SantoStory 三都幻妖夜話
R15相当の同性愛、暴力描写、R18相当の性描写を含み、児童・中高生の閲覧に不向きです。
この物語はフィクションです。実在の事件、人物、団体、企業などと一切関係ありません。

京都編(5)

 おかんに嘘ついても、どうせバレる。それは昔から分かり切っていることだった。
 ごまかしたって、しょうがない。だけど何も、全部話す必要はないと、俺はそういう作戦のつもりだった。
 嵐山の実家が近づいてくると、亨は目に見えてびくびくしてきて、シートベルトに縛り付けられたような助手席で、帰ろう、帰ろうと、ひいひい言った。
 何がそんなに怖いのか、分かるような気もするが、怖がりすぎやろとたじろいできて、俺はもう反応もなくぐったりしている亨を、横目にちらちら気にしながら運転していた。
 こいつがぐったりする時って、あるんや。
 何回やっても絶倫みたいな色情狂で、やったそばから、もう一回してくれと言うようなやつやった。終わった後でも、なんとなく淫靡にのたうつだけで、ぐったりしたとこ、見たことない。
「大丈夫か、亨。お前、車に酔うんか?」
 まさか吐きはしないやろうなと心配になって、俺は亨の紙のように白くなった顔を盗み見た。
「酔わへんよ……」
 ぼんやりと、亨は魂を吐くような、口のきき方だった。
「そんなら、どうしたんや。急に静かになって」
「なんや……むりやり犯られた後みたいな感じ……痛いけど、気持ちいいかも、後味すっきり、みたいな」
 亨がそこはかとなく、うっとりと言うので、俺は急ブレーキを踏みそうになった。
 な、なにを言うとるんや、こいつは。
「アキちゃんと、連続十回くらいやった後みたい」
 俺は連続十回もやったことない。そう叫びそうになったが、もう実家の門が見えてきていた。うっかり途方もないことを叫ぶような癖はつけないようにしないとと、俺は必死で押し黙った。
「アホなこと言うとらんと、しゃきっとしろ。もう着くぞ」
 嵐山言うても、実家は観光客は絶対来ないような、山の中の一軒家だった。
 先祖代々が受け継いできたらしい、広い家で、近隣の人たちからは、お屋敷と呼ばれてるらしい。そこまでの大豪邸とは思わないけど、古びた趣味のよい和風建築だ。おかんがきちんと手入れさせているので、古いといっても、すみずみまで綺麗で、住み心地は良かった。
 門から入って車寄せで停めると、鍵を引き取りに来た家の者が、懐かしそうに頭をさげた。
「お帰りなさいませ、暁彦さま」
 年取って白髪が目立ち始めた作務衣の男が、にこやかに鍵を受け取った。俺が子供のころからいるその男に、元気そうやなと挨拶をした。
 彼は名目上、おかんの弟子ということになってるんやけど、師匠より歳食った弟子って、ありえんのか。でも失礼だから、今までそんな事をぶっちゃけ訊いたことはない。
「暁彦さま!」
 車を預けて、玄関へ続く苔むした石畳を歩いていく道すがら、亨が心底びっくりしたように呟いた。心持ち狭まった通路は、両脇に赤い椿を咲き誇らせていた。
「なんやねん」
 そうなんやと訳のわからん事を呟いている亨を引き連れ、俺は小さな手荷物だけを持って、ずかずか行った。
 実家に泊まるのに荷物なんか大して要らへん。なんでか意味もなく持ってきたノートパソコンと、例の亨の絵の下絵を描いたクロッキー帳だけが入ってるような、我ながら何がしたいんか分からんような荷物や。
 あれと似たもんがある。地震や火事にびびって、なんでか枕持って逃げてきたみたいな。
 亨はなにやら嬉しげに支度をしていたが、それでもほとんど手ぶらだった。こいつはうちに居着いた時も、魔法のカード以外の荷物なんて、そのとき着てた服しか持ってなかった。服のサイズは俺のほうが大きかったけど、それでも亨は一応男だ。何の気兼ねもなく、俺のクロゼットから、着られそうなもんを勝手に出して着ていた。女と暮らすみたいに、ものがどんどん増えるようなことはなかった。
