷つける、罪な時があるだけや」
「傷つけてるか」
 俺はまだ、お前のことを傷つけてるのか。そういうつもりで訊いたんやけど、水煙は曖昧に微笑んでいた。
「傷ついてるやろう、水地亨は。お前を俺に盗られたと思っている。行って慰めてやれ。今日は一日、茂は宴席を張るらしい。誰かにとっては今生の、最後の一日になるかもしれへんのや。せいぜい飲んで騒いで、美味いもんでも喰ろうて、楽しく神遊びする、そんな良き日にするらしい。お前も亨と、楽しく過ごしておやり。他のに気を遣う必要はない」
 水煙が言うているのは、自分のことでもあったやろうけど、暗に瑞希のことやった。犬はほっとけ、亨を構えと、水煙は俺に勧めた。
 きっと水煙はずっとそうして、秋津の当主に、あいつと遊べ、あいつを構うてやれと、采配してきたんやろう。すでに慣れてる者の余裕が、微笑む顔の口元に、顕れていた。
 水煙様のお告げなんやし、気が楽や。それに従うのが当主の勤め。そういうことやろう。免罪符やねん。
 その都合のいいまじないは、俺の身にも効果があった。もう悩まんでええんやと思うと、情けないほどほっとした。
 今日は一日、亨とだけべったり居っても、許してくれるか。ほんまに明日には、死ぬかもしれへん。どないなるか、わからへんのやったら、俺はずっと亨と居りたい。最後の日にもアキちゃんは、俺を散々我慢させたと、後で亨に思われたくないんや。
 もうええやん。充分、我慢させたやろ。俺もしんどい。もう何も考えんと、ぼけっとしたい。鬼とか怨霊とか、血筋の定めとか、龍とかなまずとか、そんなもん、考えたくない。もう死ぬという、最後の日には、俺はぼけっと、絵を描いていたい。明日世界が終わるんやったら、そうしたい。亨の絵を描いていたいねん。
 いまだに納得のいく一枚を、描けた例しがない。何度描いても亨の姿を、描き留めたような気がせえへん。描いても描いても、まだ描きたい。ずっと描いていたい。
 剣を振るって、その技の冴える、そんな瞬間にだけある和合が、水煙とはあるやろう。でも亨ともある。じっと向き合うて、静かに絵を描いている、その俺を、ただ微笑んで見てる、その亨の顔と見つめ合う、そんな瞬間にだけある至福の時が、俺にはあるんや。
 申し訳ない。俺は剣士にではない、絵師になりたいんや。絵を描くことが、俺の本性。俺の個性で、剣だけ握って、筆を折ってもうたら、俺は幸せにはなられへん。許してくれ水煙。許してくれって、ぐらぐら揺れてる俺の心を見ても、水煙は変わらず、微笑んでいた。
「ええんや、そんなん、気にするな。それがお前という子や。しょうがない……」
 口癖みたいになっている、それをまた言うてもうて、水煙はほとほと参ったように、苦笑していた。白い歯の見える口元が笑い、そして唇を噛みしめるのを、俺は見た。
「水地亨はなあ、憑いた相手に、幸運を授ける神らしい。幸運やで。なんやねん、それは。そんな正体のないようなもんを、授けてどうする。それは力か。何かの役に立つのか。俺にはよう、分からへん」
 甘く罵るような口調で言うて、水煙は壁の向こうの、ふて寝している白蛇を、じっと睨むような目をしていた。
「しかしなあ、ジュニア。もはや剣や太刀の、時代ではない。世の中平和や。お前は正しい選択をしたんや。きっと、亨の神威によって、家は栄えるやろう。どんな逆境に立っても、幸運さえあれば、なんとかなるよ。最後は結局、運任せやしな。お前にずっと幸運があるように、俺もあの蛇に、祈るしかない。あいつをずっと、離さんようにしろ。そしてその幸運を、皆にも分けてやれ。それによってお前も、人に愛されるやろう」
 幸せになれるよと、水煙は俺を見つめて、声ではない声で、そう教えた。
 心配せんでも、お前は天地あめつちに愛されている子や。そんなお前をなんで人間たちが、愛してくれへん訳があるやろか。人に尽くせ。そして愛してもらえ。それでええねん。なにも悩む必要はない。お前が幸せやったら、俺も幸せや。ほんまにそうやで。神の言葉を、ゆめゆめ疑うなかれやで。
 アキちゃん、幸せになってくれ。せめて血筋のすえの一人くらいは、幸せに生きてほしい。最初からずっと、それが俺の悲願やった。暁彦、お前に幸せになってほしくて、俺は頑張ってきたんやで。でもその単純なことが、俺にはなんでか難しいんや。不甲斐ない神や。俺のお陰やのうて、面目次第もないけども、それでもお前が幸せになれば、俺の悲願も果たされる。これでやっと、肩の荷がおりたわ。
 ほんまに、ほっとしたように、水煙はそう話し、幸せそうに俺を見た。ほんまに幸せそうな、微笑みやった。
 それも悲願や。俺がずっと見たいと願っていた顔を、水煙はしていた。俺だけやない。たぶん代々の当主も、最初に秋津の当主やった男も、それを願ってた。哀しいような微笑みはやめてくれ。幸せそうな微笑みで、俺を見つめて。
 でも、それは、こういうふうな形やったやろうか。
 俺は哀しい。ほんま言うたら、泣きたいくらいや。ほんま言うたら、ちょっと泣いてたかもしれへんで。いいや泣いてた。ボカしたらあかんな、そういうのはな、見栄を張ってもしょうがない。鬼の目にも涙やで。俺かて泣くことはあるねん。格好悪いけど、うるうる来てたな。それでも我慢してた。男の子が泣くもんやおへんて、おかんが言うてたしな。それに水煙が、可笑しいなあという笑みで、俺を見ていたんやもん。ばつが悪うて、泣くに泣かれへん。
「どないしたんや、ジュニア。蔵で泣いてた、チビのアキちゃんやあるまいし、もう大人なんやろ。やっと幸せになれるのに、何を泣くことがあるんや」
「わからへん、哀しいねん」
 格好悪いなあと思って、俺は持ってたタオルで目を拭っていた。我慢せえへんかったら、ほんまにわんわん泣きそうやった。水煙がいってしまう。どこか俺の手の届かへんところへ、去ってしまう。そう思うと寂しくて、哀しいねん。
「寂しいことない。お前には亨が居るやろ。泣いたらあかん。雨が降ってくるから。せっかくのうたげやのに、雨降りやったら、皆も楽しまれへん。何か察して、心配する者もおるやろうし、にこにこしていろ。笑う門には福来たると、昔から言うやろ。それも呪法や、嘘ではない」
 そう諭してくる水煙は、まるで俺のおかんみたいや。厳しく優しい。
 アキちゃん、泣いたらあかんえ。昔の人も、そない言うてはりますえ。笑う門には福来たると、ことわざにも言いますやろう。あれは、ほんまのことどすえと、俺を優しく叱る。
 あれって実は、水煙みたいやったんか。おかんもそうや、水煙に育てられた子で、それを神と崇めてきた一族のひとりやったんや。
 血族を求めるのは、血筋の業か。俺はおかんが好きで、たまらへん。水煙が好きで、たまらへんねん。それでもいつかは、離れなあかんのか。乳離れせなあかん。腹減った、寂しいねん、ミルクちょうだいって、いつまでも強請る、そんな餓鬼やと大人になられへん。
 それでも水煙は二千年もの長きに渡り、秋津に仕えた。我が儘で、甘えたなボンボンたちを、可愛い可愛いしてくれた。それももう、引退するわということやったら、今までおおきに、ありがとうと感謝して、俺は素直に手放すべきなんか。この太刀を。
「アキちゃん、俺も宴には行こうかなあ。行ってもええやろか。どんな姿で行くべきか、今さら迷うわ。せっかくやし、お前が創った、あれで行こうか。それを見て、皆がさすがは麗しい、秋津の主神やと感心すれば、お前はそれで幸せで、俺もいくらか気が晴れるやろうか」
 そうせえ言うなら、そうしようかという顔で、水煙は俺の意向を尋ねた。どんな姿でもいい、俺の望む形やったら、それが自分の本性と、水煙はそう言うていた。
 宴の支度か。そんなんやったら、水煙様にも、一番美しい姿で、お出ましいただかなあかんやろ。うちの守り神や。ありがたいご神刀の精やねん。その鋭く麗しい霊威のほどを、皆にも知らしめておかなあかん。
 俺はバスタブで待っている顔の水煙の傍に、なんとなく恐る恐る近づいた。畏れ多いような神さんやった。
 湯縁にある青い手に、そっと触れると、水煙は俺に、自分に触れることを許した。水の中にある、傷一つない柔い体を、ゆっくり抱き上げると、滴る水の音がして、水煙はやんわりした腕で、俺の首に抱きついてきた。
 それはただ単に、体を支えるための抱擁やった。ぐんにゃり凭れてくる、その仕草も、いつもと何も変わらへん。ぬるま湯の温度になった柔肌が触れるのが、心地よかった。それが夢の中では、熱く燃えてた。好きや好きやで焼け付くような、熱い指で俺の背を掻きむしってた。それと同じ指で、水煙はやんわりと、灼けた痕の残る俺の肩を、そっと撫でていた。
「これはもう、消したほうがええよ。亨がびっくりするやろう」
 囁き声でそう言われ、俺は一応頷いたけど、どうしてええかわからんかった。どうすればその傷が消えるのか、見当つかへん。
「水煙、あのな、今日はずっと、この格好でいてくれ。お前のこの姿が、俺は好きやねん。お前を無難な姿に変えようなんて、俺がアホやった。どんな姿をしてようが、それがお前のほんまの姿やったら、きっと皆にも分かるやろう。お前が美しい神やということが」
「そうやろうか、アキちゃん。お前の恥にはならへんか」
 ぼんやり心配げな声で、水煙は訊ねてきた。その時、どんな顔をしていたのか、俺には見えへんかった。抱きかかえた体を、ぎゅうっと強く、抱きしめていたせいで。
「アキちゃん……そんなに強く、抱かんといてくれ。胸が苦しい……」
 押しつぶされそうやと、切なげに苦しんで、水煙はそれでも、萎えた腕なりの強さで、俺を抱き返してくれた。
 これが最後の抱擁や。もう二度と、こんなことはないと、触れあった肌から、そう諭されているような気がした。これを最後にしておけと。
 そうや、俺には、亨が待ってる。この身を二つに引き裂いて、片方を水煙にやるわけにはいかへん。死んでまうやろ、そんなことしたら。死んでしまう。でも俺の魂は、実はもう二つに、引き裂かれた後やないやろか。水煙を手放す自分を思うたら、引き裂かれた魂の一部が、怖ろしい断末魔の悲鳴をあげて、死ぬような気がする。それは怨霊の声か。そうやない。俺の中に怨霊は、もう居らんのやから。
 それは俺の声で、俺の悲鳴や。水煙恋しい。そういう声や。
 俺もなんて、多情な蛇やろ。もうアキちゃん、殺さなあかん。皆もそう、思うやろ?