 だけどそんな、いかにも他人の服みたいな格好で、俺の実家に突撃するのは気がひけたんか、亨はクリスマス・イブの日に着てた飾り気もなんもない黒いセーターと、ジーンズと、見るからに品物がいい黒いロングコートを着ていた。やっぱどう考えてもバーテンが着てる服ではなかった。
 それを考えると頭が痛くなってきて、俺はくよくよしながら懐かしい玄関の引き戸を開けた。懐かしい言うても前に帰ったのは盆の頃やから、ほんの半年前や。それで懐かしいて思う自分がほんまに情けない。どんだけこの家に捕まってんのか。
「ただいま。おかん、帰ったで」
 聞こえるわけはないのだが、子供のころからの習慣で、俺は見事な芍薬《しゃくやく》の飾られた玄関と、その奥の黒光りする床の廊下に大声で呼びかけた。そして、暗い赤のペルシア絨毯が敷かれた上がりかまちに腰掛けて、靴を脱いだ。
 亨はその時もまだ、ぽかんとした顔で、大きな黒いはりが何本も見える高い天井を見上げて、突っ立っていた。
「どうしたんや、亨。ぼけっとしとらんと靴脱げ」
 思わずガミガミ言ってから、俺はちょっと嫌気がさしてきた。
 言葉がきついって昔から誰にでも言われる。おかんは俺の口が悪いのを聞くと、アキちゃんはほんま、お父はんにそっくりやとしみじみ言い、俺はその都度深く落ち込んだ。自分で聞いてても、ずいぶん偉そうやと思う。
 特に亨に言う時はそうや。お前は俺のもんやみたいなエゴ丸出しで、こいつも言われてムカつくんとちゃうやろか。だけど、今さら謝るのも変なもんやし。
 そう思って俺が顔色をうかがっていると、亨は聞いてへんかったらしい、はっとしたような顔をして、慌てたふうに、にこにこした。
「いい家やなあ、アキちゃん。古いのがまたええわ」
 お前それは褒めてるつもりなんか。
 確かにうちは、めちゃめちゃ古いで。京都は空襲にもやられへんかったし、この家は江戸時代にはもうあったらしいで。維新の頃に外人のおっさんが来て撮っていったという銀塩写真が、蔵に残ってた。そう、蔵まであるんやで。得体のしれんガラクタだらけのホコリっぽい暗闇で、子供のころに悪さすると、俺はおかんにそこに閉じこめられたわ。お陰で今でもあそこは嫌いや。誰もおらんはずの箱の裏から、くすくす笑う声が聞こえたような気がしたりして、ほんまチビりそうやったんやから。
 そんな家にお前みたいなんを連れて来ようっていうんやから、俺も相当に頭が変やわ。おかんにまた蔵に閉じこめられるんとちゃうか。二十一にもなった男が、アキちゃん堪忍せえへんえ、なんて、おかんに怖い綺麗な顔で、ぴしゃんと蔵の格子戸を閉められるんや。
 情けない。なんでそんな想像してんのやろ。
 俺はもたもた靴を脱いでいる亨の隣で、もう脱いでしまった靴を揃えて置きながら、がっくりと肩を落としていた。
「おかえり、アキちゃん」
 唐突に声がして、俺と亨はほとんど同時に、うわあと悲鳴をあげた。向き合うような形で身をよじって振り返ると、俺と亨のちょうど間あたりに、着物の上に割烹着を着たおかんが、にこにこして立っていた。束髪にした黒髪がびんの油でつやつやしていて、とても俺みたいなでかい息子がいる女には見えへんかった。まだまだ三十代くらいに見える。
 それにおかんは美人や。そう思う俺がどうかしてんのか。
 自慢やないけど、俺は小学六年生まで、大人になったらおかんと結婚するんやと思ってたようなアホやった。その話は恥ずかしいんで誰にもしてへん。
 亨はぽわんとしたような顔で、にこやかな俺のおかんを見上げ、どことなくもじもじしていた。