 俺かてそう思うんや。俺はもう、自分で自分を殺さなあかん。自分の魂の中にある、水煙恋しい言うてる部分を、泣いて斬るしかないんや。そして、だらだら血を流す。苦しい痛いて悶え苦しむ。それを隠して、にこにこ生きていかなあかんねん。
「お前には俺の魂が、見えるんか、水煙。その魂の、俺がお前を愛してるところを、千切って持っていってくれへんか。俺はお前にも、俺をやりたいねん。今でもまだ、俺が欲しいと思うてくれてんのやったら、俺の魂の欠片だけでも、持っていってくれ」
 俺は本気でそう頼んでた。苦しいねん。引き裂かれそうで苦しい。そんならいっそ、裂いていってくれ。お前の神の手で。
 でも水煙は、それはあかんという顔で、やんわり首を振って拒んだ。
「無理やアキちゃん。そんなことしたら、お前は死んでしまう。魂を分けることなんか、できへんのやで」
 でも、もし、そんなことがほんまにできるんやったら、俺もそうしたいと、水煙は俺に教えた。水煙愛しいと、思うてくれている、その魂の一欠片だけでも、もぎ取って喰らいたい。愛おしいお前を、俺も自分のものにしたい。たとえ一欠片だけでもな。
 囁く心の言うとおりの、愛おしそうな仕草で、水煙は青い頬を、俺の頬に擦り寄せたけど、もうキスはしてくれへんかった。すぐに離れて、ため息とともに、こう言うた。
「無理なもんは無理や。しょうがない。諦めるしか、しょうがないなあ」
 にやりと言うてる苦笑いの顔は、まさしく水煙様のご尊顔やった。この諦観ていかんの、皮肉な笑みこそ、水煙様の魅力やったかもしれへん。怖ろしくて哀しい、なんて麗しい神や。そして切なく、つれない神や。もう幸せそうには、微笑んでくれへん。
 俺は結局、水煙のことを、幸せにはしてやられへんかったのか。
 さっきのあの微笑みは、一瞬だけ見えた、奇跡みたいなもんやった。それを拝めただけでも、俺は代々の当主の中で、とびきり幸運な奴やったんや。
「この姿で行くわ。車椅子に座らせて。宴の間は、瑞希に面倒みさせるからな、アキちゃんは俺のことは、放っておけばいい。あの犬な、今日は一日、余計なこと考える暇もないくらい、俺がこき使うといてやるから、それも何も心配せんでええよ」
 にやにや言うてる水煙様は、如才なかった。俺はそれに、畏れ入った。有り難やと、崇め奉りたいような神さんやった。遊んでおいでと許す、その神のごとき寛大さも、どこかおかんを思わせた。俺のおかん、秋津登与は、もしや水煙様を理想の自分として、それを模範と生きてきた女やったんかな。
「行こう、アキちゃん。もうとっくに遅刻してんのやで。ヘタレの茂が神経切れてる」
 ほんまにいつまで大崎先生は、ヘタレの茂なんやろか。
 なんでヘタレの茂って言うんや、水煙までが。おとんがそう呼んでただけやろ。
 もしかして、違うんか。水煙がそう呼んでたんか。それを、おとんがパクってただけか。実は案外、舌鋒鋭い神さんなんか。水煙て、毒舌なんか? 毒があんのか、あの、ちっさい白い舌には。
 ある。あるかもしれへん。俺って昔から、口が悪いってよく言われんのやけど、それはどうも、餓鬼の頃に遊び相手にしていた、蔵の古道具類が化けている、九十九神つくもがみたちの口調がうつったもんらしい。そしてその連中の話しっぷりは、どうも、なんとはなしに、水煙様発祥らしいんや。
 退屈やったんやろう、水煙も。長年、蔵に片付けられていて。話し相手もおらんしな。退屈でしょうがない。下駄でもええわ、喋るんやったらと、話し相手をさせていたのか。それでうちの蔵に居る奴ら、みんな毒舌なんや。
 せやのに俺にだけは猫なで声で喋る。たぶん、おとんにもそうやったやろう。秋津の子らには優しいけども、それ以外には言いたい放題。可愛いのんはウチの子だけで、他は知らんて、そんなモンスター・ペアレントやで。おかんもそうやったけど、水煙もそう。
 俺には優しいのに、亨にはむちゃくちゃ言うんや。
「こら水地亨。何をほんまに二度寝してんのや。もう冬眠か。ほんまにもう、お前はしょうがない。未だに寝間着か。犬は早朝から働いとるのに、お前はええご身分なんやなあ。さすが違うわ、ご正室様は。もう陽も高いのに、いまだに惰眠を貪ってあらしゃりますんやなあ」
 それは京都の古い敬語の言い回しやねん。今ではもう、ほとんど日常会話では聞かんようになってるけど、もとは御所の言葉やで。京都弁て、宮廷から漏れてきた、慇懃な言葉がいっぱいあるわ。
 水煙様を車椅子にお乗せして、恐る恐るもう一匹の有り難い蛇さんの様子をうかがいに、ベッドのほうまで行ってみると、亨はうとうと眠っていた。布団も着ないで、パジャマのまま、ごろんと丸く蜷局とぐろを巻いたように膝を抱えて横たわっていた。
 よう寝るわと、水煙は呆れたらしい。聞き耳でも立ててるもんやと恐れてたのに、まさかほんまに寝てるとは。のんきなもんやで。
 でも俺はそれで、首の皮一枚で命助かったんやないか。聞かれていたらまずい話を、いっぱいしてたで。一生の秘密にしとかなあかん話を、いっぱいしてた。亨はそれをほんまに聞いてなかったんか。
 水煙は、自分の声にびくりとして、飛び起きた水地亨を、呆れた笑みで眺めていた。亨にも、眠ってもうてたのは不覚やったらしい。びっくりした顔をしていた。
「寝てたわ……」
「よっぽど眠かったようやなあ」
 嫌み言うてんのか、労ってんのか、よう分からんような声色で、水煙は亨にそう言うた。亨はよだれでも出そうやったんか、ごそごそ口元を袖で拭っていた。よだれ出るほど寝てたんか、お前は。のんきや。のんきやで……。
「いや、もう……なんかな、ここんとこ、ろくろく寝てないような感じやったしな、めっちゃ腹いっぱいになったもんやから、眠かったんや。それでも昨夜ゆうべは我慢して、無理矢理起きてたもんやからさ……」
「なんで寝えへんかったんや?」
 ドギマギ言うてる亨に、水煙はいかにも不思議そうに訊ねた。
「なんでって、そら、お前とひとつ布団に入って、ぐうすか寝られるわけないやんか。緊張すんねん、抜き身やねんから! いつ寝首かかれるか、わからへんしな。それに、もしかして、俺が寝こけてる間に、お前がアキちゃんとよろしくやってるかもしれへんと思うと、気が気やのうて、寝るに寝られへんかったんや!」
 ぎゃあぎゃあ言うてる水地亨に、水煙は、あっはっはと面白そうに笑っていた。
「それは済まんことやったなあ。俺とアキちゃんの初夜の、宿直とのいをしてくれてたんか。生憎、ぐっすり眠ったわ。ええ夢見たわあ。しかしお前も二徹とは、気の毒やなあ。無駄に人に似せて変容してるから、眠い時にはほんまに眠いんやろう、お前は」
「ね……眠いよ。ていうか、なんで二徹やねん?」
 ベッドに這ったまま、亨は車椅子の水煙とちょうど視線が合うようで、ビビったように訊いていた。俺もそんなん知らんかった。今夜は俺ら、寝られへんのか?
「今夜は全員、不寝番や。明日は予言された日やで、八月二十五日や。日付が変わるのは午前0時やろう。いつグラッと来るとも知れへんのや。寝てる場合やないよ」
 言われてみればそうやった。おはようございます言うてから、グラッと来てくれればええけど、夜中の二時でも三時でも、二十五日は二十五日や。
「寝だめするなら、昨夜ゆうべのうちやったのになあ。お前だけ起きてたんか。ああ、おぼろもか。アホばっかりやなあ、うちの連中は。まともに寝てたんは犬だけか。あれはなかなか賢い犬やで。素直に言うこと聞きよるしなあ」
 いかにも瑞希は好ましいしきやというふうに、水煙はしたり顔で頷いていた。どう見ても釣られてんのに、亨はもろに餌に引っかかっていた。
「俺かて素直に聞いてやってるやろ。犬ばっかり可愛がるな!」
 水煙の式神チェックがなんで気になる。お前はもう秋津の式でも、俺のしもべでもない。ただのツレなんやろ。水煙が瑞希を贔屓ひいきしたかて、別にええやん。関係ないやろ。
「服着ろ、ジュニア。別に普段着でええから。急いで行こか。茂が焦れて、籤取くじとり始めてまうわ。あいつは昔からイラチやからな」
 瞬膜のある目で瞬いて、水煙は部屋を出て行く扉のあるほうを見つめた。
 はいはいと、俺は慌てて自分の服を着に行った。亨もなぜかオタオタしていた。
「えっ、ちょっと待てよ水煙。俺の朝シャワーは?」
「お前は寝とったらええわ。関係ない子やから」
 水煙に、きっぱり言われて、亨は、ええっ、と大げさに叫んでいた。
「関係ない子って、なんやねん、それは。俺はアキちゃんの配偶者やで!?」
「関係あらへん、そんなことは。お前は部外者や。秋津にとっても、霊振会なるものにとっても。今は主のおらん、お野良のしきやろ。それに妻帯してるモンでも、連れ合いを神事に伴ったりはせえへんのやで」
 せやし、亨には席はない。そういう話を、水煙は今さら、けろりと教えてやっていた。なんで今まで黙ってたん。イケズやねんなあ……。
「嘘お! ほな俺、どないすんの!?」
「京都に先に帰っといたらどうや? 家の掃除でもしとけ」
「えっ……」
 真面目に言われて、亨は愕然としてた。また、あんぐりしてた。最近この顔、よう見るなあ。前には想像もつかんかったのに、最近よく、こいつにあんぐりされている。なんでやろ。理解したくない。まさか非常識さにおいて、俺が亨を追い越したなんて。
「いわゆる銃後の守りや。お前は家でおとなしゅうしとき。ジュニアもそのほうが安心やろう。危ないんやで、この神事は。しきにも巫覡ふげきにも、死ぬものは少なからず居るんや。お前が死んでもうたら、アキちゃん悲しむやろう」
「で、でも、でもでもな、でも、どうすんの、例の蔦子おばちゃまの予知は。俺かてあの水晶玉の映像の中に、ちゃんと居ったやんか。チーム秋津の一員やないか?」
「誤差の範囲や。お前が居らんでも、関係がない。もう策は見つかったんや。龍には俺を貢ぐことになったから、アキちゃんは無事に戻ってくるよ」
 亨はぽかんと聞いていた。またまた、あんぐりしていた。困ったような動揺した目で、水煙をまじまじ眺め、それから助けを求めるように、どんより暗い俺の目を見た。
「えっ……ちょっ、と待って。それやとお前はどないなんの?」
「どないなるのか俺も知らんな。なってみてのお楽しみやで」
 にやにや苦笑して、水煙はもうとっくに諦めてるような、悟りきった口振りやった。それを眺め、亨はなんや情けないような、沈鬱な顔のしかめ方をした。
「みんなで解決するんやないのか、水煙。チーム秋津は戦隊モノやろ。五人で乗り切りましょうって、そういうオチやったんとちゃうの?」
「ちゃうようやなあ、生憎な。次回のおはなしで活躍してくれ、水地亨」
 ふっふっふと気味良さそうに笑い、水煙は細めた眼で、かすかに喉を反らせてた。
「そんなん、ないわ……ずるいで水煙。俺がヒロインやのに!」
「今回は俺やねん。すまんなあ、亨」
 しれっと言われて、亨はぐふっ、とせるような息をした。
「アキちゃん」
 裏返ったような声で、亨はまた俺に助けを求めてきた。何か言えということなんやろう。
 でも、何を言えんの。俺、なんも言えることない。
 そうか、と、なんか妙な安堵感もあった。亨、関係者やないんや。無関係。俺とデキてるからって、俺の家業に付き合わなあかん訳やない。前は俺のしきやったから、否応もなく引きずり込まれてただけで、そうやないなら、手伝う必要なんもないんや。
 そういえばそうかも。新開道場の小夜子さんも、剣道のことなんて、さっぱり知らんかった。道場のことは何一つ手伝うてへんかった。時々の気まぐれで、子供可愛いって、おやつ出してくれたりするだけで、たまに現れるだけの、ゲストキャラやった。師範は奥さんには道場の仕事を手伝わせてなかったんや。
 そんなツレかているんやし、亨がそうでも、かまへんやんか。こいつは俺と一緒に絵描きたいとは言うてるけど、一緒に鬼退治したいとは言うてへん。したないもんを、無理にせなあかん理由はない。
 京都に帰っとけばええんや。出町の家で、俺の帰りを待っといてもらえばいい。それって、全然、普通やん? 旦那の会社に毎日ついていく奥さんおらへんやん。家にいてたり、自分の仕事に出てたりするのが当然やんか。何も皆が皆、夫婦でいっしょに自営業というわけやない。
 亨は俺と結婚しかたもしれへんけど、俺の家と結婚したわけやない。結婚言うても真似事だけやん。別に籍入れた訳やない。法的には赤の他人や。日本は野郎同志で結婚できるほど、理解のある国やないからな。
 あいつ戸籍があるねんで。信じられへん。どこのアホが蛇に戸籍を作ってやったんや。下僕にもほどがある。都市部の川に出てきた海のほ乳類に、住民票作ってやるのとは訳が違うねんで。水地亨は選挙権を持っているんや!
 なんて怖い話や。まさしくオカルト・ホラーやで。あいつの清き一票で、市会議員とか府知事とかが当選してまうかもしれへんなんて。人間の人はもっと投票に行ったほうがいい。だって亨はちゃんと選挙に行っている。物珍しいかららしいで。人間ぽいやろフフンみたいな、外道ならではのステイタスを覚えるかららしいで。誰に投票するかは、もちろん顔で選んでるんや。政策やら公約やら関係ない。選挙演説なんか聞いてへんのやから。あのオッサン、イケてそう。いっぱい金持ってそう。けっこう好み系とか、選挙ポスターの赤色が好きとか、そういう理由で投票してんのや。何も考えてへん。人間界とは無関係なんやから!