「ようこそお越しやす。アキちゃんのお友達の方やろか」
 おかんは優しく頭を撫でるような口調で話す。亨はそれに魅入られたように、うんうんと頷き、上ずった声で答えた。
「クリスマス・イブからいっしょに住んでるんです」
 俺は内臓を全部吐きそうになった。でも吐かへんかった。そんなことは現実には無理やからや。もし可能やったら、小腸くらいまでは余裕で吐いてる。
「そうなん。アキちゃんがお世話になってます。お名前はなんて言わはるの」
「亨です。えーと……水地亨みずちとおる
 えーと、って、お前。いかにも偽名ですみたいな名乗り方やめろ。
「亨ちゃんやね。こんな遅うなって、お腹空いたやろ。年越し蕎麦の準備してあったんえ」
 それで割烹着かと、何となく辻褄は合ったが、おかんは典型的なおひいさんで、料理はでけへん。料理してんのは別の使用人で、おかんは割烹着着て台所をうろうろして、料理してる気分を味わってるだけなんや。昔、俺の運動会に弁当作る言うて、おにぎり作ろうとして、手が熱い言うて泣いてたような人や。蕎麦なんか作れるわけあらへん。
「俺ら、蕎麦は四条しじょうで食うてきてもうたよ」
「まあ。どないしたん、アキちゃん。今までそんなこと一遍もなかったやないの。大晦日は毎年、うちと『行く年来る年』観ながらお蕎麦食べてくれてたのに。いややわあ」
 おかんは何の遠慮もなくむくれていた。
 変やと思わへんのか、おかん。息子の友達の前で、そういう事すんのは。
「すみません……」
 亨でさえぽかんとすんのか、何となく呆然とした口調で謝っていた。おかんはそれに、またにっこりとした。
「気にせんといて。アキちゃんももう成人式済ませたんやもの。いつまでも、実家で『行く年来る年』やないわ。それにもう、年越してしもた。せやから、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします」
 深々とこうべを垂れるおかんに、亨の目は明らかにオタオタしていた。どういうリアクションとっていいか、わからへんのやろ。心配すんな。俺もわからへん。
「さ、おいでおいで。お客様はこちら」
 白足袋が鮮やかに映える黒廊下を踏んで、おかんはすたすたと奥へ戻り始めた。
 俺が大学に進学して家を出て以来、おかんは俺のことを客扱いしていた。元々俺の部屋やったところも、きれいに引き払わせ、帰ってきたら客間に泊まらせている。なんかそれはもう、ここはお前の家ではないというような気配がして、客間の見事な鶴亀の欄間らんまを眺めて眠るのは、正直寂しい。
 長い廊下をおかんは、歩く姿は百合の花という風情で、さらさらという衣擦れの音と共に行った。
 そして到着した離れの客間のふすまが開くと、そこはまず居間になっており、別室になった寝室の、暗く灯のない古畳が、開かれたふすまの向こうに見えていた。
 母はその、杜若かきつばたの絵のある年代物のふすまを押し開いて、寝室に寝床が伸べてあるのを俺に見せた。
「お布団はふたつ敷かせたえ。悪さしたらあかんよ」
 おかんが冗談のように、めっと叱りつける声をたてて笑うのを眺め、俺は顎が落ちそうだった。しかし黙って立っていた。半分くらいフリーズ状態やったんちゃうか。
 寝室には確かに客用の立派な布団が二組敷かれていた。ぴったり並べて。
 なんで二組あんのと、訊くべきやったろうか。なんで俺がもう一人、客を連れてくるって、おかんには分かったんや。なんでやと、訊いてみたい。けど、訊きたくない。訊けば何か、俺が二度と立ち直れないような事を、言われそうで。
「お風呂どないする、アキちゃん」
「俺、もう寝るわ」
 頭痛いから。それに、明日は朝早いんやから。俺はそんなような事を答えたような気がする。