 そんな適当な奴が、なんで人界に尽くして死ぬ目に遭わなあかん理由があるんや。こいつも神や。尽くしたってかまへんのやけど、今まで悪魔サタンで無事やったんやろ。これからもそれでええやん。お前が悪魔サタンでも、俺はかまへん。それでも愛してる。せやし無事なほうがええやんか。君子危うきに近寄らずやで。
「亨……お前、ひとりで帰れるやろ。先、帰っとけ」
 俺は水煙の座る車椅子の、ハンドルに手を載せたまま、ぼんやりとそう言うてた。何かに縋ってないと、くらくらバタンて行きそうな気分やった。ものすご萎えてた。かなりフラフラやった。
 亨の目を見る気合いもなかった。せやから、どんな顔をされてたのか、その瞬間の亨のリアクションを、俺は知らへん。
「アキちゃん……」
 哀れっぽい、掠れた小声が、俺を呼んでた。ベッドの上から。
 いつもやったら、甘く囁くような声で、そこから俺を呼んでいる。アキちゃん抱いて。アキちゃん、ふたりで、気持ちええことしようよと、うっとり幻惑するような声して、俺を誘う。そんな怖くて可愛い蛇さんやのに、今はなんでか、ただの人みたい。
 それは俺のよく知る声やった。俺にふられた女の子たちが、俺を呼ぶ時の声。
 本間君。それ、どういう意味なん? ウチのこと、もう、好きやないの? 別れるの?
 なんで? なんでウチのこと、もう愛してへんの?
「アキちゃん……水煙に、何されたんや。どんなえことされたんや。そんなん俺が……してやるやん」
 なんか泣きべそかいてるような、湿っぽい声で、亨がひっそり訊いてきた。
「何を言うてんのや、お前は。破廉恥な。一晩、寝ないで見張っていたんやろ。何もしてへん」
 けろりと平静に、水煙は嘘をついていた。いや、嘘ではないかもしれへん。確かに何もしてない。現世では。
 ただ同じ夢を見ていただけや。それは普通ではない出来事ではあるけども、たとえ誰かと同じ夢を見たからといって、それもやっぱり現実ではない。夢は夢。そういうことになるんやろか。
 目覚めた後に、お互い憶えてなければ、そうかもしれへん。憶えてないだけで、実は皆も夢ん中で、友達とか彼氏とか、死んだお婆ちゃんとかに、会うてんのかもしれへんで。その可能性は無いではない。通力しだいや。
 水煙と、昨夜なんもなかったとは、俺は亨に断言できへん。何かはあった。それは、亨には言うに言えへんような何かや。
「ほな、たった今したんか。バスルームでしたのか。アキちゃん……なんとか言うてよ!」
 強く呼ばれて、俺はやむなく亨を見つめた。
 顔真っ青やった。もともと白い肌した顔が、紙でできてるみたいに、真っ白に血の気を失っていた。今触れたら、きっと亨は氷みたいに冷たいんやろう。寂しい時、亨はいつも冷たくて、アキちゃん寒いと甘えてくる。それを甘えられるまま抱いてると、だんだん熱く燃える。その燃えるような手で、亨も俺を抱く。
 そんな甘いような回想も、今は青ざめて思い返すような、過去の出来事に思えた。
 亨は爛々と光るような目で、俺を見つめ返してきた。怒ってはいない、哀しそうな、強い目やった。
「約束したよな、お前は。呪いを解くだけやって。ほんで謝るだけなんやろ? そういう事で許したんやったよな? そやのに、なにこれ? どないなってんねん、アキちゃん。お前要らんし帰れやと? お前は俺をなんやと思うてんのや……」
 そうやない。要らんから帰れなんて言うてへん。それは誤解やで。お前に何かあったら嫌やし、家で待っとけいうだけの話やで。
 それとも俺は亨が邪魔なのか。気まずいからか。あっちいっとけいう話なんか。
「いつも俺を選ぶって、約束したやん。もうチャラか! てめえ、この外道に本気出してんのやろ。そんなつらしとるわ! 俺とこいつと、二股かけようっていうんか。それとも……アキちゃん……」
 わなわな震えたような声が、か細く縋り付くようになって、俺の名を呼んでいた。気付くとまともに見てられへんようになっていて、俺はまた、どこかに目を逸らしてた。ベッドカバーの模様に、ヴィラ北野のロゴマークが入っている。特注なんや。わざわざ織らせたんや。徹底してんのやな、中西さんの作品作りって。隙がない。
 亨はあの人と居ったほうが、幸せになれたんやないやろか。俺みたいな鬼畜生と連れ合うよりは、このホテルで暮らしていくほうが、幸せなんやないか。
 俺こそ身を引くべきやないのか。もっと幸せ掴めそうな相手と、亨がやっていけるように。俺は居らんほうが、ええんやないか。そのほうが亨のためやないのか。
 それで別れて水煙様と、くっつこうかという話やないねん。そうではないと思う。俺はとにかく、自分が嫌やった。自己嫌悪やねん。
 なんでかな。俺なんか居らんほうが、皆幸せになれそうな気がして、自分が邪魔に思えた。
「アキちゃん……黙ってへんと、なんとか言うて。俺より水煙が、好きになったんか。亨、出ていけ言うてんのか……嘘やろ、そんなん。たったの一晩寝ただけで、なんでそんなふうになってまうの?」
「水地亨、痴話ゲンカしてる暇はないんや」
 やばいぐらい平静な、水煙の声がして、それはバッサリ斬りつけるような口振りやった。
「うるさい、てめえは黙っとれ!」
 怒鳴る亨の声があまりに悲痛で、俺も痛いような気がした。思わず目を閉じかける自分を咎めて、俺は無理矢理亨のほうに目を戻した。
「あのな、亨……誤解やで。お前が心配やから、家に戻っといてほしいんや。部外者ってことになるんやったら、こんな得体の知れんヤバいこと、お前にやらせたくないねん」
「それで帰ってどないなるねん。もしお前がそのまま死んで、戻って来えへんかったら、俺はどうなんのや。出町でずっと待っとけいうんか。帰って来ないお前を、ずっと永遠に待てっていうんか!!」
 亨はなんでか一瞬で、発狂寸前みたいな叫び方やった。今まで堪えてたんやろう。そんなふうな悲痛な声やった。俺が死ぬんやないかと、こいつはずっと心配してくれてたらしい。お前そんなん、全然言うてへんかったやん。また一人で悶々としてたんか。言うてくれな分からへんて、いつも言うてるやんか。