 ほな、おやすみと、おかんは少し心配げに首をかしげて言い、亨ににこりと微笑みかけてから、静かに音もなく客間を出て行った。
 ひたりとふすまが閉じた後も、亨はぽかんとして、おかんが去ったほうを振り返っていた。
「あれ、アキちゃんのお母さんなん?」
 訊くまでもないことを、亨は訊いてきた。
「そう言うてたやろ、さっきから何遍も」
 むしゃくしゃしてる俺の口調は荒かった。亨はちょっと怖そうに首をすくめた。
「だって。アキちゃん、お母さんが何歳のときの子供なん?」
「知らん。俺はおかんが何歳なんか知らんねん」
 ほんまの話やった。人に訊かれると適当に答えてきたが、亨に嘘ついても仕方ない。おかんは人に年齢を問われると、うちは十八どすと、芝居がかった口調ではんなり答えていた。その様子が水揚げもまだな舞妓みたいな可愛い風情で、みんなそれ以上、おかんに歳を訊かへん。俺でさえ訊いたことない。
「知らんて、戸籍とったら分かるやろ」
 亨がそんな常識的なことを言うとは思ってなくて、俺は隙を突かれてムッとした。
「うるさい。どうでもええやろ、お前になんの関係があるねん。要らん詮索すんな」
 思わず怒鳴る口調になってた。
 それは俺の、最大の弱点のひとつやった。
 おかんは俺を自分の戸籍に入れなかった。しかも、なんでか、俺を自分の子として認知したんは、さっき玄関で会った、おかんの謎の弟子や。あの人の名が本間さんで、俺は戸籍上はあのおっさんの子ということになっている。おかんの名は母親の欄に載ってるけど、そこにあるのは何故か名前だけで、おかんが何歳なのか、俺は知らん。
 本間さんが俺のおとんなのかと、高校の願書を出すときに添付した戸籍謄本を見て、腰が抜けそうになった。それで思わず訊いたら、おっさんはあっさりと、違いますと言った。戸籍をお貸ししただけですと。
 そんなもん、気軽にお貸しするようなもんか。
 おかんが言うには、うちの子になるには、血筋の能力を継いでへんとあかんらしい。そして、それによって家を盛り立てていく器量がないとあかん。
 アキちゃんが、うちの後を継いでくれるんやったら、名字変えてもろたるからと、おかんはそれが大したことではないように言っていた。
 まあいい、それは。たかが名前。本間さんは俺のおとんではない。俺のおとんは鞍馬のカラス天狗。おかんは巫女で永遠の十八歳。こうなったらもう、それでええけど、変やと思わへんのか、誰か。変やろ、それは。俺はずっとそう思ってきた。だから他のところでは、なるべくマトモでいたかってん。
 なのに、トドメにこいつか。何で俺は選りに選って、亨みたいなやつとデキてもうたんや。男やで、こいつ。
 八つ当たりとは思ったけど、俺は亨の白い綺麗な顔が不安そうでいるのを、じろりと睨んでいた。
「ごめんな、アキちゃん。そんなに怒らんといて。俺、もう、なんも訊かへんし」
 亨は居所がなさそうだった。
 なんか疲れて、俺は居間の座卓のまえに腰をおろした。磨き上げられた黒檀の天板に、自分の顔が写っていた。
 亨はちょっと躊躇ってから、隣に腰を下ろしてきたが、なんでか正座していた。緊張してるらしい。他人の家やからか。それとも俺が怒ってるからか。お前のせいやないのに、可哀想なやつ。なんでこいつは、怒らへんのやろ。
 亨がまた、手を繋いで欲しがっているような気がして、俺は落ち込んだ。そんなことしてやるつもりが無かったからだ。
「寝る」
 それ以上何も口をききたくなくて、俺はきっぱりと呟いた。
 亨は困ったように、目を瞬いていた。
 客用の風呂と洗面所は、廊下に出たさらに奥にある。二重硝子の戸の外には、冬の庭が見え、煌々と明るい月がそれを照らしていた。
 寝支度をしに、一緒に洗面に行くかと亨を誘ったけど、後でいいといって、ついてこなかった。どこにでも付いてくるくせに、なんでやとムッとして、俺は不機嫌にひとりで行った。
 とっとと支度して、とっとと寝間着に着替え、俺は勝手に選んだほうの布団を被って、部屋の電気まで消しておいた。我ながら、なんでそんな、餓鬼くさいことをしたんやろ。
 欄間から欄間に漏れる、ほのかな月明かりだけでも、亨は特に困らなかったのか、遅れて寝支度を済ませてきて、気配も薄く俺のふとんの側の足元に座った。
「アキちゃん、あのな。もう寝てんの?」
 布団の下の、俺の脚をゆさぶって、亨は小声で呼びかけてきた。
「これ、どうやって着るんやろ。俺、浴衣って自分で着たことない」
 古風なうちでは、いまだに客用の寝間着が和服だった。パジャマでええやんと思うのに、おかんには美学があるらしい。だから俺も、実家を出るまでは浴衣で寝てた。
 亨にパジャマを持ってきてやりゃ良かったと、後悔しながら起きあがって、俺は、こいつがパジャマ着てるとこ見たことないのに気がついた。だっていつも裸で寝てる。この一週間、服着て寝たことが一度もない。
 俺はそれが情けなくなって、布団の中で起きあがったまま、眠気のある自分の頭をやんわり抱えた。
「裸で寝りゃええやん、お前はそれが好きなんやろ」
 嫌みなような自分の口調を聞き、なんで俺はまだ怒ってんのやろと、自分でも分からなかった。亨は困ったように、何とは無しにもじもじしていた。
「いや、好きっていうか。ひとりで裸やと、たぶん、普通に寒いで」
 もうひとつの客用布団を見やった様子で、亨は恨めしげに答えてきた。
「ほんなら二人で寝りゃええやん」
「マジで?」
 亨はびくりとして、心底驚いたらしい声をあげた。
 あんぐりしたような気配で、用意された浴衣をだらんと捧げ持っている亨を見ているのが嫌になって、俺はまた布団に入って、亨に背を向けた。
 しばらく考え込むように亨は静止していたが、やがてはっとしたように、持っていた浴衣を放りだして、自分の服を脱いでいるようだった。
 そわそわしたような、冷えた体が、脱ぎ散らかした服もほったらかしにして、布団の中に潜り込んできた。背にとりついて、亨は小声で、アキちゃんと俺を呼んだ。様子をうかがうような声だった。
 アキちゃんと、もう一度、心細そうに呼ばれて、俺はしぶしぶ亨のほうを向いた。そして間近にある顔に頬を擦り寄せて、ひやりとした亨の肩に両腕を回して抱きしめた。気持ちよかった。それに亨が、微かなため息をもらした。
「脱がしてもいい?」
 脱がす気まんまんで、亨は俺の寝間着の帯を解きにかかっていた。しばらく手間取ってから、諦めて、亨は俺の襟をはだけさせ、待ちきれないみたいに、素肌の胸に擦り寄ってきた。
「なんもせえへんからな」
 俺が釘を刺すと、亨はぎょっとした。
「うそ」
「何が嘘やねん」
「このまま寝んの? 嘘やわ、そんな。ありえへんやろ」
 亨は俺の襟を掴み、ひそめた早口で切羽詰まったように訴えてきた。
 お前はそんなことを必死に言って、恥ずかしくないんか。
「ありえへんのはお前や。あの欄間らんまが見えへんのか。昔の日本の家はな、音が筒抜けなんや。ふすま一枚しかないんやで。しかも上は開いてるし」
「それが……それが何」
 亨は泣きつく口調だったが、言われてることの意味は分かってないようだった。俺は布団の中で、またムッとした。今度はちょっと、恥ずかしかったからだ。
「何って……。亨、お前はな……うるさいんや」
「えっ」
 虚脱したような小声で、亨が答えた。
「うるさいねん。やってるとき。声が。我慢しようとか、ちょっとくらい思わへんのか。出町の家は他に誰もおらへんからええけど、ここでは、お前のあれは、ありえへんから」
 うっ、と、亨は追いつめられたような声をもらした。