 それも堂々巡りやねん。愛してるなら、俺の気持ちに察しをつけろと、亨は言うねんけどな。それが察しつかへんから、言うてくれ言うてんのやんか。アキちゃん鈍いんやから。そんなん誰よりお前が一番よう知ってんのやから。そのへんにも察しをつけてよ。
「ずっと永遠になんて、待たんでええよ。もし帰って来なかったら、お前の好きなようにしたらええよ。そのまま家に居ってもいいし、よそへ行きたいようなら、行ってもいいし……それにお前、出町の家に帰りたいんやなかったんか?」
「アホか、アキちゃん……今は出町に家なんかないよ」
 つらい、情けないという顔で、亨は俺から目を逸らした。亨の真っ白い指が、わなわなしながらヴィラ北野印のベッドカバーを握りしめていた。
「家、ないの?」
 そんなわけない。ちゃんとあるやろ。出町のマンション、俺が知らんうちに消えたんか。
 そんな事を俺がぽかんと思ううち、亨はブチブチ切れていたらしい。突然、キッと睨むような怒った顔をして、亨はまた俺を睨み付けた。
「ないよ! お前の居るところが、俺の家なんや! お前が居らんのやったら京都なんかどうでもええわ! 何が三都の巫覡ふげきの王や……そんなもん、どうでもええわ!! 俺はお前とのんびりしたいだけやねん。京都でも神戸でもどこでもええんや。家なんかなくてもいい。日本じゃなくても、どこでもええねん。お前と居れれば、どこでもええのに……」
 言いながら亨は、泣くほど情けないらしかった。実際ぽろぽろ泣いていた。俺は静かに内心慌てた。また泣いてる。また泣いてるで、亨。なんで泣いてんのや。俺、どうしよう。また亨を泣かせてもうてる。
「ほんまにお前はおぼろとそっくりやなあ」
 しみじみ感心したような、ちっとも心を動かされてないふうな声で、水煙が亨に言うた。亨はもう、そんな気力ないのか、水煙にうるさいとは怒鳴らへんかった。
「お前はこの戦いに向かんのやないか、亨。幸い、しきは余ってる。霊振会の連中が連れているのが、いくらでも居るんやしな。気が向かんお前を、無理に動員する必要はないんや。心配せんでもアキちゃんは、死んだりせえへん。俺が守ってやる」
「そんなん無いわ。俺の役やのに……アキちゃん守るの、俺のやるとこちゃうの? お前が持っていくんか、水煙」
「しょうもないとこで意地張るな。誰がやっても結果は同じやろ。お前は次回以降がんばれ。もう俺は居らんようになるんやしな?」
「嘘や、そんなん……アキちゃんが承知するわけない。お前に惚れてんのやで。俺かてそれくらい分かってる。そのお前を龍にくれてやって、平気で生きていけるような、そんなえげつない男やないで、このボンボンは」
 めそめそ言うてる亨の話に、水煙は困ったような苦笑やった。
「ほんなら、なおさら、俺を始末できて、お前には好都合やないか? 黙って見とけば、邪魔な包丁は居らんようになる。アキちゃんはお前だけのもんになるんやで?」
「そうやけど……」
 駄々をこねてる子のように、亨の声は甘えて響いた。水煙はそれに、ますます困った顔をした。
 どうも水煙は、亨のことが好きらしい。面倒見たらなあかんと思うらしい。この時も、めそめそ泣いてる哀れっぽい姿を眺め、よしよして頭のひとつも撫でてやりたいという雰囲気やった。
 でも、それは、変やろ。おかしいやろ。その亨と俺を取り合ってんのやしな。よしよし言うてる場合やないよな。そう思って困ったらしい。
「うだうだ言うな。絶対帰れっていう話やないんや。居たいんやったら、居ればええよ。ただしお前は部外者やで。無難な隅っこのほうに居り。俺が必死でアキちゃん守ったところで、お前がうっかりドジ踏んで、くたばってもうてたら意味ないやんか?」
「なんで意味ないのや?」
「お前が居らんと、アキちゃん幸せになられへんやないか?」
 ぐすんぐすん言いながら、亨は水煙の真顔を見上げた。
「そうなん?」
「そうやろ。お前のこと愛してんのやから。俺よりお前がええらしいで。せやし、しょうもない焼き餅焼くな。それこそ藪蛇や。別れる切れるの話になりかけている。そんなことになってもうたら、俺は一体なんのために身を引くんや。別れてええようなもんなんやったら、今すぐ別れて、お前が龍の生け贄になればええよ。俺がアキちゃんと幸せになるから」
 本気か冗談かわからん口調の水煙の話が終わる前から、亨はぶるぶる首を横に振って、青ざめた顔で、それは嫌やと言うてた。水煙はそれを、蔑みきった目で見てた。
「まったく、そんな覚悟もないなら、黙っとけ。情けない奴や、外来の蛇は。あのおぼろでさえ、アキちゃんのために、なまずの餌になろうかという覚悟やったのに」
「さすが切腹ハラキリの国の蛇や……」
 外国人観光客のような感嘆をして、亨はがっくり敗北していた。
 死ぬのがな、怖いんやって。そら怖いよな。俺かて怖いもん。皆も怖いやろ? ハラキリできる? できへんよな……。刀を自分の腹に刺すねんで? こう、ぐっさりと……って、無理やわ。想像の時点でも、痛そうすぎて無理やわ。気分悪くなってくる。
 それが普通やで。日本人やから全員平気で切腹するかていうたら、そんなわけない。武士だけちゃうか? 俺、武士やないから。美大生やからな、そんな怖くて、ようやらん。
 亨が無理でも、恥ではないで。水煙やらおぼろやらが、異常なんや。異常に覚悟ができすぎている。普通は自分の命なんて、そう簡単には投げ打たれへんのやで。
 それでも、自惚れの誹りを恐れず言うのなら、それは報われなかった愛情ゆえや。水煙は、俺のためなら死んでもええわと、思うてくれたんやろう。おぼろもそうやろ。あっちは俺のためやのうて、おとんのほうやろけどな。
 亨ももし、そんな立場に立たされたら、俺のために死のうというぐらい、愛してくれてたか。それは謎。とにかく亨は、往生際の悪い蛇やねん。そこがこいつの特性で、そこに起死回生の鍵があったんや。覚悟というのは、尊いけども、見方を変えれば、一種の諦めや。亨は決して、諦めへんタイプ。どんなに醜かろうが、潔く諦めたりはせず、なんとか生きようと足掻くタイプやねん。