「我慢……しようと、思ったことない。だって……わざとやないもん。自然に声が、出るんやもん」
 可哀想みたいな亨のお預け食った顔が、闇に慣れてきた俺の目にも見えた。その綺麗な顔が、恍惚と上気して喘ぐ時の表情が、ちらりと脳裏に蘇り、俺は慌ててそれを打ち消した。
「また出町に帰ってからな。おやすみ」
「待って、アキちゃん、ちょっと待って!」
 寝ようと決め込む俺の耳元で、腕枕されている亨が、息だけで叫んでいた。くすぐったくて、俺は目を閉じたまま苦笑した。
「キスして、キスだけ」
 唇を寄せてきて、亨は必死にそう頼んできた。
 それが可愛いなと、自然に思えて、俺は困った。なんで、よりによって実家で、こいつとこんな事してんのやろ。なんで同じ布団で寝ろなんて、誘ってもうたんやろ。
 亨の裸の背を腕で抱き寄せて、闇にも仄白いような頬に触れ、唇を合わせると、温かい感触がして、肌に触れる肌が、心地よいような懐かしさだった。
 ひとりで寝るのが、俺ももう寂しい。お前を抱いて眠りたかってん。
 そんなの変やけど。だいたいこの家の人間に、俺を変だと批判できるような、マトモなやつがいるやろか。皆どっか変なんやで、亨。お前も大概変やけど、案外この古い家でなら、ちょっとはマトモに見えるんやないやろか。
 亨は神妙なような必死さで、貪る舌に答えてきた。
 果たして何日我慢できんのかと、俺はちょっと考えた。松のとれる十六日の朝まで、ここにいるつもりやけど。世間では今時、正月なんて普通は、三が日までなんやで。長い家でも七日までや。それを旧暦で十五日まで正月やなんて、そんなことやってるのは、うちみたいな家だけなんとちゃうか。
 四日の朝に、亨と出町に帰る言うたら、おかんはまた、むくれるやろうか。
 それでもいいかどうか、あと三日ぐらいしてから考えよ。それまでの夜に、我慢できずに亨に声を堪えさせるようやったら、帰らなあかん。こいつが、なんぼでも声出せるところへ。
 亨、と、なんとなく言葉にせずに呼びかけると、キスをふりほどいて、亨は切なそうに俺を見た。
「アキちゃん、やばいで俺。触るだけ。ちょっと触るだけ!」
 一夜目から挫折する気まんまんの亨が、俺の寝間着の裾を割ろうとしてきた。お前は芸者遊びのエロオヤジか。
「我慢しろ亨。数を数えろ。千まで数えて、それでもまだ我慢でけへんかったら、何かはしてやる」
「何かって何。やめてそんな、期待を煽るような言い方せんといて!」
 布団の中でもじもじ暴れている亨に、俺は、一、二、三と、最初のとこだけ代わりに数えてやった。
 それに大人しく操られたのか、亨はものすごい早口で、ひそひそ数を数え始めた。
 俺はしばらく笑いながらそれを聞いてたんやけど、今日の渋滞はものすごかった。日付変わる頃まで四条河原町なんかにいたせいや。八坂神社や平安神宮に二年参りする初詣客の渋滞に捕まってもうて、嵐山に出てくるまで、ずいぶんイライラ気疲れした。そのせいなんかなあ。亨が五百くらいまで数えたのは記憶に残ってるんやけど、そのあとを憶えてない。
 アキちゃん、むごいと、亨が言ってる声を、うっすら聞いたような気はするけど。それは夢か。もしかすると、うちの蔵やらはりの上やらに棲んでる変なのが、亨の声真似して俺をからかったんかもしれへん。
 そういうことにしとこう。一晩くらいは、我慢せな。一年の計は元旦にありって言うやろ。日付変わって、もう元旦やし。今年はどんな年になるんかなあと、俺はぼんやり考えつつ、めそめそしてる亨を抱いて眠った。やけに熱い亨の体のおかげで、今年ばかりは、湯たんぽ要らずの夜だった。


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