 諦めずに頑張れば、どこかに奇跡のコースはある。皆も、そう思うか? 全員でハッピーエンド? そんなもんが、どこかにあるやなんて、俺は全然思えてなかったけど、願ってはいた。どんな神様でもええから、そんな奇跡を起こしてくれへんか。
 それは願うにしては、あまりに見込みがなさすぎる希望で、自分でも自覚はしてない、淡い祈りのようなもんやった。
 しかし水煙様に祈っても無駄や。こいつはいさぎよすぎる。無様に足掻いたりせえへんねん。我が身を滅ぼし、愛しいモンを救う。そういう発想をする神や。
 祈るんやったら、水地亨大明神に。諦め悪い、えげつない蛇に祈らなあかん。なんとかしてくれ亨。なんとかして。俺と一緒に、奇跡を起こしてくれ。誰も思ってもみんかったような、あっと驚く起死回生の策を、思いついてくれ。
 お前が居らんかったら、俺も諦めてしまいそう。潔く、格好良く行きたいって、そんな見栄から、武士道行ってしまいそう。おとんがかつて、そうやったように。
 我が身は死んでも、人を助ける。それでこそ英雄的や。古来よりの、日本人の死の美学に適うものやで。
 人を助ける。俺も助かる。皆でハッピーエンド。それはハリウッド的や。こう言うたら何やけど、図々しいねん。しかし現代的や。皆で幸せにならな意味ない。我が儘やけども、そんな我が儘叶えてくれるからこそ、ヒーローはヒーローなんとちゃうの。
 大変やで、ほんま。秋津暁彦・平成版も。命がけでも何ともならんような危機に直面しててやで、お前も生きて帰って来いって。誰も死なすなってな……それは無理やで。普通は無理やねん。うちのおかんでさえ、前の地震の時には、秋津の家に残っていた、使いでのありそうな式神を、全てなまずに食わせたんやで。俺のおとんでさえ、艦隊を救うべく、己の一命をして海神わだつみに祈った。そういうもんなんや、巫女やら覡《げき》やらの仕事とは。己の命は二の次や。餓鬼みたいな乳臭い我が儘言うたらあかんねん。そういうのはな、格好悪いの!
 しかし敢えて言おう。俺も死にたないわ。水煙を龍にくれてやるのも、真っ平ご免や。亨も俺の嫁。瑞希も無理や、俺に惚れてる。おぼろ様もあかん。可哀想やろ。
 ほな誰が逝くの。誰もおらんやないか。どないすんねん龍は。なまずもどうする。ほんまに信太を食わせてやるんか。そんなん、アリか。
 俺は別に、信太のことは好きでもなんでもないよ。むしろ胸糞悪かったよ。せやけどな、鳥さんのことは別にしても、死んでもええわと思うような、相手ではなかったんや。
 そこまで思える相手なんて、そうそう居るもんやない。たとえ喧嘩して、ぶん殴ってくるような同級生でも、お前は死ねとは思うたことないよ。可哀想やんか。人でもなんでも、生きてるもんには、生き続けたいという欲があるんや。それは当たり前の願いやで。それを寿命半ばで死なすのは、むごいんや。無念が残る。
 どうにか助けられへんかと、思うのが人情や。まして俺は、ハラキリなんて過去も過去、そんなんフィクションの中にしかないような世代の、甘っちょろいボンボンやねんから、しょうがない、これも定めと水煙のようには、あっさり覚悟決められへん。
 願っていたよ。信太も助かればええのにと。誰も死ななきゃええのになあと、内心どこかで祈ってはいた。自覚はないねん。せやけど皆も、そういうふうには心のどこかで、祈っていてくれてるんやろ。それとももう、諦めてもうたんか。信太死んでもしゃあないわと。誰か逝かねば収まりつかん。そんな危機に直面して、まだ助かりたいと足掻くのは無様か。
 俺はそうは、思わへん。まだ希望はあると、信じることが、人間が持てる、最後の強さや。
「もう行こう、アキちゃん。お前は斎主なんや。それがいつまでもぐずぐず遅れて、皆に面目が立つものか。亨のことは、放っておけ」
「俺も行きたい! アキちゃんと一緒に居りたいんや! ツレなんかやら! 俺とアキちゃんは、いつも一緒なの!」
 ぎゃあぎゃあゴネてる亨の顔から、水煙はいかにもうんざりというふうに、目を背けて、さらに、あかん奴やというふうに、首まで小さく振っていた。
「ほんなら、うだうだ言うてへんと、さっさと身支度して、追ってこい。先に行って、会議室に居るわ」
 押してくれと促すように、水煙は俺を見上げた。亨はまるで脱兎のように、ベッドから飛び降りて、バスルームのほうに走っていってた。たぶん、急いで身支度して、一刻も早く追いつこうという計画なんやろう。来る気なんや、やっぱり。京都に帰って待っとく気なんて、これっぽっちもないんや。
 帰っときゃええのに、亨。何も俺に付き合うて、危ない目にあう必要ないのに。
 でもまだ平気や。一日あるから。地震が来るのは、明日なんやし。もう式神ではない水地亨に、京都へ帰れと命じることは、俺にはできへんのやけども、説得することはできる。お願いしますとお頼み申すことはできる。頼むし、帰っといて。お前が無事やと思えば、俺は安心やねん。心おきなく戦える。せやし帰っといて。
 そして万が一、俺が死んでもうたら、頼むし『ガラスの仮面』は俺の蔵書ではないと、おかんに証言してくれ。エロログも焼き捨てて、トイレに流しておいてくれ。トラッキーの縫いぐるみも連れていってくれ。落語のCDとかダウンタウンのDVDも俺のやないから。そしてパソコンのハードディスクに残ってる、他人が見てはいけないような、以前遊んだデジカメの、恥ずかしい写真も消しておいてくれ。お前がプリントアウトして壁に貼ってたほうも、絶対に焼き捨ててくれ。せめて守ってくれ、俺の死後の名誉を。うちの息子、なんてアホやったんやろて、おかんに思われたら、俺は死んでも死にきれへんのや。頼むし、おかんだけには、最後までええ格好させてくれ。
 そう言うたら、亨は納得してくれるかな。アキちゃんそう言うてるし、目がマジやし、京都帰って身辺整理をしといてやろかなって、思わへんかな。無理やろか。
 でも俺けっこう、それについてはマジなんやけど。本気で身辺整理しといてもらいたい。エロログだけでもいい。今日中に処分してくれ。頼む。水地亨大明神。拝みます。いや、ほんまに……。
 しかしな、今はこれ以上、引っ張られへんわ。水煙ちょっと、本気でイライラしている。早うせえというオーラ出してる。
 しょうがないから、俺はその説得は、後回しにすることにした。
 それどころではない。籤取くじとりや。誰がなまずの生け贄いくか、くじで決めるんや。
 水占みずうらというのは、神聖なもんである。そもそも占いというのは神聖なものなんや。そこには神が顕れる。姿形を持たない天地あめつちが、そのご意志を示す場や。
 名前のついてない神さんが、いちばん原始的で、そして偉いねん。名付けられ、具体化され、擬人化された時点で、神々は何らかの制約を受ける。個性というのは、枠でもあるしな、それが神の限界にもなる。ほとけやいうだけで、キリスト教徒の人らには、信仰してもらわれへんようになるやんか。しかし名前がなく、神格を持った神でさえない、山やら川やら、宇宙やら、そんなもんの背景にある、この世を生み出し動かしている、無限の力にやったら、人は分け隔てなく畏敬の念を抱けるやろう。
 俺をほんまに守護しているのは、その神さんや。神でさえない。天地あめつちや。それは人格も、意志も持ってない。ただ運命の流れがどちらへ向かおうとしているか、それを指し示して教えることはする。川は東に流れるか、南に下るか、意志を持っては決めへんやろけど、自分がどちらへ流れようとしているか、それを示すことはできる。見れば一目瞭然や。川がどちらへ行こうとしているのかは。
 水は高きから低きへ。天地あめつちことわりに従って流れる。運命もそうや。定めがある。死ぬと定められた者のほうへと、死は迷うことなく舞い降りてくる。
 さきの震災から十余年。ひょっとすると、もっと前から。ずっと自分の死に場所を探していた、死を思う虎のほうへ。告死天使は舞い降りてくる。
 神戸を救うための生け贄や。それは虎にとっては前進やった。決して無駄な死ではない。かつての自分を消滅から救ってくれた、この港町、神の戸の、恩義に報いるための死や。それで本望。それでこそ自分は、神として、霊獣としての神格を、回復することができる。そしてさらに、もしかしたら、神戸にもうひとつの大きな恵みを、もたらすことができるかもしれへんと、虎は算段していた。
 あんなアホみたいな男でも、考えてることは、考えてんのやな。さすがは神というべきか。信太はいかにしてアホの鳥さんを、ほんまもんの不死鳥へと仕上げるか、十年かけて考えていたらしい。
 不死鳥とは、いかなる霊獣やろか。
 ひとつには、燃えている鳥である。火の鳥や。火の中から生まれ、死ぬ時には我が身を自らの火で焼き尽くし、その灰の中から再生する。炎によって生まれ変わる鳥なんや。それによって、永遠の命を生きている。
 そして、もうひとつには、生命を与える力を持った鳥である。不死鳥の涙には、死者を蘇らせる効用がある。冥界の神のもとへ行くべき魂を、再び現世の肉体へと、呼び戻すことができるんや。
 黄泉がえり。復活。枯れ果てたものを、再び繁茂させる力。
 これが不死鳥が神と崇められる最大のポイントやろう。それがないなら不死鳥は、ただの燃える鳥。何の役にも立たへん、意味なく無限に生きているだけの、ただの熱い鳥さんや。
 これまで寛太には、死んだものを蘇らせたという実績はなかった。震災の傷に喘ぐ神戸の、再生のシンボル、フェニックスとして喚ばれたはずが、言うほど街は再生してへん。一時の隆盛を知る者から見たら、うらぶれた寂しさのある、まだ傷ついた街のままや。
 それでも信太は確信していた。あの赤い鳥さんが、ほんまもんの不死鳥なんやと。なぜなら最初に神戸に降り立った時、赤い鳥をとりまく大地に、無数のひまわりが咲き乱れた。それは瓦礫の中にたまたま落ちていた種が、寛太の霊威に煽られて、芽吹いて育っただけの、偶然やったんやろけど、信太には再生能力を暗示する意味深い光景に見えた。
 お前こそ、愛しい俺のフェニックスと、囁き続けて十余年。それは、ほんまになったのか。それを確かめる時が、とうとうやってきたんや。
 信太はこう考えていた。
 鳥がほんまに俺を愛してて、ほんまに不死鳥なんやったら、なまず様に命を食われて、黄泉に隷属する羽目になった俺の魂を、我が身の霊威によって、現世に呼び戻そうとするやろう。なぜなら寛太は永遠に生きる。死なれへんのやから、彼岸と此岸に分かたれてもうた恋人と、再び抱き合いたければ、死んでるほうを黄泉がえらせるより他はない。
 それは、一世一代の大博打やな。
 死んだ自分が死んだままなら、それは、寛太がただの鳥やったということ。
 あるいは、死に別れた信太の兄貴が、死んだままでも、まあええかと、鳥がそう思う程度にしか、自分を愛してくれてなかったということや。
 それなら、それで、しょうがない。
 しかし、もしもこの賭に、勝つことができたなら、それこそ起死回生の、逆転満塁ホームランやで。
 信太はなまずから神戸を救い、そして不死鳥までもこの街に、与えてやることができる。大地震からの救済、そして再生。それはこの十年余、信太が願い続けた悲願でもあったし、神戸を守る巫女としての、蔦子さんの悲願でもあったんや。
 くじの水占に顕れる神は、果たして信太を選ぶんやろか。それは信太の運命やろか。運命の川筋は、一体、どっちに向かって流れていってるんやろか。
 聞いてみての、お楽しみやな。
 ばたんと部屋の扉は閉じた。俺は水煙の車椅子を押して、エレベーターのあるほうへと、ヴィラ北野の華麗な廊下をゆっくり行った。赤い絨毯に、窓からの日射しが、四角く切り取られた光の泉のようになって、くっきりと明るく、揺らめいていた。
 日輪にちりんの時間や。神戸はまだ、真昼やった。
 亨が追ってくるかと、俺は後ろ髪を引かれる思いで、水煙とふたり、下階へと降りるエレベーターに乗り込んだ。チン、と軽快な、ベルの音が鳴り、滑るように扉は閉じた。それはこれから俺を待ち受けていた戦いの儀式の、始まりを告げる音やった。

《つづく》

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